旅行記|南米3ヵ国、周遊の旅11日間 ( 4日目/2006年4月15日・土曜 )
移動、ブエノスアイレス市内観光、ペルーに移動
◇◆◇
ホテル出発まで:
04:40 起床。
05:30 モーニングコール有り。
05:50 就寝前に洗濯したTシャツは未だ乾いていない。クスコのホテルで乾かすしかありません。昨日買った土産品は半分づつ2人のスーツケースに分けて入れた。昨日まで合せて30Kg程度なので重量は問題なかった。また、水に濡れて汚れの目立つウォーキング・シューズの手入れをする。持ってきた少量の靴墨が役立ちました。そしてパッキングが完了です。
06:15 朝食のレストランに行く。満席だったので、同行の女性2人と同席させてもらった。食べたい料理を食べたい量だけ皿に盛りました。昨日は気付かなかったが、オレンジジュースが2種類あった。ハム類は薄味で食べ易いものでした。コーヒーは食後に2杯、これで満足します。
07:00 部屋に戻る。
07:15 スーツケース2個を廊下に出す。

07:45 部屋を出て、このホテル建物の展望台に向かった。ロビー奥の階段で2階に上がると、中央右側にドアーがある。それを開けると塔の内壁を回る螺旋型の階段があった。手摺などは金属製の簡素なものだった。一番上までは行かず、3階部分の展望台からイグアスの滝の景観を眺めた。確かにアルゼンチン側の滝もかなり見えるし、「悪魔の喉笛」の方向では水煙も見える。ところが、昨日1日かけて散策しつつ眺めたイグアスの滝とは迫力がまるで違い、おとなしい風景といえましょう。今思うと、最上階まで行くべきでした。
07:58 展望台から2階に下りた。
08:15 1人でホテルの外にでる。前庭を越え、今度はイグアス滝を外の展望台から眺めました。朝のことで展望台に人影は少なく、未だゴムボート乗場に誰もいません。今日の滝の水は昨夜の雷雨のため濁っていましたが、パノラマ状に広がる数多くの滝と水煙はやはり見事です。はっきり書くのもなんですが、ホテルの展望塔よりはるかに良い眺めでしょう。ゆっくりと名残を惜しみ、写真を1枚撮り、そしてホテルのロビーに戻りました。

08:30 ワイフはロビーで待っていました。全員がホテルの入口近くに集合しています。大急ぎでフロントに行きチェックアウト。料金表では R$8,00 となっているミネラルウォーターは US$5.00 紙幣で払ったら丁度 R$1,00 コインの釣がきました。当時の為替は約 US$1.00 = R$2,12、ニコッとして Thank you ! といわれ、こちらは釣られてニコッとなり Thank you !(?) 。ま、両替には手数料がかかるから・・・。それからグループに合流しました。

pendant-top 現地ガイドさんと若い見習い助手も既に来ていて、昨日ブラジル側の観光時に見かけた小動物クワチ(ハナグマ)の小型ペンダント・トップを記念品として配っていました。金属製ですが、何かに付けておくと見るたびにブラジルとイグアスの滝を思い出すことでしょう。

これで2連泊したトロピカル・ダス・カタラタスとお別れです。 ホテルの写真情報は全て1ページにまとめました。2日目(4/13)の最後部に置いてありますが、ここでもリンクしておきます。
≫ ホテル:写真ページ

アルゼンチンのプエルト・イグアス空港に向かう:
08:35 正面入口に着いたバスに乗り込む。直ぐ出発と思ったが、待ったがかかった。昨夕にゴムボートに乗った男性がずぶ濡れの衣類4着をホテルのランドリーに出したらしい。仕上がりが遅れて未だ届いていない、という。しばらくは待つしかない。
バスのテレビのスイッチが入った。昨日ブラジル側イグアス滝を観光中にビデオ・カメラマンが我々のグループをさかんに撮影していた。それが編集されて上映となったのです。全体的に上手に撮れていたし、私の映像の目玉は背中に止まった蝶でした。動く人間に止まるのはブラジルでも珍しいのでしょう。この無声ビデオは意外にも面白く、上映時間の10分が直ぐに終わりました。 昨日の観光中は「ビデオ・カセットを後で売り付ける」と思っていたが、楽しんでもらうためのサービスでした・・・。
08:40 ビデオ上映中にホテルの人が洗濯物を急いでバスに持ってきました。

