旅行記|南米3ヵ国、周遊の旅11日間 ( 7日目/2006年4月18日・火曜 )
南米3ヵ国、周遊の旅 (3大絶景と4都市)
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ホテル出発まで:
04:15 起床。ワイフは未明に頭痛で目覚め、痛止めを服用したらしい。幸いその後は眠れたようだった。軽い高山病か、他の理由なのかは分からない。
05:00 早めだったがスーツケースを廊下に出す。部屋に戻らないつもりで1階の朝食レストランに行った。ジュースは止めて、久々にスープ皿にシリアルを入れ牛乳をかけた。皿にはハム、チーズ、果物、パンをとった。
2006/4/18_Coca_Teapack
食後のコーヒーは相変わらず満足しつつ2杯のんだ。コカ茶のティーバックがあったので記念として3個もらったが、止めて置けばよかった。 米国・日本共々コカ茶の葉は麻薬成分を含むため持ち込み禁止なのです。途中で棄てたので無駄になった。現地で楽しむのがよろしいようです。
後日談ですが、乗継のロスアンゼルス空港では麻薬担当官数名が鼻の効く犬(ビーグル?)を連れて搭乗手続きに並ぶ乗客のスーツケースを嗅ぎまわっていました。コカ茶の葉やティーバックが麻薬の臭いを発するのか知りませんが、やはり禁止品目は持たないのがよいですね。
05:50 出発まではロビーで過ごしたが、ホテルにはバスが既に来ていた。日の出の時刻は過ぎたらしく外は明るかった。ホテル前の風景写真を数枚撮り、それからバスに乗車した。
06:00 出発。

2連泊したクスコのホテルに関する写真情報は1ページに全てまとめました。5日目(4/16)の中程と最後部に置いてありますが、ここでもリンクしておきます。 ≫ ホテル:写真ページ

クスコ空港、出発まで:
06:07 クスコ空港に到着。
ターミナル・ビルに入る前に、昨日マチュピチュで現地のカメラマンが撮影した写真を売りにきた。写真といっても周囲をマチュピチュ遺跡の小型写真で囲んだ大判の絵葉書です。我々は1人づつ計3枚に写っていたが、素早く顔から判断して正しい絵葉書を取り出したのにはびっくり、感心しました。1枚US$1.00なので3ドルで買ってあげた。

実は日本から非常食としてカップ・ラーメンを4個持ってきた。万が一クスコで高山病になったら、夕食をラーメンにするつもりだった。幸い不要になった。日本に持って帰るよりも日本人の現地ガイドさんに利用してもらうことにしたのです。が、ラーメンの入ったスーパーの袋をホテルの部屋に忘れたことに気付き、やむなく添乗員さんにその旨を伝えました。現地ガイドさんから部屋番をきかれた。搭乗手続きの待ち時間にバスでホテルまで取りにいったのです。現地ガイドさんには余計なお手間を取らせてしまったが、カップラーメンでも地方都市のクスコでは一時の慰めになるかも知れません。他にも数名が何か日本のものを持たせてあげたようでした。

06:15 航空券とパスポートを手にしてLAN航空リマ便の搭乗手続きの行列に並んだ。
06:35 この頃に搭乗手続きとスーツケースの預入れが完了したはずです。
06:45 2階の搭乗口に行く。窓の外は雲の切れ目から太陽光がもれ、クスコの街に落ちる光のスジが幾つも出来ている。神秘的と云うと大げさに過ぎますが、珍しく思いました。

2006/4/18_マグネット
2006/4/18_ベイビー・アルパカ・ストール1
2006/4/18_ベイビー・アルパカ・ストール2
搭乗フロアーでは早朝ながら幾つかの店舗は営業を始めている。ワイフは本当に小さな手作り人形のマグネット5個入り(US$8.00)を見つけて買った。袋から出して1個づつ土産に使うつもりらしい。
そのうちにブティックも開いたので入ってみる。アルパカ製品の上物(と思う)を並べてある。手触りの良いマフラーが US$265.00 だったが、やめておいた。
ALPACA111という店でワイフはベイビー・アルバカ(シルク30%・黒・薄手)のストールをUS$32.00で買った。もし 100% ベイビー・アルパカなら高価になるのでしょう。混紡でベイビー・アルバカ70%でも良い品質のものと思います。偶然に 30%Off の価格になっていたので買得だった。日本なら5000円では手に入らないと思います。ついでながら、ALPACA111というブランドの店はリマ空港にも数店舗ありました。
07:30 この頃に搭乗開始だったと思います。 クスコ空港出発まで

