東京帝国大学在職25年祝賀会における櫻井錠二の挨拶 |
加越能時報 第208号掲載記事 明治41年3月15日発行 |
閣下並びに諸君 本年私の教授就職25年に当れるを御祝い下さる為本日ここに盛大なる式典を挙げられまして 家族の者共に至るまで御招待下されたるは単に私一人の光栄とする所でありまするのみならず一家の光栄面目之に過ぐるものなき次第であります 一同に代りまして謹んで感謝の意を表します 元と私の家は極めて小さな一士族たるに過ぎずして家計甚だ豊かならざらしが上に 父は私の幼少の頃すでに没しましたが為に愈々<イヨイヨ>家計上の困窮を増加し私は両人の兄と共に母一人の膝下に於いて養育せられ 辛うじて初等教育の一端を受くることが出来たのであります 若し今日なりせばそれ以上の教育を受けて学問に従事せんとする如きは思いも寄らざる所でありまして 小店の丁稚小僧若しくは職工の下働きなどになるより外致し方なかった次第であります 然るに時 恰も明治の維新に際して居りまして社会の状態は甚だしき変調を呈し 殊に藩に於きましても亦官に在りましても洋学の奨励が非常に盛んでありましたが為に 私の如き貧困にして而も学才に乏しき者が藩より学資の補助を受け又は官費生となりて学問に従事する事が出来たのであります 殊に明治7・8年の頃 元開成学校に在学して現総長たる浜尾先生等の御懇篤なる御世話を受けたる時代の如きは授業料を納めざるのみならず官費を以って寄宿舎に入れられ 食料は勿論制服制帽より靴・外套等に至るまで悉<コトゴト>く皆給せられ尚毎月幾分の小遣餞までも給与せられたる次第でありまして 有り難き限りなきことであります 又明治9年には官費を以って5ヵ年間 英国へ留学を命ぜられ14年帰朝後直ぐに東京大学講師に任ぜられて翌15年8月教授に昇任したる次第であります 斯くの如く私は殆ど全く公の費用を以って教育せられたる者でありまするが故に他の人様よりも幾十倍幾百倍の精励を以って心を砕き身を粉にして学問の発達に貢献し以って国家に酬ゆる所が無ければならぬ次第であります この決心は私に於いても元より充分あるのでありますが如何にせん元来学才に乏しき者でありますが為に思うことの千分の一・万分の一も為すこと能はずして空く25年を経過せしめ 実に面目なく御愧<ハズカ>しきこと限りなき次第でありまするのに 先輩及び学友諸賢の御芳情と御庇護とを辱<カタジケノ>うし 又朝廷より身に余る栄典を賜り居ることも有り難くも畏れ多きこと常に恐縮措<オ>く能はざる所であります 然るを今またこの式典を挙げられて理科大学同僚諸氏を代表せらるる所の寺尾教授 化学研究奨励資金寄付者諸氏を代表せらるる所の松井教授 東京化学会を代表せらるる所の田原博士 理科大学化学教室を代表せらるる所の垪和教授並びに理科大学化学科卒業者及び学生諸氏を代表せらるる所の吉武・池田・両教授より過分の御賞費賜り愈々恐縮に堪えざる次第であります 而して私の就職満25年記念の為に大方諸賢より多額の金員を御寄付下されまして之を東京化学界会に托し化学研究奨励の費充てんとの松井教授の御報告に接し実に感涙を禁ずる能はざる次第であります 化学研究奨励資金を得んことは私の久しく渇望して止まざる所でありましたが図らず諸賢の御芳志により今回之を得ましたること欣喜の至に存じますると同時にまた私の最も光栄とする所であります 本日御出席下されたると下されざるとに係らずこの資金を御寄附下されたる諸賢に対して満腔の謝意を表します 又理科大学化学科卒業者及び学生諸氏より諸氏の英姿を納めたる写真帖一冊を御贈与下され更に私の肖像一面を家族へ御恵与下されまして是亦感謝の至りに存じます この二品は家宝として子孫に伝え彼等をして永遠に諸氏の御芳志を忘却せしめざらん事を期します 尚又大学の許可を得て別に私の肖像を理科大学化学科教室へ御揚げ下さる趣であります 重々の御芳情に対し厚く御礼を申上げます 最後に理科大学化学科卒業者諸氏に対して諸氏より御贈与の論文集の為に一言御挨拶を申上げます 俗に鳶が鷹を生むと申すことがありますが蓋<ケダ>し詰らない親が立派な子を挙げたることを言うので有ろうと思います 而して甚だ失礼なる申分ではありますが今仮に諸氏と私との関係が子と親との如きものであるとすれば鳶が鷹を生みたる実例を眼前に見る訳であります 而して又若し私に於いて何か誇るに足るべきものありとすれば即ち鳶が鷹を生みたる一事でありましてこの論文集を世界各国の学者学会等に配布することは私の最も愉快とし光栄とする所であります 又私の先輩にして常に敬服する所の松井・久原・垪和 三教授が特に私の小伝又は貴重なる論文を之に寄せられて異彩を添えられたるは 三教授に対して私の特に感謝する所であります 大方諸賢の多大なる御芳情を辱うし感激の余り充分御礼を申上げることも出来ない次第であります 只今後一層奮励し以って諸賢の眷顧<ケンコ>の万分の一に酬いんことを期します |