行田市議会議員・三宅じゅん子のホームページ


思いつくまま






★この欄では、議会や議員生活で感じたことなどを思いつくままに記しています。

左の写真は、わが娘の小学校低学年の頃の写真です。
 たまたま、パソコンの中で見つかったものです。こんなかわいい頃もあったのだと思い載せてしまいました。

 身につけているピンクのトレーナー、チェックの半ズボン、赤い運動靴、みんな実家の姪のお下がりです(笑)。もちろん新しい服も買ってはいたのですが、お下がりもよく利用させてもらいました。

 家のまわりの草取りをよくしてくれました。


 我が娘含めて、「世界の子どもたちや若者の未来に、幸多かれ」ですね。



 このころは我が家の玄関を出たところも、砂利道でした。写真とともに懐かしい時代です。


2019年




               誰のために仕事をするのか?                    2019年5月11日(土)


 選挙が終わり、新市長、新議員による市政が始まる。

 市長が変わると、公約をもとに市政運営が始まる。

 向く方向が、かなり違うと、職員は、かなりとまどうこともあるだろう。

 
 職員の定数削減問題、民間委託の問題、教育の方向性などなど・・・。



 
◆職員数は足りているか。  職員は機械ではない。 〜 定数削減問題を考える 〜

 
 当たり前のことだが、公共サービスを提供する職員は、1時間に物を何個物を製造するかということが仕事ではない。

 
 例えば、物の製造であれば、熟練することにより、製造する個数は増えるかも知れない。

 同じ個数の製造なら、人が少なくてすむ可能性もある。


 しかし、市役所の仕事は、熟練することにより、窓口対応が、時間短縮できるものでもない。


(事務の面では、慣れることにより、同じ事務であれば、早くできるようになるだろう。しかし、それも、毎日、毎年同じ事務にはならないかも知れない。制度が変われば、事務内容も変わるからだ)

 
 窓口では、丁寧に市民の状況を把握し、市民の思いを受け止める感じのよい対応が求められ、時間短縮が評価の対象ではない。

 市民サービスは、さまざまな機器で可能なものは少なく、人間でしかできない分野が多く存在する。

 
 事務的な仕事であっても、その背景には、必ず、人間としての市民の生活がある。市役所の行う市民サービスの事務は、市民の生活を左右する事務なのだ。


 職員定数削減の問題は、安易には語れない。


 市役所職員の労働実態は、サービス残業があり、今や、公務員の世界も、「ブラック」の傾向は免れないと言えよう。


 市民も、「市役所にはいっぱい人がいる」ではなく、どんな仕事をしているのだろう。どんな事務があるのだろう。

 その仕事の内容を知ろうとすることも必要だろう。そして、市役所もより知らせる努力も必要だろう。

 市民は、「人がいっぱいいる」印象しかない人が多いと思って。

 
  これが企業なら、「人がいっぱいいる」ことは、最高の評価として受け入れられ、「従業員がいっぱいいて、なんて立派な会社なんだろう」に変わる。

 
 公務労働も民間労働も、見ただけで評価はできない。


 
 
◆ 民間がよくて、公はだめなのか。

 
 責任体制は、どちらが、とれるのか。たとえば、窓口の民営化が進んだ場合、情報漏洩の問題はどうなのか。

 また、民間委託では、踏み込めない部分が存在もする。市民の税金をつぎ込んで、民間委託にした場合、内部の利潤について、明らかにさせることができない面もある。

 
 公はだめで、民間がよい、などと簡単には言えない。民間による不正、ごまかしは、世の中で多く存在する。

 そのたびに、企業の幹部職員の(多くの場合)男性たちが頭を下げる場面が映像として流れる。


 民間は、何と言っても、基本は、利潤を追求することが目的である。



 
◆ 教育の目的は何か。


 教育の目的は、学力テストの点数をあげることなのか。そうではないだろう。

 もちろん、学力は、きちんと身につけたい。知識も考える力も育てたい。
それを否定はしない。

 子どもたちの学力が低くていいなんて、教育委員会も学校の教師たちも、もちろん保護者たちも、誰も思っていない。

 
 学力テストの点数イコール学力なのか?

全国の多くの学校では、血眼になって、過去の問題にとり組み、慣れる事により、学力ではなくて慣れによる点数を上げることに夢中になっている現状がある。

 点数を上げるための訓練が、点数を上げたとしても、それは、どれだけ学力になっているのだろうか。

 

 いや、どんなテストであっても、点数がよいほうがいい、という意見もあるだろう。

 

 学力テストに表れる点数の差は、どこからくるものなのかと考える事も必要だ。

 現政府は、多額の税金をつかって、学力テストを行っているが、学力格差は経済格差による傾向が強いと言っている。

 
 教師が過度のストレスを感じるような、子どもたちが息苦しくなるような点数主義に陥ることが、教育なのだろうか。

 どうしたら点数が上がるかということに終始したら、場合によっては、点数は今より上がるかも知れない。

 けれど、そういう環境を、おとなも子どもも、望んでいるのだろうか。

 そうして得た点数は学力なのだろうか。未来を「切り開く、本当の意味での力になっているのだろうか。


 学力テスト日本一の福井県では、子どもの自殺を通して、教育のあり方に問題はなかったかと考え、もう一度教育のあり方について見直す決議をしている。
 




  ◆ 誰のために仕事をするのか


 職員は、誰のために仕事をするのか、といったら、それはもちろん市民のために仕事をするのである。


 今までも、これからも。

 この基本を見失うと、市長の顔色を見ながら仕事をすることになる。市長に忖度して、物事を決めることになってしまう。

 自分たちが行おうとしていることは、市民のためになるのか、市民の側に立って考えていることなのか。

 職員の方たちには、その立場で考え悩みながら、物事を決めていって欲しい。

 同じように市民の立場に立つとはいえ、首長と意見が異なる時には、おそれず物を言うことも必要だろう。


 人事権も持つ首長は、大きな権力を持つ。だから、ある意味、恐れられる。


 力を持つ人には、好かれようとし、やたらに従順な行動をとる職員もいるかも知れない。

 
 けれど、意見の交換も論議もなければ、市長は独裁者になってしまうのである。

 独裁者ほど、哀れで孤独な存在はない。そして、そのことにより一番の損失を被るのは、市民なのだ。
 

 極端な言い方かも知れないが、職員の方には、いつでも、市長のために仕事をするのではなく、市民のために仕事をするということを、忘れないで欲しい。




  
           たかが、スリッパですが・・・                       2019年2月5日 (金

 市役所庁舎以外の公共施設を訪れることは、議員ですから議員の仕事としても、もちろんけっこう多くあります。

 玄関と呼ばれる場所に入るとき、靴のままのところもありますが、靴を脱いでスリッパに履き替えなければならない「事務所」もあります。

 玄関に足を踏み入れた時、玄関にスリッパが置かれているところもありますが、置かれていなくて、傍らのスリッパ立てから、スリッパを自分で出すところもあります。

 訪問時間を告げていなくて急な訪問なら、話は別ですが、「何時頃に行きます」と話してあっても、スリッパは出ていなくて・・・一瞬のことに過ぎませんが、「あれっ」と思います。

 
 スリッパが出ているところだと、スリッパが「どうぞ、お入りください」と呼びかけているような気持ちになります。

 でも、「あれっ」も、一瞬のことで、議員として用事があっての訪問ですから、頭も思いもすぐに切り替わります。

 
 スリッパが出ていないところへの訪問は、「来たな。帰ったな」という感じの風がすっと吹くような感じです。

 そして、その風とともに、市長の訪問の時、(担当が呼びつけられるほうで)市長の訪問はないとは思いますが、もし、訪問があったら、やっぱり、スリッパは出されないのだろうかと思ったりします。

 議長だったら、スリッパは出されるのだろうか、とも思います。


 ある公共施設のこと・・・      たまたま見た光景

 
 訪問を告げていても、その場所ではスリッパは出ません。靴箱のスリッパを自分で出して元の場所に片づけて帰ります。

 ところが、どうでしょう。その上司にあたる人、上司にあたる部署の数人と一緒になったことがありました。

 
 そうしたら、何と、玄関に職員が笑顔のお出迎えです。もちろんスリッパがきれいに並んでいます。帰りの時も、出てきて笑顔のお見送り。


 そんな光景を見ると、行田市の体質が見えます。「市民はお客様」とまで、かつて言っていながら、市民や議員にはスリッパを出さない。

 約束をして訪問するときは、スリッパぐらい出してあるのが、私の感覚では、普通なのですが。


 (※市民は、もちろん、お客様ではありません。お客様なら、場所を自由に選びます。要求しないで、感じのよい他の場所を選びます。市役所は、好むと好まざると、市民が必要な時に利用せざるを得ない場所です) 


 市民や議員に対する対応と身内上司に対する対応が、こんなにも違うものかと、その時唖然としたものです。むしろ、丁寧に対応すべきは、身内より、市民や議員ではないでしょうか。

 
 必要以上にばか丁寧な対応は、逆にいやですが、約束の訪問者にスリッパくらいは、普通かなと思いますが。

 何しろ、「上司」が見えたら大騒ぎ?なのですから。複数回、その場所のその光景を見ています。


 どの場所でも、もし、スリッパが出ていれば、(私の感覚ではそれが礼儀と思っていても)私は、当たり前と思わずに、「ああ、申しわけありません。ありがとうございます」という気持ちになります。

 人間ってそんなものではないかなあ・・・と思いますね。

 
 行田市役所は、他の面でも感じるのは、「接遇」がまだまだだと思います。なぜなのか、わかりません。


2018年

            監査委員の選出                                 6月28日(木)

★会期の延長で、今日も議会です。

午前中は、控え室勤務?? 私は、控え室で資料を読んだりしていました昨日の夜までかけても、監査委員が決まらないからです。

それで、もう一日が追加され、議会が延長になりました。

 どうして、こんなことになったのかと言えば、議員間の「意地悪」(?)としかないと思いますね。

 議会選出の監査委員を決めるのに、3人がやりたいと立候補。うち2人は、過去に監査委員を経験済み。

 それなら、一度もやっていない人にやらせたらいいではありませんか。

 誰ならできて誰はできないという議員のものさしはありません。

 一度もやっていなくてもダメというなら、それはどんなものさしなのでしょう。
 あるのは、議員というものさしだけです。
 ものさしは、議員であること以外にはないのです。

 昨年も立候補して降りて、今年も???  降りなくてよかったです。多数決なら、いつも会派の人数の多いところになります。

 議会選出の監査委員は、議会で選出した人を、市長が任命する制度となっています。

本当は、議会選出の監査委員は、もう廃止すべきと思いますが、行田市議会として廃止されていない今、選出するなら、納得できる方法に頼るしかありません。まだまだ廃止されていない議会が圧倒的多数かと思いますが、本来の趣旨から言ったら、なくしてよいものだと考えます。







         呼び方  呼ばれ方                                     2018年6月21日(木)
 
   呼びつけ

 上司が部下を呼ぶ場合であっても、呼びつけは、私自身は違和感を感じています。

 同じ部下でも、 呼びつけられる人と呼びつけではない人がいたら、その差は何なのでしょう?

 女性は呼びつけされなくて、男性は呼びつけされるとしたら、その差は何なのでしょう?

 仕事の上では上司と部下であっても、人間としては「対等」です。

 人が人を「呼ぶ」ということは、人間として対等な部分ではないのでしょうか?

 
 仕事の上で上司であったら、部下には呼びつけがよいとされるのでしょうか?

 呼びつけの方が、親しみをこめている・・・というのは,本当でしょうか?

 
 部下は全員呼びつけなのか?同じ上司であっても、部下によって違うのか?

 
 小さな問題に見えて,実は、呼ばれるほうの、ひとりひとりの人間にとって、小さくない問題かもしれません。

 ひとりひとりが気持ちよく働くために、それを少しでも阻害するものがあれば、取り除くことがよいのだと思います。

 
 テレビドラマの世界は、上司が部下を呼ぶ場合、呼びつけがあるかも知れません。

 しかし、それは、もしかしたら、刑事ものなどのドラマの世界のテンポの良さによるものかも知れません。

上司としての立ち位置を印象づけることからきているのかも知れません。

 

   
 「女の子」に違和感

 大人の女性のことを、「あの子」、「女の子」、「○○ちゃん」。

 幸い、私はそのような呼ばれ方をされる職場で働いて来なかったので、よかったです。

 もし、私が自分の職場で、上司に呼びつけされたり、○○ちゃんなどと呼ばれたら、「すみません、(姓のほうの)○○さんで呼んでいただけないでしょうか」と言いたいですね。(今後、そんな立場に立つことは、ありませんが・笑)。

 そんなことを言ったら、上司に意地悪でもされるでしょうか?
 
