ドイツ南部とスイス名峰の旅 ( 2003年5月20日(火)/5日目 )
flag-germany ドイツ: ノイシュバンシュタイン城
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今日の午前中はサン・モリッツからオーストリア経由でドイツに入国し、ロマンチック街道の最終地点フュッセンに行く。郊外のシュバンガウで昼食後、山中にあるノイシュバンシュタイン城を見学する。夕刻、ミュンヘンに向かい、そこのビアホールでドイツ料理とショーを楽しみ、ロマンチック街道にある宿泊地ランズベルクまで行く予定です。

起床から出発まで:
05:20 起床。今日のサン・モリッツは雨です。
06:45 スーツケースを廊下に出す。
06:50 朝食。地階のレストランでコンチネンタル・スタイルの朝食。
07:20 ホテルのフロントでアルペン・ホルンの人形を23.00Fで購入。部屋の鍵を返却。
07:30 出発。バスはわざわざドイツから我々を迎えに来たのです。運転手はオットマンさんで、ドイツ滞在中は観光最終日のフランクフルト空港まで、我々をアチコチに運んでくれるスルードライバーです。道中、宜しく〜。
その後、ツアコン・アイさんは「旅行社(スイス行程の全手配を担当)から電話があり、手配の不手際を詫びていました」と伝えた。多少のことはあったようですが、我々は満足できるスイス旅行で気にしていないし、他の皆さんも似たようなものでしょう。

バスの旅(オーストラリアを経由してドイツへ): サン・モリッツはまだ小雨が降り続いていました。すぐ街から出て木々が茂る山間の道でした。 スイス、山麓の農村風景
08:30頃 バスは高速道路に入りました。これから、昨日の列車が折り返したライヒェナウ、しばらく後にクール、そして ハイジ「アルプスの少女」で知られるマイエンフェルトと通過します。

車窓の風景は雨のため大して楽しめません。アイさんはマイクに向っていろいろな話をしました。さて、その中で書き残したいことは・・・。

エーデルワイス壁掛け
◆08:35 まずは、予期しなかったサービスでした。今日はAさんという熟年女性の誕生日、そして明日は北行の誕生日でもあります。アイさんは、「今晩はビヤホールでショーもあることだし、2人まとめて面倒みようッと!」と考えたようでした。皆さんにその旨のお話があり、旅行会社からの誕生祝として観光初日に用意したらしい”エーデルワイスの壁飾り(ユングフラウヨッホ)”が2人に手渡されました。トラピックス参加の経験から「せいぜい夕食時のケーキと『Happy Birthday !』の合唱」と内心で思っていたので驚きでした。と共に、実に嬉しかった。例え会社の代理でも、若い女性からギフトなど貰ったことがない。それも「高貴な白」とはセンスがいい。どうもありがとう。大切に飾らせていただきます。
驚いたことに、「ご愁傷様」という声も有りましたが・・・。
(「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と云うけれど、誕生日を冥土の道の一里塚と考えるような年齢でもない、全て可能な限り前向きのつもりです。)

