トルコ:バス周遊の旅 (3日目/2002年11月23日)
聖母の家・エフェソス遺跡・バムッカレ石灰棚
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ホテル出発まで:
05:00 ツアコンのFさんのWakeup Call.
05:30 ホテルのモーニングコール
06:00 スーツケースを廊下に出す。

06:10 朝食は昨日の夕食と同じ地階のレストランだった。節電でロビーと階段が非常灯のみで暗い。が、無駄使いしない一流ホテルに感心もした。
06:30 現地ガイドNさんはレストランの奥のテーブルで食事中だった。食前のレモン汁トルココーヒーをレストランに作ってもらうように依頼する。さらに、トルコの下痢止め薬の購入も頼みました。今日は土曜なので薬屋が開店しているか分からない様子でしたが、幸い引き受けてくれました。
形だけの朝食をすませてレストランを早々に出る。
06:55 ホテル出発。雨。

バス移動(エーゲ海沿い):
イズミールから暫くは半島の付け根にあたる内陸部を走る。再び海岸に出るとセルチュークという町があった。ここから南の海岸はエーゲ海文明以後の遺跡がとても多い。エフェソス、クシャダス、アリエネ、ミレトス、ティディフという錚々たる都市遺跡が海岸沿いに点在しています。古代のこの地はイオニア人と呼ばれるギリシア人一派の植民地だったのです。海岸を離れるとエーゲ海には多くの島がある。それらはトルコ領ではなく今もギリシアです。 晴れた真夏にゆっくりするのは最高のリゾートと思われる地域でした。

我々はエフェソス都市遺跡を見学する予定ですが、 バスはまず小高く豊な森の山に登り、キリスト教にとって重要な場所に案内してくれました。

聖母マリアの家:
08:20 聖母マリアの家のゲートを通過。駐車場で下車すると左に郵便局、その先の右に土産屋があった。かなり先に聖母マリアの家という小さな教会堂がある。史実か宗教上の伝承かは分りませんが、キリストが処刑された後に聖母マリアはこの地に渡りました。そしてここで生涯を終えたとされています。その跡に教会堂が立てられ、多くの信者の巡礼地の1つになっているそうです。巡礼者が多い故のキリスト教的な俗信と思いますが、この教会の下にある泉の水を飲むと病気が治るとか・・・。

難しくよく分らない宗教上のことで恐縮ですが、この地、古代エフェソスでキリスト教に於ける聖母マリアの位置付けに関連し、歴史的に重要な会議がありました。聖母マリアを「キリストの母」とは言えても「神の母」とは言えない、とした宗教上の見解が持ち上がり、この考えは431年に行われたエフェソス公会議で異端と決められました。すなわち、聖母マリアはテオトコスつまり「神の母」の尊称をこの地で公式に認められたのです。

我々は聖母マリアの家を拝見し、土産屋を覗いて絵葉書を買い、ワイフが日本に葉書を送っただけでした。 聖母マリアの家
トルコでは珍しくも銃を持った軍人が郵便局の近くで警備していたのが不思議に思えました。後で知ったのですが、トルコの警察と軍は棲み分けして治安維持に当っているのです。人口2万以上の行政区は警察の、人口2万以下の町と村は軍の管轄になっているそうです。これを説明されて思い出すのですが、確かに農村地帯では時々警備の軍人の姿を見かけましたね。これらの警察・軍の役割は、日本の警察とは目的と機能がかなり違うように思えます。
08:50 出発。山中の道を6キロ離れたエフェソス遺跡に向かいました。
エフェソス都市遺跡:
古代エフェソスは紀元前11世紀にイオニア人によって始まった都市国家でした。当初のエフェソスはアルテミス神殿跡の場所にあったが、アレキサンダー大王統治の時代に大洪水があり、現在の遺跡の場所(近くの山麓)に移動したそうです。ヘレニズム時代に花咲き、ローマ帝国の時代にも繁栄を続けた息の長い都市国家でした。現在のエーゲ海沿岸では原型を最もよく留めている最大規模の遺跡と言われます。

