富士山(ふじさん)    27座目

(3,776m、 山梨県・静岡県)


吉田口五合目から見た富士山。

1.富士吉田口〜吉田口山頂

(初めて遭遇した外国人の遭難騒ぎ)
 1994年 6月5日

 富士山は日本一の山でありながら、未だに登ったことがない。
 そもそも若い頃は「山はアルプスに限る」とばかりに、セッセとアルプスへ通っていた。槍や穂高の岩尾根に登って歓声を上げていた頃は、「富士山は見る山」であっても「登る山」の対象ではなかった。

 それは、富士山よりもアルプスの方が魅力があったこともあるが、テレビなどによる影響も大きかった。毎年、富士山の山開きになると、「80才になるおジイさんが山頂へ立った」とか、「70幾つの誰々さんは、毎年山開きに参加して今回で何回目の登頂になった」などと報じられるため、「富士山は歳をとってからでも登れる。歳をとってから登ればいい」と思っていた。

 しかし、30歳半ばになって山登りをやめてしまったので、もう富士山へ登ることもないだろう、と諦めていた。

 それが昨年の秋から再び山へ登るようになり、今年になって3月に瑞牆(みずがき)山、4月に大菩薩嶺、5月に蓼科山と、まるで憑かれたように山へ登るようになった。

 そして蓼科を登った帰り道、車を運転しながら「次は富士山へ登るゾ−」と大声で叫んだ。
 会社の窓から毎日のように富士山を眺めていると、どうしても「一度は登らねばならない」という気持ちになって来た。そして、どうせ登るなら早いほうがいい。夏山の混雑を避けて、山開き前に登ってしまおう。残雪も少しでも多い方がいいだろうと思い、6月の第1週に出かけることにした。

 富士五合目までは車で入り、日帰りの予定で4時前に相模原の家を出た。相模湖から中央高速を走り、スバルラインの入り口まで行って、今日一日の予定が大幅に狂ってしまった。スバルラインは季節によって時間制限があったのだ。開門は6時、閉門が5時。すでに10台ほどの車が列んで止まっていた。

 夜はすっかり明け、朝のまぶしい光を浴びて富士山頂が輝いていた。「早く行きたい」とあせる気持ちをおさえながら開門を待った。

 五合目を6時前に出発しようと思っていたが、1時間も遅れてしまった。しかも閉門が午後5時ということなので、遅くてもこの五合目へ4時半前に戻らなければならない。

 この時間制限が、今日一日のプレッシャーとなった。コースタイムは登り5時間20分、下り3時間、往復8時間20分。
 帰りの4時半まで何時間あるかを指折り数えると、9時間と少々ある。したがって、頂上での休憩を30分位にすれば絶対に戻って来られると確信した。

 しかし、登るにしたがってその堅いはずだった確信も、次第に揺らいでいく。
 六合目にある登りルートと下りルートの分岐点で道を間違えた。今まで登って来た道は、ブルドザーでならしてある幅3メートルもある広い道で、その道はさらに左斜めに延びていた。右手にケモノ道のような細い道があり、その分岐点にオジさんが1人腰をおろして休んでいた。
「道はどっちですかねぇ」
 と、尋ねると、
「当然こっちでしょう!」
 と、左側の幅の広い方の道を指さした。見上げるとすでに3、4人が登っていたので、何んのためらいもなく左側の広い道を登って行った。(実はこの広い道は下りルートで、右側の細い道が登りルートだった)

 富士山はアップダウンが全くない。普通の山なら多少のアップダウンがあり、見晴らしが利く高台へ出れば、そこで小休止でもしようという気になるが、ここにはそれがない。単調な登りが延々と続き、息を抜く場所がない。

 それに、岩場もなければハイマツや高山植物もない。富士独特の砂利道をモクモクと登るしかない。
 この砂利道は実に歩きにくかった。にぎりこぶし程の石ころは、足を運ぶたびに崩れてしまい、踏ん張りがきかない。疲れは一層ひどくなった。

 雷が鳴り出した。左後ろの下の方に見える山中湖の上空あたりでゴロゴロしているが、登っていると、ちょうどお尻のあたりから聞こえてくる。急がなくてはいけない。午後になると、あの雷さんが近づいてくるかも知れないから。しかし、あせる気持ちとは反対に、ペースは落ちるばかりだった。(これは雷ではなく自衛隊の空砲だったかも知れない)