 時たま耳にする「○○課の女の子・・・・」のようないい方に、違和感を覚えています。

 「○○課の男の子・・」・とは、聞きませんね。やっぱり、女性に対する意識の違いなのでしょうか?

女性は、おとなになっても、子ども扱いなのでしょうか?

 さすがに、年齢を経た女性に、「女の子」とは言わないかも知れません。何歳くらいまでが、「女の子」なのか。どちらにしても失礼な話ではないでしょうか?

 おとなの女性に対しての「女の子」は、人権感覚に欠けた表現だと思うのは、私だけでしょうか?



  
  障害児は、どうするの?        トイレ使用に階段を使う学童保育室          2016年9月29日(木)

 北学童保育室や東学童保育室が、新たに、校舎や体育館内に設置されることになった。

 いずれも、トイレ使用に、階段を使う。

 学童保育室には、心身に障害があっても、入所可能であることが当たり前である。車椅子はご遠慮ください、ということなのだろうか。

 また、車椅子ではないにしても、自力では階段を使用するのに、困難な子どもは、入所できないのだろうか。

 骨折などのけがの場合においても、2階、あるいは階下のトイレ使用しなければならないことは、大変不便である。

 学校のトイレは、必ず、同じ「階」に設置されている。当然である。学童保育室になると、どうしてその原則が破られるのか
大変疑問である。

 とにかく、障害児が受け入れができない構造の学童保育室のあり方は、根本からおかしい。

 トイレは、絶対に、学童保育室内にあるか、最低限、階下ではないことが求められる。市の障害者施策にかかわる重要な問題である。




2015年



     議会傍聴でストール、だめ?    どうでも良いことに規制をしない        (2016年1月18日・月)


 市民の服装に規制を加える古き議会

  議会の傍聴の案内には、「傍聴人の守るべき事項」として、次のようにある。
「帽子、外とう、えり巻きの類を着用しないこと。ただし、病気その他の理由により議長の許可を得たときはこの限りではない」


 はっきり言って、この規制は必要ないと思う。帽子だって、いろいろで、頭に添うような帽子も多い。仮に、ハットのような帽子だって、迷惑をかけることはないだろう。厚手の上着も入るのだろうか。室中が温かければ、脱ぎたくなるだろう。寒かったら、厚手のコートだって着ていたいだろう。

◆ まずは、外套と呼ばれる服から・・・

 室内の温度の条件で、人は脱ぎ着を判断する。

 外とう・・・袖付きの上着が長く、分厚くなったもの、とある。通常コート。長いマントなどもこれに入るらしい。

 傍聴席が寒くなければ、外とうは脱ぐだろう。常識に任せたら良いと思う。半コートだったら、外とうには属さない。長ければだめで、短ければよいのか。


◆ 次に、帽子はどうだろう。女性が帽子を傍聴席で帽子を被っていたら、とるように注意をされたということだ。その女性の帽子が、近くの傍聴人に邪魔になり傍聴を妨げるようなものだったのか、後で訊いたら、そんなものではなかったということ。


◆「襟巻き」と呼ばれるものは、どうだろう・・・。

 「襟巻き」という言葉からは、分厚そうなイメージを受けるが、今や厚手薄手を問わず、首に巻くのは、ファッションになっている。厚手のものは、マフラーで、薄手のものは、ストールなのか?

※ 襟巻き(えりまき)・首巻き(くびまき)・マフラー、は、首の周囲に巻く、細長い長方形をした厚手の布。(ウィキペディア)


 テレビにゲストとして登場する男性も、ブレザーの襟に、厚手のマフラーを添わせ、おしゃれをしている人も見かけた。


 行田市議会で、傍聴人で、首にストールを巻いていた女性が、「守るべき事項」を目にし、「これはだめですか?」と尋ねたら「だめ」と言われたそうだ。ストールも、寒いとか暑いとかに関係なくても、装いのアクセントとなり、おしゃれで巻いたりもするものだ。

※ ストール・・・本来は、肩掛け。幅が広く長いもの。襟巻きとしても使われるが、生地はさまざまなので、オールシーズン。〔違いがわかる事典から)

 調べた結果、ストールとは、本来は、肩掛けなのだそうだ。

 今や、マフラーもストールも防寒に関係なく、ファッションの1部として、身につけるように変わってきている。

 今時、外套とか襟巻きという言葉を使う人は珍しいものだ。


「傍聴人の守るべき事項」の「外套」、「襟巻き」と言った表現に古さを感じるのと同じように、おしゃれとして身につける要素も多くなった、現代に合った取り扱いをすべきと思う。


 他の自治体議会を調べてみた。本市と同様、古めかしいまま、禁止している議会もあれば、そのような事は書かれていない議会も少なからず存在することもわかった。

 ずっと同じではなく、時代にあったように変えていくべきと思う。特に、昔の「お上」ではないのだから、この服装は良いが、この服装はだめだなどと、市民に対して規制を加えるようなことは、避けるべきだ。


 
市民の服装にまで規制を加えるのは、「お上」の発想ではないか。規制をしなくても、特に見苦しい格好をした傍聴人を目にしたことがない。キャップを被っていた人もみたことがあったが、注意も受けなかったと思うが、別にキャップくらい何ら違和感もなかった。

 
 裁判所に、傍聴人として行ったが、服装に関する規制は一切、うたわれていなかった。

 
私は・・・というと、ストールは装いの重要な一つとして、欠かせないものの一つ。国会で某女性議員のストールが話題になったが、国会も古いと思った。私は、スカーフやストールを身につけるのが好きで、議場でも、スカーフやストールを装うことが多い。

 見苦しいと、言われたことは一度もない。





2014年

 ◆ 教職員の通称使用を認めるよう求める請願を教育委員会に提出しました。以下、提出の請願文及び、教育委員会の「回答」です。

 
「思いつくまま」でもないのですが(笑)、この欄にて、紹介します。

請願結果・・・  採択


                                               平成26年11月27日
  行田市小見1414−2
  三 宅 盾 子 様

                                          行 田 市 教 育 委 員 会
                                          委員長 岸 田 昌 久


               
                     
請願について(回答)





  平成26年11月17日付けの請願につきまして、下記のとおり回答いたします。

 【請願事項

 1 教職員が通称を使用できるよう、早急に要綱を整備すること
 2 当面、通称使用を求める教職員に対し、通称使用で対応すること。



 【回答

  【請願事項については、11月20日(木)開催された平成26年11月定例教育委員会で協議した結果、教職員が 通称を使用できるよう、早急に要綱を整備することに決定しました。
  また、年度の途中で氏が変更した場合は、年度末まで旧氏を使用できるよう運用で行っているため、当面の旧 氏使用は可能となっています。








※ 以下は、原文のままですが、読みやすいようにインターネット上では、行間を空けたり、部分的に文字を大きくしたりしてしています。

                   
         


                                                     2014年11月17日
 行田市教育委員会
 教育委員長 岸田昌久様


                                              
                                            請願者  行田市小見1414−2
                                                  三宅盾子



               
                
 教職員の通称使用を認めるよう求める請願



【請願趣旨】

 職場での通称使用は、全県的にも広がってきています。婚姻その他の事由により、姓を改める人、また通称を日常的に使用する人の不利益や負担等を軽減するために、通称使用を認めることを求めるものです。
 結婚して戸籍上の姓が変わっても、職場では旧姓で通したい人、また、外国籍の人では、住民票に通称が記載されている人がいます。


 国において、男女別姓制度についても論じられてきましたが、いまだ実現に至っていません。職場での通称使用は、男女共同参画社会の観点から、外国籍の人への配慮の面からも認めていくべきものと考えます。

 行田市教育委員会においても、教職員の通称使用について認めていただけるよう請願するものです。
 また、通称使用にあたり要綱等の整備が必要と考えますが、今、通称使用を求めている教職員に対し、要綱整備を待つことなく対応して下さるよう求めます。




【請願事項】 

1 教職員が通称を使用できるよう、早急に要綱を整備してください。

2 当面、通称使用を求める教職員に対し、通称使用で対応してください。







 ★議長交際費の「議長名刺代」支出について、、他市においては、「議長交際費」ではなく、「印刷製本代」から、公費支出されているところがあることから、(調査範囲における自治体議会の))公費負担がないと言い切れないことがわかり、訂正をしました。
                                                      2014年10月9日

  
        「質問時間の確保」について        私の近況より抜粋

  
 質問と答弁 合わせて60分の案が、議会改革推進委員会ではまとめられつつあります。

 現在は、質問のみで、40分となっていて、質問時間が答弁と分けられ、40分間が確保されていますが、質問と答弁を合わせて60分になりますと、質問時間がきちんと確保されません。

 答弁が長くならないという保障はありません。
 
 議会内では、合わせて60分でよいという意見が多いと考えられます。私も可能な限り、がんばっていますが、多数を占める議員が賛成のため、将来的に行田市議会における質問時間の40分を維持することが大変難しい状況です。


 現在、議会改革推進委員会で検討のため、実施時期も定かではありませんが、方向性が示されつつあります。
     


                                       
                                             8月14日      三宅盾子


  115         行田市の議長交際費       他市と比べてみると・・・  2014年7月

                                            「名刺代」公費負担 について、部分修正しました
(その1) 市の職員親族(執行部親族香典)の支出

 行田市では、「市職員」の父母等の香典を、議長交際費から支出しています。他市においては、支出の仕方において、見あたりません。

 支出している市においても、限定された基準を設けているようです。
 個々の自治体の紹介はここではしませんが、このような結果でした。




★  〈訂正します〉  

 議長の名刺代については、議長交際費ではなく、支出区分が「印刷製本代」の中で、公費支出をしている議会が見られることがわかりました。

 従って、他自治体議会において、必ずしも、公費負担をしていないということではないということがわかりました。
 
 私の意見としては、少なくとも「上限なしに議会費からの公費負担」ということについては、考えて行く必要があると感じています。



  行田市については、以下〜(3年間)


2011( h23・6〜24・6月   あいさつ用名刺代    20, 000 円

2012( h24・6〜25・6月 )         16, 000 円

2013( h25・6〜26・6月 
)        37, 300  円     
                    
                  ※いずれも、各議長就任中 の1年間 6月議会交替後〜翌年6月議会

 




 
「集団的自衛権」については、どんなものかよく知らない人びとが多いというのが、現状のようです。

「戦争をしかけられたら、どうするのか?何もしないのか」などと言って、集団的自衛権は必要だという人びとがいます。

 
 でも、集団的自衛権とは、
日本が武力行使を受けなくても密接な関係にある他国の武力行使に参加するということです。簡単に言えば、戦争をしかけている国、アメリカに協力して戦争をするということです

 アメリカの戦争に、日本も参加して、海外に出て、戦争する国になるということです。


 憲法9条では、武力行使を禁じています。だから、日本人は、戦後69年、海外で人を殺すことも、殺されることもありませんでした。 今、日本は、憲法の解釈を変更して、戦争への道を歩もうとしています。

 憲法9条は、世界の宝

 日本の憲法9条は、世界から、賞賛されています。人間が人間を殺す・・・何と残酷なことでしょう。「命」がどんなに大切なものか、誰でも知っているはずです。一人の命には、その周りの多くの人がかかわっています。一人の命が失われることで、悲しみにくれる人は、少なくないはずです。

 人一人を殺したら、大変なことになるのに、戦争ではそれが許されるということです。私自身は、どんなことがあっても、殺し合いはいけないと考えます。憎しみは憎しみを生みます。人間には、「話し合い」で解決できる力があります。


 もし、国民が日本を戦争をする国にして、海外で殺し合いをする道を選択するなら、憲法の解釈を変えるのではなく、(合法的な手段で)憲法を変えなければ不可能なことです。

                                                         
                                                           2014年7月3日


「わたしの近況」からの転載


海外で戦争できる国」 へ大転換

                                     集団的自衛権 憲法解釈を変更  閣議決定


自分の国が武力行使されなくても、密接な関係にある他国が武力行使を行ったら、それに参加する。これが、「集団的自衛権」です。

 アメリカの戦争に参加して、日本人も血を流す。殺し合いに参加するということです。
イラク戦争でも、日本は憲法9条の歯止めがあり、自衛隊員は、殺し合いに参加しませんでした。

 自衛隊が行くのだから、関係ないと言えますか?
 
