焼き物雑感その4
  焼き物を集めること,使うことが趣味になってどれくらい経ったのでしょうか。小学二年生で,縄文土器の陶片を集めるようになってからですから,かれこれ・・・。その間目にしたり手に取ったり,また,使ったりした焼き物は莫大な数になると思います。 大好きな美濃系の焼き物はもちろんのこと,備前,萩,唐津,信楽,伊賀,はたまた青磁,天目・・・。そのときどきで気になったり心惹かれたりするものは少しずつ変わってきましたが,どこか自分なりのこだわりどころがあったように感じます。
  
  右に掲載した山茶碗は,そんな自分なりのこだわりを端的にあらわすものなのかな,と最近感じているところです。それはもしかして「個性」なのかも知れません。この山茶碗は,明らかに量産品でありながら,作り手の明らかな個性を表現しているように感じます。では,焼き物の個性とは一体何をさすのでしょう。造形でしょうか,釉調でしょうか。
  
  ドナルド・キーンは,司馬遼太郎との対談において,平安時代の女流文学が普遍的な芸術性をもっているのは,男性がやれ政治だ,やれ歌会だと外にばかり目が向いていたのに対し,外的な仕事に就くことが少なかった分常に自己の内面を見据える視点から物事を捉えていたからだというような意味のことを語っています。
  
  そういった視点から考えると,焼き物の個性・芸術性は単に造形や釉薬だけではないのではないかと考えさせられます。
  
 
    
山茶碗  径10.8 
 重ね焼きの一番上段で焼成されたものと思われる。見込みにふりものが見られる。
同高台 
 
  ある書籍に,加藤唐九郎と現存の一流作家の茶碗の写真が,白黒で掲載されていました。唐九郎の茶碗は,わずか2p足らずの挿入写真からもその力強い生命感が伝わってきました。しかし,現代作家の作品はぐい呑みなのかなと思わせるほど,迫力のないものに見えました。実際は15p近い大振りの茶碗だったのですが・・・。
 
  実際に陶芸で身を立てている作家の方にすれば,個性を発揮するために血を流すほどの努力をなさっているのだと思います。しかし,陶芸雑誌等で紹介されて人気を博している作家の茶碗の中には,造形の目新しさを追い求めることに終始してしまっている故に,かき氷のどんぶりとしか感じられないものもあります。何でそんなに人気があるのかなと不思議になってしまうことさえあります。
  そんな意味で,石黒宗麿に強く惹かれます。多彩な技法に取り組みながらも,奇をてらうことなく正面から焼き物の美に取り組んだ姿勢に宗麿の思いや願いを感じずにはられません。また,その美しさを真に理解し共感した小山冨士夫氏にも学ぶべき点が多いなあと感じています。
石黒宗麿絵高麗茶碗 
径13 高7.5 高台径5.7
 シンメトリックでさわやかな造形が,宗麿の個性を表現している。
同高台 
 本歌の磁州窯茶碗を越えたところに到達したことがうかがえる。