じゅんこの エッセイ

                                                   行田市議  三宅じゅん子のエッセイ



このページでは、日々の暮らしの中で感じたことなどを気楽に記しています。

2017年8月 北海道 紫竹ガーデン(帯広市)

 広大な自然の公園です。







271 教師の頃          新しい職場で               2019年5月31日・金    

 新しい職場は埼玉小学校だった。

 県南に通っていた頃、朝、バス停で、吹上駅行きのバスを待っていると、毎日のように見る自転車の男性がいた。

 私が埼玉小に赴任すると、その男性がその学校の教員であることがわかった。


 私が家を出て、バス停に向かう頃、その男性は、学校に向かう通勤途中であった。



 当時の私が勤務していた県南の学校では、車での通勤者は、きわめて少なく、私も列車通勤で、車の免許ももっていなかった。だから、自宅から学校まで自転車で通った。


 今、考えると、自転車通勤は、健康にはよかったと思う。

 免許をとったのは、2年目だったと思う。やはり、雨や風の中での自転車通勤は、ちょっと辛かったので。


 私の印象は、結構元気がよかったみたいで、教頭先生の教師紹介は、「明るく闊達な先生で・・・」という言葉であったと思う。

 

 しばらくすると、「今度新しくきた先生は、御しがたい・・・」に変わってしまった。

 地域の有力者がいて、その人が、PTAでの懇親会の席で、私を見つけて私に言ったのだった。


 縦にも横にも、きわめて体格の良いその人は、「あんたか、今度来た先生で、御しがたい先生というのは・・・」と言った。

 その人の話では、教頭先生が言ったらしかった。


 学校内の教職員のことを(外部である)地域の有力者に言うなんて、ひどいことだと、私は思った。

 また、有力者は、私に対して、とても失礼だと思ったのだ。

 
 それで、教頭先生に抗議もし、その数日後の夕方、教頭先生と一緒に有力者の自宅に出向いた。

 有力者は、私に謝罪をし、その後、特に何もなく、過ごした。


 教頭先生と有力者は親しい間柄のようだったから、おそらく、その直後にも、二人で、私について何か感想でも囁いたかもしれない。

 けれど、有力者が二度と、そのことを私に言うはずもなかった。


 教頭先生は、ふだん笑顔の人だった。ただ、もしかしたら私みたいな人が珍しかっただけだったのだと思う。


 私は私で、特別なことをしたという思いは全くなかった。だから、言われた事に対しては、心外だった。

 
 子どもの立場や教師の立場で、職員会議などで、自分の意見をはっきりと言っただけなのだ。


 

 着任して、まだ間もない頃のことだった。その「事件」は、別に後に何も残さず、それで終わった。

 
 「あんなこともあったなあ・・・」と笑ってしまう思い出だ。







270  教師の頃          名   言                        (2019年5月20日)

 行田市の学校に転任が決まり、辞令交付式というものであったのか、よく覚えていない。

 セーター姿で会場に行った時の事だと思うので、確かそうなのだと思う。

 会場はどこだったのだろう。木の床張りだったと思う。

 どのくらいの人数がいたのか、わからない。知り合いは、誰一人いなかった。

 

 
 その場所での挨拶の中で覚えている言葉がある。

 当時の教育長の言葉だ。


「(管理職の方は)先生方を管理しないでください。先生方を管理すると、先生は、子どもを管理するようになります」

という言葉だった。

 その言葉は、教育長から、学校の管理職(校長・教頭職)に向けられたものであったと思う。管理職の教員も、そうではない教職員も、おそらく合同の辞令交付式だったのだろう。

 ここでの先生方というのは、学級担任などの教職員をさしている。

 

 その言葉をきいた時、私は、なんてすばらしいことを言う教育長なのだろう、と思った。
 
 人は、管理されると、連鎖で、人を管理するかも知れない。


 「管理」は、どちらかというと、心のゆとりを奪うことにもなりかねないから。

 「管理」は、あたたかさよりも、冷たい響きのある言葉だ。

 人には、もちろん人や物を管理する能力も必要だろう。


 しかし、お互いが向き合い、心を通わせる教育の場には、「管理」は、ふさわしくない。

 人も物も管理できる能力を持っていなければならないけれど、人を管理することに走ってはいけないのだ。
 
 
 当時集まった場所も、周りの様子も何も覚えていない私だが、この言葉だけは、40年以上もずうっと、心の中にしみこむように覚えている。


 何年たっても、忘れられない言葉だ。





269  教師の頃         ふるさとに向かう                (2019年5月9日・木)

 当時の県南の学校は、とても働きやすかった。県南の地を選んだのは正解だった。

 電車通勤もそれほど苦にはならなかった。

 私が、朝、家を出てバス停に向かう時、行田市に勤務する教師は、すでに学校に到着しているような時間だった。

 
 勤務地の最寄りの駅から、毎朝、バスに乗り換え、学校前のバス停で降りる。電車に1本遅れると、到着駅からはタクシーだった。

 タクシーの場合でも、たいてい、そこで数人と出会い、相乗りになる。

 若者が多く、毎日の生活は家と学校の往復だけだったけれど、けっこう楽しかった。



 成績物を持ち帰る時には、網棚に荷物を置かないようにということだけは気をつけた。

 帰宅すると、お腹がすいていて、たいてい晩ご飯前に、トースト1枚を食べた。


 その地の学校で、数年を過ごした私は、何だか電車通勤による仕事が落ち着かなくなった。本当はもっと都会に出たかった私は、急に住んでいるまちの学校に移りたくなった。

 住んでいるまちの学校のほうが、落ち着いて仕事に取り組めると思ったのだった。


 もしかして、結婚相手でも見つけていたら、行田市の学校に帰らなかったかも知れない。そんな相手にも出会わず、私は、行田市に帰ることを選んだ。

 
 いつも一緒に電車通勤をしていた友は、自分のまちに帰らなかった。その友は、その後、転任はしたけれど、最初のまちの学校に勤め、何年かしてから隣のまちの大宮の人と結婚した。その後も、勤務先は、同じまちだった


 私は、行田に帰ってきた。辞令を受けとる日、私は、レース模様の白いセーターにスカートという軽装で出かけた。周りは、スーツのようなものを着ていたことを覚えている。








268   教師の頃      学んだこと   子どもの心                 2019年4月18日(金)

 教師を始めた小学校で、その後の教師生活に続く大きなことを学んだように思う。

 学んだことを一言でいうと、自分(一人の教師)の後ろには、いつも子どもがいる、ということだ。

大げさかも知れないが、それは、子どもの利益、平等ということにもつながる。



 遠足に行く時など、クラスの子どもが、バスでは分かれて乗ることがある。そんな時、教師の間で話し合われることは、どこか一クラスだけが、バスに分かれて乗るか。それとも、全部のクラスがバラバラに分かれるか・・・
分け方を考えることになる。


 例えば、具体的な例でいうと、遠足に行く時に、4クラスある学年で、必ずしも、バスの手配が、4台になるとは限らない。

 4クラスで、3台のバスに子どもたちが乗れたら、3台のバスに乗っていくことが、経費の面で安くできる。



 だから、55人乗りのバスで、3台で行けると考えれば、4クラスで4台ではなく(一クラスあたり、1台ではなく)4クラスで、3台で行くことを教師たちは考える。

 教師によっては、「じゃあ、うちのクラスの子どもたちを分けるから」

と、いとも簡単にいう教師もいる。善意の人なのだ。他の教師たちが了承すれば、そうなってしまうかも知れない。

 

 でも、子どもの気持ちはどうだろう。どうして、自分のクラスだけが他のクラスのバスに分かれて乗るのだろう?と思うだろう。

 子どもの中には、先生が弱いからだ、と思う子どももいるかも知れない。理由がわからないからだ。
 

 子どもにとってクラス集団というものは、心強いものなのだ。自分たちだけがバラバラにされるのはなぜ?と思っても不思議ではない。


 教師は、自分が譲れても、子どもたちの分まで譲ってしまったら、子どもを守れない。

 一人の教師は、一人ではない。一人の教師の後ろには、何十人もの子どもたちがいる。

 そのことをひしひしと感じた。


 教師が、「みんな、このクラスだけ分かれて他のクラスのバスに乗るから、我慢して」あるいは、「譲る気持ちが大切だ」なんて言うことは、子どもの教育にはならない。


 どうして他のクラスの子どもたちと同じように扱われないのか。不満を抱く気持ちのほうが大切だ。


 教師は、「自分がよくても、自分の後ろにいる子どもたちを守る立場であることを、最初のスタートの学校で学んだ。

 学年の子どもたちは、4クラスとも、3つの集団に分かれ、3台のバスで遠足に出かけた。

 
 子どもの心を何によって学んだのか、わからない。同じ学年の先生が言ったのか、それとも、私が、自分のクラスの子どもたちを分けることが不平等でいやだったのか、わからない。

 自分が一人の子どもだったら、そんなのいやだと思ったのかも知れない。

 
 とにかく、さまざまな場面で、教師は、教師の都合で、子どもたちを不利益を感じる環境においてはいけないということ。

 このことは、その後の私の教師生活で、大きな基本ともなった。



  (何だか、繰り返しの多い、くどいエッセイとなりました・笑)








267   教師の頃         お見合い すすめられ                 2019年3月23日(土)

 子どもたちは、団地や、新しく建った住宅地の子どもが多かったように思う。

 最初の学年は小学校2年生だった。初めての教師生活は、子どもへの対応も無我夢中だった。

 
 新任教師とは思えないほど、はじめから堂々としている人もいたかも知れないが、私は、目の前の子どもたちにどう向き合ったらいいのか、とまどいながらの教師生活のスタートだった。

 あの頃でもすぐに切れる子はいた。思い通りにならないと、友だちとけんかになったりする子もいた。

 担任してしばらくすると、子ども集団の様子も力関係もわかってくる。


 幸いにも、クラスのボス的な存在の男子が、私の指導についてきてくれた。子ども集団の中の子どもの力にはすごいものがあり、ボス的存在の子は、時には、子ども集団のまとめ役として教師よりも強い力を発揮する。


 まあ、とにかく、就任1年目は、何かとめまぐるしく、悪戦苦闘の日々だった。

 
 それでも、何とか、深い悩みもなく教師生活が送れたのは、学年の教師集団や同僚の関係が良かったからかも知れない。
 そして、何よりも、今より職場にゆとりがあったせいかも知れない。




 1年目の忘れられない出来事がある。子どもの事以外ですが・・・

 担任してしばらくして家庭訪問が始まった。5月頃のことだったか、汗ばむ季節だった。


 電車通勤の私は、家庭訪問のために、学校の自転車を借りたように思う。(電車通勤の教員は他にもいたので、自転車は何台もあったのだろうか?)


 団地の子どもも多く、家庭訪問は、ある意味らくでもあった
 なぜなら、団地の中での移動も多かったからだ。

 

 団地の中を回りながら、ある女子の家を訪問したとき、ひとしきり子どもの学校での生活のことについて話していると、母親が写真をとりだして私に言った。


「これ、私の弟なんです。先生、どうでしょう?」

 何と、お見合いの話だった。

 「○○大学を出て、会社に勤めているんですよ」と、母親は話した。

 「私の弟なんですが、先生、どうですか?」

「どうですか?」、と言われても、私は困った。写真で見る限りでは、真面目そうな男性だった。




 私自身は、どこかにすてきな人がいたら・・・とは思ってはいたものの、まだまだ未来の出逢いに期待している頃のことだ。


 何と言って断ったのか憶えていない。「考えておきます」と言うと、後で返事をしなければいけないので、その場でやんわりと断ったように思う。

 
 家庭訪問ではなくても、教え子の家庭から結婚相手を紹介をされることなんて、ないことだろうと、私は思っていた。




 ところが、県外で教員をしていて退職した、何十年も会っていなかった友人に数年前に会うことになり、話が結婚のことに及んだ時、驚いた。

 
 教え子の親の紹介で結婚したのだった。発端は、担任のクラスの男子が、「先生、(結婚相手が)僕の親戚にいるよ」と言ったとか・・・。

 
 何だか、面白い話だった。


 

 その友人と横浜の中華街を歩いたのは、教員になってまだ、まもない頃だった。彼女から連絡があり、会うことになり、その晩、私は横浜の彼女の下宿先に泊まった。

 
 お互いに忙しかった。そして、私たちが教員になった頃は、携帯電話もなかった昔のこと。その頃には私も彼女に何度か電話をしたが、下宿先の大家さんである女性が電話に出て、決まっていう言葉があった。


「わたしは今、お風呂から出て裸なんです」という言葉だった。

 だから、下宿人への電話の取り次ぎはできないということだった。最初はその本当の意味がわからなくて、時間をずらして、電話をしてみても、こたえは同じだった。


 その後 何度か電話をしてみたものの、
「わたしは今、お風呂から出て・・・・」という大家さんの言葉をきくうちに、その友人との連絡は諦めてしまっていた。

 
 
 それから、私も彼女も結婚して、彼女も大家さんとは関係がなくなったものの、年賀状のやりとりだけで、何十年も会っていなかった。年賀状では、お互いに「今年こそ会いましょう」の文字がずうっと続いていた。彼女の結婚にまつわる話を知ったのも、数年前に会った時だった。


 積もる話もあるはず。また、折りをみて彼女と会いたいと思っている。


 残念ながら、友人の夫となった人には、これから会うことはなくなった。早くも旅だってしまったからだ。







 
266   教師の頃         「お父さんはびっくりした」                2019年3月9日(土)

 

 お正月が過ぎて、子どもが書いた作文に、思わず笑ってしまったことがある。

 男の子が、お正月にお父さんと親戚の家に行った時のことを、書いたものだった。

 「お父さんは、びっくりした。家に入ると、子どもがいっぱいいたからだ」

 その後に、続けて、「お父さんは、お年玉をやらなければならなかったからだ」

と、あった。


 お父さんは子どもがたくさんいることを知らなかったのか。何とも不思議なのだが、もしかしたら、親戚の家には、いつもは、いるはずのない予測できなかった(親戚の)子どもたちの姿を見たのかも知れない。

 例えば、お父さんからしたら親戚の、そのまた親戚の子どもが、新年で集まっていたのかも知れない。

 
 小学校2年生の子どもが書いた作文で、くわしいことは書かれていなかった。

お父さんが、お年玉を子どもにやったのか、やらなかったのか、それも書かれていなかった。


 書かれていなかっただけに、私はよけいにおもしろかった。

  私は、作文の冒頭の部分で、笑ってしまった。

 その子どもに、後で、「お父さんは、子どもたちにお年玉をあげたの?」と、私は尋ねなかった。


 ただ、そのおもしろさだけを味合わせてもらった。多分、お年玉を上げたのかも知れないし、想像の部分は、私の心にしまったおいた。そんなにたくさんの子どもたちに、お年玉をあげたとしたら、お父さんは大変だっただろうな、と思ったりした。

 
 子どもは、お父さんの心の中を読みとっていた。お父さんは、「子どもがいっぱいて、びっくりしたよ」とは、言葉に出さなかっただろう。

 
 きっと、子どもは、お父さんの様子から、困ったお父さんの心までわかったのだ。


 「びっくりしたお父さん」は、いつまでも私の心に残っている。






265    教師の頃          もらったサンマ                    2019年2月28日(木)

 はじめから、教師を目指していた人には、申し訳ない。

 迷っていた時に、恩師に「教師になれば」と言われた声に押され、教師になった。

 あの時代でも、教師の仕事の忙しいこと。休み時間もばたばたとして、気がつくと、子どもたちが帰るまでトイレに行っていなかったと気づくことも。

 
 それでも、その頃は、地域によって、提出物が多いか少ないかの差があったりもして、県南と県北では、煩雑さの状況が違った。忙しさの中でも、割合とのびのびと仕事ができていたように思う。

 

 自宅から吹上駅までバスに乗り、高崎線で県南にある学校に通っていた。住宅がどんどん建ち、みるみる間に子どもたちが増え、校舎も足りなくなっていき、就任した学校は、その翌年には二つに分かれた。


 私が入った時には、確か11人の新人教師が一緒だった。仕事を終えて、急いで電車に乗って帰るので、同期はたくさんいたけれど、特に交流ということはなかったように思う。

 それほど余裕がなかったのだ。次の日には、また、子どもたちとの生活が待っている。

 帰る方向が同じ同僚とは、やはり親しくなり、今でも交流が続いている。

 

 時たま、電車に乗る前に、お店が立ち並ぶ駅周辺に友人と寄った。「○○ビル」と呼んでいた。

 買い物は、だいたい身につける小物などで、時折気に入ったブラウスなどが目に止まると、それを買うくらいだった。時間もかけないし、大きな買い物をすることはなかった。

 
 鮮明に記憶していることがある。入ったお店では、衣類などの他、鮮魚を扱う店も入っていて、たまたま、サンマをただで配っていた。友だちが「もらって帰ろう」というので、私ももらった。魚のように生きのよい男の人が大きな声で叫んでいて、ビニールの袋に3匹くらい入れてくれたような気がする。

 
 道中、電車なので、サンマの持ち帰りは迷ったけれど、特に問題もなく、私は無事に魚とともに帰宅した。家に帰って母に見せると、母は笑って「あらー」と言って喜んだ。

 
 
 今でも、高崎線に乗ると、その駅周辺に目をやることが多い。ずいぶんと様変わりをしている。私は、ちょっと懐かしい気持ちで、眺める。









264             もう少し生きやすく                       2019年2月6日(水)    

 1月のある日、聖学院大学で、貧困問題の催しがあったので、興味があり参加した。大学の公開講座という位置づけのようだった。

 シンポジストとして、聖学院大学の学生 行政・上尾市役所から子育て関連の課の職員、弁護士の3人の方が見えた。コーディネーターとして、埼玉反貧困ネットワーク代表の藤田孝典氏。


 3人の方たちの立場から、今の日本の国に生きる人びとの状況が語られた。


 今、聖学院大学の公開講座から日が過ぎて、何が残ったかと聞かれたら、何を答えるだろう・・・と思う私だが、
とにかく、全体を通して、人びとの生活の貧困を強く再認識し、「何とかならないか、この社会」という思いを強くした。

 
 その中でとりわけ強く頭に残ったことは、「(学生に対し)就職活動の際には、きちんと、労働条件のことをききなさい。また、給料について、例えば20万円と記してあったら、その中に残業代が入っていないか、ききなさい」ということだ。

 なぜかというと企業によっては、「普通はこれくらいの時間は残業をするだろう」ということを見積もって、残業代を含んだ給料を記している企業があるそうなのだ。

 
 だから、学生は、企業にきちんと尋ねることが大事なのだということ。もし、それで、「この学生は生意気だ」と思うような企業は、やめたほうがいい。藤田孝典氏は学生たちにそんなアドバイスをしているようだ。

 入社してから後悔しても遅いので、適切な指導だろう。

 また、組合がない場合、一人でも入れるユニオンに入るといいというようなアドバイスも。このことは弁護士の方からもあったように思う。

 
 普通、若者たちは、学校でどれほどのことを教わって社会に出るだろう。労働法規など知らないで社会に出る若者のほうが、圧倒的に多いだろう。知ることが、自分の身を守るだろう。まさに、「知は力なり」だろう。

 
 だから、働く上で最低限知っておいてほうがよい法令などは、本来義務教育で学ぶことが最適だろう。
 大学生では遅いと思うが、私は藤田孝典氏のような先生に指導を受ける学生は幸せだと思う。

 何も知らずに社会に出る学生のほうが圧倒的に多いのではないか。



 子どもの貧困が語られて、久しくなるが、子ども、若者の貧困は、その親世代の貧困と言える。

 そして、また、多くの老人も、生活に困っている。年金も少なく、いつまでも現役で働かなくてはならない。

 
 「生涯現役」なんて、ずいぶん響きのよい言葉だろう。

 働くことが好きで働く人もいるだろう。他にないから、働いているほうが、精神的にもいいという人もいる。働かなくてもいいけれど、働くことを選択している人は、いい。

 でも、働かなくてはならない人も多い。選択の余地はないのだ。働くかなくては生活ができないのに、健康でなかったら、どうするのだろう。

 「定年で、ご苦労様でした・・・」という光景は、今はあまりない。定年後、何らかの仕事を探す人のほうが多いのではないだろうか。

 みんな、この現実をどう考えているのだろう。改めて思う。

 従業員のほとんどは、アルバイトかパートで占めている職場も少なくないだろう。


 まじめに仕事をすれば、そんなに豊かではないけれど、生きて子育てするには、何とかなる社会。若者が結婚ができる社会。年をとっても、何とか生活できる社会。そんな社会を望んでいる。






263                     お正月  とりとめのない話             2019年1月6日(日)            

  今年のお正月は、何故か、全く、お正月らしい準備が、いつの年にも増して、できていなかった。暮れに旅をした年でも、今年よりは、お正月の準備ができたのに、今年は、特に遅れた。

 
 お正月の準備は、お掃除(片づけも)とお料理になるだろうか。

 それから、その前に年賀状ということになるだろうか。

 
 私の場合、私から出す年賀状は、他地域に住む友人知人、親戚などである。行田市の友人知人には、議員という立場上、こちらからは出せないので、届いた賀状に返事を書くことになる。

 
 そんなわけで、行田市に住む友人に、こちらからは年賀状を出すことがないせいか、いつしか、相手側からも来なくなり、年賀状のやりとりも絶えたようになっている。

 他地域の友人には、こちらから出せるのに、もう何年も、1月1日に届くように出せたことがない。

 
 

 母が生きていて、認知症になっていない頃には、12月も押し迫ってくる、その時期になると、「あなた、年賀状書いた?」と顔を合わすと、必ずといっていいくらい、私は母に言われた。「年賀状は元旦にちゃんと届くように書きなさいよ」ということなのだ。毎年のように母にいわれていたなあと、思い出す。

 
 その頃は、母自身も年賀状を書いていた。女学校時代の友人や親戚が中心だっただろう。


 母が「谷淵先生から年賀状が来なくなった。どうしたのかしら」と言っていたことがあった。谷淵先生というのは、英語の先生だったらしい。母が見せてくれた古いアルバムの中に、その姿があった。背が高く体格のいい、白いブラウスに黒のスカート姿の女性が、ひとりそこにあった。


 指名するとき、「ミス 三宅」といって答えを求めたのだそうだ。三宅は、母の旧姓だった。その時の母の口調は、先生が指名する時のいい方をまねた。

 
 ずいぶんと長い間、先生のほうも、母に年賀状を出していて、恐らくお互いに元旦に年賀状を手にしていたのだろう。その谷淵先生から年賀状が届かなくなった時、母はずいぶんとがっかりしていた。

 
 当時、女学生の母よりも、ずっと年上に見えた写真の中の先生は、何歳だったのか、わからない。私は、母の話をきいていただけで、何も問うことはしなかった。ただ、私は黙って母の話をきいていることが楽しかった。

 
 思い起こしてみると、私は、いつも母の話の聞き役で、そして、母は生涯、私に指導者的立場を崩さなかった。
 認知症になり、自分の体の世話も自分でできなくなっても、ある部分で娘の私の手を拒んだ。




 2019年は、お正月に、お掃除をして、お料理をして・・・。

 年賀状も、大晦日あたりから書いて、お正月にずれこんだ。母の「年賀状、書いた?」の言葉を思い出しながら。







262                    あまーい記憶                 2018年12月1日

 何かが一区切りついて、ほっとする時、帰宅途中に家の近くのお菓子屋さんによることがある。

 ささやかに自分へのご褒美を買う。自分でも笑ってしまうような、ささやかなささやかなご褒美。

 ここに書くのもはずかしいようなご褒美。

 それは、普通の場合、「きみしぐれ」1個だから。


 1個だけを買うのは恥ずかしいので、他の何かと組み合わせて買う。たいていは、板チョコモナカというアイスクリーム。

 これは、甘い物を好まない夫も好きで食べるから。(でも、最近は食べなくなって、冷蔵庫に入ったまま)

 「きみしぐれ」が好きなわけ。それは、卵の黄味のようにやさしくて、口の中でほろっとこぼれるようで、中には、こしあんが入っていて、やわらかーい味が好きなのだ。2個とか3個は、買わない。あると食べてしまうから。


 
 きみしぐれを買うたび、思い出すのは、子どもの頃、食べた甘い和菓子。もともと甘い物が好きなのだ。

 白い粉のついた、衣の柔らかい大福、つるりとしたかわに餡が包まれた青柳(あおやぎ)。

 
 母はお客さんが来ると、我が家も、よその家と同じようにお菓子を出した。

 親戚などのお客さんの前で、お客さんと一緒に子どもがお菓子を食べるのは許されなかった。それはお行儀が悪いとされていた。

 だから、母は、お客さんに出したお菓子を子どもが欲しがらないように、食べたがったりしないように、お客さんに出す前に、子ども用をとって、陰で先に食べさせていた。


 きみしぐれは、子どもの頃、食べた記憶がない(忘れているのかも知れない)。でも、和菓子の仲間のきみしぐれを買うとき、幼い頃の記憶がよみがえる。和菓子をお皿にのせる母の姿を思い出す。


 母は、まだ若くて、私は幼かった。幼い頃食べた柔らかな大福やあおやぎ、あれは、どこに行ったのだろう。

 いつも思い出すのだけれど、出会えない。







261                  ばくだんおにぎり                 (2018年11月17日・土)

 最近の夫はスキーに出かけるとき、ばくだんおにぎりを持っていくことが多い。

 私は、ばくだんおにぎりというものを、最近まで知らなかった。

 「ばくだんおにぎり」の由来は、ちゃんとあるらしい。

 夫の作るばくだんおにぎりは、大きな1枚の海苔にご飯をのせ、こんぶ、かつおぶし、鮭、梅干しなどを好きなだけ包みこんで、丸めて作る弾丸のようなおにぎり。大きな1個のおにぎりの完成だ。

 早朝、車の中で、おにぎりは食べやすいのだという。たいていの場合、夫は前の晩に自分で好きなように作るのだが、一度だけ、私が作ったことがある。

 もう少しご飯が多いほうがよかったのかなと、私は、夫がおにぎりを持って出かけてしまった後に思った。

「どうだった?ごはん少なかったかしら」

「十分、十分」

 夫の帰宅後に、そんな会話をしたこともある。

 「この年齢になっても、スキーが上達することがわかった」と言って、まだ、人びとが寝静まっている頃、出かけて行く。

 ふだん、「計画表」に基づいて、一日中、活動している夫。


 ばくだんおにぎりと、スキーは、日々の活動のエネルギーになっているのでしょうか。








260                 人生の計画表                     2018年11月4日

 毎日、必ず計画表をつくる人がいる。

 一日の始まりから、夜休むまでの予定表である。

 朝の始まりは、畑仕事のことが多い。

 その人は、退職をしたのに、毎日のように、さまざまな会議が組まれている。予定が空いているほうが少ない。

 空いていると埋めていく。

 
、現役で働いていた頃は、朝は決まった時刻から、仕事の終わりまでの労働時間を過ごす。その後、活動があったりもする。その日の計画は、手帳等ですんだ。毎日の同じ労働が、一日の生活を占めるから、時間刻みの計画表は必要なかった。

 
 その人は現役を退いた今、翌日の計画を前の晩につくる。完成させた予定表の紙は、必ず家のどこかに貼るか、つり下げるかしている。

 時には、その計画表が実行できたら、終わったしるしとして、計画された内容を記した文字を消すこともある。「今日は、これ、できなかったなあ・・・」ということもある。

 
 その人が言うことには、「計画的な人だから」と言う。う~ん、見た感じ、そうも見えませんが。

 何しろ、「計画表は、子どもの頃もよくつくっていた」という。「計画表をつくるのが好きなのだ」と言う。

 今までの人生は計画通りに過ごしてきたという。


 その人が一番に言うことは、28才で結婚しようと決めていたということ。そして、その通りになった。だから、人生は計画通りだと言う。



 私は、というと、計画表は、子どもの頃の夏休みの生活表しかつくったことがない。結婚は、なかなか決められず、猪突猛進の人と、言い方はあまり良くないが、一番しつこかった人(失礼・・・!)と結婚した。

 そして、今思うと、その人は、本当は計画的な人なのか、3月31日までには、「返事」が欲しいと期限を切ってきた。


 私は本当は都会に出ようと思っていたのに、こうして生まれ育ったまちにいる。人生は、計画とは大きく違う方向に行き、今も予測できなかった人生の中にいる。

 でも、生まれ育ったまちにいるからこそ、近くにいて父と母に接することができた。まるで親離れしない子どものようですが。そして、私の生まれ育ったまちに、遙か離れたところからやってきた、しつこかった人は、とてもいい人だった。
 
 

 道に迷いながらの私ですが、生きている限り、白いパレットはもっている。人生の計画表はかけなくても、白いパレットに色をおいていくことはできる。



 それにしても、毎日のように必ず時間刻みの計画表をつくる人は、世界中に何人いるのだろうか、不思議。










259                シミとり                   2018年10月21日

 どこかで「シミとり  ○○円」と書かれた看板をがあがっているのを見たことがあった。

 私は、それを長い間クリーニング屋さんの衣類のシミとりだと思っていた。

 
 が、あるとき、私は「あー、シミとりは、顔のシミのことだったのか」と気づいた。

 ちょうどその看板のところを通りかかったとき、誰かが

「あー顔のシミとれたらいいなあ・・・」

といったのだ。


 顔が半分に区切られた絵によって、片側は何もなくて、もう片側には、黒い点があったりすると、顔のシミとりだとわかる。そんな看板も見られる。

 その場合は、はっきりとわかるが、ただ「シミとり ○○円」の文字だけだと、私のように衣類のシミとりと思ってしまう人もいるだろう。

 
 次に湧く疑問は、顔のシミって、本当にとれるのだろうかということである。色が薄くなるのだろうか?


 「シミとり」でシミがとれたという人に出会ったことがない。でも、シミがとれるっていう宣伝はウソなのよという人にも出会ったことがない。


 レーザーで、シミがとれるという。失敗を恐れなければ、レーザーに挑む人もいるだろう。

 
 レーザーでシミがとれるなら、「すっぴんでこんなにきれい」みたいにシミが薄くなったり、また、隠れたりするという宣伝の化粧品を使う必要もない。



 化粧品については、昔、母がいっていた。

「化粧品できれいになるなら、お金持ちは、みんなきれいなはず。だから、それは嘘」

 ただ、お金持ちだからといって、お金持ちが化粧品にお金をかけるとは限らない。一般的な話ということだろう。

 母は全く「(高価な)化粧品の効用」を信じていなかったから、高価ではない化粧品を使っていた。


 高い効果をうたう高価な化粧品には、消費者に化粧品の効果を実感させようとするメーカー側の無理があるかも知れない。だから、時によると人によっては逆に肌トラブルを起こす可能性も高いかも知れない。


 数年前、私は添加物の学習会から帰宅後に、化粧品の添加物を調べてみたことがあった。化粧品には、ものすごい種類の添加物がつかわれている。その中には、(とりわけ口紅では)有毒とされ、海外では禁止されているものも含まれている商品もあったように、私は記憶している。


 「とろーり、しっとり」のうたい文句の商品は、もしかしたら、添加物のせいかもしれない。皮膚も生きた臓器であり、可能な限り、体内に添加物を取り込むことは少なくしたい。


 化粧品でもレーザーでもシミがとれたという人に、私自身は会ったことがないので、本当のところはわからない。

 
 
 シミとりは,顔のシミだと気づいた後、しばらくしてから「シミとり」の看板を見たので、「顔のシミとり」と思ったら、今度は、衣類のシミとりだった。

 あー、シミとりは何のシミなのか、シミとりの見分け方まで難しい。

 









258                     遙かなる巾着田              2018年10月13日

  9月のある休日のこと。

 巾着田に行こうかという話になった。夫は以前友人と一度行ってみたことがあるそうだ。彼岸花がとてもきれいだと言った。

 その日もいろいろあり、午後の時間から家を出ることになった。
 2時半ごろのことで、4時前には十分に到着する予定だった。

 ところがところが、巾着田に到着するかなり前から、車が混み合ってきた。

「これ、みんな巾着田に行く車かしら?」

「・・・みたいね」

 巾着田に行く道は、他になさそうだ。対向車もかなり混んでいた。

「大宮、春日部、川越・・・」


車のナンバープレートを見ていた。車はほぼ止まったような感じだ。

 夫のあくびがうつって、私もあくび。


どこかに車を置いたのか、歩いて行く人もけっこういる。

「あれ、神戸ナンバーもあるじゃない。」

 
 関西出身で、神戸で学生生活を送っていた夫に、私は言った。

 近隣市や近隣の県ばかりでなく、遙か離れた中国、関西方面からの車もあった。

 車のナンバーを目で追いながら巾着田の近く、駐車場辺りに来た時、もう日はくれかかっていた。


 私たちは、この日の巾着田は諦めることにした。彼岸花が咲いている場所は川縁なので暗くなると危ないと、夫は言った。


 帰りは、秩父を回って帰った。対向車も、渋滞に近かったからだ。帰りまでも渋滞ではいやだったからだ。

 遠回りして、氷柱を見に来た横瀬を通り、途中で食事をしてやっと家に。


 長い長い渋滞ドライブの1日だった。

「朝、はやーく行くのがいいかも」

 夫がいうのは、3時か4時の出発のことだ。朝が苦手の私は、よほどの事でない限り、ちょっとおっくう。

 
 遙かなる彼岸花の里、巾着田。とても美しいという。

 いつかは行ってみたい。









257                 繕う             2018年10月6日(土)

 針を持つのは、ちょっと面倒だなと思ってしまう。

 そんな私だが、今年初めて、夫のジーンズの破けたところを縫った。

 これまで、ジーンズは破けると、すぐに捨ててしまった。今思うともったいないことをした。

「これ、破けたから縫ってもらえる?」と夫にいわれた時、なぜか縫う気持ちになった。

 それは、もしかしたら、カッコよく繕われたジーンズが目に止まったことがあったからかも知れない。


 その昔、破けたジーンズを見ても、あんなはき方もあるんだとか、最初から破れたジーンズも売っているんだと思って見ていただけだった。


 もともとジーンズに興味があったわけでもない。破れたら、はけない・・・と単純に思っていただけだ。

 
 あるとき、破れたところを素敵に繕われたジーンズをはいている人を見た時、あんなふうに繕えたらと思ったのだった。

 夫は、左足をつく癖があるらしく、まず生地が薄くなるのが、左の膝のお皿部分だ。そこから周辺の生地が傷み始めていく。

 似たような生地を求め、それをあてがって、縫ってみた。縫い目なんて気にせず、とにかく頑丈にして穴をふさぐためだけのような縫い方で。



 とりあえずはいてもらっているうちに、どんどん生地の薄い部分の補修が必要になってきて,その都度、頑丈にしようと縫う。もはや、針目は広範囲に広がっていく。左足部分から、右足部分にも・・・。


 労力を費やしたからには、はいてもらわないと、困る。何しろ、こちらは貴重な時間をつかっているのだという思いもある。


 そう思うと、その思いは循環する。


 縫う、縫ったからにははいてもらう。

 破れる。繕った今までの時間、簡単に無駄にしない。縫う・・・。縫ったからには・・・。


「どう?」

夫に尋ねると、夫は、
「なかなかいいよ。古くなったジーンズは、生地が柔らかいので、体になじんではきやすい」と答えた。

 それはウソでもないらしく、夫は、繕われ過ぎたジーンズをよくはいていくのだ。

 さすがに、私は、「ちょっと、今日(の場所)は、はいていくのやめて」ということも。

 すると、夫は、「今日は、これ、はかないほうがいいかな」と私にきくことがある。

「そうね」と私が答える。

 でも、夫は、またいつの間にか(どこでも?)はいていて、「だって、はきやすいんだもーん」という。


「今日は、ほめられた。このジーンズ」
といって帰宅することがある夫。その人、本当に言葉通りなのかしら?とも思ってしまう私。

 最近、また、他のところが破けたり,破けそうになっている。


 ある日、ジーンズを片手に、夫が自ら針を手にしていた。まあ、珍しくもないのだが、ずいぶん前のことだが、ジーンズではないが、裾がほころびたといって、夫が縫ったことがある。

