仕事[内容&エピソード(思いで話)]

令和 元年11月 6日更新



このページでは下記職歴の仕事内容やいろいろな思いで話を順次書いていきます。
私は今まで転職も多数行いいろいろな仕事をしてきました。 今までしてきた仕事内容やエピソード(思いで話)を書いていきます。

  
職 歴○民生製品の開発・設計会社
*カーステレオ/トランシーバー等の開発・設計
(製品の初期トラブル解決のためドイツ(フランクフルト)へ3ヶ月出張)
  
○専門商社
*プリント版製造装置のフィールド・サービスエンジニア
・膜厚測定装置(高周波式、アイソトープ式)
・ドリリングマシン(NC式)
・無電解メッキコントローラ
(無電解メッキコントローラの研修をアメリカ(ニューヨーク)で2回受ける)
・ラミネーター、現像装置、剥離装置、エッチング装置、その他
  
○システムハウス
*大手商社へ出向
・ロボットの営業
・ハードディスクメディア用検査装置関連の営業及び技術サポート
(サーティファイヤー、グライドテスター等)
*DEC用コンパチブル特殊ハードディスクのフィールド・サービスエンジニア
(保守のため研修をアメリカ(ワシントン)で受ける)
*5インチMO用オートチェンジャーの技術サポート
  
○情報機器関連の商社(大手商社の子会社)
*コンピュータ周辺機器、ハード・ソフトの受託開発等の営業及び技術サポート
  
○個人事業開業 (屋号はつけていません)
*開業届提出
*営業・技術サポート等の代行業
  
○通信工事関連の会社
*VoIPネットワークゲートウェイの設定・試験など、セキュリティ関係の工事
  
○個人事業開業に戻る
*営業・技術サポート等の代行業
  
○個人事業廃業
*廃業届提出
  
○食品関連エンジニアリング会社
*保守・メンテナンス関連の管理



仕事内容・エピソード(思いで話)

○民生製品の開発・設計会社
*カーステレオ/トランシーバー等の開発・設計
仕事内容はカーステレオ/トランシーバー等の開発・設計ですが私は主にカーステレオの設計をやっていました。
私が入社する少し前はアメリカでのトランシーバー需要が凄く性能・価格で日本製がアメリカを席巻していました。
そのためアメリカでトランシーバーの規制が始まり私が入社した頃はアメリカのFCCでの検査が合格できずに返品され倒産する会社も多数で始めていました。
FCCの検査は少し異常でアメリカの検査専門会社で検査してデータを取ると問題ないのにFCCの検査が通らないと言うことが続出しました。
そのため私が入社した会社はその時期カーステレオに主体を移していました。
ちょうどこのころにアメリカの半導体製造会社何社かでカーステレオ用の周波数デジタル表示及び時計機能を持ったLSIの製品かを始めていました。 このLSIを使用した最初のカーステレオの設計にも加わり、このLSIで回路を組んでいろいろ実験をしました。 私が設計した最初の製品はプリアンプ及びメインアンプで上記LSIを使用したデジタル表示のカーステレオにも使用されました。
デジタル表示のカーステレオは他社に先駆けて販売したため無理もあり初期トラブルが発生しそのおかげでトラブル対処のため1人でドイツ(フランクフルト)へ3ヶ月も行きました。 これが最初のフィールド・サービスエンジニアの仕事になります。この時に自分には開発・設計よりは保守・メンテナンスの方が自分に向いているように感じました。
今思えば楽しい思い出です。