08:42 バス出発。ホテルを離れるともう亜熱帯雨林の樹海のなか、昨日の朝と同じ道路である。イグアス川を渡ってから国境越えです。
09:00 現地ガイドさんがパスポートとブラジルの出国カードを集めた。

ブラジル ⇒ アルゼンチン 現地時刻はJST-12時間/移動する両国に時差はありません。

国境検問所・到着: 09:06 出国するブラジルの国境検問所に到着。両国の検問所とその間の緩衝地帯は写真撮影が禁止です。 車内で手続きの終了を待つだけですが、僅か5分でブラジルの検問ゲート出発となりました。こんな短時間で済むのは珍しいそうです。

ここで添乗員さんから重要な連絡があった。搭乗予定の13:00 発LAN航空ブエノスアイレス便はキャンセルとなり利用できない。代わりに 10:15 発の便に乗れるように手配中とのことだった。まだ搭乗できるか分からないが、空港に到着後は時間が無い。バスで手荷物をまとめておくようにいわれる。 この変更に伴う発表は、「ブエノスアイレス市内観光は行います。」 成田空港出発前に「難しい」と言われて諦めていただけに本心から嬉しかった。 現在交渉中のブエノスアイレス便に乗れることを祈るのみ。

09:12 ブラジルの検問ゲートから緩衝地帯の道路に出たが渋滞だった。10時出発の便に間に合うか心配になったが、航空機スケジュールはアバウトな南米のこと、出発が遅れるとよいが・・・。南無、遅れてくれ!
09:22 アルゼンチンの国境検問ゲートに到着。5〜6台が各ゲートに並んでいる。幸い観光バスは別扱いで右端の空いたゲートに直ぐ横付けとなった。
09:25 全員大急ぎで下車。昨日と同じく薬品を浸み込ませたマットで靴底の消毒をした。
09:30 全員乗車。
09:39 現地ガイドさんがパスポートの束をもってバスに戻ってきた。直ぐパスポートは返却される。

国境検問所・出発: 出発直後にバスも浅い薬品プールをゆっくりと通り車輪の消毒でした。アルゼンチンに入国したのです。
09:43 現地ガイドさんと見習い助手の2人が昼食用サンドイッチの袋を配布。当初は 13:00 出発便だったので空港の待ち時間に食べる予定でした。サンドイッチ2人分はリュックに仕舞っておく。

プエルト・イグアス空港(アルゼンチン):
09:55 プエルト・イグアス空港ターミナルビルに到着。地方空港とはいえ世界的な観光地の玄関口の1つ、綺麗なターミナルでした。ここで2泊3日の担当だった現地ガイドさんと見習い助手ともお別れです。好天気と適切なガイドでイグアス国立公園を満喫できました。
10:57 手荷物と身体のX線検査。ボデーチェックでブザーがなった。原因は忘れたが金属製品のポケットからの出し忘れだったと思います。
10:00 2階の搭乗待合室にエスカレーターで上がる。幾つか土産店などがある小ざっぱりした広い空間だった。
10:30 搭乗予定便は45分遅れの11時丁度の出発に変更となった。こんなギリギリ到着なら出発遅れは大歓迎です。アバウトな南米の時刻表のこと、ムキになっても血圧に良くないだけでしょう。「郷に入っては郷に従え」です。
遅れて到着した搭乗機はLAN航空ではなく、AEROLINEAS ARGENTINAS という航空会社で、時刻表には AUSTRAL と表示されていた。要は、アルゼンチン航空です。
11:00 搭乗開始。ボーデング・ブリッジのスロープが急なので驚いた。
11:06 やっと自分の席に着きました。機材は B737、座席の配列は 3-3、座席は10Aと10Bでした。主翼の少し前です。雲がなければ写真も撮れるでしょう。
11:15 どうやら満席になった様子です。 プエルト・イグアス空港(アルゼンチン)

