前田家とのご縁(利嗣公・朗子夫人・有栖川宮慰子妃)
第六代藩主前田吉徳(よしのり)公(1690〜17459)の時代に櫻井家六代目甚太夫が御馬乗竹村仁左衛門の弟子として江戸で召し出されて以来、代々「お馬乗り」でした。
錠二は安政五年(1858)九代甚太郎の六男として金沢で誕生しました。甚太郎は嘉永元年(1848)には『豊之丞殿<慶寧(よしやす)公の五番目の弟利行(としみち)(1835-1855)で、後の加賀大聖寺藩主>の御馬術御稽古方御用・御馬奉行支配』と先祖由緒一類附帳に書かれています。所が文久三年(1863)錠二五歳の時に父が四十八歳で病死し、異母兄先之丞が家督を継いだものの禄高は半減し、一家は困窮の極みに陥ったのでした。四人の子供を残して夫に先立たれた母八百(やお)は遺児の教育こそ将来進むべき道、しかも時流は洋学と見極めていました。錠二の長兄房記と次兄省三は西洋式砲術操練所「壯猶館」に入門。錠二は藩立英語学校「致縁館」で英人オズボーンに就いて勉学していた所、明治維新となったのでした。
明治三年に東大の前身「大学南校」に貢進生として東京で寄宿していた二人の兄の勧めもあって、母八百は東京移住を決意したのでした。跡目を継いだ異母兄は金沢に留まり。親戚の猛反対を押して馬場一番丁の屋敷と家財を処分して旅費に当てたそうです。
新政府は版籍奉還・廃藩置県を実施し、最後の第十四代加賀藩主前田慶寧(よしやす)公(1830〜1874)が東京居住となった明治四年(1871)に錠二と母は前田家屋敷の一隅に無償で小屋を提供され落ち着くことが出来たのでした。まもなく錠二は「大学南校」「開成学校」で化学を専攻し明治九年(1876)文部省から五年間英国へ留学しています。
錠二と同年の利嗣(としつぐ)公(1858〜1900)は岩倉遣欧使節団に加わり明治4年に留学され、慶寧公御病気のため明治六年に帰国されています。佐賀藩最後の藩主鍋島直大公爵もご一緒だったようです。後に朗子様がお嫁入りするご縁になったのでしょうか。
錠二は明治十五年(1882)に東大教授となり、流暢な英語、英国仕込みのダンスや身のこなしは評判だったそうです。学界や国際機関の代表として海外に渡航することも多く、残されている辞令から、この頃から宮中に参内するようになっています。また女子教育に関心のあった錠二は明治二十年(1887)に東京女学館の前身「女子教育奨励会」の評議員になっています。皇族、華族方が会長、副会長に推戴され、各宮妃、御奥方様方が多く賛同されていますので各宮家とお目見えすることは多かったと思われます。副会長には各宮妃や華族の奥方様の中に鍋島榮子(ながこ)夫人<公家広橋胤保(たねやす)五女・旧佐賀藩主鍋島直大夫人で日本赤十字社篤志会会長>のお名前も見られ、会員名簿には前田朗子様のお名前も見られます。錠二は明治天皇・大正天皇・昭和天皇の御信任を頂戴したそうで御進講も務めています。利嗣公と、まじかに接した詳細は残っていませんが明治三十三年利嗣公が薨去され、一周忌に招かれた時、錠二は外遊中で妻の三(さん)がお屋敷に伺った旨を知らせると「お供物のくわだて御心附けの程嬉しく御礼申し上げそうろう」と返事を出しています。
また故利嗣夫人朗子様宛てに「在英公使林夫人からお預かりものをしたことを奥方様にお伝えするように」とも書かかれています。妻の三も年中、前田邸に伺っていた様子が伺えます。もっとも実父は馬廻りから、海軍奉行・前田家参事・家政を努めた岡田雄次郎<後に棣(なろう)と改名>で、晩年は前田邸内に居住していて三もおそば近くでお仕えしていたからかも知れません。