◆山道を下るとき大きい人造湖とダムの傍を走りました。その時、ポストバス乗場があったのです。その後もこの道筋の何箇所かで見かけました。
ポストバス(Post-auto)はPTT(連邦政府・郵政省)が運営する黄色の郵便配達車で、スイスでは乗合バスのように人も運ぶのです。今日、実際には人の運搬が目的となり郵便物の運搬はついで仕事になった、と言われます。全国にポストバス路線が隅々まで張り巡らされ、交通手段として重宝されているのです。
このスイス独特の制度の原点は2つある。15世紀に始まるとされる駅馬車がその1つ。ラテン語でポストは「物を置く場所」を意味し、その場所で駅馬車に荷物の運搬を頼んだ。次第に人を乗せる停留所をポストと呼ぶようになった。時代と共に、そこはポスト・ホテルになったりもした。それが、現代の小屋のあるポスト・バス停留所につながるという。
他方、イタリア出身のタクシスという人物が世界初の郵便事業(手紙のみ)を始めました。黄色い馬車に郵便物を載せて配達(?)し、ラッパ(当時は角笛だったらしい)を吹いて「ゆうび〜ん!」と知らせたのだそうです。これが現代の郵便マーク「黄色にラッパの印」の言われです。1516年、神聖ローマ帝国内の郵便事業はタクシス家に独占的営業権が与えられ、代わりに神聖ローマ帝国は無料でサービスを受ける権利を確保したそうです。歴史を踏襲し、スイスやドイツでは黄色にラッパのマーク、他にもオーストリアなど多く国が郵便マークとしてラッパ印を使用しているのです。ただし、ポスト・バスの停留所はツートンカラーで「赤色にPTT・黄色にバスの絵」のマーク。他の地方では、黄色にバスの絵だけのマークも見ましたが・・・。
ついでながら、ニューヨークではタクシーをイエローキャブと呼ぶ。タクシーは”タクシス”を語源とし、その色イエローはタクシスが使用した黄色の郵便馬車から来ている、とも言われます。
他方、郵便切手はイギリスの発明でした(1840年使用開始)。日本は明治維新後にイギリスの郵便事業を取り入れ、旧来の飛脚制度を切手と郵便ポストで近代化した。それで郵便関係は黄色ではなく赤色になったのだそうです。(百科事典の記載を混ぜました。他にも、http://www.okada.de/unchiku/taxis/taxis.htm 等々を参考にしました。)

◆スイスのリヒテンシュタインよりにマイエンフェルト(村)がある。車窓から見る限りでは、何の変哲もない森の村、右手背後は山ですが、高山という印象はありません。鉄道の駅はあっても、特急は停まらないとか。しかし、ここは1880年にヨハンナ・スピリが書いた子供向け物語「ハイジ(アルプスの少女)」の舞台なのです。1人で山に住む頑固なアルム爺と孫娘ハイジの心の交流を描いた物語、それに所縁の散策コースも用意されているようです。(が、日本人向けの観光コースという表現にも出会いました・・・。)

注:スイスの人物で知っている名前は? テルとハイジ。それ以外はあまり知られていないようです。ところがテルは、スイス人が北欧の伝説を借用して創りだした人物なのです。ハイジも物語の作者ヨハンナ・スピリ(シュピーリ)の創った物語の人物です。反面、お恥ずかしいながら、私もスイスの著名な人物名を知りません。スイスの人気度に比し淋しい限りではあります。(注・終り)

スイス最後の休息所: 09:20 マイエンフェルト直前にサービスエリアに寄った。トイレ休息と言われたので小さな設備と思っていたが、大きい建物で中にはかなりの店が入っている。高速道路専用のサービスエリアではなく、この地域の人達も利用する施設と思われます。庶民的な市場風の商店を一回り見るのもスイスにきて初めてです。ここには広いカフェがありました。コーヒー(@3.40F)を2つ買い、テーブルで飲みました。周囲はスイス人ばかり。時間ぎりぎりまで粘りました。 外はまた雨が降り始めていた。 マイエンフェルト近くのショッピングセンター

ミルク缶入りチョコレート
阪急トラピックス推薦の土産品: 09:40 出発。先に書いたマイエンフェルトを通り過ぎ、アイさんは旅行会社の土産品カタログを回覧しました。
缶入りウィンナー
この旅行記3日目(5/18)のマッター谷で説明したハイダ白ワインとか、ドイツのソーセージ缶詰(大・小)などを購入することにしました。価格的にはいろいろ言えるでしょうね。 しかし、自宅配達で代金振込み(日本円)なら面倒が少ないのも確かです。
ついでにスイス産のミニチュア・ミルク缶入りチョコレート(左の写真)も注文しておきました。実は缶が欲しかったのです。しっかりした造りのものでした。チョコレートは2種類入っていますが、無難な美味しさに思えます。写真のウィンナーとチョコレートはフランクフルト空港の出国手続き後のDFSでも売っているようです。手荷物が気にならなければ、最終日の楽しみにするのも良いでしょうね。ツアー参加者は半数以上が何か注文した感じではありました・・・。