プエルト・イグアス空港からブエノスアイレス:
11:30 プエルト・イグアス空港を出発。機内アナウンスによると、ブエノスアイレスまで約1時間40分の飛行らしい。
この空港の滑走路は珍しいタイプで中央部が両端よりも低く作られている。良くは知りませんが、離陸しやすく着陸時の衝撃を和らげる構造なのでしょう。ノルウェーのベルゲン空港もこの作りでした。地方の中規模空港では時折あるタイプなのかも知れません。
離陸し上昇すると窓からは大きく蛇行するイグアス川とイグアス滝が見えた。無理と思いつつ急ぎズームを効かせて写真を撮っておいた。イグアス国立公園を過ぎると雲海の上となり、下界は全く見えなくなった。しばしウトウトする。
12:45 バスで受取ったサンドイッチ弁当を開けた。経験上この種の弁当は不味いものが多かった。が、このサンドイッチはいける味、デザートはバナナのみにした。実は体重コントロールのため食事量に気を使っているのです。座席のテーブルはガタガタで脚で支えないと使えないものだった。
12:50 遅めの機内サービス(小型チーズ・サンドイッチとチョコ・ビスケット)があった。サンドイッチは断り、ビスケットのみ受取った。
12:57 ランチ終わり。
12:59 飲物のサービスが回ってきた。ミルク・砂糖なしのホットコーヒーをもらう。味はまろやかで良いものでした。書き辛いが、日本の大手航空会社のコーヒーとの比較はチト難しい。
13:00 ブエノスアイレスに近づくと幸いにも晴だった。飛行機は奇妙にも泥水が広々と広がる大湖水の上空を飛び始めた。幾つもの川が複雑怪奇に蛇行しながら流れ込んでいる。当初は泥色の大湖水が何なのか分からなかった。実は、これがラプラタ川(銀の川)だった。
ラプラタ川はウルグアイ川( イグアス川も上流部の支流 )やパラナ川などの大河が流れ込む大西洋近くの大河です。形状が川としては珍しい内陸部と南大西洋の間の三角形で、アルゼンチンとウルグアイの間にある。長さは約300Km、幅は狭い所で約30Km、河口では約220Kmもあるらしい。日本人の感覚からは川と理解することが難しい面もあるような・・・。いつも泥水のままらしいが、どうして泥が沈殿しないのでしょう。これから行くブエノスアイレス市はラプラタ川の奥部にあり、河口から約240Kmほど上流で川幅が約40Kmの位置にある。もう直ぐです。 ブエノスアイレスに飛ぶ

ブエノスアイレス・アエロパルケ空港に到着:
13:15 アエロパルケ(AERO PARQUE)空港に到着。ここは国内便の空港ですが、近代的で明るい空港ターミナルでした。アルゼンチンの入国手続きはプエルト・イグアス空港に向かう途中の国境検問所で済んでいる。我々はターミナルビル1階のターンテーブルに行き各自でスーツケースを確認した。荷物はポーターに任せ、観光バスに向かった。 ブエノスアイレス・アエロパルケ空港
13:35 車寄せで待っていた観光バスに乗車。現地ガイドさんも乗車しましたが、日系の中年女性でした。
13:40 発車。

ブエノスアイレス市内観光:
バスは空港からラプラタ川沿いの道を走った。川に突出した状態で欧州風の建物があった。イギリス式のフィッシング倶楽部ハウスなのだそうです。反対側には緑が多い。アエロパルケ空港の意味はアエロ(航空)パルケ(公園)と言う意味とか、日本語ではさしずめ公園空港といったところでしょう。実際にラプラタ川に沿った公園で動物園や植物園などがあり、街の中心部にも比較的近いパレルモ地区とされます。
その後コロン劇場まで走ったのですが、この街は南米のパリとも称されるだけあり確かに綺麗です。計画的に都市建設が行われ欧州風の高層建築が街路に沿って建ち並ぶのは、少々大げさですが、見事ともいえましょう。
しかし公園らしき場所の歩道沿いにはテントの屋根と商品台だけの屋台がそれこそ無数にあり目を引きます。現地ガイドさんは「市場」と呼んでいましたが、巨大な屋台市場なのです。車窓から見る限り、汚らしさは全く感じません。屋台市場なら何処の国にもある生鮮食品の店が見えないためらしい。目に入る範囲では、衣類・雑貨・人形・何でもあり、のようです。通常の一店舗を構えるのが難しい人々がここで頑張るのでしょうが、競争もまた格別でしょう。公園が常時お祭りのように賑わう点は良いかも知れません。