 それを表現して私は、「ちくちく縫い」といったのだが、十分に糸がのびずに、布がしぼんでいた。それを平気ではいていたのには、閉口した。


 見ていると、ジーンズも、ちくちく縫いになりそうなので、

「じゃあ、また後で縫ってみる」

と、私は答えて、どこまではけるのかしらと挑戦してみたくなっている自分に気づいて笑ってしまう。







256                 サイダーの味               2018年9月17日(月)
 
 ある日、珍しく、購買生協で、サイダーを2本注文した。子どもの頃、家には、サイダーがあり、よく飲んだ記憶がある。


 これまでも、サイダーは飲み物として販売していたのだと思うが、真面目に注文書も見ないため、目にとまらなかったのだろう。

 子どもの頃、飲んだ味とは少し違うような感じもしたけれど、おいしいと思った。


 教員時代、クラスの子ども達に何の場面か忘れたけれど、「サイダーが好き」と話したことがあったのだと思う。もしかしたら、子どもに「先生、飲み物、何が好き?」ときかれて答えたのかも知れない。


 ある子どもの家庭訪問のとき、「先生はサイダーが好きなんだよ」といって、にこにこしながら、その子がサイダーをコップに入れて私のところに持ってきた。


 教室ではすごく恥ずかしがり屋の様子を見せていた男の子だ。


 ・・・ということは、私の「サイダーが好き」は、子ども時代だけではなく、成人してからも続いていたのだろうか。

 結婚してからは、サイダーを飲んだ記憶がないから不思議だ。



  久しぶりのサイダーは、1本の半分をコップに入れて飲んだ。糖分が多いと思ったからだ。実際、とても甘かった。飲み続けると、多分太るだろうなと思った。

 思い出した頃、また半分ずつコップに入れて飲んで、4日間にわたり、サイダーの味を楽しんだことになる。



  家庭訪問で「先生はサイダーが好きなんだよ」といった子どもに、成人になってからたまたま町で出会った。立派なおとなになっていたが、はにかみやは変わっていなかった。


 
 彼は家庭を持って、父親になっていた。今頃、どうしているかな・・・。サイダーを飲んだ時、遙か昔を思い出した。

 





255             切 手                             2018年6月17日(日)

 最近、続けて郵便局に行く用事があった。

 並んでいる私の前に、一人の年配男性が,郵便物を出していた。切手をはるのだけれど、何やら貼る切手について注文を出している様子だった。

 「きれいな切手をお願いします」

と、その男性は窓口の女性に言った。

「これでいいですか」

 窓口の人が示した切手に、違うものを言ったように聞こえた。

 その様子を、私は興味深く見ていた。

 窓口の女性は、数枚が切り取り線でつながれた別の切手シートを持ってきた。

「ああ、これがいい」

男性が指したのは、赤っぽい明るい色の入った切手のようだった。

「きれいだから、きっと喜ぶよ」

男性は満足そうに笑みを浮かべたように見えた。

 きれいな切手で郵便物を出すこと。あまり考えないで過ごしてきた。きれいな切手に込める思い。その思いが相手の人に届くのだろうか。相手は、その人にとってどんな人なのだろうか。

 差し出されたものは、手紙サイズの封書より大きかった。相手が同性なのか、異性なのか、もちろん私にはわからない。
 ただ、切手にこだわるということが、私は、なぜか新鮮であり、心を動かされた出来事だった。


 私は、遙か遙か前のことを思い出していた。

 1通の手紙が私のもとに届いたことがあった。

 そのとき、母が言った。

 「きれいな切手が貼ってあるじゃない」

 言われて見ると、確かにきれいな切手が貼られていた。普通の切手より大きめで、記念切手のようだった。

 母は私にどんな意味で、その言葉を言ったのか、今、わかるような気がする。

 

 郵便物を差し出すことはあっても書類のことが多く、自分で切手を貼ることさえも、ほとんどなくなってしまった。

 





254              母よ、母                       2018年4月8日(日)    

 昨年の9月末に、母が亡くなった。

 母とは一定の距離をおいて、仲良く過ごしてきた。

 この一定の距離とは、娘だからといって、思ったことを遠慮せずに言う間柄ではないということ。

 親子だから、言いたいことを言ってけんかになる、ということをよくきいたりもするが、母と私はそんなことはなかった。

 
 誇り高い人だったから、おとなになっても、娘の私は、母からいろいろと注意を受けた。

 ある時、仕事を終えて、母の部屋を通り過ぎて自分の部屋にまっすぐに向かった私は、母に言われた。

 そのとき、母は、体調が良くなかったのか、別の部屋で、横になっていた。

「お母さん、具合はどうですか?」と声をかけてから、自分の部屋に行くのがあたり前のことだと言われた。言われた私は反発をすることもなく、そう言われれば、その通りかも知れないと思った。



 親子でも、別の人間として、気をつかい、でも、それは特別に大変なことでも何でもなかった。それがあたり前になっていたから。

 (考えてみれば、父ともそんな関係であったので、私にとっては、普通であった)

 私は母が好きだった。子どもにとって、それが普通なのか、どうか、わからない。



 母は、自分の母(私の祖母)のことをよく語った。聡明で美しい人であったことを。母にとって、自分の母は、自慢の母だった。

 母は、(自分の母親から)「器量が悪い、器量が悪い。この子は、女子大を出さなくては・・・」と言われて育ったといっていた。(器量が悪いので、お嫁のもらい手がないから、学問を身につけさせるという意味のようです)

 そのことは、自慢の母への唯一の不満だったのかも知れない。母は、自分の顔のことを、目が細いとか、鼻が低いとか言っていた。

 よその人からみれば、そんなこともないと思うのだが、よくそう言っていた。

 母は、透き通るような白い肌を持っていたので、そのせいで、もしかしたら、きれいに見えたのか、小学校の参観日などでは、級友から「じゅん子ちゃんのお母さん、きれいね」と言われた。



 「子どもに、顔のこと、言うものではありませんね・・・」と、母は、父に語っていたことがあったが、それは、顔のことを言われて育った自身の体験からのことなのだろう。言われ続けて育つと、それが、体にしみこんでしまうという意味があったのだろう。



 母が亡くなり、施設に会いに行くことも、なくなった。父、兄、母と続いて、私の心は、すっぽり何かが抜け落ちたようになった。仕方のないことだが、今でも、思い出すと悲しみがやってくる。




8月に記していましたが、更新を忘れていました。

253                受け渡していきたいもの               (2017年8月・記)

 私は母から、いろいろなものを受けとってきた。

 認知症の母の顔をながめながら、ふと、母のことを思うことがある。

 母の青春時代、その後、私たち3人きょうだいを育ててきた時代・・・。私の知っている母は、おそらくほんの1部分でしかないだろう。

 
 母が認知症になってしまったからこそ、母のことをいろいろ考えるのかもしれない。今でも会話が成り立っていたら、母は、私にもっともっと話したいこともあっただろう。



  母が認知症になってしまったからこそ、私は母の故郷である愛媛にも足を運ぶようになったのだろう。そうでなかったなら、母の語る口から、愛媛のことを聞き続けただろう。母を飛び越えて、私が愛媛にいる人びとに関心を持ち、訪ねることもなかっただろう。


 私は母とよく話をした娘だった。相談相手になったかどうかわからないが、もしかしたら多少はなったかもしれない。

 
 私が結婚するとき、「お父さん(私の父)と結婚してよかったと思うことは、政治や社会のことを話す人だから」と母が言った。それは、結婚相手を選ぶ時の、一つの重要なことでもあるのだと、母は私に言いたかったのかもしれない。

 
 私が母からの言葉で記憶に残る言葉は、たくさんあって、父からの影響ももちろんあるが、母の影響も大きい。

 それに比べて・・・思うのは、私は私の娘に何を語ってきただろう。娘に母の言葉なんて、心に残ることがあるだろうか。

 
 おそらく、ないのではないか・・・と思うのだ。


 それでも、「よかった」と思えることが一つだけあった。

 「私は平和については、(小さい頃から)ずうっと戦争展にも行っていたし・・・」と、娘が言ったことがあった。

 娘が大学生になり、休暇中で家に帰っていたとき、「平和のための行田戦争展」でお手伝いをしてくれたことがあった。


 集団的自衛権のことが日本というこの国を大きく揺るがした時、娘は友達と「この子たちが戦争に行くようになったら困るね」と、そんな話をしたということも聞いた。


 「平和」ということでは、親から子に少しは伝わっていたのかしらと、その時、ふと思った。

 親として子どもにのこせるような言葉もないと思うけれど、 「平和を守っていくこと」、それだけでいい。それだけは、娘にも伝わり、そのまた、次へとつないでいって欲しい。







252            カラスの行水                     (2017年7月30日・記)

 私が幼いころ、家族の誰をさしているのか覚えていないが、恐らく兄たちのことではなかったか。。

 母がよく「カラスの行水ね」と言っていたことを思い出す。

 夫が、まさに、そのカラスの行水なのだ。

「お風呂に入ってくる」

と言ったかと思うと、もう出ている。


「カラスの行水ね」

と私がいうと、

「ぶたの行水」と夫。

「黒豚の行水」と言いながら、夫は黒の支度。

「白豚ではなかったの?」と,私。

幼いころ、きょうだいに白ぶたと呼ばれていたのだそうだ。

私と結婚した頃、確かに80キロを超えていたから、肥満と言える。顔もまるまるとしていた。


 姪の話だと、結婚することになった時、「太っているけど、大丈夫かしら・・・」と、私の母が三宅のことを言ったという。


高校生の頃は、写真ではやせっぽちのように見える。(本当は)太っているのではなくて,骨が頑丈なのだと、本人は言う。


 
 教員時代には、水泳の授業で、夫は上半身裸(普通ですが・・・)で指導していたら、並行学年の女性の教員に、「三宅さん、Tシャツ着て」と言われたという。よほど上半身裸が見苦しかったのだろうか。


 素直に従って、夫は、今風のピタッと体に沿う水着(上)を買った。「これは、いい。水に入っても楽」と、以来お気に入り。

 
 時折、カラスの行水の後、「僕、いい体になってきたよね」と、上半身に力を込める。お腹をへこます。「ほら、おっぱいが下がってないよね?」と、私に同意を求める。


 もう1年くらいになるか、泳げる日には、市営プールで泳いでいる。人がいなくて混まない時間帯も把握できたらしい。なんやかやと忙しいので、週2回くらいだが、体は筋肉がついて、豚さんからの脱出はできているよう。

 
 変わらないのは、カラスの行水。カラスからは脱出できていない。






251             とんちゃんの熱中症                        2017年7月22日(土)

 知人からの話です~。

 夏の暑いある日のこと、猫のとんちゃん(仮名)を置いて、家族は外出をしました。

 とんちゃんが家から外に出られるようにしていたのですが・・・。


 帰宅して見たら、とんちゃんが部屋の中でぐったり・・・。

見ると,家の中には、吐いたものがあちらこちらにありました。


お水をやったりしましたが、その後食欲もなく、家族はとても心配したということです。

2日くらいたつと、やっと元気が出てきたのか、少し食欲も出てきて回復に向かいました。


 どうやら、とんちゃんは熱中症が原因であったのかと思います。




 私は話をきいて、とんちゃん、危ないところだったなと思いました。

 熱中症で命を落とすことは珍しくないので。


 猫のとんちゃん、暑いからクーラーをつける、ということもできないですからね。外の日陰で昼寝でもしていればよかったのかもしれませんが。

 猫を飼ったことのない私は、猫がどんな暮らしをしているのか、詳しくはわかりません。

 
 自力で脱出もできず、閉じ込められた中での人間の痛ましい事故もありました。


 とにかく知人の話をきいたとき、猫のとんちゃん、回復してよかったと思ったのでした。

 先日とんちゃんが、立っていた私の足元に体をすり寄せてきた時、私は「よかったね」と心の中で言ったのでした。


 とんちゃんは、しっぽの長~い目がきらきらしたかわいい猫です。


 






250               ぞう列車よ  走れ~                   2017年7月8日(土)

2017年 5月 名古屋市 東山動物園

東山動物園で、象が見たかった!

 昨年冬の季節に行った時には、ちょうど鳥インフルエンザのため、休園でした

 念願の東山動物園で。



 「ぞうれっしゃよ 急げ~  闇をさいて はしれ~  ぞうれっしゃよ 急げ~ 空をかけてはしれ~」

 繰り返される、このフレーズは,今でも、私の耳に焼きついている。

 娘が5年生くらいのことだったか。今から20年以上も前、平和のための行田戦争展の催しの一部として、子どもたちがステージでこの歌を歌った。


 悲しい戦争の歴史を語り継ぐ歌は、各地で歌い継がれていた。


 戦争中、敵の攻撃に驚いて暴れる猛獣が人びとに危害を加えないようにということで、軍の命令でたくさんの動物が殺された。また食糧難の時代は、動物にとっても同じだった。

 
 
 上野動物園の象が毒殺等でいなくなった様子は、「かわいそうな象」という本に描かれ、子どもたちに読み継がれている。


 名古屋の東山動物園では、戦争末期に4頭の象がいて、必死の努力で、その命を守ってきたが、そのうちの2頭は、餓えと寒さで死んだ。


 象がいなくなった動物園では、上野動物園の園長、また、台東区の子ども議会の議長、副議長が、東山動物園を訪れ、象を貸してもらえないかとお願いに行ったという。



 「象が見たい!」という子どもたちの強い願いが、東山動物園などの関係者の心を突き動かした。


 最初は象を運ぶ予定であったが、うまく行かず、逆に、東山動物園で象を見てもらうために団体列車「象列車」を走らせることになった。

 全国で、4万人を超える子どもたちが象列車で、東山動物園に向かったという。

 
 ある時期までは私も知らなかった、1949年の象列車の話である。


 平和のための行田戦争展実行委員会には、私も実行委員として最初からかかわってきていた。

 先生の指導のもと、何回もの練習を経て、20名以上は子どもたちがいたと思われる(急遽結成された)「合唱団」の中に、娘はいた。


 「象列車よ 走れ」を歌った頃の娘は、脚にぴったりと張り付くようなストレッチの効いた細身の青いジーンズにTシャツ姿、それに、キャップのような帽子を頭に載せる少年っぽいスタイルを好んでいた。 舞台で帽子を被っていたかどうかは記憶していないが、練習当時の娘の姿も思い浮かんでくる。

 
 
 あれから、はや20余年、平和への熱い思いで、この取り組みに精力的に力を注いだ 岩見芳江さんも、今は亡き人となった。

(後日、「象列車よ 走れ」を歌ったのは、「この子たちの夏」上映とは別の年であることがわかりました。
それで、エッセイは修正いたしました)






249        旅先で・・・  大笑い                         ( 2017年5月27日・日・記)                 

 東山動植物園でのこと。タワーの最上階で、コーヒーでも飲もうかということになった。

 最上階のレストラン。時刻は,11時をまわっていた。

コーヒーを飲みながら、「どうしよう・・・食事にしようか・・・」という話に。

 
「でも、あんまりお腹すいていないのよねえ・・・」

「僕も」

 朝食はバイキング方式で、けっこう食べてしまって、お昼は軽めにすませたかった。

「うーん。どうしようか・・・」

・・・まわりをみると、おいしそうに、いろいろなお料理を持ってきては食べている。

 
 こちらも、同じようなスタイルのレストラン。自由に好きなものを好きなだけ食べる。


 ピザ、スパゲッティ、チャーハン、カレー、パン、サラダ、・・・それに、あと覚えていないけれど、肉、魚類、おいしそうないろいろなお料理が並んでいた。詳しくは覚えていないことに驚いた。名前がつけられないお料理かもしれない。


 「あんまりお腹すいていないけれど、食べることにしよう」と意見が一致した。



「すみませーん」

手をあげると、従業員の女性が、ゆっくりとやってきた。

「じゃあ、(あんまり食べられないので)一人分をとって、二人で食べますから」

と夫が言った。

多分、その女性の頭の中は「?????」ではなかったかと思う。



女性が言葉を発する前に私が笑ってしまった。

「一人分って、あり得ないんじゃない?」

 夫が一人分注文し、それを分けて私が食べると言っても、一人分の分量が決まっているわけではない。

 一人分がいくらでも持って来られる一人分なのだから、一人分の金額で二人が食べてしまうことになる。

 夫も、「あ、そうか。はっはっは、はははは・・・・」

 私は、本当に大笑い。食べながらも、そのことを思い出しては,二人で笑ってしまった。

 従業員の女性、大笑いはしなかったけれど、笑っている私たちを見て、少し離れたところから、静かにほほえんでいた。

 
 
 旅から帰っても、時折、思い出しては笑う、旅の話。笑いながら食べたお昼の話。

 この話、時折、思い出しては笑うことが、いつまで続くだろう。





248         帰ったら、花が咲いていた・・・!              (2017年5月13日・記)

 数日間、家を留守にし帰宅した日の翌朝、庭の風景が変わっているのに,驚いた。

「ねえ、あなた、バラの花が咲いている。ほら・・・!」

と、私は思わず夫に向かって、声をあげた。

 夫は「ああ」と言った。


 赤、白、黄色のバラの花が咲いていた。特に黄色のバラはたくさん花をさかせていた。

 ゼラニウムは、赤が一つか二つくらいしか咲いていなかったのに、その面積を広げていた。

 調べないと名前のわからない(名前を忘れた)小さな赤と白の入り交じった可憐な花は、2箇所でたくさんの花を咲かせていた。

 たった、何日かで、こんなにも変化するなんて、とても不思議に思えた。

 同時に雑草もまた元気になっていた。 ドクダミはあちこちで、すごい生命力を誇っている。まるで、肩を組んで力を合わせているかのように。

 
 塀に下げたパンジーの二つの鉢は、かわいそうにも、水切れだった。持ちなおすことを祈っている。

 他の鉢植えは、家の中(玄関)に入れて枯れないようにしていて、これは成功だった。夫が工夫してくれていた。

 

 塀の鉢植えの花や雑草はともかく、咲いていなかったバラやゼラニウムなどの花が咲いていたことが、私を感動させ、嬉しくて幸せな気分にもなった。

 新たな自分を発見し、私もまあまあじゃない、と思った。



久しぶりのエッセーとなりました・・・。


247               最後のカレー                   (2017年4月30日)

 2016年末に、実家を訪れた時のことだった。

 兄は、セーターにズボンをはいて居間にいた。それ以前から、義姉は、私たち夫婦に、「新しい年が越せるかどうか・・・」という話をしていた。


 しかし、私が見る兄は、これまでも、そしてこの時も、体調不良といいながらも、身支度をきちんとして、居間のソファーにいることが多かった。ソファーに寝そべっていることもあった。腰掛けていることもあった。

「カレー、つくるよ」と兄が言った。
 

毎年のように、兄得意のカレーを年末につくった。そして、それを親しい人たちに届けてもいたようだ。

 兄のからだを気遣い義姉の 「今年はいいんじゃないですか」という言葉に、兄は言った。


「最後なんだから、つくらせてよ」と。  


 そう言いながら立ち上がった兄の脚が、少しよろけた。  兄は、何をしても器用にこなす人で、料理も得意だった。親族が集まる恒例のお正月の料理でも腕を振るった。

兄の「最後のカレー」という言葉が胸に響いた。 


 年が明けて、次兄と私たち夫婦は、実家を再び訪れた。いつもの年なら、新年会のはずだったが、今年は、初めて中止をしていた。 

 兄は,少しの間、顔を見せていたが2階に上がって行った。それが、兄を見た最後だった。

 ひとしきり、義姉と話した後、次兄と私たち夫婦は、パックにカレーをもらってそれぞれの家路についた。


 年賀状が家に届いた。「今年もよろしくお願いします」とあった。  「兄の体は、いつまで持つだろうか・・・」

 そんなことを、私と夫は、たびたび口にするようになっていた。


 それから9日間が過ぎ、1月11日に「入院しました」と実家の義姉から電話が入った。私は、次兄に連絡をとって、一緒にお見舞いに行く日を決めた。

 けれど、翌日の夜には、再び電話があり、容態の変化を知らされた。

 駆けつけた時には、すでに呼吸が止まっていた。悲しみでいっぱいの義姉がひとり、穏やかな表情の兄の傍らで、医師がやってくるのを待っていた。病魔が,兄の体をむしばんでいて、悪いと聞かされていても、信じられなかった。+

 最近では、義姉の言葉もあり、「いつまで・・・」とは思っていたものの、まだ、大丈夫だろうという気持ちがあった。



  私は、4年前に父を亡くし、とうとう兄まで亡くしてしまった。

 「死ぬのは、恐くないよ」と言っていた兄。74歳の生涯を楽しんで豊かに生きたように思う。






246            今年のお正月                      2017年1月9日

 いつもより、きわめて、静かなお正月になった。一番の変化は、恒例の親族の会食会が中止となったことだ。

 もう何十年と、続いてきたお正月の行事だ。結婚して家を出た者が、新しい家族を連れ、子どもを連れ、増えていった新年の会食会。

 その中で、母が施設に入所し、そして、父が4年前に亡くなった。けれど、また新たな命が誕生した。

 今年は健康を損なう親族があり、できなくなったということが主な理由だ。加えて娘家族も体調不良だった。




 今年のお正月は、朝から穏やかな天候だった。

 1月1日には、いつものように夫と二人で、夫がつくったお雑煮を食べた。

「味噌がいい?それとも醤油がいい?」と聞かれ、私は「お醤油」と答えた。

「そうなの?あなたの家族は、お母さんは、お醤油だったんだ・・・」

と、いつものと同じような会話だった。私の母は、愛媛県なので、関東ではないため、夫は、お雑煮は味噌だと思うのだ。


「うちはずっと、お醤油よ」と私。

 
 お雑煮を食べる前の我が家の「行事」がある。1年の抱負を述べるのだ。

「あけまして おめでどうございます」
「おめでとうございます」


「はい、まずは1日ご主人様から」と夫が言う。

 夫は何と言ったのだろうか・・・。多分、「郷ひろみ目指して体を鍛えること。それから、スキー、お料理がんばること・・・」だったかな?

 私は、二つのこと。一つは、睡眠時間をきちんととること。7時間睡眠を心がけることだ。もう一つは歩くこと。


「歩くのは、誰でも歩くのだから、ダメ」

「じゃあ、散歩すること,運動すること」

 一日目、二日目は、だいたい年賀状書きで終えた感じ。

 1月3日から、夫は同窓会やら知人に会うとかで、実家のお墓参りも兼ね(・・・なんて言うと叱られてしまいますが)関西の地へと向かった。

 私は、5日の朝、行田から名古屋に向かい、神戸方面からの夫とそこで落ち合うことにしていた。短いけれど、1泊2日の新年の旅をした。

 5日の名古屋市の突風には驚いた。関東のからっ風なんていうものではない。体ごと吹き飛ばされそうで、いまだ経験したことのない強風だった。


 今年は、吹き飛ばされるのではなく、風に乗って、大きくゆるやかに遠くへ飛べるようになりたいものです。





245   父のこと           父の眼鏡                        2016年12月26日(月)

 2012年に父が軽い脳出血で倒れ入院する何年か前、父が90歳くらいの時のことだ。

 
 初夏の頃だった。父は、眼鏡を新しいものに変えたいと言って、私が父を車に乗せて行くことになった。周囲には、今からの新調は、もういいのでは・・・という空気もあったが、父にとって眼鏡はとても大切な物だったから、父は、そんな空気などは意に介さなかった。

 
 眼鏡店に着くと、父は、あれこれデザインなど見てまわった。

 父は、その店のお得意さまだという感じで、「この眼鏡も、その前もずっと、こちらの店でつくっています」と店主に言った。

 目の検査が済んで、「このあたりで、どうですか」と店主が勧めるが、父は、「う~ん・・・」と首を傾げるふうだった。


「これ以上の眼鏡はないですね・・・」と店主は困ったように言った。

 その意味は,眼鏡のレンズの度数の高さなのだった。



 父もまったくそのレンズが合わなかったわけでもなかったのだろう。持っている眼鏡よりは、目に合っていたのだろう。

 購入しようとする眼鏡が最高の度数の眼鏡であるなら,それを求めるしかなくて、父はその眼鏡を買った。

 

 父は相当な読書家であった。そんなに本を読んでどうするのかと思うほど,書物を愛した。図書館で借りるのではなく、購入した。図書館等で、借りることもあったかも知れないが、それは今では手に入らない(販売していない)本だった。

 新書版は、東京への往復の列車の中で、1冊を読み切ると言っていた。


 脳出血の3年半前(2008年11月)に、一度入院した時は入院中も本を読んだ。毎日の新聞は、実家の兄が届けた。社会や政治の動きに敏感だった父は、私がたまたま、政治の動きのニュースを伝えることがあると、「あれ、さっき○○さんがきたけど、そんな(大きな)できごとを言っていなかったなあ・・・」などと言うこともあった。


 父が脳出血で倒れたときが2012年5月、肺炎で入院したのが10月の初旬だった。脳出血後の父は、自分の体のリハビリなどで精一杯で、その時以来、文字を読むことから遠ざかっていたように思う。


 肺炎で入院中、父が言ったことがあった。

「目が見えなくなったら、死んだほうがましだ・・・」と。

 「書物が読めなくなったら・・・」と言う意味だと、私は解釈した。そんな時、私は何も言えなかった。

 
 父は、2012年に脳出血で入院する少し前に、それまで何十年と書店でとり続けていた、「思想」と「世界」という月刊誌をやめた。それから、歴史的な集まりの会の会費の整理をし、振り込みを私に頼んだ。


 父が長年愛読し続けてきた月刊誌をやめた時、私は何だかわからないけれど、寂しい気持ちがしていた。93歳になっていた頃の父は、もう読むことが大変になっていたのだろうか。それとも、亡くなった時のことを考え、区切りをつけておきたかったのだろうか。

 肺炎になって入院中の父の言葉は、私の心に強く食い込むようだった。「目が見えなくなったら、死んだほうがましだなんて、そんな悲しいこと言わないでよ」と私は心の中で思った。 

 

 脳出血を克服し、一度は元気になった父は、半年もたたないうちに肺炎になり、この世を去った。亡くなった時、父は眼鏡を持って行ったのだろうか。天国で、今も本を読んでいるだろうか。

 ふと気になることがある。2016年12月26日は、ちょうど父が亡くなって4年になる。










244           似合わない?                      2016年11月19日(土・記)

 数年前の同窓会の席のこと。近況報告というものがあった。

 A子さんの「近況報告」によると、A子さんが歩いていたら、ある女性が(追いかけてきたのかどうか忘れたが)、A子さんに声をかけたそうだ。

「あなた、ミニスカート、似合わない」と。

 A子さんはすらりとしていて、確かにミニスカートが似合う容姿をしている。ミニと言っても、超ミニというわけでもない。

 A子さんは続けた。「確かにそうだなと思いました」と言った。

 
 もし、私が言われたら、いい感じでは受け止められないなと思った。だからあまりに素直に、人の言葉を受け入れたA子さんに「そういうものかなあ・・・」と半ば驚いた。


 その女性が何をもってそう言ったのか。年齢を表した名札をつけて歩いているわけではないので、見たところ若くないので似合わないということなのだろうか。


 でも、どんな服装をしようと、自由ではないか。見ず知らずの人に、そんなこと言うなんて失礼ではないか。変わった人がいるものだなあ・・・と思った。(A子さんが、良い助言と受けとめるなら、それも、その人の自由で、否定はしませんが)。

 
 同窓会の席の言葉は、その時、すぐに私の頭を通り過ぎてしまって、その日のA子さんがミニスカート姿であったのか、記憶もしていない。女性の話を受け入れたA子さんなのだから、多分違ったのかも知れない。

 


 そのまた数年前に、学生時代の友人にあった時のこと。 ジャケットの下のピンクのレース編みののセーターがよく似合っていた。

「すてきなセーターね」と、思わず私は言った。


 すると、静かに物言う友人は言った。

「あっ、これ? 娘がお母さん、もう年なんだからピンクはやめたほうがいいと言ったの。だから中に着ているの」
 
 
 確かそんな会話だったと思う。


 私は、年齢に関係なく、どんな色でも気にしないで堂々と着てもいいのにと思った。

 色については、男女も関係なく、色を楽しんでいる。高齢の男性で、赤もピンクも素敵に着こなしている人もいる。男女の境界線もなくなっていて、少しも珍しいことではない。

 
 私は、年齢と色、形など、特に意識しないで暮らしている。基本的には、自分の好きな色、恰好で。

 
 
 今着たいと思わない服は、恐らくその大部分は、若い時でも着たくない服だろう。

 
 、服装は、その人本人が決めるものだから、もちろん、「きまり」によって誰かによって、制約を受けるものではない。

 どこかの議会のように(?)夏の議会では○○を着る・・・と、まるできまりのように言われたら、それを、私は着ない。「きまり」で選択の余地のない服装は、たとえ色や形で似合っても、私に似合わない。



 自分に似合う・・・考えると面倒なことで、似合うと思えば、それでいい。自分に自信のない時は、一番身近な人に尋ねる。
「これ、おかしくない?」




243                「食べるな!」                   2016年11月1日

 家中、張り紙だらけ。「食べるな!」の白い紙に踊る黒い文字が冷蔵庫の扉にも、食卓の上にも部屋の壁にもトイレにも。蛍光灯のひもにもぶら下がっている。

 夫が人間ドックを受ける前日の我が家の夜の光景だ。

「(前日の)夜9時以降は、飲んでも食べてもだめだから、あなたも覚えていてね」と、連帯責任のように言われた私。


 家にいる時間は、何度となく冷蔵庫を開ける夫。食べることが好きな夫にとっては、食べられないことは、すごく苦痛らしい。

 その夜は、9時過ぎて、「あー、もう食べられないか」と、夫は時計を見ながら残念がっていたが、(食べられないので、いつもより)早めに寝てしまって、無事、「第一関門」を突破。



 だが、油断はできない。問題は、むしろ朝なのだ。

 朝起きて、寝ぼけて「人間ドック」を忘れ、うっかり食べてしまう、ということも、夫にとってはあり得ることなのだ。



 当日の朝、張り巡らした紙のおかげか、夫は、その日の人間ドックを覚えていて、うっかり食べることがなく、「第二関門」無事通過。


 トイレの扉には、「食べるな!」の張り紙と一緒に、「検便」の張り紙も並んでいた。

 便鮮血チェックは、朝、一度に2回とるということで、これで、すべての準備が終了。


 以前、私が、「ああ、(別の日に)2回とらなくてはいけないから、面倒ねえ・・・」と言ったら、

 「ぼくは、いつも1回ですませちゃうよ」と、夫。何のための2回検査だかわからないけど、とりあえず、これまでは大腸がんになったことがない。

 「朝、一番に行けば早く終わるから」と言って、夫は早く出かけた。

 

 夫が間違って食べものを口にしないように前の晩から翌朝まで緊張していた私。玄関を出る夫の足音を聞いて、やっと、ほっと・・・。

 あー人間ドックは大変。





242                   待ち伏せ                  2016年10月28日

 数年前、新年に親族が集まる席で、母のことで笑ったことがあった。

 

 「おばあちゃんが、ピアノの練習で待ち伏せをしていた」と下の姪が話した。姪が小学生の頃のことだから、今から、20年以上も前のことになる。

 実家では、父母は、共働きの兄夫婦と同居していた。


 今と違って、姪が小学校の頃は、実家の周辺には、まだ、田も残っていた。話によると、田の畦道で、時間を見計らい、母は姪の学校からの帰りを待っていたようだ。


 おそらく、小学校の姪にピアノの練習をさせようと思ってのことだったらしい。姪がランドセルを置いて、どこかへ行ってしまうことのないように、待ち伏せだったのだろうか。

 
 母は、どうも、教育ババのようだった。母自身が音楽が好きで、女学校卒業後には、神戸の音楽学校に通ったと言っていた。「でも、レベルが高くて、ついて行けなかった」とも言っていた。

 
 めったにはなかったが、母は、時たま、ピアノを弾いてみせたこともあった。


 それで、ピアノには、特に気持ちが入っていたのかも知れない。母は姪に対して、どんな祖母であったのか、詳しいことは、私もわからない。待ち伏せの話も、その時、初めて知ったことだった。


 姪の私の母に対する評判は、どうもよくないようだった。もしかしたら、勉強やしつけなどでも、いろいろ「指導」するような祖母であったのかも知れない。


 (下の)姪が「普通のおばあちゃんがよかった」と言っていたということも、かなり後から、耳にした。


 私の娘のことでは、同じ孫でありながら、「のんびり育ててやりなさいよ」と言って何ひとつ干渉することのない母だった。同居の孫には力が入るのだろうか。それとも、「反省」をしたのだろうか。


 とにかく、「待ち伏せ」はおかしくて、当事者はともかく、笑える話だった。







241                 ダリア園                     2016年10月5日

 10月4日、診察後、夫に誘われて、小鹿野町のダリア園に行くことにした。

 実は行ったこともなかったし、ダリア園があることも、知らなかった。

 夫は、「ダリア園がいいよ」と、最近知人から聞いて、知ったらしい。



 入り口は、立派な建物では全くなくて、売り子さんが、おまんじゅうやきゅうりなどを並べて売っていた。そして、他には入場券を売る人が、窓口に一人いた。

 園内には、赤や黄、白、ピンク、えんじ色など、色とりどりの、さまざまな種類のダリアが咲き誇っていた。手入れも大変だろうなあと思った。今では、運営は、近くの人たちでやっているとか。

 狭い我が家の庭でさえ、草も生えて困るのに、広い場所をこんなにきれいにしておくには、よほどの手間もかかるだろう。


 腰をかけておまんじゅうを食べている人たちがいた。おいしそうと思ったけれど、最近、甘いものを食べているので、我慢をした。


 ダリアの花を見ながら、いろいろなことを思った。

 
 頭のどこかで、この日の検診の結果を心配していた自分がいた。きっと大丈夫と思う自分と、もしかしてと思う自分がいた。やっぱり少し恐かった。


 がん宣告を受けた後は、肺がんについては、良く調べた。恐いこともいろいろ書かれていた。「ストレスになるから、もう調べるのはやめよう」と思いながらも調べずにはいられなかった、あの頃。

 インターネットが何でも教えてくれる。だから、手術の様子の一部始終まで、知った。

「ねえ、もし、発見されていないままだったら、今頃、どうなっているかわからなかったわね・・・」

と、私は夫に言った。


 こんなにきれいなダリアも見ていられなかったかも知れない。





240   がん体験記 最終回      1年たちました!                2016年10月4日・記

 思えば、1年前・・・思い出します。

 がんの宣告は、昨年の7月のことだった。

 それから、10月5日手術までの3ヶ月は、今思うと長くはないのだけれど、その時は、とても長く感じた。

 レントゲン撮影ではつかめない初期のがんだった。でも、得体の知れない3箇所の疑わしき影は、私を打ちのめしたこともあった。

 影が広がってきていて(つまり、がんが大きくなっていて)、進行性のがんではないかという疑いは、手術直前まで消えなかった。

 命助かって儲けもの。その後、こんなに元気で過ごせるとは、思っていなかった。・・・というより見当がつかなかった。

 

 一番の心配だった議会も休むことなく乗り越えることができた。

 
 そして、「父が生きている間のことでなくて、よかった」と思った。少なくとも、私の入院中は、父のお見舞いにも行けなかっただろうし、その理由も言えなかっただろう。

 「普通と変わらない生活をしよう」、「一緒にがんと闘おう」という夫の言葉がありがたかった。


 もしも、夫がとても心配そうな様子を見せていたら、私の心も暗くなっただろう。病の宣告をされても、普通に今までどおりの生活をしたから、日々を過ごすこともできた。

 
 不思議な時間だった。崖から突き落とされたり、舞い上がったり、心も忙しかった。

 夫も本当は、大変だっただろう。でも、私がきいたら、「絶対、大丈夫だと思っていたよ(心配していなかったよ)」としか言わなかった。


 心も体も忙しかった時期を、お付き合いしていただいた夫に、心からのありがとうを言います。
 

 手術から1年後の今日、「転移もありません」という診察室での医師の言葉に、私は、思わず、「よかった~」と言った。一緒にきてくれた斜め後ろの夫を振り返ると、夫も笑顔だった。