スイスと別れる時間が近づくと、雨はかなり大降りになった。白樺とか赤松の茂る沿道の所々ではアカシアの白い花が雨で重そうに垂れ下がっていた。ボーデン湖の南東でオーストリアとの国境に沿った地方はこんな時期でした。花暦による気候の比較をしてみると、昨年4月上旬に訪れたイタリアのナポリでも白いアカシアが満開でした。同じ種類のアカシアとは限りませんから誤差含みの推定ですが、ナポリとボーデン湖南の地域の気候差は1.5ヶ月、北海道ではさらに1月程度は遅れます。

オートスリア入国の検問ゲート: 10:15 スイスの国境を出て、数10メートル(?)先になるオートスリアの国境検問ゲートでバスは一旦停車です。検査無しで通過できると思っていましたが、バス・ドライバーがゲート事務所に何やら書類を持って行きました。このオーストリア入国ゲートではパスポートの提示を求められることもあるようで、用意するように言われました。ゴソゴソしてキャッシュベルトから出しました。

flag-austria オーストリア・通過(30分間)

10:25頃 オーストリア入国。 スイス・オーストラリアの国境検問所
バスは直ぐ動き出し、住宅地らしきところを通った。そこはライラックの花が終わりかけていた。

ドイツ語で「東の国」と呼ばれるオーストリアも北部スイスと同じくドイツ語圏であり、民族的には多様ながら99%はドイツ語を話すという。宗教的にはカトリックに分類される。歴史的にゲルマン、ローマ、スラブの3文化の接点だった。そのためか、車窓からの建物も外観的にスイスのものと似ているが同じような印象を受けない。どことなく違うのだ。

10:40 左に大きなボーデン湖がある。フルカ峠の後に氷河特急から眺めたフォルダーライン川はこの湖の東にそそぎ、西から流れ出て再度スイスを通りラインの滝となる。フランスとの国境の役割を務めてからドイツ領を流れ、マイン川やネッカー川と合流してドイツの大河となるのです。湖はこのライン川の水量調節の役割もあるそうです。
湖畔の町ブレゲンツを通り抜けたが、毎夏に湖上の音楽祭が催され、音楽好きの人達には有名なリゾートの1つだそうです。その後しばらくは湖沿いに北にゆく。

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11:05 高速道路から降りる。もうドイツ、国境からかなり入っていた。雨は止んでいた。


11:10 あたりは農村だった。穏やかな丘陵に広々とした畑や木々、所々に住居があった。バスはその地域の商店の駐車場で休息した。

11:20 出発。ワイフはドイツの駄菓子(ゼリー、0,75E)一袋を買った。甘酸っぱい味で硬め、日本のものと違っていた。バスはオーストリア・チロル地方の北側を東に向ってゆく。あたりは牧草地が多かった。
ノイシュバンシュタイン城

12:32 アルプスの白き峰々が遥か遠方にあった。手前の低い山の中腹に森に囲まれた城が見え始めた。まだ遠く、添乗員さんの説明でやっと気付いたしだい。19世紀後半にバイエルン選帝侯のルードイッヒ2世が建てたノイシュバンシュタイン城(新白鳥城/ノイシュヴァンシュタイン城)です。「世界で最も美しい城」とすら言われる次の見学先を車窓から遠望したのち、バスはロマンチック街道終点フュッセンを通過しました。この町も観光地の1つ、街中には散策する大勢の観光客の姿がありました。

バイエルン王国 (ミュンヘン)
マクシミリアンヨーゼフ1世
1806年即位
ルードヴィッヒ1世
即位1825年

現在のミュンヘンはバラエティーに富み、ドイツ文化の縮図とも言われる。その基礎はヴィッテルスバッハ家の代々の君主が築いたが、特にルードヴィッヒ1世の功績が大きいとされる。
「余は、全ドイツの名誉の為に、ミュンヘンを知らざる者はドイツを知らざる者、と言われるような、そんな街を創造してみせよう」 と豪語した王様でした。
マクシミリアン2世
即位1848年

