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ロシア紀行、文化遺産を巡る9日間/5日目( 2006年8月31日 )
サンクト・ペテルブルグ観光とネヴァ川クルーズ
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○○ デカブリスト広場と青銅の騎士像
移動(→ 土産店)
ペテロハヴァロスクの土産店
バレエ養成学校の見学
昼食(街のレストラン)
ネヴァ川クルーズ
イサク広場・ニコライ1世騎馬像
スパース・ナ・クラヴィー大聖堂
芸術広場の土産店
夕食(街のレストラン)
移動(→ホテル)
プリバルチスカヤ・ホテル

モスクワ駅に到着、ホテルで朝食
ロシアの都市名と駅名
昨夜モスクワのレニングラード(サンクト・ペテルブルグ市の旧名)駅を出発し、今朝にサンクト・ペテルブルグのモスクワ駅に到着しました。欧州ではロシアのみならずフランスでも主要な行き先をターミナル名にすることは時々あるようです。
しかし筆者はどうにも落ち着かない。現在の東京駅を「大阪駅」、現在の大阪駅を「東京駅」と改名すると・・・。大阪の中心は東京駅であり、東京の表玄関が大阪駅となる。日本文化ではあり得ない発想とも思える・・・。
珍説ながら、案外この辺が日露関係のギクシャクする原因かも・・・?

ロシア初の高速列車
国営「ロシア鉄道」はモスクワとサンクトペテルブルクの間を最高時速250キロで走行する新型列車を2009年12月に投入する予定、その新車両が公開された。ロシア初の高速列車「サプサン(はやぶさ)」で、650Kmを3時間45分で結ぶ。新車両はドイツのシーメンス社製のようです。[2008.12.27 NHKニュースOnline、要点のみ]
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上記の新型高速列車サブサンは2009年12月17日夜に一番列車がモスクワからサンクトペテルブルクに走りました。車両は新型でも線路は以前のままとされます。[追記: 2009.12.18 NHKニュース・オンライン]
06:30 目覚め。
06:45 トイレの洗面所にミネラル・ウォーター持参で歯磨きにゆく。新車の設備はビカビカで快調に作動する。快適でした。
07:35 手荷物の片付けが終わる。車窓からみると曇り空だった。
07:55 予定時刻にモスクワ駅に到着。当地は丁度雨が上がったばかりの曇だった。スーツケースはコンパートメントからホームまでは自分で運んだ。その後はポーターがバスまで運んでくれる。ホームを群がって歩きターミナルビルに入った。サンクト・ペテルブルグのモスクワ駅は西欧からロシア内部への玄関口、ホールは広く小奇麗で中央には新幹線のような流線型の列車が飾られていた。 モスクワ駅

現地の女性ガイドさんが出迎えに来ている。当初は現地滞在の日本人と思った。しかし、どうやら違う民族らしい。日本語は堪能でスムースによく話す。が、「自分はロシア人」と云っていた。サンクト・ペテルブルグ出発まで3泊4日の期間は同じ女性ガイドさんでした。

08:08 ターミナル・ビルを出るとオベリスク風の塔があるヴァスターニャ広場だった。この広場は1917年の反乱を記念するものだそうです。その一角で待っていたバスに乗車、座席は各自で適当に選びました。
08:11 出発。この街で一番知られたネフスキー大通りの始点アレクサンドル・ネフスキー修道院の方向に走った。目的のホテルはこの修道院の向かいになる。
08:20 モスクワ・ホテルに到着。そこの大きなレストランでビュッフェ朝食でした。まずオレンジジュースで喉をうるおし、次に皿にとったパン、ゆで卵、ハム類、等々でした。カット・フルーツは生ではなく缶詰のもので心配ありません。ホテルのこと、コーヒーの味も上々です。
食後、添乗員さんの奨めに従って、ホテルの洗面所をお借りして洗顔と歯磨きです。大急ぎでした。 朝食(ホテル)