 検査の過程においても、複数の医師たちで患者への方針を検討したり、決定したりしている事実を知らされていたので、信頼し、安心して医療を受けることもできました。


 私も夫も「ありがとうございました」と言って、診察室を出ました。次にくるのは、また、1年後です。

 〈今回で、がん体験記を終わります 〉

 







239  がん体験記⑫           生き物の正体                (2016年9月25日・記)

 手術後は、体を動かしたほうが、回復が早いということらしかった。

「登山もできる。普通の生活をしてください」という医師の言葉だったので、普通に出歩いていたし、山にも行った。



 いつ頃までだったか、しばらくの間、胸の中の生き物と一緒だった。退院したばかりの時は、少し、息が、「ふっ」となることがあった。「ふっ」は説明できないのだが、何もなかった手術前とは、少し違うところがあった。


 10月5日の手術の1ヶ月後の診察ということで、都合で少し早いけれど、自分の日程の都合で、9月末に診察を受けた。

 
 私は、被曝するのでできるだけ、レントゲンやCTなどは撮りたくなかった。手術後の入院中、肺の状況を見るために、何回となく、レントゲンを撮っていたが、診断に必要なら仕方なかった。



 でも、自分の気持ちを、医師に正直に出すことも大事だと思うことがあった。

 手術前のあるとき、医師から CTを撮ると言われて

「えっ・・・また、撮るんですか」
と、私は、被曝がいやで、思わず言葉が出てしまったことがあった。

すると、そのとき、思いもよらず、

「そうですね・・・。ひと月前にも、CTは撮っているから、いいでしょう」
という医師の言葉が返ってきたことがあったのだ。

 
 
 
 ・・・それはともかく、手術から、約一ヶ月後のその日、私は、肺を撮影した画像を見て驚いた。


 肺は、3つの部分に分かれていて、上葉は、全切除したはずだ。けれど、画像には、上葉部分が、しっかりと普通の形で、写っていたのだ。

 中葉は切除しなかったので、もちろん、そのまま肺が続いていた。下葉の下の部分が、少し形がなくて、欠けた形になっていた。

 あの胸の中の動きは、肺が広がる動きだったのだ。手術後から、肺は元のなくなった部分まで、広げていたのだ。

 ただし、無くなった上葉が、再生したのではなく、中葉が上葉部分まで、広がっていたということらしい。


「健康診断で、レントゲンをとると、異常と診断されます」

と、医師は言った。

「下の欠けた部分は、広がらないのですか?」

下葉が欠けた形になっているのが、気になって、私は言った。

「これ以上は、広がらないでしょう」と、医師。

 

 たった一月足らずの間に、最大限、残された肺ががんばって、なくなった部分を埋めてくれたのだ。

 肺の下葉の下部分が欠けているのは、残念といえば残念だけれど、ここまで元の形に戻ったことのほうが、私は嬉しくて、半ば感動した。









238 がん体験記 ⑪           胸の中の生き物                (2016年8月20日・記)

 
 診察室での医師との面談では、わからない事は医師に尋ねることにしていた。
最初のうちは、一人で診察室に入っていたのだけれど、途中からは、夫と二人で話をきくことにしていた。二人の耳できくほうがよいから。

 
 患者である私が主に医師に尋ねるのだけれど、夫の言葉に、私は、はっとしたことがあった。

「手術後、家に帰ってから、元気で過ごすことができますか?」

 夫は、手術後の私の生活の状況について知りたかったのだ。


 どうして、私は手術後のことが考えられなかったのか。夫と私の違いが、何なのか、不思議だった。
今でも、その時の夫の言葉が、心に残っている。

 

 夫は、私が家に帰ってこられる状態を信じて、その後の生活を心配して尋ねたことが、私は、嬉しくもあった。

 夫の問いかけが、私には新鮮だった。そのとき、私に考えられる範囲は、がんの進行の状況と手術のことまでだったから。


 夫の問いに、医師の答えは、明確ではなかったと思う。元気で過ごせます・・・と、医師が断言したなら、私の記憶にあるが、記憶にないということは、(手術してみなければ)わからないという返答だったのだろう。


 私が医師に、手術後の生活について尋ねたのは、手術が成功したことを聞いた後、それも退院前だったと思う。


 医師との面談では、私は、(右肺は、手術でとってしまった部分も多かったため)普通の生活ができるかどうか心配で尋ねた。


 でも、医師が「普通に生活してください」と言われ、そうなのか・・・と思った。

 「登山」を基準としたら、およその見当がつくだろうと思い、私は、尋ねた。

 「登山ができますか」

 医師は、はっきりと答えた。
 「登山、できます」と。

・・・ ということは、何をしても問題がないということだ。



 退院の翌日は、鴻巣9条の会の催し物があり、太田真季の歌もあり、夫と参加した。そのときから感じたのは、右胸の異変だった。

 右肺の手術と深い関係があるとは思ったが、右胸の中に生き物がいて、ふわふわ・・・でもない、さわさわっと、またはざわざわっと、内側から胸の皮膚を押すように動くのだ。それは、ほとんど休みなく動いていた。

 
 淡いピンクの衣装に身を包んだ太田真季の歌を聴きながら、私は、かなり前のことを思い出ししていた。


 「平和のための行田戦争展」の催しで、太田真季を招いて平和コンサートを企画したことがあった。娘がまだ小学生の頃で、生の太田真季が見たいと言い、そして彼女のサインを欲しがった。太田真季の出演依頼の担当をしていたこともあり、娘と一緒に商工センターの控室で、太田真季のサインをもらった。


 「何に、サインしてもらう?」と私は娘に尋ねた。

 娘は、「これに、してもらう」と言って、もっていたキャメル色のリュックを差し出した。リュックのカバーをあけたところに大きく伸びやかな太田真季のサインがされた。きっと、性質も伸びやかな人なのかしらと思った。

 

 そんなことを思い出しながら、私は、胸の中の生き物と一緒に太田真季の歌を聴いていた。生き物が動き出した日に鴻巣9条の会の催しで、出かけ、太田真季の歌を聴いたことを、私は、恐らく忘れないだろう。

 
 
 退院の翌日から棲みついた生き物が、いつまで私の胸の中で生きていたのか、わからない。というより、いつからいなくなったのか、わからない。







237 がん体験記 ⑩         退院の日                      (2016年8月17日・記)

 2015年10月5日月曜日に手術をして、その週の金曜日には、とっても元気になった。

「今日、退院してもいいですよ」と担当医師に言われたけれど、急だったので、夫とも相談し、翌日の10日、土曜日に退院することにした。

 
 土曜日の食事は、防災訓練の日とかで、看護師さんに「備蓄用の非常食のメニューになっていますよ」と言われたので、どんなにか無味乾燥な食事かなと思った。

 
 ところが、(備蓄用パンなどに)デザートなども添えられた食事になっていて、とてもおいしい食事だった。

 備蓄していた食料をある一定期間で消費し、新しい備蓄品に入れ替えていくのだろう。


 何時頃だったか、お掃除の女性が、やってきた。その前日まで、私はベッドに体を横たえていたので、お掃除の人がきたなというくらいで、私も顔を見られたくなかったので、その女性をきちんと見ることもなく過ごしていた。


 (髪振り乱して?)ベッドで、1本ずつ外れていったけれど体に管をつけて休んでいたような人と、ワンピースに着替えて椅子に腰掛けていた私が同一人物だと、その人はわからなかった。


 「お見舞いの人ですか?」と私に尋ねた。

「私が病人として、寝ていた人です」と言ったら、驚いていた。

 「退院」で、心が弾んでいて、少しその人とも言葉を交わした。

 
 夫が午後に迎えに来ることになっていて、荷物をまとめて、待っていた。

 

 元気になって来ると、逆に夜は眠れなくなって、夜の見回りの看護師さんにびっくりしてしまって、迷惑をかけてしまったこともあり、少し胸が痛んだ。それなので、ノートのページを破って、簡単ではあったが、看護師さんたちにお礼の言葉を書いて渡した。

 
 夫がやってきたので、看護師さんたちに挨拶をして、病室を後にした、。エレベーターのところで、看護師さんたちが笑顔で見送ってくださった。大変な仕事をしているのに、みんなとてもやさしかった。


 やっと、我が家に到着・・・!

 部屋に足を踏み入れたとき、私は、その光景に驚いた。テーブルにはお花が飾られていた。そして、お花の傍らには、お寿司が用意されていた。

 
 夫は、1日も欠かすことなく病院にきてくれて、私のために多くの時間をつかった。洗濯物を持ち帰ったり、代わりの衣類を持ってきたり・・・と何かと慌ただしかったことも多かっただろう。夫自身、心身ともに相当疲れていたことだろう。

 
 だから、退院の日のために、夫が花を飾ったり、お寿司を用意したりするなんて、私は考えもしなかった。

「一番上等のお寿司を買ったよ」と、夫は言った。

 「あなた、ありがとう・・・!」私は、思わず涙した。そして、涙の中で笑った。

 「生きられた」・・・。私は、生きていることの大きな喜びの渦の中に、いた。

 






236                   百歳の母                2016年 8月7日(日)

 母が入所している施設で、7月の下旬に、母の百歳の誕生日を祝って下さった。兄は、どうしても都合が悪かったので、義姉と私たち娘夫婦が出席した。

 百歳はすごいのだけれど、残念ながら、認知症があるので、会話が通じない。会うと多分何となく娘だとわかっているように親しそうな笑顔になる。

 家族に認知症の人がいないと、認知症がどんなものかわかりにくい。だから、もともと頭が変だとか思う人もいるかも知れない。

 
 私は、もしかしたら、母のことを、変だと思われているかなと勝手に感じるので(笑)、「川島さんのように、あんなに頭が良くて何でもできた人がねえ・・・」と、昔、母と一緒にPTA役員をした人が言うのを聞いた時は、とても嬉しかった。

 
 母の故郷の人びとに会ったとき、「勉強もえらいできて」と母のことを言われたとき、普通なら昔のことなどどうでもいいのに、そんなことが、何だか嬉しかった。

 認知症の人は、何もわからないのではなくて、(その進行度にもよりますが)いろいろなことを感じて、反応する場合も多い。以前、(施設入所前で)家にいたときのこと。自分宛の封筒(事務連絡的な封筒)の封を家族が切ったとき、認知症の母が、すごく怒ったことがあった。

 「それ、私の名前でしょ。どうして他の人が(封筒を)あけるの」と。

 

 この日、母は紫色の上着のような衣類を着て、頭にやはり紫色の帽子のようなものを被り、お祝いの席に座った。

 テーブルの上には花が飾られ、施設手づくりの、盛りつけもきれいな、すてきなご馳走が並べられた。


 時間的なこともあるのだと思うけれど、ちょうど眠い時で、うとうととしていて、写真を撮るにも、「はい」と返事はするのだけれど、目を開けなかった。

 朝は、ちゃんと目をあけて朝の食事をとるということで少し安心もした。母の「良い」写真を撮りたいと思い、心優しい人たちが、一生懸命に母の名前を呼んだり、体を少し揺すったりもした。


 結局、母は、目をあけてカメラの方を見ることはなかったけれど、食事は、施設の方の介助で、食べていた。よく噛んでいるのには、私も感心した。

 
 認知症になった母は、けっこう元気がいいので、施設の職員の方たちにも迷惑をかけることもあるだろうと思う。

 職員の方たちにとって、生きてきた人生も違えば、性格も違う、さまざまな入所者がいて、大変であろうと思う。

 施設での母の話など、職員の方から伺ったりして、うとうとしている母と一緒に、楽しいひとときを過ごした。


 
 私の顔を見ると、駆け寄ってきて、「盾子さん・・・!」と言い、「これが、うちの娘です」と他の入所者に紹介していた頃もあったのに、と少し寂しく思うこともある。


 母は、昔から、洋服や、その色彩に敏感に反応して、「あら、あなた、その服 似合うわ」と言うこともよくあった。逆に、「その服、変」と言われることもあった。

 母とよく買い物に出かけた・・・。コンサートに行った・・・。


 百歳の母の隣りで、私はそんなことを思っていた。


 母と会話ができたらどんなにか幸せだろうと思うこともあるけれど、それは無理なこと。

 でも、母がいるということだけで、私はどこか自分の人生に安心しているところがある。

 お母さん、ちょっとだけ寂しいけど、百歳、おめでとう!







235                    真珠のネックレス             2016年7月23日(土)    

 昨年の7月末、金沢の学習会に参加する時に、「おとなの休日」というものに入会した。


 私が議会のことを、よく家で話しているので(笑)、自治体問題研究所が主催する内容に、夫も、興味を示し、自分も学習会に参加したいと言い出した。

 
 議員や、自治体職員や、一般の人、自治体問題に関心のある人が誰でも参加できる学習会だ。2泊3日の全国大会だったが、1泊の延泊をし、最後の1日を金沢の観光にあてることにした。

 
 私は、最初、迷ったけれど、国保などの福祉の分科会に出て、夫は、財政の分科会に出た。夫は議員ではないけれど、退職後は、自治体問題に興味を持って、以前よりも、まちのことを考えるようになった。


 そのとき、私は、すでに、「がん」の宣告を受けていた。でも、早いうちに、申し込んでいて、予定通り行くことにした。


 私は、あんまり興味がなかったけれど、夫が、「おとなの休日」に入会すると便利だとか、費用の面で特典があるとか言ったので、二人で申し込んだ。


 駅にある窓口で手続きをする時に、懸賞のようなものがあって、金額いくらにしますかと聞かれた。どうせ、あたるはずもないと思っていたので、正確には記憶していないが、夫は、百万円?とか1千万円??とか、大きな金額を選択したように思う。


 夫も私も「当たる」とは思っていなかったが、私は、額が小さいほうが確率が高かったので、数万円のほうにした。


 その額が、1万円だったか、2万円だったか、3万円だったのか、全く覚えていない。


 旅から帰って、どのくらい後だったか、ある日、私が当たったことになったらしく、引き出物によくある、冊子が私宛に郵送されてきた。

 
 「何にしようか」と、私は夫に言った。ぱらぱらとめくって、夫が言った。


 夫が、「これにすれば」と指さしたのは、ネックレスのページだった。生活用品にしようか、それとも、食べものにしようかと、私は迷った。

 その頃、私は、洋服とか、身につける物の購入には、半ば意欲を失っていた。お店で服を見ても、買いたいけれど、これ来年着るだろうか、などと思った。



 がん宣告を受けた私がネックレスをもらっても、これをつける事は、それほどないかも知れない。物は増やさないほうがいいと思う気持ちがあった。


 ただ、もしかしたら娘が身につけるかもしれない。そう思った時に、特に他に欲しい物もなかったので、小粒の真珠のネックレスに決めた。大した物でもないのに、決めるのに、時間がかかった。


 ほどなく、届いたのは、写真と同じ、可憐な真珠のネックレスだった。高価な物とは思えないけれど、小さな真珠が気に入っている。大げさでなくて、ふだんにつけられるので、便利にしている。

 
 がんで命を失ってしまうかも知れない。そう思って、なかなか決められなかった真珠のネックレスは、私にとって、とても大切で、記念の品となった。







 234  がん体験記  ⑨   いよいよ・・・手術                2016年7月17日(日)

 手術の日を決めるにも、こちらの思いも取り入れて日程が決められたことは、幸いだった。

 これまで、前の医療機関でも、わざわざ言うこともないと思い、仕事のことは黙っていた。

 けれど、Kセンターでは、仕事をしていることを話していた。

 医師が提案した検査の日が議会関係で都合が悪いこともあり、「すみません、仕事の関係で・・・」ということもあった。

「何の仕事ですか?」と聞かれたので、「市議会議員をしています」と素直に答えた。
 

 なぜかというと、「患者は、病気の治療が第一であるのに、日程について都合ばかり言うのは我が儘だ」と思われるのも、いやだったので。

 9月議会が終わった早い時期に手術をすることにした。12月議会までには、体も何とかなるだとうと予測した。


 10月5日の月曜日に手術を受けることに決まった。検査も入るので、その前の週から入院して下さいと言われた。入院手続きをとり、外泊は認められるということだった。手術前に入院し、「外泊可」ではあるが、前日は宿泊してくださいと言われ、前日の日曜日以外は外泊とした。

 
 手術の前々日の土曜日は、親族にかかわる行事もあり、これが、もしかしたら、見納めかなと、半分くらい本気で思った。


 手術の前日は、例年出ている地域の運動会だったけれど、さすがに出る気分になれなくて不参加にした。考えてみれば、誰にも話してはいないけれど、本来入院中の身なのだと、自分を納得させた。


 いよいよ、当日。忘れもしない10月5日の月曜日の朝。

 手術着に着替える時、本当に手術なのだと思った。ボタンが多く、着ているうちに何だか、変になってしまったが、どうにか、普通に着られた。歩くことは許されず、車椅子に乗って手術室に入った。テレビなどで見る、担架に乗せられていくのではなかった


 夫は、その前に来ていて、心配そうな面持ちだった。。

 手術室では、すでに、麻酔医が入っていて、患者を迎えた。

 麻酔医の人たちは、何やら、準備や打ち合わせを入念にしていたようだ。手術前の数日前に、私は夫とともに、手術の内容や麻酔についての説明を受けていた。


 麻酔医が、手術台の私に、横を向いてなどという指示を出した。

 「三宅さん、どこを手術しますか」という問いに、
私は「右肺です」と答えた。

 これは、シナリオ?が決められていて、聞かれたら「右肺です」と言ってくださいと指示を受けていた。


 手術の直前、聞かれることは、確認の意味で必要だと、私も思った。めったにないことだが、間違って右肺ではなく、左の肺を手術されたら、大変なことだ。


 

 いつのまにか、麻酔で眠ってしまった。その後は、名前を呼ばれた時だった。ぼんやりと、その声を聞いたように思うが、良く覚えていない。

 
 部屋に運ばれたのも、ぼんやりとしていた。どの場面なのかわからないが、「呼びかけに答えた」と、夫は言ったが、自分では、はっきりとしていない。

 
 手術の間、夫は、待っていた。病院からポケベルのような通信機を持たされて、指示された場所で待っていた。

手術後に、「長かったので、心配したよ」と、夫は言った。



  手術には、4時間半かかったという。間の30分は、がんかどうかの病理検査(病院内)をすると聞かされていた。30分の間に、結果が出て、手術再開するということだった。

 その後の詳しい検査については外部の検査結果を待つということだ。


 病室のベッドに戻った時は、体に7本ほどの管がついて、寝返りも自力ではできな状態だった。



「手術は成功した」ということの後、「長かったので、心配した」と、夫は、病室の私に何度か言った。

 
 多分であろう。夫が医師たちに、「ありがとうございました」と言って、緊張の面持ちで頭を下げる姿が浮かんだ。私は、手術が成功しないことは、全く考えていなかった。


 と言っても、一方で、親族の関係の行事では、これが見納めかなと思ったりもしたので、矛盾したことを言っていますが。


 広がっていた影の部分は、がんではなかったということだった。影を切り取るかどうかについても、この場合には切り取り、この場合には・・・というふうに聞かされていたので、それほど、心配もしていなかった。

 
 結果として、肺の影部分は切り取った。右肺は3つに分かれている。がん細胞のあった上葉部分は全部切除し、中葉は、健康でそのまま、下葉は、影が広がっていたので、がんではなかったが、3分の1(影部分)を切除した。
 何故、影として現れていたのか、不明。



 とにかく、手術が終わった。お腹を切り開く方法ではなかったので、体にかかる負担も少なかったと思う。
次の日から管が少しずつ外されていき、快方に向かうことが実感できた。

 
 
 手術後、私は医師に尋ねた。

「あの・・・、(本当に)がんだったのですか?」と。

 本当にがんだったのかという思いはあったのだと思う。何の検査をしても、がんであると断定できる結果が出ていなかったし、何の症状もなかったから。

「がんでした」と、医師は冷静に答えた。


 自分の質問に、少し私は笑ってしまった。








 233          「もったいない」の心    娘の制服                 2016年6月26日

 中学生や高校生の制服は、けっこう高い金額になる。

 娘が中学に入学するとき、我が家でも、制服を購入した。入学前に、学校で採寸の日があり、採寸をして作ったように思う。

 実家には二人の姪がいて、その制服ももらった。その制服で間に合えばよかったのかも知れないが、当時は、娘は姪二人よりも体が大きかったので、その制服は少し窮屈で着ることができなかった。(成人した頃は、ほぼ3人とも同じ身長になった・笑)。


 けれど、お金をかけてつくった娘の制服は、なぜか、最初から上着の丈が短か目で、しばらくの間着ただけで「短い」と言い出した。それで、近所で洋服づくりをしている家にお直しを頼んだ。



 その時に、その家の娘さんが3年間着た制服を「これ着られたら」と言われ、いただいた。まだ、きれいで、十分着られる物だった。それで、結局は、いただいた服の方を、娘は着たように思う。なあんだ・・・本当は買わなくてもよかったのかも・・・と思ったほどだった。

 実家からもらった複数の制服上下は、他の家がもらって下さったので、役にたって喜ばれた。


 実家は、ちょっと贅沢っぽくて?制服のスカートなども複数枚あったので、それは娘も着たように思う。


 そして娘が中学校を卒業する時には、今度は洋品店を営んでいる方から、「制服があったら譲って欲しい」と言われた。制服上下とスカート、スポーツウエァなど、差し上げた記憶がある。「助かります」とその店の主は言った。買わなくても済むように必要な人に差し上げているということだった。

 
 娘が高校に行くとき、オーストラリアの学校も制服があった。最初は新調した。でも、1年生の冬か、2年生の時かわからないが、娘も娘の友だちも、冬のズボンの制服を上級生?から譲り受けた物を着たようだ。

 確か色は薄めのグレーだったと記憶している。

 
 オーストラリアでは、それが、ごく自然に行われるらしい。冬は寒いから、ズボンというのも合理的だと思った。日本の女子高生は、超ミニのスカートの子もいて、本当に寒そうな恰好をしている。

 
 寒い時にはあたたかくして、機能的な恰好がいいじゃない、と思った。

 日本でも、まだ十分に着られる制服であれば、次の人も着られるので、買わないで間に合わせるというのも、一つの方法だろう。

 勿論買う人がいてもいいけれど、使える物は、使うという文化が、もうすこし発達してもいいように思う。


 




232   がん体験記 ⑧      舞い上がったり 沈んだり                (2016年5月17日 記)                              
 
 気管支鏡検査の結果を予定通りの日程で、夫と聞くことになった。広がっている影の部分が何者なのか調べるための検査だった(・・・と解釈した)。結果は、がん細胞が見つからなかった。心底ほっとした。

 「がんではないでしょう」と呼吸器内科の医師は言った。

「細胞を擦過(こすりとる)という手法なので、100%の検査と言い切れませんが、がんではないと言えるでしょう」という説明だった。


 一番大きく広がっている影ががんでなければ、他にがんがあっても、それだけで喜ぶべきことだった。ほぼがんに違いないまるい影は存在するけれど、広がっている影こそが、一番の恐怖だった。それが、がんでないとしたら、あとは、初期のがんを切除したら、命拾いができると思った。


 嬉しいという言葉以外に、言葉が見つからない。嬉しくて嬉しくて飛び上がらんばかりの気持ちだった。

「午後の時間が許せば、呼吸器外科の医師に連絡をとりますから」と言われ、もちろん了承した。

 私と夫は、病院の食堂で昼食をとり、午後の時間に備えることにした。ここの食堂は、何度も食べているけれど、いつも同じようにおいしかった。

 ほっとして食べる食事は、いつもよりもっとおいしかった。

 「あー、よかった」「ほんとうによかったね」

 夫と私は、ただただ同じ言葉の繰り返しだった。


 午後からの呼吸器外科の医師の時間がやってきた。

診察室に入った。

「気管支鏡の検査を受けてもらいましたが、がんではないと断定はできません」と外科の医師は言った。

「呼吸器内科が何と言ったか知りませんが、がんではないと言い切れません」ということだった。

 今度は、心も頭も真っ暗になった。広がっているものが、がんであったら、命が危ないかも知れない。その影は大きくなってきているという前の説明だったから。

 午前中の舞い上がった気持ちは、地べたに落ちた。涙が滲んできた。必死でこらえた。

 まだ、9月議会は終わっていなかった。何とか乗り切るしかなかった。





231        この季節 大好き!                    (2016年4月3日 記)

 春がやってきて、とても嬉しいことは、青菜がたくさん食べられること。毎日のように、お腹いっぱい青菜を食べている。

 今食べているのは、小松菜や白菜から出て来る葉であり、それを摘んだものが、食卓に並ぶ。

 茹でてマヨネーズであえたり、白和えにしたり、ソテーにしたりして食べる。とにかくおいしい。

 夫が借りている畑で作る作物なので、農薬は一切使わない。

 新鮮で農薬を使わないから、健康にも良いと思うと、おいしさも増す。

 
「ほら、あなた、今日も、こんなにとれた!」と、夫が袋いっぱいの青菜を私に見せる。

「えー、ほんと、すごーい・・・!」と私が感嘆の声を上げる。

 
 夫が上手に手早く料理をする。夫はとても研究熱心なので、おいしい食べ方を考えてくれる。

 
 「こんなに新鮮な青菜が食べられて幸せね~」

 二人で、食べる喜びを分かち合う。

 だから、この季節大好き!


 たまには、私も畑を見に行かなくっちゃ(笑)。







230   がん体験記  ⑦   気管支鏡検査                   (2016年3月13日・記)

  9月議会が始まり、委員会の隙間を縫って9月8日に気管支鏡検査のために、検査入院した。

 どの検査も危険性を伴う場合もあるのか、いろいろ説明がありそれを了承した。とても苦しい検査のように思われた。

 翌日の9日が検査の日。車椅子で看護師さんの案内で、検査室に向かった。

 検査室に到着すると、担当の看護師さんがいた。

 とてもテキパキとした調子で、指示を出され、きっと自信あるやり手の看護師さんなのだろうなと思った。

 私の方は、どんなふうに検査されるのか、一応大まかに聞いてはいても、何となく不安。

 こんな時は、のんびりとした口調でゆっくり目の対応がいいなあと、内心思った。

 少し離れたソファには、検査中の親族が腰をかけ、多分の身内の付き添いであろう女性がいた。ただじっと、とても不安そうに見えた。

 局部麻酔の後、検査室に入った。苦しいと聞いていたが、私は「三宅さん。終わりましたよ」と声をかけられるまで、全く意識を失っていた。

 だから、苦しくもなかった。検査室のベッドの上で、眠っていただけだった。





229  がん体験記 ⑥         不安抱えて                        2016年2月21日(日)記

 「3箇所ですね・・・それに、切除するにも、難しい場所という場合もあります・・・」と担当医師に言われ、お先まっくらの気持ちだった。

 癌細胞が3箇所になってしまった・・・。手術が最初から言われていたにもかかわらず、手術までにたくさんの検査があるなんて思ってもみなかった。癌とわかれば、できるだけ早く手術をしてしまいたいと思っていた私だった。

 
 手術がどんなものであっても、命が助かれば恐くない。命が問題なのだ。たとえ、体のどこかを失っても、命が欲しかった。

 
 手術がいつになるのだろう。そのことは私にとって、大きな問題だった。

 議会はどうしても休みたくなかった。8月の戦争展が終わってすぐに手術なら、9月議会に間に合うという私の計画だった。でも、私の場合、一度に検査が行われるのではなく、一つずつと言っていいくらい、少しずつ、いくつもの検査が行われ、医師グループの会議を経て、患者の方針が固まるという状況だった。

 複数回の血液検査を行っても、プラス反応も出ず、骨への転移の検査でも反応は出なかった。

 
 円形の一つは、がん細胞であることが間違いないというのは、医師グループの見解だった。残りのうちの一つは、かなりがんらしい、もう一つの広がってきている影は、がんかも知れない、不明ということだった。

 
 肺がんは、影でしかわからず、切ってみないとわからないという面倒なものだと言うことも知った。


 「3箇所」という数は私に重くのしかかっていた。ただ医師グループで毎週会議が行われることは、私にとって安心材料だった。一人の医師ではなく複数の医師で研究して患者への方針を決めることが、安心だった。そして、その会議の存在をしらせてくれることが安心材料だった。


「 (早めの)手術を考えていたのですが、その前に気管支鏡検査をやるように外科に言われましたので、気管支鏡検査をしたいと思いますが、いいですか?」

「検査の日程は、いつとれますか」
と続けて医師が言った。

「早いほうがいいですか。(でも、・・・どうしよう)」

私は、同席の夫に「どうしよう・・・」という目を向けた。そして、「どうしよう・・」と、小さく声に出して言った。

「8月下旬になると議会直前で、だめで、9月は議会なのよ・・・」

「自分の一般質問だけ出るというのは、どう?」と夫が言った。

「初日は、議案の説明があるのよ。それに、欠席の理由をなんて言う?」

 私の斜め後ろに腰掛けている夫と囁くような声でやりとりをした。

 初日は、休めない。自分の時だけ一般質問のために議会に出るというのも、いやだった。

 検査のために1泊2日が必要だった。


 議会は最初から出席して、委員会の合間に空いている日があった。 それは、9月8日が他の委員会の日で、9日が空いていた。8日に入院して、9日を検査の日にすれば、9月議会を1日も欠席しないですむことになる。翌日の10日は、私の所属の委員会の日だ。

 人によっては、気管支鏡検査で、体に異変が起こる場合があるのだそうだ。そうなると、所属の委員会の前日というのも、ちょっときついかな・・・自分の委員会に欠席ということになったら、これもまずい。

 そして、9月9日に検査をすることにしても、問題はそこまで検査を延ばしていいかどうか。がん細胞が大きくなってしまわないか?そんな不安があった。


 いろいろな思いが頭の中を駆け巡ったけれど、結局この日しかないと私は思った。

 「9月8日入院で9日検査でも、いいですか?」と、医師に尋ねた。

 広がってきているという影が、がん細胞だったらと思うと、とても不安だった。
 

 不安を抱えながら、気管支鏡の検査の日程が、9月9日に決まった。






228           犯人は、だあ~れ             2016年1月31日

 いつも働いてくれるものが壊れると、困ってしまう。今日働いていれば、明日も、その次の日も、毎日休みなく働いてくれるものと思って、毎日を過ごしている。

 だから、昨年のある日、突然?洗濯機が、明らかに故障となると、一大事が起きたように、とても困ってしまった。

 ちょっとおかしいなと思いつつ使っていた洗濯機。

 
 それまでに、インターネットで、その機種の故障原因は何か、調べたりもした。説明書が見つからなくても、便利なもので、ちゃんと、メーカーと機種で、ネットに載っている。

 それにより、改善策で、試してみたが、、運転途中で止まってしまい、一向に改善されなかった。

 
 素早い対応で、修繕の方がやってくるまで、そう、時間は、かからなかった。修理の方が重い洗濯機をひっくり返し、いろいろ調べた結果、何と、水の流れを邪魔していたものが、判明した。

 「これですね」

と言って、修理の方が、取り出したものは、色が黒ずんだ500円玉だった。

「あ~」と、私は思った。これが犯人だったのか・・・。

「ねえねえ、あなた・・・!見て」

 
 私は、少しの間、その場を離れていた夫を呼んだ。その犯人は、冬は冷たかっただろう、水の中で、あちこち動き回っていたようだ。その様子からは、かなり長い間、水の中を泳ぎ回っていたかも知れない。

 泳ぎ回りながら、ある時、偶然にも、洗濯機内部の排水管をその小さな体で、塞いでしまった。

 以前も、500円玉は、洗濯機の中で、一緒に洗濯されていたことがあった。でも、その時には、洗濯物を出すときに、一緒に発見された。

 そして、まさか、500円玉が洗濯物と一緒だったとは、と驚いたものだった。洗濯物を入れる前に、「ちゃんとポケットを確認するのが普通よ」と言われれば、そうかも知れない。そんなことがしばらく前にあった。


  それからは、夫のポケットを確認していたつもりだった。修理の方が言うことには、500円玉の向きにより、そのまま流されてしまうこともあるけれど、運悪く、排水管をちょうど塞ぐ形で、水の流れを止めてしまっていた、ということだ。


 その後、水を入れて、水が排水されるかどうか実験した。「大丈夫です」と言われ、ほっとした。明日からは、洗濯機が普通に使えると思って、一段落した。

               ☆                ☆                ☆

 
 翌日は、洗濯ができて、気分がよかった。何と、洗濯機が機能を復活させたのは、わずか1日だった。洗濯機が置いてある場所の辺り一面、水浸しになっていた。


 すぐに再び修理するのは、私の議会関係があり、心と時間の余裕がなかった。
 
 さらに、一度修理して安心したと思ったら、また、動かせなくなったので、気力が失せていた。どっと疲れを感じていた。洗濯機の事など、考えるのが、いやになってもいた。


 「ねえ、もしかして、また、500円玉?」
私の言葉に、

「ごめーん、今度、また、500円玉だったら、僕が修理代払うよ」
と、夫が言った。
 (私は、お金を衣類に入れることは、全くない。お金をポケットに入れるのは、夫なので)

「(払わなくても)いいわよ」

 まだ、500円玉と決まったわけではないのに、少し怒ったように私が言った。


 「ホームランドリー、あれはいいよ。まとめておいてくれれば、1週間に1回、僕が持って行くよ」という夫の言葉に、そうすることにした。

 夫は、大きな洗濯物の袋を抱えて帰ってくると、「けっこう、使う人、多いよ、便利、便利」と言った。


 少し落ち着いてから、再び修理の方に連絡をとった。この時にも、すぐに来てくださった。でも、さまざまな実験を重ねたが、なかなか原因がわからなかった。

 洗濯機の内部を全部見るには、本格的に洗濯機をばらすことになり、相当な費用が発生するということだ。

 
 
 修理の方の懸命な努力の結果、、またもや、犯人が500円玉だった時には、何とも言えない「ああーっ」という声を出してしまった。

 
 やはり、黒っぽくて、長い間、水の中に住んでいたような色をしていた。機械の内部に、複数入り込んでいた500円玉が、新たに排水の流れを邪魔していたのだった。

 あの後、夫の衣類のポケットは、確認していた。だから、修理後のものとは考えにくい。色も変色具合からしても。


 500円玉がそのまま水に流されるか、流れないで排水の邪魔をしてしまうかは、洗濯機の種類〔排水口の大小)にもよるようだ。

 
 では、我が家では、何故、次から次へと、洗濯機から、500円玉が出てくるのか。(大判、小判がざくざく・・・なら、大金持ちにもなるのですが)

 それは、私の夫がマジシャンで、以前、マジックの練習のため、常に、500円玉を持ち歩いていたのだ。シャツやズボンのポケットに入れて。

 洗濯機に、洗濯物を入れるときに、ズボンのポケットなど、見ているつもりでも、そうでない場合もあったのだろう。


 「ねえ、どうして、マジックで取り除くことができなかったの・・・?マジシャンなのに」と、私は言った。







227              新しい手帳                       2016年1月13日(水)

 議員クラブ(議員が毎月会費を払って運営されている組織)で、毎年のように購入している、全国市議会議長会編集の今年の新しい手帳がすでに届いていた。



 昨年のいつ頃だったか、新年の手帳を見たとき、「手帳は、いらないなあ・・・」と思っていた私だった。スマホにかえてから、私は、手帳を一切使わず、日程はスマホに打ち込んでいた。また、手帳の時代から、それほどは手帳の記録を使わない私でもあった。


 でも、今年は、手帳の良さにも気づいた。後になって、手帳を見ると、その年のその月のその日にどんなことをしていたのか、誰と会ったのかなど、記録として保存される「良さ」に気づいた。

 日記とまでは行かなくても、自分の歩んできた日々が、手帳に多少なりとも刻まれる。

 だから、今年は、もちろんスマホに、日程を入れるのだけれど、手帳にも記録しておこうと思ったのだ。活字文化は、ぱらぱらとめくれば、一目瞭然だ。

 
 先日部屋を整理していたとき、教員時代愛用の手帳が目についた。細身で今の議員手帳を同じくらいの大きさで、違うところは、毎年、カバーの色が変わることだ。

 
 教員時代の行事や会議、学習会の予定、出かける予定、だれかと会う予定など、記入されていた。


 もう少し大きめの手帳が欲しくなり、手帳を購入した頃もあった。あれこれ、表紙の華やかな柄など楽しみながら手帳を選んだ頃もあった。


 「では、あっ、そうですね・・・」などと言って、厚みのある立派な手帳を取り出す人を見ると、とても忙しく立派な仕事をしている人のように見えることもあった。

 
 予定を頭に入れて動いていて、それほどは手帳に記録しなかった私が、いつだったか、市議会手帳をなくし、手元に戻ってきたとき、あまりに紙面が白くて、何だか恥ずかしい思いをしたことがあった。