 アルプスへ通っていた頃なら、コースタイムが5時間20分なら休憩を入れても5時間もあれば充分だった。しかし、今日は何時間かかるか分からない。
 昨年の秋から山を登っているとはいえ、今はリハビリ中であることをすっかり忘れていた。やはり15、6年間のブランクは大きい。

【拡大できます】

上部に残雪が現れて来た。

背後に見えるのは河口湖だろうか。

雪渓脇の尾根道を行く

 時間はどんどん過ぎていった。息切れは一層ひどくなり、もうメロメロだった。
 昨年の夏に同じ職場の女性3人がここを登ったという。あのかわいい娘達から、「私達は元気に登ったのよ。おじさんは何よ。もうメロメロじゃないの……」と言う声が聞こえて来そうだ。

 九合目から上は雪道になった。今までの歩きにくい砂利道から解放されてホッとした。それにピッケルを持つと、少しばかり元気が出たような気がする。

 見上げれば、すでに3、4人が一直線に登っていた。私もその後を追うように登って行った。

(写真左←拡大できます)

 やっとの思いで山頂に立った。五合目を出てから6時間30分もかかっていた。しかも、ここは頂稜の一角でしかない。とにかく富士山の御釜が見たい一心に廃墟のような無人の山小屋の後手に回って行くと、左正面に最高峰の剣ケ峰が見えた。あ〜あ、あそこまで行きたいなあ〜! しかし時間がない。

 とにかくここで腹ごしらえ。


富士山頂の小屋

お釜越しに見た剣ケ峰

剣ケ峰ズーム

正面の山がお釈迦様に見えた

 昼食を簡単に済ませ、写真を何枚か撮ってすぐ下ることにする。本当は測候所がある剣ケ峰が3776メートルの最高点なので何んとか行きたいと思ったが、ここから往復すると1時間はかかるのでムリだった。とにかく時間がない。
 もう一度来よう。その時は時間をたっぷりとって剣ケ峰まで行こう。そう心に決めて潔く下ることにした。

 下りも沢すじを一直線に下った。尻セードをやってみたが、スピードがつき過ぎてしまうため、すぐにやめた。ここは雪渓の上に落石がゴロゴロしているので、もし石ころにぶつかってバランスでも崩したら一巻の終わりだ。
 それにしても下りは楽だ。登りの苦労がウソみたいに、ピッケルを片手にドンドン下った。

 実はこの下りがいけなかった。九合目から左の尾根へ出て、登って来た道へ戻るべきだったのに、調子にのり過ぎて、そのまま真っ直ぐ下ってしまったのだ。
 残雪が無くなって砂利道になり、その砂利道をだいぶ下った頃、「ちょっとヘンだな」と思ったが、道を尋ねようにも誰もいない。幸い下の方に人影が見えたので、そこまで一気に下った。

 山小屋の修理をしていた人に道を確かめると、「ここは須走り口ですよ」と言わてガックリする。
「吉田口へ出るには、もう一度あの小屋まで登り返すしかありませんねえ」
 と言って、今下って来た道を指さす。はるか上部に小屋が小さく見えた。もう一度あそこまで登り返すのかと思った途端に全身の力が抜けてしまい、ヘナヘナとその場へ座り込んでしまった。

 小屋の修理をしていた3人のうち一番年輩の60才位の人が、
「ここは吉田口へ下るつもりで間違って下って来る人が全体の8割だよ。つい先日もヒマラヤへ登った××さんも間違えて下って来てしまってねえ……。ヒマラヤを登った人でも間違うんですよ、ここは。もっとひどい時は家族でバラバラになっちゃってねえ、子供は吉田口へ下ったのに、親はここを下って来ちゃてねえ……。ここは本当に間違いやすいんですよ」
 と言った。
 私は「そんなに間違いやすい場所なら、標識ぐらい立てればいいではないか」と思ったが、口にはしなかった。

 年輩の人はさらに続けて言った。
「まあ、間違えて下って来た人はうちへ泊まって、次の日に戻って行く人が多いがねぇ」
 と言った。聞きようによっては、「道を間違えた人が泊まるので小屋が繁盛している」とも聞こえる。
「とにかく、ここをもう一度登るのが一番早い。あの小屋の脇から沢を横切って行けば、吉田口へ出られる。それにスバルラインが閉まっても滝沢林道があるから、それを下ればいい。もし下れなかったら、佐藤小屋が営業しているから泊めてもらうがいい」と教えてくれた。

