安達幸之助(1824-1869) 文政7年生まれ、加賀藩士、中宮五左衛門と母、河内郡津幡沢 前徳願寺の妹との二男。後安達六郎の養子。 蘭学、西洋兵学を江戸で大村益次郎に学び、藩校壮猶館で、大砲の鋳造を指導する。後、京都伏見兵学校で兵学、英学を講義。明治2年9月4日大村益次郎と共に京都で刺客に襲われ絶命。享年46歳。京都東山霊山護国神社に葬られる。
妻・安子(1835-1913) 天保6年加賀藩士山内信一(石川)磯子の長女。嘉永4年17歳で幸之助に嫁す。35歳の時夫横死。長女銀子17歳、長男松太郎14歳、次女鉚子は7歳、三女鉞子4歳であった。幼少から漢学、習字、国学に造詣深く、女紅(裁縫、手仕事の指南)等子女教育に熱心さを認められ、金沢市内に女学校を設立、学務史員となる。夫の墓参も兼ね京都へ学事視察。京都府立第一高等女学校で奉職。明治14年6月文部省より東京女子師範学校寄宿舎勤務の命を受け、明治34年免職。その後下層階級の子女に無料の助産所を開き「東亜仏教婦人会」等を通して福祉事業に専念。大正2年宝冠章綬章。生涯貧困家庭の女子教育に尽力。享年76歳
境内にある徳田秋声の碑
徳田秋声の碑