 アメリカと同じように、日本においても貧困層の若者たちが、お金で、戦争に行くことにもなりかねません。ますます、日本の社会は貧しい階層が増えています。

 例えば、大学に行きたくても、 親の「給与減少」から、学生自身が数百万円の奨学金を借りなければ、大学に行くことも困難な社会です。

 そして、その先は、「雇用不安定」です。少なくない人たちに、生活すること自体が大変で、さらに、借りたお金の返済に苦慮する社会が待っています。大学に行っても、行かなくても、若者をおおう、雇用の不安定社会が、若者を戦争へと向かわせることは、十分に考えられることです。
 

 こんな国に誰がしたのですか。貧困社会と、そして、今度は戦争ですか。
 
 攻撃をする国になったら、今度は他国からも、テロの標的になります。
 深い深い憤りを感じます。今後も、一緒に声をあげていきましょう。

 
 7月1日 JR行田駅で、「海外で戦争できる国づくり」に反対し、ちらし入りのティッシュを配りました。





114  転載     あり得ない議会軽視    議決前に事業とりかかり  3月28日

 あり得ない議会軽視    議決前に事業とりかかり

 
〜「間に合わない」は、全く理由にならない〜

 それにしても、65週記念事業は、どうなっているのでしょう?
12月市報で市民からのアイデア募集して、締め切りが、1月でした。本当に、良いアイデアを募集する思いがあったのでしょうか、。あまりに期間が短く、寄せられた件数は7件。

 「内容審査」については、何とも言えないものとの感想を持ちました。

 そして、何よりも、議会の議決を経ないうちに事業を実施したことが異常です。私が議員になってから、今回で同様のことが3回であると記憶しています。

(例えば、議会の議決以前に、予算が通過したかのように決定内容として広報してしまったこと)

◆ 今回の理由が「新年度予算では、間に合わない」とか?ではどうしたらよいのか、(予算を組んだら、その年度に事業を行うのが基本ですが)間に合わないと言うなら、どんな方法をとったらよかったのか。予算を組む時の見通しはどうだったのか。

 そんなことは、行政が一番よく知っていることです。

 第一、新年度予算で間に合います。それ以上早くとりかかるには、それなりの手段があるはずです。

 それとも、市民からの募集以前に事業が決まっていて、その事業実施には、相当な日数を要することがわかったなんてこともないでしょう。

 「早く取り組みたかったから」というような、「弁解」をきいて、それで、理解しなさいというほうが、無理なことは明白です。予算執行の原則は、企画する側からしたら、ごくごく初歩のことで、弁解の余地ないものと考えます。

 予算も付いていない事業について、市民に呼びかけ、審査終了とは、何と
初歩さえ理解していないのかと驚くばかりです。

 議会を軽視することは、市民を軽視することです。

 それにしても、議員は、なぜ、そのことについて 知った時点でもいいですから、怒らないのでしょう(怒りを表さないのでしょう)。

   不思議なことの多い、春この頃です。  3月28日  三宅盾子




〜 私の近況欄から 〜  (転載)


113           フッ化物洗口の危険性           

  議会の質問、終わりました。今回、乗り越えた、という気持ちが強いです。

 インフルエンザにかかりそうで、何とか、もちこたえ、議会の質問が終わりました。

 今回も前回に引き続き、フッ素問題では、2歳児保健センターフッ素塗布問題を新たに加え、フッ化物洗口(フッ素うがい)問題、子宮頸がんワクチン問題をさらに進んだ内容で、市の姿勢を問いました。

 それから、英語指導助手雇用問題について質問しました。



 今回は、前回より進んだ内容で、
フッ化物洗口を実施しても、虫歯は減らない(してもしなくても、激減)という事実を資料をもとに知らせることができました。(言葉よりも、実態は強し、です)


 また、
2歳児塗布の問題を質問し、その「危険性」(体によくない)を知らせることができました。

 
 
40分という質問時間が、私にとっては短く、最初の質問は、20分で終わらないと、次からの質問が時間的にきつくなるので、自分では、そう決めています。



 
やっぱり、時間が足りませんでした。答弁は、「市であっても、国」、
場合によっては、もっと悪い?市として、改善できる余地あることもしない
という感じでした。

 国の方針や勧めることをなぞる、という印象が強かったです。

 市が主体的に考えたら、フッ素塗布やフッ化物洗口から、100%、子どもたちを守ることが可能です。


 答弁は満足いきませんでしたが、その内容を紙面で知らせます。

 

 知らせることによって、安全でもなく、効き目のないフッ化物洗口(フッ素うがい)やフッ素塗布を、
保護者の皆さんが選択しないよう、紙面からも訴えることができたらと思います。

 「命と健康を守る」情報をを行政が知らせないなら、知らせることが私の役目であると思います。



                                              3月5日  三宅盾子





〜 私の近況欄から 〜  (転載)


112           フッ素って、なあに?               

      子どもたちの命と健康を守りましょう

               どう考えてもおかしなフッ素洗口  

       

 

 

 
今、歯科医さんによっては、フッ素うがいをするように、学校に働きかけている方もおられるようです。(市内でも虫歯が少ない学校に)


 私たちは、フッ素についての知識がないと、「虫歯予防にはフッ素うがい(フッ化物洗口)がいいです」ということを信じ込んでしまいます。

 
有毒な物質をわざわざ体の中に入れることは避けなければなりません。

 学校において、集団でフッ素洗口(フッ素うがい)を実施することは、人権問題でもあります。
 
 インフルエンザの予防接種も学校での集団接種は行わないようになりました。

 
いまや、「集団」は時代遅れといえるでしょう。各自が、判断をし、薬剤を体に入れたいなら、医療機関で行うべきです。

 フッ素問題は埼玉県で、集中的に取り組まれているようです。

 なぜ、専門家である歯科医さんは、危険性のあるフッ素洗口を勧めるのでしょうか?
 


 ◆フッ素が虫歯予防になると信じている歯科医さんであるとしても、虫歯が激減している今、なぜなのでしょうか!

 
 ある歯科医さんによると、フッ素洗口を勧める歯科医は、「フッ素の危険性を知らないのではないか」とさえ言っています。

 本当にフッ素で虫歯がなくなるなら、歯医者さんどうするの?という質問もありました。そもそもフッ素は虫歯に関係ないのでは・・・。

 効果は、少なくとも言われていることとはほど遠いのではと思います。
 なぜなら、フッ素うがいをしているところのほうが虫歯が多いという実態があります。

 「フッ素」について少しでも理解しようとしたら、誰でもフッ素うがいが必要ないことに気づくと思います。

    そのためにも、是非、サイトをごらんください

 〜 
一般質問前に、新たなちらしを出すと書きましたが、間に合わなくなってしまいました。質問後、可能な限り速やかに、議員レポートを出します。

                                             2月14日  三宅盾子
                                     


111     「議会は、行政の監視役ではない」の不思議         2013年8月


110   最近の議会    「礼」のし過ぎは、なぜ起こるのか?                        2013年7月12日(金)

        ひとに合わせる、人間の心理? 


 今期になり、特に最近・・・の変化ですね。

 私のこれまで、4期16年間では、壇上に上がる際(正面に向かって歩むとき)に、執行部席に向かって一礼をする議員は、一人もいませんでした。

 ところが、最近の議会では、ほとんどの議員が、執行部席に向かって、礼をします。何だか、とても不思議な光景であると、私は思います。

 誰かが礼をし始めると、それにならう議員が、ひとりふたり・・・と出てきて、今や、ごく少数を除いて、ほとんどの議員が礼をするようになってきています。

 その心理は、「礼をするのは、丁寧なことである。礼をする議員がいるのに、自分が礼をしなかったら、あの議員は無礼であると思われる」ということではないかと推測します。

 「一礼」は、議会のような場所で、座っている執行部に向かって必要ないでしょう。議員も執行部も、議会では議長に一礼したら、それでいいでしょう。

  
         セレモニーと勘違い?


セレモニーではないのですから、議会という場における議員の仕事に力を注ぐことが一番で、そのほかのことは、必要最小限にすることがよいと思います。

 単に名前を呼ばれたら、「はい」の返事も、必要ないでしょう。出席議員は、確認されていて、質問や質疑も、通告ずみです。存在するか否かの「はい」は必要なくて、呼ばれたら、出ていけばすむことです。


 再質問や再質疑の有無を問われたときは、必要な意思表示なので、私は「はい」と答えています。議会は、議論の場であり、思考の場です。必要最小限の礼儀以外は、議員の頭の中は、いかに市民の代表として、発言するかを考えていれば、それで良いものと考えます。

 
 単に、名前を呼ばれた場合にでも、「はい」の返事がないと、問題視していた時期もありました。今も、時たま、ざわざわ・・・みたいなこともあるでしょうか?

 
 
 
 そのうち、一礼をする多数の議員側から、「執行部に一礼をしない議員がいる」とか、言い出すのでしょうか?多くの人がするようになると、それが当たり前や正しいことになるのであれば、不思議なことです。

 
 議員は、議会での質問・質疑・討論等、発言にエネルギーを使ったほうがいいと思います。正面に進み出るとき、私自身は、執行部に対して、礼をしなくても、失礼であるとの認識は全くありません。




 ★同じようなことは、けっこう見られます。卒業式などでも、退場の祭に、真ん中で歩みを止め、正面を振り返って礼をする人がいると、その後の人も次々に礼をして、後ろの人がつかえてしまうこともあるようです。ある保護者の人が言っていました。私もそのような場面に出会ったことがあります。退場に時間がかかってしまいます。
 
 一人がすると、後の人が、それにならうのですね・・・。誰かひとりが振り返らなければ、誰も振り返らないのではないかという不思議な光景です。
 


※セレモニーであっても、礼が多すぎる必要はないと思っています。一つの儀式に何回礼をするの?と思うほど、多いものがあります。きっと、誰かが始めて、丁寧すぎて悪いことはない、同じようにしないと、無礼だと思われるということから、みんながならったのだと推測します。



109      行田市のホームページ   訂正を求めたい記事        2012年9月20日・記

   
    「のぼうの城のポロシャツ」 私自身は気に入っていますが、しかし・・・・!  

 
 
 以下の記事について、事実と相違しているので訂正を求めたいと思います。担当課には話をしたのですが・・・


 平成24年9月3日(月曜日)9月定例市議会が開会になりました

なお厳しい残暑が続いていますが、行田市では本日より9月定例市議会が開会になりました。
回は、人事案件、条例案件、補正予算案件、そして決算に関するものなど、多岐にわたる重要案件を提出させていただきました。

 会
期は9月20日までを予定しています。議員各位の慎重なるご審議をお願いします。
お、本市を舞台にした映画「のぼうの城」の全国公開が近づくなか、市を挙げてこの機運を盛り上げていくため、議員の皆様と市執行部で「のぼうの城ポロシャツ」を着て初日に臨みました。
政運営の両輪となる市議会と一致団結してこうした取組みが行えることは大変嬉しく、今後とも、行政・議会・地域住民が一体となって、しっかりと地に足をつけたまちづくりを推し進めていきたいと思います。


◆ 議員と執行部でのぼうの城のポロシャツを着て初日に臨んだ・・・ということになっていますが、執行部と議会が申し合わせたという事実はありません。

◆ 各会派の議員が互いに話して「ポロシャツを着よう」とそれぞれの意思でまとまったことはあったかも知れませんが、それは、全くの自由意思によるものです。取組みではないのです。

◆ 各議員に「議会でポロシャツを着ましょう」という呼びかけもありませんでした。従って、のぼうの城のポロシャツで市議会と執行部が一致団結したということになならないでしょう。


◆議員の多くが初日に「のぼうの城のポロシャツ」を着ていたのは事実です。これは、自由意思によって「初日に着たい」と思った議員が着てきたととらえたほうがいいです。着なかった議員は、私を含めて3人いました。

 
 私がなぜ着なかったかというと、議場ではポロシャツより緊張感のある服装をしたかったから。他の二人には尋ねてもいないのでわかりません。みんなと同じ一斉にそろって着る行為も、もちろん私の好みではないからということも大きな理由です。

 

    

  〈服装の自由〉  「買う・買わない」  「着る・着ない」は 個人の選択の自由


 「三宅さん、ポロシャツを買いましたか。クールビズなので、ポロシャツでもいいそうです」という議運の副委員長から議運の報告の中で、話がありました。議員から「ポロシャツ着用でいいか」という質問が出たそうです。

 本来、服装は個性を表すものであり、何を着ようと自由です。
 お祭りの参加者で、はっぴを着ることに賛成の人たちが集まって、「お祭りに、はっぴを揃って着て踊りましょう」というのとはわけが違います。

 たとえ、のぼうの城のポロシャツであっても、揃える、揃って着るという発想は、私の中にはありません。「着る・着ない」という、個人の全く自由であることに対して、「とり組む」ということはあり得ないことでは?
「買う・買わない」も個人の自由なのですから、あり得ない話です。揃って着たい人は着ればいいし、いやな人は着なくていいと思います。

 

 
 議員は、「初日にはポロシャツで議会に臨みましょう」と言われることもおかしなことです。実際、そんな呼びかけは議会では、ありませんでした。(このことに関し、常識ある議会だと思います)


 

 全員ではないが、議会の初日に議員の多くが着てくるようだという情報を執行部が受け、執行部が「議員が着てくるのでは、自分たちもポロシャツを着ようか(着なくては)・・・」ということで、某担当部が議会出席の職員に来てくるようにと働きかけを行ったというのが、本当のところのようです。

 一致団結して、とり組んだということは、どこから見ても、合わない話ではないでしょうか。



★ 私自身は、自分の判断のもと、買いたいから買って、自分の着たい時に市役所含め、市内外を着て歩いています。議員は買うのが常識だとか、着るのが常識だとかいうようだったら、「自由でしょ」と言いたいです。
 
 
 職員でも議員でも、ポロシャツを買わないから、着ないから市の行事を盛り上げる意識に欠けるという見方をするとしたら、それは全くの表面的な誤った見方でしょう。

 
 
ポロシャツがそんなにまちを盛り上げると考えるなら、ポロシャツを市民の希望者には販売したらよかったです(きっと売れたことでしょう) (文中の)市を挙げての「市」は、職員と議員なのか。市民は含まれていないのか?