 この議員、何をしているのかなと、思われたかも(笑)。


 市議会手帳は、毎年紺色。年によって、グレー、茶、赤、薄紫・・・などと色でも変われば、新しい手帳という感覚になるのかなと思ったり。

 
 私自身は、昨年は全く使わなかった市議会手帳だが、巻末には、主要官公庁一覧や市議会一覧があり、自治体の議員の数、面積、人口なども記載されていて、便利である。


 行政と議会の独立性を重視すべきなのに、なぜ、議会直通の電話がないのかと疑問を感じていた。巻末の議会直通電話の記載を見て、「行田市には議会直通電話がないが、多くの市はあるのに」などと思い、要求もした。

 今は、直通電話が入って、よかった。けっこう私は利用している(笑)。

 
 手帳の巻末で見る限り、埼玉県内では、現在、議会直通電話がない自治体は、5市となっている(市議会手帳なので、町村議会については、わからない)。

 

 昨年末は、台湾への有意義な旅もでき、よかったのだけれど、新年は、かぜをひいてしまい、躓いてしまった。

 今年は、手帳もできるだけ使って、きちんと記録をし、心をこめて1日を大切にして生きていきたいものと、思った。





226            映画「母と暮らせば」                 2016年1月10日(日)

 見たいと思っていた映画だった。チケットを買っていて、12月中に見なければ間に合わないと思い、慌ただしい中ではあったが、夫と二人で映画館に向かった。

 1945年8月9日の長崎の原爆投下から3年後に、助産婦をする信子〔吉永小百合)のもとに、死んだはずの息子の浩二(二宮和也)が幽霊となって表れる。

 「母さんは諦めが悪いから、なかなか出て来られなかったんだよ」という印象的なセリフから、物語は始まる。その日から、毎晩のように、信子の前に現れ、二人は、浩二の恋人だった町子のことにも話が及ぶ。

 医学生の浩二が原爆でなくなって3年たっても、恋人だった町子は、信子のもとをよく訪れる。


 信子は、毎晩現れる幽霊の浩二に「もう、あの子もあれから、3年たっているの、町子も早くいい人を」という。

 最初のうち、「だめだよ、町子には僕しかいない」という浩二。でも、母の言葉に、幽霊の浩二も次第に町子の幸せを願う気持ちに変わっていく。


 1945 年8 月9 日、長崎の原爆で一瞬にして世を去った医学生の浩二。母として、息子の命を奪われた気持ちは、どんなであるか想像できる。


 恋人だった町子は小学校の教師となって子どもたちとの生活に充実した毎日を送る。小学校の子ども達の間では、「くろちゃん」と呼ばれる同僚の教師が、町子を好きなのだという噂があることをを信子は知る。


「くろちゃんと言う人は、どうなの?」と信子がそのことを町子に聞くと、町子は、微妙な様子を見せ、逃げるように信子の家を去り、しばらく信子のもとを訪れなくなる。

 
 

 そして、町子がくろちゃんを伴い、信子の家を訪れる日がやってきた。そのとき、初めてくろちゃんの片足がないことに私たち映画を見ている者は、気づかされる。最後のほうになって、映画の作者が、それを示したことは衝撃的であり、私は、さらに戦争の傷跡を感じさせられた。

 
 山田洋二らしい映画であると、私は思った。人間の微妙な感情を描いていると思った。くろちゃんは、戦争に行って生き残っ帰ってきた人だ。生き残って良かったのか、そう責める気持ちもあったのか。



 原爆投下の日、町子は体調が悪くて 学校を休み命が助かった。その町子は、同級生の家を訪れた時に、「あんたは、ずる休みして助かった。うちの娘もずる休みしたらよかった」と言われる。

 深い悲しみの中で、町子にそう言わなければ気持ちのやり場のない、娘を亡くした親。人間の生々しさを感じさせられる。普通なら、人を傷つけることを言わないような人が、そんな言葉を吐かなければならない現実。


 くろちゃんと町子。自分だけ助かってよかったのか。そんな思いも二人が心をひかれていくことになっても不思議ではない。

 戦争で足をなくし、障害を持った青年を選んだ町子。障害を負った青年を登場させなくてもよかったのだ。しかし、そこにも、山田監督らしさを感じさせられた。

 
 
 吉永小百合演じる信子の優しさが、画面に広がっている。長男も戦争で奪われ、浩二も失い、一人で暮らす信子。信子に好意を寄せる男性も登場する。

 闇の物資を信子に安く届ける男性に、「もう闇物資を買うのはやめる」という信子に「これくらいではなく、もっと大儲けしている奴がいる」という言葉も、真実である。

 このセリフも山田洋二ならではと、私は思った。

 。

 
 戦争が人間であることを奪うこと。人間としての尊厳も振り捨て、助かった者に対する感情を抑えられない人間の存在。

 さまざまな思いを抱かされた映画だった。映画の中の人物ではあるが、くろちゃんと町子の幸せを祈る。

 終末では、毎晩のように浩二と対話してきた信子が、幽霊の浩二に手を引かれ、眠るように亡くなっていく。

 信子が命をとりあげる助産婦の仕事の設定もこの映画の中で生きていると思った。

 教会の告別式の日、(自分がとりあげた)「赤ちゃんは元気?」と幽霊の信子がすうっと通り、女の子にきく。
 
 
 戦争がなければ、生きて幸せに暮らせた多くの人びとの「命」を思う。

 平和への思いが、しっとりと伝わってくる映画だった。
 

 ※まとまらない感想になりました(笑)。







225   がん体験記 ⑤               待合席                   2016年1月6日(水)

 私は待合席が苦手だった。そこの医療機関の場合、「部屋」ではないので、勝手に「待合席」と呼ぶことにする。

 
 Kセンターでは、番号で呼ぶ。でも、ぼーっとしていて、呼ばれても出て行かないと、大きな声で、名前で呼ばれることになる。

 だから、名前で呼ばれないように、私はいつも、アルファベットと、その後に書かれた数字を覚えたり、用紙にかかれた、それを時折、確認したりした。


「こんにちわ・・・!」と明るく声をかけられ、「どこが悪いのですか?」なんて、だれかに聞かれたら、最悪だと思っていた。

 聞かれた時には、「いえ、ちょっと・・・」と言って、少し笑うしかない。

 
 もし仮に、「肺癌だと言われたんですよ」と言ったら、肺癌という病は、深刻な場合も多いから、「お気の毒に・・・」と思って、相手は言葉を失うかも知れない。


「三宅さんは、命がもたないな」と思うかも知れない。病の状況も手術しないとはっきりとしない今、言葉だけが一人歩きし、憶測が流れることを、私は好まなかった。

 
 手術をして、病の状況がはきりとしたら、そのことを知らせた上で仕事をしようと思っていた。



 顔見知りの人を見かけることがあった。私は夏で帽子を持っていたこともあり、時には、待合席では帽子のままで、順番を待つこともあった。

 時たま、「あれ、あの人だ・・・」と、知り合いを発見すると、深く帽子を被るだけではなく、気づかれないようにじっと下を向いた。

 そして、あの人は何の病気で、この病院に来ているのだろうと思った。がんのように重い病なのだろうか、単に呼吸器系のものなのだろうか、と勝手に思ったりした。

 
 
 廊下を歩くときは、あまり下を向いて通るわけにはいかない。


 歩いている時、待合席のどこからか、「あれー、三宅さんだ」という声が聞こえた時には、声の方を向いて、少し笑って軽く会釈をした。Kセンターは、ドアをあけた所から、場所という場所は、あふれんばかりとも言えるくらいの、ものすごい数の人なので、必ず知り合いがいても不思議ではなかった。

 
 S病院へは、一人だったが、紹介されたKセンターに行くようになってからは、私は夫に車に乗せてもらって通い、廊下を歩くときも待合席もほとんど一緒だった。

 だから、私の知り合いばかりでなく、夫の知り合いもいて、知り合いが増えることになる。


 私と夫の共通の知り合いと、ばったり出くわすこともあった。廊下で出会った時には、入院患者へのお見舞いと思われる可能性もある。

 知り合いが、お見舞い目的である時には、こちらも、だれか患者のお見舞いに来たのだと思われるようだ。

「あらー」などと言って、お互いに笑顔で挨拶を交わした。


 検査入院では、そんなことも言っていられなかった。パジャマで病院内を移動しなければならなかったし、待合席を通らなければ、目的とされた検査室に通えないこともあった。


 行きは、看護師の案内で付き添われ、帰りは「自分で帰れます」と言った。広い院内でもあり、行きとは違う「道」を探して迷い込んだりした。また待合席を通らない「道」を発見したりした。そんな時は、新発見をしたような気持ちで、少し楽しくもあった。

 

 後から考えたら、マスクで顔を覆えばよかったと気づいた。けれど、後の祭り。










224 がん体験記④           まだ、まだ、あります・・・               (2015年12月12日)日・記

 最初の検査入院で、用紙をわたされた。

 生活状況などを記入する用紙だった。

 睡眠を含めて1日の過ごし方も、記すべきこととして、その中にあった。質問項目もいろいろあったが、強烈に心に残ったことがあった。

 それは、「あなたは、これからやりたいことがありますか」という質問だった。

 やりたいことがあれば、がんというこの病から救ってくれるのだろうか?どんな意味なのだろうか、と私は少し考えてしまった。

 もちろん私は迷わず書いた。

「やりたいこと、まだまだあります」・・・と、1行だけ書いた。何をやりたいかは、尋ねているものではないと解釈した。



「やりたいことは、たくさんあります。だから、私は助かりたいのです」と言う意味をこめて私は書いた。命の重さを軽々と引き連れていってしまう病の重さを感じていた。そして、一方で、なぜか、この質問、おもしろいなと思って笑った。

 
 夫は、「一緒に癌と闘おう」と言った。「一緒に闘ってくれるの?」と私が言った。

 夫の言葉が嬉しくて、「ありがとう」と私が言った。

 闘ってだめなら仕方ない。でも、まだまだやりたいことあるのになあ・・・と思った。
 






223  癌体験記③  私の検査入院 その1          夫の腰痛            2015年11月8日(日)・記

 8月4日と5日に、検査入院ということになり、4日に夫に車で送って行ってもらった。

 造影剤を入れ、肺のCT撮影の計画だった。

 センターとしては、患者の体の安全を確認してから帰宅してもらうということで4日に検査をし、その日は泊り、翌日の5日に帰宅ということになった。

 病室の名札は、「名前にしますか、頭文字にしますか」と聞かれたので、頭文字にすることにした。



 4日のこの日、朝から夫は腰が痛いと言っていたので、私は心配もした。でも、送っていけるというので、センターまで送ってもらうことにしたのだった。

 
 
 造影剤を点滴で体内に入れてのCT検査は、朝食抜きで行われた。

 造影剤には副作用の危険性もあるため、検査の後、主治医が様子を見に、病室を訪ねてきた。

 ノックの音がした時、腰痛の夫は、椅子に体を横たえるような恰好でいた。

 医師の声がして、私の合図で、夫は慌てて体勢を整えようとしたが、何しろ痛い体なので、少し間に合わなかった。

 私は、「夫が腰痛で・・・(こんな恰好しているんです)」と言って笑ってしまった。

 
 医師と私は、「大丈夫ですか?」「大丈夫です」 そんな会話だったと思う。実際、私に副作用は出ていなかった。

 ただ、医師の言葉で気になったことがあった。

「一ヶ月前の病院で撮った時から見ると、(肺の)下葉の影が広がり濃くなっているんですよ」と言ったことだった。

「リウマチだったことはありますか?」など、いくつかの病名を聞かれたが、そのどれもの病に身に覚えがなかった。

「進行性の早い大細胞癌だとしたら・・・」みたいな話にもなった。


 私も肺癌の疑いありと言われてから、肺癌について、インターネットで調べてもいた。大細胞癌は、癌の中でも悪質な癌だという認識があった。

「そうだったら、もう、しょうがないですね・・・」みたいなことを私が言った。(これが運命というものか)と私は思った。


 肺の上葉の白っぽい円形は、二つの医療機関でも癌であろう(癌に違いない)ということだったが、下葉に広がった影の正体がわからなかった。

 腰痛で大変そうな夫の前で、私と医師は、「影」についての会話を交わしていた。


 
 病院の食事は、ごはんが食べきれないと思ったので、「ごはんは少なめにしてください」と言っていたのだけれど、おかずも、少なめのごはんも全部食べて、お腹がすいた。

 
 翌日の5日は、何か他の検査を入れたと思うが、特に体に影響があるというものではなかったように思う。(ファイルを見れば正確なことはわかるけれど、書いている今、確認していない)


 午前中に、夫から連絡が入った。「ごめん。腰痛で迎えに行けないから、タクシーで帰ってきて」というものだった。

 「バスと電車で帰るから大丈夫」と私は答えた。

メールが来て、「あなたの帰りを待っています」とあった。

 Kセンターからバスに乗れるので、熊谷駅までバスに乗り、秩父線で行田市駅に行って、そこからタクシーで家まで帰ろうと思った。


 熊谷駅に到着したら、喉も渇いていたし、心も少し癒したくて、近くの喫茶店でゆっくりアイスコーヒーを飲んで改札口に向かったら、ちょうどよく電車が到着した。


そこで、「今、秩父線に乗りました」と、また夫に、メールを打つと、「待っています」と返信が届いた。


 太陽の照りつける夏の日だった。行田市駅からタクシーに乗ったのは正解だった。東行田駅まで秩父線で行って、そこから徒歩という選択もあったが、歩くのも暑かったし、一泊の検査入院だったので、多少の荷物もあった。

 自宅への曲がり角までタクシーに送ってもらい、玄関を入ると、「あなた・・・待ってました・・・」という夫の弱々しい声。

「体が動かせない。物もとれない」

 思いのほか、重体のようで、私は驚いた。夫は、近くに置いた水も飲めないと言った。
(ああ、それなら、コーヒーなど飲まないで、帰ってくればよかった・・・)と私は思った。

 「帰りを待っています」とは、本当に帰りを待っていたんだなと思った。

 
 それから、数日間、夫は、ほとんどの時間を寝たまま過ごした。杖があると歩けるというので、近くのホームセンターで杖を買ってきた。

「杖は楽だ、役に立つよ」と、夫は言って、夫は杖の役割に感心していた。

 9日の「行田平和のための戦争展」で、金子兜太氏の講演会の時には、実行委員として出たが、夫は、まだ本調子ではなかった。でも、回復傾向にあったので、私もほっとした。


 「あなたの帰りを待っています」は、早く私に会いたいという愛のメッセージかとばかり思っていた私(笑)。腰痛で寝返りもできないほど大変だったとは・・・。


 それから、2、3日後、私の検査入院から、約1週間後に、夫の腰痛は回復した。

 私の病について「大丈夫だよ。絶対助かるよ」と言って、心配している様子を見せなかった夫。

 後になって考えると、本当は、心配していて、かなり精神的に負担をかけてもいたのかなと思ったのでした。







222   がん体験記 ②              紹介状を持って                      2015年10月28日(水)

 S医院での「肺癌宣告」から1週間後、血液検査の結果含め、呼吸器内科の医師から、話があった。

 血液検査の結果からは、癌であることの陽性反応は出なかった。


 ほっとしたものの、癌であっても、腫瘍マーカーの結果は出ないことがあるとのこと。インターネットでもそのように出ていたので、結果にほっとはしても、特に嬉しいという気持ちはなかった。


 「ここでは手術できる設備はないので、紹介状を書きますから、Kセンターへ行ってください」と、医師に言われた。


「症例をたくさん扱っているところですから」という医師の説明に、私は、肺癌患者は多いのだし、たくさんの患者を診ているだろうから、「きっと大丈夫だ。そこにしよう」と思った。

 
 都会のもっと大きな医療機関もあるけれど、遠い場所での手術となると、夫が病院へ通ってくることも大変だ。Kセンターなら、車で夫にも来てもらえ、何かと都合がよいと思った。


「そこへ行くのは、8月になってからでも大丈夫ですか」

 と、私は、病との関係で尋ねた。

 
 私の気持ちの中では、(行田市の水城公園における安保法案反対の7・19集会が終わり、7月下旬の金沢市での学習会参加の後に紹介されたKセンターに行くのでも)癌の進行に影響はないのかという意味だった。

 そして、「平和のための行田戦争展」をすませたあたりに、入院して手術ができるだろう。

 (手術のための入院は、2週間ほどと聞いていたので、9月議会も間に合う(9月議会の前に手術が終わっている)だろうと、癌の経験のない私は、その時には、そういう計算をした。検査がたくさんあるとは思わなかった)

 
 短い私の言葉に、医師は私の意味するところを理解した。

 「(8月でも)大丈夫です」と、医師は答えた。

 そんなに短期間のうちに進行するようなものではないのかと、私は、勝手に少し安心もした。


 でも、癌だとしたら手遅れにならないうちにと思い、予約を入れ、その日から5日後の7月22日に、紹介状を持って、Kセンターに行くことにした。

 
 初めて訪れたKセンターでの待合席は、どこもかしこも、すごい人で埋まっていた。患者とその付き添いの人だろう。きっと行田市から来ている人もたくさんいるのではないかと思った。駐車場もいっぱいで空きを探すのにも一苦労した。

 もしかして私を知っている人がいたらいやだなと思った。

 
 もう15年くらい前、急激な腹痛で某医院を訪れたことがあった。激痛に耐えられず、某医院の長いすに身を横たえたことがあった。寒気がして、毛布をかけてもらって、診察の順番を待っていた。

 けれど、死ぬかと思うほどの激痛に襲われていたので、「診察は、まだですか」などと悲痛な訴えをしていた。

 
 後日、知人から、「その場に居合わせた人が、『三宅さんがお腹が痛くて病院にきていた』と言っていた」と聞いた。

 私を知っている人がいて、私の無様な様子を見ていたと知り、「えーっ。見ていた人がいたのー?と驚き、同時に理由もなく笑ってしまった。

 他市の病院であったにもかかわらず、見られていたので、びっくりした。

 


 Kセンターでの初診の人の受付では、症状等について少し聞かれたので「癌の疑いがあるということで、紹介状を持ってきました」というようなことを話した。

 
 大勢の人の間を歩き、初めてのKセンターでの診察室だった。
 
 最初の医療機関で写した画像だと思うが、それを見て、Kセンターでの医師の画像診断でも、白く写る円形は、癌であろうということだった。

 ここでも、血液検査が行われ、血液検査の結果は、すぐには出ないので、来週来る時に、ということになった。

 

 そんなわけで、会議に出席したり、いろいろなことをしながらの日常の中で、検査をする日があって、次の週には、その結果を聞きに行き、行ったその日に、また別の検査をして・・・のように、しばらく続くことになる。


 いつも「癌」のことは、頭のどこかで私の心を曇らせていた。癌でなかったら、私はどんなにか、今幸せなのか。そんな思いを抱えながら、学習会や平和に関する活動等に参加していた。また、議員として、市民からの問いあわせや相談などに対応していた。


 毎日の生活の中で、「癌」と言われてからも、楽しいことはあったし、癌であることを忘れていることもあった。でも、どこか違った。

 「私、笑っていても、心の底からは笑えないの」と私が言うと、夫は「そりゃ、そうだよ」と言った。
 






がん体験記
221 ①  癌宣告      それは突然やってきた・・・!                 2015年10月25日(日)    

 忘れもしない、今年、2015年7月初旬のこと。

 人生でこんなにも驚くことがあるだろうか。その前の週の土曜日に受けたS医院での検診の結果だった。
 腹部のCTをとったのだが、その上の胸のところに白っぽい影がうつっていると示された。

 腹部には異常は見られなかったのだが。


「呼吸器内科に連絡をとりますから、今からすぐに診てもらってください」

早速、別の担当医師の呼吸器内科の診療に回された。
胸のレントゲンやCTをとるように言われた。


 私は、何だかわからないけど、いいことではない、そう思った。


 まだ若いと見える呼吸器内科の医師が言った。

「これ(問題だと言われた影)は、炎症の跡だと思いますが、こちらが問題です」

 さっき言われた影よりも問題であるものが別にあるのだと言う。

医師がパソコンのマウスを動かす。拡大してすうっと、それは大きくなった。白い円形が映し出されていった。

「この形は、がんの典型で、ほぼ癌と思われます」

まさか、自分が癌になるとは思いもしなかった。


 
 急遽、腫瘍マーカーの血液検査が行われることになった。来週の結果に間に合うかと医師が看護師に連絡をとった。

「車、待ってもらっています・・!」

 専門機関の検査に出す車が、発車直前のようだった。

「ちくっとしますよ」と、看護師の声。採血の注射針は、恐くて、いつも見られない。
8本くらい採血した。「ああ、こんなに、血をとってしまって・・・」と、私は心の中でつぶやく。


 いきなり、「私、癌みたい」と言っても、夫は、あまりに急で、戸惑うばかりだと思ったので、病院からは、電話もメールもしなかった。

 病院での用事を済ませて、一刻も早く家へ帰りたかった。

「ああ、何ということだろう」

 私は涙を必死でこらえていた。

レントゲンの写真は、きれいなものだった。

「レントゲンで(見る限りで)は、正常ですか?」と私は尋ねた。「正常です」と医師は答えた。

レントゲン撮影では、癌らしきものは分からなかった。

CTでは、白く丸い形のものが見つかった。

(私ばかりではなく夫も)、たばこも吸わず、親も癌にならず、どうしてだろう?

 何が原因で、私は、肺癌なのだろう?


「(自覚症状も全くなくて)私みたいな人、いますか?」
「いっぱいいます」

「白い丸いものは、どれくらいの大きさですか」
「1センチです」

「初期ですか?」
「初期です」


  7月も、いろいろな行動が予定されていた。安保法案の関係で、賛同人になってもらうための訪問等、反対集会成功への取り組みに私も参加していた。


「炎天下を歩いても大丈夫ですか?」

7.19集会では、炎天下ももちろん歩く。平和行進でも、歩く。

 その後の7月下旬には、自治体問題の学習会で金沢市に宿泊予定で、すでに申し込みもしていた。

 8月初旬の「平和のための行田戦争展」も、実行委員として並行してとり組んでいた。

 
 今まで、何でもなくて、いきなり、病気だと告げられ、その時から何か気をつけなければならないことが出てくるのか、私は見当がつかなかった。

「炎天下」の質問に対して「大丈夫です」と医師は答え、「じゃあ、参加できる」と、私は少しほっとした。


 家に帰って、その日のことは、あまりはっきりとは覚えていない。私は、夫に、多分こう言ったのだろう。

「私、肺癌って言われたの。癌みたい。もしかしたら、死ぬかも知れない」と。


 夫の様子が、私を少し楽にした。夫が私の言葉に慌てふためいて、あるいは深く落ち込む様子を見せたら、私はさらに辛かっただろう。

 
 夫の言葉や様子は、次のようなものであったと思う。

「大丈夫だよ。絶対、助かるよ」と言いながら、その日のその時間も、安保法案反対の集会を成功させるための取り組みに忙しく仕事をしていた。

 
 この後、炎症であって癌ではないとされた「影」の存在は、最後まで、正体が分からず、「白い円形」(癌の疑い濃厚)以上に苦しまされることになる。

 
 





   

220   大きな忘れもの、小さな忘れもの                  2015年10月21日(水)

 7月下旬に、学習会に参加するため、その会場市である金沢市に行きました。自治体学校の全国集会です。

 全国各地からの参加者である、主に、公務員労働者、福祉関係の労働者、そして議員などで、大ホールは一杯になりました。

 分科会は、金沢大学で行われ、私は、「財政」にしようか、「福祉」にしようかと迷いましたが、福祉の分野に参加しました。

 
 3日目の最終日は、やはり大会場で行われました。その最後には、忘れ物の連絡がありました。

眼鏡、、眼鏡ケース 、ボールペン?・・・・とにかくいろいろな忘れ物の連絡が続きました。え、そんな物まで・・・と笑ってしまいました。

 その中で、特に笑ってしまったのが、「黒革の議員手帳」というものでした。黒革の手帳なんてすごいなと思って。

 私たちの市議会でも、議員クラブという議員各自の会費で運営している組織がありますが、そこで毎年のように購入している議員手帳は、革ではないので、そんなすごい議員手帳があるのかなと思ったのでした。

 なくした人が、自分で革のカバーをかけているのかもしれませんが。読み上げられた忘れ物の中で、私にとって、ひときわ、印象深いものでした。それにしても、忘れ物の数がすごかったです。

 

 忘れもので思いだされたのが、ある人の忘れものです。

 夫婦で買い物に行き、その帰り、車を走らせ、しばらくしてから、後部座席に乗っているはずの妻がいないことに気づいたというのです。

 妻が乗ったと思って、出発してしまったようです。妻のほうは、「私が乗らないうちに発車してしまった〔笑)」、と言っていました。

ただ、人間の忘れものは、口もきけるし足もあるので、(困ることは困りますが)、まあ、元のところに戻ることが可能です。


 眼鏡や、黒革の手帳は、持ち主に戻ったのでしょうか?




219       我が家のスイカ                            (2015年8月17日)

 ある日、「スイカができている」と、「農園」(数人が土地を借りて、我が家も夫が参加)でお世話になっている人から知らされた。

 「お知らせ」からは日にちがたっていた。いろいろ他に忙しいこともあって、なかなか畑に行けなかった。農園は、行田市に近いけれど、行田市ではなくて、離れたところにある。夫が知人から薦められてやってみることにした場所だった


「ねえ、スイカできていると言っていたけど行かないの?」と、私は夫に言ってみた。なすやきゅうりなら(なすやきゅうりには失礼ですが・笑)心ひかれないけれど、スイカと聞いていたので、私もその現場に行ってみたくなった。

 夕暮れ時だった。辺り一面畑で、風が吹きさらす、荒野に立つようなその畑に行ってみたけれど、期待のスイカはできていなかった。

 
 畑では、雑草が勢いを増していて、その中にスイカがどこにあるのかさえ、わからなかった。結局スイカはだめになったようで、諦めて帰ってきた。我が家の畑、何を植えたのか知らないのだけれど、何もなかった。

 
 ところが、また、その人から、「スイカができている」という知らせを受けた。私は、また、だめになっているんじゃない?と思い、スイカと聞いても心が躍らなかった。夫が朝早く取りに出かけた。

 その持って帰ってきたスイカの大きなこと。びっくりした。。


 
「ねえ、スイカって、こんなに簡単にできるものなの・・・?」
と、私は本当に驚きだった。

「でも、大きいだけじゃないの?」と私は言った。スイカが大好きな夫は、包丁で切ろうとしていたが、どうせ、中は赤くないだろうと私は思った。

「ほら、見て、赤い。まあまあだよ」すでに、スイカの端切れを口に含んだ夫が言った。「冷蔵庫で冷やせば、もっと甘いかも」と夫は嬉しそう。

 
 翌日、冷蔵庫で冷やして食べた。本当に、まあまあで、甘かった。あのお店で売っているスイカが世話もしないでサボっていた我が家の畑でできるはずがないという思いは、見事に裏切られた。

 そんなわけで、今、我が家ではスイカだけで、お腹がいっぱいです。








218  私の選挙運動   沿道で出会った人  ②  ・・・2票          (2015年 8月14日・ 土 )    

 車の通りも少ないところで、女性に出会ったので、「よろしくお願いします」と声をかけた。「困っていることはありませんか」という私の言葉に、その女性は言った。

 「年をとって一人暮らしなもので、大変です。娘がときおりやってきてくれるので、買い物を頼んでいます」と。ひとり暮らしで、何かあった時に不安なのではと話し、緊急警報装置のことも話した。選挙期間中なので、一つの場所にそれほど留まっているわけにもいかず、住所と電話番号を聞いておいた。


 選挙を終えて電話をした。何度かつながらなかったので、留守電に入れておいた。それから数日たってやっと連絡がついた。

 「票を頼まれるときには、お願いします、と言われるけど、その後、連絡があった人はいなくて、本当に来てくれるとは思わなかった」

 「そうなんですか?最初から来るつもりでいましたよ」と私は言った。

 「そうか、信用されないものなのか・・・」と心の中で苦笑しながら、来てよかったと思った。政治家は信用されないものなのかな・・・?

 いろいろ話を伺いながら、市民サービスでにかかわることで、お手伝いできることがあればと具体的な例をあげて別れた。


 「うちは、2票入れましたよ。あの最後の・・・2票の2票がうちの票だと思いましたよ」と女性が言った。その言葉が、何だかおもしろくて印象深かった。なるほど端数の2票が、自分の身内が入れた2票だと思うと、わかりやすい。

 今回の選挙で、私は1票1票が、とても愛おしく思われた。






217  私の選挙運動   沿道で出会った人   手押し車の女性                (2015年5月30日・土)

 車のアナウンスと演説に加えて、今回も沿道で数々の人と言葉を交わすことができた。沿道に人を発見すると、私は可能な限り、車を降りて声をかけた。

 天候も良かったので、前回の選挙の時より、出会う人も多かったように思う。

「何か、要望ありますか?」、「困っていることはありませんか」と。


 そして、選挙運動なので、「三宅です。投票日にはよろしく」と、もちろん必ず真っ先に言った。1票でも欲しいのだ。そう思いながら、自分には、まだ、その必死さが足りないと心の中で思っていた。


 この選挙運動期間中に、何票の票が得られるだろう。そんなことは誰にもわからない。けれど、やれることをやるしかない。


 畑仕事の人に、少し離れたところから「よろしくー」と呼びかけると、その女性は笑顔で道ばたまでこられた。


 手押し車のかごのふたをあけ、私に見せて言った。それは私の4年間の実績を書いたちらしと、市民団体発行の「議員の通信簿」だった。


 「これを持って歩いて見せて、周りの知り合いに話しているんですよ」と言った。その女性は、もう80才を超えているらしかった。けれど、その年齢にも見えず、とても元気そうな女性だ。

 ちらしは、その家のポストに入ったものだろう。


 私の知らないところで、ちらしを見せて、「こんなにがんばっている人がいる」と、私の宣伝をしてくれているのだった。知らないところで、知らない人が、頼まれもしないのに・・・。

 私は、そのことにひどく驚いた。


「ええーっ!、ありがとうございます・・・!」思わず、私は声をあげた。自分の応援をしてくれるから嬉しい、というのも、何だか勝手な思いだなと思いながら、とても嬉しかった。

 
 偶然にも、その女性は、話をして名前をきいたりしているうちに、その日一緒に選挙運動を共にしていた仲間の父親と同郷の知り合いでもあることがわかった。


 私が出会ったこともない人が、知らないところで、頼まれもしないのに、自ら選挙運動までしてくれている人がいた。その行為によって、その人は、直接的な利益を得ることもないのに。世の中には、そんな人もいるのだ。私にとって、それはとても感動的な出会いだった。


 もし、その日、その地域を回らなかったら、その日、その女性がその時間に外に出ていなかったら、そんな人が存在する事実さえ、私は自分の目で知ることができなかったかも知れない。「偶然」ということにも、ありがとうという気持ちだった。







216                        最後の1票                       (2015年5月3日)

 数年前、父は、「初めて棄権した」と言ったことがあった。入れる人がいない、と言った。そんな選挙は、珍しいかもしれないが。私からみても、ないわけではない。

 私自身は、その時、考え抜いた結果、どちらかを選んで投票した。今思うと、棄権もあり、という父の選択は、(棄権という行為は)残念ながら、あっても仕方ない道だったと思う。


 選挙の投票率は、とても低い。なぜだろう? その人にとって、選ぶ人がいない選挙は、ときたまあっても、圧倒的に多くの選挙では、選ぶ人があるのではないか。

 市議選の投票率も、地域によって多少の差があるものの、約半分程度の人は棄権をしている。選挙活動中に出会って、投票の依頼をした人も、たとえ、私に投票ではなくても、どれくらいの人が、投票所に出向いただろう。


 改めて、投票しない人口を思った。父が亡くなって数年たつ。父最後の1票は、棄権ということになった。






215  ゆずり葉に寄せて            兒玉政七さんのこと                (2015年 3月29日・日)

 1月の初旬、お隣の兒玉政七さんが亡くなったことを聞いて、本当に驚いた。足が少し弱くなっておられたようですが、入院していることも聞かなかったし、また、特に具合が悪いということも耳にしていなかった。

 だから、それは、とても急なことだった。

 
 「ゆずり葉の葉をいただけませんか」と、兒玉さんに初めて言われたのは、もう、遙か遙か前のことだ。ゆずり葉が、縁起物としてお正月に用いられることを、私は知らなかった。



 それから、お正月の前になると、ゆずり葉の葉をとっていかれた。わざわざ声をかけていただくのも、かえって申し訳ないような気がして、「どうぞ勝手にとってください」、とこちらも言っていたが、丁寧に声をかけていただいた。

 
 兒玉さんは、笑顔の方だった。私が車を降りた玄関前で、道をゆく兒玉さんと顔を合わせた時など、「今、議会では何が話題になっていますか?」などと、いつも笑顔で声をかけてくださった。込み入った話をするわけでもなかったが、何だか、ほっとする瞬間だった。

 また、何かの用事で訪れた時など、いつもより長く話すこともあった。そんな時には、非常に熱っぽく、まちのことや地域のことなどを語られた。

 

 娘は、娘で、兒玉さんに声をかけられた思い出があった。兒玉さんが亡くなられた後、私の知らないところで、兒玉さんとの交流があったことを知った。
 
 娘が帰ってきて、一緒に兒玉さんのお宅に伺ったとき、娘は、いまにも涙をこぼしそうな顔で言った。


「親が共働きで家にいなかったので、兒玉さんに声をかけてもらって、ずいぶん助けられました」と娘は言った。兒玉さんは、その時分、犬の散歩を日課にしておられた。



 我が家でも小学生だった娘が犬をほしがり、飼うことになり、娘は犬の散歩をよくしていた。それで、犬の散歩でも兒玉さんとよく一緒になったのかも知れない。


 声をかけてもらえたということが、こんなにも人の心にあたたかく残るものだということを、私は改めて思った。そして、兒玉さんの死が悲しかった。

 
 兒玉さんと娘のことでは、犬を飼い始めた頃、兒玉さんが娘に言った言葉を記憶している。

 娘は、2ヶ月ほどの犬が我が家にやってくると、犬がかわいくて暇さえあれば、散歩させていた。まだ、本当にちっちゃな子犬だった。

 「そんなに散歩させていると、過労死するよ」と、兒玉さんは、笑いながら娘に言った。

 
 私もその言葉を聞いて、そうか、そんなこともあるのかと、初めて思った。娘も、びっくりして、それ以来、娘は適度な散歩に切り替えた。

 

 家の界隈では、娘が一番小さい子どもだった。犬の散歩で一緒になり、私も知らない交流があったのか、兒玉さんは、「老後は○ちゃんに見てもらう」と冗談に言っていたことも思い出された。

 
 あたたかくやさしい人柄だったが、気骨のある社会派の人だった。物事を筋道だてて考える人で、正義感の強いまっすぐな人だった。理屈に合わないことに、憤りを感じる人だった。


 地域のことにも、公民館建設に関する特別委員会の長をつとめるなど、その実現に大きな役割を果たされた。



 葬儀の日、兒玉さんの奥様からのメッセージが、係の人から読み上げられた。家庭での兒玉さんの姿も語られ、感動を覚えた。博識の人でもあり、お孫さんからは「わからないことは、おじいちゃんに聞けば、何でもわかる」と言われていたそうだ。すごいなと思った。

 
 いつも本を読んでおられたという兒玉さんは、囲碁も得意とされ、自宅でも、お仲間と囲碁をさしていた。車で兒玉さんの家の前を通るとき、今日も囲碁をさしておられるのかなと思ったものだ。



 「議会では、今、何が話題ですか?」

 兒玉さんの笑顔の姿が思い出される。


 我が家の玄関前の「ゆずり葉」は、春の訪れとともに、その新しい葉を伸ばす季節となった。

 

 ゆずり葉は、河合酔茗の「ゆずり葉」という詩が好きで私が植えたものだった。


 子どもたちよ /これはゆずり葉の木です / このゆずり葉は/ 新しい葉ができると / 入れかわって古い葉がおちてしまうのです /  こんなに大きい葉でも/新しい葉ができるとむぞうさにおちる/ 新しい葉に命をゆずって (中略) 

  (~略) 世のおとうさん、おかあさんは / 何一つもってゆかない/みんなお前たちにゆずっていくために / 命あるものよいもの美しいものを / 一生懸命につくっています                         (河合酔茗 詩 ゆずり葉より)

 

 兒玉さんは、人生の中で、社会の中で、人への愛とともに、たくさんのものを次の世代へとゆずり渡したことでしょう。

 新しい葉が立派に成長されても、まだまだ、命をゆずって欲しくなかった人でした。








214                「ライオンになった私」                1月31日(日)       

 新しい年に変わって数日たったばかりのことだった。
 
 真夜中に、「パン、パン、パンッ」と顔をいきなりたたかれた。かなり力が入っていて、驚いて目がさめた。何と、私の顔をたたいたのは、夫だった。

 「どうしたの!いたーい」と、私は、当然のことながら声をあげた。多分、生まれて初めてだろう。顔を3回、平手うちだ。

 「あっ、ごめん。夢みた!ごめんごめん」

 夫の説明では、自分はなぜか、動物になって森の中をぴょんぴょん跳ねていた、という。
「ウサギになったの?」ときくと、「違う。うさぎじゃない」という。

「じゃ、犬?」ときくと、「犬じゃない」

「キツネ?」「キツネじゃない」「リス?」「リスじゃない」

何の動物かはわからないけれど、夫は動物になって、ぴょんぴょん跳ねて植物が生い茂る中を気持ちよく直進していたのだそうだ。

 気がつくと、進行方向の端にライオンがいたので、あわてて「ぱんぱんぱーん!」と力いっぱいたたいて、はねのけて、死にものぐるいで逃げたのだという。


 実際には逃げられたのか、わからないようだった。ライオンに、「ぴょんぴょん」跳ねているような動物だと、かなうはずはないと思うけれど。たたいたところで目が覚めたようだ。

 夢の中で、夫は「ぴょんぴょん」になり、夢の中で、私は目の前(端?)にいたライオンになってしまった?