08:55 集合。
09:03 出発。ネフスキー大通りを西に戻り、モスクワ駅の前を通り過ぎ、ブランド・ショップが並ぶ商店街をさらに進んでイサク大聖堂まで行く。
その途中で現地ガイドさんがサンクト・ペテルブルグのことを色々と話していました。以下、メモした要点のみ(今日のメモをここにまとめました。) 万一の聞違いはご容赦ください。
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* サンクト・ペテルブルグはドイツ語で「ピョートル大帝の町」の意味。
* 市街地の約70%の建物は17〜18世紀に建てられたもの。
* 建物は洗わないが、3〜5年に1度塗りなおし。
* ロシア人は洗車をしない。車検はないので古い車も走っている。
* 当地は1年の内6ヵ月以上は雨か曇。丁度、今日のような天気が多い。
* 晴れの日は2ヵ月ていど。
* 今年の夏は30度以上の日が30日もあり、平年は1〜2日なので異常だった。
* モスクワ駅前、オベリスクの広場は1917年の社会主義者による反乱を記念したもの。
* イサク大聖堂は革命前はロシア正教の大本山だった。
* サンクト・ペテルブルグは湿地だったので杭で地盤を固める。この聖堂建立のため古い杭に加えて長さ6mの松の杭に松脂を塗って1万本以上を使用した。
* ロシア人の田舎の家を日本では「別荘」と呼ぶが、手作りの建物が多く、余暇の畑仕事が目的。趣味と実益のためらしい。
* 年金は1人1月約2000P(約1万円)程度らしい。
* 等々。
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デカブリスト広場(Decembrists Square)と
青銅の騎士像(Bronze Horseman)
デカブリスト広場・青銅の騎士像
09:23 イサク大聖堂の西側でバスを下車。大聖堂とネヴァ川(the Neva River)の間はデカブリスト広場と呼ばれる緑地で、花壇や散策路も整えられた公園でした。
歴史的には、アレクサンドル1世がナポレオン戦争でフランス軍を破り(1812年)、その後ロシア軍はパリに進駐した。文化的先進地のパリでロシアの青年将校らはフランス流の自由主義の影響を受けたとされる。帰国すると一部の将校らは自国の専制政治と農奴制に反対し1825年12月14日に蜂起したのです。しかし失敗し、決起した人達は死刑やシベリアとかコーカサスへの流刑にされた。これをデカプリスト事件と呼ぶ。1917年の革命が成立後、この事件を記念してこの公園をデカブリスト広場と呼ぶようになった、とされます。
帝政時代は「元老院広場」と云っていた。ソ連邦崩壊後にその名称は「元老院広場」に戻されたが、実際には以前のままデカブリスト広場と呼ばれているそうです。大衆の心情として絶対君主制と農奴制に反対した青年将校らを現代の先駆者とする思いが強いのでしょう。

花壇の続く道をネヴァ川の方向に歩くと円形の開けた場所となり、その中央に「青銅の騎士像(ピョートル1世像)」と云う銅像がある。序幕は1782年8月7日、ロシア初の彫刻による記念碑とされる。作らせたのは高名な女帝エカテリーナ2世でした。花崗岩の台座にあるロシア語とラテン語の文字の意味は「エカテリーナ2世からピョートル大帝へ」なのだそうです。クーデターにより皇位を得た (この点は諸説あり) ドイツ生まれのエカテリーナ2世が「自分がピョートル大帝の後継者である」と宣告する目的で作らせたといわれます。
この騎士像は馬が後ろ足2本で立ち上がり両前足は空中です。こんな大きな人馬の銅像を後ろ足2本で支えるの至難です。それ故か、後ろ足で蛇を踏ませ、その蛇と馬の大きな尾を結合させて3点支持にしてあった。この蛇は「スウェーデンとの20年戦争」を表す、という説明もあるようです。(注:後日に知ったが、イサク大聖堂の反対側にあるニコライ1世の騎馬像(1859年完成)は馬が後足2本で立っている。地震が無いとはいえ、技術的には難しい作り、との説明でした。)