ドイツでの思いでも書きたいと思っています。



○専門商社
*プリント版製造装置のフィールド・サービスエンジニア
私が所属していた電子機器部はプリント基板製造装置の取扱いでは老舗でした。
取り扱っていた装置はほとんどが輸入品で製造に必要な機器一式を扱っていました。
私が主に担当していたのは基板に穴を空けるドリリングマシン(CNC)、膜厚測定器(高周波式、アイソトープ式)、無電解メッキコントローラです。 もちろんそれ以外の装置の保守もしました。
当時のドリリングマシンは保守基板などありましたが故障して交換して調整してもほとんど動きませんでした。 それよりも故障した基板を修理した方が正常に動きました。
サーボ基板は良くパワートランジスタが飛んで交換していました。 メーカーの話によるとアメリカでは空気が乾燥しているが日本では湿気が多いのでトランジスタが壊れやすいと言っていました。
この仕事では北は富山・新潟・日光、西は名古屋・大阪に良く出張していました。 ただ、日本全土とは行きませんでしたがサービスエンジニアの仕事は私に合っておりまた、出張も好きでしたのでこの仕事は気に入っていました。 今思うと辞めてしまったのは残念です。(新しいことをやりたくて辞めたのですが若かったと思っています。)
無電解メッキコントローラでは研修を受けにアメリカ(ニューヨークからロングアイランド鉄道でハンチントン(?)と言うところだったような)へ2回出張しました。

アメリカ(ニューヨーク)での思いでもいずれ書きたいと考えています。


○システムハウス
*大手商社へ出向
最初はロボットの営業でした。
当時はテレビなどマスコミで産業用ロボットをさんざん取り上げていた時代でした。 マスコミで取り上げているときはまだ珍しいからで自動車産業以外ではこれからと言うときでした。 現実にはなかなか売れる時代ではありませんでした。
その次にハードディスクメディア用検査装置関連(サーティファイヤー、グライドテスター等)の営業及び技術サポートを行いました。
技術サポートではクリーンルーム(クラス100)での作業では圧迫感や閉塞感及び空調の音などで長くクリーンルーム内にいるのは結構苦痛でした。 技術サポートと言っても自分で直接装置を触ることはなくメーカー(アメリカ)から来ている技術者へのサポートが主でした。
次にDEC用コンパチブル特殊(インテリジェント機能付)ハードディスクのフィールド・サービスエンジニア(ハードウェア)でこれは自分で直接機器がさわれるので仕事をしているという気持ちが持てました。
5インチのハードディスクを複数組み合わせて外部から見ると一つの大容量のディスクに見せたり、自由に容量を振り分けて複数のディスクに見せたり出来また、パラメータの変更が出来るキャッシュメモリを持っているディスクでした。 保守は基本的に基板やハードディスクの交換ですが何処が壊れているかとか、リモートで症状を確認して切り分けをしたり面白かったです。 また、出張も多く北海道から九州、四国、中国地方まで飛び回っていてこれも楽しかったです。
このディスクの研修を受けにアメリカ(ワシントン)へ行きました。
時代の流れでミニコンからワークステーションそしてパソコンへとなりメンテナンスも減り、仕事もサービスエンジニアと言うより技術サポートと言った方が分かりやすくなりました。 そう言う流れの上で会社に戻りました。最初は商社からそのディスクの保守の依頼を受けていましたがだんだん仕事もなくなってしまいました。

アメリカ(ワシントン)でもいろいろ思い出がありいずれ書きたいと思います。


○情報機器関連の商社(大手商社の子会社)
*コンピュータ周辺機器、ハード・ソフトの受託開発等の営業及び技術サポート
この会社は設立から参加しました。
親会社の商社ではコンピュータも取り扱っていましたが高速度カメラなどに付随する装置としてで情報機器としての取扱いは得意ではありませんでした。 その為、情報機器の取り扱う会社としてこの会社を立ち上げましたが仕事を広げていきハード・ソフトの受託開発も受けるようになりました。 ただ、会社には開発要員はいませんので外部に委託していました。基本的には商社機能です。
ハード・ソフトの受託開発を受けるようになったのは大手通信会社の研究所に出入りをするようになりあるプロジェクトに参加したのがきっかけでした。
私は当初はコンピュータ周辺機器の営業と設置や設定などを行う技術サポートの仕事をしていましたが、研究所のプロジェクトに参加して研究員の方のいろいろなサポートをするようになりました。
プロジェクトに対する仕事は結構面白かったですが遠くへの出張もへりいろいろな機器に触ることも少なくなってしまったのが寂しかったです。



○内容はもっと詳しく書いていくつもりです。また、思い出したことがあれば追加していきます。
○もちろん他の仕事についても順次書いていきます。



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