09:00 バスは駐車場に着きました。見学コースとしては(1)大劇場を最初に見学するものと(2)最後に見学する二通りがある。いずれも見学する遺跡と散策路は順序が逆なだけで同じです。我々は(2)のコースで、まず広く明るく開けた谷間に行きました。元々岩山のためか木はあっても茂った感じではありません。遺跡らしい低い連続したアーチなどが遠くに見えるだけでした。

少し行くと、古代都市で使用された本物の素焼き土管が積まれていました。ここの古代物はかなり大きめですが、筆者の子供時代の家で下水管として使用していたものとそっくりの形でした。今でこそ下水道も良くなりましたが、50年前の戦後しばらくは日本の田舎町でも古代エフェソスと同じく素焼き土管で生活用水の排水をしていたのです。

右手には折れた大理石の柱がたくさん残っています。その向こうの斜面に小規模な円形劇場らしきものがありました。紀元後2世紀に作られた音楽堂、つまりオデオン(Odeon)で1400人収容出来るそうです。議事堂としても使用された、という説明でした。

屋根のある音楽堂の建設はギリシアのアテネに始まるとされますが、ローマ時代になり小型の円形劇場の形になりました。建築学の話題ですが、ローマ帝国時代の建造物とそれ以前のものを見分ける簡便な方法があるのです。ローマ時代の建造物の特色はアーチを使用しています。つまりトンネルなどの天井部分を上手くカットした石の組み合わせでアーチを作って支えている。ローマ以前にはこの技術がなく、柱に長い石を乗せる形になるのです。オデオンには半円形の座席上部と下部通路にアーチがあります。これらがオデオンがローマの技術で作られたことを如実に示しているのです。我々はここで写真など撮影しましたが、結構人の出入りが多く意外にも落ち着きませんでした。

オデオンの下部通路のアーチを抜けると大理石の柱が山側に幾つも残っていた。僅かですが原型に近いものもあり、ここにはイオニア式、ドーリア式、コリント式の全ての種類の柱があったそうです。この場所から、有名なケルスス図書館に至るクレテス通りが始まりますが、ここで雨が降り始めました。傘をさして、この道沿いの遺跡を見学しながらエフェソス都市遺跡のメーンストリートを図書館まで歩き下るのです。

まず、メミウスの記念碑と言われるものがあった場所ですが、装飾物は失われています。医学のシンボル、蛇のレリーフとか、その向かいには「勝利の女神ニケ」のレリーフもありました。現地ガイドNさんの説明では、このレリーフがスポーツ用品ナイキのロゴの原型となったそうです。大雨になり、ツアコンのFさんが差し出した傘の中でNさんは説明の大熱弁でしたが・・・。

かつてのメーンストリートをブラブラ道を下るとハドリアヌス神殿(130年ころ)が右手にある。女神ティケのレリーフがあるアーチなどが残っているが本物は博物館にあり模造品とのことでした。その向かいには綺麗なモザイク文様の歩道が残っています。全く優雅な道を古代エフェソスの人達は歩いたものです。さらに道を下り、図書館前の広場の右手前には、水洗式公衆トイレが完全な形で残っています。ガイドブックとか幾多のオンライン旅行記でも、写真付きで説明している有名公衆トイレです。間仕切りは無くズラリと並んで座り、談笑しながら用を足したようです。向かいは池と噴水になっていて、「オナラ」の音だけは噴水の音で消音したとか・・・。この種の事は人種を問わず気軽に笑いながら話題にするようです。ただ不思議に思ったのは、欧州の宮殿でもトイレ設備が十分ではない、あるいは設備がない、処もあったと聞いています。文化的な先祖がこんな立派なもので手本を示しているのに、何故でしょう?

