トルコ:バス周遊の旅 (1日目/2002年11月21日[木] )
イスタンブール着、バスでチャナッカレ
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トルコに出発の朝:
05:00 起床。今日はエジプトからトルコに出発する日です。カイロ空港発の航空機は11時過ぎで、ゆっくり休んで良いのです。ところが、それが難しくなりました。のっけから恐縮な話題でお恥ずかしいのですが、お腹の調子が悪くなり目覚めました。用心して生野菜や果物も殆ど食べなかったにもかかわらず、です。幸い腹痛や発熱は無かったのですが、手持ちの薬では治まらず、お腹で2日半も苦しみました。その経過は左メニューの「1/3はウーン、GERI, GERI?」で詳しく説明してありますので、御覧になってください。中近東・北アフリカの旅行を計画中で胃腸に自信(?)のない方は必読です。
なんとかツアーと行動を共に出来ましたので、体調はほぼ無視して旅行記を記述します。

06:45 ワイフ起床。 エジプト旅行前半の疲労が出たのか、ワイフも元気がなく頭痛を訴えました。直ぐアミノ酸主体の栄養ドリンクを飲んだりしていましたが・・・。それでも最終的なパッキングがあります。機内用のセーター類を小型バックに入れ、急ぎパジャマ等の不要品をスーツケースに詰め込み廊下に出す準備を済ませました。

07:30 ツアコンのFさんのモーニングコール。
07:45 ワイフの体調は極度に悪化し、ベッドに横になった。少しでも眠ると良いのだが・・・。
08:00 モーニングコール。
08:25 ドアーがノックされた。ホテルマンが各ルームを回り、ミニバー使用を口頭で確認したのです。使用なし、と伝えた。これでチェックアウトの時間はかなり短縮されるでしょう。
08:35 ホテルがスーツケースを集めにきた。この頃までにワイフは元気をかなり取り戻していました。
08:40 朝食。

レストランでは元気に振る舞いながら軽い朝食を済ませた。ミルクは少量、ドライフルーツ入りのコーンフレークが主で、他にパンとコーヒーでした。トルコ旅行を終えるまで、この快適なレストランともお別れです。

09:00 部屋に戻る。
09:10 忘れ物の有無を再確認して部屋をでる。
09:15 ロビーにて現地トラベル会社のMさんに部屋の鍵を返す。これでチェックアウト完了。
09:50 バスはソネスタ・ホテルを出発しカイロ空港へ向う。
カイロ空港第一ターミナル:
10:15 空港到着。エジプト人ガイドのAさんは、「日本人にカイロ空港の説明するのが恥ずかしい。古くて不便です。」 でも、マア、用は足りる。搭乗券を受け取り、待合室にて出国カードを記入。その後、待合室キオスクで時間つぶし。土産に利用できるエジプト風マグネットが多数あった。帰国の時に購入することにした。

10:45 出国手続き。 出国審査官のブースが3〜4個並んでいる。左の空ブースを除き全て長い行列で少しもすすまない。左の壁側に平机があり係官が2人いた。ハンマー型のスタンプで広い空間に響き渡るパン、パーンという大きな音をたてている。ここでも出国手続きをしていたのです。そこに移動しました。待っている間、左の空ブースの通路を見ていると、空港関係者らしからぬ人達が自由に出入りしている。旅行社の許可取得済みの人達かも知れませんが、それにしても・・・。驚いたり呆れたり。

出国手続き後、搭乗口を確認してからトイレに行きました(要チップ・50ピアストロ)。階段を地下1階まで下りたら、右手に十畳ぐらいの空間があった。その右側に女性用入り口、奥向かいに男性用入り口があるだけの殺風景な空間です。そこは我々日本人にはトイレ施設の一部に思え、不潔な場所と考えるのが通常の反応でしょう。しかし、布を敷き、例のイスラム教のお祈りをしている数人の姿がありました。これには私も驚きでした。

ツアー参加者にも奇異に感じた人達がいて、後日トルコ(イスラム教国)でガイドに尋ねた人がいました。「イスラム教の人はトイレでもひざまずいてお祈りするのですか?」「カイロの空港のトイレ?本当にトイレでしたか?清潔な場所ならどこでもお祈りしてよいことになっています。」 その場所はトイレの入口がある男女共用の公共空間で、「トイレの一部」ではないとも言えるのです。未知の世界ではとかく誤解が生じ易いものです。