 森の中で出会ったのがライオンでも虎でもいいけれど、夢の中でたたいて欲しかった。たたくのだけは夢でなく現実の世界でたたくというのはやめて欲しいものだ。

 でも、「ぴょんぴょん」は、何だったのだろう。いくら考えても、ウサギでもない、犬でもない、キツネでもない、リスでもない、わからない動物なのだそうだ。

「ああ、恐かったー!」と夫は言った。たたかれた私のほうが恐かった。これが夫の今年の初夢?
 新年早々、顔たたかれて、なんか、あんまりいいことの期待できない年になりそう・・・。

 私は「今度は食べちゃうぞー」と言った。

 







213                お正月                  2015年1月10日

 子どもの頃のお正月は、「お正月には凧あげて追い羽根ついて遊びましょ。はーやく来い来いお正月」の歌の通りの風景だった。私は近所の子と羽子板で羽根をつき、兄たちはたこ揚げやこままわしをして遊んだ。


 母は、暮れの忙しさから解放されたが、「お正月はいや」と言っていた。お正月が嫌いというより、お正月を迎える準備に悲鳴をあげていた。大晦日の頃にもなると、おせち料理をつくるのに、大忙しだった。大きなお鍋にきんぴらごぼうを作っていて、その様子は今でも思い浮かぶ。

 昆布巻きは、母と一緒に毎年つくった。私が子どもの頃は、まだまだ台所仕事に時間がかかる時代だった。
栗金とんや田づくり(今や、田づくりは、材料も売っていなくて、入手もけっこう大変)なども今と違って買うことはなくて、すべて手づくりだった。それも、けっこう大量につくっていた。

 父は、おせち料理の手伝いを全くしなかった。男性が買い物をしたり料理をしたりすることは、まれな時代だった。
 
 昆布の中に具をいれてかんぴょうで巻くなど、子どもが多少は手伝ったけれど、ほとんど母一人だったから、大変だった。「あっ、だめ、かんぴょうが切れちゃった!」などと言って、母と一緒に昆布巻きをつくることは、結構楽しくて、良い思い出となっている。

  電化もされていない時代、そして、お料理をすることにそれほど喜びを感じていなかった思われる母にしては、よくがんばっていたのだろう。お正月が近づく頃になると、母の「お正月はいや」という言葉を毎年のように聞いたものだった。








212             花が咲いた・・・?                       2014年12月14日・日

 10月のある日、足利市の両崖山に夫と登ることにした。車を駐車場において、いざ、出発と言うとき、先に車から出た夫が、女性と何か話している。

 地面を見ながら、私たちの車の近くにやってきた、もう一人の女性に、「どうしたのですか?」と尋ねると、「鍵が見つからないんです」と、女性は言った。

 山に登りはじめたが、途中で鍵をなくしたことに気づいて、探しながら、駐車場まで下りて来たのかも知れなかった。


「合い鍵は、持ってきてないんですか?」と、よくも訊いたものだ。私たちも持ってきていないのに。

 「持ってきていないんです」


 車の持ち主の女性が、どちらであるかは、一目でわかった。ふたりとも同じように困ってはいたが、鍵をなくした車の持ち主の表情には困りきった様子が見てとれた。それはそうだろう。誰かに鍵を持ってきてもらうにしては、恐らくずいぶんと遠い距離であるだろう。家の人がいなかったら、どうするのだろう・・・。


 車の持ち主の女性は、リュックをおろし、「何回も見たのですが・・・」といいながら、リュックの中を探した。

 
 ふたりの女性は、人生にゆとりのできた、気の合う山好きの友だちのように見えた。鍵をなくした女性の赤と白の入ったチェックのシャツが印象的だった。


「私達も登りながら、落ちていないか見ながら行きますよ」

 夫が言って、私達も山に登り始めることにした。

「家に誰か家族がいるのかしらねえ・・・帰るに帰れないわね」「そうだねえ・・・」

 鍵が落ちていないか私たちは辺りを見回しながら、登り始めた。

 

 「せっかくきたのですから、楽しんできてください」

 周りの地面を見回しながら登る私達に、背後から声がした。それは決して明るい声ではなかった。私は、女性のその言葉に人柄の良さを感じた。


 「ないわね・・・」 「ないね」

 地面や、周りの木々の間にも、鍵らしいものを見つけることができなかった。途中で戻ってきたと思われるふたりの女性も、離れて再び登ってきていたが、鍵を探しながらの歩みは遅かった。

「どうするのかしらねえ・・・」「これから、僕たちも外出の時には、必ず、もう一つの鍵を持ってこなくてはねえ」「そうねえ」


 私と夫は、そんな類の会話を繰り返しながら登った。

「あっ、あそこで、ひとやすみしない?」
ちょっと疲れた私が言った。

「いいよ」と夫が言った。

 あずまやが見えた。ふたりの女性たちの姿は、まだやって来そうもない。時間をかけ、念入りに探しながら、登ってきているのだろう。もう一度、出発点に戻り、鍵を探しながら。頭の中は、「鍵、鍵・・・」だろう。


 東屋には、木製に見える頑丈な丸いテーブルが並び、何と、その上には、鍵があった。あの女性の言った黒いじゃばらのストラップがついていた。それは、よく目立つ飾りだった。少し遠くからでも、その存在を十分に示していた。

「あっ、あれじゃない・・・・?」

「ほんとだ・・・!」と、 夫が、急いで、来た道を下りて行った。鍵を持って。

「鍵、ありましたよー!」という、もともと声の大きい夫の、さらに大きな声が少し下から聞こえてきた。

 しばらくして、夫が戻り、すぐその後から、女性ふたりが東屋にやってきた。

 東屋で夫を待っていた私に、ふたりは、「ありがとうございました」と言った。届けた夫だけではなく、私にも、お礼を言うために、わざわざやってきたらしい。

私は、「よかったですねえ・・・」と、ありきたりの言葉しか返せなかったけれど、本当によかった。


「そこも見たのですけど、なかったんです」と、登山の途中、二人で腰掛けて休んだという東屋のテーブルに目をやり、女性が言った。女性たちが見た時には、きっと、そこに鍵はなかったのだろう。

 
 その後、登山者の誰かが、どこかで拾って、目立つ場所に置いたのだろう。なくした人が、見つけやすい場所に。

 私達は、ふたりの女性と別れた。女性たちは、そのまま下りて帰ったのか、別の山道を登って行ったのか、わからない。


 ともかく、めでたし、めでたし。

「花が咲いたね」と、夫が言った。それは、いいことをすると、一つ花がつ咲く、という斉藤隆介の絵本の「花さき山」の「花」のことだ。

 私達が見つけなくても、その後で再び、鍵探しのために登ってくるであろう二人は、東屋のテーブルの上の鍵を見つけただろう。たまたま、私たちが先に見つけたというだけで、特に「いいこと」をしたわけでもない。

 
 だから、もちろん冗談でいった言葉だ。


 それでも、爽やかな気持ちになって、私たちは、岩の多い崖のような「岩崖山」に登って行った。









211               衝撃的なできごと、と言ったら・・・       2014年11月17日(火)・記


 これまでの人生において衝撃的なことは何かと聞かれたら、いろいろあったかも知れないけれど、一番強烈だったのは、、国民健康保険の被保険者になったときのことである。

  教員の頃は、共済保険組合の保険証だった。それから、国民健康保険に変わり、保険証が届いた。今は小さなカードだが、今より大きくて、色つきの紙だった。

 医療機関にかかると、そこにかかったことがわかる記載がなされた。いい感じではない保険証だった。

 
 その保険証の持ち主の名前が何と、夫の名前だったのだ。


 夫は、国民健康保険の加入者ではないので、どうして、私の名前ではなくて、夫の名前なのだろうと、最初、理解ができなかった。何かの間違いではないかと思った。


 それで、国民健康保険の加入者ではないかと思われる人に電話をした。
「保険証は、誰の名前になっているのですか?」と。


 その人も、「夫の名前」だと言った。そのあとになり、保険証は、自分だけが加入者であっても、「世帯主」の名前なのだとわかった。


 世帯単位なのだと知った。けれど、夫は、加入者ではないので、保険証は私だけの保険証なのだ。


 (もし、夫も加入者であるなら、その家の代表者として保険証が夫の名前であることに、理解できないことはない。何人加入者がいても、世帯1枚の保険証は、きわめて使いにくいとしても)


 その保険証が、(加入していない夫の名前で)加入者である私の名前ではないことが、やっぱり納得できなかった。三つ折りになっていたような?保険証を開くと、中に私の名前ひとり記されていた。



 今、もうしばらく前から保険証も改められて、カードになった。そのカードは、私という個人名だけが記されている。(今は、世帯すべての加入者個人に、保険証が発行され、当然、あるべき姿に変わっている)



  その頃、私しか、国民健康保険に入っていないのに、私の名前ではない保険証を使うとき、私は非常に気分が悪かった。私って何なの?という思いだった。

 



  数ヶ月前に、夫が「市から何か届いて、僕宛だったから開けたら、あなたの保険証だった」と言われた。(・・・と思う。保険証と言われたような・・・?)
 
 
 自分だけの加入保険証が、世帯主という理由で、夫に届くというのも、なんか変。市税等の市役所関係の封筒は、私信ではないので、私も夫名のものを特に意識せずに開封する。何と情けなや、保険証に関しては、(書留郵便で届くが)誰宛に届いているのか、自信がない。


 
 調べたところによると、保険証郵送は、世帯主あてとある。世帯主が国保加入者でなくて、妻だけが加入者であっても、世帯主〔夫)に送られてくることが、信じられない。保険証に夫の名前がなくなり、私個人のカードに変わっても、だ。

 
 男女共同参画社会を唱えるこの国は、どうなっているのでしょう?

 
 

 とにかく、今のところ、記憶に残る「衝撃」は、過去の「保険証・氏名事件」(?)で、たかが・・・と思われるかも知れませんが、私にとっては、一大事件であったことに違いない。


 





210               さよなら 柿の木           2014年 11月9日(日)         

 
 我が家の柿の木、とうとう、今年、切りました。毎年のように、アメリカシロヒトリに悩まされましたが、世話が行き届かず、我が家の手に負えるものではありませんでした。虫がついたら、こまめにとる作業をすれば、何とかできたのかも知れませんが、それも難しいものでした。


 父が孫(私の娘)の誕生を記念して、市役所通りで、毎年4月に開かれる植木市で買ってきたものです。梅と柿の2本でした。梅は病気にやられて、かなり前に切ってしまいました。柿は、じつは渋柿だったのですが、実が大きく、へたのところに焼酎をつけてビニール袋に入れておくと、とても甘い柿になりました。


 以来、たくさん実のなる年とならない年とが、だいたい交互にやってきましたが、実のなる年は、私達の味覚をけっこう楽しませてくれました。

「切ってしまおうか」 「もう少しがんばってみようか」

 ここ数年、夫と私は、そんな会話をしてきましたが、虫とのたたかいはけっこう大変でした。消毒もするのですが我が家の柿の木は、それだけでは難しいものでした。


 すぐに柿の木を切ってしまえなかったのは、やっぱり、父が買ってきた柿の木だったからです。

 寂しい気持ちもありましたが、何十年来のお付き合いを今年でおしまいにしました。そのかわり、柿の木がなくなり、陽があたるようになった場所に、来年からは、できるだけ草花を植えてにぎやかにしたいと思います。


 ちょっと寂しくなった庭を見ながら、もしかしたら、肥料など含め世話が足りなかったせいで、虫がすごかったのかも知れないとも思い、これもちょっぴり反省でした。実も葉もない柿の木を見ながら、父の姿を思いだしました。
 孫が生まれ、2本の木を持ってきてくれた頃の父は、63才くらいだったなと思ったのでした。





209             退職 おつかれさま                  2014年10月22日(水)
 

 今年の3月末で、夫が退職した。どんな生活になるのかと思った。夫は、最初のうち慌ただし過ぎる仕事がなくなったという、新しい環境に慣れなかったかも知れない。夫が、あまりに身体を動かして家の中で働くので、私は、逆に心配した。

 
 
 夫は、子どもたちの健やかな成長を育むという仕事のために、持てる力を精一杯発揮してきたと思う。そして、働きやすい環境づくりのためにも、がんばってきた。朝から夜遅くまで、ほとんど、ゆるみのない毎日だった。
 
 
 仕事を終えても、教材の研究や、教育の前進のため、労働者の権利を守る活動のために時間をつかって生きてきた、と言ってもよい。

 やっと自由な自分の時間ができましたね。心からの「お疲れさま」を言いましょう。
 


 退職して6ヶ月。私も、夫の退職後の生活にも慣れた。今、家にいるときは、お料理を作ってくれる。先日は、「男の料理教室」とやらにも出かけて行った。

 
 そして帰宅すると、習ったお料理を作ってくれる。でも、どうして「男の・・・」とつくのだろうと言っていた。男女分けなくてもいいのに、とも言っていた。
 (多分、世の中、まだまだ、「男の・・・」とつけないと、男性が来ないということなのでしょうね)

 
 あんなに、めちゃくちゃ?散らかしていたのに、今は、すごくよく片づけてくれる。時には適当でいいのにと思うことも。

 家事と学習と、そして、暮らしやすい社会のために時間をつかい、今は以前よりも、ゆったりとした時の流れの中で,やっぱり忙しく(?)、自分の人生を生きている。
 

 
 夫は退職してゆとりができたが、おかげさまで、私もゆとりができた。だから、私は、新しく生まれた時間を「別枠」にして有効につかわなければいけないと思う。

 
 日本の労働者は、忙しすぎる。人間らしい生活をしなければ、心もひからびてしまうのでは?
 長い間、お疲れさま。ありがとう。これからの人生を、また、ふたりでがんばっていきましょう。


※夫が退職後、すぐに書こうと思っていましたが、今になりました(笑)。





208              三宅農園のお引っ越し            2014年9月11日(木)

 今年の夏は、夫が退職したので、毎日、きゅうりが2,3本となすが3個くらいは獲れます。2人暮らしには、十分です。

 
 ところで、今までの「三宅農園」は、引っ越しました。三宅農園というのは、我が家で勝手に言っているだけで、そこを利用している人は、三宅農園とは、誰も言っていません。

 8軒くらいで、一区画の農地を分割して作物を作っていて、三宅農園は、そのうちの三宅分(8分の1)です。

新しい「三宅農園」は、元の場所よりは、少しだけ遠くなりましたが、家からきわめて近い場所にあります。

 大きくなったきゅうりは肉厚で、先日、油炒めをしてわかめと卵をからめて、とてもおいしいお料理となりました(夫がつくってくれました)。

 新鮮な野菜が食べられて、いいですね。畑仕事は、「雨がふらないかな」とか、天候のことも気になります。

 人参も植えているので、先日は、人参の葉が、サラダに出ました。これからは、何が食べられるのか、ちょっといい暮らしをしています。

 ミニトマトは、あまりおいしくできていません。先日、夫が帰宅したとき、「アイコさん、もらってきた」というので、何かなと思ったら細長い形の、ミニトマトのアイコさんでした。実家でも兄夫婦が家庭菜園をしていて、そこで獲れたミニトマトです。

 口に含むと、甘さがじわーっと広がりました。まるで、果物のような甘さです。アイコさんは、いいなと思いました。

 引っ越しした、今後の三宅農園に対する期待大です。元の「農園」には、売り地の札がありました。






207              悲しまないでね                 2014年8月18日・月 記

 全く別の物を探していたら、引き出しの中から、封筒が出てきた。それは、母が、自分の死後のことを書いたものだった。

 母が、まだ、とても元気な頃のことだった。「私が死んだら、家族だけで密葬にして欲しい」と、母が笑顔で言ったことがあった。それを聞いた私は、「そうして欲しいなら、ちゃんと書きのこしておいてね」と言った。

 
 すると、母は、すぐに、便せん1枚に簡単に記した。いちおう私が受け取って、事務用の封筒に入れ、自分の家の引き出しにしまった。私は大げさに考えずに、子どものうちの誰かが持っていればいいというくらいに思ったので、別に兄たちに告げることもなく、引き出しにしまった。

 
 母には悪いけれど、何といい加減な娘か、洋間の引き出しにしまったことさえ、忘れていた。ただ、心の中に、そのときの母の言葉は記憶されている。


 それから、母はこんなことも言っていた。「私が死んでも、盾子さん、悲しまないでね」と。
 父は、母にこう言っていたそうだ。親族の葬儀のとき、その人の娘さんが、その頃はまだ独りであったので、「盾子が、結婚していて、よかった」と。

 ふたりとも、私には、ひとりで、親の死に耐えられるほどの強さがないと思ったのかもしれない。

 実際、父の死は、こたえた。亡くなってから、12月で、2年になるけれど、今でも、時折、父の姿が見えるような気がする。

 母は、認知症になって久しく、普通には会話できなくなっている。しかし、これまでの、母のたくさんの言葉が私の心の中に入っている。私は、時折、母の言った言葉を、頭の引き出しから出して、いろいろなことを思う。

 

 いつかはなくなる人の命。私も、娘に、「私が死んでも悲しまないでね」と、伝えたい。
「悲しんでくれても、少しも嬉しくなんてないのよ。早く忘れるのよ」と。






208              ちょっと 朝のお散歩                         2014年8月3日・日

 娘が「子どもに発疹のようなものができた」ということで、夫が東京に行った日、働いている娘に代わり、夫は保育園に通う1歳の孫を病院に連れて行った。別に問題はなかったようだった。

 それはそれでよいのだが、夫は、娘から預かった保険証をそのまま家に持ち帰ってきてしまった。
「お父さん、保険証持ち帰っていないかしら?」と、夜、娘からメールが入っていたので、「明日にでも、郵送します」と、私は返信した。


 翌朝、起きたら、夫がいない。多分、散歩か、畑だろうと思った。何しろ早起きで、働き者の人なので。

 そのうち、「ただいまー」と夫が帰ってきた。
「どこに行っていたの?」と聞くと、

「保険証を置いてきた」と夫がこたえたので、びっくりした。朝一番の電車にでも乗って行ったのかしら?
何しろ、娘夫婦の住むところは、埼玉に近いとは行っても、東京なのだ。

「郵送で1日で着くから、郵送でよかったんじゃない?」と言う私に、夫は、
「朝のお散歩」と答えた。

「4時に起きたから、時間がいっぱいあった」と、笑った。


 夫にしたら、もしかして、また保険証を使うような事態になったら、困ると思い、その気持ちから早いほうがよいと届けに行ったのだろう。

 それにしても、「忘れ物」を東京まで届けに行ったとは、驚いた。


 私が実家にいたころ、「ちょっと出かけて来る」と言ってすぐ戻ってくるはずの家族が、なかなか戻って来ないと、
「どこまで行ったのかしら。東京まで行ったんじゃない?」なんて会話になり、「東京」は、遠い距離を表す言葉として使われたものだ。

 
 
 「あー、いい運動になった!」と夫は、びっくり顔の私に、ほっとしたように言った。

 娘たちの住む東京行きは、「お散歩」だったのだ。







207              おばけきゅうり                        2014年7月20日・日

 
 ここ数年前から、近所で1区画の土地を借り、それを数軒で分けて作物を作っている。夫婦で畑仕事をしている家もある。妻だけが、夫だけが(我が家)やっている家もある。

 
 先日、夫がカナダに短期留学で、2週間留守にすることになった。
 「畑のきゅうりとオクラができるから、毎日とってね」と言い残して、夫は日本を発った。


  私は畑のことより、正直、泥棒が恐かった。かつて、洗濯物泥棒が未遂に終わり、逃げて行ったが、戸締まりをちゃんとしないと・・・などと思った。いやあ、泥棒でなくても、誰か来るのではないか、物音がすると気持ちが悪かった。
最初のうちは、緊張していた。だが、慣れるということは不思議なもので、2階は、網戸で寝てしまった。


 
 畑のことを忘れてはいなかった。「毎日獲ってね」という夫の言葉は、ふだん畑のことに関心を持たない私にとって「絶対的な命令」のように響いていた。多少の負い目があった。


 そうは言っても、1日目は忘れて行かなかった。、2日目には、畑に行ってみた。そのときは暗くてわからなかった。つぎに行った時には、きゅうりは見あたらなかった。「ないじゃない」と、ないことに安心した。見つからなかったのではなくて、なかったのだ。実がなっているのに、見つからなかったのでは役目を果たさなかったことになる。けれど、最初からなければ、責任はない。

 
 
 でも、かすかな疑問はぬぐえなかった。夫は畑仕事をやっている。その人が「毎日、きゅうりをとってね」と言うのだから、やっぱり、きゅうりは、私の知らないどこかで実をつけているのではないか。
 悲しいかな、自分の目より、夫の経験を信頼する自分がいた。


  あるとき、昼間は、忘れて夜は会議を終えて帰ったら、真っ暗。懐中電灯を持って、夜の畑に行った。やっぱり、きゅうりはなかった。オクラがないのは一目瞭然だった。きゅうりは、地面を這うきゅうりを植えたと聞いていたので、青々とした地面を見たけれど、見つからなかった。

 
 雨が降り続き、畑には行かない日が続いた。雨だし、きゅうりはないのだし、私は安心して、雨の日を過ごした。
カナダと日本は16時間の時差があり、いつも1日のうちのお互いのちょうどいい時間に電話があった。メールは何度もやりとりをした。

 
 けれど、私は、きゅうりのことは、言わなかったし、メールにも「きゅうりがない」とは打たなかった。
はじめは打とうと思い、忘れたのだけれど、後では打たないほうがいいと思った。

 「絶対あるよ」と言われたら、「ない」のに、探し回ることがいやだったこともある。


 「ないのよ」「あるよ」・・・そんなやりとりで、いやな思いをするより、たかがきゅうりだ。話題にしないほうが、お互いの幸せのためになる。

 
 夫が帰る1日前、これが最後と思い、きゅうりを見つけに行った。きゅうりは、なかった。幸いにも、なすが二つとオクラ一つ、ミニトマト数個の収穫があり、ビニール袋に入れて冷蔵庫に保存した。

 

 日曜日、駅に夫を迎えに行った。夫は、メールにあったように、少し、スリムになっていた。私は、運転しながら、きゅうりのことを思ったが、口にしなかった。まだまだ、「きゅうり」は早い。話題は、当然カナダでの生活のことになった。
「カナダでは、野菜が(食卓に)ほとんど出なかった」と夫は言った。

「食べ物ね・・・あなた、野菜がないとだめですものね」と言うのが精一杯だった。
 夫からは、カナダでのスーパーで買って、ひとり食べたサラダの話は出ても、「畑のきゅうり」の話がでなくて、よかった。

 
 運転しながら、「(きゅうりは)ないのよ」「あるはずだよ」などということにならないほうがいい。たかが、きゅうりだ。せっかく帰ってきたのに、きゅうりごときで、気まずい思いはごめんだ。きゅうりに、私たちの幸せを壊す価値はない。

 
 車を降りて、家に入る玄関のドアのところに来たとき、私は言った。


「きゅうりは実がなっていなかったわよ。花が咲いていたけど」と言った。
「そんなことないよ」と、夫は言った。「だけど見つからなかったわ」


「そんなことだと思ったよ」 と夫は笑って言った。
(あてにされていなかったのだ)と、私は、がっかりするのではなく、ほっとした。
玄関にスーツケースなどの荷物を入れると、夫は、外に出て行った。


 そして、その腕には、太くて長いきゅうりが、3本ほどあった。夫が「ほら、あったよ」と。
「えー、どこにあったの?」と私は驚いた。何とも不思議だった。

 「ねえ、でも食べられるんじゃない?」畑の作物を食べられなくしてしまったら・・・・という思いで言った。これは、食べなくてはいけない。

 きゅうりのをものさしで測ってみると、長さは31センチほどあった。おばけきゅうりだ。見つからなかったのは、草むらのせいかもしれない。

 
 夫が、市販のぬか床につけた。肉厚の「うり」が、おいしい。


「おばけきゅうり」は、とてもおいしかった。






206             「ふくろ」に入れて歩いてよ               2014年7月15日・火

 メーデーのデモ行進だったと思う。行田地区のメーデーは、参加者の関係で、5月1日周辺の休日に合わせて行うことが常だった。
 
 私は教員時代から、毎年、夫とともに参加してきた。そんな時、幼い娘も一緒だった。(欧米諸国では、多くの国でメーデーの5月1日は祝日とされているという)

 
 デモのコースは、昔から長いコースではなかった。今と同じで、水城公園から出発し、新町通りから、125号線に出て、市役所交差点を左折し、水城公園に戻るコースだ。

 
 けれど、幼い子どもにとっては、(親と一緒にお祭り気分で来たものの)「歩きたくなーい」と思っても、不思議ではない。夫が手を引き、時折、握った片手で、娘をひょいと持ち上げ、宙に浮かす。「らくちーん」と声を発し、娘は嬉しそう。宙に浮いた間のわずかな時間、娘は、自分の足で歩かなくていい。

 「○○ちゃん、いいなあ・・・」と共に隊列を組んで歩く、おとなから娘に声がかかる。

 
 
 満足した娘は、地面におろされると、しばらく、また、手を引かれ、一緒に歩き出す。
 時折、娘は、「やってやって・・・!」と夫におねだりしながら、デモのコースを歩く。

 娘がまだ保育園の頃だったと思う。短かい綿のワンピースか何か着ていた記憶がある。
 そのうち、歩くのがいやになった娘が言った。
 
 「ねえねえ、あたしを袋に入れて、(持って)歩いてよ」

 どんな袋なのだろう。外が見える袋なのだろうか。よく晴れた日のことだった。
 今思い出し、笑ってしまう遠い昔の出来事。

                       
                 (2014年7月15日・「国民平和大行進」に参加した日に記す)





205                ただ 思うこと                2014年7月6日・日

 父が入院していた病院付近を車で走る時、「入院の父」を思い出す。

 
 その父が亡くなってから、夫と一緒に車を走らせ、たまたま病院の近くを通ったとき、夫が言った。「お父さんには悪いけど、あなたも大変だったね」と言った。「お父さんには悪いけど、あなたも通わなくなってらくになったじゃない」

 夫は、自分の車を買うとき、「お父さんを乗せて出かけられるから車椅子対応の車を買おうか」と言っていた。
「あなたも、らくになったじゃない」は、私への慰めのことばだった。

 
 そう言われてみれば、大変であったかも知れない。でも、頭のしっかりしていた父だからこそ、私は、1日ベッドの上で過ごしている父に顔を見せ、声をかけたかった。単調な入院生活で、認知症になってしまわないように、という思いもあり、病院に通った。議会の一般質問の前日の1日だけを除き、長い時間ではなかったが、顔を出した。
1日1日、「大丈夫、大丈夫」と、心の中で、父のことを確認していた。


 「がんばって」と、いつも思っていた。「1日でも長く生きて」と願った。別れる時には、「また、明日・・・!」と言って手を握って帰った。強く握りかえされた時、「まだ、元気」と安心して、帰って行くことができた。


 いや、実際に大変だったのは、私よりも義姉のほうが大変であっただろう。義父にかかわることを、いやな顔一つせずに引き受けていた。私は、父を見舞うだけであったけれど、義姉は、それだけではなく、入院前のこと、入院生活に必要なことの、すべてのことをやっていた。父も義姉に対して感謝の言葉を口にしていた。

 
 父はおしゃべりな人ではなかったので、入院生活についても、多くを語ることはなかった。だから、父がどんな思いで、入院生活を送っていたのか、私は、わからなかった。

 人は誰でも年をとる。年をとることで、父が社会から軽く扱われることが、私は少し辛くもあった。父が、言葉遣いなどで、まるで子ども扱いされることに、違和感を覚えた。





204              ふつうのおばあちゃん             2014年5月26日
 
 孫に「普通のおばあちゃんが、よかった」と言われたのは、私の母です。私の姪(母の孫)が、子どもの頃、母のことをそう言ったということを私は、つい最近まで知りませんでした。


 母も、そんなことを私に語ったことはなかったし、母自身、そう言われたことに気づいていなかったかも知れません。
いや、知っていたとしても、母は何とも思わなかったかも知れません。
 


 普通のおばあちゃんとは、どんなおばあちゃんなのか、イメージは何となく湧くのですが、よくはわかりません。言われてみると、確かに、私の母は、普通のおばあちゃんではなかったみたいな・・・?

