追悼文16 桜井先生の生誕百年にさいして 鮫島実三郎 「化学と工業」 1巻8号
<昭和33年>

今年8月は日本の純正化学」の開拓者桜井錠二先生の生誕100年目にあたる。先生は安政5年(1858)8月18日旧加賀藩士桜井甚太郎氏の六男として金沢市に生れる。先生5歳のときに父君に死別、その後は母堂八百子刀自の手一つに育てられた。13歳のとき藩立の英語学校に入学したが、後能登の七尾に新設された語学所という寄宿制度の学校において英人オズボーン氏につき約7ヶ月間通訳抜きで英語の直接教授を受けられた。先生が英語に非常に堪能であったのはこういうところに一部の原因があったのかも知れない。

 先生の母君は進歩的の賢夫人であって、当時世情騒然たりし時においても家運挽回の要件は一に遺児の教育にありとの下に、明治4年(1871)金沢にある先祖伝来の地所家屋を売払い東京に移り住んだ。そして同年先生は大学南校に入学された。南校は後に開成学校と改称されたがその本科2年を終了した明治9年に化学を学習するため英国に留学を命じられた。

 ロンドンへ行って Williamson 教授につかれたが、この人はエーテルの構造を研究したことで化学史において有名である。先生はここでよく勉強して抜群の成績をとられた。また CH2HgI2,CH2(HgI)2 等の有機金属化合物に関する研究論文2編書かれた。これは有機物とはいえ炭素量の非常に小なる化合物として注目された。

 在英5年の後明治14年帰朝され、その翌年24歳にして東京大学教授に任じられた。その当時のことを先生はつぎのように記しておられる。「留学満期と成って自分が英国より帰朝したのは明治14年の8月であったが是より先尚倫敦滞在中に時の東京大学総長加藤弘之先生から一通の書面を頂戴した。而して其の書面の意味は自分の帰朝の上は東京大学に奉職して貰いたいと云うのであった。立派な学者が沢山にあり又就職難の甚だしい今日から之を考へるときは全く嘘の様であるが嘘ではなく真である。而して夫れは当時正式に専門学を修めた者が極めて稀であったが為に自分の様な浅学非才而も年齢僅かに二十三の青二才が誤って大学総理から招かれたのであろうが余りに分に過ぎた話であるので余程躊躇はしたものの去りとて之を断る勇気もなく結局お請けをすることにした。而して帰朝後直に文部省御用掛を仰付けられて東京大学理学部講師の任を委嘱せられ而も直ぐ其の翌年には本官たる東京大学教授に任ぜられて年俸千五百円を賜ったが之れ全く時の運である。而して自分の運は明治四年に大学南校に入学を許され、 同九年に英国留学を命ぜられたことより開き始めたのであって、爾後の一生涯は幸運の連続である」(遺稿「思い出の数々」より)

東京大学では理科大学長(現在の理学部長)とか総長事務取扱などもされた。大正8年(1919)定年制によって東京大学を退職されたが、それまで教授の職にあること実に37年の長きに渉った。筆者が桜井先生の講義を聴講したのは大正2年であった。まず化学理論の発達史を述べられたが、ことに有機化合物の構造に関する思想発展の歴史は先生のもっとも熱心に講ぜられたところである。先生の師 Williamson の業績をたたえる御言葉などいまなお筆者の耳に残っている。それから化学量論、熱化学、電気化学等の講義をされた。

 先生のお若かかりしころの化学の発達は無機、有機、物理化学などというような区別もなかったようであるが、その後Divers先生、垪和先生が工学部から理学部に移って来られた後、無機化学方面はこの二人の先生の担任となり、桜井先生は物理化学と有機化学方面の学科を受持たれたが学生指導の際、いつも理論の発達進歩には最も留意された。ことに明治20年のころ Ostwald, van’t Hoff, Arrhenius 等の人々によって物理化学が一大進歩をするや逸早くこれをとってその伝播に尽力された。先生は明治25年(1892)溶液の沸騰温度に関する研究を発表され、従来一般に沸騰点測定に用いられたベックマン法の欠点を除いた新測定法を考案された。すなわち溶媒蒸気を溶液中に通して溶液を沸騰させ、これによって液の過熱を防ぐのである。この研究は本邦人化学者の手によって完成された最初の世界的研究といえよう。この先生の考えを基として作られたものにわが国で用いられている桜井・池田装置があり、または外国で主として用いられている。Sakurai-Landsberger の装置がある。先生はまた明治27年アミドスルフォン酸の伝道度に関する研究をされ、これからグリコココルの化学構造に関する見解を発表された。それはグリコココルはアミノ酸と塩基とが内塩を作れる環状構造のものであるとされたのである。