行商から購入のガイドブック 09:30 これから15分間は自由行動となった。集合場所はバスになる。 記念写真を何枚か撮っていたら日本語のガイドブックを売り歩く人がきた。サンクト・ペテルブルグとエルミタージュの写真入りガイドブック(日本語)を持っている。サンクト・ペテルブルグを1冊買いました。250P(我々の両替レートでは約1131円)でした。後日談ですが、エルミタージュ美術館のミュージアム・ショップでは同じ本が1冊US$10.00(約1200円)だったので行商が僅かに安いということになる。本自体は極薄の透明フィルムで密閉され、ミュージアム・ショップも街の行商も全く同じです。大判なので長く持つと重く感ずる。大した価格差でもないので、都合のよい方で購入すれば良いことでしょう。説明や写真も旅行の記念には十分と思います。(注:エルミタージュ美術館内にはミュージアム・ショップよりかなり安い行商がいるそうです。)

この頃、結婚式を終えたばかりと思える新郎新婦が付き添いの人達と「青銅の騎士像」にやってきました。どうやら記念写真を撮影するためのようです。後で知りましたが、サンクト・ペテルブルグは正に結婚シーズン、街中のあちこちで新郎新婦の晴れ姿を見かけました。ここでは写真を撮らなかったが、他の場所ではチャンスがあると新カップルをズームを効かせて撮影しました。それを写真ページの最後部にまとめたものもあります。

来た道を戻り、イサク大聖堂近くでバスに乗車しました。


移動(イサク大聖堂 → 土産店) 移動
09:40 出発。シュミット中尉橋(Lieutenant Schmidt's Bridge)で大ネヴァ川を渡り、ワシリー島(ワシリエフスキー島)の川沿いの道を走った。小ネヴァ川に架かる証券取引橋を渡るが、それまでに、スフィンクスのある川岸の小公園、川向こうのイサク大聖堂、ピョートル大帝が作ったロシアで初めての博物館クンストカメラ、証券取引所(現在は中央海軍博物館)の均整の取れた建物、船の舳先と思える飾りが付けられた赤レンガ製のロストラの柱(昔は灯台)、などが見えた。この地域は散策する人たちが多い名所の1つですが、我々は車窓観光なので全てチラッと見た程度でした。ピョートル大帝時代に建てられた長さが500mもある12省の名残りなどは分からなかった。今は12学院なる建物があるが、同じものかどうか・・・。
小ネヴァ川を越える証券取引橋を渡り、少し行った所に目的の土産店があった。

ペテロハヴァロスク近くの土産店 土産店
10:00 冬の宮殿から川向かいになるペテロハヴァロスク地区の土産店に到着。
チトお恥ずかしいことながら、実はバス移動中にお腹の感じが妙になってきた。車中で「マルピー下痢止めS」2錠をミネラル・ウォーターでのんでおく。土産店でトイレを使いましたが、1時間程度でお腹の感じは正常に戻りました。私の場合には、ちょっとした加減だったようです。実は、後で判明しましたが、サンクト・ペテルブルグ滞在中にツアーメンバーの半数がお腹を壊したようでした。程度などに個人差があり下痢の原因は不明です。
この土産屋は日本人のみならず多くのロシア人や欧米系の客で賑わっている。いろいろと物色はしましたが食指が動かず、購入は見合わせました。
10:35 出発。

バレリーナ養成学校の見学 バレリーナ養成学校
cd 11:00 バレリーナ養成学校の前で下車。特に外見は立派な施設ではなく、木々が両側に多く植えられた広い道にある普通の建物の1階を利用した学校だった。
ここはカメラ撮影はOKでしたが、フラッシュはダメでした。手ブレや被写体ブレを避けるため、ジカメの設定を高感度に変更しました。
奥まった広い部屋の中央の後方にスピーカー類の音響機器、その前に我々見学者の椅子(ツアーの30名で丁度のスペース)、そして豆バレリーナの踊る広いスペースがある。そこで生徒の子供達が日頃の鍛錬の結果を次々に見せてくれるのです。意外にも楽しめて、時間は直ぐに過ぎてしまった。ただ私には書きようがないので写真で想像してください。