移動(クスコ空港→リマ空港):
07:40 この頃に搭乗。LAN航空LP024便の機材はA320、座席配列は 3-3、我々の座席は 25L と 26L でした。ツアーの御夫婦に1席を交換してもらい25Kと25Lに並んで座りました。私が窓側です。
07:50 定刻に出発。
08:18 雲海の上に整ったピラミッド型の雪山が見えはじめた。クスコとリマを結ぶ直線上にアンデス山脈でも高い山の1つサルカンタイ山(6271m)がある。恐らくその山と思いますが、確実には分かりません。(間違いならご容赦を。)
08:32 朝食(サンドイッチ・デザート)のサービスあり。飲み物はコーヒーにした。
08:37 クスコとリマの間(南緯12〜13度)ではアンデスの高山地帯から離れた山麓でも既に積雪が散見されました。アンデス山脈の岩肌の高地では気温の低下も大きいのでしょう。南緯と北緯の違いこそあれ、緯度的には東南アジアのマニラ(フィリピン)やバンコク(タイ)あたりに相当する熱帯なのに・・・。乾燥しきった岩山の連なりの間にも川があるのが不思議に思える光景が続きました。
しかし、太平洋に近づくにつれ、海岸に平行する広い地域は延々と続く砂漠になる。洋上には穏やかな海に数多くの小型船(恐らく漁船)が群れた場所がありました。日本なら漁船の群れは魚群探知機を使用して動き回りその軌跡が面白いのですが、ここの漁船群は動かず固まっているだけでした。たまたま洋上の会議だったのかな?
09:15 リマ空港(ホルヘ・チャベス国際空港 )に到着。タラップを降りてバスに乗車、ターミナル・ビルまで直ぐでした。2日前にこの空港で別れた日系二世の現地ガイドさんが出迎えに来ていました。 飛行(クスコ空港→リマ空港)
ペルーの首都リマ
首都リマは人口約800万人で全人口の約 1/3 が住むペルー最大の都市になる。政治、文化、金融、商業、工業の中心地であるが、太平洋を北流するフンボルト海流による海産物が豊富で漁業も盛んである。太平洋沿いの国土は砂漠だが、リマ市はコスタと呼ぶ乾燥台地(年間降水量は30mm)にあり、市内にはリマック川(rio Rimac)が流れる。
かつてスペインの征服者フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)がアルマス広場とカテドラルを造営し、そこから街を広げていった。その歴史的な日、1535年1月18日が「リマ建都の日」とされている。南アメリカ大陸で最も古いサン・マルコス大学(1551年設立)もリマ市街にあったが、現在は移転しカヤオ市にある。
市内はアルマス広場のある旧市街(1991年、世界遺産に登録)と海岸沿いの新市街に大別される。旧市街にはアルマス広場と大統領府やカテドラルの他に、その南西・約1Kmにサン・マルティン広場があり観光的に見るべきものが多い。しかし荒廃が進行している。反面、海岸沿いの新市街は近代的なビル群が建ち並び、特にサン・イシドロ地区やミラフローレス地区が華やかな賑わいを見せている。
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資料1:ペルー観光情報サイト「リマ」
(www.peru-japan.org/Mlima.html)
資料2:『ウィキペディア』、項目「リマ」
資料3:Ref.04、項目「リマ」

リマ市内観光:
09:25 国内便なので特に手続きはなく、ターミナルビル内を移動しスーツケースの受取りに行く。添乗員さんから「この空港はスリなどに用心すること」という注意があった。
09:35 この頃にスーツケースがターンテーブルから出てきたはずです。各自のスーツケースの確認をして、バスまでの運搬はポーターに任せた。男性メンバーのスーツケースが見当たらず、一寸した騒ぎになりました。が、すぐ見つかりました。