広くはない搭乗口待合所はとても混んでいました。入り口近くの椅子に座つたら、友人同士で参加している熟年女性と雑談となった。海外旅行は年2〜3回、行く先を見つけるのに苦労するそうです。頻繁に出かけるとこうなるのですね。

11:15 やっと搭乗手続きが開始、バスで飛行機に行く。Boeing 737-500型機だった。
11:30 主翼近くだったが、珍しくもワイフとは離れた通路側の座席だった。満席状態で機内が狭く感じられる。日本では考えられないが、毛布のサービスがなかった。
11:58 40分以上も遅れてエジプト航空イスタンブール行は動き出した。中近東では1〜2時間の遅れは普通とも聞きました。飛行時間は約2時間です。乗務員はエジプト人でスチュアート3人、スチュアーディス1人でした。昼食は関空・カイロ便と全く同じなので、今度はステーキをオーダーしました。柔らかい牛肉をよく焼いた(?)ものですが、味はマァ可も無く不可もなく・・・。
食後しばらくしたら、手足がゾクゾク目がショボショボしてきました。カゼのようです。いつもの風邪薬をのんだら短時間で治まりました。

機内から地中海とエーゲ海:
カイロからイスタンブールと言えば大移動と思いがち。しかし日本なら新千歳空港から関西空港の感じでしょうか。距離はともかく、多くの文明を育んだドラマの海、凄い場所を飛ぶのだという気持ちだけはありました。

歴史上はギリシア文明とかヘレニズムと総称されても、実際には東地中海、エーゲ海の諸島、アナトリア西部に花咲いた文明だったのです。1820年にミロス島で発見された有名な「ミロのヴィーナス」は紀元前100年頃の作といわれます。また、1863年にエーゲ海東北のサモトラケ島で発見された「サモトラケのニケ」は先の「ミロのヴィーナス」と共にルーブル美術館の至宝といわれます。ニケはギリシャ神話に於ける勝利の女神で、スポーツ用品ブランドのナイキはこの女神の名前に由来するそうです。自然科学の母体とも言えるギリシャ哲学もこの地域で芽生え発達したのでした。世界史に大きな影響を直接・間接にもたらした由緒ある場所を飛んでいるのです。

遠い昔ではなくとも、有名な戦争映画「ナバロンの要塞」の舞台でもありました。ご記憶の方もおられることでしょう。第二次世界大戦中のこと、エーゲ海に浮かぶナバロン島の断崖中腹に作られたナチスの堅牢な要塞に対する攻略作戦、巨大大砲を備えたこの砦に潜入し爆破する連合国側の選抜隊員の活躍の物語でした。

実は、消石灰を塗った白壁の家がある昔変らぬ島々を上空から一目でも見たかったのですが、これは適いませんでした。
イスタンブールのアタチュルク国際空港に到着:
14:00 イスタンブール・アタチュルク国際空港に到着。ボーデングブリッジの設備もあり、空港の建物は新しく近代的で、各種の設備と雰囲気も国際空港らしいものでした。日本から直接トルコに飛ぶ場合は、トルコ航空と日本航空のコードシェアーによる直行便が週3回あり便利な空港です。
建物内をかなり歩き、入国審査ブースに並びました。手続きは、入国カード無し、パスポート提示のみ、です。次は広いバゲージ・リクレームですが、ここは壁沿いに銀行、レストラン、免税店(DFS)等があって、公共広場の感じがします。ツアコンFさんから集合時間と場所が指定された後は自由行動になりました。

直ぐトルコリラを購入しましたが、何も言わなくとも銀行窓口は観光客に必要な少額紙幣とコインで渡してくれました。両替手数料は3%でした。 ハイパーインフレのトルコでは紙幣の額面が桁違い。知ってましたが、やはり驚きでした。紙幣に印刷してある数字の右側の「0」を4つ指で隠し(つまり1万で割り)、さらに見える数字を適当な数で割ると日本円に換算できます。一番の小額紙幣は250,000トルコリラです。この紙幣は日本円で15〜20円位なものでしょうか?(2003.02.22 infoseek の計算では18.31円でした。) ハイパーインフレの猛威の例ですが、2000年には使用されていた100,000リラと50,000リラの紙幣は既に消滅したようです。トイレチップは今のところ25万リラ紙幣一枚で良いようでした。