ここを出たら豪雨となりました。慌ててケルスス図書館(135年完成)の下に逃げ込みました。お陰で図書館ファサードの白大理石の見事な細工を間近で観ることができました。コリント式の柱一つでも素晴らしく繊細な作りなのです。ここに行ったら、広場で記念写真を撮るだけではなく、階段を数段上がり、ファサードの上部を下から眺めてみると違う印象が残るかも知れません。女神らしき彫刻なども素晴らしいものでした。ここは12万冊の蔵書があり、エジプトのアレキサンドリア図書館と昨日見学したペルガモンのアクロポリス図書館に次いで、世界3大図書館の1つだったそうです。

この後は大理石通りという広い道を歩き大劇場に行く。雨は小降りになり、大劇場に着いた頃には止んでいた。 途中に面白い「古代の広告」がありました。道路の端に「左足、女性、ハート、小型の長方形」が書かれているのですが、「左に行くと、可愛い娘が、心からサービス。お金持ってきてネ」と解釈されるそうです。(古代エフェソスに四角い紙幣があったのか、等の疑問はヤボでしょうね?) これは売春屋の道標・広告ですが、老若男女、熱心に説明を聞き、その図柄を観ていました。庶民的で面白く興味が湧くのでしょう。金持ちのボンボンは「図書館で勉強する」といって出かけ、近くのここで過ごしたとか・・・???。たまに居たかも知れませんが、これは現代人が観光客向けに作ったジョークでしょう。

山の斜面を利用して作られた大劇場の中に入りました。勝手に1人で中程まで登ってみました。実に大きく、観客席66段で収容人員は24000人と言います。東京ドームは完全円形で55000人収容と発表しています。この大劇場は半円にも満たないのですから、半分のサイズの東京ドームと同じと表現できます。古代人の技術も捨てたものではありません。これを作った人間のスケールだって今の人間よりも大きいかも・・・。ここは各種の演劇の他に、全市民が参加できるデモスという議会も行われたそうです。ギリシアのアテネで紀元前5〜4世紀には既に成立していた都市国家での市民参加型民主主義(デモクラシー)がアジアの都市国家エフェソスでも行われていたのでしょう。 いろいろと感心して大劇場を後にしました。

エフェソス都市遺跡には、見学した場所以外にも公共浴場、体育練習場、競技場、市役所などの遺跡も残っているそうです。港まで続いた巾11mのアルカディアン通りを少しだけ歩き、右に入り、松ノ木の場所から大劇場の写真を数枚撮影しました。ここは一番良く撮れる場所と奨められたところです。天気が良かったら、と悔やまれます。 エフェソス都市遺跡
この松並木をかなり行くとバスの駐車場です。その手前の公衆トイレに寄りましたが、グリーンの見事な大理石を潤沢に使った凄い感じのところでした。日本なら最高級ホテルでないと難しい・・・。

10:30 エフェソス遺跡を出発。アルテミス神殿の反対、クシャダスの方向に向った。
10:45 革製品の店・到着。
革製品の店:
入り口右側が50人位が座れるファッションショーの部屋だった。直ぐショーのBGが大きな音で流れ始める。若い男女のモデルが次々と新作の皮製品を身につけてステージに現れた。一種独特の切れ味のある動作と歩き方、遺跡ばかりだったので、この音楽と雰囲気はよい気分転換でした。頭がグィッと現代と現実に戻ったようでした。そのうち、熟年男性と若い女性が1人づつ選ばれ奥につれていかれた。モデル役を務めるのだ。2人とも変ったコートを着せられてステージに出たが、素人ならではの面白い動きで盛んに笑わせていた。

次は入り口左側の売店に「ご案内」となる。男性用、女性用ともコート、半コート、ジャケット等々豊富な商品が置いてあった。本来は製造会社で製品はイタリアに輸出しているそうです。小柄なトルコ人が「当店の革製品がいかに優れているか」と解説のセールストークをする。マア、上手な日本語の部類ですが、少し時代がかった感じで聞いていて面白かったです。この人、時々「何々は・・・でごぜいやす」と言うのですが、トルコ弁でしょうか。

