東大寺大仏殿


如月壱拾日 月齢27.9

離れワザ

いつの新聞だったか、斎藤茂太氏と対談されていた方が、
「電車の中とか人前で化粧をする人はすでにオバサン化している」
てなことを言っておられた。
昨年末、東京に行った時お向かいの席に座った女性。
ベーシックなファッションをしっかりと着こなしておられる。
と、バックからコンパクトを取り出し、お化粧を始めた。
ワタシの目には(もっとも目がめちゃくちゃ悪いのでアテにはならないか?)
もうメイクも完璧なのになお完璧を目指すとは、
よっぽど気合いを入れて会いたい人がいるんでしょうね。
な〜んて思っていたら、今度はマスカラをつけ始めた。
動く電車の中でマスカラをつけるなんて凄い!高等技術だ。
ヒヤなんてお家の鏡の前でやってもうまくできないのにさ。
ワタシの高校時代の数学の先生の話。
バスの中で乗り合わせた女性が口紅をつけ始めたまではいいが、
その時バスが大揺れして・・・悲惨な状態になったとか。
その話を思い出したので、揺れる電車の中で手馴れた様子で淡々と
メイクを続ける彼女は凄い、とひたすら関心するヒヤでありました。
で、前述のオバサン発言でありますが・・・
普段お化粧直しなんてそこそこに飛び回ってるワタシとしては、
誰かのために自分をさらに美しくみせようとする気合いが
すごいな〜と敬服したんですけど・・・


睦月弐拾日 大寒 月齢06.9

61歳と49歳の修学旅行

今日NHKBSで、さだまさしさんと画家の原田泰治さんが、
日本各地を旅して、それぞれが作品を作るという番組が放映されていた。
原田泰治さんは、特に父が好きで、我が家の茶の間には、
諏訪にある氏の美術館で買い求めた複製画が飾ってある。
(季節に合わせて絵を入れ替える懲り様である・・・)
さて番組の最後の旅先は奈良であった。
さださんの語る奈良の良さは、
『都会にいると突き刺さってくるような時間が、奈良では
大きくてぶよぶよ〜んとしたものがド〜ンとすり抜けてくるんだよね。
この街全体が日本の宝物の一つだよね。』
原田さんの中学の修学旅行の思い出は、奈良の風景ではなく
付き添ってくれたお父様のことだった。
『とうちゃんは結構おんぶしてくれたし、松葉杖では歩き切れないなかで
つれてってくれた。とうちゃんの汗の匂いみたいなものだけ覚えている。
いい思い出じゃないね、ついていくだけて精一杯で。』
61歳と49歳の修学旅行は、二月堂、大仏殿、薬師寺へ。
最後に原田さんが描いたのは、壮麗な寺院ではなく、
西ノ京に向かう近鉄線の車窓から見えたような、
屋根の向こうに薬師寺の塔がみえる夕暮れの民家の畑の風景だった。


弐千弐年睦月壱拾七日 月齢03.9

みなさん、お元気ですか?

7年前の今日は月曜日。
仕事が休みで遅く起き出した私。
テレビをつけると横倒しになった高速道路の映像が
目に飛び込んできた。
あがる火の手、時間がたつごとに増える死傷者の数。
神戸は旅行で訪れた好きな街のひとつ。
お買い物をしたお店、食事をしたお店。
研修で一緒のグループだった人、神戸在住の同級生、
旅行中に怪我をして入院した芦屋市の女性。
みんなどうなってしまったか気になって1日中テレビを見続けた。
そして2月末。
私は職場の派遣で、西宮市の某小学校の避難所に行った。
京都から尼崎までは、倒壊した家や屋根をブルーシートで覆った家は
ちらほら見かけただけだった。
でも川を渡り西宮の街に入った途端、世界は一変した。
テレビで倒壊した町並みは毎日のように目にしていたけれど、
そんなんとは全然違う。
ただただ、呆然とした私。
NHKの少年ドラマシリーズなんかで、突然タイムトラベルをしてしまう
そんな物語があったけれど、こんな感じなのかしらんと思ったりした。
それくらい今までの日常とはかけ離れた光景がそこにあった。
でもその非現実的な現実のなかで一生懸命生きている人達が沢山いた。
あれから7年。
尿検査用の紙コップで(笑)一緒に紅茶を飲んでお喋りをした受験生のK君、
地震の直前にみた不思議な光の話をしてくれたおばあちゃん、
震災直後の奮戦記をユーモアたっぷりに話してくれたタクシーの運転手さん。
みんなどうしておられるのだろう?
みなさん、お元気ですか?