〔追記〕トルコのハイパーインフレは収まり、デノミの実行でお札も一新されています。〔追記・終り 2008.3.19 〕

飛行機内と比べ空港内は暑くて湿度があり大汗が吹き出てきました。こうなるとブラブラ歩きも難しく椅子で休む以外にありません。・・・。時間となり、スーツケースの受け取り場所に集まりました。トルコ人ガイドのニハットさん(Nさん)が出迎えにきていました。この人が最初から最後まで我々の案内を務めてくださるスルーガイドです。まだ若い独身のトルコ人男性で日本にも留学していました。上手で明快な日本語を話すので分かり易いのです。頼りになる現地ガイドの第一印象でしたが、その通りでした。

スーツケースが出てきました。各自、自分のものを確認して報告。あとは全てポーターがやってくれます。

14:48 現地ガイドNさんの案内で空港建物を出ました。近くに駐車していたトルコ大手観光バス会社・ドラッグツアーの専用バスに乗車し、スーツケースの積み込みを待ちました。これからマルマラ海の欧州側を西に向かい、そしてゲルボリ半島をダーダネルス海峡沿いに南方向に走るのです。フェリーで海峡を渡り、トロイ遺跡に近いチャナッカレまで330Km以上の長いバス移動です。
バス移動(イスタンブールからチャナッカレ):
アタチュルク国際空港はイスタンブール市街から10km以上も西にある。バスはイスタンブールに寄ることなく、直ぐ反対の西に向った。暫くはマルマラ海がみえる丘陵地を行く。道路と海はかなり離れているが、その間の傾斜地には多くの立派な住宅がある。この地の海岸沿いの細長い地域はトルコの最高級別荘地であり、トルコ人のみならず金満家の欧州人が別荘をもっているそうである。海岸から離れる程に価格的には徐々に庶民的なものになるそうだ。 小麦畑とか向日葵畑が多い沿道にも、一戸建て住宅の雰囲気も残した集合住宅が所々で新築されている。イスタンブールで仕事をして週末は別荘生活を楽しめる人達が購入するのでしょう。ここだけではなく、エーゲ海沿岸部でも別荘の説明がありました。ハイパーインフレのお国、小中学校の先生クラスですら別荘を持ちたがるとか・・・。

砂漠の国エジプトから来て、ここの景色を見るとホッとするものがあります。木が多い、作物が作られている、丘陵地である、潤いがある、何となく日本人には親しめるのです。豊かな欧州の東の果てもやはり豊かな土地、という印象でした。

場所も時刻も忘れましたが、途中で1度休息がありました。整った街並みの小都市のはずれでした。20分程休みましたが、初日なので皆さんも買い物は無かったようでした。現地ガイドとバスの運転手はダーダネルス海峡のフェリーに間に合うか気にしていました。19時ゲルボリ発に間に合わないと次の出発便には1時間もあるそうです。かなりバスのスピードは上りました。

テキルダーという町からは南西に向かい、暫くすると細長いゲルボリ半島になります。話を第1次世界大戦の昔に戻すと、この半島はイギリスの対ドイツ戦略に於いて重要な地点とみなされました。1915年のこと、英国の若き海軍大臣ウィンストン・チャーチル(後の英国首相、当時36才)が西部戦線の膠着状態を打開するため東側からドイツを攻略しようとダーダネルス作戦を立案し実践したのです。今は「ゲルボリ(Gelibolu)の戦い」といわれますが、英国にとっては不名誉で記憶から抹消したい戦史となりました。2度に渡る大失敗の負け戦となってしまったのです。

トルコ近代史の偉人は唯1人、ムスタファ・ケマル・.アタチュルク(Mustafa Kemal Ataturk)という人物です。 ムスタファは1881年春ころ誕生、父親を幼少の頃に亡くし母親に育てられた。1893年に陸軍幼年学校に入学したが、優秀な成績により数学教師から「完全」を意味するケマルという名前を与えられたのだった。 1905年、ムスタファ・ケマルは、イスタンブールの陸軍大学を卒業して大尉に就任し、ダマスカスに赴任した。皇帝スルタンの独裁政治に対抗するために、仲間と「祖国と自由」という秘密結社まで結成したそうです。

