甲武信ケ岳(こぶしがたけ)    22座目

(2,475m、 山梨県・埼玉県・長野県)


両門ノ頭から見た甲武信ケ岳(中央)と木賊山(右)。


大弛峠〜国師岳〜甲武信ケ岳縦走

1993年10月

相模原−相模湖IC−勝沼IC−大弛峠〜国師岳〜甲武信ケ岳〜小屋(泊)〜大弛峠

 私は山登りを止めてからもう10数年が経ち、「もう山へ登ることもあるまい」と思っていたが、昨年の夏に観光でスイスへ行ってアイガーやマッターホルンなどを目の前にした時、若い頃に燃やした山への熱い思いが蘇ってきた。

 そして、会社で山好きな人から山の話しを聞かされるたびに、「山へ行ってみたい」との思いが強くなり、先月、10数年ぶりに物置の奥から山靴を引っ張り出して丹沢を歩いて来た。
 久しぶりにさわやかな汗をかいて、「やっぱり山はいいなあ」と思った。そして、今度は天気のいい時に、奧多摩や秩父の山を歩いてみようと思った。

 私は奥多摩や秩父の山は、雲取山以外は登ったことがない。若い頃はただガムシャラにアルプスの岩尾根を登っていた。奥多摩や秩父の山などは振り向きもしなかった。その奧多摩や秩父の山を、今度はのんびりと歩いてみたいと思った。そして最初に頭に浮かんできたのがこの甲武信ケ岳だった。

「コブシ」とは何といい名前だろうか。私はこの名前だけは知っていた。そしてこの山が甲州、武州、信州の国境にあることも知っていた。しかし、どこから登るのかは知らなかった。ただ、「コブシ」という名前の響きのよさに惹かれ、この山へ登ることにしたのである。
 さっそく地図を買って調べ、一泊の予定で車で出かけて行った。
        *
 朝5時半に家を出た。相模湖インターから中央高速に乗って勝沼で降り、まずは恵林寺を目指して行った。
 峰越林道は、車が壊れてしまうのではないかと思うほど道が悪く、デコボコ道を腹をこすりながら進んで行った。
 大弛(おおだるみ)峠の駐車場はすでに満杯で止めることができず、反対側の川上村の方へ100メートルも下った所へやっと止めることが出来た。

 大弛峠からは国師ガ岳を目指して森林の中を進んで行った。すぐに大弛小屋があった。
 急登を登って行くと、森林の背丈がグーンと低くなり木の階段になった。手すりまで付いていた。ここは夢ノ庭園と言われている所で、家族連れや若いハイカーが大勢いた。

 ここからは、左手(西側)の奧に山頂が尖った金峰山が見えた。金峰山には五丈岩があるとは聞いていたが、あんなに尖って見えるとは知らなかった。


夢ノ庭園から金峰山が見える。

金峰山をズーム

 背後には南アルプスの荒川岳や赤石岳がぼんやりと見えた。

 国師ガ岳(2591m)の山頂には一等三角点があり、展望がすばらしかった。金峰山の五丈岩も一回り大きく見えた。南アルプスはもちろん八ケ岳まで見えた。

 ハイカーはここで引き返していくが、私は反対側の森林地帯を下って行く。途中から遠くに目指す甲武信ケ岳らしい山が見えてきたが、同じような山が並びどれが甲武信か分からない。下から登って来た単独行のオジさんに、どれがコブシかを尋ねてみたが、そのオジさんも分からないと言った。自分が目指している山が分からないとは何とも情けなかった。

 しばらく下って行くと、高校の山岳部らしい男女10人ほどのパーティーが、大きな荷物を背負って歌を歌いながら登って来た。最後尾にいたリーダーらしい人が、「もっと大きい声で歌え!」と気合いを入れていた。息を切らせながら歌を歌っている部員が、少し気の毒だと思った。

 国師岳からの急坂を下り切ると、あとは小さなアップダウンの繰り返しになった。森林の中で視界は利かず、すれ違う人もいない。これが奥秩父の山なのかと思った。


 静かな森林の中をさらに進んでいくと、突然前方が開け、両門ノ頭という所へ着いた。右手(東側)の山梨県側が絶壁になっていた。真下に見えるのは笛吹川の東沢らしい。

 ここからは縦走路の奧にコブシらしい山が見えた。甲武信と木賊山に違いないと思いながらも確信はなかった。山としては右側のトクサ山の方が立派に見えるが、どっちにしてもあまり魅力ある山ではなかった。コブシという名に惹かれてやって来たが、なぜあれが百名山なのだろうかと思った。

