焼き物雑感その12〜同調(シンクロ)〜
 今年は、8月に入り仕事の関係で登山をする機会が数回ありました。20年ぶりで訪れた
山の頂で、以前は目もくれなかった高山植物に感動している自分に気づき、気恥ずかしくなりました。登山ガイドに記載されているコースタイムの半分以下で山々を歩き回る体力はまだ残っていましたので、老いというにはまだ早すぎるにしても、揚々としながら柱状節理の岩壁のオーバーハングをよじ登っていた頃のあの若さは・・・。そんなことを考えていると、ふと、「今年の秋は早いぞ」と感じました。確固たる証拠は全くありませんでしたが、草や木や岩や雲が教えてくれた様な気がしたのです。

 そんなことがありましたが、つい2日前の9月13日、思い立って数年ぶりでマツタケ採りに出かけました。気温はなんと33度でしたが・・・

 子どもの頃から野山を駆けめぐるのが好きで、秋になれば人里離れた山の中でマツタケを探し、釣り道具の購入費用を捻出していましたが、ここ10年近く仕事が忙しく出かける機会がありませんでした。しかも、この場所は過去のデータから9月23日前後に出始める場所で、普通に考えたら採れるはずもありません。
 林についてみると、木がすっかり成長し、植物の相がすっかり様変わりしていました。毎年一番採れる場所は、何だかもう出なくなったような気がして、光の入り具合や木の生長の具合、斜面の変化を見ながら30メートルほど下ると、ピンと感に響く場所がありました。そこで一服して探し始めると・・・。ありましたありました。マツタケは一般に斜面をなでて探すといわれますが、左の一番上の画像の物のすぐ近くにもう1本生えているのを見つけられるでしょうか。・・・結局合計6本のマツタケを採ることができました。

 こんな時期はずれに、しかも以前は出なかった場所でマツタケを採ることができたのはなぜなのでしょうか。

 イチローをはじめとする現代の名打者は、ピッチャーの投球動作に自分の打撃動作を同調させることで好打率を上げており、どれをシンクロ打法というのだという話を聞いたことがあります。今回、マツタケが採れたのも、8月の登山を経て、少しの間離れていた山の生き物や土や岩に、私の体が同調したからかもしれません。
  
 さて、今回掲載したのは、大好きな石黒宗麿の「荒土碗」です。造形も指文も、釉調もこれ以上でも以下でも、ここまでの気品と優しさを感じさせてはくれないと思います。土や炎に宗麿の研ぎ澄まされた感性が同調したからこそ生まれた作品なのだと思います。
 作為の無作為とか無作為の作為とかいわれる陶芸の美は、思考における演算によってなせる技なのではなく、土や炎や、さらにはそれらを含むあらゆる事物・事象に呼吸や歩調を合わせることでこそなせる技なのではないかなあと思います。山を知らずして土を語る、あるいは風を知らずして炎を語るというのでは、実は何も見えていないことに等しいのかもしれません。

 忙しさに追われ、水や空気や森や岩に同調することを忘れかけていましたが、マツタケの生える秘密の場所はまだまだあります。今年は、暇を作ってマツタケ採りでもたのしみましょうか。
 
私の住む地方では、サマツと呼ばれる広葉樹に生えるマツタケは9月15日、アカマツに生えるマツタケは9月23日が標準的な生え始めの時期である。
石黒宗麿「荒土碗」 
径11.7 
高9.3 高台径5.4 
 苔寺の土手の土を使って焼いた茶碗の一つで昭和30年前後の作ではないかと考える。内抱え優しい造形でありながら、ぴんと張りつめた気品を感じる。