<第一次渡航>明治34年7月18日 ロンドンからの妻三子宛て手紙より |
オズボンの事はご承知ならざらんが 明治2年加賀藩に雇われ 七尾にて英語の教師を為し居り候(そうろう)て 私の元の教師にこれ有り 後、横浜に転任し神奈川の雇いとなり 今より12年程以前 お許樣同道にて同氏を訪ね 其の時娘(当時6歳)に人形を持参して与えし事これ有り候由なるが 同氏は目下ロンドンに在住せる故 過日訪問いたし候処 非常に喜びかの娘(目下18歳にて顔もべっぴん) 人形を与えし人とて私の事を今に覚え居り候には実に驚き申し候 人形を与えし事は自分にては少しも覚えおらず 右の物談にて左様の事もありしならんと薄々記憶に止まり居り候くらいに御座候 その後同氏方にて日本食の馳走にあいなり きんとん付きの口取迄調理いたし候にはこれまた驚き申し候 オズボンは英人なれども日本語を達者に話し 妻君は日本人なれども英語を善く話し 娘は日本を去りて12年にあいなり候へ共 これまた上品なる日本語を話し一種奇妙なる一家族に御座候 以下略 [オズボーンは明治38年(1905)ロンドンにて63歳で逝去] |
軍艦所跡石碑より |
明治2年軍艦所内に「七尾語学所」が設けられ藩内から選ばれてオズボンから英語・数学・近代化学を学んだ 代表的な生徒は櫻井錠ニの他 平井晴二郎(1858〜1926)工学博士・鉄道院副総裁・貴族院議員 高峰譲吉(1854〜1922)薬学博士・工学博士・タカジアスターゼ・グリセリン復原法・アドレナリンの発明 石黒五十二(1855〜1922)工学博士・海軍技師・鎮守府、港湾、発電所等の建設・貴族院議員 瓜生外吉(1857〜1937)海軍大将・貴族院議員 |
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<第四次渡航> 大正七年九月二十二日付 ロンドンからの手紙から |
オズボン(恩師オズボンの子息)が昨年十月に結婚せし事 先日初めて承知いたし候が 一日夫婦にてホテルへ来訪致し呉れ候へ共 相悪く不在にて面会を逸し候いしが 其の後同氏の宅に招かれ妻君に初対面いたし候 妻君は極めておとなしき上 上品なる人にてオックスフォード大学に於いて教育を受けたる由 夫婦仲の睦まじきことは勿論に候が日本人なる姑に仕え又夫の妹とも同棲して一同円満なる家庭を作り居るは英国の婦人には実に珍しき心掛けなりと感心せざるを得ざる次第に之有り候 老母は先年中風にて打倒れ其の後 今尚半身不随にて甚だ難儀の様見受けられ候が 自分が久振りにて参りたるを喜び 自由ならざる身体を二階の自室より階下の客室に運ばせ涙を流しての握手には誠に気の毒なる思いをいたし候 嬢は本年 最早四十二歳に相成り候にて大分お婆さんとは相成り候へ共 幾分若き頃の面影を存し 相替わらずまめまめしく立働き老母にはあらん限りの孝行を尽くし 兄嫁を愛し近所に多数ある負傷兵を慰むることを努める等[ボランティア]いかにも優しくてしかも気性の強きこと男勝りとの評判之あり候 |
<第三次渡航> 明治43年6月6日付ロンドンからの手紙より |
其の後皆々変わりも無きや 中略 ホテルに居るのも唯一時の事ゆえ当地へ来た事を誰にも知らせ申さず候明日は大使をも訪問致すべく且つそれに到着の案内も致すべしと存じ居り候 当地到着以来万事オズボンーン嬢の世話になり且つ種々馳走になり喜び居り申し候 |
<第二次渡航> 明治40年8月22日 ロンドンからの手紙より |
一昨日はオズボーンの所に招かれて参り 未亡人に泣かれて困り申し候 同人の娘は今以って人形を貰った事を覚え居り喜びて話いたし居り候 |