バレエはイタリアの仮面舞踏会などの狂言に始まり、フランスで進化し宮廷舞踏から劇場舞踏に変化したとされます。18世紀の半ば、パリのノベールを指導者としてバレエの舞台から台詞と歌を排除し、舞踊とパントマイムをオーケストラが支えるといった近代バレエの原型が生まれました。しかしオペラと並んで劇場音楽の重要な一部門を形成するようになるのは19世紀後半だった。その頃には中心地がパリからモスクワやサンクト・ペテルブルグに移っていたともいわれる。
そもそもロシアのバレエは17世紀初頭にピョートル大帝がルイ14世を見習って舞踊を民衆の娯楽として採用したことに始まり、エカテリーナ2世の時代(1762‐96)にフランスから優れた振付師や教師を招いて急速に発展した。1847年にはフランスから M. ペチパが招かれ、マリインスキー劇場の振付師として画期的な名作を数多く上演し、この劇場を世界のバレエの中心にしたのだった。
他方、ロシアはバレエの分野で数多くの名曲をも生み出した。チャイコフスキーの「白鳥の湖(1876)」、「眠れる森の美女(1890)」、「くるみ割り人形(1892)」、ストラビンスキーの「火の鳥(1910)」、「ペトルーシカ(1911)」、「春の祭典(1913)」、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット(1936)」、「シンデレラ(1944)」などがよく知られています。[ Ref.05、項目「バレエ」、項目「バレエ音楽 ]、等々]

11:55 バレリーナ養成学校からバスに向かう。

バスは川沿いにエルミタージュ美術館(大宮殿冬宮/The Winter Palace)とデカプリスト広場の前を走った。「青銅の騎士像」には結婚式を終えたばかりと思しき新郎新婦が記念写真の撮影にきていました。バスは川岸に停車、下車してシュミット中尉橋と宮殿橋の間のワシリー島の風景を楽しみました。ネヴァ川から見る両岸の建物群は高さが揃っており見事ですが、景観としては反対にワシリー島やペテロパヴァロフスク要塞側からネヴァ川越しにエルミタージュ美術館を見るときのほうが見事なようです。ついでながら、現時点では昔ながらにサンクト・ペテルブルグ市の条例が高さ48m以上の建物を禁止しているが、ロシアの巨大企業によるガスプロム・シティ(Gazprom City)なる新しい高層建築の提案があり目下検討中、建物設計のコンペティションも実施中で恐らくは許可になるようです・・・(New York Times Online, 2006.11.28)。 もし実現したら、ピョートル大帝が西欧へのロシアの窓口として作った旧都の新観光名所になるかも知れません。


昼食(街のレストラン) 昼食
13:00 比較的高級な住宅街にあるレストラン「セナート・バー」に到着した。
テーブルに1本づつミネラル・ウォーターはあったが、飲物はめずらしい「コケモモ・ジュース(@30P)」を注文しました。濃い赤色で味は確か甘酸っぱいものだったと思います。飲み易いものでした。サラダの後のスープは「ボルシチ」です。メインはペリメニというロシア風水餃子、これも珍しくてよかったですね。個人で同じ昼食をすると日本円で約5000円程度らしい。100Pということでしょう。
14:00 バスに乗車。僅かな距離でしたがバス移動です。