パスポート紛失騒ぎ、直ぐ見つかる: 10:50 乗車後に添乗員さんからパスポートの確認の指示があった。クスコ空港の搭乗手続きで使用した後はジャンパーの内ポケットに入れたままだった。機内など適当な場所で貴重品用ポーチに入れるべきでしたが、ウッカリ忘れていた。リマ空港でトイレに行く前には確かに内ポケットにあったはずです。バス乗車後にジャンパーを脱いだのですが、パスホートの確認をすると内ポケットに無いのです。何処を探しても見つからない。真っ青!
仕方なく添乗員さんと現地ガイドさんに事情を話した。クスコ空港でも誰とも接触しなかったし、混んだ場所はLAN機内で座席に着くまで、その後も誰も近くに来なかった。スリの可能性はまず無い。落ち着いて探すように云われ、アチコチ確認するが見つからない。たまたまワイフが座席の下を探してくれた。でも無かった。座席の下の連想から、座席の横、つまり座席と窓下の隙間を覗いてみる。その狭い空間にチョコンと赤いパスホートがあった。本心からホッとしました。(実は、私は動転して耳に入らず記憶にないのですが、パスポートが見つかった途端に皆さん大拍手してくれたそうです。) 添乗員さんは「パスホートを無くして騒ぐ90%はすぐ見つかります」と笑って慰めてくれました。その後「ご迷惑をおかけしました」と一応は座席から立って同行の皆さんに詫びました。数分ながら、バスの出発が遅れたのです・・・。パスポートに関して初めての大失敗でした。海外旅行では命の次に大切なパスポートです。
予感があったのか、出発前にバスポート用の予備写真を作って貴重品として持ち歩いていました。出番がなく幸運でした。もし失くしたら、ツアーから離団して数日の現地滞在と自費帰国となるのです。しかし、今日はホテルに忘れ物、次にパスポートの紛失騒ぎ、疲れのためかミスが連発となりました。気を引き締めなければ・・・。

リマ市の旧市街(世界遺産)とアルマス広場: リマ市内観光に出発です。ユネスコの世界遺産にも登録されているリマ旧市街を走り、スペインの征服者ピサロがクスコからリマに遷都した後に発展の基点となったアルマス広場に向かいました。この広場は旧市街の中にある。「世界遺産の旧市街」と云えば聞こえは良いが、かつてのメーンストリートも実はスラム化した凄い地区と成り果てているようです。昔の5つ星ホテルはエリアの劣化から客が激減して倒産、外観は素晴らしくともモヌケの殻です。立派な映画館も成り立たず軒並みシャッターが下りたままでした。私の目には「伝統的な欧州風の建物が多い立派な通りを走った」ように思えるのですが・・・。街というもの、建物などの外観ではなく住人や企業などの社会的な位置付けで評価は定まる、という実例の1つでしょう。今日では新市街(新都市)がペルーの首都らしく近代的で豊かな地域になるのです。

10:24 アルマス広場に到着。ここには大統領官邸や官庁の建物、カテドラル、その他の立派な建物に囲まれた広場です。大統領官邸の反対側でバスを降り、広場の中心まで歩きました。中心部に立つと高い柱の銅像の向こうに立派な大統領官邸がみえる。日本史上で初めて外国の大統領となった日系ペルー人アルベルト・フジモリ氏が1990年から2000年までペルーの国政を司ったところです。現在はフジモリ氏の政治的な強敵が主となっています。広場の中央からは均整のとれた大聖堂も見える。このカテドラルはスペインの征服者フランシスコ・ピサロが1535年にその基を築きました。ピサロの没後は菩提寺となって内部に御墓が安置され、今日ではリマ大司教座聖堂となっている。我々はそれらの建物の近くには行かず、広場の中央部から眺め、写真を撮って終わりました。

それから大統領官邸に向かって左側の通りに抜けました。白い観光馬車や官庁の建物が目立つ場所だった。広場側にはオレンジ色の外壁に黒塗りの大きなバルコニーを持った建物が多い一角です。最初に出来た官庁の建物がこの種のコロニアル風バルコニーを付けたらしい。後から出来た周囲の建物は役所の許可を得て同じくコロニアル風バルコニーを持つ類似の外観にしたそうである。それでこの一角は景観の統一性が保たれています。
アルマス広場では多くの人達がノンビリと過ごしているし、特に物騒な雰囲気はないように思えたが、ツアーは短時間の散策でバスに戻りました。ユックリながらソソクサ・・・。