 人口全体から見たら、少ない職員と議員が着ても、効果は薄いでしょう。今回のような場合、宣伝効果も含めたものですから、職員と議員が買うことができて、市民は買えないということのほうが、おかしいのではないでしょうか。

 何しろ、最初の購入希望で、議員に届いたのも、8月中旬過ぎてから(20日過ぎ)なのです。ポロシャツで盛り上げるにしては、遅すぎるのでは? だから、私には、市のホームページの文章がよく理解できません。事実としての記載も、事実に反しているので。





108  式典の来賓挨拶   (家族の)代理が、可能か?
 昨年11月3日・文化の日式典 (2012年2月18日・土)

 ここで言うのは、役職のある人の[役職]の代理をする場合である。

 自治会の総会など、1世帯で誰が出席しても問題ない。、夫が出ても妻が出ても、全く問題ない。しかし、自治会長という役職の代理は、夫や妻のどちらかでもよいとはならない。自治会長は、その役職となった個人だろう。夫が自治会長だからと言って、何かの会議に、「今日は夫が都合悪いので、妻の私が代理できました」は、通用しないだろう。

 市長の代理で、妻である私が祝辞を読みます・・・これも通用しない。役職の代理は、私的な家族ではできないものだろう。市長の代理は、市長の妻ではなくて、副市長など、行政関係者だろう。

 
 議長の代理に、議長の妻が出席する。これも同じで通用しないだろう。議長が都合が悪いので、妻の私が挨拶を読ませていただきます・・・通用しないだろう。代理が可能なのは、副議長等議会関係者となるだろう。

 このようなことは通用しないので、目にしてこなかったことだと思う。


◆ なぜ、昨年の文化の日の式典において、役職の代理として、その妻の挨拶が可能だったのだろう。大変不思議に思った。
 本人が欠席なら、メッセージを届けるという行為が妥当であると考える。

   〜 〜 〜 〜     〜 〜 〜 〜 〜     〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜    〜 〜 〜 〜

 
 今後、主催者である行政側は、来賓挨拶は公務であるので、家族等の私的な関係は通用しないことを確認すべきだろう。

 
表彰状の受け取りに、家族が代理で受けとるのとは、わけが違う。

 市主催の行事に、欠席の本人に代わって配偶者が代理で来賓挨拶することは、これまでにはないことだった。


i以下は、このホームページの「わたしの近況」欄の冒頭に記載したものを、こちらに転載したものです。





「三宅質疑は必要なかったと思う」の意見・・・の不思議

                   ※
詳しくは、この欄 9月29日欄

 〜議会終了後、自由に、議運の委員が、議員個人の質問・質疑等発言内容に対する「批判」を行う場所なのか〜

 9月議会の最終日に、議会運営委員会が開かれました。次期定例会の初日を決め、その後、9月議会の「反省」ということで、意見が出されました。
 
 その内容は議会運営上の[総括]というより、個人の質問や質疑に関する「批判」であったと受けとられます。

 議長の許可のもとでの議員の発言であり、その内容について、問題があれば、そこで「議事進行上の問題」として「議事進行」をかけるべきでしょう。

 
議会の終了後に、「誰の質疑が問題である」などという話し合いの場を持つこと自体、おかしなことで、それこそ問題であると思います。

 議会運営委員会とは、何をするところなのか。議会終了後に議員個人の発言に対して、批判をするところなのか。原点に立ち返る必要があるでしょう。

 問題があると考えるなら、堂々と本会議の場で指摘すべきであり、あとになって「反省」という名目で、他の議員の発言批判はしないことです。

 行田市議会は、もっと議会をきちんとすべきではないかと思います。
                 
                        10月3日  三宅盾子
             




三宅の質問は,6月13日に終わりました。傍聴の方々、ありがとうございました。6月17日の金曜日まで、議員の質問が行われます。
傍聴においでください。

◆ 言葉には、すべて、意味がある
       必要ではない言葉は、省くことが美しい

       議会の「はい」と番号

 ・「はい」は意思表示が必要な時。そこに存在していることがわかっているのに、単に名前を呼ばれての「はい」は、「服従」の意味合いを与える。
 
 大勢の中の「いますよ」(存在)の意思表示ではないから。「訓練」の場ではない、思考の場である議場では、立ち上がって出ていけば十分な行為である。よその議会の傍聴に行った時にも「はい」は聞きませんでしたね。行田市議会は、議運でそんなことばかり。

 ・「番号」  これは議員の座席の番号。
       学校の子どもで言えば、名簿の番号。    
    
  人が住む土地に住所という番号がある。
 ・「○番」は、住所的なもの。議場での議席という住所。

 私という人間は番号でもないので、意味をなさない不必要な言葉は告げない。わざわざ「住所」を告げる必要は何もない。

 意味をもたない「はい、○番」は、兵隊さんみたいで、私はいやだ。
 
 意味なく、単に名を呼ばれたら「はい」を言ったり、あちこち重ねて礼をすることが礼儀正しいという認識は、誤りではないか。
「礼儀」は形もあるが、心だろう。それは、違った形で言動に表れるのだろう。          


◆ 「はい」の強制はすべきではない
 それにしても、議会で名前を呼ばれたら「はい」は当たり前という意見に対し、言いたいです。国会を見ても、「はい」がないほうがどんなに自然に視聴できるか、わかると思います。
 ひとに「はい」を強制する人は、国会などをテレビでも見たことがないのかなと思ってしまいます。
 議長の指名の後、いちいち「はい」があったら、テレビを見ている人もうるさいと思うに違いありません。

 議会は「思考」の場です。指名されれば、その議員が発言したらよいことです。議会を何かの訓練の場と間違えているのではないでしょうか。
 
 議会に「はい」の返事が必要だと思う人は、ぜひ、国会中継をごらんください。

                   6月3日    三宅盾子

 

2011年

「思いつくまま」欄は、ずいぶんご無沙汰してきてしまいました。
日々の行動や思いを記してきている「私の近況」に、思いつくこと含め書いてしまっています。
 しかし、今後、また、時により、この欄も活用していこうと思います。



  問われる「中立公正であるべき」議会事務局の姿勢
                                   2011年5月24日(火)

 書こうと思ったようですが、書かないままになっていました。





2010年




106     議会の日程、なぜ、早いうちに知らせられない?

 行田市議会では、議会の詳しい日程が、直前にならなければ、市民の知らされません。
このことでは、議員になって以来、要望書を出したりもしてきました。

そして、市民に議会の情報提供をしながら、その改善に努力してきました。

今、やっと議会の開会初日だけは、知らせることになってきました。
 



105 三宅ブログ問題                            (09・8月23日・日記載)
 
 議員の採決(反対・賛成の意思表明)の結果を掲載されることが、なぜ、問題になるのですか?
                                    

    〜 事務局発言は、議会に対する基本姿勢が問われるのでは〜

 ※ 以下は、「私の近況」に(形にこだわらず)記載したものをほぼ転載し多少の説明を加えたものなので、読みにくく、また、説明不十分でわかりにくいとは思いますが、一応、この欄にも記載しておきます。

   
 知らされなかった、幹事長会議の中身

◆ 3回の会議の中で、三宅ブログ問題が取り上げられていた。(6月9日・22日・24日)
 議会幹事長会議「三宅ブログ問題」は、すでに「近況欄」に記してきたが、三宅に対し、前議長からは、議員の個人名記載は名誉を傷つけるので、記載しないように求められた。「問題」というより「お願い」と言われ、その一方で「問責決議」という言葉もあった。

◆ 議会事務局(管理職)職員が、「質疑として適切ではない」と問題視した三宅質疑内容については、議長からは問題とする発言はなかった。

 後日わかったことは、ブログ問題が問題視される発端となったのは、事務局職員(管理職)からの問題提起であったことが、幹事長会議の会議録からわかった。

◆ 本来なら、幹事長会議の中身については、すべての議員にその内容が知らされるべきものである。ところが、私は、6月24の議会最終日に、前議長に呼ばれて初めて、私のホームページが幹事長会議で問題となっていることを知った。
 それは、24日の一回のみの会議で私のブログが問題であるとして取り上げられたと解釈していた。実際には、9日、22日と他の問題とともに取り上げられていたことがわかった。

( 本人の問題であることから遠慮したのかも知れないが本人の問題であるにしても、事実は事実として知らされることが当然であり、知らせて欲しいものです)



 


 議会事務局(管理職)・発言から (枠内)     議員が選挙時困る?

 
 

●別紙の資料にもあるが、三宅議員のブログには個人名等の書き込みがある。
表現等気をつけないと大きなトラブルとなる可能性がある。幹事長各位に協議をお願いしたい。

●議員各位においては、選挙時困るのではないか。
   
    (6月22日 10時30分開会・幹事長会議での議会事務局発言・問題提起)



 その前の6月9日の議会事務局発言(枠内)では・・・ 質疑内容というより(?)ホームページ記載のみを問題視したもの

 別紙要望書(※)が本日、事務局に提出された。それと併せて三宅議員のホームページにも同様のものが掲載されている。内容自体は議会事務局で対処すればよいものであるが、ホームページに掲載されていることが問題ではないか。各幹事長会議で協議願いたい。


※別紙要望書とは、議会事務局長宛に、三宅が提出したもので、事務局管理職の仕事の範囲を逸脱した行為に対し提出した。
 
 三宅の質疑内容の通告に対し、議会事務局職員が適切ではないとの見解を示したことについて
 
 以下、三宅質疑と、事務局の行為に対する私の考えについて、簡単に触れておきます。

◆ 本来、議場で市長が答弁する内容である。質疑提出者には提出者の観点や思いがある。
 事務局職員のチェックは、書面の体裁が整っているか(例えば、年月日、議案番号に誤りはないか。質疑が伝わるように記載されているか等)のチェックであろう。

◆ 事務局職員は、(議場で見解を述べる)市長ではないのだから、中身がどうだとか、踏み込んで自分の意見を述べることは控えるべきだろう。議員が市長と議場で、対等な立場で見解を述べることはお互いのやりとりである。

 それが、「長野工業団地の地区計画の見直しの内容なので、これでは、質疑はできない」のような言い方を事務局職員がしてきた。
 私が言ってもそれで終わることなく、また、自分の意見を言ってきた。本来の仕事の範囲を逸脱しているし、きわめて不快感のある対応だった。

◆ 議案には、みなみ産業団地と長野工業団地の地区計画が載っており、三宅はその整合性の観点を含む質疑。

 踏み込んで言えば、長野地区計画見直しの機会にみなみ産業団地の地区計画も見直す必要があるのではないかの観点もあった質疑だった。



 
 もし、三宅の質疑内容について、「質疑が適切ではないから、質疑はできない」という、行為がおかしくないと言うなら、状況は異なるが次の例で考えてみたら理解できるだろう。
 市民が市長に質問をする際に、質問する側の市民に向かって「あなたの質問は、適切ではないから、考えなおしたらどうか」ということになる。

 
 現実にこのようなことは、あり得ないことであることがわかるだろう。

付け加えておきますが、6月8日の本会議場において三宅質疑が、「質疑として問題がある」との声はでなかった。☆事務局は、幹事長会議の席上、各幹事長に対し、事務局に提出した三宅質疑内容コピーを資料として添付して渡している。
 


※ 個人名等の記載・・・議員の採決の結果(議案。請願に対する賛否)の記載である。
 仮に記載が他にあったとしても、(実際には、ほとんど皆無)誹謗中傷とは無関係のものである。


※ 議員個人の採決の結果が明らかになると、選挙に困るとは、どのような意味なのか。


          ☆              ☆              ☆                ☆
 
 
   議員は、賛成でも反対でも、自分の態度を市民に知らせたいはずではありませんか?