 日本化学会の前身たる東京化学会の創立は明治11年で、ちょうど先生がイギリスに留学中であったので創立会員には入っていられないが、帰朝後はずっと本会のために尽くされもっとも活動的な会員の一人であり、明治16年以降幾度か会長の職にも就かれた。1899年に万国原子量委員会の設立以来本会の代表員であって、1904年は池田菊苗先生と連名で水素酸素の2本立の原子量を採ることをやめて酸素基準1本立にすべきことを提言された。また先生は高松豊吉博士と共著「化学語彙」の出版があるが、これは後に版権を本会(旧化学会)に譲り受けて出すことになった。いまはこれに代わって文部省の学術用語集ができている。先生は書物をあまり書かれなかったようである。先生の著書として「化学理論の実験証明」という薄い本があるが、これが唯一のものではないかと思う。ただし先生の遺稿を集めた「思い出の数々」というのが先生の逝去の翌、昭和15年に御遺族の手によって作られている。東京大学を退職されて後の先生はもはや化学者というよりも日本の学界の長老として科学の振興に力を尽くされた。その主なものは次のようである。

 日本学士院(初めは東京学士会院、その後帝国学士院)は明治31年以来会員であったが、大正15年から昭和14年逝去されるまで院長であった。現在の学士院の建物は先生の意見によって造られた部分が多く、講堂の設計などロンドンの議事堂の議席と似ているという。

 大正3年第一次世界大戦の勃発の結果、医療、染料、その他主として化学製品にかかる物資の輸入が杜絶したので我が国独自で科学研究を推進する必要を痛感された桜井先生は、他の有力な学者、実業家の賛同を得て、大正6年理化学研究所を設立された。先生はここの副所長の地位にいて実際の設立業務に従事されたが、建築および設備の未だ完成にいたらない大正10年に辞任されることになった。

 大正7年ロンドンとパリで開かれた国際学術会議に先生は我が学士院の代表として出席され、その結果として大正9年に我が国に学術研究会議が組織された。これの創立は細事にいたるまで先生を煩わしてできたもので、大正14年以後御逝去に至るまで同会議長を勤められた。この会議は予算の関係上国内的には大した仕事は出来なかったが、国際的には我が国の学術を広く世界に紹介するのに役立った。この会議はその後解消しこれに代わって現在の学術会議が組織された。

 桜井先生はまた我が国の研究者の仕事を援助する目的のために、昭和7年に日本学術振興会を設立された。先生はその理事長となって御逝去に至るまでこの会のために尽力された。昭和14年1月19日に日本学術振興会の総会に於いて82歳の高齢とも思えぬ力強い口調を以って挨拶をされたのが先生の最後の演説となったのであって、その翌日より発病されその28日に逝去された。

 以上の外先生の関係された仕事は多数あるがここでは省略する。

 汎太平洋学術会議なるものが太平洋に面する諸国の間で行われることになり、その第一回が大正9年ホノルルで、第二回が大正12年オーストラリアで、第三回が大正15年東京で開かれた。東京の会では先生がその会長として司会された。第二回のとき先生は我が国代表の主席としてオーストラリアに行かれたが、時の総督Davidson氏の死去に対する追悼の詞の中で先生はつぎのように述べられた。

