旅行記|トルコ:バス周遊の旅 (2002年11月21日〜11月26日)
アナトリア(小アジア)生まれの物語
表紙 | ツアー | トルコ情報 | 始めに | 1日目 | 2日目 | 3日目 | 4日目 | 5日目 | 6日目 | 終りに
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はじめに 
◎ アナトリアの長い歴史の過程で生まれた有名な物語が幾つもあり、旅行の下調べで気付いたものを御紹介します。本物の神話・伝説から史実の混じったものなど、様々です。
◎ 各伝説とか史実などの参考文献(Ref.)を載せたものもありますが、使用した全てではなく極く一部と御理解ください。
◎ 各伝説の内容は著者が調べた範囲でも記述者により随分と異なります。時には信じがたい相違が見つかる場合もあります。このページもその一例を追加しただけかも知れません。以下にご紹介の物語は「孫引き」+「創作」ですから、エッセンスのみ重視してお読み頂くのが適切と考えます。
◎ 日立デジタル平凡社「世界大百科事典」1998と小学館「日本百科全書」1988を用いて、認められた神話/伝説であるか一応のチェックを行っています。
◎ 「アナトリア生まれの物語」は発見しだい追加する予定です。掲載した物語以外にも沢山あるような気がします。御存知の方のご協力が必要です。宜しくお願いします。

触れるもの全てを黄金に変えたミダス王 
Ref.1:ミダス王と黄金
http://www5.tok2.com/home/mirry/story/Midaasu.htm
Ref.2:ギリシャ神話におけるミダス王の伝説
http://www.hitachi-hitec.com/sapiens/015/ajsa0158.html
Ref.3:Googleなどのキーワード検索で数多くの関連頁がリストされる。
物語の背景: ヒッタイト帝国の滅亡後のアナトリアは分裂しました。B.C.900年頃にアナトリア東部に生まれたのがウラルトゥ王国。ワン湖畔に都をおき、約3世紀にわたってこの王国は続きました。
中央アナトリアでは、バルカン民族の一部で紀元前1200年頃にアナトリアに来たフリュギア人が、アンカラから約100キロ離れたゴルディオンを首都としてフリュギア王国をつくりました。紀元前6世紀頃になり、急速に進展した「資本の力」がフリュギア社会に定着し始めました。フリュギアのミダス王の物語は資本を得た者がどんどん金持ちになっても、金にとらわれて実は不幸になってしまうこともある、ということを示唆するために創られたとも言われます。貨幣経済が世界で初めて成熟した地域なのでした。同時期にこの一帯で数量的な時間の観念も登場していることは重要です。
他方、エーゲ海沿岸には、ギリシアからやってきたイオニア人によって都市国家(ポリス)が生まれ、文明の花が開いていました。世界で初めて金属貨幣を使用したのがアナトリア西部のリディア王国(紀元前700年から550年)だったのです。この国にならい、B.C.7世紀後半にはイオニアで初めてのギリシア貨幣が鋳造されたと言われます。

ミダス王の物語: ある日、酒神パッカス(ディオニソス)の養い親である山野の精シレヌスがバラ園に迷い込み、捕まってフリュギアの王宮に連れてこられた。ミダス王は10日に渡ってシレヌスを歓待した上に、バッカスの所まで送り届けたのでした。 シレヌスが戻ったのでバッカスは大喜びでした。そしてミダス王に「どんな願いでも叶えてやろう」と言ったのです。 ミダス王は何よりも黄金が好きだった。「触れる物の全てが黄金になるようにしてください」と頼んだのです。 バッカスは「よろしい」と願いを叶えました。

ミダス王は椅子や壷を金に変え大喜びだった。ところが最愛の王妃に触れたとたん王妃は金に変わり、食べた食物も飲んだ水すらも金に変わってしまった。直ぐに後悔したのです。ミダス王はバッカスの所へ行き、「どうか助けてください」と頼み込んだのでした。バッカスはパクトロス川で身体を洗うように言いました。ミダス王が言われた通りにすると、王の身体は元通りになり、最愛の王妃も以前の娘になったのでした。それから、この川に黄金が混じるようになったのだといわれます(実際に砂金が採れたそうです。)

