西行庵(京都東山)

2011年4月6日の昼近く、丸山公園の桜を楽しんだ。
丸山公園の南ゲートから大谷本廟を過ぎ京都市丸山音楽堂前を3〜5分行くと坂道にぶつかる。その上側に茅葺の西行庵がある。今の住人は華道師範をされているらしい(Google Mapでは茶道教室、2011年現在)が、知らなければ唯の小さな田舎屋で誰も興味を持たないであろう。西行と頓阿の像や茶室があるとされる。ここ一帯は大谷本廟の西隣りになる雙林寺(そうりんじ)だったが、その本堂前に平康頼、西行、頓阿の墓があるという。
ついでながら、 西行庵の下側の隣は俳人高桑蘭更が小庵を建てたのが起源とされ、芭蕉像があるという。現在は芭蕉堂という抹茶処になっている。

佐藤義清(西行)
『平安時代末、鎌倉時代初頭の歌人。魚名流藤原氏、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)の9代目の子孫で、曾祖父の代から佐藤氏と称した。父は左衛門尉康清、母は監物源清経の娘。俗名を義清(のりきよ)(憲清,則清,範清とも)といい、出家して円位、また西行、大本房、大宝房、大法房と称した。佐藤氏は代々衛府に仕える武門の家で、故実に明るく、紀伊国の田仲荘の預所として豊かであった。』(中略)
『西行の歌は、平淡ななかにも詩魂の息づかいを伝える律動をもち、きびしい精進を経て得られた自由放胆な語法、あこがれ躍動する心を静かに見つめる強卑な精神と余裕ある調べ、草庵の生活を背景とした清冽な枯淡の心境など、他の追随を許さない個性をもっている。そのため和歌史上、西行は歌聖と仰がれる柿本人麻呂に匹敵する歌人とされるが、後世の和歌、さらに文学全体に与えた影響から考えれば、人麻呂よりもはるかに大きな位置を占めているといってよい。』(中略)
『江戸時代になって、西行を讃仰した人物として知られるのは芭蕉であり、”わび””さび”の境地における先駆者と考えられた。』(後略)
以上、日立デジタル平凡社刊「世界大百科事典(DVD版)」項目「西行」から抜粋しました。


( 2011.04.08 記 )