ネヴァ川クルーズ(Boat Trip Along The Neva River) ネヴァ川クルーズ
クルーズで配布の地図 サンクト・ペテルブルグ中心部の地図。赤線はネヴァ川クルーズのコース。
14:20 バス下車。運河沿いにしばし歩く。
14:33 遊覧船に乗船。乗場はモイカ運河のクラースニィ橋近くだった。ニコライ1世像とネフスキー大通りの間になる。
14:35 出発。17〜18世紀の建物と思われる3階建が続き、緑地となり、次に落ち着いた色彩のストロガノフ宮殿が右にあった。この宮殿はロシア美術館の分館になっているが、場所はネフスキー大通りに面する1等地になる。
ストロガノフ家は14世紀には北方の農家だったが商業で成功した。獲得した巨大な所領で農業や漁業に加え製塩、毛皮産業、鉱山業などの諸事業を展開し、最盛期には数万人の労働者や農奴を使役したとされている。モスクワ公国からウラルに広大な領地を与えられ、16〜17世紀のシベリア植民政策で重要な役割を果たした。一説では、イギリスやオランダやフランスの東インド会社の役割と同じようなものだったとされる。後年には男爵になり伯爵まで上り詰めた。[Ref.05]  ロシア料理のビーフ・ストロガノフ(細切り牛肉をサワークリーム・ソースで煮たもの)はストロガノフ家で考案された、という説明も多い。
ネフスキー大通りの橋を潜り抜けた。少し進むと左側に旧参謀本部のオレンジ色の建物が長々と続く。船からは見えないが、この裏側には1本の岩から作られた巨大なアレクサンドルの柱がある。次に大きな橋の下を抜けた。その先には国旗「日の丸」が見えた。日本領事館ですが、そこまでは行かず手前を左に曲がり幅の狭い運河を通った。左はエルミタージュ美術館、右はエルミタージュ劇場、2つの建物は運河を跨ぐ渡り廊下で結ばれていた。 別に道路の橋が幾つかあるが、その1つに結婚式後の新郎新婦の姿があった。新婦の白いドレスで直ぐにわかる。ここを過ぎるとネヴァ川で正面にペテロパヴァロフスク要塞が見える。
ペテロパヴァロフスク要塞はネヴァ川が大ネヴァ川と小ネヴァ川に分かれる地点の小さなザヤーチィ島(兎島)にある。1703年5月、ピョートル大帝はスウェーデン軍を迎え撃つためペテロパヴァロフスク要塞をここに構築した。この城塞都市は6月になりサンクト・ペテルブルグと命名された。その3年後に木造から石造りの城砦に作り変えられ始めた。城砦とは云え1度も砲撃したことはなく、歴史上は牢獄として使用された。中心にあるペテロハバロフスク聖堂はロマノフ王朝の霊廟、ピョートル大帝や最後の皇帝ニコライ2世の御墓もある。金色の尖塔は高さ122.5m、テレビ塔を除くとサンクト・ペテルブルグで一番高い建築物になる。[Ref.09][Ref.02]
ペテロパヴァロフスク要塞の左側に目を移すとワシリー島(ワシリエフスキー島)の先端部、2本の赤いロストラ柱や証券取引所(中央海軍博物館)などが見える。さらに左の対岸は有名な冬の宮殿(エルミタージュ美術館)とネヴァ川の風景だった。壁面の色彩や表面の構造こそ違うが同じ高さの建物が沿岸に長く続き、見事な景観です。
船は上流に向けて進む。トロイツキー橋を過ぎると大型の帆船や新型で大型の高速艇などが係留されていた。その先は左に小ネブァ川があり、角は海軍省の建物がある。その場所にロシア革命(十月)で活躍した巡洋艦オーロラ号が博物館として保存されていた。
巡洋艦オーロラ号は1917年10月25日に臨時政府が陣取る冬宮に向けてここから大砲を発砲した。それを合図に革命軍は冬宮に突入し最小の犠牲で十月革命を成功させたとされている。ロシア革命(十月革命)の始まりを記念する巡洋艦として永久保存されています。
日露戦争の際に巡洋艦オーロラ号はバルチック艦隊38隻の1隻として派遣されました。日本海海戦によりバルチック艦隊の19隻は撃沈されオーロラ号を含めた3隻のみがウラジヴォストックに着いたとされます。序ながら日本軍の旗艦「三笠」は横須賀に保存されています。
巡洋艦から対岸に向かい、「夏の宮殿」が右手になる運河に入った。川岸には釣り糸をたれる人達もおり、至極ノンビリした平和な場所だった。ミハイロフ宮殿もフォンタンカ運河から良くみえる。ここの広大な緑地は「夏の庭園」と呼ばれ、1704年にピョートル大帝が造園したサンクト・ペテルブルグで一番古い庭園ともいわれます。その手前で橋を潜り、次に右側の橋をも潜ってモイカ運河を進んだ。この辺りからは宮殿の森の向こうに「スパス・ナ・クラヴィ聖堂」の葱坊主が見える。左は「夏の庭園」の森、右は見事な並木、素晴らしい作りの運河をゆく。「スパス・ナ・クラヴィ聖堂」の傍の運河と合流する地点には装飾された欄干の太鼓橋があった。そこで再び幸せそうな新郎新婦の姿をみる。
緑地は終わり、両側に家々が続く運河を進んだ。小さい橋を潜ると日本領事館の旗が見えてきた。クルーズも終わりに近づきました。
15:28 乗場には先に2隻の遊覧船が並んでいた。我々の船はその外側に係留され、上陸時は他の2隻を横切る形となりました。波もなく危険ということはありません。