      結果が重要  内容については、議員は討論の機会もあり(最終日の討論はケーブル放映)

◆ 議員は選挙で公約を掲げ、市民から選ばれた存在である。市民は、それこそ、議員個人が、議案に対し、どのような判断をしたか、知る権利があるだろう。会派が政党ではない場合、選挙後に組まれたものであり、政党とは異なる。多くの議員は無所属であり、市民は、個人に投票をしてきている。だから、本来は、個人の賛成・反対を知らせるべきである。

 委員会の採決、本会議での採決、ともに、秘密会でもない限り、当然市民の目にさらされるべきものである。それを、議員が、ホームページの載せて、どうして問題があるのだろう。市民が委員会や本会議を見に来たらわかることなのだ。

◆ 「賛成反対の経緯がわからないから 議員の個人名の掲載が問題」と議会事務局職員(管理職)は言う。経緯については、それぞれの議員が知らせたらよいのではないか。私が他の議員の賛否の内容を知らせるほうが、無理がある。賛否の結果は大変重要である。議会だよりにもほとんど経緯は記載されておらず、会派ではあるが「賛成・反対の結果」が記載されている。

 「経緯」が重要で結果だけでは誤解されると言いながら、議会だよりでは、なぜ、会派なら結果だけでよいのか。矛盾しているのではないだろうか。一人ひとりの議員は、市民に責任を負う立場なのだから、知らせたい議員は、自分で知らせたらよいと思う。
 
 また、もちろんケーブル放映されている最終日の議会で、討論でも意見を述べることができる。委員会でも、その機会あり。

◆ 私のホームページでは、議案に対する自己の見解はもちろん述べることはあっても、賛成・反対の事実を記載することはあっても、議員個人の誹謗中傷は行っていない。市民の皆さんは、議員の賛成・反対の記載が議員の名誉を傷つける(議員発言)ことになると思いますか?
 


104 議会の開始時刻を守ること  再開時間のお知らせについて  〜  実質的にやっと実現 〜

      議員さま?の不思議さ

                                                (09・4月6日・月・記)


  〈請願を不採択にし、実際には、あとになってやっと改善 〉

  

 ・市民の意見に従ったと思われることがいやだった、だけ


 08(h20)年の9月議会に、市民からの請願が議会に提出された。(再開時刻の議場での宣告・最終日の議会開会時刻を守ること、の内容)

 ※数年前にも、同内容の請願が提出されている。(04・
h16年・6月議会・請願)

 「議会のことは議員が決める」・・・一言で言えば、この言葉に集約されるのだろう。
 議会のことは議員が決めるのは、当たり前のこと。(市民には議決権はないのだから)

 この主張の意とするところは、「市民は議会の規則には口を出すな」
ということ。だから、市民から請願が出て、それに従うような事はしない、ということなのだろう。

 

  ・
議会は、当然の「請願」を否決
 
 その主張通り、市民からの請願は、多数議員によって否決された。
 しかし、もう、これ以上、理屈に合わないことが押し通せるとは思わなかったのだろう。
 
 12月議会最終日(読み合わせがあり、定刻の9時30分には始まらない)、各委員会の申し合わせで議員は9時集合に変わった。そして、本会議の開始は9時30分に間に合うように開かれた。
 
 普通は誰が考えてもおかしいことを無理な理屈で押し通そうとしても、無理なのだ。そして、そうすることは、決して議会のためにはならない。

 議員の私も、この件については、口頭、文書の両方で主張してきた。しかし、なかなか改められなかったのは、今までやってきた前例を覆すことができない、議員の保守的体質のためなのだろう。


 行田市議会のそれまでの現状は、どんなものだったのか

★ 休憩後の再会時刻

 休憩に入ったら、傍聴席入り口の札に再開時刻が表示される。しかし、それは、都合により複数回書き換えられることが珍しくはない。だから、極端な話、表示は、役に立たないような場合も多い。複数回変更になる、長く続く休憩時間に、傍聴に訪れた市民は、あきれ果てていた。

 
★ 最終日の開会時刻

 
 議会最終日の開始時刻は、9時30分に始まることはない。なぜなら、9時30分から、「読み合わせ」と称する委員長報告を委員会の委員の前で本会議前に読むこと(確認)が行われる。だから、実際の開始は、早くても10時頃になってしまう。

 しかし、市民への開始時刻のお知らせは、「9時30分・開始」なのである。このことについて過去にも問題提起した。そのときの論議では、9時30分には、議員はきていて委員会(読み合わせ)なのだから、議会は開始されている、というものだった。

 これは、違う。なぜなら、本会議が9時30分と、議会として市民に知らせているのだから。本会議が9時30分に開かれることがないのだから、明らかにこれは間違いである。





・ 
議会の進むべき方向は・・・

 議会で解決すべき問題は、まだ、ある。市民のための議会を目指し、そのことから外れていることについては、まず、議員の間から問題提起されたら、改めることである。(議員が誰も気づかないということはないと思うが、気づかず市民から先に指摘された場合も同じ)

 それができないまま時間が経過した場合、形はどんな形にせよ市民から指摘を受けたら、可能な限り早く改めることである。請願は、素直に認め採択し、「言動一致」とすべきだろう。そうでないと、議会に対する市民の不信感は強まるばかりである。権威主義的悪しき議員の体質が浮き彫りにされるだけである。





103  「議会のインターネット中継」は、あれも、これもと子どものおねだり? (07・9月28日・金・記)

 議会運営委員会では、調査資料もなく・・・  審議というより話し合い

◆ 資料も持ち寄らず、また、委員会としての資料もなく、市民からの請願の審議が行われた。そこでは、ケーブルテレビに反対するときに、「インターネット配信が先」と言っていた議員が、「インターネットの議会中継」が出されると、今度は、経費がかかるとか、議場の改修が必要だとか、費用対効果の問題が重要だとか、議員へのパソコン貸与が先だとか言い出した。
 
 議場の改修が必要かどうかは、別に調査に基づいたものでもない。経費がいくらかかるかも委員は、興味がないのか、調べてもいない。委員のうちのただ一人だけが、推進に賛成で、あとの委員は、具体的な資料に基づかない否定的な意見ばかりだった。

 
   費用対効果というものは
・・・

◆ 「費用対効果」の予測を論議しても始まらない。市として議会としての市民への情報提供が費用対効果という問題なのだろうか。答えは、ノーである。議会を知りたい市民が、自分にできる方法で、議会を知る。これは、市民の知る権利である。知る権利が保障されるために、行政や議会が、市民に情報提供することは、きわめて当たり前のことである。

 

    
    視察で何を得たのか


 某委員の発言によると、インターネット配信という問題で、視察をしたが、そこでは、次のようだったと言う。
「インターネットで議会を見るのは、ほとんど市の職員からのアクセスである」ということだったようだ。だから、やってもどうなのか、という否定的であることが発言の主旨のようだ。

◆ 私は、そのような発言をした自治体の職員の資質にも問題があるのだと思う。市民に市政を知って欲しいという思いがあれば、市民にお知らせる方法を模索する姿勢になるのでは、と思う。
 関心ある市民が一人でも二人でも広がっていけば、それはそれで十分に意味があるだろう。

 議会が透明になっていることで利益があるのは、視聴する市民ばかりではない。透明になればなるほど、行政も、議員も発言の仕方や工夫などで、緊張感(利益)をもたざるを得ない。そして、それは、また、市民に「効果」としてはねかえっていくものだ。


◆ しかし、理解できないのは、某委員の言う、市民の税金をかけて行ったその視察の目的は、一体なんだったのだろうということだ。「議会のインターネット配信について可能であれば行うことが良い」としたから、視察に行ったのではなかったのか。そこでは、議場の改修がなされたのか。経費はどうだったのか。
 
 
 ※ 北本市の議会録画中継を委託されている業者の話では、モニターテレビ用のカメラが設置できていれば、そのビデオテープかDVDをもらえば、それを使うことで可能だということ。
 
 

 なぜ、その資料が、今回の審議で生かされないのか。疑問ばかりである。視察は、気軽にいくものではない。市民の税金をかけていく視察が、目的意識もなく、その自治体の職員が、「職員が市民より多く見る」と言った発言を学んで帰ってきたのだろうか。

 (アクセスしている人が、職員か一般市民かの区別ができるのか理解できない。多分アクセス数が少ないということからだと思うが)仮にもしそうだとしても、職員が議会を知ることは大変大事なことである。疑問ばかりが残る。



 
「議会のインターネット中継(を求めること)は、子どもが、あれも欲しい、これも欲しいというようなものだ」

 
このような発言は、大臣だったら辞任に追いやられる発言だろう。議会運営委員会席上での発言だ。
なんと市民をばかにした話なのかと思う。市民の代表である議員が、まるで、市民を意識していないで、仕事をしていると思われても仕方ない。私は正直言って、このような言葉には、ただただ驚くばかりである。

 議員は市民の代表としての仕事を、「どうぞ、仕事のすべてを見てください。そして、要望なり批判なり、何かあったら、遠慮なく言ってください」という姿勢が必要だろう。
 
 議員の一般質問の時間を積極的に減らしたりするようでは、市民の代表としてどうなのだろう。
 ケーブルテレビの放映のために質問時間を減らすと言い、減らしたら、「放映に反対」しているようでは、どうなのだろう。支離滅裂な言動だと言われても仕方ない。


 
 これを聞いた市民は、なんと思うのだろう??「あれも欲しい、これも欲しいという子ども」と言うなら、インターネットの議会中継も、だめというのは、「あれもだめ、これもだめ、という子どものようだ」ということになりはしないか。そして、本当は、どちらが、子どものようなのだろうか。市民の皆さんに判断して欲しいものだ。



102      市民運動の「実り」と・・・          (07 5月25日・金)

 新市長が誕生した後の報道で、「茶室を中心とした」伝統文化振興支援施設の建設は、中止されたことが知らされた。

 
 
 〜 賛成署名側   残されたのは、行政に対する不信感では?
 〜


 
 市が、文化団体の代表者に依頼した建設賛成のの署名運動は、ただの労苦に終わった。
市民が行政にもてあそばれた代表的な例である。

 
  
「やらせ署名」  謝罪はあったのか

 少なくとも、賛成署名を依頼した文化団体の責任者への「謝罪」はあったのだろうか。茶室建設に私はもちろん逆の立場ではあるが、ある意味、賛成署名側が気の毒でならない。

 

 どれほど、時間と精神とをつかったことだろう。印刷物などの準備は、行政がかかわったにしても、中心となった市民は、どれほど大変だったであろうか。本来あってはならない行政の熱心な「申し出」を受け入れた。公民館まわりもした。仕事の合間には、署名の数も数えた。心には、秘密もかかえた。

 「市長が選挙でかわりましたから、我々は、それに従うだけの、ただの職員です」とでも言うのだろうか?

