昭和14年2月1日 青山斎場に於いて神式を以って施行せられた。  
 斎場は榊を主とし花輪を之にあしらい誠に上品にしつらへられた。                 
 にこやかな写真の下には新たに賜った旭日桐花綬章は真紅の綬
 に燦然と輝いて居る遺族親族席は早くからギッシリ詰って通路さえ
 ない一個小隊に余る令孫達も寂として声がない
 会葬者も近衛枢密院議長を先頭に荒木文部大臣以下官界と云わず
 民間と云わず知名の士が身動きもならぬ迄につまり場外に迄溢れ
 居る。祭事は進められた 秩父宮御使の玉串奉奠があった
 文部大臣ははっきりした言葉で力強く次の弔辞を読まれた(中略)
            
 次いで加藤帝国学士院幹事 平賀帝国大学総長も弔辞を朗読された
 その他約30通の弔辞が奉呈された その中にルーマニア公使
 ストイセスコ氏のものもあった(中略)                    
 捧げられた玉串は八足に山を為した 最後に博士が館長として愛育
 された東京女学館の生徒達が一隊となり黒一色の中に薄クリームの 
 上着で粛々として進み御分かれを告げた。                 
 
 続いて告別式が行われ博士を追慕する老少男女陸続として参拝し
 各省大臣外国使臣其の他 朝野の知名の人士多く之に交わり会葬者
 は千六百人を越え世間稀に見る盛儀であった 
  「学術振興」第十三号 昭和14年3月 日本学術振興会編輯 
  (岩波書店)から抜粋
 葬儀委員長は田中館愛橘博士     墓所は東京巣鴨染井霊園       
弔辞リスト