注1:この話にはバリエーションがあるようです。太陽神アポロンをミダス王が怒らせて苛められたというストーリーも見かけました。
注2:ミダス王は次の「王様の耳はロバの耳」の王様としても良く知られています。
注3:ストーリーとしては、フィリギアのミダス王からリディアのキュゲス王につながる面もありますが・・・。これは伝説と史実の混同の可能性が大です。

王様の耳はロバの耳 
牧神のパンはヘルメスを父親とし、頭には羊の角、顎には顎髭、脚は羊の脚という奇妙な姿で生まれてきたそうです。この神様はイタズラ好きに成長し、大衆に群集心理的な恐怖を与えるのが大好きだった。「パニック」という現代語は元来は「パンのバカ騒ぎ」からきたと言われます。 前述のミダス王は牧神パンの熱心なファンでした。彼は触るものが全て黄金になる願いが叶えられたが、王妃も食事も金になり自分の愚かさに気付いたのです。その願いを撤回した後は、山や野を好むようになって牧神パンを崇めていたのです。

ある時、その牧神パンとアポロン神が音楽を競う事になり、観客と共にミダス王も立ち会った。まずパンが笛を吹き、続いてアポロンが竪琴を奏でた。審判の結果、山の神トモロス審判長の軍配はアポロンに上がったが、ただ独りミダス王が牧神パンに勝たせようとして抗議した。怒ったアポロンはミダス王の耳をロバの耳に変えてしまったのです。

その後、ミダス王はいつも頭巾を被って耳を隠し、人々に気付かれないようにしていました。 しかし整髪の時は頭巾をとらなければならなかった。王のロバ耳を知った床屋には、「他人に言いふらしたら処刑する」と口止めしたのです。昔から「言うな」と言われると言いたくなるのが人情です。ついに我慢できなくなった床屋は井戸の奥に向って「王様の耳はロバの耳」と大声で繰り返し叫びました。不思議にも、その声が町中の全ての井戸に伝わって、井戸という井戸から「王様の耳はロバの耳」という声が流れたのでした。それで町中の人達が王様の耳のことを知ったのです。アポロンを怒らせてロバ耳になったことは隠し、「皆の意見を良く聞けるようロバ耳になっている」と説明したものでした。

ところが床屋1人しかロバ耳のことを知らなかったはず、怒った王は床屋を処刑しようとします。しかしアポロン神も自分を殺すだけの理由があったのに、ロバ耳にしただけで許してくれたことを思い出しました。それで床屋を許したのです。これを知ったアポロンは、「よくぞ床屋を許してやった。お前の罪も許してやろう。」 王様の耳は元の耳に戻りました。

注:このお話も「イソップ物語」の1つ、しかしストーリーにはバリエーションがあるようです。

西欧コインの元祖はリディア王国 
Ref.1:貨幣玉手箱/貨幣の散歩道/第54話 エレクトロンと電子マネー
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_54.htm
Ref.2:三菱ゴールドパーク | 金の情報博物館(三菱マテリアル株式会社)
http://www.mmc.co.jp/gold/museum/jiten.html#kinka_w
Ref.3:コインの起源
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/rekisinonaka/1~16/7coin.html
先にみたフリィギア王国のミダス王の伝説では、バッカスに言われたとおりにミダス王がパクトロス川で体を洗うことで王の身体は元通りになりました。 ミダス王が体を洗ったためなのか、このパクトロス川では昔から砂金が採れました。金の含有量は30〜50%だったそうです(70%程度という説もある)。砂金といっても琥珀(エレクトロン)にそっくりな金と銀との天然の合金(エレクトラム)だったそうです。

紀元前7世紀頃のリディア王国は一兵卒から成り上がったキュゲス王という人物が治めていました。この王様が多くの傭兵達に報酬を払うためにパクトロス川から採れたエレクトラムでコインを鋳造したのが貨幣の始まりでした。時は紀元前670年頃のようです。一説ではそのコインは金が70%で銀が30%の割合だったと言われますが、金と銀を分離する技術はなく自然界の合金をそのまま用いたと考えられています。当時の貨幣は、重量別に1スタテルから1/96スタテルまで8種類があったそうです(スタテルは古代ギリシャの単位、1スタテルは14g〜17g相当)。 計算すると、すごく軽量なコインもあり、小さくて数えるのも大変だったことでしょう。しかし、「1/3スタテルで兵士1人の1ヶ月分の給料」という説明もありますから、実用の貨幣とするに止むを得ない大きさだったようです。

