故 櫻井信雄
明治42年2月 櫻井錠ニ・三子の八男として東京市本郷区駒込曙町16番地で出生
父上の思い出
私が誕生した時には、父上は既に50歳を過ぎ、家庭人としても化学者としても充実、且つ多忙な生活を送られていた。兄4人、姉4人の末っ子の私は大勢の家族や親戚に暖かく見守られて育てられたようだ。
父上は「自分の事は自分でする」を、モットーに身の回りのことはすべてご自分でなさっておられた。大礼服、燕尾服は勿論、帽子や靴までご自分で手入れをされていたと聞く。
また大変家族思いで、外遊先から留守宅に宛てられた手紙の中に、一日千秋の思いで東京からの返事を待たれていた様子や大勢の家族全員のお土産選びに苦心された様子などがにじみ溢れていた。私自身は忘れてしまったが、舶来のお土産がどんなに楽しみであったか、甥や姪の間では今でも話題になるほどである。カメラ・時計・宝石・銀製品・洋服・世界地図・化粧品・人形等を所望したようである。
当時我家ではパパ・ママと呼び、朝食はこんがり焼いたトーストにバターとミルクティーかオートミールなど食物の嗜好もバタ臭い傾向であった。ビフテキ・シタビラメのムニエル・コキール・牛ひき肉のトマト煮など私の好物は父上譲りであった。クリスマスには遠くの孫も集合し、仮装大会が催された。サンタクロースの衣装を着けて孫一人一人にプレゼントを渡されるのをこよなく楽しまれた。英国留学の経験や若いころから女性の教育の重要性を唱えておられたせいか大変フェミニストで、金婚式の祝いの席では「現在自分があるのは母(八百)と妻(さん子)のお陰で感謝している」と述べられた。
晩年は学術の振興に力を注いでおられ、九州や北海道にも講演に出掛けられ、「学術振興会設立は最後のご奉公である」とおっしゃっておられた。天皇陛下から御下賜金を戴いた時には大変感激され、「学術振興会は孫のようである」ともおっしゃておられたと聞く。
没後一年祭に遺稿集としてまとめられた「思い出の数々」はご自身で履歴書、講演やスピーチなどの原稿が目次まで添えられて整理されていた事は几帳面なご性格を物語るものである。
父上の遺品資料はほとんどが石川県立歴史博物館・国立科学博物館等へ寄贈され、企画展も開催されている事から、このホームページでは年表を主体とし、画像は平成13年春に遺品の整理をした際確認された新資料を取り入れた。 平成14年3月
参考資料 :
遺稿集「思い出の数々」 昭和15年刊
「日本近代化学の父 桜井錠ニ」 金沢市立ふるさと偉人館 昭和55年刊
管理者 山本和子 (櫻井信雄長女)