Buenos Aires Map 現地ガイドさん配布の Pocket Map を部分的にお借りしました。日本語名は北行庵が記入、拡大できます。

白い巨大なオベリスク(Obelisco/高さ68m/1936年建立)を正面の遠くに見ながら7月9日通りに入った。 この7月9日通り(Avenida 9 de julio)は南北に4kmの長さで最大幅は約140mもあり、世界で最も広い大通りとしてアルゼンチン人の自慢の種らしい。1816年7月9日の独立を記念する名前が付いているが、オベリスクと同じ1936年の完成らしい。古い欧州風の建物を拡幅工事のため取り壊して作られたそうです。この緑豊かな大通りをしばし走ると、右手に大きなコロン劇場が現れた。

コロン劇場(TEATRO COLON):  コロン劇場まで来たが、7月9日通り側は裏手になる。劇場を通り過ぎた角を右折し、正面に回りました。
14:02 公園風のラバーレ広場(Plaza Lavalle)で下車し、その広場を横切りながらコロン劇場の立派なファサードを眺めました。コロン劇場は9年をかけ1908年に完成した7階建ての建物でイタリア・ルネサンス様式なのだそうです。収容人員は約4000人のようです。イタリア・ミラノのスカラ座やフランス・パリのオペラ座と並び世界三大劇場の1つといわれ、当時のアルゼンチンの経済的繁栄と文化面での欧化主義の象徴とされます。建物は確かに大きく迫力をも感じさせるものでした。音響効果は抜群で、ヴェルディのオペラ『アイーダ』はこの劇場でこけら落とし、ルシアーノ・パバロッチ、マリア・カラスなどの有名オペラ歌手も舞台を踏んだようです。
蛇足: オペラの世界はイタリア・オペラとドイツ・オペラに2分されると言います。例えば、ドイツはドレスデンのゼンパー・オペラ。ワーグナーがタンホイザー等の幾つもの歌劇を初演したことで知られますが、どうして3大歌劇場に入らないのでしょうか。ラテン系文化とゲルマン系文化はオペラの世界でも一線を画するとしか云いようがない、と思いました。
蛇足の蛇足: 著者はどちらの贔屓でもありません。正直、歌劇は分からない。で、以上の大劇場は全てチラッと見ただけに終わっています。
写真を何枚か撮って直ぐバスに乗り、オベリスクのある共和国広場(Plaza de la Republica)を回り、ブランド街のフロリダ通りを横切って五月広場に移動です。

5月広場(Plaza de Mayo):  14:20 バスは7月9日通りから大統領官邸のある5月広場(Plaza De Mayo)に向かった。5月広場を一周すると、広場の中心に白いオベリスク風の記念碑が建っている。「5月のピラミッド(Piramide de Mayo)」と呼ばれ、5月革命(副王制の廃止)1周年を記念して1811年に建てられたものです。
アルゼンチンの歴史を短く振り返ると、1776年(アメリカ合衆国の独立年)にアルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイをまとめて”リオ・デ・ラ・プラタ副王領”が成立、アルゼンチンはその中心となった。田舎の港だったブエノスアイレス港がスペインの副王領となり、それから交易の中心地として急速に発展したとされる。ところが、1810年5月25日のこと、ポレオンが侵略したスペインの混乱に乗じて、ブエノス・アイレス市の市議会は一方的に副王を廃し自治委員会の設置に踏み切ったのです。独立への第一歩でした。5月広場の記念碑「5月のピラミッド」はこの自治委員会の設置を記念したものです。しかし実際にはボリビア、パラグアイ、ウルグアイの賛同が得られず、スペインからの独立はもう少しの年月が必要でした。
1816年7月9日に開かれた議会で”リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合”の独立を宣言し、独立戦争の遂行をサン・マルティン(Jose de San Martin)将軍にゆだねました。将軍は1818年にチリを、1821年にペルーをスペイン支配から解放しました。しかし、アルゼンチン政府自体は混乱の極みで崩壊し、一時期を除き長らく中央政権が存在しない状態が続いたとされます。スペインからの独立は1816年7月9日とされますが、1826年制定の憲法でアルゼンチン共和国の名が初めて正式に用いられ、1860年に正式な国名して承認された、ようです。
(本音: 地球の裏側のことで、どうにも推移が見えづらい・・・。)