古代の経済活動でも貝殻や石などの原始的な貨幣に始まり、しだいに貴金属が用いられるようになっていたのです。もちろんキュゲス王の時代以前は重量のみで交換する秤量経済に用いられました。しかし貴金属は細分化が可能であり、さらにそれ自体が価値を持っていたので、貨幣として窮極的な価値尺度に変化したのです。ついにリディアのキュゲス王は金銀の合金からリディア王の紋章であるライオンの頭部を表、日付刻印を裏とする貨幣を鋳造するにいたりました。その動機は既に述べました。琥珀(エレクトロン)に似た砂金から造られるのでエレクトロン貨と呼ばれるようになり、特に古代ギリシア人が珍重したといわれます。そして、エレクトロン貨のように、金塊に人物や動物の絵を打刻してつくられる様式がギリシャ、ローマ以降の西洋式貨幣の基礎となったのです。その後、純粋な金を抽出する技術ができて世界最初の金貨をつくったのは、ギュゲスの子孫でリディア王国の最後の王クロッソスといわれます。

エレクトロン貨という言葉は、電気・電子を意味するエレクトロニクスに似ています。実は両者は同じ言葉を語源としているのです。既に指摘したように、エレクトロン貨の素材となったのはエレクトラムと呼ばれる金銀の天然合金であり、この合金の名称はその色彩や輝きが古代ギリシャではエレクトロンと呼ばれた琥珀のそれによく似ていることに由来しています。琥珀は古代の樹脂が地中で化石化したものであり、布などでこすると静電気が発生し、枯れ葉など小さくて軽量のものを引き付ける性質をもっています。16世紀イギリスの科学者で電気を発見したギルバートは、この琥珀(エレクトロン)の性質にちなんで電気をエレクトロニクスと名づけたのでした。

最初の西洋式貨幣であるエレクトロン貨と20世紀末に至って登場が現実と成り始めた電子マネー ( e-money / electronic money ) が語源的に同じであることは誠に興味深い偶然の仕業であります。NTTではエレクトラム・サイバー・ソサエティーと銘打ってそのビジョンの実現に向け活動しているそうです。

注1:パクトロス川の名前は日本銀行サイトの解説では用いられていません。念のため。
注2:Ref.2のサイトでは日本銀行所有のエレクトロン貨の写真が掲載されています。

ノアの箱舟 NOAH'S ARK 
Ref.1:アララト山  <= アララット山の写真
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-ohashi/worldspots/araratto.html
Ref.2:ノアの箱舟は発見されたか:「アララテ山の箱舟にまつわるミステリー」
http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/hakobune.htm
有名な旧約聖書の中の物語の1つもトルコに関係していました。

「ノアの箱舟」の伝説: 紀元前4世紀の2月17日、ノアの600歳の誕生日でした。この日に「ノアの大洪水」が起きたと言われます。人間の堕落に怒った神が大洪水で全てを押し流したのです。しかし神は義人のノアには前もって警告を発していたため、ノアとその家族は難を逃れることが出来たのです。 ノアは神の命令を信じ四角い大きな箱舟を用意しました。その箱舟は、長さおよそ135m、幅約23m、高さ約14mの3層構造という巨大なものでした。ノア一家は食糧を積み込み、また鳥や獣の雌雄各2匹を乗り組ませたのです。 洪水は40日とも、150日とも言われる長期間続き、舟はアララット山頂に漂着したと言われます。しかし箱舟の天窓は高く、中からは外が見えなかった。そこでノアは鳩を放ち、やがてその鳥がオリーブの若葉をくわえて戻ったことから、洪水がおさまったことを知ったという。