イサク広場とニコライ1世の騎馬像 イサク広場とニコライ1世の騎馬像
15:34 イサク広場の近くまで僅か数分歩きました。デカプリスト広場の反対側で最高級とされるアストリア・ホテルの近くです。イサク大聖堂やニコライ1世の騎馬像の記念写真を撮影しただけで終わりました。
騎馬像のニコライ1世は1825年に皇帝となった。ところが戴冠式の最中に絶対君主制と農奴制に反対する自由主義思想の将校達が「デカブリストの乱」をおこした。しかし皇帝側が直ちに反乱者を捕らえて処分したのです。この時の青年将校らの狙いはアレクサンドル2世の時代やロシア革命まで叶えられなかったのです。
「ニコライ1世の騎馬像」については「青銅の騎士像」でも軽くふれましたが、馬の後足2本で銅像の全体を支えています。地震が無いとはいえ、彫刻の重心を正確な位置に定めることは技術的に難しいそうです。

15:50 イサク広場から出発。

我々は9月3日午前の自由行動でイサク大聖堂を訪ね、ドームに登って市街の展望を楽しみ、その後に内部の参観もしました。 詳しくはその日の頁をご覧ください。

スパス・ナ・クラヴィ聖堂(キリスト復活聖堂) スパス・ナ・クラヴィ聖堂
16:00 バスから降り、グリボエードフ運河に向かった。運河沿いの道からスパス・ナ・クラヴィ聖堂(キリスト復活聖堂/日本では「血の上の教会」)をみる。この見事なロシア建築の大聖堂はアレクサンドル2世(-1881年)が暗殺された場所に建てられたものです。傍には行かないよう注意されたので、離れた場所で記念写真を撮った。この大聖堂は大きく高いので少し離れた所のほうが写真撮影にはよい面もあります。
9月3日午前の自由行動で最初にこの大聖堂を訪ね、内部の参観をしました。
詳しくはその日の頁をご覧ください。

芸術広場の土産店
16:15 土産店に入る。
ガイドブックにリストされているような通常のロシア土産を並べた店でした。物色はしましたが、購入はしなかった。
16:45 店を出る。

夕食(街のレストラン) 夕食
17:00 レストランに入る。
飲物はビールの小瓶1本(@100P)を注文。グラスは2個を頼んだ。
記録はないがサラダとスープが最初にでたはずです。そして次にブリヌイ(ロシア風クレープ)でした。メーンはビーフ・ストロガノフとライス、デザートはアイスクリームで最後にコーヒーだった。
18:05 レストランを出る。
18:15 バスはこの頃にホテルに向けて出発。

移動(→ホテル)
2006/8/31 赤いウェデング・ドレスのお嫁さん。 18:29 信号で停車、そこは結婚式が行われたらしい建物の前だった。大勢が新郎新婦を囲み数人が盛んにカメラのシャターを切っている。お嫁さんは珍しくも赤い花嫁衣裳でした。2人を囲む女性の1人がこちらのカメラに気付き手を振り始めた。そして皆さんがこちらを向いて手を振ってくれました。花嫁さんの笑顔が素晴らしかった。皆さんの笑顔もとても良いですね。
サンクト・ペテルブルグでは数多くのウェデング姿を撮影しましたが、この写真が飛びっきり明るくとれました。

車中で添乗員さんから明朝の予定が発表になった。
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明日は丸1日エルミタージュ美術館の見学です。
ホテルの向かって右側の建物にコンビニがあるのでチョットしたものは購入できる。水は炭酸入りは買わないように注意すること。
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ホテルはサンクト・ペテルブルグの中心部から離れている。地下鉄なら駅2つ目の終点からバス利用のようです。かなり離れたワシリエフスキー島のフィンランド湾側になるのです。バスでも30分以上かかまりした。


