東京新聞 平成22年9月18日(土) 仏教談話 下
“足る”をわきまえて“妄執(もうしゅう)”から逃れよう
田上 太秀

 重厚な演技をもって知られる個性派女優の樹木希林さんは、あるテレビ番組の対談で相手から「あと二、三日の命ですと告げられたら、最後になにを食べたいですか?」と聞かれたことに、「私は何も食べずに、お腹をきれいにして死を迎えます」と答えた。聞き手は「多くの人は好きなものを満足するまで食べて死にたいと考えるのですが」と聞き返すと、「死ぬのにどうしてお腹を満たして何の意味がありますか」と答えたことばが印象的であった。彼女のことばを聞いて、筆者は欲望を満たすという意味を考えさせられた。
 釈迦のことばに少欲知足(欲は少なく、足ることをわきまえるこよ)がある。彼女は死と向き合ったときに欲望の充足がいかに無意味であるかをのべたのであるが、日頃から彼女は釈迦のことばのような生き方をしてきたのであろう。
 もちろん釈迦は死を迎えようとするときに少欲知足を勧めたのではない。日頃から人は欲望の虜になっているので、身心を健やかに保つには少欲知足でなくてはならないと教えたのである。

 現代社会では情報や広告が氾濫し、人の感覚は絶えず刺されている。眼や耳や鼻や舌や皮膚や心はいつも広告に誘惑され、新たな欲望を生み、落ち着くひまがない。 多欲は美徳だという人が少なくない。彼らは多欲を悪いとは考えていない。釈迦の少欲知足の教えからすれば、現代人の多欲を美徳とする考え方は否定されるが、釈迦は欲望を悪と決めつけていない。
 釈迦が説いてるいるのは、多欲より小欲がいいに決まっているが、多欲であるか小欲であるかはさほど問題ではない。足ることをわきまえるのが重要だということである。
 少欲であっても足ることをわきまえない人は、多欲であっても足ることをわきまえている人に劣る。足ることをわきまえるのは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などをコントロールできることである。したがって釈迦は欲望をなくすことを説いたのではなく、欲望のコントローールが重要だと言った。
 人には食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲、そして名誉欲の五つがある。これらの欲をなくしたら人は生活できない。社会生活を営む上でどれも欠かせない。体力をつけるために食べる。性欲は子孫の存続に必要である。生命の維持と身心の休息のために眠る。安定した生活維持に金が要る。地位や名誉を得るために人は意欲を燃やす。 これらの欲望を満たすことは悪ではない。しかし人は必要以上に求めて、ものに妄執する傾向かおる。これが人を悩ませ、苦しめることになる。
 食べ過ぎ、飲み過ぎで病む。享楽のために性欲をもてあそび、堕落する。睡眠をむさぼり、仕事を怠け、信用をなくす。金銭に卑しい守銭奴なり、人に軽蔑される。地位に固執し、名誉を鼻にかけておごりに塗(まみ)れる。
 このような人の生き方を観察した結果、多欲知足もいいが、少欲知足に勝る生き方はないと釈迦は言った。この少欲知足の心をもち続ければ、だれでも今の生活のままで釈迦と同じ心を共有できるのである。とくに出家生活をしなくても、心を律する習慣を身につけたら、だれでもブッダの境地に近いということなる。
 この煩悩に塗れた状況は釈迦のようなさとりの境地とはかけ離れているのでは?と大多数の人は考えるが、それは人々の思い過ごしであって、釈迦もさとるまえは遊興にふけり、遊び尽くし、いろいろと悩み、苦しんだのである。ものへの妄執を離れたこと、足ることをわきまえることで心はまったく安穏となったとのべている。

 要するに釈迦は四苦八苦の原因は妄執にあり、その妄執はむさぼりと怒りとおごりであると説いた。むさぼる心が妄執し、怒る心が妄執し、おごる心が妄執して、人は苦しみをつくっている。むさぼるな、怒るな、おごるな、そうすれば妄執を離れ、苦しみは消え去り、そこにブッダの境地が開けるという。

田上 太秀(たがみ・たいしゅう) 1935年、ペルー・リマ市生まれ。東京大大学院博士課程修了。インド仏教・禅思想。駒澤大教授、駒澤大禅研究所所長などを歴任。駒澤大名誉教授、文学博士。主な著書は 『仏教と女性』 『ブッダが語る人関関係の智慧』(東京書籍)『仏陀のいいたかったこと』 『道元の考えたこと』 『仏典のことは』 (講談社学術文庫)『ブック臨終の説法』全四巻(大蔵出版)など。