男性用では「シルクレザー」と銘打った、子羊の皮の中から特別に薄い物だけを使用した半コートがお薦めでした。確かに素晴らしく薄く軽いものでした。衝動買いに近いのですが、この薄手の半コートが欲しくなり買ってしまった。まず自分で価格交渉をして幾分下げさせ、次に現地ガイドに交渉してもらって、結局は15%くらい安くなりました。袖が長かった。これは直して昼食レストランかホテルに届けてくれることになりました。
予定外の買い物でしたが、今では良い買い物だったことが分っています。着心地がよくて頻繁に着るのです。しかも日本のデパートにはこの薄さのコートは見当たらず、近いものでも結構な値段でした。
この革製品の店はかなりの売上だったと思います。女性の半数以上がコート類を買ったようですし、小物類を含めると大勢が何かしら購入していましたから。牛皮とか羊皮の衣類は日本でも随分と売られていますが、皆さん何かしらの違いに気付いて買ったのでしょう。

蛇足ながら、現地ガイドが言うように、「欲しくなければ買わなくてよい」のです。群集心理が働く場合もあるでしょうが、買い物をしない人達はそれで押し通しています。

11:45 出発。来た道を戻った。バスの右手遠方の斜面にはエフェソスの大劇場が見えた。

アルテミス神殿跡地:
11:55 アルテミス神殿があった場所で停車。ここはエフェソスの街が最初に作られた場所でした。洪水のため山側の高い場所に移動したのです。今は、神殿跡地に大理石の柱が1本残っているだけ、その柱も少し曲がり今にも崩れそうにも見えました。淋しい感じの場所した。イオニア人の古代エフェソスはアルテミス信仰だったそうで、往時は大規模な神殿だったことでしょう。考古学博物館には発掘されたアルテミスの像があるそうで、類い稀なる多産の女神として作られたもののようです。写真によると、風変わりな女神像です。 神殿跡の後方の丘にはローマ時代、キリスト教時代、イスラム教時代の建物が同時に一望にできます。これは珍しい眺めのようでした。 革製品の店
12:05 出発。
注:後年に知ったのですが、アルテミス女神像はエフェソスから2体が見つかっている。1体は上記の考古学博物館に、他の1体(BC1世紀のもの)はオーストリア・ウィーンの新王宮にあるエフェソス博物館に展示されているようです。ユニークな古代エーゲ海文明の豊饒の女神像や他のエフェソス遺跡の出土品はウィーンでも見学できるのです。( 2004年8月追記/参考文献:JTB、「旅物語、ウィーン・プラハ・ブダペスト」、2001, pp.50-51 )
昼食(シシケバブ):
12:15 エフェスの街中のレストラン到着しました。今日はシシケバブの昼食です。飲み物を注文すると、現地ガイドNさんから「薬が届いた」と連絡がありました。ワイフが直ぐ行って、薬をアチコチ探して購入し届けてくれたNさんの友人に会いました。LOPERMID という薬は20錠入りですが僅かな値段でした。労賃としてのチップも気の毒なくらいしか要求しなかったようです。Nさんはそれで良いと言ったそうで・・・。我々としては感謝する以外にありません。他人の親切が本当にありがたかった1件でした。

トルコ料理というか、中近東料理と言うべきか、有名なシシカバブは小さい肉が串焼きになり皿にのせられていました。 が、あまりにもお上品な作りで物足りなかったのが正直なところです。食後に先刻の整腸剤を2錠服用しておきました。 これがダメなら、もう打つ手はありません。

トルコの下痢止め

13:00 出発。これからパムッカレに向い100Km以上を走るのです。
14:30 休息。あたりは見事なオレンジ畑でした。売店では目の前でオレンジジュースを絞って作ってくれます。 我慢できず、買って飲みましたが、美味しいこと・・・。
15:00 出発。

