32:レーゾンデートル


The reason I exist.
それを私は切望します。


「かいばは、なぜ自分が生きているのかと考えたことはあるか?」
自らに向けられた疑問に海馬は書類から顔を上げた。
質問者は、社長室の座り心地よいソファーの上で体育座りをして素足の先を見詰めていた。
「何だ藪から棒に。」
闇遊戯がこちらを向いていないことが知れると再び海馬は書類に目をやった。
残り十枚の書類を焦らず迅速に海馬は処理していく。
一刻も早く仕事を終わらせて遊戯を思う存分構いたい。なにしろ、久しぶりの逢瀬なのだ。
その間にも遊戯の、独白とも問いかけともつかぬ言葉は続く。
「なぜ生きてるか、とか、何のために存在するのか、とか。」
「『レーゾンデートル』か…。」
海馬の呟きに遊戯が首をかしげる。この様子ではどこの言語かすら解っていまい。
「えーご、か?」
「フランス語だ。【raison d'etre】意味は【ある物が存在することの理由。存在価値。】最も目にする和訳は【存在理由】」
最後の単語に遊戯はピクリと反応を示した。
「なるほど……ピッタリだぜ。」
微かに口元が笑みの形をとる。哀しい笑い。
「色々考えてたんだ。相棒のこととか、かいばのこととか、……オレのこととか。」
海馬は無言で先を促す。
「オレは相棒を守るために存在している、んだ。」
そこで遊戯は言葉を切って胸の千年パズルと鎖を手にした。
「なのにオレはブラッククラウンが燃えた時相棒も城之内君も助けてやれなかった。それどころか相棒は、オレの為に逃げ遅れた……。
オレさえ居なければ相棒が怪我をすることなんてなかったんだ。…………そんなことを考 えていたら………。」
「下らんな。」
決裁済みの書類をとんとんと揃えるとそれを机の上のトレーに乗せる。
これで今日の分の仕事は終わりだ。
「下らなかろうが何だろうがオレはそう言う『存在』だ。」
淡々と遊戯は言いきった。
「それが下らないと言うんだ。
何故自分自身のために存在していると言わん?」
備え付けのコーヒーサーバーでコーヒーを二つ入れる。
一つは己の為のブラック無糖。もう一方は遊戯のためのカフェ・オレなのだが……ミルクの分量が多すぎる所為か牛乳コーヒー。しかもお砂糖たっぷりだ。
海馬はその甘ったるい匂いに辟易しながら遊戯に手渡し、自分はその向かいに座った。
「……オレの存在の不自然さは、オマエも良く知っているだろう?オレは相棒が赦さなければ存在できないんだ。」
パズルに閉じ込められた三千年前の王様。
「だから何だと言うのだ?もう一人のために自我を殺す?それこそただの偽善ではないのかっ?」
「偽善でも良いんだ。相棒が笑っていてくれるのがオレの望みなんだって…。」
「『って』なんだ。」
「そう言ったら相棒に殴られた。」
力なく笑う。
「当然だな。聞き捨てならん科白だ。」
「だったら…。」
遊戯はパズルをそっと目の前のテーブルに置いた。
「オレにどうしろって言うんだっ!?オレは…オレはっ!『遊戯』という名前さえオレの物じゃあないってのにっ!!!」
だんっと勢い良くテーブルに手をついて怒鳴る。
激情の為か、生理的なものか、涙まで浮かんで。
そんな遊戯が落ち着くのを待って海馬は口を開いた。
「名前なんてものは、ただの記号に過ぎん。それ自体には何の意味もないものだ。
ようはキサマとそれ以外のヤツラの分類に使用できればいいものだ。」
「オマエに何がわかるっ!」
「わかるさ。オレも一度姓が変わったからな。」
静かな海馬の言葉にはっとなる。
かいばと呼びかけようと思い…しかし言葉には出来なかった。
「オレの姓が海馬に変わったからと言って、オレ自身なにが変わった訳でもない。ただ周囲の視線が畏怖と好奇に変わり、あからさまな敵意が増えたぐらいだ。」
なんでもないように瀬人は言うが、その頃の彼はモクバを守るだけで精一杯の少年。並大抵の精神力では乗り切れなかっただろう。
「瀬人……。」
「だから言っただろう。名前なんぞただの記号だと。
大切なのはラベルじゃない。その中身だ。キサマ自身がしっかりしていればいいんだ。そうすればオマエはオマエでいられるだろう。」
「でも、それでもオレは……。」
「それでも足りないと言うのなら…オレがキサマに名をやろう。」
遊戯がえっ?と顔を上げるのと、それを海馬が放り投げたのはほぼ同時だった。
「な、なんだ????」
頭の上にめいいっぱいクエスチョンを飛ばして(ついでに首もかしげて)遊戯は問うた。
「パスポートだ。」
「はあ。誰の?」
「キサマのに決まっているだろう。」
ぷいっと海馬が横を向いてしまったのは照れたからで、遊戯はその台詞を聞いて目を丸くさせた。
「どうやって…?」
半ば呆然としながら遊戯はパスポートを眺める。
…どうやら本物のようだ。
「フッ…。このオレに不可能などないわっ!!!」
高笑いを始めた海馬は放って置いて、遊戯はページをめくった。
そこには見馴れた自分の顔と……。
「武藤、遊人…?」
「『オマエ』の名だ。気に入ったか…?」
気がついたら海馬が真剣な眼差しで遊戯を見詰めていた。
それに何故か紅くなって、遊戯は「ゆうと」と口の中で繰り返した。
始めて与えられた『自分』だけものも。
無性に笑みがこみ上げる。
遊戯はパスポートを胸にぎゅっと抱きしめると身を乗り出した。
ちゅっ?
「お礼、だぜ☆」
蕩けるような笑み。
なんだか軽くなった心で遊戯は微笑んだ。


The reason I exist.
それはあなたがくれたもの。
私が存在する理由。