 再び樹林地帯の道となり、ここから大苦戦をすることになった。ここは雑木林で元々道が分かりにくい上に、新しい落葉が一面を覆ってしまい、踏み後が分からなくなってしまったのだ。時々立ち止まっては枝と枝の間隔を凝視する。人が通れそうな間隔がある所が登山道で、一歩でもはずれると枝が込んで通れない。

 時間がどんどん過ぎて行った。エネルギーの消耗も大きく、だいぶ疲れを覚えてきた。こんなに時間がかかるとは思わなかった。
 今日は時間を気にせずに歩いて来たが、大弛峠を出たのは9時を少し回った頃だった。ここはコースタイムが5時間少々なので、3時頃には小屋へ着けるだろうと思っていたが、このペースでは何時に着けるか分からない。10数年のブランクをすっかり忘れていた。次第にあせりが生じてきた。

 少し高台になった所で休憩していると、後から来た3人組が私のすぐ隣へ倒れるように座り込んできた。30代の男性と20代の女性2人だった。1人の女性は完全にバテていた。私もバテていたが、彼女はもう一歩も動けないという感じだった。3人は金峰山から縦走して来たと言う。
 3人連れは、ここへテントを張ろうと言っていたが、私はテントを持っていないので、どうしても小屋まで行かねばならない。

 また一人ぼっちになって、薄気味悪い樹林帯の中を歩いて行った。来るときは「のんびりと奧秩父の山を歩くのも悪くない」と思っていたが、のんびりどころか、あせりと不安でいっぱいだった。

 こんな所で日没になったら大変なことになる。今でも道がハッキリしないのに、真っ暗になったらヘッドランプを点けても前へ進めないだろう。しかも、そのヘッドランプを忘れてきた。とにかく日没前に小屋へ着くしかなかった。気持ちは逸るが、身体がなかなか前へ進まない。

 とにかく必死で歩き、日没ぎりぎりに山頂へ着いた。山頂には夕日を見る人が10人ほどいて、私が登って行くと「お疲れさま〜!」と拍手で迎えてくれた。4時40分頃だった。

 山頂に立った時は本当に助かったと思った。ザックを背負ったまま、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。しばらく動くことが出来なかった。西の空がオレンジ色に染まっていた。周りの人も、山頂の標識もオレンジ色に染まっていた。


(山頂で夕陽を待つ人達)

(山頂からの夕陽)

(富士山も夕陽に染まっていた)

 小屋はほぼ満員だった。ほとんどの人が川上村の方から登って来たと言う。今や大弛峠から来る人はほとんどいないようだ。

 小屋の周りにはテントがいっぱい張ってあった。やはりコブシという名に惹かれて来た人達だろうか。それとも日本百名山を目指している人達なのだろうか。

 小屋のトイレは外の少し離れた所にあり、へッドランプを忘れて来てしまった私は夜中にトイレへ行くのに苦労した。まず寝床から出るのに寝ている人を踏みつけないように、手さぐりで這って出た。しかし外は真っ暗で、トイレも真っ暗だった。玄関先でトイレに行く人を待って、その人の後を付いて行った。




 翌朝、再び山頂に立った。昨日はどれがコブシの山頂か分からなかったが、やはり真ん中の山だった。右側に見えた山は、やはりトクサ山だった。


(山頂からこれから向かう国師岳方面を眺める)

 縦走路にはシャクナゲがいっぱいあった。花の季節はさぞかし見事だろうと思った。私は我が家のシャクナゲが咲いたら、きっと、この甲武信を思い出すに違いないと思った。
        *
 家に帰ってから、深田久弥氏の『日本百名山』の甲武信ケ岳を改めて読んでみると、次のようなことが書いてあった。
『奧秩父でも、甲武信より高い峰に国師や朝日があり、山容から言ってもすぐ北の三宝山の方が堂々としている。甲武信は決して目立った山ではない。

 にもかかわらず、奧秩父の山では、金峰の次に甲武信をあげたのはどういうわけだろうか。おそらくそれはコブシという名前のよさ、歯切れのよい、何かさっそうとした山を思わせるような名前のせいかもしれない』。

 私はこれを読んで、今回コブシという名に惹かれて登って来た私は、深田さんと同じような感性を持っていたことになる、と素直に喜んだ。
 そして、どれがコブシか分からないような平凡な山に、深田さんが「日本百名山」という「名誉」を与えた理由が、やっと分かった気がした。(平成5年)