弐千壱年大晦日 月齢16.6

CHANGE THE WORLD 

1995年1月17日の朝、テレビの画面には倒壊した
高速道路が映しだされていた。
その後2月末になってから、仕事の為神戸に行った。
電車の中から目にした、焼け野原の長田の街で
2人の僧侶が祈りをささげていた光景は
きっと一生忘れられないと思う。
そして、今年のNYのテロ。
このまま大災害も戦争にも遭遇せず生きていけるという、
漠然とした安心感はもう持てないかもしれない。
以前見たテレビ番組で、時代の変化には15年かかるといっていた。
変化の始まりが、1989年のベルリンの壁の崩壊からということだったので、
今はまだ途中ということになる。
この先の数年の間にこれ以上に酷いことが起きるのか、
逆に良い方向に向いていくのかは全くわからない。
せめて自分や身近な人に災いが降りかからないようにと願うだけだ。
2001年から2002年の年越しは、
E.クラプトンの『CHANGE THE WORLD』の曲の
ビデオを見ながら迎えた。
少しでも良い方に世の中が変わっていきますように
(この曲の歌詞の本当の内容は知らないけれど・・・)


師走弐拾四日 月齢09.6

泣いたっていいんだヨ

今日偶然に、昨年秋に亡くなったSさんの奥さんに再会した。
他の人と元気良く話していた彼女は、私の顔を見ると涙顔になってしまった。
『あの頃のことを知っている人の顔をみると涙が出てきちゃうのよ。
 子供の前では泣いていられないから、家では泣けない。
 あの頃より今の方が辛いの』
時を経て薄らぐ痛みもあれば、月日が経つごとになおさら深まる
悲しみもあるだろう。
『しっかりしなきゃだめよ、頑張ってね』
とか周りの人は、声をかける。
そこにはなんの悪意もない。
でもそんな善意からでた言葉こそが人を苦しめることがある。
頑張り過ぎなくていいんだよ、大人だって悲しい時は
泣いたっていいんだよ。
新しい1歩を踏み出す為には、
心に空いた穴を満たしてくれるだけの
涙が必要なんじゃないかなあ。

ところで今夜はクリスマスイブ
お月様がしずんだら、
サンタクロースは何の明かりを頼りに
夜空を翔けるのでしょうね?


師走壱拾六日

コウノトリにおねがい

私を呼ぶ声がするので立ち止まると
Yちゃんが立っていた。
「如何したの?」声をかけると
『ちょっと甘えてみたかったんです』という彼女。
少し間をおいて
『あのね、今日お父さんと同じ名前の人が入院してきたんです。』
彼女の父親は数年前、病でこの世を去った。
最期の数ヶ月、彼女は介護休暇をとって父親を看取った。
父親の苦しむ姿を目の当たりにし、
主治医との意見のくい違いからの葛藤もあって
優しい彼女の心は随分傷つけられたと思う。
最愛の人の死に、周囲の人は『早く元気を出しなさい』とか
『早く忘れなさい』と言ったりするけれど、
私はそうは思わない。
無理に忘れよう、泣くのを我慢しようなんて思う
必要なんてない。
悲しみは愛情が深かった分だけ、永い時をかけ
大切な思い出に熟成されていくものだと思う。
この冬、彼女はおかあさんになる。
周囲の誰に対しても変わらず優しかったお父様、
その愛情をたっぷり受けてその花の名前のとおりに
優しく我慢強い女性である彼女。
幸福いっぱいのおかあさんと赤ちゃんの笑顔が
天国のおじいちゃんに届きますように。