大統領府:  どのような歴史であれ、共和国なので大統領府があり、大統領官邸(カサ・ロサーダ/Casa Rosada/バラ色の家)がある。その建物は驚きのピンク色、現在は予算の関係で広場側の正面だけ塗られたそうです。側面は未塗装で石材の色のようでした。
大統領官邸としては世界的にも珍しい色でしょう。一説では、かなり昔こと、当時の大統領が対立する2大政党の融和を図る狙いでそれらの政党の色(赤と白)を混ぜた色を塗ったことが始まりらしい。バラ色といっても2色の配合からするとピンクが普通の色彩名でしょう。
大統領府と連邦議事堂とを結ぶ5月通り(Av.De Mayo)はブエノスアイレスの大通りの1つで7月9日通りと直角に交差し十字形を成す。一説では、アメリカのワシントン市(Washington, D.C.)の様式を採用して市の中央に大通りを作ったとされますが・・・。ところが、アメリカの大統領官邸はホワイト・ハウス、アルゼンチンの大統領官邸はピンク・ハウス、雰囲気はかなり違います。建物自体は大きく実に堂々とした立派なもの、欧州の王宮のように着飾った衛兵が正面入口の両側に立っていました。

大聖堂:  5月広場は官庁の建物も多いようですが、独立戦争を任されたサン・マルティン将軍の霊廟がある大聖堂もこの広場に面している。原型となる聖堂は1593年に同じ場所に建てられたが、現在の建物は1827年に完成したもの。12本の石柱が並ぶ正面は堂々たるものです。
14:23 帽子をとり、大聖堂の内部に入りました。正面入口の上部にパイプオルガン、最奥に内陣の祭壇、両側面に大聖堂に埋葬された方々のお墓や各種の宗教的な像や飾り、天井にはドームがあり、小型ながらステンドグラスもありました。欧州の巨大な大聖堂ほどの迫力はありませんが、伝統的な大聖堂でしょう。内部を一回りするだけの簡単な拝見でした。

14:32 大聖堂の外に出る。再び5月広場を大統領官邸に向かいました。途中の道の先にはオベリスクが見え、欧州風の狭い道が延び、凝った外観の建物が幾つもあった。大きなナツメヤシは実もたわわ、親子が沢山の鳩と戯れる、平和そのものの広場を歩いたのです。しばし官邸の斜め横で立ち止まり、それから横の道を下って歩きました。 ブエノスアイレス市内観光1
14:55 バスに乗車。

ボカ地区とカミニート:
移動: これからアルゼンチン・タンゴ発揚の地と云われる貧しい港町カミニートに向かう。途中でサッカー愛好者には知られているらしいサッカー場を外見だけでも見るように寄り道しました。コンクリートの観客席は高さがあるものでしたが、周囲の道路ギリギリに造られている。観客が多いので敷地の目一杯まで利用して観客席を増やしたのでしょう。公園状の開けた場所から近づいたのですが、競技場の周囲は民家が密集しているような場所でした。 現地ガイドさんがブエノスアイレスのサッカーチーム等について説明はしていました。残念ながらスポーツ音痴には説明が記憶として残りません。

旧港に近づくと、波型鉄板や木板を使用した貧しい家並みが両側に並ぶ道となった。かつて欧州から無一文で渡ってきた人達が鉄板や木材を拾い集めて生活を始めたポカ地区に入ったのです。今でこそ道路は舗装され並木も豊かに成長して貧しさを和らげられているが、それでもペンキの剥げた建物や錆びた波型鉄板の家々から昔が想像できるのです。帰路にチラッと車窓から見たのですが、極貧のスラムがこの街の一角にはまだ残っている・・・。