前述のように、大統領官邸前にも行かなかったが、フジモリ前大統領(国籍はペルーと日本、2006年4月現在、チリのサンディエゴにて拘束中)の強烈な政敵が現在の住人なので日本人観光客を案内することはないのでしょう。仮にフジモリ前大統領が今ペルー入りすると即座に逮捕、死刑すら有り得るとの説明でした。
フジモリ氏はペルー大統領になると混乱の極みだった国内経済を立て直し、麻薬団や左翼ゲリラによる混乱を抑えた実績がある、と評価されることが多い。しかし軍隊を動かした1933年の自己クーデター以後は権威主義的な政治家になった、といわれます。結果として次第に政敵が増大し・・・、2000年にはペルーから去らざるを得なくなった。2006年の大統領選挙に出馬するため日本からチリに渡ったが、活動には各種の制約が多い、という現地ガイドさんの説明でした。
細かな政治的な事柄は全く分かりませんが、観光旅行とはいえ多少はどうしても政治絡みにもなるのでは?と思ったものです。

10:40 バスに乗車、直ぐ出発。今度は旧市街の細い道を通ったが、古く荒れた建物が多くて極貧地区の感じが濃厚でした。

旧日本大使館・跡地: 11:05 リマの高級住宅街の一角で下車、ゲリラによる人質事件とペルー警察の強行突入で知られる旧日本大使館の近くだった。 実はこの事件をTVで観ていた記憶はあるが、もう10年前のことで詳細は忘れていました。
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1996年12月17日 - トゥパク アマル革命運動(MRTA)のメンバー14人が、 天皇誕生日祝賀レセプションを開いていたリマの日本大使公邸を襲撃、占拠し、大使・青木盛久や各国要人ら約600人を人質にし、約4か月に渡り拘束。
1997年4月22日 - チャビン・デ・ワンダル作戦の遂行。ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES)が公邸内に突入し、最後まで拘束されていた人質のうち71人を救出。MRTAメンバー14人は全員死亡(うち数名の降伏者も殺害)。ペルー人人質1人と特殊部隊員2人も死亡。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、項目「ペルー日本大使公邸占拠事件」

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正門まで行く。現在の日本大使館は厳重な警備施設をもつ建物を新築して既に転居しています。ここは単なる跡地ですが、木造の門扉のアチコチに(と云っても幾つかの)銃弾の痕がなまなましく残っていました。テレビで放映された銃撃戦と大使館員の避難の映像は微かに記憶にありますが、「日本に帰ったら寿司を食べたい」といって外務省からお叱りを受けたと報道された当時の大使の方はどうされているのでしょう?旧大使館・跡地の角には警官2名が警備していましたが、我々としてはそのほうが安心です。
数分でそこを後にしました。

天野博物館: 11:20 この博物館は静かな住宅街にあります。ペルーに帰化した秋田出身の実業家、故天野芳太郎氏がプレインカとインカの時代の収集品を展示するため1964年に設立した博物館です。予約すると入場は無料ですが、写真撮影は禁止です。職員の日本人女性が案内役でした。
説明によると、チャンカイ文明(紀元後1000〜1400年頃に栄えたアンデス文明)の遺品を中心に展示されているそうです。土器の形と文様などがユニーク、人種的にアンデス系に加え欧州系など異民族の顔が装飾として使用されているのが珍しくもあり真に不思議なことでした。織物なども丁寧に引出しに保存され、見学者に1枚々を見せてくれます。インカ文明は文字を持っていなかったが、キープという結節縄の結び目の数で1〜9までは記録した、とされます。解読は難しく、専門職がいたらしい。そのキープも展示されています。アンデス文明に詳しい人なら興味のつきない博物館と思います。

この博物館の詳細や展示品の写真は、「天野博物館H.P.」をご覧ください。
また、クエリー「天野博物館」を検索エンジンに入れると豊富な情報や展示品の一部を色々なサイトでご覧になれます。

inca-salt
1階のショップでは写真の豊富な博物館ガイドやペルー土産の品々が置いてある。ワイフはペルー産の塩を US$3.00 で購入していました。女性はこの種のものに敏感で「他の店より味が良い」と比較した上での購入でした。家庭料理に少量のみ使用していますが、味は良いようです。
12:20 博物館を出る。

訪問した3ヵ所とその他のリマ関連の写真はここで1ページにまとめました。 リマ市内観光

コメント: ペルーと日本は明治初期に国交が開始されました。これは珍しいことではありません。 ところが、アルベルト・フジモリ氏は日本人が外国の大統領になった初めての人物、そして故天野芳太郎氏は外国の文化・文明に関する博物館を該当国に設立した初めての例のようなのです。 現時点の政治的な関係はいざ知らず、ペルーは日本にとり特異な国でもあるようでした。 個人的な事柄で恐縮ですが、筆者が若いころ米国の大学院に留学したとき、教室で最初から近づいて何かと教えてくれたのもイタリア系ペルー人の留学生でした。既にアメリカの大学を卒業し大企業で仕事をしていた人でしたが・・・。