石灰棚に向う途中、幾つかの村を通過した。その1つに風変わりな習慣を守り続けている村があった。18歳以上の年頃の娘が居る家は屋根に空のガラス瓶をたてる。そこの娘さんと結婚したい男性はそのガラス瓶をピストルで撃ち当てなくてはならない。当てれば娘さんとの結婚が適うのです。大体のところ、誰がピストルを撃つかは事前に分っているのだそうです。バスの窓からも沿道の数軒の屋根の上でガラス瓶を見ることができました。もし10年もガラス瓶が屋根の上にあったら、そこの娘さんはつらいし恥ずかしいでしょうネ。
パムッカレ/ネクロポリス:
16:10 バスは右に平野、左に連山を見ながら坂道を登っていく。台地をしばらく走るとネクロポリスの遺跡に到着しました。ここは古代の墓地で平民から軍人など1000基以上の墓がある。単に石棺を置いたものや、立派な石の家のようなもの、丸い巨大土饅頭のような作りのもの、様々でした。本当に古臭く、苔生しています。離れたところには糸杉の群生もあり、昔から墓地と糸杉は相性が良かったのかもしれません。 昼食(シシケバブ)

16:20 出発。
16:25 石灰棚到着。

パムッカレ/石灰棚:
バスは観光案内所の手前、左に曲がり坂を登るとヒエラポリスに行く分技点の広場で我々を降ろした。この白い石灰棚は長さ約1キロ、高さ約200mの珍しい自然の造形です。石灰質を含んだ温泉が流れていて、長年の間に巨大な石灰岩の皿が段々状に出来ていたり、奇妙な滝の形になっていたりするのです。山口県・秋芳洞の千枚田とは比較にならない大きい皿が段々になっている。さらに、ここは洞窟ではなく青空天井で崖一帯の石灰棚は純白に近いのです。それ故にこの地方はパムッカレ(棉の城)と呼ばれ、古くから知られた場所で聖書にはローマ時代の遺跡と同じヒエラポリスとして出ているそうです。1988年12月にユネスコ・世界遺産にヒエラポリス・パムッカレとして登録され、複合遺産(文化、自然の両者の価値を兼ね備えた遺産)に分類されています。

純白の石灰層は表面の1〜2cmのみで、意外にも薄く剥げやすいそうです。昔はどこでも白い石灰層の上を歩け、自由に温泉に足を浸けることが出来たのですが、それが故に純白の表面の層が傷んでしまい、汚らしくなった。保護のために今は大部分が立ち入り禁止になっています。世界遺産に指定されてからは温泉ホテルを廃止したり観光施設の移動をしたりで、別の面からも湯量の確保と石灰棚の保護に努めているそうです。それでも未だに表面の純白の層が回復していない場所も散見されました。例外的に、観光案内所の近くの石灰棚上部だけは浅い温泉の流れに入れて(注:足のみ)、かなりの距離を歩けます。

前もって、温泉に足だけつかり石灰棚上部を歩く予定は知らされていたので、皆さんは靴を入れる袋を用意していました。我々は足湯の入り口となる場所でグループとは別れました。珍しいとは思いましたが、足を濡らすのが面倒だったのです。その代わり、石灰棚の上部を歩いている人達を上の陸地から眺めました。遊歩道もベンチもあり、湯気が立ち上る浅い温泉の流れを歩く人達を眺めるだけで珍しい風景です。写真も上手く撮れました。

長い石灰棚の中央付近の崖(案内所の北西側)は岬のように突出していて、ここは一回りできるのです。我々はブラブラと写真を撮りながらこの岬を散歩しました。完全な道の所もあれば、温泉湯路の蓋を歩く場所もありました。しかし安全です。女性の一人歩きも見かけましたし、カメラ片手に結構な数の人達が歩いています。しかし、たまたま(?)欧米系の人ばかりで東洋系は見かけません。このような場所では、純日本人メンタリティーに近いワイフは早く切り上げて同行の皆さんの居る場所に帰りたがります。私には何が不安なのか理解が難しいのですが・・・。