 市民の心に残した傷跡は、(直接聞いたことはないが)おそらく深いものだろう。「秘密」を共有した市民に対し、謝罪があったのかどうか、大変疑問である。

 そもそも、行政が茶室建設をすると言っているのに、わざわざ、署名活動をするということ自体、全く理解できないことだった。

 
  
  
  多くの 市民が勝ち取ったもの〜  茶室建設反対運動の実り

 一方、反対署名は、大きな力を発揮した。なぜなら、反対の運動が起こらなければ、建設の計画は、そのまま順調に流れたと思われるからだ。設計の予算が組まれていたのだから、当然、前(横田)市長在任中に、設計が行われたはずだ。そして、この3月には、「建設予算」が組まれるはずだった。

   
「反対」の声が「建設を阻止」した

 市民の反対がなければ、新市長は、そのまま、前市長時代の流れにのったであろうことが考えられる。
なぜなら、議会の議員は、執行部に、イエスの議員が多数しめているからである。
 現状では、予算案に反対する議員も少ない。
 

 市民の反対の声があったからこそ、06年(h18)設計は見送られた。計画は凍結状態となった。市民の反対の声により、前市長も進められなかった、しかし、「中止」という意思表明はなく、選挙に突入しようとしていた。

 
 市民の反対運動がなかったら、おそらくは新市長が選挙にハコモノ建設を争点の一つとして掲げることもなかったのではないかと思われる。

 市民の力は、大きい。市民の力の大きさを市民が実感できるような、「建設中止」を勝ち取った。市民運動は、決して楽なものではない。しかし、その労苦も報われた。

 
 市の情報を市民と共有し、市民とともに運動を起こした議員として、大変嬉しいできごとだった。市民が行政を動かす。市民が主人公である。このことが実感できた。

「茶室を中心とした」伝統文化振興支援施設建設・阻止の運動は、行田市にとって、歴史的なできごとだった。

 少しずつではあるが、行田も変わってきている。





101            議員の世界      (06・6月17日・土)  

 「話し合い」の少ない社会
 
 議会は言論の府というべきものだが、これほど、話し合いのない社会もないだろう。
 委員会や本会議場以外の場で、物事を決める場合、議員全体にかかわる問題であっても、25人しかいないのに全員が集まって決めることはほとんどなく、代表者が話し合って決定する。この代表者は、真の意味で代表者にはなっていない場合もあるが、「決定」して下におろしてきたりする。
 

 
代表者会議に議員の傍聴すら認めない  これは行田の特殊性?

 代表者の会議は、「閉鎖」なので、代表者以外の議員には、どのように話し合われたのか、報告はあるが、話し合いの課程が詳しくはわからない場合もある。

 議員の多くは、会議の公開を求めない。私なども、会派外の代表者に意見を求められることはあるが、会議の席上において、その議員がどのように反映しているのかもわからない。
(実際に、情報が伝えられなかったりすることも複数回あった。それは、とても重要な内容であった)

 
 公開を求めても、受け入れない。今や、市の会議も市民に公開の時代なのに、議会の会議が議員に公開されないとは不思議なことである。最も封建的な社会と言えるでしょう。
 最後に残るのは最も民主的であるべき議会内部の公開かも知れない。行田市が特殊であるのだとも言える。


 
市民に開かれた議会・・・には、議員の意識は、まだ遠い  

 議会日程のお知らせは・・・?(議会だより等の場合)

 市民に議会を知らせたいという意識は、議員全体としてかなり薄いのではないだろうか。だから、次の議会の日程を議会最終日に決めておくことがよいと主張しても、予定が変わる場合があるから、前もって知らせられない」と多数の議員(議会だより編集委員会でのこと)が主張する。

 
 議会だより等を見ると、他の自治体では、年間計画で、定例会(年4回・3の倍数月)は、月の1日から議会を始めるという市もあるようだ。少なくとも、「次回定例会は、○月○日から始まります」くらいは、市民に知らせることが望ましい。
 
 それによって、議会への関心も高まるかも知れない。また、都合をつけて傍聴しようという意識の人にとっても都合がよいだろう。

 
 
請願結果の議会だより掲載は・・・

 市民からの請願の結果を載せたほうがよいと言うと、「紙面の都合で無理」とか、「年寄りの市民は、字が細かくなって読めない」とか、理由にはならないようなことが述べられる。
 
 載せることが良いかどうかの判断が先であって、紙面の問題は、ではどうしたら紙面に載せられるかの問題である。実際、議案数の多いとき少ないときで、紙面は調節してきているのが、実態であり、そんなことは、どうにでもなることである。


 
 一般質問の時間短縮問題

 
どう考えても、市民の立場からしたら、質問時間は可能な限り十分にあるほうがよいに決まっている。40分により60分のほうが、質問内容も多くできる。質問内容が比較的多くない議員にとっても、迷惑がかからない。議会運営にも何の支障もなく、市民の声をより反映できるのだ。
 
 
 それとも、議員にとって、執行部に対する「質問」は、短いことが好ましいのだろうか。
効率的というのは、質問時間の短いことをいうのだろうか。
 何ら問題がないのに、質問を多くする議員に質問をさせたくない。それが、今回の目的なのだろうか。

 今回、短縮したいと主張する議員の理由には、論理的に無理があり、はっきり言って理由にはなっていない。そこで、目的は、「(質問を長くする議員に)長く質問をさせたくない」ということになるのだろう。
 
 
「自分は、40分あればいいので、質問時間は40分でいい」という意見を述べた議員の発言(議運)もあった。このことに象徴されている今回の「質問時間短縮」なのだろう。どこかで本音は出るものである。( ※ 関係記事は、「市民へのちらし」欄・」参照)



100  ☆ 大いなる疑問  
 議員は、なぜ、「質問時間」を減らしたいのか  
(05・12・28・水)

 
 「議会改革」で、質問時間を減らす?


 議員の一般質問時間を減らそうという動きが、少し前から議会内部で出てきていた。
 そして、今年度になって開かれた「議会改革検討委員会」でも、内容に取り上げられた。かなり多くの議員(圧倒的多数)が「一般質問時間の短縮」に賛成の意向jを持っているようだ。

 ところで、議員の権利と思える発言時間をなぜ、減らそうとしているのか。普通、市民が考えたら、不思議なことだろう。

 事実、市民に話したら、「今のままで、何か困ることあるの?」と言われた。そう言われるのも無理もない。

 12月議会も、質問日は2日間で、終えた。本当は、3日間やっても、4日間やってもよいのである。
 
 現実問題として、本市では、2日間のことも多く、せいぜい3日間である。それも、3日間とも、遅い時刻jになったことはない。少なくとも、私が議員になって約10年と8ヶ月、一般質問のために夜になったことは経験していない。早い時には、3時前に終わることもあったと思う。

  
 
 時間を短縮したい理由が、明らかでない

 1年に4回しかない議員の一般質問の機会だ。市民のために可能な限り、執行部をただす時間があることを、市民は望んでいるに違いない。

 市民にとって見れば、議会での質問という、議員だけにしかできない「特権」を縮小しようとしていると思われても仕方ないだろう。不思議なことに、減らしたい理由というのは、全く明らかにされていないように思う。議会改革検討委員会の席上でも、なぜか、理由についての論議がなかったように思う。


 
  モニターテレビ放映検討委員会で、浮上

 私の認識の範囲内では、この問題がはじめて浮上したのは、モニターテレビ放映の請願が採択された(
※下記)直後であったと思う。

)市役所ロビーでのモニターテレビ設置の経緯
 
 03年(平成15年)6月議会で、請願が議会で採択。過半数(1名の差であったと記憶)で請願が採択されたと記憶している。その結果、モニターテレビ検討委員会が議会内で設置され、翌年(04・h16)の6月議会から市役所ロビーにモニターテレビが設置された。

 モニターテレビの設置については、何と、数年間に及ぶ請願提出というねばり強い市民の努力があった。



 「モニターテレビ設置検討委員会」の席上で、なぜか、議員の質問時間の短縮の要望を述べたのが、某政党だった。(※その後も、同じ政党から、議運で意見が出された)
 
 そのとき、モニターテレビの設置と議員の一般質問の時間短縮がどのような関係があるのか、私は疑問を感じた。

 
 多分、いろいろ聞く中での推測、または、会議外での議員の発言では、モニターテレビに長く映る議員と、短く映る議員が出てくるということだった。実際に、「質問時間を短くしなくてはね」という議員の言葉を耳にした。

 長く映る議員は、よくやっていると思われ、「短く映る、または映らない」議員は、活動していないと思われるからということらしい。そんな問題ではないはずだ。

 
  
質問時間は平等に存在する  ケーブルテレビ放映への危機感?


 議員だれもが、現状におけるきまりでは、1時間の質問可能な時間を平等に持っている
 仮に、長い、短い、あるいは、映らないことをものさしにして、長く映りたいと思う議員がいれば、自分が長く質問したらよいのだ。現状において、日程を含め、何らそれを妨げようとするものはない。

 

 
放映すると、長く質問する議員が増えるのではないかという感想にいたっては、何のために議員が質問するのかが全くわかっていない、と思われても仕方ない。映ることが目的で質問をするなんて、普通考えたら議員としてあり得ないことだろう。


 
   議会の「一般質問」に対する 初歩的認識のあやまり
                           
「きくだけの質問」に疑問、は当然

 「議会で質問しないで、個別に尋ねたらいいのに」と言う議員もいるようだ。議員の一般質問というものは、「単なる質問」ではないことが理解されていないのだろう。

 「質問」は、単に「きく」のではなく、「このような理由で、自分は考え、提案するが、執行部は、取り入れたら(取り入れるべきだが)どうか」「ここがおかしいから、改めるべきだ」「なぜ、このようなことをことを行った(行う)のか」というようなものである。

 実際の議員の質問内容というものは、「単なる質問」ではなくて、「提案、批判、追及」の類である。

 
  私は(も)、聞くだけの質問は、議場での「質問」の前にすませている。ふだんの活動の中で回答を得、解決がはかられると確信のある事柄については、普通の場合、議場ではとりあげない。
 もし、本当に「聞くだけの質問」というものが存在するとしたら、もちろん、「ふだん、市役所で執行部にきいたら?」と言われるのは当然だろう

 
 
 
「要望」は、「質問」ではない

 再質問の中に、一部要望があって、「○○については要望としておきます」は許容範囲と思うが、再質問と称して、要望だけをあらかじめ用意した原稿をながながと読む、このことこそ議会として改めるべきではないだろうか。

 
 ◆
議会改革って、なんだろう?
                  何が市民にとって最善の利益なのか


 
 市民のために、議会のあるべき姿を追究していくのが、議会改革ではないのか。だれのための議員なのかを考える必要があるだろう。「議員とは何か、議会活動とは?」

 議員のあるべき姿に向かって、物事を論議すべきではないだろうか。

 すでに実現されているモニターテレビ放映や、ケーブルテレビが放映(この件については、ここでは詳しくは触れませが)に向かったら、(議員によって映る時間が長いから、短いから、あるいは、自分は質問自体をしないから困る・・・)という観点からであれば、市民を納得させることはできない。
 
 もし、「時間短縮」の理由が他のところにあるなら、きちんと会議の中で、それが述べられるべきだろう。議会の改革は、もっと別のところにあり、「市民の最善の利益」という観点から改革が進められるべきだろう。





99                                                           議運議会運営委員会の視察は、税金のムダではありませんか?
                                           (10月12日・水)   

 ここで、こんなことを述べると、多くの議員のみなさんからのお叱り(?)を受けそうだ。だが、率直な感想であり、問題があれば、取り上げ、大いに反論していただきたいということを最初に断っておく。

 
基本的には、議員の研修は必要

 議員の、市民の代表としての研修権を否定するものではない。議員は、市民の代表として選ばれたときから、すでに、市政についての問題意識や、抱負を持っていることは当然のことである。

 しかし、議員になってから、さらに議員としての資質を磨くことは必要と考える。
 議員は、それぞれ、得意分野も異なるかも知れない。また、資質に多少の個人差があるとしても、仕方がないとも言える。最初から完璧な議員がいるものでもないだろう。
 
 だからこそ、議員が議員として存在するための、少なくとも最低限の勉強は必要だろう。その意味で、平均的な(?
)水準が維持できるよう、目的を持って他地域に出かけ、物を見聞きし、学ぶ機会を持つことは公費で認められてよいだろう。(ただし、目的や内容等が適切かどうかを検討することが重要)
  
          
 ※「平均以上」は、私費で各自の研修と努力による

 
だが、しかし・・・・議運の視察は必要なし


 議会運営委員会の視察が必要かと言えば、私は必要ないと答える。議員の議会構成、一般質問の持ち時間、質問の形式、日程、休憩時間の取り方、次の議会の日程の決定時期等々の基本的なことから、議会運営の細部にわたって、いろいろ知りたいことはあるかも知れない。

 
@これらは、皆、電話で聞ける
 議員の間から、インターネットでも、という話も出たが、議会構成はともかく、内部の運営までインターネットで掲載している自治体は、ないようだ。


 
A 視察したいなら、県内の自治体で十分   九州、東北等必要ない

 それでも、直接話を聞きたいという議員がいれば、それもわかる、その場合、県内の先進地域で十分だろう。
(電話より、もっと詳しく聞きたいという気持ちで、私も個人で訪問することはある)