 それにしても、一度下って来た道をもう一度登り返すとは、なんともやるせない。もう全身の力が抜けてしまい歩く元気もなかったが、このままでは仕方がないので、もう一度気を取り直して登り始める。
 もう16時半までに五合目へ戻る事は出来ないが、今日中に家へ帰れると知って安心したせいか、40分と言われた道を1時間もかかってしまった。だが、まだ吉田口へ出た訳ではない。これからが正念場である。

 教えられた通りに小屋の脇から沢をトラバースする。しかし、これが本当に道かと思うような所だった。ひとかかえもありそうな石ころがゴロゴロしている所を慎重に歩く。涸れた沢をいくつか横切って、やっと見覚えのある鳥居の所へたどり着いて安堵した。(この鳥居が八合目だったか八・五合目だったかは分からない)

 ここからは一気にかけ降りた。もう夕闇がせまっていた。富士山は日本で一番高い山だが、その分、東側は陽が陰るのも早い。登山者はもう1人も見当たらなかった。閉鎖された山小屋が、まるで廃虚のようで薄気味悪かった。せめて真っ暗になる前に五合目まで下らなければならないと必死で駆け降りた。

 途中、七合目あたりで登って来るパーティーに会って驚いた。この時間帯に登って来るということは、テントを張るしかないが、テントなど持っている気配はなかった。5人のパーティーで女性が2人。見るからにハイカーという感じで、どう見ても山屋(登山家)には見えない。
 先頭の男性に、「上でテントを張るんですか」と声をかけると、一瞬、間をおいて「テント、アリマセン」という。どうも韓国人らしい。

 一体どうするつもりなんだろう。テントがなければ凍死してしまう。私は真剣に「上はかなり寒いから凍死してしまうぞ。すぐ引き返した方がいい」とジェスチャーまじりで伝えると、両手を胸の前にあて、じっと我慢しながら夜を明かすという。
 日本人なら絶対に引き返すことを説得したのだが、相手が外国人で思うように言葉が伝わらない。それに彼らはいつもそうやって夜を明かしているのかも知れないと思い、「とにかく頑張って」と激励して別れ、再び下り始める。

 六合目あたりで暗くなった。ヘッドランプはザックの中にあったが、月明かりでけっこう歩ける。ここは樹木がなく、足元も砂利道なのでつまづく物もない。
 途中で小屋の前に人がいたのホッとした。滝沢林道が下れるかを聞くと、「滝沢林道は下れないのでは?」という。「佐藤小屋が営業しているから泊めてもらうといい」と言われる。
 今日はどうせ帰れないと諦めて、道ばたに座り込んでしばらく話し込んだ。

 結局、五合目の駐車場へ着いたのは18時半ごろだった。駐車場にはスバルラインが閉鎖されて下れなくなった人が何人かいた。車の中で寝る準備をしている人や、車の脇にテントを張っている人もいた。
 滝沢林道を下るため佐藤小屋へ向かった。ここは舗装もしていない石ころだらけの道で、車がエンストしないかと心配した。
 滝沢林道も閉鎖されていた。これで今日中に帰ることは絶望となった。あとは佐藤小屋へ泊めてもらうしかない。

 考えて見れば、富士山を1日で往復しようというのに少々無理があった。富士山は七合目か八合目で1泊して、翌朝山頂へ立つのが賢明だと思った。
 佐藤小屋の主人が玄関前で出迎えてくれた。人が来る時間でもないのに車が入って来たので、外へ出て来たのだろう。宿泊を願うと気持ち良く引き受けてくれた。
 客は1人も見当たらなかった。主人が私のために夕食の準備をしてくれた。

 食後は囲炉裏の火にあたりながら、主人とナイターを見た。
 囲炉裏にマキをくべながら、今日の下りで道を間違えて須走りを下ってしまったことを話し、「せめて分岐点に標識でもあれば間違わずに済んだんだがなあ」と言うと、主人から、
「そんなモノある訳ないだろう。何月だと思ってんだ」
 と言われ、さらに
「山男はなあ、そんなモノがなくても、地形で分かるようでなければナ」
 と言われる。
 たしかに山開き近くになれば、標識なども整備されるのかも知れないが、今はまだ6月に入ったばかりである。少し甘かった。それに、山男は標識など頼りにしてはイカン。地形で分かるようでなければナ、と言われた言葉が身にしみた。今後の教訓としよう。

