女峰山(にょほうさん)

(2,483m、栃木)  136座

雲の中からわずかに姿を見せた女峰山(男体山の志津林道側から)

志津乗越〜馬立〜唐沢小屋〜女峰山〜帝釈山〜富士見峠〜馬立〜志津乗越

2005年9月3日(土)

相模原445−川越IC−615高坂SA−720沼田IC−920志津乗越(駐車)935〜955ゲート〜1040馬立1050〜1212水場〜1247唐沢小屋1322〜1409女峰山1433〜1508帝釈山1518〜1613富士見峠1620〜1727馬立1735〜ゲート〜1830志津乗越

 この山は日光連山で唯一、鋭峰でアルペン的だという。山名は日光を代表する男体山(日本百名山)を父に、この山を母に、太郎山や大真名子(おおまなこ)山、小真名子山を子供に見立てたことからこの名がついたという。
 私は男体山に登ったことがあるが、その時はこの山に気づかなかった。最近、ガイドブックを見て「何としても登りたい」と思った。

 その女峰山へ仲間2人を誘って日帰りで行って来た。日中は高曇りで時々陽が差すこともあったが、展望は利かず、帰りの林道でやっとシルエットになった女峰山を見ただけだった。今回は私のチョンボもあって、帰りは真っ暗になった林道を歩くハメになってしまった。

 山は沢あり谷あり、岩場やガレ場、さらには2mほどではあったがクサリ場があり、ハイマツやコケモモなどもあってアルペン的で申し分なかったが、展望が利かなかったのが残念だった。
            ☆
 朝4時10分にKさんに車で我が家近くまで来てもらい、4時30分にMOさんと合流して4時45分に出発。
 川越ICから関越道へ乗ると、東の空から真ん丸い真っ赤な陽が昇った。先月、槍穂で見たあの神秘的なご来光とは違い、何となく夕日のように見えた。

 高速道路からは、赤城山や榛名山がボンヤリと霞んで見えた。女峰山はクッキリとその姿を見せてくれるだろうか。

 沼田ICで降り、日光・尾瀬方面を目指して行く。晴れていれば左手に見えるはずの上州武尊(ほたか)は見えない。昨年、尾瀬へ行った時に通った立派な吊り橋を左手に見送って日光へ向かって行く。

 目指す志津林道は戦場ガ原の光徳入口から入るが、それを素通りして三本松まで行ってトイレタイム。目の前に男体山がそそり立っていた。

 裏男体林道は原生林の中を走っており、昼でも薄気味悪かった。それに時間が遅いせいかすれ違う車もない。と思っていたら、工事関係者らしい車が下って来た。

 さらに進んで行くと、路肩駐車が目立つようになって来た。
 そして、道の両側に20台ほどの車がぎっしりと止められた所へ出た。標識も立っていた。ここが最終ゲートだと思い、Uターンして100mほど戻った路肩へやっと車を止めることが出来た。ヤレヤレ。
 予定より1時間以上も遅れて出発。

 さっきゲートだと思ってUターンした所は、実は「志津越え」で、男体山や大真名子へ登る人達の車だったようだ。我々は真っ直ぐ女峰山をめざして志津林道を下って行った。

 やがて路肩駐車が次々と現れて来た。しかし、これは違法駐車しているのだろうと勝手に思っていたが、ハッと気がつくと、路肩へ駐車しているということは、ここまで車で入れる訳だ!「そう言いえば、ゲートなんか無かったなあ〜」と思ったが、もはや遅し。もう車を取りに戻れない。「あ〜あ〜」ため息が出た。

 林道を20分も歩いた所にゲートがあった(9時55分着)。我々は車で来られる所をわざわざ20分も歩いてしまったのだ。「志津林道を歩くバカがいるか!」と笑われそうだが、それよりもこのゲートへ着く時間が予定より2時間近くも遅れてしまった方が痛い。

(写真はゲートを潜ってから志津林道を振り返る)

 男体山は三本松からは見えたが、志津越えからは上部にガスがかかって見えなくなっていた。
 気を取り直して、気合を入れて歩き出す。

 500メートル程だらだらした砂利道の林道を下って行くと、分岐があり、左手に「女峰山」の標識があった。標識に従って左へ進んで行く。ここからは少し登り返しになる。ダケカンバとクマザサの明るい林道を登って行く(写真右)。