Tango on wall in Caminito
素焼きレリーフに彩色した壁飾り
----------

アルゼンチン・タンゴの成立
タンゴと呼ばれる舞曲はスペインや南米の各地にあるようです。しかしタンゴといえばアルゼンチン・タンゴ。一説では、世界に定着した歯切れの良い2拍子の音楽はブエノスアイレスの片隅にあった移民のスラムから生まれた、とされる。 キューバから伝来したハバネラ、それがブエノス・アイレス周辺で変化したらしいミロンガ、ヨーロッパから持込まれたポルカ、ブエノス・アイレスにも昔は多かったアフリカ系黒人の行列音楽カンドンベ(candonbe)などが混じり互いに影響して出来たものらしい。当初は下層社会の音楽として蔑まれていたが、1900年ころからバンドネオンの採用など民族音楽として整い始め、1910-1920にはフランス・パリで流行したもよう。この時期にラ・クンパルシータ等々の名曲も多く作曲されレコード化された。アルゼンチン国内でも次第に全国民的音楽として認められるようになった。
当初、踊りとしては男1人のソロダンスだった。次の段階として男2人で踊るようになり、最終的に男女のペアーダンスになった、とされます。
----------
Ref.04 の項目「タンゴ」、文章は変更。
ポカ(Boca)地区、カミニート(Caminito): 
15:10 右手に土産の露店などが出ている小公園があった。そこでバスは止まった。その反対側に観光化した小路カミニートがある。
カミニートの入口は車両禁止のチェーンが張られている。そこから約100mの小路の両側はド派手な色彩に塗られた質素な家々が続く。家々の外壁に派手な色彩を施すアイディアはカミニート出身の画家キンケラ・マルティンによるらしい。散策すると、その多くは観光客相手の商店や単に色が目立つだけの建物のようだった。アルゼンチン・タンゴの発揚地とされるカミニートのこと、タンゴの看板や装飾品は所々にあります。小広場までの短い通りは数分で抜けてしまうが、気軽な観光地として大勢の人達がブラブラ歩きを楽しんでいた。我々は現地ガイドさんの案内で通り抜け、カミニートの港側の小広場で解散となった。

自由行動なのでまず直ぐ先の旧港まで行ってみた。ほぼ1860〜1930年の期間はアルゼンチンの欧州化が急速に進行した時代でした。イタリア系とスペイン系を主とする人々が当地に移民または出稼ぎとして大量に渡って来たのです。この港で船を降りたのはいいが、行く先もなく頼る人もなく金もなく、ここで身を寄せ合って何とか生きるだけの生活をする人々も多かったことでしょう。現在のアルゼンチンとウルグアイは例外的に欧州系主体の国ですが、当時はアフリカ系もかなりいたらしい。アフリカのリズムなどにイタリア系音感の影響が加わってアルゼンチン・タンゴがこの地で生まれたとされます。

小広場の一角、港方面の大テントの中に雑貨マーケットがあり、その入口では警察官が目を光らせていた。観光客の安全は大切、何かあると客足に響くのです。我々は特に警戒心もなく散歩を楽しみましたが・・・。
同じ小広場を始点としカミニートと別方向に伸びる通りがあった。ここも出店やレストラン類があって賑わっている。少し先でバスが通った道と交わり、これらの3本の道が三角形を作っている。
また小広場の一角では大道芸人の男女がタンゴを踊っていた。これぞ正真正銘の「本場の本場。」 踊りはそれなりでも、小銭を入れる姿は見かけなかった。私も離れた位置から気付かれないように望遠を効かせての撮影でした・・・。思えば、随分とセコイことです。モデル料のUS$1.00でも置けばよいのに・・・(後悔。しかし先に立たず。)

写真を撮ったりしながらブラブラ歩きでバスの場所に戻った。カミニート入口の大きな土産雑貨の店でトイレを借用しました。別にチップは取らなかったはずです。 ポカ地区、カミニート

カミニートから新港へ移動:
15:40 乗車、出発。まず先刻眺めた旧港沿いに外海(実はラプラタ川)に向かいました。中央部の橋桁が上下して船舶が通れるようにした鉄橋があった。何かの理由でその橋の利用者が少なく、この橋の改善をせずに隣に同じような構造の鉄橋を作った。やはり利用者は限定的で、現在もその下を渡し舟が仕事中でした。さらに傍には高速道路の立派な橋があるのです。何とも滑稽な感じの旧港の入口でした。
16:00 この頃に真新しいビルが立ち並ぶビジネス街を通り、新港の傍で下車となりました。何もカミニートみたいな下町エリアがブエノスアイレスではない、と云わんばかり。その通りで、ここの観光客も道行く人々も建物や道路や公園も全て輝いた感じです。パンパスでの畜産が盛んなお国柄、実物大の牛の飾りが道沿いに数多くある。個別に彩色され、中には奇妙な色の牛もありましたね。港には綺麗な大型帆船が係留されていたり、反対側には大統領官邸が見えたり、風景を眺めながら固まってブラブラ歩きを楽しみました。
16:30 この頃だったと思いますが、新港エリアからバスで離れました。 新港