 主人がご馳走してくれたコーヒーを飲みながら、下って来る途中で外人と会ったことを話すと、
「困ったもんだなあ。最近は外人が多くて、遭難騒ぎを起こしたり、小屋へ泊めてやってメシを食わせてやりゃあ、金は一銭も持っていなかったり。本当にメイワクしてるんだよ、最近の外人には」
 と言った。

 実は、私が会った韓国人らしい5人組のパーティーは、夜中になって救助を求めてきた。私は、定員が80人もありそうな大部屋の窓側にたった1人で寝ていると、夜中に窓を叩く音で目がさめた。あわてて窓の方を見ると、外に人影が見えた。窓をドンドン叩きながら、懐中電灯で私の顔を照らしている。とっさに「さっき会った外人が降りて来たな」、と思った。しかし、寝る前に主人から「最近の外人に迷惑している」という話しを聞かされていたので、主人を起こして良いものかどうかためらったが、このまま見過ごして寝てしまう訳にもいかず、別の部屋で寝ていた主人を起こすことにした。

 主人が起き出して玄関を開けると、男性2人と女性1人の3人が小屋の中へ入って来た。やはり、私が会った外人だった。3人はいずれも20代前半の若者だった。
 主人が彼らと話しをするが、日本語がまったく通じない。彼らは、上で2人が動けなくなったから救助してほしい、と言っているようだった。上にいる2人は男性と女性で、女性は57才だという。

 私が会った時、先頭にいた男性はカタコトの日本語を話したが、他の人はほとんど話せないようだ。私は彼らを韓国人だと思っていたが、シンガポールから来たという。
 盛んにポリス、ヘルプを繰り返す。主人がポリスはいない。山を下らないとポリスはいないと伝えるが、ほとんど通じていなかった。

 私は今まで救助活動などしたことはないが、もし主人から「今から救助に行くから手を貸してくれ」と言われたらどうしようと心配した。なにしろ今日は富士山を往復してメロメロなのだ。その上この夜中にもう一度登るなんてとても無理だった。
 しかし、それが人命救助となればそんなことは言っていられない。あるだけの力を振り絞ってでも行くしかないか……。

 そんなことを考えていた時、主人から、
  「どうせ死ぬことはないから大丈夫だ。朝の冷え込みでも3度位だから、凍死するようなことはない。あしたヤツらに迎えに行かせるから大丈夫だ。心配せんで寝た方がいい」
 と言われ、寝ることにした。

 床に入っても成り行きが気になった。いずれにしても今から救助に行くことはないようだが、上で動けなくなった2人はどうしているのだろうか。閉まった小屋の片隅にでも座り込んで、ガタガタ震えながら救助を待っているのだろうか。

 しばらくしてから、私が寝ている部屋へ主人が3人を連れて来た。結局、救助を求めて下って来た3人をここへ寝かせ、夜が明けてから、迎えに行かせることにしたようだ。
 私は結末を知って安心したせいか、すぐに深い眠りにおちた。
        *
 翌朝5時に目がさめた。昨夜の3人が小屋を出て行くところだった。私はしばらくしてから起き出した。主人は何事も無かったように、私の食事の準備をしてくれていた。
 私は小屋の周りを散歩した。富士山の山頂が朝日に輝いていた。その山頂を眺めながら、「ウーム、俺は昨日あそこまで登ったのだ!」と、1人満足そうにうなづいた。
        *
 富士山は、結局日帰りするつもりが1泊になってしまったが、佐藤小屋へ泊まったことも決してムダではなかった。主人と語り合ったことや初めて直面した「遭難騒ぎ」など、色々と教えられることが多かった。
 それにしても富士山にあんなに外人が多く登っているとは知らなかった。私が登っている時も、上から下って来る人が10人ほどいたが、そのうちの2、3人は外国人だった。富士山は今や日本一の山だけではなく国際的な山なのだ。さすがは世界のフジ・ヤマだ。

 山から帰って、「遭難騒ぎ」を起こした外人が気になって、小屋の主人に確認したところ、こんな言葉が返って来た。
「無事だったと思うよ。だってヤツらはここへ立ち寄らずに帰ってしまったんで、詳しいことは分からないが、遭難があったとは聞いていないから……。まったく人の恩を知らないよ……」
 と、淋しそうに言った言葉がいつまでも忘れられない。
    (平成6年6月)
      *
 富士山は、山頂部まで行ったので一応登ったつもりでいるが、3,776mのピークを踏んでいないので、日本百名山を目指す者にとってはアンフェアかも知れない。2002年の夏には、正真正銘の山頂を踏んで来ようと思っている。