オストワルド  Ostwald, Wilhelm  1853,9,2 リガ
   (ラトビア) 生
 1932,4,4 
   ライプチッヒ近郊 没
 ドイツの物理化学者・思想家
ロシア領で誕生、両親はドイツ人。父は桶匠。実科高校に入学当時、手作りの花火、写真、絵画等に懲り2年も卒業が遅れた。何でも自分で作る経験が後年の仕事のスタイルとなった。ドルパート大学に入り、リービッヒ門下のシュミットの影響を受け、また物理学教授エッチンゲンの助手をした事で化学変化を物理的に取り扱う姿勢が養われた。この時代にオストワルド式の比重計や粘度計を発明。また長年弦楽四重奏を楽しんだ。1878年容積化学及び光化学研究により学位取得。28歳で画期的な教科書 「Lehrbuch der allgemeinen Chemie」を出版、翌年生地リガ工業大学化学教授となった。酸と塩基の親和力を研究中、1882年アーレニウスの電離説を一速く認めその普及に貢献。彼をリガに招き反応速度を共に研究。有名なアーレニウスの式はこの時代に生れた。リガ時代に新雑誌 「Zeitschrift fur physikalische Chemie」を
ライプチッヒから発刊。ファント・ホッフが編集者として名を連ねているが、事実はオストワルドが単独で編集した。1887年ライプチッヒ大学の物理化学教授となったが初めは農学部の教室しか与えられず、ロシアから来たことで冷遇されたが、翌年ドイツ市民権を得、新分野に対する旺盛な研究心と組織力で教育者としても名声を得た。ヨーロッパのみならずアメリカ、日本からも研究者を受け入れ、リービッヒに勝るとも劣らぬ一大センターを形成するに至った。1888年には希釈率を発見、同年ネルンストが最初の助手となり、電池の電動力の説明に成功。ベックマンは自己の名を冠する寒暖計を発明した。これはオストワルドのアイディアになる。1887〜1906年の間に彼の研究室から60人の指導的物理化学者が輩出。日本では桜井錠二・池田菊苗・大幸勇吉の3人の物理化学の先達がその教えを受けた。1889年「Ostwald Klassiker der exakten Naturwissenschaften」を発刊(1966年まで250冊)、科学の原典を供給。1894年電気化学会を創立、その初代会長となった。(1902年ドイツ・ブンゼン学会と改称) ライプチッヒ時代の主な研究テーマは化学力学と触媒、1890年自触媒、1895年触媒の概念設定。協力者の中にはミッタッシュがいる。1900年硝酸製造のオストワルド法を完成し、1909年ノーベル化学賞受賞。超人的筆力で1904年までに教科書6000ページに余り、300篇の科学論文、4000の論文抄録、書評900点に上る。1903年最初の交換教授としてアメリカに渡り、その寸暇を利用して「Schule der Chemie」を書いた。1906年引退後も自他の小実験室を設け、10点の化学、色彩論、科学に関する著述を出した。
櫻井錠二との関連
 1887〜1906年の間に彼の研究室から60人の指導的物理化学者が輩出。日本では桜井錠二・池田菊苗・大幸勇吉の3人の物理化学の先達がその教えを受けた。1901年11月18日ライプチッヒでオストワルド氏方へ午餐に招かれた記述が残っている。又大幸勇吉・池田菊苗はじめ多くの留学生が滞在していた。
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