霜月壱拾七日 月齢02.2

はるのじゅんび

久し振りにまるまるお休みの土曜日。
ずっとほったらかしだった庭の手入れをしました。
花が終わった鉢植えの薔薇の剪定、植え替え。
それにしても病気になった葉が多いこと。
いかに今年自分が手入れをサボっていたか、反省することしきり。
鉢植えのモッコウ薔薇を地植えにすべく、土を掘り返していたら、
その傍らに小さなもみじをみつけて鉢に植え替え、
即席盆栽の出来上がり。
ちっちゃいくせに緑の葉っぱはすこしだけ赤く秋化粧していました。
そして、水栽培のヒヤシンスがひとつだけ芽を出しました。
庭の石楠花や木蓮もすでに来年の花芽がついているし、
これから冬を迎えるというのに、
その先の春を思う私です。


霜月壱拾参日 月齢27.7

もう二度ともどらないもの

この仕事をしている以上、
人の死に立ち会うのは当然避けられないこと。
そうして沢山の人の死に関わってきた。
でも子供の死に直面したのは生まれて初めての経験だった。
あれから一週間が過ぎたけれど、
ふとした瞬間にあの子の顔が頭をよぎる。
運びこまれたのは、1歳のちいさな女の子だった。
ほぼ即死状態、でもみんな諦めきれず蘇生を試みたけれど、
小さな心臓は再び動き出すことはなかった。
呆然と立ちつくす父親、泣き叫ぶ母親。
床に転がったアンパンマンのかたっぽだけの小さな靴。
抱き上げたちっちゃな身体は
手足はぷくぷく、すべすべお肌で
ぷっくりとしたほっぺで、
顔の傷さえ覆ってしまえば、
お昼寝している可愛いいい子ちゃんにしか思えないのにね。
家に帰ってから、思い出して泣いてしまった。


霜月壱拾弐日 月齢26.7

忘れられない人 幸福でいてほしい人

夜テレビである癌末期患者とその家族の
最期の日々を撮影した番組をみた。
仕事がら癌患者さんと接することが多い。
すでに故人となられた方、現在闘病中の方、
関わったお一人お一人が忘れがたい人たちである。
その中でも誰よりも忘れがたい人がいる。
彼女はその頃まだ20代前半だったと思う。
癌が再発し入院中の恋人の看病をする為に、
仕事をやめ、他県からやってきたのだった。
彼女の親は『あんないい奴が死んでしまうなんて信じられない。
一生懸命看護してあげなさい』と
年若い彼女を送り出したのだという。
笑顔が綺麗で、いつも明るく彼や私たちに接していた。
最後の望みをかけて、専門病院への転院が決まった時、
彼女は一人私のところにきて、
「これから(彼が)どうなっていくのか教えてほしい」と言った。
私は彼女に、彼が今後どのような状態になっていくか予測されること、
転院先の病院のことなどを話したと思う。
真剣な表情の裏に、今にも壊れそうに
張り詰めた心が透けてみえるような彼女が、
可哀相で辛そうで、
私は思わず「辛くてどうしようもなくなってしまったら、
逃げ出したっていいんだからね、
無理するんじゃない
誰もあなたのことをせめたりしないよ」と
繰り返し言ってしまった。
ひとしきり泣いた後彼女はまた
彼の待つ部屋に戻っていった。
転院後まもなく彼は亡くなった。
それから彼女に再会することはなく、
十年近い月日が流れたけれど、
私は今でもあの日のことを思い出す。
自分の言ったことは正しかったのか、彼女を深く傷つけてはいなかったか、
そして何よりも彼女がその後幸福な人生を歩んでいるだろうか?
そうあってほしいと思う。