四阿山(あずまやさん)    52座目

(2,354m、 群馬県・長野県)


残雪に光る四阿山


鳥居峠〜四阿山往復


1997年 4月20日(日)

相模原−川越IC−上田IC−真田町−鳥居峠〜四阿山往復

 この山は「四阿山」と書いて「アズマヤさん」と読む。この字を正しく読める人は、地元の人か山屋(登山家)ぐらいだろう。この四阿山は古事記にも出てくるほど古く、由緒ある名前らしい。
 この山へ登るには、上田から鳥居峠へ出て、そこから往復するのが一番手っ取り早いようだ。

 早速、日帰りで行くことにして朝4時に家を出た。関越道の川越インターから入って、上信越の上田インターで下りた。そこから国道144号で真田町へ入り、鳥居峠へ向かっていると、残雪が斑模様になった四阿山と根子岳がクッキリと並び立って見えた。
 鳥居峠にあったお土産屋さんの駐車場へ車を止めさせてもらい、ピッケルを片手に出発した。

 10分も歩くと「クマに注意」という標識が立っていた。こんな所にもクマがいるのかと驚いた。昨年の秋には飯豊山でクマのウンチを踏んづけてしまい、近くにクマがいるかも知れないとビグビグしていたが、今日はピッケルを持っているので、もしクマが襲ってきたらこれで戦おう、と思わずピッケルを握りしめた。

 クマザサが生い茂った道をしばらく歩くと、残雪がチラホラと現れて来た。しかし、ピッケルやアイゼンを使う程ではなかった。
 途中で、的岩への道を左手に見送って真っ直ぐ進んで行くと、広い河原になった分岐点へ出た。このまま沢道を行くのが的岩経由で、右手が尾根を行く道である。私は少しでも楽をしようと右手の尾根筋の道を行くことにした。

 ここは「あずまや」というだけあって、途中の休憩所に「東屋(あずまや)」が建っていた(写真左)。ここの東屋は風除けに半分だけ板が張ってあった。こんな建物が山の中にあるのも珍しいが、なかなか風情があっていい。それに、雨の日や風が強い日などは登山者も助かるに違いない。今日は幸い天気もよく風もないので、中には入らずそのまま素通りして行く。

 稜線へ出ると、日本海側に北アルプスがくっきりと見えた。少し遠いのが残念だが、穂高から槍ケ岳、後立山連峰がズラリと並び立って見えた。逆に太平洋側(群馬側)はもやがかかって遠望が利かず、すぐ近くにあるはずの浅間山や草津白根山さえも見えなかった。



(途中から見た四阿山・奥)

(だいぶ近づいて来た)

 山頂まであと30分ぐらいと思われる所で写真を撮っていると、下から20代の男性が一人で登って来た。今日初めて人に会った。お互いにホッとしたような表情で挨拶する。山は混雑するのも困るが、誰もいないのもまた寂しい。

 山頂付近はまだ残雪がたっぷりあった。山頂の社殿は屋根だけが顔を出し、本体はまだ雪に埋もれていた。その社殿の前に腰を下ろして一服していると、近くから人の声が聞こえてきたので驚いた。立ち上がって周り見ると、20メートルほど先にもう一つの社殿があり、踏み跡がしっかりと付いていた。人影は見えないが、向こう側の方が少し高そうだった。早速移動することにした。

 一旦下って、吹き溜まりのような雪田を回り込んで行くと、ひと回りも大きな社殿があった。その社殿の後ろ側に5、6人の先客が座って休んでいた。そこだけ雪が解けていた(写真右)。

 山頂のすぐ隣に根子岳があった(写真左)。遠くには北アルプスがいぜんクッキリと見えた。しかし、北アルプスよりも近くにあるはずの妙高山や火打山が、モヤのせいかボンヤリとしか見えなかった。

 鳥居峠には、『この峠は日本武尊が東征の際に休んだ峠として名高い』と書いてあった。
 さらに、ここには『ズラとダンベの国境』というユニークな看板があった。看板といっても土産品などが書き込まれた下の方に、小さく書かれているので注意しないと気付かないかも知れない。

 これは、長野県の方言で「そうズラ」というのと、群馬県の「そうダンベ」という方言の国境という意味である。長野県でも佐久の方ではズラを使うが上田の方は使わないそうだ。山梨県でもズラを使う。一方、ダンベは茨城県や栃木県の方でも使っている。

 山から下ってきて、お店で食事をしながら、「あの看板が面白い」と話すと、「ここのご主人が考えて書いたのよ」と言って、奥の方にいたご主人を呼んで来た。
「あれは私が考えて書いたんだ」という主人に、
「どうせなら、もっと大きくした方が面白いのでは」
 と言うと、
「そうか……、もっとでかい方がいいか……」
 と言ってから、
「じゃあ、今年の夏はもっとでかいのを作るか……」
 とニコニコしながら言った。
 今度行った時は、もっとでかい看板が立っていることだろう。

 帰りは菅平へ寄って、根子岳と四阿山の写真を撮って帰ってきた。   (平成9年)