アララット山: アララット山(英語名)は標高5615mで日本の富士山より2000m近くも高く、大小二峰に分かれたトルコ東部のアルメニア高原随一の休火山です。頂上付近は万年雪と氷河に覆われ気軽に登山はできません。 このアララット山はノアの箱舟が漂着した場所として世界的に有名で、周辺には箱舟にちなんだ地名が多くあるそうです。南東の都市ナキチュパンは「ノアの着いた場所」、斜面や裾野には「マーセル=破滅の日」とか「アホーラ=(ノアの)ブドウ園」という地名があります。イラン側には「テマニン=(箱舟の)八人」や「エチマアジン=降り立った人々」「エレバン=最初の出現地」などの由緒正しい都市があります。地元のアルメニア人も、昔からこの山を「マシス=世界の母」という意味深い名で呼んできたそうです。トルコ人はアグリ・ダグ「苦しみの山」と呼び、クルド人はコウ・イ・ヌー「ノアの山」というそうです。

もっともらしいお話:
■1952年のこと、フランス人ナヴァラ氏がアララト山に登ったときに氷河の上に巨大な船体らしき陰を発見しました。2年後に改めて調査し船を支える梁の一部らしきものを採取したそうです。彼はエジプトのカイロ博物館にその黒ずんだ木片を持ち込んで鑑定の依頼をしました。驚くべき結果でした。材質は糸杉で、聖書の記述と一致し、加工のあとも残っていたそうです。さらに年代測定の結果、紀元前3,000年から4,000年のものであることもわかった。これもまた、聖書の記述と一致しているそうです。
■1959年のこと、トルコ空軍が撮影した航空写真には半分地中に埋まった長方形の船のような形がはっきり写っていた。現地調査の結果、その箱形地形の大きさは縦150m、横40mでした。丁度、聖書に書かれている箱舟の大きさとほぼ一致しているのです。
■最近も、地元のトルコ人が、箱舟の一部らしき2,3の木片を見つけたという。これらの科学的データと過去の様々な目撃情報を総合的に判断すると、ノアの箱舟は北緯39゜26′4″、東経44゜15′3″、海抜1870メートルの地点に眠っているという。
■トルコのアルメニア地方では現在もノアの箱舟の探索を行う人がいるようです。
■1872年に大英博物館に運び込まれた粘土板から古代バビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」が発見され、その記述内容がノアの伝説と様々な点で類似していたのです。かつて未曾有の大洪水が起こった事実があり、それが「ギルガメシュ叙事詩」となり、ノアの箱舟の伝説として後世に流布したという考えは、結局、その後の考古学的発見により、かなりの裏付けを得ることになった。

真偽はさておいて、アナトリアの東部高原には物凄いものが漂着したものです。どうしてノアはノミ、シラミ、ゴキブリの類まで船の乗せたのでしょうネ。

ローマ皇帝はトロイの末裔 
Ref.1:ギリシャの風(06)/イメージの源泉(4-6)トロイ戦争(1)
http://homepage1.nifty.com/anecs/symbol/greek/kaze/greek06.htm
ギリシャの風(07)/イメージの源泉(4-6)トロイ戦争(2)
http://homepage1.nifty.com/anecs/symbol/greek/kaze/greek07.htm
Ref.2:歴史の部屋 ≫ 「アエネーイス」ウエルギリウス・泉井久之助訳
http://homepage2.nifty.com/plinius/hobby.htm
Ref.3:Google検索、「ローマ帝国 ロムルス トロイ」などで数多くの関連頁がリストされる
多くの民族や国家が建国神話を持っています。Ref.2によれば、ローマ建国に関する物語も現存し、ウエルギリウス著・泉井久之助訳「アエネーイス(アイネイアス)」、に詳しく書かれているそうです。これは 「ローマ建国の伝説を歌った大英雄詩。ローマ初代皇帝アウグスツスの命により作られた。伝説上のローマの起源はBC753年ロムルスによるとされているが、更に、300年遡るトロイの英雄、アイネイアスに始まる、と言う壮大なもの。」なのだそうです。

ギリシア神話の原典にホメロス(前8世紀頃の盲目の詩人)の叙事詩がある。「イリアス」と「オデュッセイア」で、アカイアとトロイの戦争を描く有名な一大長編(1万数千行)です。各地を遍歴する吟遊詩人が口頭で語り伝えた英雄物語でした。当時のギリシアには文字がなく、約200年間は筆録が不可能だったのです。ギリシア文字が考案され、叙事詩の筆写が行われたのは紀元前6世紀頃になってからでした。前1世紀頃にペイシストラスが現在の形にしたとされます。