さて、1915年にイギリスのチャーチルが構想した連合国のダーダネルス海峡作戦が始まりました。この戦地でムスタファ・ケマルはトルコ軍を相次ぐ戦勝に導き、国民的英雄として賞賛されました。1916年には35歳にして将軍に抜擢され、アンタリア東部の村を解放に導くことにも成功したのです。第1次大戦を敗戦国として終えた後に、独立を勝ち取るためのトルコ解放戦線に於ける活躍も大きかったとされています。

1922年にオスマントルコが崩壊しスルタン制が廃止となった後に、ゲルボリ半島の防衛戦で大きな功績を残したムスタファ・ケマル将軍はトルコ共和国の初代大統領になった。その後は祖国の近代化に大きな力を発揮したのです。結果として再び尊称を与えられ、「トルコの父」を意味するアタチュルクと呼ばれるようになりました。

M.K.アタチュルク大統領の改革は、政教分離、遷都、ローマ字の導入、トルコ帽の禁止、婦人参政権、暦と時間制度を変更(休日は金曜から日曜になった)等々以外にも多くがあり今日も生き続けているのです。彼の改革がトルコをして他のイスラム教国とは全く違う国にしていると言われます。歴史に「もし」は禁句でしょうが、「もしムスタファ・ケマルがチャーチルをゲルボリ半島で阻止できなかったら?」 そんな場所を走ったのです。

19:00 ゲルボリ発のフェリー出発。スピードを出して走った甲斐があり、ぎりぎりフェリーに間に合いました。フェリーは船首と船尾が同型で、車は後部から乗船し前部から下船する普通のタイプです。取り立てて大きくはありませんし、どちらかと言えば小型船でしょう。ダーダネルス海峡は風もなく静かでしたが、30分の航海中はバスに留まりました。海上の夜景が取り立てて綺麗ということはありません。
19:34 アジア側の町(ラプセキ)に到着し直ぐ上陸した。暗い国道をバスはチャナッカレのホテルに急ぎました。
ビュック・トゥルバ・ホテル( (Buyuk Truva Hotel):
20:30頃にチャナッカレのホテルに到着。アタチュルク空港から330Km以上の走行で、正直いって疲れました。 スーツケースはポーターにまかせて、我々は直ぐ1階のレストランでビュッフェ形式の夕食となった。適当に消化の良さそうなものを少量づつ皿に盛った。パンが美味しかった。我々は早々に夕食を切り上げ、皆さんに簡単な挨拶をして先に自室に行った。
MINI BAR、ROOM NO [○○○]
During your stay kindly complete and sign this form daily
and leave it on the Minibar.

STOCKBRANDSOTYPRICETOTAL
2EFES BEER.1,750,000.
2PEPSI COLA.1,400,000.
2SEVEN-UP.1,400,000.
2FRUIT JUICE.1,400,000.
2SODA/MINERAL WATER.1,050,000.
2SU/WATER.750,000.
2WINE.3,000,000.
2NUT.1,250,000.
2CHOCOLATE.1,250,000.
2YENI RAKI.2,000,000.
2VODKA.2,000,000.
2COGNAC.2,000,000.
2FIRST DUO.500,000.
2SIPSEVDI.500,000.
注: 持ち帰った料金表にホテル名が無く、
トロイの木馬が印刷されているので、
チャナッカレのホテルのものと思います。
間違えていたら、スミマセン。

ロビーから階段を上った左手の部屋だった。近くの廊下に全員のスーツケースが運び込まれていた。我々のスーツケースを選び出し、部屋に運んだ。エジプトのホテルとは格差があまりにも大きく、第一印象は少し失望物でした。田舎町の69室の小さなホテルなのです。が、ここはトルコのホテル学校が運営していて、グレード☆☆ (日本のガイドブック) の割りにはサービス面で行き届いているそうです。質素で狭くとも、確かに不潔な感じはしませんでした。一旦落ち着けば何も気にならず、明朝は早いので眠るだけのことです。

トルコの電圧は220VでコンセントのタイプもC型で間に合います。デジカメ用電池は充電です。トルコのホテルも電気ポットはないのでトラベルポットが役立ちました。ご承知の通りのハイパーインフレなので、ミニバーの値段表を記載しても値上で直ぐ役に立たなくなるでしょう。マァ、記念的な意味で以下に記載しておきます。

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