アインシュタイン | Einstein, Albert | 1879,3,14 Ulm 生 | 1955,4,18 Princeton 没 |
ドイツ系アメリカの理論物理学者 ミュンヘンのギムナジューム在学中は大成しないと教師に言われる程数学を除き学業は揮わなかった。この点はニュートンに似ている。一族がミラノへ移住し、ドイツ国籍を捨てたので1897年チューリッヒの連邦工科大学に入り、1900年に卒業。1903年からベルンの特許局技師になる。1901年スイス市民権取得。1905年に3篇の歴史的論文を発表「光量子論」「ブラン運動の理論」「特殊相対性理論」である。この相対性理論は有名なアインシュタインの式E=mc2を導出し、質量とエネルギーとの量的関係を示した。1908年ベルン大学講師。1909年チューリッヒ大学員外教授。1911年プラハ大学教授を経て、1912年チューリッヒの連邦工科大学教授。1914年ベルリンに招待されカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所長となる。1916年一般相対性理論を完成。相対論的宇宙論を唱え、一般相対性理論で予見した重力場における光線の屈折1919年イギリスの日食観測隊により実証された。光電効果の法則を発見した功績により1922年ノーベル物理学賞を受賞した。その報は旅行嫌いのアインシュタイン夫妻が日本へ向う船上にもたらされた。神戸・東京・仙台・名古屋・京都・大阪・博多の各都市で講演を行った。1929年相対性理論をさらに拡大し、万有引力と電磁気力の一切を含む場の統一場の理論を発表。1924年インド出身の物理学者ボース(1894,1,1-1974,2,4)がアインシュタインに送った論文「プランクの法則と光量子仮説」を高く評価し、アインシュタインがそこに含まれている統計法を期待分子に適用して広い立場から論じた「ボース・アインシュタイン統計の理論」を発表した。1933年ユダヤ人への迫害をさけ、ドイツからアメリカに渡り、プリンストン高級研究所の修身所員となった。1939年ルーズベルト大統領に所信を送り、ウランの核分裂に関する研究を提言し、マンハッタン計画の一契機となった。しかし1950年水爆計画に反対し、1955年死の直前ラッセル・アインシュタイン宣言に署名、核兵器反対運動への基盤を築いた。ヴァイオリンの名手でもあった。 |
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櫻井錠二との関連 | |||
大正11年アインシュタイン来日当時、公式レセプションで学士院長として応対する。 |