 
 母は、孫たちを かわいがっていたとは思いますが、そう言えば、満面の笑みで、極端な言い方をすれば、すべてを包み込み、何をやっても容認する・・・と言ったイメージはなかったような気がします。


 どちらかと言えば、「こうしなければいけませんよ」とか、「きちんとしなさい」とか・・・そんなふうに接していたのかも知れません。


 それで、私が、やはり母の孫である私の娘に対する母の姿を思い浮かべてみると、べったりとした愛ではなかったと思います。くっついていない、距離のある愛というのでしょうか。母に言わせれば、きっとこういうかも知れません。

 
 「孫も、ひとりの人格を持った人間なので、そういうふうに、孫にも対応していた」と。そんな恰好のいいものではない・・・と孫には反発食らうかも知れませんが。

 

 私は、全く母の孫に対する姿勢に、何ら違和感も感じませんでした。それは何故かというと、母に育てられた子どもだからかも知れません。

 「普通のおばあちゃんがよかった」という言葉を聞いたとき、初めて、そう言われてみれば、普通のおばあちゃんではなかったかも知れないと、いろいろな場面を思い浮かべて、時には想像を巡らして、納得の域に達したのでした。

 





203                     白いばら                           2014年5月18日 日
 

 5月のある日、旅から帰宅したら、庭の様子が一変していた。花壇のゼラニウムが花をつけ、まだそれほど大きくなっていない黄色いばらの花も咲いていた。

 なかでも、驚いたのは、道路沿いの塀際に植えている白いばらがたくさんの花をつけていたことだ。
この白いばらは、友人がくれたものだ。


「とても香りのいい白いばらよ。二本買ったので、一本あげる」

友人は、そう言って、喫茶店で会った日に、30センチくらいの丈の鉢植えのばらを、私に手渡した。

 
 
 小さかった白いばらは、すごい勢いで、丈が伸び、以来、毎年のように咲いている。手間をかけなくても咲く、この白いばらは、我が家には、とても都合のいいものだ。ばらは手入れが大変だというが、何もしなくても、毎年花を咲かせてくれる。



 あまり、がんばって花をつけるので、今年あたりは、ご褒美に肥料でもやりたい気持ちにさせてくれる白いばら。今のところ、次から次へと花をつけているが、他のばらに比べて、それほど、花の命は長くない。それでも、清楚な白い花は、十分に私の心をなごませてくれる。


 
 白いばらを見るたび、友人を思い出す。
 友人は心の病にかかり、それ以来、私は月に一度というくらいの頻度で、よく会うようになった。それまでは、ときたま会うことはあっても、ほとんどの年が、年賀状のやりとりだけで、1年1年が過ぎていた。



 友人の病を、私は、ある年、「病休に入りました」という文章で、察した。その年の年賀状は、いつもの年にくらべて、デザインされた年賀状の色が、ひどく暗いものだった。「お会いしたいです」と言葉が添えられ、すぐに、私は、友人に電話をした。


 以来、私たちは、月に一度、土曜日か日曜日のどこかの時間にお互いが車を走らせ、会うようになった。仕事に復帰できるように、私は、心の中で、友人を応援した。友人は苦しかった休職の期間を経て、病と向き合いながら病を乗り越え、職場復帰を果たした。



 「定年まで勤められるといいわね」と、私も、その先、仕事を続けたいという友人を応援したいつもりで、彼女との時間を楽しんだ。お互いの仕事のこと、家族のこと、旅のこと・・・など、話し、「じゃあ、またね!」と言って別れるのが、いつものことだった。

 

 会わなくなる直前、「私が持っていないものを、あなたが持っているから」と、彼女は言った。持っているものは、それぞれ異なるものだろう。私が持っていないものを彼女がたくさん持っていることも、また確かなのだ。

 
 
 彼女のエネルギーは、ものすごく、誰もがまねできないような時間の使い方は、私を圧倒するものだった。仕事をしながら、語学や絵やピアノを学んでいた。活動的な彼女にふさわしく、スリムな身体に紺色のジーンズがよく似合っていた。彼女の強い意思を表すような大きな瞳を持っていた。

 

 けれど、彼女は、家族のことで悩んでもいたので、「私が持っていないもので、あなたが持っているもの」とは、家族のことなのかも知れない。「会うのが苦しくなった・・・」と聞いたとき、楽しそうだったのに、苦しかったのかも知れないと思ったとき、彼女を心のなかで応援していたつもりの私は私の思い違いに、苦しくなった。



 それから会わなくなって、数年後の彼女からの年賀状に「お会いしたいです」とあったので、そのつもりで電話をした。相手の都合を尋ねると、旅好きだった彼女は、あまり外にも出ていないようなことだった。日程を決めることができなかった。


 それから、また一度、連絡がついたけれど、会うことはなかった。今は、連絡さえ、つかなくなって、どうしているのかわからない。

 
 元気でいるのでしょうか。時折思い出す、彼女のこと。彼女からもらった白いばらが咲くと、彼女のことを、よけいに思い出す。
 






202            あした、何着ていこうかな・・・                2014年5月10日・土           

「明日、何着ていこうかなあ・・・」とは、私ばかりか、夫もつぶやく言葉だ。

「えー、明日何があるの?」

 何か特別なことがあるのかと思って、私は夫に尋ねる。そして、それならスーツがいいのかなと思うと、

「スーツでいいんじゃないの」と私が応える。

「じゃあ、スーツで、バシッと決めていくか」と、夫が言う。


夫が取り出してきた服を見て、私が言う。

「ああ、それはもう(生地が)厚手だから、薄いのがあったと思うけど・・・」

 

 時折、夫は、数十年も前の同じ紺色の成人式につくってもらったというほうの紺のスーツを取り出してくることがある。何度も着ていないせいもあるのか、生地もしっかりとしていて、上等なものである。(スーツをつくってもらったけれど、成人式に行ったわけではない)
 
 
 男性のスーツの流行は、私にはわからない。見た感じでは、まだ、十分に活躍できる服である。


「でも、同じ紺でも、新しいのが、あったはずよ」

・・・ということで、服が決まる。ワイシャツの色も決まり、夫は、「ネクタイは、何にしようか?桜吹雪?」


 「桜吹雪」とは、濃いピンクの桜の花柄のネクタイのことだ。ネクタイの中でも、これは、かなり上等な品物らしく、娘がアメリカに行っていた時の父の日の贈り物。(親の仕送りのお金で買ったものだと思います・笑。でも、プレゼントする気持ちが嬉しい)

 自分では買わないような、すごく派手な、そして上質のネクタイは、ずうっと、夫のかなりのお気に入りなのだ。

 
 

 私が、「明日、何着ていこうかな・・・」とつぶやくのは、たいていは議会の質問日の服装のことが多い。きれいな色を選びたいけど、結局、動きが楽なことを一番に選ぶ。

 
 仕事ができる印象をさりげなく与える服。・・・でも、そんな服選んでいるかどうか?そんな服持っているかどうか、自分で首をかしげる。


 「明日」ではないけれど、「何着て行こうかな・・・」と思うのは、遠方の親戚に会う予定があるから。
それも、初対面の親戚である。第一印象が大事だから、地味なのも似合うけど(?)地味過ぎず、派手過ぎず、いい印象を与える服。そんな服ないかな・・・あれこれ、持っている服を思い描く。


 ワンピースが楽なので、その上に、軽いジャケットか、カーディガンを羽織っていこうか。夫に言えば、よほど夫の感覚に合わない場合を除けば、多分、「いいんじゃない」とか「何でもいいんじゃない?」のこたえが返ってくるだろう。

 
 それがわかっているけど、「この服でいいかしら・・・ね」とか、やっぱり夫に聞くかも知れない。
 お会いする方から、どんな話が聞けるのかしら、どんな方なのかしら・・。まだ見ぬ親戚に会うのは、まるでお見合いをするみたいに、胸がどきどきする。

 






201                ある忠告                         2014年5月7日(水)

 2月のフッ素問題学習会を終えてからのことだった。学習会を契機に、フッ素の反対運動をしている人と知り合いになった。まだ、その時点では、電話でのやりとりではあったが。

 フッ素問題のフッ化物洗口等で、危険性があるとして、反対運動をしている方から、電話で、「ひとつ忠告をしておきたいと思いますが・・・」と言われた時には、何だろうと思い、胸がどきっとした。

 
 「フッ素に反対」の活動をしている議員が、攻撃されて活動をやめたり、議員をやめたりした人がいるので」ということだった。その方が言われた通りの言葉そのままかどうかはわからないが、内容としては、このようなことだった。

 フッ素推進派の歯科医師や行政から批判されたり、攻撃されたりして、精神的に追い込まれるということのようだった。


 私が学校での集団フッ化物洗口の問題を、2013年の12月議会で取り上げてから、数ヶ月経つが、推進派の歯科医師や行政から、電話があったり手紙がきたり、そのほか、何か言われたり、良くないことが起きたりしたことはない。


 思いやりの忠告をありがたく思いながら、「私は大丈夫です」と、私は言った。「議会のフッ化物洗口のことなど、市民に知らせていますから」と応えた。言ってから、ちょっと偉そうな言い方だったかなと思った。

 
 

 活動をやめたり議員をやめたりした人が、自身の活動を市民に知らせていなかったわけではないと思う。詳しいことはわからなかったが、よほどひどいことがあったのだろう。裁判に訴えられたり、ということもあったという。(後日、自分でも調べたりまた、印刷物により、推進派の歯科医師が、議員を裁判に訴えたという事実がわかった。

 
 裁判の内容は、歯科医師やその家族が、フッ化物洗口をしているかどうか尋ねたということらしい。そのことが医師側にとって名誉毀損にあたるとして、議員を訴えたということのようだ。議員が尋ねたことが、なぜ、名誉毀損にあたるのか、私自身は、理解できない。結果は、議員側が勝訴で、歯科医師が敗訴した。議員側の勝訴は、当然の結果だろう

 
 裁判を起こされたということが、その議員側にとって、どんなにか精神的な圧迫を加えられたか、測り知れない。

 
 ただ、もし、私に対するさまざまなことが起こったら、私はその起きた事実を具体的に市民に知らせようと思う。市民は、私から知らされた事実に対し、私か相手側のどちらに判定をくだすのか、それはわからない。


 けれど、少なくとも私の方から、法に触れるような行動を歯科医師や行政にしていないのだから、何かしたら、した方がおかしいということになるだろう。

 
 誰も表現の自由を妨げることはできない。議会での議員の言論を封じることもできない。三宅をやめさせようとする力が働けば、それ以上に、市民に対し、フッ素は毒であり、学校での集団フッ化物洗口が問題であることを、声を大にして言いたい。

 
 学校でのフッ化物洗口問題では、どこを切り口にしても、市民の方が真実を知ろうとすれば、本当は、こちらに勝算があると考えている。「むし歯予防にフッ素」と思っている人も、フッ素について知れば、また、フッ化物洗口をしなくてもむし歯は激減状態であることを知れば、フッ化物洗口など、行う必要のないことは理解できる、と信じている。

 

 知らないからわからない。知ればわかることなのだ。推進派の歯科医師がいうことが正しいのか、私の言い分が正しいのか、市民に判断していただきたい。市民がわかってくれることを信じて、行動していきたい。


  そして、未来ある子どもたちの命と健康を守るおとなとしての責任を果たしたい。





200            フッ素への 誤解 ?  ~フッ素の毒性~         2014年4月27日(日)


                   知られざるフッ素の性質

 「フッ素」と言えばむし歯予防と、少なくない人びとの間で、信じられてきたと言ってもよい。しかし、このフッ素が、実は、むし歯予防に役に立たないばかりが、害があるという事実は、あまり知られていない。

 また、ノーベル賞受賞者13 人がフッ素の人への活用に反対しているという事実があるが、これも知られていないかも知れない。

 私が、なぜ、フッ素に関心を抱いたかというと、私の住む市で、子どもたちへのフッ化物洗口をさせるという情報が入ったからだ。

 まず思ったことが、学校でフッ化ナトリウムをいう劇薬を保健担当の先生が扱うことについて、大変なことだということだった。学校で養護教諭がそこまでしなければならないのか。

 次に思ったことが、人の身体に入れるフッ素は、安全なのだろうかということだった。そして、調べてみると、いろいろと出てきた。昔、フッ化ナトリウムは、ネズミを殺すのに使われたということ。また、農薬にも使われた。

 
    
               
                      何が本当か

   何が本当か、賛否両論ある中で、自分が何を信じたらよいのか。

 いろいろ検討した結果、フッ素の毒性が強いこと。わざわざ、むし歯予防にフッ素をつかわなくても、むし歯予防は十分にできること。百歩譲って、仮に、少しの効果があるにしても、毒を飲むかということ。

 フッ素をつかったうがいをしている子どもたちと、していない子どもたちの間でむし歯の数の差が認められないこと。

 フッ素で、エナメル質を傷つけるという研究があること。歯のフッ素症は、治療方法がないこと。フッ化物洗口により身体に取り込まれたフッ素は、骨に沈着すること。骨に及ぼす影響が大であること。IQに差があるという研究発表があること。

 ・・・などなど、考えると、フッ素でむし歯予防をしないと、命が脅かされるわけでもない。むし歯予防は、他の方法でできる。何より危険なのは、健康に及ぼす影響だ。

 しかし、フッ素の効果を信じて、健康よりもフッ素を選ぶのであれば、それは、個人の自由だ。

 
                    


                   個人の自由意思の尊重


 つまり、フッ化物洗口をするかしないかは、自由なのだ。やりたい人がやればいいことだ。学校で集団で行うということは、やりたくない個人に、特に子どもたちには、強制力を伴う。

 なぜなら、みんなが(多くの子が)やっているのに、自分だけがしないのは、悪いことをしているみたいな気持ち、あるいは、怠けている気持ちがするかも知れない。

 先生が、「フッ化物洗口は、むし歯予防になるので、しましょうね」と言えば、それは、良いことになる。しないことは、むし歯予防しないことで、それは、良くないことになる。

 だから、子どもは、たとえ保護者がやめるように言っても、なかなかやめることができない。埼玉県で、身体に副反応が出ても、やめられなかった子は、自分が怠けているようでやめられなかった。担任や養護教諭、学校長が説得して、やっとやめた。その子はやめたけれど、しかし、学校という場所では、続けられている。

                  
                   反応が出なくても、身体には取り込まれている


 反応の出る子と、出ない子がいる。反応が出なくても、体内にフッ素は間違いなく取り込まれて「いる事実を見なければならない。骨に沈着し、将来、どの時点かわからないけれど、フッ素の影響が出るかも知れない。因果関係はわからない。関節症になっても、原因がフッ素だとはわからない。複合的に作用して、がんになるかも知れない。歯が弱くなるかも知れない。誰も、フッ素のせいだとはいわない。わからない。

 身体に化学物質を入れることは、たとえ自然界にある物質であっても、よくない。ノーベル科学者13人がフッ素化に反対している。

 フッ素の毒性への指摘があり、百歩譲っても、賛否両論がある今、多くの添加物にさらされている今、化学物質をわざわざ身体に入れることは、いいとは考えられない。

 今、埼玉県内では、学校での集団フッ化物洗口の嵐が吹き荒れている。国、県、市という行政と歯科医師会が進めようとしているフッ化物洗口。

 健康な身体をつくるために、誰が、子どもたちを守ることができるのか。










199              夫が失神した・・・!     2014年4月12日(日)

 今年の2月末に、夫がインフルエンザにかかり、リレンザ吸引直後、気を失った。私は、医療機関を訪れていた夫からの連絡で、そのことを知った。

 
 どんな予防接種や薬剤でも、何らかの副反応(副作用)があることは、頭では知っていた。しかし、私自身も、これまで生きてきて、体がはっきりと反応を表すような経験をして来なかった。家族も、同様に、副反応とは無縁だった。

 しかし、身近に暮らす夫が薬剤を体内に入れたことで、失神したということを聞き、副反応として、そのような異変が起こることを実感した。

 

 仕事のこともあり、インフルエンザを早く治そうと思った夫は、症状の改善が短縮できるリレンザを服用(吸引)したという。

 夫の話では、説明があり、リレンザを選択したとのこと。

 しかし、結果的には、特に回復にかかる日数を短縮できたわけでもなかった。でも、まさか、失神するとは思わなかったのだろう。


 同じ薬剤を体内に取り込んでも、人によって、副反応として表れる人と表れない人がいる。また、同じ人であっても、そのときの体の状態によっても異なるかも知れない。


 「失神」という、初めての出来事に、私は、子宮頸がんワクチン接種のことを思い浮かべた。
 子宮頸がんワクチン接種直後に起きた「失神」というのと、おそらく夫とほぼ似たような状態なのかも知れない。


 子宮頸がんワクチン接種対象者に、説明があったとしても、それまで何もなく過ごしてきた人にとって、副反応というものが、自分の身(娘の身)に起こるとは、考えなかったのだと思う。

 また、ワクチンで「がん」が予防できるならという思いで、副反応の少しくらい・・・という気持ちもあり、危険性がより認識されないかも知れない。(実際には、子宮頸がんワクチンは、副反応ばかり強くて、ワクチン効果も期待できないものであると認識している)

 

 今回の夫の場合も、おそらく、その医師にとって、夫のように異変をきたす患者は、これまでなかったか、非常に珍しかったのかも知れない。
 他の患者にも起きていたなら、副反応に対する説明も、(承諾するか否かの)本人の意思確認も、慎重さを増したかもしれない。

 
 
 当たり前のことだが、誰でも、副反応被害者になり得るのだということを、夫の失神で実感した。幸い、夫の場合、失神したとき、看護師に支えられ、頭を打つこともなかった。その後、点滴をうけ、しばらく体を休めた後、家に戻ることができた。

「(状況について)報告しておきますと医師に言われた」と夫が言った。



 翌日、留守にせざるを得なかった私が帰宅すると、受診した医療機関から電話がかかってきて「どうですか?と尋ねられた」ということだった。

 「当たり前かも知れないけど、対応がちゃんとしているね」と付け加えて夫が言った。

 その日、一時熱が下がったけれど、再び、高熱を発した夫は、「今、死んでも、僕の人生は、いい人生だったと言えるよ」と言った。大げさなと思ったけれど、熱に弱い夫は、とても苦しそうで、本気のようでもあった。

 
 失神だけですんでよかったと、心から思った。脳に異常が起こり、体も元に戻らなかったら大変だ。

 
 これからは、インフルエンザくらいなら、特別に早く治そうとは思わず、できるだけ、普通の治療だけにしたほうがいいということになった。副反応の怖さを知った。


 子宮頸がんワクチンのように、検診で十分に予防できたり、インフルエンザのように(医師の診断後)体を休めることで病が治ったりする場合、避けられる危険性は、避けるに限る。そんな結論を改めて認識した我が家の「事件」だった。









198  母のこと      「人は人。自分は自分」                 2014年3月30日・日

 私が小学校の頃、卒業式参列の保護者は、母親が圧倒的に多く 母親たちは、黒の紋付きの和服姿だった。なぜか、わからない。一種の流行のようなものだったのだろう。

 母は、「私は、みんなと同じ恰好するのはいや」と言って、卒業式に紋付きを着ることはなかった。和服でもなく、おそらく洋服だったと思う。


 人と同じでなくても気にしない、という感覚を、母は、どこで育んだのだろう。幼少期なのだろうか。それとも、文化豊かな教育を受けた女学校時代なのだろうか。

 母は、私の心の中に、たくさんの言葉をのこしている。「人は人。自分は自分」という言葉も、そのうちの一つ。

 
 今は卒業式も入学式も、服装はいろいろだ。色は、明るい色が多く、むしろ、黒っぽい服が少ないかも知れない。娘の卒業式には、私は、来賓で座っていた。卒業式参列は、議員になってからは毎年のことで、私は、あれこれ考えるのも面倒だから、服装を変えたことがない。


 毎年、黒のベルベットのスーツにビーズをちりばめた白のブラウスと決めている。時期になると、(または、その日の朝)、洋服ダンスから、それを取り出す。造花も、最近は簡素に徹して、つけることが少ない。


 紋付きの流行も面倒臭さが、その裏にあるのかも知れない。一つ持っていれば、兄弟全部につかえるみたいなことなのかも知れない。

 
 ただ服装は、みんなが着るからということでなく、自分に似合うか似合わないかで、決めたらよいことだと思う。黒の紋付きを、母は、自分に似合う服装だと思わなかったのだろう。そして、生き方においても、母なりに「人は人、自分は自分」を貫いて生きてきたように思う。







 197       2011年3月11日    東日本大震災の「あの日」       2014年3月16日・日

 あの日の午後、2時46分、私は、市役所の1階にいた。ちょうど、議会の委員会審議が終わり、尋ねることがあり、私は「子育て支援課」に出向いていた。

 
 
 突然、ぐらぐらっと、すごい揺れがきた。私は、そのとき、職員の方と話をしていた。職員の方が、傍らの高いロッカーが落ちないように手で支えたことを記憶している。

 職員の方たちの机の上のファイルなど、物が、床に飛び散った。揺れはすぐにはおさまらなかった。それは、経験したことのない、生まれて初めての大地震だった。


  少し揺れがおさまった頃、庁舎の外に出た。地面は揺れていた。止まっている車も一緒に揺れていた。次から次へと職員の方が庁舎から出てきて、プレハブの建物に集まって行く。


 ほどなくして、プレハブに集合した職員の方たちが姿を現した。まだ、地面が揺れている中、彼らは手分けして車に乗りこみ、地域に出ていった。その様子は、とても勇敢に見えた。(あとで市内に勤務する夫から聞いた話だと、市職員の方が、すぐに学校にもやってきて、その対応のはやさに感心したということだ)



 別の委員会を終えた議員が、車に乗り込み、帰って行った人もいた。私はまだ帰って行けなかった。なぜかというと、車に乗ってみると、車と一緒に、自分の体も揺れて、恐かったからだ。私は、外に留まり、しばらく様子を見ることにした。実家の様子も心配で、何度も電話をしたが、つながらなかった。


 けれど、いつまでも、市役所の敷地内に留まっているわけにも行かず、市役所を後にすることにした。道路は、揺れていて、恐かった。信号は止まっていた。いくつもの信号停止の交差点をゆっくり進み、注意しながら、何とか家に辿りついた。


 夫は、まだ、職場で、帰宅していなかった。夫が帰ってから、久しぶりにろうそくの火をともし、食事をした。
 実家の高齢の父は、兄夫婦がいるので、大丈夫だろうと思ったが、東京のビルの中で働いている娘や娘の夫はどうなのかと心配だった。携帯もつながらないままで、困った。

 「ねえ、○○(娘)に電話つながった?」と、夫にも聞かれたが、私もつながらなかった。

 
 原発事故で、その後は、計画停電が続き、不便もきたした。停電は何時からか、「表」を見ながらの生活だった。夫と「ろうそくが家にあってよかった」などと話した。お店からは、ろうそくも電池も消えていたという話を聞いた。


 実家も娘夫婦も、無事と知ったとき、本当にほっとした。高いビルの揺れは、ものすごい恐怖だったと、その様子を娘が語っていた。列車が止まり、歩いて帰宅した大勢の人びともいた。震災で多くの人びとが命を落とし、いまだにどうなったのか、わからない人もいる。身内を失う悲しみがどんなものであるか、十分に想像できる。

 
 「震災・原発」による被災者の人びとが失ったものは、あまりにも大きい。悲しみを抱える中で、何とか、平穏に生きていけるための施策は、まだまだ、不十分である。原発による健康被害の不安も、今後、ずっと、つきまとう。

 東日本大震災から、9ヶ月たったとき、機会があり、被災地にボランティアで出かけた。骨だけになった建物、瓦礫の山を見たとき、家が消え、あたり一面見わたせる広々とした土地に立ったとき、そのすさまじさに驚いた。

 映像では見ていたけれど、自分の目で見るのとは、やはり違った。


 その後、原発が止まっても、電力は供給できたという事実を知り、私は、あの計画停電は何だったのかと憤りを覚えた。人をだますのもいい加減にして欲しいものだと。


 情報が提供されなかったばかりに、放射能の流れる方向に避難し、被曝した人びとが大勢いた。人の力ではどうにもならない「原発」。それなのに、「再稼働」させようとしている、今の日本の現実。現実を知ったところで、みんなそれぞれ、個人の生活の中でも、問題を抱えて生きている。

 だから、忙しい。それどころじゃないと思う。でも、でも・・・です。

 
 心の傷も癒えない中、居場所の見つからない不自由な生活を送っている人びとがたくさんいる。悩み苦しんだ末、家族が別々に暮らす決断をした人たちもいる。放射能の「健康被害」におびえる人びとがたくさんいる。

 「政治」の力で、救えることも、あるはず。
 そして、私たちは、その「政治」に働きかける力も持っているはず。

 
 東日本大震災の「あの日」は、まだまだ終わっていない。






196                余った氷、どうしよう?   (2014年3月8日・土)           
 
 毎年のように、私は言っていた。「議会だから、インフルエンザ、もらって来ないでね」と。夫は、仕事がら、インフルエンザには、縁がある。でも、夫がインフルエンザにかかることは、まれだった。10年ほど前にかかったことがあったかも知れない。それくらい珍しいことなのだ。

 
 でも、少しの恐怖を覚えて、流行の時期になると、私は、冗談交じりに毎年挨拶のように同じ言葉を言っていた。
 夫が調子が良くないと言ったのは、2月も下旬の週の始まり、月曜日だった

 それでも、熱もなかったので、少し心配をしながら夫の様子をみながら過ごしていた。

 議会が始まる前日のこと、水曜日だった。家で明日の準備をしていると、電話が鳴った。


 「調子が悪くて、医者にきている」と、夫の声だった。インフルエンザでなければいいけどと思った。

 2度目の電話は、それからけっこう時間がたっていた。患者が混んでいたのだろうと思った。

 「倒れてしまった。点滴をしてから帰る。運転はしないように言われたから、迎えにきて。また連絡をする」

 私は、夫が「インフルエンザ」と聞いて、「あっ」と思った。困ったなと思った。夫のことも心配だったが、自分のことも心配になった。私も喉が痛かった。インフルエンザで、議会を休むことになったら、どうしよう?


 「倒れたの?」倒れたのなら、頭でも打たなかっただろうか。けがとか・・・。
 「意識を失った。看護師さんが、そばにいたから、支えられた」と聞いて、よかったと思った。

 迎えに行くと、夫はふらふらとした足どりで、病院の出口に向かって歩いてきた。家に着いて熱を図ると、39度近い熱だった。熱に弱い夫は、とても苦しそうだった。

 

 氷枕をして、夫は眠った。家の氷では心もとなく、近くのコンビニに氷を買いに走った。その翌日、夫は仕事を休んだ。インフルエンザなのだから、誰が何と言ってもどうしようもないことだ。

 翌日は、議会だった。おかゆの食事を用意して、私は出かけた。私も喉が痛み、頭痛がしていた。



 翌朝、夫の熱はだいぶ下がっていた。これなら、大丈夫と思った。「今日は大丈夫。お昼に戻って来なくていい」と夫が言った。いえ、その前に私が言ったかも知れない。「ねえ、今日は(戻らなくても)大丈夫?」と。


 前日の議会初日、お昼に家に帰って、食事の用意して戻ったら、午後の始まりの1時に2分程度遅れてしまった。
 熱も下がったし、今日は大丈夫だろうと、ほっとした。

 
 ところが、夜になったら、また熱が出た。

 不安になった私は、「私、大丈夫かしら・・・」と思ったことを、口にしてしまった。
 「あなた、議会一度も休んだこと、なかったんだっけ」と、夫が言った。


「一度も休んだことない」と、私は言った。
「えらいね」と、夫が言葉を返してきた。「でも、インフルエンザだったら、しょうがないよ」

 確かに高熱だったら、無理かも?「傍聴のおしらせ」も配布してしまったし、病気といえども議会を欠席したら、
「三宅は、大事な時に転ぶ」と言われてしまうかも・・・。

 
 夫の熱は、下がって上がって・・・ということで、なかなか安心できなかった。夫は、木曜日と金曜日の二日間仕事を休み、土日を挟んで4日間は、寝ていた。仕事がら十分には休めず、月曜日からは、出勤していった。仕事の状況を知っている私は「休めばいいのに」と言えなかった。

 
 体調悪いながらも、私も何とか、議会の質問も終わり、一段落。けれど、夫の咳の音を聞くと、インフルエンザ感染がまだ心配だった。次の委員会審議もあるので、外出はできるだけしないように心がけた。
 
 
 こんなに慎重になり、こんなに「感染」を恐れたのも、初めてだった。


 余った氷をみて、もったいない、心のどこかで使い道あればいいのにと思った。

「氷、買いすぎてしまったみたい」と私が言うと、
「まだ、あなたが、(インフルエンザに)かかるかも知れないから」と夫が言った。




195             フィリピンの 「人形」                 (2014年2月11日・火)

 世界遺産の教会を見学した後、戦跡のサンチャゴ要塞に向かうところでした。

「サンチャゴ要塞」は、ガイドのひで子さんが、「残虐なことが行われた場所ですが、そういうところも見ていただかないと」、ということで案内されました。もちろん、戦争でどんなことが行われようと、事実として見ておかなければなりません。

  入り口を入る手前のあたりに、等身大の制服を着た番人の人形がいました。
  ひで子さんが言いました。「実によくできているんですよ。みなさん、本物だと思うでしょ?人形なんです」

 私たちは、「本当に。良くできている・・・!」と口々に驚きの声をあげながら、立ち止まり、ばらくその人形に見入っていました。何と、少しふくらんだお腹の出具合まで、本当の人間のようなのです。
 足を組んだ立ち姿です。微動だにしません。
 
 そのうち、私たちは「人形」を触り始めました。背中に触れ、「やわらかーい!」と言った人がいました。誰かが「本物じゃない?」と言ったからです。

 ガイドのひで子さんが人形だと言ったのだし、まさか人間であるはずがないでしょ、動かないのですから。

 私も背中を触りました。ゴムのように弾力性があり、あたたかくても、人形は動きません。特別な材質でできているのかしら?

「本物じゃない?」と、また別の誰かが言いました。でも、顔も動かず、まばたきもしません。

 私は、人形のやや浅黒い手をちょっと触りました。本当によくできていて、人形とは思えないほどです。人間の指みたいによくできています。私は、さらに指を触ろうとしました。

 
 すると、何と・・・!大爆笑です。人形が動いたのです。人間の男性が、白い歯を見せ、私たちに向かって人懐こそうに、にっこりと笑いました。


 同じ姿勢でずうっと動かないのでいられるのですから、驚きました。多分、自分で訓練したのだと思いますが、びっくりしました。

 おそらく何度か案内をしているひで子さんも知らなかったのでしょう。ああやって訪れる観光客を楽しませ、欺いていたのでしょう。さわらないで通り過ぎたら、「あれはよくできた人形だ」と私たちも思ったままだったと思います。


 「きっと、ずっと立っているだけじゃ、退屈するんじゃないの」とあたっているかいないかわからないけど、そんなことを言って、笑いながら目的の場所に向かいました。



「サンチャゴ要塞」では、戦時中、現地で日本人が行った残虐性に背筋が凍り、すっかり笑いどころではなくなりました。

 そしてまた、帰り道。さっきの番人さんは、今度は立つ位置を変えていました。それにしても、長い時間動かないでいられる「持久力」に、私は感心したのでした。              
(手も、全く動かなかったのです。人形にしては、よくできているなあと思って、手に触ってしまいました。
そうしたら、動き出して、人間だとわかりました)




194               今年の初夢                   (2014年1月6日・月 )    

 学習会に出ていた。隣の席には、夫がいる。講師の話が終わり、私が質問をした。「あの・・・、私が不勉強のせいだと思うのですが・・・」と謙虚な言葉で始めた。「国の安全保障がしっかりとすれば、日本の農業はよくなる・・・ということでしたが、そういう事ではないと思うのですが・・?」みたいな発言をした。

 隣を見ると、夫が眠っている。私は、夫のだらんと下がった手の甲を指先で押した。

      
               ◇              ◇               ◇
 

 睡眠中の私は、私の動作をすることにより、半分以上、そこで目が覚めた。夫の手の甲を私は実際に眠りながら押していた。現実でも、私の夢の中でも眠っていた夫も目を覚ましたようだった。

 「どうしたの?」と夫。「だって。(講演会で)あなたが寝ているんですもの」

私が説明した。「夢みちゃった! 学習会で質問したのよ。どういうわけか、国の安全保障と農業で・・・」


 自分でも、なぜ、国の安全保障が出て、農業が出てきたのか、わからない。政府の言う「安全保障」で、軍備増強、武器輸出・・・では困るし、日本の農業のゆくえは心配だったし・・・で、とにかく、私の頭の中では、一緒に出てきた。
「安全保障」で、日本の農業がさかんになることは、まず、あり得ないから、外れているとも言えないかも。


 出てきてもよさそうな、「TPP」は、出てこなかった。夢は、きわめて短くて、講演の内容は省略されていて、いきなり、私が男性の講師に質問する場面からだった。そして、そのとき、隣の夫は寝ていた・・・という夢の中の事実?だった。

 
「僕が、講演の最中に寝ているっていうの、それ、ちょっとまずいよ」と夫が言う。
「でも、夢なんだから、現実って、わけではないのよ」
「夢でもねえ・・・」と、夫は不満そう。


 「ごめん、起こしてしまって。じゃあ、寝るわね」と言って、私は眠った。その後、寝ていたのか寝ていなかったのかわからない。多分眠っていたのだと思うけれど、やたら、農業のことが頭から離れなかった。学校給食に地元産の割合を増やすことによって、市の農業振興にもなるという効果について、効果大なのになあ・・・と思っていた。



 学校給食の食材と地元産の割合だとか、近隣のセンター給食では、地元産の農産物はどの程度使用されているのかとか。行田市では農協からのみ地元産を仕入れているようだけれど、他の方法はとれないものか。


 視察で訪れた市では、目標を掲げ、まちの商店から、地元産を納入していた。その前の年の視察地である郡上市では、それは、それはきめ細かな取り組みを市と農業者の間で行っていた。安全性の面では、農薬使用についての制限の観点もあった。仕事に誇りが持てるだろうなと思える仕事ぶりだった。


 自分のまちでは、農家との直接契約について、安定量の確保等から難しいと言ってとり組む姿勢を見せなかった・・・などなど、頭の中を駆け巡った。難しくても、どこをどう乗り越えたら実現できるのか、考えて欲しいものだ。


 翌日、私は夫に、「何とか、学校給食センターに地元産の農産物をもっと使用できないものかしらと、前から考えているのよ」と話した。本気で少しでもとり組もうとする努力があれば、少しは変わるのでは・・・と私は思うのですが。「そうだねえ」と夫もあいづちをうちましたが。


 「夢」からも、新年の「課題」を、もらってしまった。








193 父のこと  1周忌に        好きだった十万石まんじゅう     2013年12月21日(土)

 父は、甘いものを好んで食べた。その中でも、特に好きだったのは、地元老舗の十万石まんじゅうだった。
月一度の通院の帰りには、十万石まんじゅうを買って帰宅していたらしい。また、なくなると、実家の兄や義姉が買い求めることも多かったと思う。だから、1年を通して、実家には十万石まんじゅうがある時のほうが、ないときよりも多かったと思われる。

 
 
 私の選挙の時にも、父は事務所に十万石まんじゅうを差し入れてくれた。
 ・・・と言っても、父自身は、自分では選挙事務所に姿を表したことは一度もなかった。父ばかりか、身内は誰も選挙に関係しなかったから、まわりの人からみたら、だいぶ変わっていたかも知れない。


 脳出血で入院中は、好きな十万石まんじゅうも食べられなかったから、さぞ、残念であったことだろう。身内がついているなら、食べものを食べてもいいと病院側から言われたので、一度だけ、もっていったこともあったかと思う。また、お見舞いのとき、娘がもってきたこともあった。


 入院中で、あまり食べたくなかったのか、それとも、力をつけるために、病院の食事をしっかりとらなければいけないと思ったのだろうか。その後、私が何回か聞いてみたけれど、父は「いい」と言って首を横にふった。おそらく、後者の理由からだったのではないかと思う。


 入院直後は、言葉もほとんど出なくて、すべてに意欲が見られなかった父。しかし、、少しずつ体が良くなってくると、父は、もともと家に帰りたいという気持ちが強かったから、自分で歩き、トイレも自分でできるようにリハビリに耐えた。90歳を過ぎた体にはきつかったことだろう。


 病院のリハビリ担当の方も、家にいた時に状態が近づくように、プログラムを立てて組んでとり組んでくださった。気持ちはあっても、体かついていかない父を若い男性の看護師は「川島さん、もうすこしがんばりましょうよ」と声をかけて励まし続けてくださった。父が家に帰れるように、私もまた、父のリハビリが進むことを望んでいた。


 体力をつけないといけないと思ったであろう父は、病院食をほぼ完璧と思われるくらいに、よく食べた。父は、家にいる時から、ものすごくよく噛む習慣があり、人の2倍も3倍も時間をかけて食べていた。

 病院の片づけの時間の都合もあり、病院側の配慮で、父の食事は、他の患者より30分ほど早めに用意された。それでも、食べ終えるのは、他の患者よりも遅かった。

 
 実家では、いくつものことが重なり、退院後に、父が家に帰れない状況が生まれた。私からも、事情を話し家には帰れないことを父に話した。
 
 
 私が「家でお父さん一人になってしまうこともあるから、無理みたい」というと、父は「ひとりで寝ているから、いい」と弱々しい声で言った。父がよくても、ひとりでいる時に何かあっても困るので、そうもいかない。父も環境を受け入れざるを得なかった。父は何も言わなかったが、どんなにか、がっかりしたことだろう。ひとり、じっと、その思いをかみしめたことだろう。

 ショートステイという形で施設に入った父に、義姉が父の好物の十万石まんじゅうを差し入れたことがあったらしかった。

 
 父は施設での私の面会をとても喜んでくれた。まわりには女性たちが多く、にぎやかで、父にもよく声をかけてくれた。しかし、自分だけの空間を持ち、自由に暮らしていた父には、他人とのいわば集団生活にも近いと思われる生活は、苦手であったと思う。


  おしゃべりではなく場合によっては我慢強さも持ち合わせている父が、時折苦しげな表情を見せることがあった。私には、父の体のどこかに痛みが走ったのではないかと思えた。「大丈夫?」と尋ねると、父は、「大丈夫」とこたえた。

 
 私が10月の市内小学校の連合運動会の行事に招かれた日のことだった。父が再び入院したという連絡が入った。今度は肺炎だった。施設での生活は、ひと月だった。 病院に足を踏み入れたとき、他の患者用には見慣れていたが、父のベッド近くに設置された大きな医療機器に、私は圧倒される思いだった。
 

 約1ヶ月の予定で治療を終え、退院できるはずであった父は、「良くなりました。退院予定」というその頃、肺炎を再発した。11月6日あたりが退院予定日だった。


 それからの父の様子は、少し良くなったり悪くなったりを繰り返すかのように見えた。酸素マスクが顔についたり、とれたり・・・を繰り返した。酸素マスクがとれていると、私もほっとした。

 
 暮れも押し詰まった2012年12月26日午後5時19分。父は、とうとう力尽きて、93才の生涯を終えた。年を越せば2月が誕生日、94歳の誕生日になるはずだった。

 
 葬儀については人を煩わせないようにと言っていた父だったが、それは、もうかなり古い話でもあった。身内全体としては確認できていないことでもあった。普通にお葬式を出したいという兄の意向もあり、ごく普通に父の葬儀が行われた。



 亡くなったとき、「お父さんは十万石まんじゅうが好きだったから、十万石まんじゅうをいっぱい入れてあげましょう」と義姉が言った。お腹の大きい娘が「おじいちゃんが好きだったから」と言って、最寄り駅付近で買った十万石まんじゅうをもって、夫と東京からやってきた。「(お腹の)赤ちゃん、間に合わなかったね」と言って。







192   父のこと           「千円貸して・・・」                2013年12月21日(土)

 ある日、私は父の車椅子をおして、病院の廊下を歩いていた。

 私は、病院を訪れると、窓のあるところに行って父と外を眺めることにしていた。病室の階の、窓から窓へと移動し、しばらく外を眺めてから、病室に戻ったものだった。外に目をやる時の父は楽しそうでもあった。

「ほら、見えるでしょ。今日はね、いつもの駐車場が混んでいたから、あそこ、あの青い車よ」と」私が自分の車を指さすと、父は、その方向に目をやり「ああ・・・」とほほえんだ。


 部屋に戻る途中で、父が「千円、貸して」と私に言った。私は、一瞬何のことかわからなかった。入院中の父が自分で何かを買うのか、不思議に思われた。「テレビのカードを買ってきて欲しい」と、父は続けた。

 
 父に言われた通り、私は、カードを買って、部屋に戻ると、テレビの差し込み口ににカードをさしこんだ。けれど、長くは、テレビを見ようとはしなかった。「最近は、おもしろい番組がなくなった」と言って。

 
 病室は何度も変わり、リハビリ病棟に移ったころは、、テレビを見ることもなかった。父が最後にテレビを見たのは、いつ頃だっただろう。結局、父がテレビを見入る姿を私がが見たのは、その後、数回あったかと思うくらいだったと思う。

 脳出血で入院してからは、いろいろなことに意欲がなくなっていたのかも知れない。それでも、病院で行う訓練には、一生懸命だった。言葉は、少しずつ回復していったように思う。歩けば歩けるようになっていた。
 5月に倒れて、季節は、すでに、夏だった。