子息のマキシミリアンは皇太子時代にシュバンガウの城跡にホーエンシュバンガウ城を建て、内部を中世伝説を題材とした多くの壁画で飾りました。
国王ルードヴィッヒ1世がスキャンダルで退位した後に王位を継承したが、1864年にマクシミリアン2世は急逝しました。
ルードヴィッヒ2世
1845-1886
即位1864年

バイエルン王ルードヴィッヒ1世の孫。少年時代の殆どを父の城ホーエンシュバンガウ城で過ごし、18歳の時に王位を継承した。国王として政務に関心を示さず無能だったとされる。作曲家ワーグナーのパトロンとして知られ、バイエルン各地に城や離宮や劇場をつくりワーグナーを上演させたという。ついには国家財政を破綻に導いてしまった。それでも更なる築城を企画したともいわれる。精神異常の疑いでベルン城に幽閉され、最後にシュタルンベルク湖で投身自殺した、とされる王様です。
(ミュンヘンから電車で30分、そこから船で20分の場所の湖上に十字架が立っている。自殺かどうか、真実は不明。 )
ルードヴィッヒ2世の建てた城で特に有名なのはノイシュバンシュタイン城(フュッセン郊外、山)ですが、リンダーホフ城(オーバーアマガウ、森)、ヘーレンキムゼー城(キム湖の島、湖)も知られている。
1871年、ビスマルクのドイツ統一で、その1州(王政維持)。
オットー1世
即位1886年
ルードヴィッヒ3世
即位1912年
1918年、王制は廃止。
参考文献:日立デジタル平凡社、世界大百科事典DVD版、1998: その他。
シュバンガウ: フュッセンの市街地を出て山に向った。山間に小さくも綺麗なシュバンガウの町がある。直ぐ近くの小高い場所にマクシミリアン2世の建てたホーエンシュバンガウ城、その右側遠方の山上(中腹に見える)にノイシュバンシュタイン城がよく見えます。登山バスを利用して見学に行く予定ですが、昼時でした。

昼食: 12:50 バスを降りると、まず、町の奥にあるシュロス・ホテルに案内されました。そこの1階は大きなレストランです。入り口から1番奥の左の部屋でしたが、一般客とは全くの別室で落ち着けました。飲み物は紅茶(@2,20E)にし、ランチはスープ、鱒のから揚げとポテト、デザート。内陸なので海ではなく淡水の魚ですが、レモン汁で食べるのも乙な味でした。ランチとしては十分。が、ドイツの食習慣によると昼食のみ本格的で朝・夕は簡単なものと聞いています。それでは我々は持ちません。夕食も量的に十分(日本式)に出て欲しい、と余計なことを考えてしまった。 シュバンガウ

城の見学後は自由行動で各自歩いて下山となる。集合場所が指定されました。
街から白鳥城までは徒歩で登るか、馬車または登山バスに乗るかです。我々は登山バスでした。集合場所の近くに乗場があり、少し待つと小型のバスがきました。ものの5分もせずに下車となります。

マリエン橋: そこから右手の道を行くと大きな滝の上の峡谷に架かるマリエン橋(鋼鉄製アーチ橋)がある。この橋から見るノイシュバンシュタイン城が素晴らしいのです。滝壷から下流の深い峡谷の壁が立ち上がり、その頂上に城がある。大勢の観光客に混じり、我々も写真におさめました。実はこの橋に寄ってくれるのか心配でしたが、事前の説明が無くとも、ちゃんと見所には案内してくれました。残念ながら、この時間帯はノイシュバンシュタイン城が逆光になり写真写りが今一なことでしょう。

来た道を戻り、マリエン橋の反対側になる展望台に寄った。ここからはホーエンシュバンガウ城、シュバンガウの町、森と湖、遥か遠方の白いアルプスの山々、これらを一望できるのです。気持ちのよい眺めです。