ホメロスの叙事詩にある伝説的なトロイ戦争は、トロイに奪われたスバルタの王妃ヘレネを奪回するために始まりました。ギリシャのトロイ攻略にはある種の3条件を満足する必要があった。それらはオデュッセウスの活躍でなんとか片付きました。ある日、トロイ近くのエーゲ海からギリシアの軍艦は引きあげ、1艘も居なくなりました。代わりにアテナの入れ知恵により作られた巨大な木馬が残されていた。木馬の中にはギリシアの精鋭数十名が隠れたのです。トロイの神官ラオコンは木馬を城内に入れることに猛反対したのですが、ギリシアに加担する神々の使わした蛇に息子共々殺されてしまった。その後、ギリシアの手先となったトロイ人たちが木馬を城内に入れたのです。
夜になり、ギリシア船団が逃げたと思ったトロイ人達は戦勝の盛大な祝宴を催しました。酒を飲み踊ったのです。酔いが回った頃、ギリシア兵は木馬から出てトロイ市内に火を放ち、大火となりました。さしも難攻不落のトロイ城もこれにて陥落となったのです。

トロイに幽閉されていたスバルタ王妃ヘレネは元の夫メネラオスの手に戻され、老プリアモス王などトロイの男たちは殺されました。王妃ヘカベなど女たちは捕えられ、ギリシアの英雄らの所有物になりはてたのです。

ところが、トロイの貴族アイネイアスだけはトロイからの脱出に成功しました。エーゲ海諸島やキプロス島を渡り歩き、最終的に海路でイタリアに向ったとされます。

アイネイアスの一行が最初に到着したのはルトゥリー族の国で、そこのラティヌス王に歓迎されました。落ち着けそうだったのですが、復讐の女神にアイネアスの一行を襲うよう命じた者がいたのです。アイネイアスの一行はルトゥリー族の国を逃れ出て、現在のローマの地に行きました。 そこはルトゥリー族と対立していたエウアンドロス王の国でした。アイネイアスは保護を求め、さらに一緒に戦うことを提案したのです。エウアンドロス王はこれを受け入れ、両国の間に激しい戦いが起きました。最後はアイネアスが敵の勇者トゥルヌスを倒し、勝負は決着しました。

その後、アイネイアスはラティヌス王の娘ラウィニアと結婚します。そして彼等が作った町で、数百年後に「狼の乳で育てられた」という伝説で有名なロムルスとレムスの双子の兄弟が生まれるのです。成人した2人は王位を簒奪(サンダツ)した非道な叔父を倒し、現在のローマの丘に新たな国を建国したのです。後にロムルスはレムスを殺し、単独の王となりました。これが紀元前753年で、ローマ帝国の基礎が築かれ始めたころでした。遠くアナトリアはイオニア都市国家(古代ギリシャ殖民)の時代でエーゲ海沿岸のエフェスやミレトスが栄えていたのです。

以上の伝説によれば、ローマ帝国はトロイの血筋を引いていたのです。そして約800年が過ぎ、ローマ帝国は悪名高い皇帝ネロ(在位54-68)の時代になった。紀元後64年、ローマに大火があったそうです。この時、皇帝ネロは宮廷の屋上から燃え盛るローマを眺め、トロイの大火を偲んで歌を作ったという。もし、そうなら・・・、トロイ戦争とアイネイアスの伝説は歴代のローマ皇帝の心に代々引き継がれた"本当の物語"だったのかも知れません。

ヒッタイト神話のサンタクロース(Santa in Hittite mythology) 
Ref.1:2003.03.11DL/NTV-MSNBC < http://www.ntv.com.tr/news/193087.asp > 2002.12.18
Ref.2:日立デジタル平凡社 「世界大百科事典」 DVD版、1998
サンタ・クロース(Santa Claus/Santa Klaus)のことなら誰でも知っている。フィンランドかノールエーの生まれのお話のはず・・・。毎年、航空機で来日し子供達の人気を博しているのですから。しかし何処かで何か混線したようです。