191              カーテンの中             2013年12月14日(土)

 新しいカーテンに変えようかなと思ったとき、ふと昔のことを思い出した。

 それは、結婚したばかりの昔のこと。共働きの我が家だが、どこの職場にも、今よりはずっと時間のゆとりがあった。私が職場から先に帰宅し、夫が後から帰った時、夫が「ただいまー」と玄関から声が聞こえるやいなや、私はカーテンの中に隠れる。

 返事がないと、夫は、「あなたーあなたー、いないのー?」と言いながら、家の中を探す。「あなたーあなたー」の声がいつまでも、カーテンの中の私の耳に届く。私は、それがけっこうおもしろくて、カーテンの中で笑う。

 しばらく探して、いないと思うと、夫は、諦める。車はあっても、車を置いて出ていると思うのだろう。
いるはずと思うと、いつまでも、声が鳴り響く。

 「どうしたの・・・?ははは・・・」」と笑って、私は夫の前に姿を表す。何回かそんなことをやっているうちに、カーテンの中に隠れていることがわかってしまった。だから、そんな「遊び」も、それほど長くは続かなかった。

 
 娘が生まれた。その娘に、私はカーテンの中に隠れることを教えた。「あ、お父さんが帰ってきた。早く隠れて・・・!早く、早く・・・」と、私は幼い娘をせかす。


「あれ、○○は?」と夫。

「いないのよ、どこへ行ったのかしら・・・」と私。

 全く慌てていない様子の私の言い方で、夫は、幼い娘がどこかに隠れているとわかる。

「○○ー、○○ー」と夫が家の中で、かなり大きな声で娘の名前を呼ぶ。ふだんでも声が大きい夫の声。

「どうしよう。あなた、探しに行ってきて!ほんとにどこに行ったのかしら・・・?」と私がちょっと困ったように言う。

「じゃあ、探してくるよ。○○どこ、いっちゃたのかなあ・・・」と、夫は、わざとうろうろと探し回る様子で、大げさに言う。


 隠れ場所は、玄関に近い階下なので、娘は、こちらの様子は洋間のカーテンの中で聞いている。

 父親の「探してくるよー」の言葉に、娘は、玄関に向かう夫の背中に思いっきり叫ぶ。
「いるよー」と得意な表情で走り出る。娘の笑いが爆発する。

 
 そんな遊びをいつ頃までしていただろう。幼い娘だけでなく、結婚当初、おとなの私まで、そんな遊びをしていたとは・・・。(夫が隠れたことはなかったですね・笑)思い出しておかしくて笑ってしまいました。

 そして、今の社会で、どれだけの親子が、父親の「ただいま」を聞き、小さなことで、笑うゆとりがあるだろうか・・・と思ったのでした。






190          父とヒロシマ                  2013年11月30日(土)

 父が戦争に行ったことは、父から聞いていた。けれど、亡くなった今、思い起こしてみると、詳しいことは、聞いていないことに気づかされた。父は戦地で病気になり、戦地から戻ってきたと聞いていた。

 軍隊では、普通手に入らない羊羹など甘いものや、お菓子が手に入ったようだ。母が長兄を連れて、多分病院に面会に行った時に、兄のためにとっておいてもたせたという話を聞いたことがあった。

 
 敗戦間近、兵器も何もなく、「戦うと言ったって、何もないのだから、戦争に勝てるはずがない。戦争に負けることはわかっていた」と語っていた。病院から出た父は、部隊に所属して、日本にいたようだ。若者たちは、ただ、なすこともなく、毎日ぶらぶらと暇と体をもてあまし、退屈していたと聞いた。その日、退屈していた兵士たちのほとんどは、広島に向かったそうだ。

 そして、広島に原子爆弾が落ちた。父も、あのとき、広島に入っていたら、この世に存在していなかったかも知れない。「広島に行った人は、みんな死んでしまった」と父はいっていた。仮に生きても、被曝に苦しむことになったかも知れない。もしかしたら、私は・・・、私も生まれていなかったかも知れない。

 父の戦争体験は、どのようなものだったのだろう。戦争体験者に、語って欲しいと思う私は、一番身近な人である父の戦争体験さえ、断片的にしか知らないことに、改めて気づかされた。

 
 父の戦争体験を聞こうとペンをもった私が聞いた話は、父と広島の話だった。そして、戦争が終わった知らせを聞いたとき、ほうきをもって掃除をしていた一人の男が、「戦争が終わった、戦争が終わった・・・・!」と大声で叫びながら往来を飛び回っていたという話だ。

 戦争の終わりは、大きな喜びだったのだ。





189             真夜中の出来事          2013年11月17日

 一度眠りについたら、大雨が降ろうが、地震であろうが、目がさめない私。だが、どういうわけか、その夜、眠りが浅かったのだろう。夫が何か言って、寝床から起き上がったのに、気づいた。

 「どうしたの・・・?」という私に、夫は「あなた、僕、変な夢みちゃった!」と言って、続けた。

 「車が盗まれて、通帳も盗まれて、財布も盗まれちゃった。あー変な夢」とだいぶ興奮している。

 まだ購入してから1年もたっていない車を盗まれたら、大変だ。夢であってもびっくりするだろう。
 
 私は、言った。「ねえ、あなた、それって夢じゃないのよ」
「えー?」と夫は、薄暗い中、立ち上がって、複雑な顔。

「今日、あなた、銀行に電話したわよ。通帳が盗まれたからって。夢だと思ったの・・・?ほんとのことなのよ」

 私が言うと、夫は、困ったような顔。

「車、見てくる!車があるか、どうか」と、寝ぼけた声ではなく、はっきりと言った

 本当は、夫は、銀行に電話もしていないし、夢のはずなのに、夫は真面目な顔。車が盗まれているはずがない。とにかく、そんな事件は聞いていない。私の言葉を信じて、「車を見に行く」という夫が、私は内心おかしかった。

 まさに今、夫は、2階の階段を下りて、外に出ようという気持ちらしい。今度は、私のほうが少し慌てた。
「ねえ、本当は、夢なのよ。通帳なんか盗まれていないのよ。車だって、あるわよ」

 通帳は、あるべきところに一括保管しているので、カードはもっていても、ふだん夫が通帳をもって、出ることもない。それどころか、自分で表も中身も見たこともない(・・・と思う)。「うちにお金がいくらあるのか、調べておいてよ」と言うのだけれど、実際にはみようともしない。

 
 私が「夢」だというのに、それでも夫は階段に向かって行こうとしている。
もう一度、夫の背中に向かって、「夢なのよ」と、言う私に、夫は、「トイレ!」・・・と言って、階段を下りて行った。

 どちらがだまされたのか、わからない何とも不思議な夜の出来事でした・・・!。




188 父の本 ~父を辿る旅~  ③ 東京から愛媛 送られなかった本      (2013年10月28日)

 「尾崎 宝様」という父の筆書きについて、私は誤解をしていた。父と母は、幼いころ、私に「宝さん」という呼び方で、私に話していた。人柄がものすごくよくて、その人柄をたたえていた。宝さんは、母の姉の連れ合いであり、私にとって母方の義理の伯父にあたる。かなり前に亡くなっている。

 宝さんは、大勢の知人がやってきて、何日でも滞在しても、いやな顔ひとつせずに相手をもてなす人だったと言う話も父母から聞かされていた。

 
 父から宝さんに贈った著書を、宝さんが、大切なものだからということで、読後に父に返却してきたものと、私は込み入ってとらえていた。

 
 なぜ、そんなふうに私が考えたかというと、私が自分の著書を人に贈ったときに、「自分の本というものは、案外手元に残らないものなので、大切にするように」と言われたことがあった。その人たちは、物書きであったりしたので、著者としての自分の経験からの助言であった。

 一度の経験ではあるが、わざわざ返してこられた方もいた。著者としては、差し上げたかったのですが(笑)。

 そんな経験を持つ私は、「宝さん」が返してきた本であると勝手に思い込んでいた。



 この夏、母の故郷である愛媛県の親族を訪ねた。運よく、(宝さんの娘・母の姉の娘が)家におられ、お会いすることができた。互いに会うこともなかったので、事前に連絡をとって、断られたら困ると思って、突然訪ねたのだった。


 懐かしい話を伺って、本の話もした。「尾崎宝様、と父の著書にあるのですが、返していただいた本なのでしょうか」と、私は言った。

 すると、その方は、「川島の叔父さんが、父(宝さん)に贈ろうとしてのではないですか?」と答えた。戦時中の混乱しているときで、そのままになってしまったのではないかと。


 「ああ、そうですよね」と私は言った。そう考えるほうが、素直だ。私は自分の思い込みを笑った。

 
「叔父さんと叔母さんは、家を借りて親子4人で、暮らしていました。家の敷地内の畑で作物を作っていましたよ」と、愛媛での父母の生活のひとこまが明らかになった。4人というのは、2番目の兄が生まれていたからだろう。長兄は東京、次兄は愛媛生まれである。



 その方は、兄たちの名前を覚えていた。父が、ときおり家族の近況を知らせる手紙も送っていたようだった。それは、父が亡くなる前の数年前まで、続いていたようだ。

「家も広いので、今度はホテルではなくうちに泊まって行ってくださいね」と、しっかりとして優しそうな、「宝さん」の娘である、その方は言った。


 父は、宝さんに著書を送ろうとした。けれど、何らかの関係で送られないままになった。その結果、一冊の本が、手元に残ったままになった。この1冊の本がなかったら、私は父のペンネームも知らず、「農村保健婦」が復刻されていたことをインターネットで探し当てることもなかった。


 
 たった1冊、父の手元に残された、とてもとても貴重な1冊の本。隆さんに読んで欲しかったけれど、手元に残された本。

 複雑な思いを抱きながら、申し訳ないけれど、「本が残されていてよかった」と思った。再会を約束し、その方の家を後にした。


 1942年という年は、兄が生まれた年。確か父母は、東京在住の頃である。東京から愛媛に、本は郵送されなかったということになる。


※文中、仮名で書いたりしましたので、名前が違ってしまっている箇所があり、訂正しました。「宝さん」(故人)は本名。






187     父の本  ~父を辿る旅~  ② 復刻版が出ていた・・・!     (2013年10月27日)

 父が亡くなってから、私は、インターネットで、父の本を探していた。しかし、「農村保健婦」は、見つけることが、できなかった。けれど、兄から「あったよ!」と言って手渡された本を見て、わかった。
 父は、「農村保健婦」の方は、ペンネームを使っていたのだった。わからなかったはずだ。


 「川島瓢太郎」という聞き慣れない名だった。私は幼いころ、父の本を見たことはあったが、何だか難しそうな本を読もうとしたことがなかった。2冊とも本名で書いたとしか思っていなかった。

 
 巻末に記された著者の住所は東京の麹町というところになっていた。川島瓢太郎という名で、インターネットで調べてみると、数カ所のところで、本の名前が出てきた。そして、驚いたことに、某社から、復刻版が出ていたのだ。

 1995年5月に、近代女性文献資料叢書 女と職業 第20巻 として「農村保健婦」が出版されていた。だれも知らない間に復刻版として出版され、父の本が、今の時代に生きていたのだ。
 私は驚き、そして、すごく嬉しかった。


 早速、復刻版を出した出版社に問いあわせてみた。「著者を捜す努力をしたが、わからなかった」という返答だった。無理もない。

 1942年という出版年は、今から71年も前のことだ。復刻版が出た年は1995年なので、初版が出てから53年も経っている。著者が何歳で著したか、著者について生年月日が書かれていないので、第3者には不明である。

 第3者が推測するに、若い頃として、仮に30歳を加えても、復刻版では父は83歳。そして、戦争中のことでは、住所で著者を捜すことなんて、至難の業だろう。(実際には、父が23歳の時に書いた本なので、復刻版が出た時には、父は76歳という年齢だったはずだ)。

 
 父が、その道を継続して歩んでいたら、話は別だが、父は、社会保障関連の道から離れていた。だから、その道で父の名を把握することもなかっただろう。


 父は、戦争に行き、その後、東京大空襲で家を焼かれ、一時、母の故郷である愛媛県に移った。その地で次兄が誕生し、親子4人で暮らした。


 復刻版を出した出版社が、父を探しようもなく、健在かどうか疑う年齢の人だ。父が本を著したのは、非常に若い頃で、23歳の時のことだった。その若さで、調査を重ね、本を著すことができたことに、私は驚くばかりだった。私は23歳の頃、何をしていただろう・・・と考えさせられた。


 学術書なので、大量には出版していないとのことだった。インターネットで探してみると、国立国会図書館の他には、大学の図書館に入っていることはわかった。

 どうしても買い求めたかった、新しくなった復刻版の父の本を私が手に入れることはできなかった。この近くだと高崎経済大学の図書館にあることなどもわかり、いつか行ってみたいと思っている。


 出版社は、誠実な対応をしてくださり、印税を振り込んでくれた。私は、印税とその明細書とともに実家を訪れ、父の仏前に供えた。「お父さん、お父さんの仕事、今でも、研究者の役に立っているののよ」と、私は父に話しかけた。


 自分の本の復刻版が出たことを知らないで、父は逝ってしまった。だれも知らなかった。私も父が亡くなって、父の本のことが気になり、インターネットで遊び半分に調べたのだった。父が亡くなってから、父を知りたいという気持ちがわき上がっていたから。


 なぜ、「瓢太郎」という名を使ったかと言うと、「戦時中だったから、ペンネームにした」ということを、兄が話してくれた。父がそう言ったのだろう。

 戦争は表現の自由も、思想も奪った時代だった。ロシア文学の本をそろえていただけで、特高警察から追われた時代だ。当時学生だった母の兄(よし兄さん・私の伯父にあたる。戦争中に死亡))は、特高に追われ、満州まで逃げたと母から聞いている。


 詳しい状況はわからないが、暗黒の時代から身を守るために父はペンネームを使ったのだろう。「農村人口政策論」のほうは、本名だった。


 戦争がなかったら、そのまま、母は雑誌社などの仕事をしながら文学の道を歩み、父は、もしかしたら、社会保障関係の道を歩んでいただろうか。


 母の話だと、父は、その関係の仕事は自らやめてしまったとも言っていた。本当のことはわからない。

 ただ、戦争というものが、住む家を奪い、それまでの生活をまるごと奪い、父母にとって生きるためのたたかいが始まったことは確かなことだ。小説を書くにも、紙もなかった時代だったと母が言っていた。

 ページをめくるだけで、紙が破れそうな初版の「農村保健婦」は、私の手元で大切に保管している。表紙の裏には、父が書いたと思われる「尾崎 宝 様」の筆書きの文字がある。



186   父の本  ~ 父を辿る旅~   ① 若い頃の本            (2013年8月・途中) (9月29日・日)           

 昨年の12月の暮れに父が亡くなり、迎えた新年は、いまだかつて経験のないお正月だった。
暮れにつくるお節料理にも気力がわかなかった。それでも、種類は少なくなったが、購入したものと合わせ、何とか形を整えた。
 朝、なかなか起き上がることができない日が数日続き、そのとき、やっと気づいた。


 「父は、私が気力をなくしている、こんな様子を決して喜んではいない」。
 
 そう思ったとき、元気を出して元の生活にもどらないといけないと思えた。その後は、実家に父が遺したおびただしいほどの本と資料や原稿の整理が待っていた。

 実家でも整理をしていたが、長兄からは、「本に関しては私が自由にしていい」と言われてもいた。
 私自身が持っていたい本もあるだろうと思って、作業は苦にならなかった。雑誌類もかなり残っていて、捨てる物、保存したいものと分ける作業がほとんどだった。

 父は、いつまでも死なないと思うような人だったから、本や資料を整理しないまま逝ってしまった。

 
 その中でも、どうしても、私が欲しい本があった。それは、父が若い頃に著した2冊の本だった。学術的な本だったので、読み物と違っておもしろいというものではないけれど、その本がないと困ると思うほど、私は、欲しかった。

 私は、父の本をインターネット上で探した。「農村人口政策論」のほうは、インターネット上で見つかった。もちろん国立国会図書館にはあるのだけれど、大学の図書館や古書店の一部ににあることもわかった。

 「1943年5月20日 光書房発行」とあった。私の生まれる前のことだ。「光書房」という名は、母から聞いていた。専門書として、大学の資料として活用され、保存されているのだろう。しかし、「農村保健婦」のほうは、インターネット上でも、出て来なかった。


 「あったよ!」と言って、2冊の本を兄から渡された時には、本当に嬉しくほっとした。2冊ともかなり古いが、特に、「農村保健婦」のほうは、茶色く変色していて、紙をめくると、破れそうなほどのものだった。

 とりあえず、私は、ビニール袋に入れ、丁寧に保管することにした。あとで、文章を同じように打ち直そうと思った。打ちながら熟読しようと思った。

 思いもかけないことが起きていた「農村保健婦」については、父を辿る旅の②で書きたいと思う。
 





185                 自転車も、ちょっと考えましたが・・・    (2013年8月5日)         

 夜、床につきながら、運動しなくては・・・筋肉鍛えなくては・・・と思った。散歩が一番手っ取り早い。じゃあ、いつするか。朝か夕方か?それとも夜?でも、夜は一人ではぶっそうだし。

 日常生活に自転車を使うのはどうだろう?議会に行くのも自転車・・・?いいえ・・・無理。資料など、いろいろ荷物を持って行かなくてはならないし。


 あの頃を思い出した。あの頃・・・というのは、上尾から行田にもどったばかりの教員時代のあの頃・・・。

 
 最初は、車の免許を持っていなかったから、当然、自転車通勤だった。結構、私のこぐ自転車は速くて、一緒に並んで帰る同僚があったりしたとき、「うわーっ、速ーい」などと言われた。もっとも、若い人は免許を持っていたので、私より年配の人でしたが。


 
 あの頃・・・
 列車通勤の上尾から行田にきて1年目。とりあえず、自転車を愛用していたけれど、雨の日あり、風の日あり・・・で、車の免許を取ることにした。当たり前だが、自動車教習所に通う必要があった。


 働いていると、教習所に通う時間がない。今ではとても教員しながら平日に教習所に通うなんてできないけれど、あの頃は、まだ、今よりはゆとりがあった。それでも、持ち帰りの仕事はあったので、帰宅してからも、毎日のように仕事をしていた。

 

 早速、教習所通いが始まった。早く免許を取りたかったので、土曜日と日曜日以外にも、週2回くらいは、予定を組んだと思う。

 自転車で教習所まで通うには、時間がかかる。それほどは、時間的なゆとりがなかったし、労力も大変だ。道路を走る教習所の送迎の車もあり、当然、それを利用することにした。


 けれど、学校での放課後の仕事も忙しかったので、「あーっ、行かれてしまったー!」と、一足違いで送迎車に間に合わないこともあった。



 そんなとき、勤務先の学校付近の道路端だったが、手を挙げると、知らない人が、拾ってくれた。「教習所に行きたいんです」と言うと、「いいよ。乗って」と言われ、送ってもらった。乗用車の時もあったが、時にはトラックのときもあった。

 
 今では考えられないようなことを平気でしていた。同じ人に2度ほど?乗せてもらったことがあった。多分年齢は、そのときの私といくつも違わない若者だった。


「俺は学校の先生が嫌いでねえ・・・」

 作業着の支度をしていたと思うので、確か仕事で走っていたと思う。私は何と言ったらいいのか、わからなかった。よほど印象を悪くするようなことが、学校時代に何かあったのだろうか。


 私は、「そうなんですか・・・」くらいにしか、言えなかったと思う。たまたま次に乗った時も、詳しいことは言わず、ただ、「学校の先生は嫌いだ・・・」と同じようなことを言った。
 

 今なら、「どうしてですか?」と聞くこともできるが、そのときは聞けなかった。「嫌いだ」と言われている人の車に乗せてもらっている私は、ただ言葉少なく、身を小さくしていた。

 
 教習所までは、今のように便利に通じる道路もなかったから、それなりの時間がかかったように思う。その人は、運転しながら、しゃべり続け、ふたりの間にも見知らぬ者同士の会話はあったと思うけれど、「先生は嫌いだ」と言われたことしか憶えていない。

 
 世の中には「学校の先生が、本当に嫌い」という人がいるということがわかった私は、尋ねられても、安易に職業など告げるものではないことを、そのとき知った。

 
 それほど多いわけではなかったが、2回ほどだったと思うが、自転車通勤中の教習所通いに偶然にもお世話になった。名前も聞き、あとでお礼をと思っていたけれど、そのままになってしまった。私が教習所のバスに遅れなくなったのか、わからないが、出会わなくなった。

 
 自転車は無理・・・という結論には、すぐに至ったけれど、「運動不足」が若き頃を思い出させてくれた。そもそも、「自転車は?」と頭にひらめいたのは、自転車通勤のあの頃は、今よりスマートだったと思ったから。さてどうしようか。体を鍛えるために、何をしようか。まだ、思案中。






184               双葉町 訪れて             2013年7月25日・記

 双葉町に入ったのは、昨年の11月のことだった。

 検問があり、それはたいそう物々しかった。そこで、私は、他の人と同じように、防護服に着替えることになった。白いビニールの帽子、上下の防護服、靴の上から、白いビニールの袋を履き、マスクを身につけ体中がビニールで覆われた。

 町には、人っ子一人いない静かなたたずまい。倒壊した家の屋根がアスファルトの道路の真ん中ほどに突き出していた。柱だけになった家もあった。何もなかったように静かに立っている家もあった。しかし、中に入ってみると、家の中の物は、めちゃくちゃに壊れていたりした。



「これは、持って帰ろうか」

 ガラスの破片や崩れた物体の中をかき分け、今は成人している子どもが学生時代に活躍した写真を父親は手にとった。

 延々と続く、セイタカアワダチソウの黄色。田畑はすっかり、田畑の面影もなく、草の生い茂る場所と化していた。ここでもたくさんのお米が実り、作物でいっぱいの場所だったのだろうなと思った。




 海に、人はいなかった。海辺からかなり離れた場所でも、建物の姿は消え、かなり離れた場所に津波で運ばれた大きな船の姿に驚いた。

 

 静かな静かな海辺。そこから、福島第一原発の建物が見えた。かつては、海釣りの人びとで賑わった海。

 川では、鮭の遡上が見られた。鮭の大群が、川面を高く跳ねながら泳いでいった。かつて、この近くでは、鮭を焼いて売る人、食べる人で、やはり、ここも賑わっていたという。


 同じように、一時帰宅を許された人だろうか。うごめく鮭の遡上の乱舞に目を釘づけされていると、何やら背後で数人の人たちの声がした。

 
 津波だけだったら、復興ということもあるが、それに原発事故が加わったために、復興の手は入らない。崩れた家にも、跡形なく消えてしまった家にも、ただ雑草ばかりの田畑にも、復興を見ることはなかった。

「この辺は、新しい家が、ずうっと続いていたところだ」と、男性が教えてくれた。

 
 人の命を奪われ、生き残った人びとは、すべてを失ってしまっても、そんな中でも、生きて行かなければならない。たとえ、家や土地は残ったとしても、命を育む環境は失われている。離ればなれになり、子や孫とのともに過ごした暮らしもかえって来ない。


 ローンが残っている家が壊れ、賠償金は思うように支払われず、それで、じゃあ、どうしたらいいのか・・・?


 「何も悪いことをしたわけじゃないのに、どうして、こんな目にあわなけりゃならないんだろう・・・」

 一緒に行った人の家は、全壊していた。基礎のコンクリートだけが残っていた。津波で家を失っただけではなくて、原発事故により、故郷を追われ、故郷に戻ることさえできない。その悲しみは深い。

 先祖のお墓参りにおつき合いしながら、つぶやく言葉を聞きながら、私は何と言っただろう。「ほんとですよね・・・」といったのだろうか。


 「私たちの生活をどうしてくれるの。もとに戻してよ!」
 怒り狂うほど怒っても足りない。

 自然災害だけでなく、原発事故、その上、被曝だ。事故直後、正確な情報が流されず、逃げる時に、逃げた方向も悪く、被曝しているだろう。

 
 生涯にわたる健康診査が必要だろう。その手だてがしっかりと、とられるだろうか。



 「原発子ども・被災者支援法」の基本方針も定まらないうち、この国は、経済の再生などと言って、人びとの暮らしの再生を安易に考えているのではないだろうか。人びとの生活が良くならなくて、経済の再生があるはずもない。

  国って何なのか。国とは・・・?原発の責任を負うのは、誰なのか。はっきりとしないまま、いまだに、人びとはみえない未来を見ている。






183              父の記念樹               2013年7月12日(金)

 今年も、柿の木についたアメリカシロヒトリがすごかった。それで夫が、虫のついた枝をずいぶん切り落とした。その後、近所の人の関係でお世話になり、今年も消毒をしてもらった。


 「ねえ、柿の木、もう切ってしまおうか?」
と、茂った緑の葉のあちらこちらで、薄い茶色がかった羽根のような葉を見た時、私は夫に言った。大木となった柿の木は、お願いをする消毒以外にも手がかかり、毎年の夫の苦労も大変なのだ。


 渋柿で、実がならない年は、ほとんどならないし、虫の心配ばかりで、けっこう気持ちの負担にもなる存在なのだ。ただ、大きな実がなる年もある。

 そんな時には、柿の実のへたの部分に焼酎をつけて密閉してしばらくおくと、見事な立派な甘柿に変身した。けっこう私たちを楽しませてくれた柿の木でもある。


 「昔の木は、こんなに虫にやられることはなかった・・・」と夫は、我が家の柿の木をみあげ、幼いころの実家の柿の木を思い出すように言う。

 
 「この木だって、もっと前は、こんなに虫がつくことなかったわよねえ」と私は言う。

 近年は、暑さのためもあってか、早くから虫がつき、アメリカシロヒトリはものすごい勢いで、瞬く間に葉を食いちぎってしまう。早めに消毒をしないと、よそにも移動して迷惑もかけかねない状況にもなる。


  自分で「切ってしまおうか?」と夫に話を切り出しておきながら、「う~ん、ただねえ・・・」と、私は思う。


 次の瞬間、「今年、この柿、ならないと思うけど、切らないでおこうか?」と、私はさっきと正反対のことを夫に言う。

 我が家の庭の隅に植わっている柿の木は、父が、私の娘(父の孫)の誕生する年に、やがて生まれてくる娘のお祝いの記念樹として、買って贈ってくれたものだ。

 4月の植木市(ごんげんさまのお祭りと我が家では呼んでいた)で、父は梅の木と柿の木の2本の木を買ってきた。梅の木のほうは、数年後、虫がつきすぎて、なぜか、枯れてしまった。

 
 昨年の暮れ、12月に父が亡くなってから、数ヶ月しかたたないのに、私は父が記念樹として贈ってくれた木を切ってしまう決断ができなかった。せっかくの父の気持ちを葬り去るような気持ちがした。


 梅の木を切るときには、特に何も感じなかった。だが、記念樹が一本しかなくなってしまった今、その木を切れなかった。


 とにかく、今年は柿の木を切るのは、やめておこう。
 もし柿の木を切ることになったら、今度は、娘の記念樹ではなく、新しく父の記念樹として、毎年のように美しい花を咲かせる木を植えればいい。そう結論を出して、私の心は落ち着いた。





182            刺青ですか?                   2013年6月29日・日・記

 半袖シャツを脱いだ夫の姿を見て、私は驚いた。

「どうしたの、それ?」

 二の腕の刺青?少し離れていたので、何が書いてあるのかわからなかったけど、紺のような黒のような絵文字みたいなものが見えた。

「それって、刺青?」

 近寄ってみると、はっきりしないものの、文字のようだった。黒い色が少し汗でにじんだような色をしていた。

「忘れないように書いてる」と夫。

「なあんだ。前、手に書いていたじゃない・・・」

 以前、手の甲が黒くなっていて、汚く見えることが、時々あった。今度は、書く場所が腕に変わったのかしら?

 「なんて書いてあるの?」と聞くと、何か言ったけど、仕事のことで、忘れないように書いていたようだ。

 
「○○(私の名前)命、とか書いてあるのかと思った」
と、私は笑って言った。

「今度、書く」と夫が真面目な顔で言ったので、私は「えー!?」。


 腕みたいなところに書いて、大阪だったら、大変。着替える時に、見えたりして、マジックで書いたものが「刺青」ということになったら、「処分」(笑)?


 世間を賑わす大阪市(大阪市長)のことは、我が家でも、結構話題になりますが、「刺青騒ぎ」で、また、話が「大阪」になりました。


 その後、「メモ書き」は、やっぱり、腕よりは、手の甲がわかりやすいようで、残念ながら「○○命」も、目にしていません。





181           自分で自分を笑う  ~ 紫外線対策で ~   2013年6月16日・日・ 記

 「ああ、今日もいいお天気・・・!」
 朝起きた時には陽がさしていた。そして、その後は、外に目をやらずに、自分の部屋に籠もって議会関係の仕事をしていた。

 市庁舎に出かけるので、紫外線防止策のため、首筋や腕など、顔以外の太陽にあたりそうな部分にも、洗面所で日焼け止めクリームをしっかりと塗る。「さて」、と玄関のドアをあけると、何と、外は雨だった。そんな時、慌てて、傘を手に取り、自分を笑ってしまう。

 
 夕方、帰宅したとき、蛍光灯をつける。何だか部屋が暗い。どうしたのだろう。蛍光灯がおかしいのではないか。いつもと全く違って、薄暗い。しばらく気づかなかった。着替えようと鏡の前に立ったとき、初めて気づく。何と、サングラスをかけたままの自分の姿が写っていた・・・。
 いつもではないけれど、紫外線よけに、忘れない時には、サングラスをかけることがある。

 
 教員時代、何の防止策もとらなかったので、春から秋、外での子どもたちとの活動では特に、長い年数の間、紫外線を浴び続けて過ごしていた。

 
 当時、腕が細かったので(?)、白いとよけいに細さが目立つような気がしていやだった。だから、少し日焼けしたいというほうが、むしろ願望だったこともある。半袖の腕の隠れた部分の白と露出部分の黒。体育の授業などでは、見事にすぐに日焼けする。


 あの頃は、世の中で、有害な紫外線を吸収し地上の生態系を保護しているオゾン層の破壊が言われていない頃だった。だから、もしかしたら、紫外線から身を守る防止策をとっていなかったのは、私ばかりではなかったかもしれない。

 でも、その頃から、肌を大切にして、日焼けしないように顔や腕にいつも日焼け止めクリームを塗っていた友だちがいたことも、後から知った。


 何もしないことが良くないことに気づいた時は、もう遅かった。今は、可能な限りの防止策。というわけで、もう間に合わないと知りつつ、肌の老化など含め、多方面から、紫外線の影響が少ないようには、心がけている。
 
 
 「私って、ほんとにバカだったのよね・・・?」と、夫に言いながら、紫外線対策を怠った自分を笑う。夫にも、皮膚がんの予防は、もちろんのこと、シミ、ソバカスなど肌の老化予防にも、日焼け止めクリームをお勧めしています・・・ね(笑)。






180         「僕と一緒」は、ハプニング                 2013年5月25日(日・記)

 5月の連休。風のない青空のもと・・・。三宅農園(近所の7,8軒で畑を借りていて、その一区画・三宅分を勝手に我が家でこう呼んでいる)に苗を植えようということで、買い物に出た。

 夫は、野菜の苗を買い、私は、庭に植えるなでしこや金魚草やマリーゴールドなどの花を買った。

 苗が中心だったが、他にも買い物をしたので、けっこうたくさんの量になった。会計のところに進んだ夫が、振り返り、レジから少し離れていた私に声をかけた。
 
 苗などを入れた箱を一つ抱えた夫が 私に「あなたは、それを持ってきて・・・」と言って、コンクリートの床に置かれたもう一つの箱を目で示した。箱はレジを打つお店の人のほぼ目の前の位置にあった。

 私は、「はーい」と応えて、その箱を持って行こうとしたら、別のお客さんがその箱をとり、レジに進んだ。

 
 私は慌てて、「すみません。あのう・・・それ、こちらのなんですけど・・・」と言った。すでに代金の支払いが終わり、夫が床に置いたであろう物を、持っていかれたら、困ってしまう。


 すると、そのお客さんも慌てて、「あら、私、どこに置いたかしら・・・」と言って、レジから立ち去り、苗の売り場にもどって行ってしまった。


  私は、ちょっと不安になり、出口に向かおうとする夫の後ろ姿に向かって、
「あなた、あの箱、うちのでいいんでしょ?他のお客さんが・・・」と助けを求めるように言った。

 「うん、いいんだよ」と、夫は言ったが、その後で、お店の人に何か言って、「あれ?ああ・・・」と言った。

「あっ、二つを一つにまとめたんですか?」と言って、「ははは・・・」と、夫は、自分の失敗に笑った。

 (夫の勘違いに)私も笑っってしまったけれど、恥ずかしくもあった。お店の人も笑っていた。

 
 さっきのお客さんが、不思議そうな感じで戻ってきた。もちろん、その手に苗の箱はない。

 「すみませーん」と、私は平謝り。
 
 もともとは、二つの箱だったけど、レジでお店の人が、一つの箱にまとめたので、もう、私たちの買った物はすべて受け取っていたのだった。

 
 そのお客さんが、自信を持って、「これは私の物です」と言ったら、「うちのだと思うんですけど・・・?」という感じになり、どうなったでしょう?

 
 

 私たちが車に乗り込んだところで、そのお客さんも買い物を終えてお店から出てきて、今度は、二人で「すみませーん」と大きな声で謝った。全然、気を悪くしていない様子で、よかった・・・!

