祖 父 と 趣 味 謡 曲  盆 栽 トランプ・麻雀・他
 加賀出身であるから当然幼少の頃から謡曲には耳目に触れていたと思われるが、5歳の時父甚太郎が早世したため現代風に言えばお稽古事どろではなく、勉学一途だったようだ。

 本格的に稽古を始めたのは大正元年東京大学総長事務取扱に就任した頃の50歳半ば頃からではないか。 宝生の近藤乾三師には25年程ご指導頂いたようである。「地味で几帳面、誰に対しても腰が低く分け隔てがなく社交的で、まるで先代宗家が出てこられたという感じがしていました。」「外遊する時は前もって月謝と会費を納め、帰朝予定も伝えている。稽古も必ず予習を怠らず、文字の読み違いがない。」「籐門会の大会で地方へ幾日かご一緒に旅行をしました。非常に行儀のいい方ですが、温泉宿に宿った時など自分からくだけて、心遣いをされたこともあります。」と「芸苑」に「櫻井博士の思ひ出」にある。

 昭和12年2月近藤乾三師御母堂の喜寿と錠二の満八十歳を祝って上野不忍池畔雨月莊で賀筵の謡曲大会が開かれた。 シテ櫻井錠二・乾之助少年の子方・義経を禮師・鷲の尾を進師・立衆を小林師・ワキを乾三師で70分の大曲「接待」が謡われた。
 幼少の頃,早朝から身を粉にして働く母の姿と「義経の子別れ」とを重ね合わせ「接待」には特別の想いがあったと述べている。

 外国の要人が来日の際は「周到適切な説明」で能楽を紹介している。
 明治40年、来日していたイギリス人のストーブス博士(化石植物)が止宿していた隣家から洩れ聴こえてくる品位崇高な謡声に感激して、意味を究めるため、散文の忠実な直訳を依頼されたのを機に英訳に協力している。(ストーブス女史は錠二の東京帝国大学教授就職25年式典にも出席していて、小石川植物苑で撮影された121名の集合写真中に錠二の長女峰子と並んで写っている。
 明治43年万国学士院協会第4回総会出席の折、「一つ忘れ物をした 隅田川の英訳で予刷したもの一冊を開封でよいからシベリア便でベルリン大使館気付で送ってもらいたい」と敦賀から欧州への長旅出航直前にはがきをだしている。
 大正6年には「求塚」「影清」「田村」「隅田川」の、英訳本が英国で出版されているがその間何度かの校訂は海を越え続けられた。

 年代は不明であるが自宅で大学関係者の謡会も開かれ、後年学士会館の松風会や早稲田宝生会にも参加していた。特に松本 長師とのご縁があったことが追悼文中に記されている。平成14年ご逝去されたご子息人間国宝松本恵雄師のご冥福をお祈り申し上げる。

  また地方に出かける時は地元の籐門会との謡会を楽しんだ。前もって選曲し、手紙で役割を確認し周到に準備するスタイルは終生変わらなっかた。

 曙町の自宅でおじい様の練習風景を子供心に記憶する孫のひとりの緑は「・・・で・そうろう」と真似たと語る。

 参考文献 <東京帝国大学教授桑木嚴翼文学博士「櫻井博士の想出」>
      <京都帝国大学教授松山基範理学博士「櫻井錠二先生と京都」>
<松本高校校長兼九州帝大教授桑木或雄理学博士「櫻井先生と福岡の謡会」>