南米原産の花の木 (酔っ払いの木とジャカランタ):
空港に直接向かうには時間があった。何時もなら土産店の予定が入るが、今回はそれがない。ショッピング・ツアーではなく自然や遺跡を楽しむ目的なのでDFSに行かなかったのかも知れません。あるいは一旦は中止となり急に復活したブエノスアイレス市内観光なので予定できなかったか、気軽な日本人観光客向けの適当なお店が見つからないのか、そんなところでしょう。

2006/4/15 「酔っ払いの木」の花と実、ブエノスアイレス すでに花のシーズンは終わっています。
しかし赤い花を付ける「酔っ払いの木(パラ・ボラッチョ)」なるものをこの街で時々見かけました。満開なら見事らしいが、もう僅かな花しか残っていなかった。ところが、そのお陰で、珍しくも花と実を同時に付けた1本の「酔っ払いの木」を撮影できました。マンゴーのような実ですが、中は綿状で食用にならないそうです。
右の写真はカミニートの近くで撮影したものです。
各種のオンライン情報によると、「酔っ払いの木」は南米原産だが南西諸島でもみることが出来る。和名は幹が膨らんでいるので「トックリキワタ」というようです。

青い花を数多く咲かせることで知られるジャカランタ(南米原産)は葉に混じり名残の花が僅かにあるだけでした。ブエノスアイレスの街中に街路樹としてジャカランタが植えられていますが、バスは7月9日通り( と思う )の並木の傍でカメラ停車をしてくれました。希望者のみ下車して最後の花の写真撮影ができたのです。ジャカランタの満開はオーストラリアのシドニーで見ましたが、桜のように花ばかりだったのでアカシアと似た葉とは知らなかった。並木の本数が多いだけに、満開なら見事でしょうネ。細かく分類するとジャカランタには50種もあるそうです。序ながら、南アメリカ原産ながら英国系の人達の好みの木らしく、オーストラリアのシドニーのみならず、南アフリカのプレトリアには7万本ものジャカランタが植えられ花のシーズンには見事と言われます。大げさに表現すると、南半球において日本の桜木みたいなのかも知れません。

その後は市街地をしばし走り、16:55頃に高速道路にのった。ブエノスアイレスの中心部から約35Kmのエセイサ国際空港に向かうのです。今度は国際線のペルー便に搭乗なので昼に到着した空港とは違います。時間的には約30分のようです。
その間に添乗員さんが幾つかの連絡・注意事項を伝えた。
----------
* アルゼンチンの出国カードに記入・署名のこと。
* 今晩のブエノスアイレス・リマ便と明朝のリマ・クスコ便は同じLAN航空になる。
しかしスーツケースをリマのホテルに持っていくので搭乗手続きは別々に行う。
同行者が並んだ座席とは限らないが、搭乗手続きの時に「Together, Aisle」等を伝える。
* ペルーの時差はアルゼンチン時刻の−2時間になる。搭乗したら時計の時刻を変更すること。
* 飛行時間は4時間45分の予定。
* 等々。
----------

エセイサ国際空港(Aeropuerto Ezeiza):
17:20 エセイサ国際空港に到着しました。近代的な明るい感じの大きな空港です。
17:45 搭乗手続き。幸い我々は並んだ座席がとれた。スーツケースを預け、機内持込のリュックとキャリーケースだけになる。
2階の搭乗フロアーでゆっくりと過ごした。予定では今日の夕食は機内食となっている。空港では何も飲食はしなかった。 エセイサ国際空港