 上空は所々に青空が見えるが、目指す女峰山は見えない。背後に見えるはずの男体山も見えなかった。

 馬立の分岐へ10時40分着。ここで一服していると、林道を下って来る中年の夫婦がいた。もう女峰山から下って来たのかと驚いたが、大真名子、小真名子を登って来たと言う。

 ここからは、右手の登山道を下って行く。ある人のHPには、「約100mほど下る」と書いてあったが、距離で100mなのか、高度が100mなのかは書いていなかった。実際は針葉樹林帯の急斜面を距離で100mほど下ると涸沢へ出た。そこからはいよいよ登りとなるが、さほどキツイ登りではない。

 35分ほど歩いた所に、真新しいベンチがあったので休憩する。すぐ右手の沢ではクレーンを使って大掛かりな砂防ダムの工事中だった。最初はクレーンの音が雷かと思った。

 二人連れが下って来た。彼らは我々とは逆コースで富士見峠から登って来たという。朝は林道からこの女峰山がクッキリ見えたという。我々は未だにどんな山容をしているのか分からない。ただ針葉樹林帯の薄暗い中をひたすら登っているだけである。

 やっと水場へ着いた。水場といっても普通の沢である。沢水をたらふく飲んで、ペットボトルの水を入れ替えた。沢を渡って20mも行くと、「水場」と書かれた標識があり、太いパイプから水が溢れるように流れていた。

 ここからは凄い急登になった。木の根っこにつかまるようにして登って行く。
 単独の男性が下って来た。「往復ですか」と声をかけると、「小屋まで行ったがどうせ何も見えないから帰って来た」という。言葉の訛りから地元(栃木)の人だと思った。私が栃木産なのでお国訛りが懐かしかった。それに、地方からはるばるやって来た人なら、展望が利かなくても下ることはあるまい。

 斜面がなだらかになってホッとすると、そこに小屋があった。すでに12時を過ぎていたので小屋の中で昼食にすることにした。(写真左は唐沢小屋)

 誰もいない薄暗い小屋なので、玄関の引き戸を開けたままテーブルで弁当を広げる。ここは仲間と一緒なら快適で楽しい一夜を過ごすことが出来そうだ。

 小屋からは唐沢の凄い急登になった。岩屑のガレ場を登って行く。

 30分登って5分の休憩を入れた。
 途中で下って来るパーティーに会った。その方から、
「あと5分で山頂ですよ」
 と言われる。地元の人のようだ。あと20分位かかるかと思っていたので徳したような気がした。


 確かに5分ほどで山頂の標識が見えた。
 そして、その山頂の手前の平らになった所に小さな祠があった。
 その祠に手を合わせてから山頂へ立った。しかし、展望は全くない。山頂で記念写真を撮り、しばらくガスが切れるのを待った。

 しかし、視界はいっこうに回復する兆しはない。ここで予定通り帝釈山を廻って帰るか、同じ道を引き返すか相談する。時刻はすでに14時を過ぎていた。

 帝釈山を廻って下ると、ゲートまで3時間10分。来た道を引き返えすと2時間3、40分。どうせ何も見えないなら引き返そう、ということで意見が一致した時、帝釈山方面のガスが一瞬切れた。シャッターを押す時間は無かったが、これで帝釈山を廻って帰りたいとの思いがつのり、帝釈山廻りに変更した。(時間的には往路を下るべきだった)

 山頂には、赤薙山への縦走路がしっかりとついていた。つい、その道を行きたくなるが、帝釈山へは左についた細い道を下って行く。岩とガレの急峻な道を少し下ると、あとは稜線歩きとなった。ハイマツや赤いコケモモの実があり、アルペン的でとても日光の山とは思えなかった。

