私の父 櫻井錠ニ 次女  鈴木文子  昭和10年記
 父は安政五年八月十五日の生まれで、今年で七十八歳になります。                   
                                              生い立ち 中略
 父は時として峻厳な印象を世間の方に与えるようにも聞きますが、それは仕事の上のお話に於きまして飽くまで謹直であるがために外ならないと存じます。私共の見る父は、完全な家庭人であり、全くの好々爺で御座います。 子福長者でありまして、私共兄弟姉妹は合せて十三人、中九人(男五人、女四人)が現存しています。 昭和七年十二月二十五日父母の金婚式に際しまして、集まった子供夫妻、孫、彦孫、総計五十二人の賑やかさでした。
 母が老年になりましてから多産の結果少し弱くなりましたのを、父は労ってくれました。そして何時か母のことを讃めて「自分の今日あるは、妻が全く家庭の主婦としての任を果たし、自分をして後顧の憂なからしめたためである」と感謝していた様でした。その母は金婚式の翌年二月十三日に逝去しました。 
 母の命日の訪れます度毎に、私共東京に在住しています者は、子供や孫を連れまして染井の墓地に参り、そこから本郷曙町の宅に落合って、老父と馴染むのを例と致して居ります。多勢の孫たちに取囲まれた父の嬉しそうな顔を見るのが、又私共の喜びなので御座います。毎年クリスマスには、父がサンタクロースの扮装をしまして、皆に贈物をしてくれるので孫達はその日を楽しみにしています。
 父が少しばかり人様、特に学者の方に有り勝ちな性格と異なっているように思われますのは、非常に几帳面な点であります。特に「自分の身のまわりの事はじぶんで−」というのが父のモットーであります。
 教授をしておりました時分から、自分で靴まで磨きました。夏の洋服、冬の洋服など勿論自分で出し入れしている模様です。 私がまだ家におりました頃、父はよく台所に入っていって、外国で習い覚えて来たものか、当時では珍しかったアップルパイを作ったり、トマトと肉とを煮た手料理をこしらえて一同に振舞って呉れたりしました。
 父の趣味としては、昔から謡、碁、将棋、盆栽いじり、朝顔作り等がありますが、唯今は謡と麻雀とを一等好んで致すようであります。 麻雀は一家で最初に私共夫妻が大連に居住しました頃、三井物産支店長夫人と御一緒に習い覚えました。 大正十一年、満州を引揚げて東京に帰ったころはまだ殆ど麻雀は知られて居りませんでした。父も最初は「そんな馬鹿な遊びを誰がやるもんか」と笑って相手になってくれませんでしたがいつか三浦半島の久留和に避暑に行っていた時のつれづれに、ふと仲間入りをして見たのが病みつきとなり、その後父はめきめきと麻雀党になって来ました。一人トランプも玩びます。また時々歌舞伎位は訪れるようです。
 老いて益々忙しい父です。 毎週水曜日には御前会議があっても無くても必ず宮中に参内して拝謁を仰せつかって居ります。去る二・二六事件の当日も水曜日でしたので、事件も知らず何気なく出掛け、やっと乾御門から参内する事が出来まして、その夜は十二時頃退出申上げて帰宅したように聞きました。学界の事で始終色んな方とお目にかかるために出入りいたしますし、外国の方が見える毎に努めて送迎などもするようにしています。 それでいて父は少しも疲れた色を見せません。健康なのです。特別に健康に留意もしませんが、父の唯一の積極的健康法は昼寝で御座います。 父の書斎には隣室に万年床が取ってあります。夜分もよく眠りますが、在宅している時は午後何時間かの午睡をとるのが日課です。時々三十分か一時間かの少時間の暇を盗んで、酒は嗜みませんが、洋酒一杯の力で安々と眠りに入ります。   (途中一部省略)