城に向って森の中の歩行者用の舗装路を下ります。途中、森の木々を切り開いた展望所がありますが、見えるのは城の上部だけでした。城まで下り、左側の道を城の反対側まで行くと正面入り口です。
ノイシュバンシュタイン城: 14:15 城内に入り、添乗員さんが日本人ツアーとして整理番号479番を貰いました。ここの観光は各国語の説明があり、それで同じ言葉のツアーは一緒に見学するのが原則のようです。整理番号はそのために必要なものでした。今日は我々だけが日本語グループなので、各自が携帯ガイト機を耳にあてて説明を聞くことになりました。
入城まで時間があり自由行動です。ここからマリエン橋とその下の滝が良く見え、素晴らしい展望です。マリエン橋は順光でよく見え、写真の写りも最高でした。撮影後に傍の階段を上り、城の正面に行きました。左右の建物と一体化してコの字状の広場になっていますが、城には近づけません。6〜7階ですが、高いところの左右に大きな壁画が描かれている。ドイツ語圏では時折民家の外壁に大きい壁画を描き、珍しいので観光ガイドの対象になるようです。このお城の壁画が元祖でしょうか、それとも民家の風習がこのお城で採用になったのでしょうか。 ノイシュバンシュタイン城

14:30 時間となり、整列し、携帯ガイド機を受け取り入城です。城内は撮影厳禁なのでデジカメのレンズキャップを取り付けました。首からぶら下げたままでしたが、別に何も言われません。見学コースは女性職員が付いて回り、日本語ガイドがある場所で発信機のスイッチを入れてくれます。
写真なしでは、思い出せる場所は限られます。鍾乳洞、寝室、黄金色に輝くドームのルードヴィッヒ2世の間(拝謁する部屋)、厨房、売店くらいでしょうか。特に「スゴイナ!」と記憶に残ったのはルードヴィッヒ2世の間でした。広さとかドームの高さとか宗教画など個々の要素よりも、黄金の輝きに囲まれる雰囲気がすごかった。売店で小型の説明書か写真集でも購入しておけばよかった、と悔やまれます。

城の見学が終わると長いトンネル状の通路を歩いて外に出る。そこからシュバンガウまで下りの一本道があるのでブラブラと歩くのが良いですね。坂道の途中に土産屋が数軒ある。その手前からこのコースでは初めて城の側面(マリエン橋から眺める城の裏側)が見えるのです。5月下旬のことで沿道には数種の花が咲いていました。バラの原種(野ばら?)のような可憐な花もありました。

(エピソード) バイエルン王国のルードヴィッヒ2世は実に評判の悪い王様でした。側近や重臣らの猛反対を押し切って作曲家のワーグナーに資金提供を長く続けたり、城や宮殿を次々に建てて王国の財政を破滅に追い込んだり、最後には精神異常者のレッテルを貼られ、ついに湖で投身自殺した、とされる。
他方、ヴィッテルスバッハ・バイエルン王家は代々の美術品コレクションをドイツ有数の美術館アルテ・ピナコテックに保管してきました。第二次大戦の爆撃でこの美術館は瓦礫と化したが、ヴィッテルスバッハ家のコレクションは難を逃れ、多くが現存するのです。
それには訳があった。ヒットラーのポーランド侵攻開始直前に由緒ある美術品のコレクションはノイシュバンシュタイン城とへーレンキムゼー城に密かに隠されたのでした。これらの城は共にルードヴィッヒ2世が情熱をかけて建てたものなのです。 (終り/参考文献: 講談社、世界の国「ドイツ・オーストリア」、1982、pp.151-152 )


ドイツ・小型タオル
シュバンガウの土産の店(免税店?): ドイツのブランド製品や土産品が広い店内に陳列されていた。特に買物の予定はないが、ゆっくりと見て回りました。モンブランという高級筆記具が沢山ケースに並べられている。太くて短いボールペンに興味が湧きました。男性店員は目ざとく、「表示価格の10%引きで如何でしょう?」それでも買いそびれましたが、ドイツ出発まで数軒で同じボールペンの値段をチェックしたのです。10%OFFなら、ここが1番低価格でした。
ワイフは小型のタオルを数枚だけ購入していました。女性の間では定番のドイツ土産なのだそうです。

バス移動・ミュンヘンに向う: 16:15 出発。最良の天候とは言えなくとも、雨は降らず風もない穏やかな午後にドイツ初の観光を済ませることが出来ました。これから 106km離れたミュンヘンまで約2時間のドライブです。
沿道ではマロニエが時折咲いています。白い花の木、赤い花の木、2種類がありました。共に花房を枝から上向きに付けています。