 突然、背後のガスが切れ、今下ってきたばかりの尖った山頂が見えた。急いでザックからカメラを出したが、シャッターを切る前にまたガスに覆われてしまった。

 2mほどのクサリがあった。それを越えると「専女山」との標識があった。この名前はどういう意味なのだろうか。意味深な名前だ。

 帝釈山はアルプスのような岩と瓦礫の広い山頂だった。そこで一休み。

 ここからは一気の下りになった。石がゴロゴロした涸沢のような所を下って行く。雨が降ればきっと沢になるのだろう。かなり急斜面である。こんな所は登りたくないと思った。

 薄日が差して来た。道脇にはシャクナゲの木が沢山あった。花が咲く季節はそざかし見事だろうと思った。

 下るに従い、周りは原生林のようになって来た。こんな薄気味悪い所を一人で歩かなくて良かったと思った。

 帝釈山からは1時間弱で富士見峠へ着いた。広い林道の真ん中に標識が立っていた。

 ここは小真名子、大真名子への登山口にもなっている。昔の修験者は霧降高原の赤薙山から女峰山へ登り、この峠から小真名子、大真名子を越え男体山まで縦走したという。

 すでに16時を過ぎていた。たとえ林道歩きとはいえ、まだゲートまで2時間半もかかる。(さらに駐車場まで2、30分かかる)。急がなくてはいけない。

 ここは林道とは名ばかりで、大きな石がゴロゴロしていて車は通れない。

 3、40分もだらだらした下り坂を歩いて来ると、正面に立派な山がボンヤリと見えて来た。

 最初は男体山かと思って写真も撮らなかったが、男体山にしては山容がおかしい。どうも今登って来たばかりの女峰山ではないかと思い、シャッターを押したが露出不足でシャッターが切れない。手動で切った。

 やっと女峰山の写真が撮れて嬉しかった。たとえシルエットでも山容が分かっただけでも嬉しい。後は急いで下ろう。

 馬立まで1時間15分で下った。馬立で小休止。登る時にあったバイクはもう無くなっていた。もうとっくに下ったのだろう。

 次第に暗闇が覆って来た。林道なのでヘッドランプがなくても歩けるが、先程からポツリ、ポツリと落ちてきた雨が気になった。何とか駐車場までは本降りにならないように願いながらピッチを上げた。

 ゲートまで来ると車が1台あり、人影が見えた。もう誰もいないと思っていたのでホッとするものがあった。近づいてみると、我々が登っている時、避難小屋近くですれ違った子連れの夫婦だった。お父さんが3歳ぐらいの子を背負い、お母さんが1歳ぐらいの子を背負っていた。その家族が帰る準備をしている所だった。

 雨が本降りになって来た。駐車場まであと3分か5分で着くだろうと思うと、雨具を出す気にはならない。だらだらした上り坂を、ただひたすらピッチを上げた。まるで競歩の選手のように暗闇の中を急いだが、5分どころか10分歩いても着かなかった。雨はいよいよ本降りになって来た。

 やっと志津越えへ辿り着いた。ゲートから20分位かかっただろうか。20台もあった車はもう1台もなかった。周りはもう真っ暗だった。

 車中で「また天気のいい時に来よう! 今度は男体山へでも登って女峰山をじっくり眺めよう!」と話し合った。

 最後に、山へ行く前に買い置きしておいた本を、山から帰ってから読んだところ、偶然にも男体山のことが書いてあった。参考までに紹介しておこう。

 まずは戦場ケ原について、『戦場ケ原にも伝説上の戦いがある。それは蛇に姿をかえた日光・男体山(二荒山ふたらさん)の神が、大百足(むかで)に姿を変えた赤城山の神と戦場ケ原で一戦を交え、(中略)男体山が勝利した。』という。

   さらに、『二荒山(男体山)が歴史上に現れるのは、今からおよそ1,200年前の昔、平安時代初期のことである。勝道(しょうどう)上人が中禅寺湖と戦場ケ原にそびえ立つ峰に登って、山岳仏教の道場を開いた。この峰が後に言う男体山である。
(中略)
 この峰を観音菩薩の住みたもう浄土・補陀落(ふだらく)から、二荒(ふたあら)山と命名した。日光の語源はこの二荒を、さらに「にこう」と音読して、日光の文字を当てたものである』という。

 どうせなら、山へ行く前に読めばよかったと思った。これからは山へ登る前に、その山の歴史のお勉強でもするか!!!

【おまけ】

太郎山から見た女峰山。尖りが女峰山、手前の丸っこいのが帝釈山