ブエノスアイレスからリマ:
20:15 搭乗。LAN航空428便の機材は B767-300、座席配列は 2-3-2、我々は 21A と 21C だった。4時間以上のフライトなので靴はスリッパに替えた。ワイフはセーターを着込み、座席に置いていない膝掛け毛布をスチュワーデスに頼んでいた。直ぐに届けてくれた。
20:40 出発。
21:00 イヤホンの配布あり。眠るつもりなのでアイマスクや耳栓、喉を守るマスクを用意した。すでに眠いが夕食前で眠られない。
21:30 夕食のメーンデッシュはチキンとポテトとさや豆の煮込み。他にグリーン・サラダとパンとデザート、飲み物はミネラルウォーターにした。食後のコーヒーは止めました。
21:55 トレーの片付け。少し体調が妙な感じなので風邪薬とビタミン剤をのんでおく。その後はマスクをして直ぐ眠った。たった2時間の睡眠でしたが、今晩はホテルで十分な睡眠時間がないのでそれでも助かります。
23:50 飲み物のサービス。私はアップル・ジュース、ワイフはオレンジ・ジュースにした。
その後もウトウトと過ごす。
01:00 客室の点灯。
01:05 イヤホーンの回収がある。
01:30(?) リマ空港に到着。 移動(ブエノスアイレス→リマ)

ペルー : リマ市 現地時刻はアルゼンチン時刻−2時間 (JST-14時間)

リマ空港:
23:30(?) (前日)リマ空港に到着。
00:00 入国審査の行列に並んだ。真夜中でも列の数は幾つもあり長いものだった。運悪く並んだ列は処理時間がかかりグループ最後の入国となる。その後のスーツケース受取りでは国際線としては珍しく預り番号の照合があった。たまたまか、通常の業務なのか、定かではない。
00:30 スーツケースはポーターに任せ、バスに乗る。前から2番目の席に座る。直ぐ現地ガイドさんがミネラルウォーターを配布した。この現地ガイドさんは日系2世の男性(40才らしい)で、リマ市とナスカ・地上絵観光の担当です。クスコとマチュピチュは別の現地ガイドになるそうです。
00:32 出発。
添乗員さんから明日の予定と幾つかの注意事項が発表になりました。
----------
05:30 モーニングコール/06:00- 朝食/-06:30 スーツケースは廊下/07:15 ホテル出発
09:45 リマ空港・出発
* エレベーターの1階は”L”になる。
* 米ドルの他にペルーの通貨が必要なのでホテルのフロントで両替すること。ペルーの通貨は日本で両替不可なので小額にすること。米ドルも通用する。
* トイレは直ぐ紙詰まりするので紙は流さず、少しづつ流すようにする。
* ミネラルウォーターはガスなし(シンガス)を購入のこと。
* 等々。
----------
現地ガイドさんによると、これから宿泊するシェラトン・ホテルは、昔は良き旧市街の一角に建てられたもの。しかし現在は貧しく治安の良くない劣化エリアとなり、ホテル自体が困っている状況にあるようです。当然、外出は禁止でした。この真夜中に外に行く人はいないが、一応云うべきことなのでしょう。

リマ・シェラトン・ホテル:
00:52 ホテルに到着。
00:58 シェラトンの宿泊カードにサイン。ワイフのものが無く、現地ガイドさんが慌ててフロントに発行依頼に行った。
部屋割りが決まり、我々は1423号室でした。全員が同じ階だったようです。その後フロントで米ドルをペルー通貨に両替する。1人当たり US$10.00 を渡し、10ソルを2、5ソルを5、1ソルを7、0.5ソルを1 で合計 32.5 ソルを受取った。もう1度繰り返し2人分を両替したのです。レートは US$1.00 = S/.3,25 ということになります。
それからエレベーターで部屋に向かった。エレベーターから遠い奥まったところの部屋で、中央が巨大な吹き抜けになっている建物の端から端に歩いたようなものでした。
カードキーで入室し、直ぐ部屋の写真を撮っておく。早朝までの超短期宿泊(約6時間の滞在)には勿体ない立派な部屋でした。でも、直ぐにシャワーを済ませ眠りたい気持ちで一杯です。急いでデジカメのバッテリーの充電を開始した。ここのコンセントは日本のA型と丸ピンのC型の2種兼用で楽でした。
02:00 この頃に眠ったはず・・・。クタクタでした。 リマ・シェラトン・ホテル

◇◆◇
Top▲Page