ダイヴァース  Divers, Edward  1837,11.27 ケンジントン生  1912,4,4 ケンジントン没
 イギリスの化学者・お雇い外国人
1852年王立化学学校に入学、1年間A.W.ホフマンの指導を受けた。1854年医学の学位(当時自然科学の学位は他に無かった)取得と化学教育、研究のため、ゴールウェイに赴き、1860年ダブリンのクィーンズ・カレッジよりM.D.の学位を得た。1873年A.W.ウィリアムソン、W.オドリングの推挙により、来日。同年7月1日工部大学校化学教師になる。1886年3月帝国大学令が公布され工部大学校は帝国大学となり、工科大学ではなく理科大学に就任した。その指導を受けて卒業した者は工部大学校化学科23名、理科大学化学科36名になる。この中には工部大学校時代の門弟には高峰譲吉、河喜多能達、垪和為昌、清水鉄吉、下瀬雅充、理科大学以来の門弟は小川正孝、九重真澄らがいる。1884年11月工部大学校実験室で試薬ビンの栓を取ろうとしていて爆発し、右眼を切る大事故にあったが、26年間の長きにわたって日本化学界のために貢献し、1899年帰国した。発表論文は学生達との共著も多いが、107篇にのぼる。化学史に残る仕事としては、ナトリュウムアマルガムで硝酸ナトリュウムを完全に還元すると次亜硝酸塩が得られるという発見がある。日本固有の事物を取上げて研究したものとして「草津温泉の硫化水素の量」など7報がある。帰国後もダイヴァースは研究を続けており、1900年から1911年までの12年間に「ロンドン化学会誌」に発表した論文が10篇、「化学工業会誌」に掲載したものが2篇ある。胸像が東大構内にある。
櫻井錠二との関連
 ダイヴァース日本着任時には櫻井錠二が直接指導を受けた記録は見当たらないが理科大学教授着任4年後の1886年に帝国大学渡辺洪基総長の辞令「校内の燃料ガス製造の装置並びに電機灯使用に付きガス機関の装置の儀 ダイヴァース教師及び高松(豊吉)教授と協議取り調べ報告相成り度候也」が残っている。明治22年当時の東大教授陣
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