 B「委員会視察」の際でも、可能

 委員会の視察のとき、議会のことに関わっても、基本的なことを尋ねることは可能である。

 C議運の場合、集団の視察必要ない

 どこを視察地とするかは、議運の場合、特に重要な問題である。市民の側に立たなかったり、議会が言論の府であるという認識が弱かったりする議会を先進地として視察しても仕方がないだろう。
  行きたい(聞きたい)自治体もそれぞれ議員によって異なることだろう。だからそのような観点からも、税金をかけて集団で行く視察は、議運の場合、必要ない。

 

 
D 一番有効なのは、知識は書物から
 
 
議会運営に関しては、書物で、基本から応用まで、まず知識を得ることが一番である。
 

 議運の視察が必要ない決定的な理由     視察の効果は

 
 議運の視察を重ねて来ているのに、全員とは言わないが、議員が議会運営のルール等を知らないからである。何か問題があるたびにそのことを実感(経験)してきた。
 
 数年前には、ある件で、問題が起こったときに、「三宅さんは、まだ新しい議員だから議会のルールがわからない」と反論した議員は、かなり年数を重ねていた。もうずいぶん長く議員をしているのに、議会運営の知識がなかった。それまでに、議運の視察も何回も経験してきたであろう。
 
 公費で議運の視察をしてきているのにもかかわらず、誤った議会運営でも、疑問に思わない。当時の議会事務局に従い、それを正しいと思いこんだりしてきたのかも知れない。
 
 こんなこと言いたくないが、私は議運の委員になったことが複数回あったが、視察には、一度も参加したことがない。でも、行かないから、議会運営の知識がないということはない。逆に税金をつかって視察に行っているにもかかわらず、知識がないということは、何を意味しているのだろう。

 実際の場面での議会運営というものは、生き物であり、絶対に、これが正しいと言えないこともある。何かことにぶつかったとき、どう対応するかが困難なこともある。だから、完璧な議会運営というのも難しい場合もある。

 しかし、視察に参加してきたにもかかわらず、あまりに
基本的なことを知ないのでは、視察の効果がないと言われても仕方ないだろう。
 
 
 
飛行機で行く理由は?    税金の無駄遣い?

 議運の視察で、それこそ、何を学んできたのだろう。大事なのは、よりよい議会運営を目指そうとする問題意識であって、それさえあれば、遙か遠く離れた飛行機に乗っていくような地域の視察など、全く必要ない議員の視察というものは、ほとんどが遠方であるのは、なぜか?




    〜 6月の記憶 〜

98    議会の権威も誇りも、地に落ちて    (05年9月17日)

 いつものことではありますが・・・

 6月議会の最終日は、毎年、いくつもの事が決められる。議長、副議長、監査、正副委員長、農業委員などなど・・・。1年ごとに交替する役がほとんどだからだ。十分な審議が行われて、時間が経過するなら、何もいうことはない。

 
 しかし正副議長の選挙等では、何が進行しているか、ときたま、連絡を受けるだけで、代表者会議というくもりガラスの向こうで、一体、どんなことが話し合われているのか、分からない。代表者ではない者は、落ち着いて何かしようと思っても、有効に時間を使えず、ただ待っている時間という印象が強い。

 
 たいていの場合、議長や副議長の立候補者が複数いて、時間がかかる。複数いれば、選挙を行えばよいのは当たり前のこと。それが、「調整」という形で、代表者会議に持ち込まれる。
 それでも今回は、議長、副議長の選挙は、比較的早めに終わった。
 
 
 議長職は、行田の場合は、通常、古い議員から順番にまわっていくようだ。すでに、大会派、中会派に属する圧倒的多数の3期目の議員が、正副議長のどちらかは、経験したと言う感じだ。副議長に限って言えば、2期目の議員がすでに経験している。
 
 ただ、これらは、圧倒的に保守会派が対象となる場合が多い。選挙になった場合、会派の人数(また、どの会派と協力体制を組めるか)が勝負を分ける。正直言って、議長になれるかなれないかは議員経験の長さや、会派の関係の影響が大きい。
 
 私が10年以上前に、市議会を傍聴したとき、委員長報告をしていた議員が、やっと報告書を読んでいるのを目にした。なぜ、文字がなめらかに読めない人が市民の代表になれるのかとびっくりとした。

 選挙で選んだ市民の責任には違いない。議員が文字が良く読めなくて、議員としての責任が果たせるとは、私は思わない。その人が議長や副議長になっているのかどうか、過去の記録にあたってみた。該当していなかったので、過去であってもほっとした。

 
 今年は昨年より早く、議長、副議長の選挙が行われ、早く終わりそうだと思っていた。
 ところが・・・である。
 

 監査委員の選任で、深夜に・・・


 
立候補者は3人
 
 正副議長の選挙の後、監査委員の選出に入った。立候補者は、Yさん、Iさん、私の3人。話し合ってくれという。けれど、話し合って、「じゃあ、いいです」と譲るくらいなら、立候補などしない。それこそ、「人騒がせな・・・」ということになるだろう。

 代表者会議にもどされたが、そこでは「決められない」という。再度、3人の話し合いになった。決まらない。再度、代表者会議となった。私は、「代表者会議で、各会派の意見を吸い上げ、人数を調べて、持ち寄り、推薦者が多い人を議会の代表者にしたらいい」と言った。

 
 
「議会推薦」の議員を、本会議で否決

 代表者会議では、議会代表としての監査委員に、Yさんを推薦することになったようだ。
市長は、議会からの推薦を受け、議場で、監査委員として、Yさんを提案した。

 驚いたことに、Yさんが否決された。議会が推薦した監査委員を議会が否決した。こんなことは、あり得ないことだ。議会が推薦するということは、議員の多数がその議員を推薦するという前提がなければならない。

 
 
 何と今度は立候補者は関係なく、別の人が・・・

 代表者会議がまた長く、その後、議会が推薦していながら、自らが否決したということで大変なことになった。(議会の意向を尊重して提案した市長にとっても、いい迷惑である)
 
 それで、議会全員協議会が開かれた。
 しばらくして、立候補もしていない M議員を監査委員にするという報告らしきものが入った。

 市長提案、M議員で、賛成20名、反対4名で可決。M議員が監査委員となった。
 議会代表の監査委員というのは、当たり前のことだが、市民の代表で構成する議会の代表である。
 
 何が問題かと言えば、市議会の現状は、大いに問題だ。
 まさに6月議会のできごと一つだけを見ても、行田市議会の「質は明白」と言われても反論できないだろう。

  
 市民の信頼に応える市議会とは、ほど遠いのではないか。各議員は、6月議会で起こったことを考えてみても、そのことを十分に知っているはず である。
 



 05年  
 97      人事は、大事        
 (4月8日・金・記)

 市役所人事は市民生活と無関係ではない

 4月になり、今年もいつもの年のように、誰が、どこに変わって・・・・適材適所かなあ・・、なんて思ったりする季節がやってきた。人間なので長所も短所も、向き不向きもあるかも知れない。

 「人事」は、市役所の内輪のことで、市民には関係がないということにはならない。
市役所が生き生きと市民サービスを提供できるかどうか、ということは、大変重要である。 

 仕事をする意欲を含め、「人事」(・・がどう行われるか)により、市役所の状況は変わることもあるだろう。

 また、人が人を評価することは難しいことであり、どんな人が昇進するかは、職員の志気にも大いに影響するだろう。

 市役所の仕事は、市民サービスであるが、一人一人の職員の仕事ぶりが素通しで市民に見えない部分も多い。そんなことから、「人事」が、その人の評価と受け取られる傾向も強いだろう。


 
妥当か、どうかの問題・・・市民の目とも一致するか

 市役所職員は、ある一定の基準を突破した人たちである。そう能力が変わるものでもないとは思うが、仕事に対する誠実な姿勢、的確な判断力や仕事のこなし方等、また人間性の面でも多少の個人差もあるかも知れない。

 
 誰が見ても、あの人は、自分より、優れていると思う人が、昇進するなら、納得がいくだろう。しかし、昇進した人としない人と、どこに差があるのか疑問を持つような人事が行われれば、職員はやる気をなくすだろう。それは、個人にとどまらず、市役所全体の空気として広がるだろう。

 市民からすると、市民に対する対応 (接遇に留まらず、仕事に対する誠実さ等を含む対応)が良くないと思える人が、早く昇進すると、極端な話、市民対応が適切でない人のほうが、上司には評価されるのかと思われたりする。

 人事がどう行われるかは、職員をどう評価するかでもあり、それは、市民から見た市役所全体の評価につながっていく。

 


 
市民に顔を向けて欲しい、仕事の内容も・・・上司が変わる必要は?

 上司が市民に顔を向けていないと、部下も上司の顔色をうかがう傾向があるので、市民に顔を向けない。市民に誠実な対応ができなくても、上司に気にいられればそれで、問題ないということなのだろう。

 
 もちろん、細かなところでの市民への対応ばかりではなく、仕事(施策)の中身も市民に顔を向けた仕事をして欲しいものである。これは、職員個人や担当課の範囲を超えるものもあり、基本的には、市の上層部(トップ)の姿勢に深く関係するものではありますが。
 
 
 ※思いつくまま書きましたが、「裸の王様」が生まれないようにしたいものです。
 また、世間一般で言われるように、「要領の良さが、出世につながる。世の中、そんなものさ・・・」なんてことになって欲しくないものです。そんなことはないとは、思いますが・・・。


これまでの年度のものは、パソコンの容量の関係で、ホームページの画面上からは、抹消いたしました。

以下については、昨年度、一昨年度、の中から、三宅が、勝手に残しています。



04年
86          「討論時間の制約」の結末              (5月18日・火・記)
 

 討論の重要性は?

 「討論が長い、もっと短くするように、用紙1枚くらいにまとめるように」なんていう発言が議会運営委員会で委員より出されました。「では、次回検討しましょう」(委員長)ということになりました。(三宅は議運の委員ではないため、傍聴をしています)

 時間がかかる事に対する発言のようです。行田市議会では、討論に参加する議員は合併問題等がある時には、ある程度の人数がおります。しかし、通常では、3人から多くて4人の議員です。(制限を設けなければ、議会運営が成り立たないとしたら、ある程度の制限もやむを得ないこともあるかも知れません。それはそのときに考えればよいことでしょう)

 討論はお互いの考えを深め合うために欠かすことができないものです。議員としての責務と数時間を天秤にかけようとでも言うのでしょうか。議会の時間は延長し、議会は、その日に予定された審議等が終わるまで続けることが可能です。たとえ、自分が討論をしなくても、他の議員の討論に耳を傾ける姿勢は議員として当然ではないでしょうか。(討論時間の短縮の)発言の議員は、(事務局に)「他の市を調べるように」と要望していました。


 
次の議運では・・・

 何と(時間制限を)言い出した議員が、真っ先に「討論の時間制限は必要ない。どこか(他市で)、制限をしているところはあるんですか」という趣旨のことを言い出した。

 他の議員も、議員が自分の考えで行うものだから制限をしなくてよいのではないか」という意見が出され、この問題については、あっけなく(?)幕引きとなりました。自分が考えを変えた説明もなく、全く別の考えを述べたことには驚きました。


【結論と三宅の見解】


 
[討論時間に制約は設けない。これまで通りとする]ということです。
これまで、支障をきたしたわけではないので、議員として良識ある判断だと思います。


04
85            「はい」と「○番」の結末           (5月18日・火・記)

 議長に指名されたら、その場(自分の席)で立ち上がったさいに、「はい、・・・番」ということが社会的常識や慣例(申し合わせ事項)とするということでした。それに対し、三宅は、要望書を議会運営委員会に提出しました。
 再度、議会運営委員会で審議され、その結果、結論を簡単に言えば、「はい」や「○番」を「言う、言わない」については、各議員の考えに任せるということになりました。

 以下は三宅の要望書


                                                   2004年2月27日
 
行田市議会議長 吉田豊彦様
議会運営委員長 今井隆様


                                                       
三宅盾子


                    要望書(1)議場での「はい」について

◆12月の議会運営委員会において議長に指名されたら「はい」と言い、「議席番号を告げる」ことについて論議されました。その結果、議席番号については、これまでの慣例であり、「申し合わせ事項」とし、「はい」については社会的常識とされました。

◆議場において指名されたら「はい」は一般の社会常識とは異なる問題であると考えます。普段の生活では、人に呼ばれたら「はい」や「何ですか」等で対応するでしょう。しかし、普段の生活と議会や式典等の場合を同じに考えるのには、無理があると考えます。
 
 大勢が集まった会場等で、「はい」が必要な場合は、指名した人が会場にいるかいないか、呼んだ人が確認する必要があるときではないでしょうか。
 議会の場合、議長はすでに発言の意思表示をした人を指名しています。また、呼ばれた人が「ここにいます」と知らせるような場合とも違います。