その後、男性2人組みの1人が日焼けの痛みを癒す水のスプレーを購入したようでした。ついでに、私の腕の日焼けを癒すためそのスプレーの水をかけてくれました。一時的ながらヒリヒリした感じは和らぎ楽になった。実は、昨日のマチュピチュの紫外線は強烈だったようで、両腕は極端に真っ赤になっていたのです。

昼食(レストラン):
12:30 リマ市内の日本食レストラン( Daimaru 寿司 )に到着。庶民的ながら小奇麗な店作りだった。突出しは珍しく「つぶ」の煮付け1個、爪楊枝で引出して食べる巻貝です。日本流の食事はお盆に4皿が載っている。トンカツ・海老フライ・野菜数種、野菜炒め、豆腐の味噌汁、ご飯だった。和食は久々なのと空腹のため美味しく頂けました。デザートはメロンだった。 昼食(和食レストラン)

13:23 レストランを出る。 これからリマ市街を抜け、バンアメリカン・ハイウェーを一路南に約450Kmも走る。途中で遺跡見学や夕食を交えて約8時間50分(走行は約7時間)のドライブです。夜に目的地ナスカに着く予定でした。

移動(リマ→パチャカマ遺跡):
13:30 バス出発。
13:44 モダンな新国立図書館の前を通過。
13:55 遠方の丘には家々が立並んでいるが、坂道の階段のみが目立つ黄色に塗られていた。そこは昔は単なる砂丘だったが今は立派な(?)スラム街になっている。かつてリマの市長が電車を走らせる公約をしたが、実現は難しかったようで現在は幽霊電車と呼ばれるらしい。驚く程に延々と南方に続き、スラム文明(?)の底の広さとしたたかさを感じます。かなり先になると建物の密度は低くなった。そして砂丘の緑化を試みる植林があった。やっとスラムは終わったと思ったが・・・、植林地が過ぎると更なる先にも続いていたのでした。実は場所の記憶がないが、砂漠の広大な斜面に小さな四角い囲いがポツポツと沢山あった。新興スラム街の陣取りなのだそうです。小さな四角な囲いに屋根が付いていたら住人がいるそうです。「売れた」ということでしょうか?こんな場所から遥か遠方のリマ市まで通勤できるはずもない。食料や水は売りに来るそうですが、砂漠のスラム住民に支払い能力があるとは思えない・・・。真に不思議な光景でした。
筆者は社会派の写真を撮影をするタイプではないが、砂漠の砂丘に延々と続くスラムには珍しさを感じました。決して見て楽しいものではなく、ペルーの恥部の1つでしょう。しかし、現実は現実、その写真ページです。 移動(リマ→パチャカマ遺跡)

パチャカマ遺跡(PACHACAMAC):
14:20 パチャカマ遺跡に到着。ここはリマ市の南方に約40Km離れたパンアメリカン・ハイウェー沿いになる。日干し煉瓦の遺跡は風化が進み、瓦礫の山ともいえる部分も多いが修復された場所もある。プレインカ時代からインカ時代のものらしい。遺跡内部には観光用の道路と幾つかの駐車場があり、遺跡内での移動はバスでした。
遺跡の中に案内図がありました。デジカメで全体の地図と個別の遺跡名称のリストを別々に撮影したのですが、PCで再合成したものを次に掲載します。専門的なものを除くと情報量が少ない遺跡なので何かの手掛かりになれば、と思います。
2006/4/18:パチャカマ遺跡・地図
地図上の赤線は遺跡内の車道と駐車場、個々の遺跡の名称はスペイン語と英語です。
クリックで拡大(1676x768)