純白の石灰棚を染める夕日は見事と言われます。時刻は丁度その頃でしたが、雲が多く綺麗な夕日は残念ながら見れませんでした。それでも多少はその感じに近いものを撮影できたのは幸いとするべきかも知れません。 パムッカレ/石灰棚

蛇足に近いですが、真冬のトルコを旅行する日本人は意外にも多いようなのです。オンライン旅行記でも「雪の中の石灰棚の風景」をすばらしいとして奨めるものすらありました。ただし、当地では「真冬に訪れると雪の白さで石灰棚の純白が全く目立たない」と言っていました。パムッカレの積雪の程度は不明ですが、日本で積雪の冬を毎年過ごす一人として、純白の石灰棚の特色は雪の白さで薄れたり消滅したりする気がします。寒さで湯気は多いかも知れません。冬季旅行の方はその辺は事前に確認する必要があると思います。

観光案内所でトルコ特産種のニワトリなどを見て時間を潰し、バス乗り場に歩きました。

17:10 出発。
17:25 ホテル到着。
ポラット サーマル ホテル (Polat Thermal Panukkale):
部屋の割り当てが決まるまでの待ち時間に、革製品の店から配達されたシルクレザー(子羊の皮)の半コートを受け取りました。後で試着したら袖サイズは丁度良くなっていました。

長く待たされたが、やっと部屋に案内となりました。今までとは異なる温泉のリゾートホテルで、多くの棟があるのです。本館を出て暗い大理石の歩道を歩き、2つ先の棟の右手に案内されました。中庭があり、その回廊ぞいに宿泊用の部屋がある作りでした。奥まった部屋でしたが、中は普通のホテルの感じです。ただ、この部屋は気付くことも多かった。例えば、オンライン・トルコ旅行記でよく指摘される通り、洗面所のシンクには栓が無くて水をためる事ができません。他にも、空調の空気噴出し音が大きく騒々しい、シャワーの出は良いが取り付けが天上近くで極端に高すぎる、外部の音が聞こえる、ドアーのボルトの操作が難しく閉めにくい、等々も何か言いたくなる事柄です。それでも、このホテルのレーティングは五つ星になっています。マア、指摘した事柄以外は問題が無いようでしたが・・・。
時間があったので、お茶を飲んだりして夕食までゆっくり寛ぎました。

18:55 2階ホールに集合。
19:00 夕食(2階ロビー右側のレストラン)。入り口から左側奥のテーブルに席を取った。熟年男性1人参加組もここでした。ビュッフェ形式でレストランの奥まった処に料理が置いてありますが、種類が実に豊富で、食べたところ味もよいのです。昼食後はトルコの整腸剤を服用していました。未だ治まった訳ではないのですが、安心感が湧いていました。それで食欲が出たのです。2〜3度も皿に料理を取り、食べたいだけ食べました。空腹感がかなり募っていたのでしょう。食後に直ぐトルコの整腸剤を再度服用しましたが、これでお腹の調子は完全に治りました。

温泉リゾートのレストランですから、カメラマンが回ってきました。テーブル毎に食事中の写真を撮るのです。高いこと言われるのでしょうが、他の人達と同じく付き合いました。受け取りは明朝とのことでした。久々に十分な量の夕食を済ませ満足しました。夜9時まで同じ2階のバーでショーがあり、One DrinkのオーダーでOKと案内がありました。が、我々は1階のロビーに降りました。

ロビーには土産屋など売店が幾つかがあります。通路には海泡石を彫って売っている職人もいました。見ていると巧に彫刻刀を操り、可愛らしい小型の動物や鳥をつくるのです。ここで彫ったものか、仕入れたものか、実は判然としなかったのですが、本物の海泡石を使用してるのは確かなので、猫とかフクロウとか幾つか土産に買いました。 リゾートホテルの店なので値段は少し高いかもと思いましたが・・・。支払いは米ドルの現金です。

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