錠二の長兄房記(理学博士・東京師範学校教諭・東京物理学校創始・第五高等学校校長/1852-1928)も前田利武男爵(慶寧の十二番目の弟)の留学に委嘱され明治十五年英国へ同行。同時に文部省命を受け仏国の師範学校・中学・小学教育の視察をしています。
錠二は東京帝国大学を退官後、大正九年(1920)貴族院議員・大正十五年(1926)枢密顧問官・帝国学士院院長に就任する頃には国際会議や日本学術振興会の設立に奔走していました。
利為(としなり)公爵の時代には外国の賓客は前田邸の洋館でおもてなしされたと聞いております。また学士院賞授賞者を伴って前田邸を度々訪問していたようです。昭和十年に金沢で日本学術協会第十一回大会が開かれ利為公が会長として祝辞を述べられています。このように錠二の亡くなる昭和十四年まで前田家からご支援を頂きました。
短冊箱・短冊入れ
短冊箱は黒漆塗り、銀で『短冊箱 紋唐草蒔絵』と書かれている。黒漆塗りに金の剣梅鉢紋唐草模様の短冊入れを納める外箱である。箱の大きさは幅14cm 長さ43cm 高さ7.5cm
短冊入れは幅10cm 長さ29cm 高さ3.5cm
短冊箱の銀の文字は酸化して黒ずんでいますが短冊入れはとても美しく、恐らく百年近く経っていると思われますのに、新品かとも思われる程の状態でした。
錠二の死後七男春雄に渡り、その息子利雄が所蔵していましたが、一昨年十二月に七十二歳で急逝し、遺品整理をしていた妻から私へ委託されました。当櫻井家は前田家とはご縁が深く、梅鉢紋付きのお品が残されていないことは不思議に思っておりましたので、震災、戦災などを免れたこのお品は大変貴重です。
短冊箱の内側に錠二の直筆で貼り紙があり有栖川尉子(やすこ)妃の御形見分けで大正十三年に頂戴した事がわかりました。尉子妃(元治元年〜大正十二年/1864-1923)は利嗣公と六歳違いの妹に当たられ、錠二の父方叔母の娘が慰姫様御付きとなっていました。明治十三年(1880)に有栖川宮威仁(たけひと)親王(文久二年〜大正二年/1862-1913)妃となられました。漢学、和歌、書道、絵画等に通じ、威仁親王と共に天皇にお仕えし、明治二十二年〜二十三年(1889-1890)には親王の欧米視察旅行に同行されています。
朗子様との関わりを検証してみましょう。佐賀藩最後の藩主鍋島直大公爵(1846-1921)の長女として明治三年(1870-1949)佐賀で誕生。東京で成長され明治十七年に前田利嗣公に嫁す。利嗣公没後も東京の前田邸にお住まいでしたが、戦時中に金沢の成巽閣(せいそんかく)へ疎開されて以降も金沢で過ごされ昭和二十四年(1949)七十九歳で亡くなられました。前述の女子教育奨励会の会員名簿にお名前がありますので錠二は親しくお話をしたことでしょう。
付記
梨本宮家にはいくつかのご縁があります。
鍋島直大公爵次女の伊都子様は父のイタリア駐在全権特命公使赴任地で明治十五年(1882)に誕生。母は公家広橋胤保(たねやす)五女榮子様で日本赤十字社篤志会会長・各種夫人会会長を歴任)。伊都子様は明治三十三年(1900)に梨本宮守正王(1874-1951)に嫁がれました。第一王女方子様(1901-1989)は韓国皇太子李
垠殿下妃となられました。(大正九年/1920)第二王女規子様は広橋真光夫人。
○錠二の長兄房記は明治四十一年(1908)に韓国皇太子李 垠殿下の教育係となっています。
○錠二の次兄省三(明治十年〜十四年に仏国留学・海軍造船大監・工学博士/安政元年〜昭和十九年/1854-1944)の妻鉚(りゅう)は父安達幸之助(加賀藩士・勤皇家・刺客に襲われ大村益次郎と共に京都で落命/1824-1869)と母安子(金沢に最初の女学校創立・夫没後に京都女紅場監督・東京女子師範学校御用)の次女で、宮内省御用取扱梨本宮妃殿下附でした。
平成22年1月19日
櫻井錠二孫 山本和子記