パチャカマ遺跡には形を残していないものも多いのですが、「傾斜路のあるピラミッド神殿(Pramidal Temple with Ramp/Pramid with Ramp)」という建造物の遺跡は何とか原型の想像が可能な感じで、ユカタン半島のピラミッド(マヤ文化)を連想させるものでした。しかし高さはかなり低いと思われます。インカが侵略する直前のIchma(イチマ/イシマ)文明やその前の文明の遺産とされるようです。その周辺の道やレンガの壁には発掘・復元されたものもあるが、観光道路まででした。多くは未だ砂の中のようです。
砂山のような大きな遺跡は「太陽の寺院(Sun Temple)」というものらしい。パチャカマを侵略したインカ帝国はこの神殿を破壊しなかったし、「創造の神パチャカマ(Pacha Kamaq)」を信仰する宗教の存続は認めたとされています。現在は、一部の壁面などが掘出され修復されつつあるようでした。
最後に、1440〜1533年頃のインカ遺跡とされる「マナキュナ女子修道院(Manacuna Convent/日本では『太陽の処女の館』が多い)」の外観を遠望した。このインカの建物は復元されています。外観と周囲の道などの施設類もかなり様子が分かります。 パチャカマ遺跡

この遺跡は古く紀元前200〜紀元後500年に建設が始まったと推定されるようですが、大航海時代の植民地拡大によりフランシスコ・ピサロの軍隊が1532年に破壊したらしい。現状のままでは感銘を受けるといった程の遺跡ではなかったが、発掘と修理・復元が進むと観光的な面白さも出てくるのかも知れません。
15:04 入口のトイレに寄り、出発。

移動(パチャカマ遺跡→レストラン):
早朝からの移動と観光で、バスの車内は完全に居眠りモードでした。
17:50 この頃、日没でした。しばし眺めた赤い夕日が綺麗だった。ペルーの太平洋側は南北に広大な砂漠が続きます。アンデス山脈から川が流れる両側のみ木々が生えたり耕作地があったりする。丁度、農村地区で日が沈みました。
2006/4/18: 17:44 撮影

夕食(沿道のレストラン):
18:50 レストランに到着。場所は、時間から云って、イカかその周辺でしょう。
入口から建物を通り抜けると裏側にオープン・レストランがあった。プールや庭もある広々した施設で、我々はレストランとして利用しましたがホテルらしかった。食事はスモーガスボード形式で建物側に食材テーブル、そして客用のテーブルが広い空間に並んでいる。暗くとも寒さはなく、我々は2人でビールの小瓶1本(US$4.00)とグラス2個を頼んだ。4人用テーブルは相席で、例の男性2人組みと一緒でした。東京で会社を経営している人とその友人の役員らしかった。50才代の前半と思っていたので、還暦と知り驚いた。
初めにパンプキン・スープをテーブルに運ぶ。次に牛肉の薄切り(珍しい)、きしめん風パスタ、海老ペシャメロ・ソース、煮込み野菜などを大皿にとった。別の皿にグリーン・サラダを盛る。パンはテーブルの籠にあったはずです。いつもながら、空腹なので適当量をしっかりと食べました。
食後のデザートも取りに行く。係りの人が大きなプリンを切り取って小皿に乗せてくれた。甘くて美味しいプリンで満足でした。もちろん、コーヒーも良かった。 夕食(沿道のレストラン)

20:00 出発。 もう砂漠の道は真っ暗です。眠る以外に何ができましょう。

ホテル(ナスカ泊/ナスカ・ラインズ・ホテル):
22:10 ホテルに到着。遺跡見学と夕食の時間を除いた実質的な移動は7時間弱でした。
まずフロントにパスポートを渡し、宿泊カードにパスホートと同じサインをして提出となった。
暫く後に部屋の割振りが決まり、我々は205号室となった。
添乗員さんは234号室で内線番号は(2)234となる。
明朝の予定は未定なので、決まった時点で電話連絡してくれるそうです。
このホテルの建物はプール付きの広い中庭があり、取り囲む2階建ての回廊沿いに部屋がある。我々の205号室は割りに遠かった。

部屋の構造は少々風変わりだった。まず入口の右側に金庫がドンと置いてある。左が寝室でベットが2つ、入口の壁の後側で部屋の一番奥がバスルームだった。絨毯類は一切なく、あっさりした床だった。リゾートホテルとしても珍しい作りに思えました。

22:40 添乗員さんから電話、明日の予定です。
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05:00 モーニングコール/05:30 ロビーに集合/朝1番のセスナに搭乗予定。
朝食はホテルのサンドイッチ弁当。地上絵の鑑賞後はホテルで12時まで休息。
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これで明朝も早起きが確定となった。急いでシャワーを済ませ、就寝。 ナスカ・ラインズ・ホテル

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