メイ・ポール: キリスト教が定着する遥か昔のヨーロッパの人々は、樹木の霊魂が雨と太陽の光をもたらし、農作物を生育させ、家畜をふやす、と素朴に信じていたのです。春になり、よみがえった樹木の霊魂の恩恵にあずかるために、5月1日に五月の樹や五月の柱(メイ・ポール/Maypole)を立て五月祭を祝いました。この習慣はイギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパ各地に最近まで残っていたが、今では珍しい風習の1つとなったようです。
ところが、南ドイツ、ミュンヘンに向う途中の沿道で数回もメイ・ポールを見ることができました。少し遠い場所で車窓から細部は分かりませんが、高い木のポールの先端にボンボリのように丸い形のものが付いていた。ミュンヘンとその周辺地域は保守的な性格だそうですが、それが故に、欧州の古風な習慣の1つを見ることが出来たのでしょう。
注: 樹木の霊魂に基づく欧州の習慣は違う形の習慣ともなりました。それが日本にも入っています。

ミュンヘン: ミュンヘンに近づくにつれ雨が降ってきました。市内は土砂降りでした。

雨のニンフェンブルク城: 18:00 予定外でしたが、バスはバイエルン王家の夏の離宮、ニンフェンベルク城の前でカメラ停車をしてくれました。土砂降りに近い雨のなか、傘をさしての撮影でした。 ニンフェンブルク城
18:10 出発。夕食のビアホールに向います。

夕食(ビアホールでドイツ料理とショー): 18:20 激しく降る雨の中、バスからビヤホール入り口に駆け込みました。中央に大きいホールがあり、左側が広いビアホールになっている。そこの入り口の左側がショーのステージで、その前に団体用のテーブルが2列に長く並べられていた。我々は舞台に向って左の最前部のテーブルだった。(ここは有名なホーフブロイハウスではなく、名前も覚えていないミュンヘンに数多くあるビヤホールの1つです。)

ミュンヘン・大ジョッキ(1リットル)
各自の席に落ち着いたころ、直ぐにスープが運ばれ、次に1リットルのビール・ジョッキが運ばれてきた。何十年ぶりになるだろうか、久々に大ジョッキを手にしました。
アイさんが手を回したのですが、ステージの楽団マスターがマイクに向って誕生日の2人に名前付きで祝辞を述べてくれました。「ホクギョウ・サ〜ン、ハッピーバースデー!」 どうしたら良いのか分からず、ドギマギ、モジモジ、嬉しかったですネ。ミュンヘンでドイツ人からの祝辞は最高のプレゼント。ダンケ、プロージット、カンパイ!

舞台寄りの席は友人2人で参加した熟年女性だった。今まで大人しかったが・・・。今晩は違う。「誕生日、おめでとぅ〜!」 ジョッキを合わせる。「何歳になった?」「21歳!」 それから、事ある毎に、「誕生日、おめでとぅ〜!」 ついに99歳になった(中はかなり飛ばした。) さらに数回、「誕生日、おめでとぅ〜!」 夕食とショーが終わって帰るとき、誰かが 「貴方、102才ネ。」 こわいもので、ちゃんと数えている人がいた。

ビールは口当たりが良くて下戸にも飲みやすかった。美味しいと思いました。でも、半分飲むのがやっとでした。食べ物はディナーとは言え、美味しいソーセージにザワークラウトとポテトでした。多少はほろ酔い加減になった7時頃、カメラマンが写真を撮って回りました。さすがプロで、何も言わずとも夫婦はペアーで、友人同士は個々人で撮影しています。帰る間際に、同じカメラマンが写真入りキーホールダーを1個千円(日本円)で販売した。皆さんも我々も買いました。全員揃っての記念写真よりも喜ばれるかも知れません。

写真撮影が終わった頃からステージではダンス音楽が始まった。最初はビールを飲みながら聴いているだけ、しかし、「誕生日、おめでとぅ〜!」の女性2人が舞台で踊り始めた。ダンスが特に上手い訳でもなさそうだが、ムード解きほぐしの腕前は抜群でした。次々に後続者が現れ賑やかなことでした。