ホテル プリバルチースカヤ(1泊目)( Hotel Pribaltiy Skaya /3連泊) ホテル プリバルチースカヤ(1泊目)
18:50 ホテルに到着。ここは1200室あるとかで外観も大きなものでした。またロビーも広く久々にシティーホテルの感じです。各階フロントのヂェジェールナヤ(女性職員)から部屋のキーを受取る伝統的なロシア方式ではなく、1階ロビーのフロントがパスポート管理、滞在登録(出国カードにスタンプ)、ルーム・キーの受渡、等々全ての業務を担当している。またタクシーや各種の予約受付けの窓口もあり、為替業務の窓口もフロント近くにあった。
ロビーでしばし待ち、7057番のルーム・キーを受取った。スーツケースはポーターに依頼すると時間がかかり、さらに時々間違えて未配達なるらしい。それで各自で運んだ。ここのエレベーターは高速だった。
エレベーターホールから自室までは遠かった。その間に重いガラスのドアーが3〜4ヵ所もある。その1つはルーム・キーをスライドさせて開錠しないと通れないタイブだった。確かに面倒ですが、部外者の侵入は難しくなり安全度は高いでしょう。
最初は部屋のロックを外せず、誰だったか近くにいたメンバーが助けてくれた。アンロックして肩でぶつかるようにしてやっとドアーを開けてくれたのです。慣れて要領が分かると簡単だが、最初は戸惑いました。

19:15 自室に入る。グリーンが少し混じった明るいブルーのベッドカバーやカーテンを使用した清潔な感じの部屋だった。ベッド2つはシングル・サイズだが、部屋は十分な広さがあった。クローゼットには厚手のスペアー毛布が2枚ある。これでフロントに電話する手間が省けました。
バスルームはこれまでのホテルと違い、特に問題はありません。シャワーもお湯が良く出て快適でした。トイレット・ペーパーが硬めなのは仕方ないことでしょう。
スーツケースを開けて、デジカメのバッテリーの充電を開始した。
22:00 就寝。


このホテルで3連泊です。サンクト・ペテルブルグのホテルの写真は撮影日に関係なく3泊4日分を全てまとめました。ホテルのレストランで済ませた 9/1朝、9/2朝、9/2夕、9/3朝の食事もここの写真ページに掲載してあります。

食事の写真で気付くかも知れませんが、グリーン・サラダなどの生野菜は一切皿に取っていません。食事はホテル以外の街のレストランも昼と夜に利用しましたが、同じく生野菜は避けました。実は、適切な判断かどうかは分かりませんが、サンクト・ペテルブルグの水道水は日本人にはあまり評判が良くないようなのです。水洗いして出す生の葉物は食べずにビタミン剤で代用しました。

何が原因か全く不明ですが、サンクト・ペテルブルグ滞在中はツアー参加者30名のうち約半数がお腹の不調を訴えたそうです。添乗員さんの予備薬もメンバーに分けたので無くなったとか。夜中に何人か部屋に助けを求めにきたこともあるそうです。私の場合、サンクト・ペテルブルグ到着日の午前に不調を感じ、自分の下痢止めを早めに服用しました。直ぐに落ち着き、その後は問題なかった。が、かなり用心していました。
このホテルにはクリニックが常設されているそうです。滞在中にそこで診察を受けたメンバーがいたかどうかは不明です。

一般的に云えば、ロシア旅行では生水さえ気を付けるとお腹を壊す心配はないようです。我々のツアーは何らかの理由で例外的にお腹を壊した人が多く発生したのでしょう。しかも黄金の輪の地域とサンクトペテルブルクの2カ所です。早々にお腹を壊した男性メンバーは日本に帰国した後も正常に戻らず病院に行ったと聞きました。効果的な「下痢止め」は、どの国の旅行であれ、必ず各自で携帯すべし、という事例と思います。


明朝の予定:
モーニングコール(7:00)/朝食(7:00-)/ロビー集合(9:15)/
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