サンタ・クロースは4世紀にアナトリア(小アジア)の司教だったニコラウス神父に由来し、聖ニコラウスを意味するオランダ語の Sint Klaes が英語ではサンタ・クロースとなりました。伝説によればニコラウス神父は子ども好きで慈悲深い方でした。町の貧しい3人の娘は嫁入時の持参金すら持っていないと知り、ある日の真夜中に金貨入りの財布をそれぞれの部屋に投げ入れてやったそうです。この伝説により、聖ニコラウスの日(12月6日)の前夜はヨーロッパ、特にドイツ、スイス、オランダの子供達が楽しみにする贈物の日となりました。イギリスではサンタ・クロースをファーザー・クリスマス Father Christmas (クリスマス神父)と呼んでいます。

クリスマス神父の伝説は、これよりも遥かに遡り、古代ヒッタイト族の神話と深い関係がありそうなのです。 ニューヨーク市のメトロポリタン美術館が所蔵しているのですが、紀元前14世紀にヒッタイト帝国で作られた1個のカップには装飾としてヒッタイトの神テレピヌ(Telepinu)の絵が描かれています。その絵には伝統的なサンタ・クロースの特徴となっている松ノ木、ギフトで一杯の袋、鹿に引かれる乗り物の全部が描かれていると言われます。
これとは別に、ヒッタイト時代から伝わる古い記述には、健康と繁栄の見返りとして神が受け取った貢物の袋をいけにえの鹿を覆う木の枝に吊り下げた、という伝説が載っています。 この伝説上の習慣が神の背後に切った松を置きいけにえの鹿を供える正式の儀式としてヒッタイトで定着しました。細かく切ったレブカ(Lebka)と呼ばれるパンの一種で松の木を飾り、そして皮製バックに入った貢物をその下に置いたのです。

これを後世のクリスマスを祝う習慣と比べて考えると、サンタクロースの物語と神話の全ての部分が完全に同じとはいえませんが、とても偶然の一致とも思えないのです。現在はデムレ(Demre)と呼ばれるアナトリア南部の町、そこで生活したニコラウス神父は最初に書いたようにサンタクロース物語の人物として広く認められています。このニコラウス神父はテレピヌ(Telepinu)の神話とヒッタイトの習慣を知っていて復活させることも出来たはず、とも考えられるのです。

イソップはフリュギア生まれ? 
イソップ: ギリシア名アイソポスが「イソップ物語」として知られる動物寓話集の作者です。 生国ははっきりしないのですが、トラキアともフリュギアとも言われます。 ヘロドトスが伝えるところ、サモス島の人イアドモンの奴隷であったが、後に自由の身となったそうです。その後、 リュディアの王クロイソスに仕えたり、ギリシアの七賢人とともにコリントスのペリアンドロス王の宴席に列したとも伝えられるのですが、真偽のほどは明らかではありません。後年デルフォイ訪問の時に市民たちに殺されたそうです。これはヘロドトスと喜劇作家アリストファネスが言い残しているそうで事実のようです。 しかし、いずれにせよ伝説に満ちた人物でした。容姿がひじょうに醜かったと言われ、戯画化の対象にすらなったそうです。1世紀ころ種々の逸話奇行を盛り込んだ「イソップ伝」が作られました。14世紀に至ってプラヌデスがこれを校訂したといわれます。

イソップ物語: 紀元前5世紀ごろには「アイソポスの物語」として動物寓話集が出来ていて、喜劇詩人や弁論家に愛好されたと伝えられています。ホメロスの叙事詩が英雄、貴族の文学とすると、「アイソポスの物語」は弱者の文学で、庶民が生きるために必要な知恵の結晶とも言えるものでした。それだけに広く親しまれたと考えられています。伝承上の寓話集を最初に編纂した人はアリストテレス門下のデメトリオスとされていますが、これは伝存せず、実際には分かりません。1世紀頃に書かれた「イソップ伝」の中の物語が分離独立したという説もありますが、イソップ物語は紀元後2〜3世紀のギリシア語テキストが最古のものとされるのが普通のようです。その後、アイソポスの寓話集はギリシア民族の文学遺産を超えて、全世界的な高い評価を獲得して長い生命を今日まで保持しているのです。

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