 別の一例をあげてみたいと思います。卒業式の来賓が、指名されて「はい」と言っているでしょうか。なかにはそうする人もいるかも知れませんが、大多数は言いません。それが、社会的常識を欠いていると言えるでしょうか。答えは否です。
 議会においても指名される人は立ち上がり、その存在を示すわけですから、「はい」は必要ないものと考えます。

◆国会においても、「はい」はききません。県議会においてはどうなのか、県議会事務局に問い合わせをしてみました。「言う人もいるかも知れないが、全くそれについて取り決めていない。それぞれに任せている。別に言わなくても問題になることはない」ということです。

◆「はい」について統一しようとすることが無意味なことであると考えます。むしろ、議会においては必要なことだけを決めて、議場には静けさが欲しいと考えます。
 議会における「はい」は社会的常識とは別と考えます。行田市議会の論議のまとめによると、「はい」を言わない議員は、「社会的常識がない」ということになります。
「はい」を社会的常識とすることを撤回し、むしろ議場における「はい」は必要ないというように改めてほしいと考えますがいかがでしょうか。

【要望事項】
「議場」で指名された場合の「はい」は社会的常識であるということを撤回し、むしろ必要ないものとしてください。





   
行田市議会議長  吉田豊彦様
議会運営委員長  今井隆様
                                                     三宅盾子

              
                  要望書(2)議場で議席番号を告げることについて

12月の議会運営委員会において議長に指名されたら、議席番号を告げることはこれまでの慣例であり、「申し合わせ事項とする。罰則は設けない」とされました。
 議席番号というものは、席につけられたものであることから、いわば、人の住所にもたとえられるようなものであり、呼ばれたら「○○・・・・・○番地」と名乗っているようなものです。

人を番号で呼ぶ場合は、どんな場合でしょうか。大勢の人を健康診断するときなど、番号札を渡し、番号を呼び確認し順番に行うことは有効な手段でしょう。また、銀行等で番号札を使うことも、これに似た用い方でしょう。この場合、番号で呼ばれることには、仕事を性格に遂行する方策として誰もが認めるところです。
 また、特殊な例として、罪を犯した人は番号で呼ばれます。

一般社会において、人を番号で呼ぶことは、上記のような特別な場合を除いては存在しないことと考えます

 議員を番号でよぶことも全く必要ないことであり、また、それに議員が呼応して自ら議席番号を、自分につけられたかのように錯覚して名乗ることのほうが疑問です。

一つの例をあげましょう。学校で児童生徒を呼ぶ時に「○番」というでしょうか。児童生徒は自らを指して「○番」と答えるでしょうか。人間を番号でよんだり、自らを番号で名乗るよう指導したら、人権問題となるでしょう。

慣例は慣例として続けていくのではなく、改めていく必要があります。実際には「議席番号を告げることは慣例」ということを私自身はこれまで聞いたこともなく、全く知らなかったわけですが、今回、「議席番号を言うことは慣例とする」とされました。(ただ、私以外の人は議長に指名された際に議席番号を告げているという実態はあります)
 番号で人を呼び、番号で応えるということは、社会常識からしても考えられないことであることから、議員を議席番号で呼んだり、また自らを番号で告げることを議会としてやめるよう求めます。

 
 【要望事項】
 議員を番号で呼び、議員が番号で応えることを議会としてやめるようにしてください。




【結論と三宅の見解】 

要望事項については、全面的に受け入れられたわけではありません。「申し合わせ事項」や「慣例とする」ということは撤回されました。まあ、それぞれ「自由」ということですので、私はもちろん、住所を言うような番号は言いません。議場で、意思表示としての「はい」以外の「はい」も不必要と考えますので、言いません。

 こんなことまで、制約を加えようと論議をすることのほうに疑問です。もっと議会の本質に関わることで論議が必要です。

 
 
★☆★☆どうしてもやめたいことは、委員会での番号です。ここでは、委員長によってかも知れませんが、議員は「名前なし」です。名前は呼ばないで「○番さん」です。不思議ではありませんか☆★☆


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75            行田市議会で、今起こっていること 
その@
 議員の仕事とは
                        (12月23日・火・記)

 議会運営委員会(議運)に出された質問時間の短縮問題

 ことの発端は・・・モニタテレビ設置

 私が初めて議員の一般質問の時間短縮について耳にしたのは、モニターテレビ設置の検討委員会の席上だった。「一般質問の時間の短縮について議運の委員長にお願いをしている」といった議員の発言だった。議運の委員会ではなかったのに、モニターテレビの設置検討委員会での発言だった。

 詳しく述べると、その理由は「議運の視察で訪れた自治体では、議員の一般質問時間の制限が、答弁と質問で1時間だった。だから、本市でもそのようにしたほうがよい」ということであるらしい。
 
 「モニターテレビ」との関係では、」これは正式な場で聞いたのではないが、「長く放映される議員とそうでない議員ができてくる」という話も聞いた。
 でも、これは私には理解できない。なぜなら、モニターテレビのために、議員は発言しているわけではないからである。また当然のことながら、時間を長くする目的で質問時間等の設定をしているわけでもない。
 


    持ち時間の不合理
    現状の形での質問時間と答弁時間のセット
 
 両者を合わせた時間というものほど、不合理なことはない。なぜなら、議員が質問する持ち時間は執行部まかせということになるからである。ながながと答弁されると、それだけ議員の持ち時間は減って質問時間は少なくなるのである。
 極端な話だが、例えば議員が20分間第一回目の質問をして、執行部答弁が40分だと、それで持ち時間は終わりである。答弁に立つ執行部はそれぞれの質問ごとに答えるわけだから、結構長くなるとも考えられる。

 (本市のように1回から3回まで質問、答弁のまま進行する)現状の形では、特に質問時間は質問だけにすべきであると考える。答弁の時間まで議員の持ち時間と一緒にされてはたまらない。

 理由はなあに?   議員が、みずから質問時間短縮の理由は・・・

 従来通りで何が不都合なのか、明らかにしてもらいたい。まさか議員が議員の質問(時間)が少ない方がいいなんて思ってはいないだろう。今回「提案の理由は何か」という質問もなかった。目立ったのは、質問時間を少なくする意見だった。そして、討論の時間まで制約を加えたい意見も出された。討論は請願文書程度まで、などと言う意見まであった。

 
可能な限り、議論を尽くすのが、議会なのでは?

 
最も地域住民に深く結びついているのが、市町村の議会であると思う。住民の要望がどう議員によって取り上げられ、行政がどう対応しているか。それがわかるのが地方議会の特色ではないだろうか。

 住民の代表としての議員の役割が鮮明にうつるのも、市町村の議会であると思う。可能な限り、議員が発言する時間として有効に使うことが議員に課せられた仕事ではないかと考える。現状では、時間的に何の問題もないのに、あえて議員の時間短縮を図ろうとするのはなぜなのか。理解に苦しむことである。

 住民の要求に応える議会であるべきではないだろうか。住民は議員が議会での発言をして欲しくないのか、それとも、議会で可能なかぎり発言して欲しいのか。答えは明白ではないだろうか。


 
短縮したい理由を明白に

 現状では、どの議員も(時間制限のある)一般質問では1時間の範囲で発言をしている。
短縮したいという提案者の理由は不明である。「視察した他の自治体が・・・」というのでは理由として全く不十分である。理由や現状での問題点を明確にした上で、議論するなら議論すべきだろう。





 31  議会日程は市民にわからなくてもよい?    (10月15日・火・記)

 議会の日程について、議運(議会運営委員会)で論議されたが・・・
 


 従来通りでよい?!

 6月に、私は、議会の日程について、新議長あてに要望書を提出しました。内容は、議会の日程が早くわかるように、定例会の最終日には、次の定例会の日程が決まるようにして欲しいというものでした。
 
 要望書は、議会運営委員会にかけられたのですが、そこで出された結論は、「従来通りで、差しつかえない」というものでした。
 
 「議会優先だから」という意見もあったようですが、それは反対の理由としては成り立たないと思いました。 議員の活動は定例の議会の出席だけではないからです。常に「待機」しているわけではないからです。そして、次の疑問は、日程がはっきりわかるのが遅くても、日々の議員活動に不便をきたさないのかという疑問でした。
 議会優先だからこそ、(臨時のものは別として定例会は)先に、議会の日程を早く予定にいれた計画にしたいと思うからです。
 
 
何よりも大事なこと 忘れてませんか?

 そしてなによりも重要なことは、現状のままでは、市議会として議会の日程を、市民に知らせることができないということです。
 議会だよりや広報で市民に知らせるには、印刷等の関係から、やはり、前の議会の最終日あたりに議運で決めることが必要になってくるからです。現在、市役所を訪れる人には、議会開会の表示板を出していますが、もちろんそれだけでは不十分です。
 
 市民には、公的な方法で知らせなくてもよいと判断したのでしょうか。現状では、個々の議員が支持者等、可能な範囲の取り組みで知らせた方しか、日程が分かりません。
 市民に市政に関心を持っていただくためには、広報で日程を知らせることが必要と思うのですが・・・。
 市民の皆さんは、このことについて、どう思われますか。
 
 他市においては、次の議会の予定は、前の議会の最終日には決定するというところが増えてきているようです。
 

  市民にとっても、議員にとっても、議会の予定が早めにしっかりとわかることはとても大事なことと思ったのですが・・・。会議録で見る限り、議運の委員は、皆、「従来通りで問題ない」という意向であったようです。



 28               議会のわがまま      (9月26日・木・記))
 議会最終日の議会開始時刻は、何と信じられないほど、遅かった。
 9時半までにいつも通りに行って、議会が開かれたのは、11時だった。最終日は、委員長報告があるため、その前に委員会で確認の意味で読み合わせをする。そのため、通常の日よりは、遅い開会となっている。

 今に始まったことではなく、これまでも傍聴に見えた市民に迷惑をかけているが、この日は特に、市民の方の貴重な時間を無駄にさせてしまった。誰にとっても時間は大切なものだ。市民の代表である議員で構成する議会は、傍聴者があることを前提にして行動しなければいけないと思う。(もちろん、傍聴者がいなければ、時間のことを考えなくてもよいということではない)。
 
 たまたま見えた時に休憩時間でいつ始まるかわからない議会では、今度また、議会に行って見たいという気持ちにはならないだろう。つまり、市民からあきれられる議会ということにもなる。

 
 都合でいつまで休憩でいつ始まるかわからない議会は、昔もそうだろうが、少なくとも今の時代には通用しない。
 よその議会は、もっと時間にルーズではないだろう。他市の市議会を傍聴した時、議長は、「暫時休憩します」と言って、「次は0時0分に開始します」という旨のことを言っていた。また、他の市では、次の開会時刻こそ言わなかったが、一定の時間がきたら、開始された。
 
 (行田市議会では、事務局のほうで、時間が決まり次第、開始時刻を傍聴出入り口に表示していただけるようになった。ただ、再会時刻がなかなかきまらなかったり、一度出した表示の時刻に間に合わない実態が議員側にあると思う)
 

 行田市議会の場合は、これまでも、議事の間に議員の会議をはさんだりしてきたことがあった。また、議運が開かれると、やたら長かったりもした。そのたびに、もう少し時間をきちんとすべきではと思ってきた。
 
 議員たちは、議会以外の他の存在を考えない利己的な集団と理解されても何も返答のしようがないのではと思う。傍聴者ばかりではなく、執行部で議会に出席している人、控え室に見えている人等、職員の人たちからも、貴重な時間を奪っているように思う。だれも、ただ無駄に待つのも仕事なんて思わないだろう。
 
 議会開会日は、時間の流れまでも設定しておける議会が望ましい。議会が無駄なく流れ、緊迫感をもって行われるよう、どうしてもの突発的緊急以外は、話し合いも含め、事前に準備しておくことが必要であると思う。そして、後にまわせることは、議会終了後にすればよいと思う。
 
 一つの方法としてだが、各委員会の読み合わせがある最終日は、10時開会でお知らせをつくり、10時開会にするために、(読み合わせが30分では終わらないことも多いので)議員はいつもより早めに行くことも、考えられないものかと思う。もっとよい方法があれば、それに越したことはない。とにかく、「もう少し何とかならないか、私達の行田市議会!」と言う感じである。

 今のままだと、だらしのない議会の印象が強く、議会の品位にもかかわってくると思う。議員自身の責任である。
 
 傍聴にこられたことのある市民の皆さん、議会の感想はどうでしたか?

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