『諸君、御承知の如く故総督は犬と猫とオウムとを飼って居られたのでありますが、この三者は同一室内で戯れ遊ぶことを常とし、その互いに仲のよいこと一通りではないのであります。而もある日のことオウムの食事中に猫がそのオウムの尾に戯れて居るのを見ました私には、この場面は一つの大なる教訓であった。と申しますのは猫とオウムとの相違は人種間の相違とは全く比較にならぬ程、大なるものであるに拘わらず、彼等は斯くまでに相信頼して親善関係を保って行くことが出来るのでありますが、何が故に我々人間社会には人種的摩擦の絶えることがないのでありましょうか。我々人間は宜しく猫やオウムから教えを受けるべきではありませんか』と結んだ時、万雷の如き拍手が起こってはその鳴を静めなかった。而して翌朝のシッドニー・デーレー・テレグラム紙はこの演説に関する一片の社説を掲げて讃辞を惜しまなかったのである。(「思い出の数々」より)

 先生はさん子夫人との間に9人に余る子女を持たれた子福長者である。御逝去の時孫の数は40人に近く数人の曾孫さえあった。先生の人格はイギリスに於ける教養の影響を受けてゼントルマンという一語につきる。物事にまことに几帳面で、講義のとき、会議を主宰するとき、演説のとき一言一句ゆるがせにされない。演説草稿なども日本語も、英語も共によく整理されてあったと見えて、遺稿「思い出の数々」の中に印刷されてある。先生御逝去のとき遺言の中には外国人で自分の死亡を通知すべき人の名と共に、通知書の文句まで記されてあったそうである。

 我が国純正化学の開拓者であり、また我が国の学術研究制度推進の最大の功労者である桜井錠二先生の生誕100年に当たって先生の事業を回想する次第である。  <終>

鮫島実三郎
東京大学名誉教授・立教大学講師・理学博士・前日本化学会会長
著書「物理化学の実験法」 

<付記> 鮫島家との繋がり

鮫島実三郎博士の妻ふき夫人は池田菊苗博士と貞(岡田棣の三女)の長女であるが櫻井家とは親戚関係にある。貞は錠二の妻さん子の実妹である。池田菊苗博士がドイツ留学中(明治32年〜34年)には曙町の錠二邸内の別棟に住み、女高師附属(お茶の水)幼稚園には従姉妹に当たる錠二の四女皆子と一緒に通ったそうである。(『池田菊苗博士追憶禄』に鮫島ふきさんの「思い出の中から」に綴られている。又お茶の水の卒業生名簿「作楽会会員名簿」からも、比較的年齢の近い姉妹達や学者お仲間の子弟との交流があった事がうかがえる。

作楽会会員名簿から
卒業年 (西暦) 回数 卒業生数 氏名 旧姓 続き柄
 明治24 1891 1 1クラス 15 池田  貞 岡田 櫻井三子妹・池田菊苗妻
37 1904 15 2クラス 83 渋沢 孝子 穂積 穂積陳重 長女
38 1905 16 1クラス 37 石黒 光子 穂積   同    次女
39 1906 17 1クラス 43 鈴木  峰 櫻井 櫻井錠二 長女
40 1907 18 2クラス 66 鈴木  文 櫻井   同   次女
42 1909 20 1クラス 38 柿内 田鶴 小金井 小金井良精 息女 曙町お隣
44 1911 22 1クラス 50 三宅 千枝 小木 櫻井三子姉 友 長女
45 1912 23 1クラス 42 芳我 皆子 櫻井 櫻井錠二 四女
大正2   1913 24 1クラス 41 鮫島 ふき   池田 池田菊苗 長女
星  精子 小金井 小金井良精 息女 曙町お隣
3 1915 25 1クラス 40 市河  晴子  穂積 穂積陳重 三女
5 1917 27 2クラス 88  櫻井     房 野口  櫻井錠二・次男武雄の妻
9 1921 31 2クラス 86 服部 満子 櫻井 櫻井錠二 五女
           以降省略 
追  悼  文
  1    大幸勇吉   2     柴田雄次   3      片山正夫   4     市河晴子
  5     阪谷芳郎   6  Yamaguchi Einosuke   7     桜根孝之進   8    
  9   Mizuno Yoshu   10    小原喜三郎  11     宮崎静二  12    奥中孝三
 13     大西雅雄  14     大幸勇吉  15      柴田雄次  16     鮫島実三郎