その後に、民族衣装のドイツ人女性たちの出番でした。彼女達が歌い踊りました。
黒い色の棒状のもの1本を両手で持って輪をつくり、この地方の伝統的な踊りを披露してくれました。写真などでは縄飛びをしているように見えますが、黒い輪は踊りの小道具です。有名な民族舞踏のようですが、名を知りません。
次にサイズの違う沢山のカウベルをテーブルに載せて持ってきた。大きさの違うカウベルは異なる音を出す。これで音楽を演奏するのです。無比の音楽大国ドイツで、このように単純で素朴な演奏を聴こうとは・・・。ドイツ民謡に続いて、「サクラ」を演奏しました。何か、少しジーンときましたネ。
最後に木琴の演奏です。これまた、本格的シロフォンにあらず、素朴な楽器でした。

日本でも外人観光客向けショーは我々の通常の感覚とは少しズレがあり、気恥ずかしいというか、特殊な目で眺めるといいますか、多少の蔑視の傾向があるようにすら感じられます。当地、ドイツでも同じかな〜、と思わずにいられませんでした。

また陽気なダンスミュージック。例の女性2人に引き続き半分くらいは前に出て手を繋ぎ適当に体を動かして踊り始めました。
隣のテーブルは別のツアーが遅れて到着していた。フランクフルトで入国しロマンチック街道を見てミュンヘンでした。観光初日の夕べで未だ互いに馴染んでいない。そちらのメンバーも呼び込んでのダンスとなりました。それなりに賑やかなミュンヘンの夕べでした。
隣テーブルの別ツアーの人が言うからに、「何か、会社の団体かと思っていました。」 我々のグループはそのくらい互いに馴染んだ感じになっていたようです。でもネ、ムードに乗って騒げたのは日本人のみだったからでしょうね。 夕食(ビアホール、ドイツ料理、民族ショー)
20:10頃、お開き。

バスでホテルへ: 20:19 出発。ミュンヘンは未だ雨でした。宿泊地ランズベルクは55kmほど離れています。西に向って走っていると次第に雨が止み、地平線の彼方には夕日の赤い光りが漏れてきました。明日は良い天気かもしれません。

ランズベルクのホテル(メルキュール・ランズベルク): 21:10 到着。新しい感じの建物でした。例によりロビーで部屋割りを待ちました。我々は106号室(2階)になった。部屋のキーはカードキーの一種なのですが、変ったものでした。部屋には既にスーツケースが運び込まれていた。

建物と同じく部屋も真新しい感じで快適でした。スペース的にもスーツケースをなんとか拡げたままに出来ました。スイスのリゾートホテルでは、一見ダブルベットのように、2つのベットを離さずに並べられていました。が、ここドイツでは離れて並べられています。このホテルも電気器具類は金属製であっさりした部屋造りになっていました。 ホテル(メルキュール・ランズベルク)

珍しいのは、テーブルの上に白ワイン(大)1本、(小)2本、グラス4個があり、下の冷蔵庫にはソフトドリンク類とリカー類がびっしりと入っていた。コンピュータ管理ではなく使用分は自己申告である。ただし料金表はドイツ語でした。
他に、意見記入のアンケート用紙もあった。こちらはドイツ語(黒字)と英語(赤字)だった。

ビールを飲んだためか、疲労感と眠気が強かった。しかし、ソーセージとザワークラウトの夕食では空腹で・・・。トラベルポットで湯を沸かし番茶を入れました。朝食の時に貰っておいた小型のパン2つにたっぷり蜂蜜をつけて食べ、やっと落ちつきました。少しずるい感じも免れませんが、日中にパン類の購入が出来ないツアーでは、朝食時に小型のパンを頂戴しておくとこんな夜に助かります。

ドイツ観光の初日はほぼ雨でしたが、主要観光先シュバンガウは薄曇でした。ラッキーだったとしか言いようがありません。早めに就寝。

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(2017.03.21 表示改善)(2007.06.01 改訂版)(2003.08.02 公開)