 
 苗は同じような種類を買っていたのだと思います・・・。どうして起きた「勘違い」か、わからなかったけれど???  面倒なので、追及(?)はしなかった。


 こちらが二重に持って行ってしまうところだった?(実際には、お店の人がわかっていたので、そんなこともないのですが・笑)。


  笑いごとではないのですが、二人で、はずかしいやら、おかしいやら・・・で。
あのお客さんのことを、「いい人なんだよ・・・」と、夫が言った。迷惑をかけてしまいました・・・。すみません・・・。


 「ぼくと一緒にいると、ハプニングがあるよ」と夫が言った。そんなことに自信もたれても困るんですが。
 



179              着物                        2013年4月7日(日)
 
 ある日、新聞の随想欄に、虫に食われないように、着物の手入れをすることが書かれていた。投稿者の母が遺した着物のことだったと思う。詳しい内容については、まだ、それほど前のことでもないのに、記憶が薄い。
・・・というのは、それを読んだとたんに、着物の保管について、怠っていたことを急に思い出し慌てたからだ。

 

 私は、着物が虫に食われていたら大変だ、という思いにかられた。防虫剤を最後に入れたのは、いつだっただろう。
 明日にでも、防虫剤を買って来なければと思った。来客の準備でもない限り縁のない客間の押し入れの高い棚から、着物の入った箱を取り出して中を見た。防虫剤の痕跡はあるものの、袋の中身は空っぽになっていた。


 着物は、結婚した時、実家においたままにして、後から、母に取りに来るように言われて、持ってきたものだった。実家が家を建て替えるときのことだった。それまで置いてきてしまうというのだから、きっと、着物は私の眼中になかったものなのだろう。


  赤の地に花柄の着物は、何とか無事だった。一度も袖を通したことのないウールの着物は、ちょっと怪しかった。着物は、どれも派手な色柄だった。ピンク地の着物も無事で、「着物で行ったら?」という母のすすめで知人宅の訪問時に着て行ったことを思い出させた。


 赤地の着物は友だちの結婚式に着たものだった。そして、この着物は私の結納の時に着たものだった。私自身は、結納というしきたりには興味はなかったが、まだ、その頃は結婚が「両家」という感覚もあった時代でもあったので、それに従った。

 
 結納の日の朝、何があったのか忘れてしまったが、父が、突然「僕は(結納の席に)出ない」と言い出した。そんなに怒らせるようなことを私が言ったのか、内容は思い出せない。そのとき、私はただ困ってしまった。


 「お父さんに、挨拶をしなさい」と、母に言われたようにも思う。、結納の日の朝、父が気分を害したのは、これまで育ててくれた親に対する礼儀の事だったのかも知れない。母のいう「挨拶」とは、「今日(結納の日のこと)、よろしくお願いします」という挨拶のことであったと思う。


 いや、そんなことではなくて、何か私の態度がいけなかったのか、自分でもわからなかった。とにかく、母に言われた私は、父に「挨拶」をしたと思う。
 
 
 母が間に入ってとりなし、何とか無事、会場である料亭に向かうことができた。夫の両親はすでに他界していて、夫の実家である兵庫県からお兄さん夫婦がやってきて、仲人さんのもと、結納をすませた。



 着物を目の前にして、私は結納の日の朝のことを思い出していた。もしかしたら、父は寂しかったのかも知れないと、今になって思う。


 防虫剤を着物の箱に思う存分入れながら、この着物は、もう着ないだろうなと、私は思う。娘にやったら、着るだろうか。私同様、娘も着付けを習得していないし、自分ひとりでは着られない着物。これまで、その存在さえ頭になかった着物。でも、虫に食われていたら、ひどくがっかりしただろう着物。

 
 あまりよくない思い出ですが、結納の日の、ありし日の父を思い出させてくれた着物でもありました。







178            議会を気にしていた父              2013年3月30日・土

 2008年11月中旬に、父は、自分の部屋のベッドと作り付けの書棚の狭い空間にすぽっと体が落ちて、出られなくなったことがあった。家人がそのことに気づき、脱出するまで数時間が経過していたため、高齢の父の体は異変をきたしていた。
 
 
 あとで考えると、異変が起きたから、すぽっと体が落ちて動けなかったのかも知れなかった。

 
 救急車で運ばれた夜、私たち身内の者は、危険な状況であることを医師から告げられた。医師の説明では筋肉の状況を表す数値が異常であるということだった。


 最悪のことが起きても、、誰のせいでもない。仕方のない状況だったのだ。親族である私たちは、遺されるかも知れない立場の者として、そのことを確認しないわけにはいかなかった。


 父は自分の部屋で本を読んだり書き物をしていることがほとんどだった。だから、部屋から出てこなくても、誰も不思議に思うことはなかった。

 
 父89才。奇跡的とも思える回復力だった。ベッドと書棚の空間に落ちて数時間の精神的ストレスのせいか、体内からの出血も数日間は続いたように思う。しかし、日を追うごとに回復する様子は、父の生命力の強さを感じさせた。父に「こんなことでは死なない」という気持ちの強さがあったから、危機的状況から脱出できたのだろう。

 
 病からの闘いから、ある程度解放され、食堂で食事もできるようになると、父にとって入院生活はきわめて退屈だったとしかいいようがない。兄が毎日届ける新聞をベッドの上で読んだ。本を持ってくるように私も言われた。


 私は、父の体の心配はもちろんだが、何よりも認知症を恐れた。高齢者が入院すると、認知症になりやすいことをきいていた。私はそれが気がかりだったから毎日病院に通ったと言ってもよい。病院に行かない日をつくってもよかったのだけれど、「休み」をつくらなかったのは、単調な入院生活で、父の頭がぼーっとしてしまったら、どうしよう・・・と思ったからだ。



 父は、議会のことを気にしていて、私に尋ねた。
「議会はいつから?」  「もう、そろそろ・・・」と私が答えると、「がんばって」と父は少しかすれた声で言った。
 議会が近づくと、娘が(病院に顔を見せるのも)大変だろうという気持ちがあったのだろう。
 
 
 議会の内容をきくわけではない。私も言わない。けれど、父は、私に、ふだんからよく議会の日程を尋ね、「がんばって」と言った。議会が始まる日を言うと、それもよく憶えていた。


 私が議員になってから、父は、娘の議会での質問を聞きにきたことは一度もなかった。作成した「傍聴のおしらせ」を渡すことはあったので、文字をよく読む父のことだから、その「案内」を見てはいただろう。元気な時の父は自転車に乗って議会の傍聴に来ることも可能だった。

 

 わざわざ議会に来ることはなかったが、ひとりの市民として、議員にはがんばってもらいたいというのも、父の本心だったのだろう。だから、「議会はいつから?」「議会、がんばって」という言葉を、私は、生前の父から、挨拶のように、何度も言われてきた。
 
 
 病室を出るとき、つい、「お父さん、また、明日くるから。早くよくなってね」と私は言ってしまう。

 
 さすがに、一般質問の前日だけは、父を見舞うことができなくて、夫に代わりに行ってもらった。「明日行くなんて言わなければよかったな」と思ったりもした。でも、ついつい同じ言葉を言ってしまう。
 

 1日おいて、その次の日、父は私に、「昨日は、三宅さんがきて、【僕ですみません・・・。明日は盾子さんをよこしますから】と言った」と、おかしそうに笑った。
 

 「無理しなくていいよ。時間を無駄にしないで」という言葉を、父の口から何度も聞いたのも、この頃だった。病人ではあるけれど、まだ元気のある病人だった。相手のことを気遣う余裕もあった。
 

 父、93才。2012年の入院では、父からこの言葉は、ほとんど出なかった。「来てもしょうがない」と言ったことはあったかも知れないけれど。私は、その言葉の意味を尋ねなかったが、多分、(そのとき自分の体調が悪くて)来ても話ができないからという意味だったのだろう。



 私が夜遅く行ったときなど、閉じていたまぶたをあけて、「ああ、(すっかり眠ってしまわないで)起きていて、よかった・・・」と父は笑顔になった。私が行くのを「待っていたのだ」と私は思った。

 

 父が高齢なので、何も起こらないようにと願い、入院したときも、入院していない時でも、議会を乗り越えるたび、私は、ほっとしたものだった。そして、父は、入院しても、娘に「議会はいつ?議会がんばって」と娘の議会のことを気にしていた。




 
 数年前のこと、夫が私の古い車に乗って、私が新車購入・・・ということに気が進まなかったにせよ、何だか悪いことしたなあと思って、そのときの状況があったはず・・・と思って、エッセイを昔に戻してみた。確か「青い車」のことを書いていたなあ・・・と思って。

 そうだ、娘が就職し始めたころ、駅までの娘の通勤の足として、我が家3台の車が必要だったのでした。(その娘も、すぐに家を出て一人ぐらしを始めたので、ほんのわずかの期間でしたが・・・)

 
  それで、私が新車に乗ることが一番いい方法だと夫が言ったのでした・・・。理由もなく、ひとに古い車乗らせて・・・ではなくて事情があったのだ。あーそれほど悪い人でなくてよかった・・・と自分の胸をなでおろしました。でも、まあ、すごーく優しい夫です(笑)。

 当時の様子は、以下のエッセイで、再確認したのでした。



  〈過去のエッセイ〉から~
131        青い車あれこれ・・・                (09・4月12日・記)

 私が青い車に乗って、今年の8月で2年になる。しばらく前まで、「車、変えたの?」と言われて、「ええ」とか「うーん」とか答えるが、もとの深い赤の車も健在だ。じゃあ、赤は誰が乗っているのかと言うと、夫が使用している。

 なぜかというと、話はややこしい。
 夫は、車を長く愛用することを半ば自慢のようにしていて、自分の車も10数年も乗っていた。家族の中で、車を買うなら、当然、一番古い車に乗っている人が順番だろう。その常識を我が家では破ってしまった。それというのも、わけがある。

 娘が大学卒業後、家に戻ってきた時から、車のことが問題になった。大学を卒業して、6月末に帰国した娘は、その時期から就職活動を開始した。朝早く家を出る場合もあれば昼間から出かけることもあり、送迎の必要ありで、こちら側の自由がきかない。

 そこで、娘に駅までの足としての車が必要になった。と言っても、娘に新車を買ってやる気持ちはない。家族の誰かが新しい車を買って、古い車に娘が乗る。この方法が一番いいと考えた。

 夫の車が一番古いので、普通ならば、夫が新車を購入するのが当然のことになる。しかし、娘は日本に帰ったときに、免許は取得していたが、夫のクラッチ式の車には乗れない。そうなると、私の車を娘にやって、私が新車を購入することになる。

 夫は、「あなた、車買えば・・・」と、最初から言っていた。
「えー、だって、あなたの車が一番古いじゃない」

 


 私は、何だか悪いような気がして気が進まなかった。夫は、知り合いが乗っている車で、あの車種がいいと言う。色もブルーのきれいな色で、燃費もよくていいと言う。そんなわけで、本当ならば、私自身もどんな車がいいか考えるのが普通だが、夫の意向で、車が決まった。

 私は夫に引っ張りだされるように、販売店に向かった。同じブルーでも、新機種は、少しだけ色が違っていた。

 しばらくは、夫はもともとの自分の車、娘が、私の赤い車、私が、新車である青い車に乗っていた。しかし、1年もたたないうちに状況は変化した。孤独な就職活動の後、昨年の4月、娘は晴れて就職した。しかし、娘は就職後、2,3ヶ月で、通勤が大変なので、都内に引っ越したいと言った。
 
 自分のお給料で自分で生活することも良いだろうと言うことで、娘が使っていた車は不要となった。乗る人間が2人になったのに、車3台は必要ない。廃車なら、当然、一番古い車が該当する。夫の車を廃車にした。

 「じゃあ、私が、(また)赤い車に乗るから。あなたが、(新しい方の)青い車に乗って」と私は言った。
「いいよ。僕が買うなら、もう少し大きい車を買う」

 私は、それを聞いて、「えっ、どういうこと?」と思った。
「私なら、小さくていいってことなの。私だって、自分の車を買うなら、もう少し大きめの車がよかったのよ。自分の車っていう意識があったら、自分でいろいろ選んで買うわよ」

 私が言ったことも本当だった。普通の状態で自分の車を買うとなれば、車に関心がない私でも、カタログを見ながら、どれにしようかと考えただろう。
 それで、その時は、ちょっと気まずい雰囲気となった。

「だって、あなたは市内中心なんだから、小回りがきいたほうがいいんじゃない」と夫は言った。遠出するときには、もう少し大きめの車というのが、夫の考えだったようだ。

 実家に初めて青い車に乗って行ったとき、父が言った。
「もっと大きい車がよかったんじゃない」と、父は青い車に不満そうだった。
 「えー車なんて、大きくったって、小さくったって、いいんじゃない」
 言われると正直言って複雑で、ちょっと気分がよくなかった。
 
 赤い車だって、大きな車ではない。ただ、青い車より車体が長いだけなのだ。でも、赤い車のほうが高かったけど。そんなところなのだ。

 
 その後、青い車に父を乗せて出かけたとき、父は、「なかなかいい車なんじゃない」と言った。もしかして、父は前に言ったことを悪かったと思ったのかも知れない。「うん、○○さんが選んだの。小さいけど、なかなかいいのよ。中の仕様もばっちりだし」と、私は言った。

 きれいな青。その青い車があまり多くないことを、私は心のどこかでちょっと思っていたかもしれない。
 青い車に夫と一緒に乗ったとき、私が夫に言った。「ねえ、この車、すごく多く走ってない?青がきれいだなと思ったけど、ほんとに多いのね」
 以前、ある場所で、車を止めたら、私とすっかり同じ車で、帰るとき、間違えそうになったこともあった。

「いいんじゃない?目立つ車だと、いつどこにいるか、すぐにわかっちゃうよ」と夫。そういえば、そうだ。赤い車に乗っているときには、「車があったから、三宅さん、来ているかなと思って」とか、よく言われたものだ。目立つ車はだめ、と思った。悪いことをしているわけではないけれど。

 

 今、私は青い車が気に入っていて、大きな車に乗っている人を見ると、なんで、あんなに大きな車に乗っているんだろうと、勝手に思ったりしている。夫が古い車で悪いなと思いながら・・・






177             車を買うまで                (2013年3月24日・日)        

 夫が、「最後の車」を買った。今回ほど、選んだことはなかっただろう。物を買うとき、家を建てるとき、土地を決めるとき、私たちは「あ、じゃあいいんじゃない?」という感じで決めてきた。

 今の場所に住むようになったのも、たまたま近所の家を訪れた住宅会社の営業の人が、その頃、結婚して間もない賃貸住宅暮らしの我が家にも立ち寄ったから。


 私たちはお互いの車を買うにも、特にいろいろ考えたり選んだりすることもなかった。それは、ただただ面倒くさかったからに過ぎない。


 私がいま乗っている車は、夫が、勝手に(?笑)決めて、二人で買いに行った。夫は、自分が新車を買うのではなくて、「僕は古い車でいい」ということで、私のそれまで乗っていた車に自分が乗ると言った。

 ※当時、就職した娘に古い車をやることになったが、クラッチ式の夫の車ではだめなので、私の車を娘にやって、私が新車を買うことが一番いい方法だと、夫が言った。

 事を進める夫に対して、私は、自分が新しい車に乗り、私の古い車に夫が乗ることに積極的に賛成することができずに、車を選ぶ気持ちになれなかった。


 夫は、今回は、「最後の車を買う」(笑)ということで、数ヶ月にわたり、数件の販売店を巡り選考?した。


 いくら何でも、もう古くて買ったほうがいいんじゃないということで、とにかく「買う」ことになったとき、夫が悩んだのは車種だった。


 
 その頃、私の父が入院中だった。

「お父さんを、外に連れていくのに、もしお父さんが車椅子になったら、車椅子ごと乗せられる福祉車両的な車がいいと思う・・・」と夫は言った。

 
「そうね・・・確かにそういう車だったら便利だけど・・・、ほんとにそれでいいの?」と、私は言った。そんなふうな車選びが、本当にいいのかどうなのかわからなかった。


 ただ、夫が、私の父のために、そんなことも考えてくれているんだと、私は嬉しかった。父が入院して、その後、9月初旬に退院し、ショートステイで施設に入った頃も、車種はどうするか・・・で、夫は迷いと「研究」を重ねていた。

 
 父は、歩けるようになっていたが、足腰の衰えには勝てず、歩く速度はきわめて遅く、椅子から立ち上がると、やっと歩き出すという感じだった。幸いにも、母のいる入所施設に、ショートステイで入ることになった父は、ほぼ毎日のように母に会うことが可能だった。

 
 少なくとも晩年の父は、母のことを「この人は偉かった。勉強家だった」といい、心から愛おしんだから、母に会えるそこでの生活は幸せだったに違いない。実際、父は母に会うと、笑顔で嬉しそうな様子を見せた。


 しかし、父のショーートステイ暮らしも、一ヶ月ほど経った10月初旬に、父は今度は肺炎になってしまった。

 
 
 そして、順調に肺炎からも回復したと思われた頃、父は入院中に再度の肺炎となった。その前の脳出血での入院からは回復できたものの、2度目の肺炎は、確実に父の体力を衰えさせていった。最初の肺炎発症からの2ヶ月後、父は旅だってしまった。



 暮れも押し迫り、新しい年は、すぐそこだった。父の葬儀が行われ、私は父が亡くなった後の、今まで経験したことのないお正月を迎えた。

 夫は、福祉車両的ではない、普通の車を買うことを決めた。ちょうど、初売りの季節、夫は車種を決め、迷いながら色を選んだ。とてもきれいで目立つ色の車もあり夫も私も心惹かれたけれど、目立ちすぎて、結局どこにいるかわかってしまうような色は、やめようということになった(笑)。
 私自身も、かつて、それほど目立つ車でなくても、「昨日、三宅さん○○・・・にいたでしょ」と知人に言われることもあった。


 
 2月、夫は新しい車に乗り始めた。
 今、夫は、私と出かけるとき、車を走らせながら助手席の私に、「(この車は)車の顔がいい。色もいい」と、言って、満足の様子。


 「最後の車」と言っているのは、あと、10年以上乗ったら、もう、高齢で、もしかしたら車には乗らないかも知れない、だから新しい車を買うこともないかも知れないという、意味を含んでいる。






176                   心をつなぐ?贈り物            (2013年2月23日・土)

 「ねえ、このネックレス、結婚してすぐに私にプレゼントしてくれた物なのよね」と夫に言った。
 その昔、夫が職場の旅行に行ったときに、お土産に買ってきてくれたものだった。

「そうだっけ・・・?」と夫は全く憶えていないらしい。
 
 そのネックレスは、とても繊細なものなので、ふだんはあんまり身につけないものだったが、ちょうど、その日は身につけていた。たくさんの大小の真珠(本物かどうかは知らない)が、びっしりと編まれるように連結したもので、そのような物をお店で見たことがない。もしかしたら、あるのかもしれなくて、私だけが見ていないということかもしれませんが。


 私の古い記憶では、旅先で迷う夫を見て「こういうのを奥さんに買っていったほうがいいわよ」と同僚の女性に言われて選んだと夫は言っていた。ネックレスとイヤリングがセットになっていた。
 イヤリングはすぐに耳から落ちてなくすことも多かったので、そのイヤリングを身につけることはめったになかった。自分で買ったものはなくしても惜しくはなかったが、夫からのプレゼントのイヤリングはなくしたくなかったから。

 
 それに、それからずうっと後だが、なくし続けるイヤリングに縁を切りピアスにしてしまった。そんなこともあって、イヤリングのほうは、記念品として箱の中で眠ったまま外に出ることもない。


 「昔は、愛があったのねえ・・・。だって、そのあと、こんなプレゼント買ってもらっていないもの・・・」と私は言ってみた。
 
 すると、夫は言った。

「昔は、プレゼントしなければ、愛がつなげないと思ったから、そのためにプレゼントした」

「ふぅ~ん・・・」と言いながら、夫の答えがおもしろくて、私は笑ってしまった。

 プレゼントというものは、相手の心をつなぐためにする行為なのか。なるほど・・・と思ったり、思わなかったり。男性が女性に贈るプレゼントも、そう言えばそうかも??


 結婚してすぐの頃は大変だったということらしい。お互いの生活習慣をお互いに認め合うということが、お互いが慣れるということが大変な時期もあった。プレゼントなしには生活が困難だったということらしい。

 
 今は、プレゼントをしなくても、相手の愛があるから大丈夫ということなのか、それとも、あなたの愛はつなぐ必要がないということなのか。どちらなのかは、知らない。


 もしも、「じゃあ、(愛の証のために)プレゼントを買ってくるよ」と出て行って、貯金をおろさないと買えないようなダイヤでも買ってきたら、どうか。
 
 嬉しいどころか、「どうして、そんな(無駄な)ことにお金使うの・・・私はダイヤなんかいらないのよ」と言ってけんかになるかも。
 プレゼントは愛をつなぐどころか、二人の仲を引き裂くことにもなりかねない(笑)。
 
 
 愛あるところには、プレゼントなし・・・というところに落ち着いた。





175              父の散髪                       (2013年2月3日・日)

 入院生活もしばらくたち、リハビリ病棟に移った頃、父が髪を切りたいと言った。夏を迎えていた。そのころ、
病院関係者の努力はもちろんだが、父の懸命な努力もあり、自分で歩いて自分のことができるようになっていた。

 父の性格は几帳面でもあり、身ぎれいにすることを好んだので、伸びた髪を放っておくことが嫌だったのだろう。

 早いほうがよいと思い、ちらしにあった訪問理容サービスに連絡をとった。父の頭には、白髪の下から黒い髪がかなり生えてきていた。

「お父さん、黒い髪が生えてきているわよ」と、私が言うと、父は黙って笑っていた。

 約束の日になると、「こんにちは!」にこやかな感じの良い女性がやってきた。父は車椅子に乗り、病院の廊下の洗面所の鏡の前で、散髪が始まった。

 私は、父にずっと付き添っていなくてもいいと思ったので、その場を離れていた。もどってみると父の髪は今までになく、ずいぶん短くしてもらっていた。

「短いけど、いいの?」ときくと、「いい」と父は答えた。

「さっぱりした」と父は笑顔だった。リハビリで、自分で歩いてトイレや洗面ができるのだから、また元通りの生活ができると思っていた頃だった。

 
 姪には赤ん坊が生まれたばかりだった。ひ孫にあたる赤ん坊の顔に会えるのをどんなにか楽しみにしていただろう。

 
 父の頭には、退院したら自分の家に帰れるという思いがあったのだろう。だから髪を整えたいという気持ちにもなったのかもしれない。


 その後、9月初旬に、父は退院したが、帰宅困難という事態があり家に帰ることができなかった。ショートステイで施設にお世話になることになった父。言葉は少なかった。私には、心のうちは明かさなかった。娘に言ったところで、どうにもならないと思ったのかもしれない。


 約一月後、肺炎で再び入院することになった父は、また、ベッドの生活になった。治療には一月を要するという話だった。時が過ぎ、前にかなり短く切った父の髪も伸びてきていた。


 父の病気も快方に向かい、退院も、もうすぐという頃、私は尋ねてみた。

 「お父さん、髪が伸びてきたから、また、お願いしましょうか?」
と私はきいてみた。
 髪がさっぱりして、父の気持ちも明るくなるだろうと思ったのだ。すると、私の予想に反して、父は、「いい」と短く答えた。


 私には、その答えが、ひどく寂しかった。恰好を気にしなくなるということは、どういうことなのか。この前の散髪は、家に帰り元の生活を始める支度だったのか。

 私は、「どうして?」とは聞くことができなかった。


 病院の廊下の洗面所での散髪の光景と、「さっぱりした」という父の笑顔が思い浮かぶ。傍らでは、髪の伸びたパジャマ姿の男性が、その様子をじっと見つめていた。





174               窓辺の人                      (2013年1月12日・土)

 病院の駐車場に車を止めて降りると、よく窓辺にたたずむ人の姿が見えることがある。姿は、一人の場合も、二人の場合もある。窓の大きさからしても、そこに立つ人の数は限られるから、大勢の人の姿を見たことがない。

 その姿を目にしながら、歩く。病院の入り口を通り、受付のところで、面会人カードに記入する。面会人のバッジを渡される。父の病室へと歩む。何度、同じ事を繰り返したことだろう。

 
 脳出血の治療後、一度退院した父は肺炎で再入院となり、ベッドから離れることができなくなった。その頃、私は駐車場から窓辺を見上げるとき、私と父もああやって窓から外を見ていたものだ・・・と思い出した。父も、外の景色を眺めることが好きだった。

 これまで親もきょうだいも失ったこともなかった私は、肉親をなくしたことが、こたえた。でも毎日泣いているわけではない。普通に起きて普通に暮らしている。いた人がいなくなったことが、まだ、それほどは信じられない。

 
 私の年代のほとんどの人が経験していることが、ついに私の身にも、起こったということなのだろう。特別なことではないのだ、と自分に言い聞かせる。


 人と会ったとき、自分から、わざわざ肉親の死を語る気持ちにはなれない。周りの多くの人たちが経験し、乗り越えてきていることで、相手にとっては、何ら珍しいことではないのだから。

 話せば、「何歳だったんですか?・・ああ、そうなの?(じゃあ~ねぇ・・)」「長生きだったのね・・・」と言われるかもしれない。そうしたら、私は「ええ、そう・・・長生きだったの」と言葉少なに答えるだろう。


 長生きだったからこそ、いつそのときがやってくるのか、ここ何年もの間、私は、「そのとき」を恐れて生きてきた。暑い夏を越えられたら、秋がやってきて、寒い冬を越えられたら春がやってきて・・また1年、父は何とか過ごせるだろう。季節が巡って来るたびに、ひとり心の中で祈った。


  父がなくなってから、ひと月もたたないのに、窓辺の人を見なくなって、ずいぶん長い時が流れたような気がしている。





173           「希望」というもの                   (2012年11月18日・日・記)

 父が入院してから、可能な限り、私は短い時間でも病室に顔を見せることにしていた。
ある日、廊下で車いすの女性患者と親族らしい人びとの会話を耳にした。

 
 患者が何か言ったあと、おそらく娘と思われる女性が言った。

「一人でトイレに行けて、歩けないと、家に帰るのは無理なんだよ」

車いすの女性は、ただ、悲しそうな顔で、しかし、訴えるような表情で黙って娘らしい人を見ていた。

 
 確かに、誰かの手を煩わせないと生活できない人が家にいると、大変だ。トイレの問題も大きい。本人も辛いだろう。

 家で寝たきりの人を介護している人から見たら、冷たい家族と思うかも知れない。でも、でも、私は、たまたま居合わせた家族の人の気持ちもわかる。周囲の人の生活全体に支障を来してしまうと思うのだ。時に人生設計さえ狂わせる。


 私の父についても、父に同居の家族がいるとはいっても、とても、これ以上の負担はかけられなくて、歩けない病人のトイレや入浴の世話等を考えると、私も「(かわいそうだけど)家に帰るのは無理ね」という結論を出してしまう。

 
 
 父が歩けてトイレにさえ行けたら、入浴の介助はサービスを利用して、自分の家に帰ることも可能ではないかと私は考えた。入院したばかりの父が数日たっても、歩くことに意欲を示さなかった頃、父に言った。

 「お父さん、歩いてトイレに行けないと家に帰れないから、がんばってね」


 看護師の方も、「家にいた時には、車いすでなくて、歩いて自分のことができていたんですね」と私に聞いて、父を励ましてくれた。

 父もそう思ったのか、それからの父は、少しずつ歩くことに、懸命だった。入院前の自分に近づくためのリハビリも始められた。

 
 
 そんなある日、父がひとりで歩いてトイレにも行く姿を見たとき、私は驚いた。高齢なのに、何とすごい回復力なんだろう。食後には、歯磨きもしているという。リハビリ担当の方にも頭が下がる。
「自分の家に帰りたい、帰りたい」という一念だったに違いない。


 時には車いすを押して、時には父に合わせてゆっくりと歩き、私たちは病室から出て窓から外の景色を眺めた。
「ほら、あの道が駅に行く方よ」

 父も外の景色を見ることを楽しんで、しばらくそこにいた。数少ない窓から窓へと移動し、そこから見える風景にしばらく見入った。

 人が「希望」を持つことは、すごい力なのだと感じた。しかし、思わぬ状況の変化により、帰宅が困難と思われる事態が起きた。ある日、私は、父と廊下のソファに並んで腰を下ろし、単調な病院の日々を父に尋ねた。

 
 「お父さん、何を考えているの?」
父の言葉は、「何も考えていない・・・」だった。

 そして、父は少し笑って続けた
「考えてもしょうがないから」・・・と。

 父は、私には、「家に帰りたい」ということは、ひと言も口にだしたことはなかった。

 
 家で家族が介護をするのが、あたり前の時代があった。今でも、それがあたり前と思う人たちもいるだろう。介護をする人、される人の関係はどうだろうか。

 
 介護する側は自分の時間が奪われ、したいこともできなくて不満があったり、肉体的に大変だったりして、相手に憎しみが生まれたりすることはないのだろうか。愛する家族であるにもかかわらず、早くほっとしたいと思うことはないのだろうか。


 その人によって、家族によって、介護の仕方も考え方もさまざまだろう。家族なのか、施設なのか、どちらがどうなのかは、言えない。ただ、言えることは、一人の人間の命が、誰からも大切にされ愛おしく見守られる環境におかれることがいいのではないかと思う。

 
  
 一度退院した父は、今、再び病院にいる。別の「希望」を抱いて懸命に命をつないでいる。





172          スイカ(suica) の不思議・・・?           ( 2012年10月27日・記 )

 10月14日、東京で双葉町の原発避難の人びとを描いた作品「双葉から遠く離れて」をみるために、東京渋谷に出かけた。本当は東京在住の娘と一緒にこの映画をみたいと思っていた。

 夫とみることも選択肢に入っていたのですが、会議が入っていた(笑)。
 残念ながら、娘は、自分が勉強している事の試験日であるということで、一緒にみることはできなかった。そんなわけで、映画はひとりでみた。大きな映画館ではなかったけれど、満員だった。

 
 上映二日目のこの日は監督や双葉町の町長と町の人たちが来られ、話を聞くことができたのもよかった。(インターネットを直前に見たとき、「変更」ということで、双葉町の井戸側町長の挨拶が初日から二日目に変わっていたので、私もそれに合わせて変更しこの日に出向いた)

 
 映画が終わる頃、娘も試験が終わるということだったので、池袋で落ち合う約束をした。

 池袋駅改札を出るときに、財布のカード入れにあるはずのスイカのカードが見あたらなかった。確か渋谷駅に入る時にはあったので、どこかバッグの中でまぎれたのかと思ったけれど、ない!  

 「すみません。スイカをなくしてしまったんですけど、渋谷から乗ったんです」
 渋谷から池袋までは、安い運賃だったので、急いでいた私は、もたもたせずに娘に会うことが先決と思い、少し暗い気持ちながら、運賃を払い池袋で降りた。(渋谷から乗った証拠はないけれど、駅員さんは快く通してくれた)

 

 お茶を飲みながら、娘の話を聞いたりしながら時間が流れた。二人とも忙しく、娘は娘で、その後、食事会に参加予定で、私は、夜になるけれど、父の入院先の病院に寄ってから家に帰りたかったので7時前には行田に到着したかった。

 「じゃあね。元気でね!」と言葉を交わしお互いに次の目的場所へと別れた。この日、私は、アイボリー色のジャケットを着ていた。

 

 改札を入るとき、ふと、ジャケットのポケットに手を入れた。その時、固いものが指に触れた。スイカだった。「ああっ・・・」と私は心の中で小さく安堵の声をあげた。必ず財布に入れるのに、何気なくポケットに入れたのか?あのとき、時間のことを考えて慌てていたから。


 私はほっとした。何しろ、スイカには、お金がまだけっこう入っていたはずだったから。
 元々睡眠不足なので、電車の中では、女性の乗客のファッションをみながら、眠ってしまった。無事、行田駅に到着。

 

 睡眠もとれたし、スイカも見つかったしで、安心して気持ちよく改札にスイカを通すと、ブブーと音が出たかどうかわからないが、改札が閉まった。なぜなぜ?

 
 驚いて、駅員さんに尋ねた。駅員さんは、カードを確認し、「お金が入っていませんよ」ということ。私は理解できなかった。
「お金は確かに入っているはずなんですけど・・・」
 この日、乗車前に、スイカを機械に通して残金に加え、乗車賃以上の余分の入金もしていた。

 しかし、自分で機械を通しても、やはり、「不足代金○○円」と出てきたので、仕方なく、精算して改札を出た。

 
 
 駅に近い駐車場で車に乗り込んだとき、改めて、財布のカード入れをもう一度探してみた。何しろ記憶では、いつもの習慣で財布にスイカを入れたはず・・・。そのカードがポケットにいつの間にか移動して、お金だけがなくなっている?


 このとき、私は見つかったカードの他にもう一枚のスイカがあるとは思わなかった。でも、なぜか財布をもう一度探した。

 
 全部出してみた。診察券から図書館のカードやらお店のカードやら、重なり合ってたくさんのカード・・・。あった!スイカはやっぱり財布のカード入れにあったのだ。急いでいたので最初の探し方が悪かったのだ。


 ・・・ということは、スイカのカードが2枚あるということになるのだった。では、ポケットから出てきたスイカは???

 
 思い出したのは身につけているアイボリー色のジャケットを着た日のことだった。もう1年半近く前のこと。
 
 
 若葉かおる5月の連休のある日、娘が結婚することになったお相手の両親との初顔あわせに選んだ服だった。ふわっとした感触が好きで、私はこのジャケットに白いスカートを組み合わせた。あの日以来、このジャケットはハンガーにかけられたまま袖を通していなかったと思う。


 「あちらのご両親もいい人でよかったわ・・・!」あの日の帰り、夫とふたり、行田駅の改札を通った後、財布に戻さず、スイカをジャケットのポケットに入れて、そのままだったのだろう。
 最初に「あった!」と思ったのは、あの時の古いスイカのカードだった。だから、あるはずの残金が入っていないわけだ。だから、改札で「ブブー」?のわけだ。


 ふだんの生活では、車ばかりの利用で、列車を使うことは少ない。あの後、しばらくして使おうと思ったときにスイカが見つからなかった。けれど、まさかジャケットのポケットの中とは思いもよらなかった。

 どこかでなくしたと思ったスイカはポケットの中に存在していたのだった。残金少ないと思われたスイカはすでに私の記憶から消え、新しく作ったカードだけが私の頭の中にあった。だからスイカが2枚あるなんて考えもしなかった。


 
 実はこの薄手のふわりジャケット、出かける前日に手洗いで水に浸し、洗濯機で秒単位だが脱水にもかけた。私はカードの存在に気づくことなく、その作業にも耐えてカードは健在だった。もともと洋服のポケットに物を入れる習慣のない私は洗濯前にポケットを点検することもなかった。

 
 カードが見つかったのに、そのカードに入っているはずのお金が消えた!私にとってはすごく不思議だったのですが・・・。実はカードは2枚あったということで、小さなサスペンス物語は一件落着。


「今日、行くときにカードに入金もしたので、(お金は)あるはずなんですけど・・・」と駅員さんに言ったことを思い出して、恥ずかしくもあり、「バカみたい」と、ひとり笑ってしまった。その日の行動を忘れた人・・・みたいな(笑)。 駅員さんにしてみたら、「そう言ったって、お客さん、カードにお金は入ってないんですよ・・」って、言わなかったけれど、言いたいみたいな・・・。

 
 
 娘も結婚して約1年・・・。「小さなサスペンス」で、思いがけなくも、改めて打ち解けながらも緊張の「あの日」を思い出した日でもありました。帰宅後は、スイカの話より、夫と双葉町の映画の話になりましたが。
 
 




171            使えない傘ってありますか?           2012年9月17日・月・記

 最近傘を買うときは、晴雨兼用傘を買うことが多くなった。列車で出かける時や旅では、折りたたみ傘が便利だ。

 けれど、折りたたみ傘は壊れやすくて、わりあいと長持ちしない。それに開いたり閉じたりするのにも、手間もかかる。だから、ふだんは、すぐに開ける折りたたみではない傘を使い、旅などの場合には、荷物にならない折りたたみを使う。

 
 紫外線よけには、傘が欠かせない。教員時代に、太陽を浴びすぎるほど浴びたので、今からは、できるだけ紫外線を浴びたくない。こまめに日焼け止めクリームを塗っている友達もいたけれど、その頃は、まるで無頓着だった。朝のマラソンや体育の授業では、よく陽ざしを浴びた。

 深い反省をこめて、今は気をつけている。日焼け止めクリームを塗り、アームカバーをしたり、ストールを巻いたり、サングラスをかけたり・・・と、かなり完全防備(笑)。そして、さらに日傘をさす。

 
 傘は、置き忘れたりして、よくなくす。けれど、なくして残念に思うような気に入った物を使いたいという気持ちもある。
 昨年の冬、飛騨高山に旅した。そのとき、自分へのお土産に傘(長傘)を買った。そう珍しい物でもないと思うが、黒地に縁取りには和柄が使ってあって、やはり、観光地でなければ求められない物のように思え、記念に買った。

 しかし、その傘を持つと、神経が疲れる。持ち歩いた場所で忘れないようにするのに疲れるのだ。だから、本当はなくしてもよい傘が気楽だ。


 「あれ、傘、持ってきたかしら?」と思い、車の後ろに見つけたときは、ほっと・・・する。

 その傘は、折りたたみではないので、4月末に、旅をする時には、折りたたみ傘を買った。去年まで使っていた物は、何度も折りたたんでいるうち、壊れてしまっていた。

 
 ところが、インターネット販売で丈夫が売り物で購入した晴雨兼用折りたたみ傘のはずなのに、3回ほど使った時に、骨が折れてしまった。何しろ、ふだんは、折りたたみ傘は面倒なので、使わない。時たま使う傘は、特に乱暴に扱った覚えもない。


 あまりに・・・なので、しばらくたってから、購入先に電話をすることを思い立った。壊れやすいような製品を今後販売しないで欲しいという願いをこめて。そうしたら、何と、交換するので配達業者に壊れた傘を渡してくれというので、驚いた。
 
 2,3日もすると、「不良品を販売して申し訳ありません」という文書とともに同じ傘が届いた。誠実さに感心した。

       
             ☆            ☆          ☆          ☆
 
 
 今年の春、箱根の彫刻の森に旅した。ふだんは、食べもの以外に目がいかない夫が何やら珍しく、商品を見ていて、遠くから私を手招きする。

「ねえ、これ、よくない?」という夫の手元には、大きな長傘があった。

「すてき!いいじゃない?買えば?」

 それはゴッホの 名作「夜のカフェテラス」の絵がプリントされた傘だった。

「買ってくれる?」
「いいわよ」

 
 旅から帰ってきてから、「雨降らないかなあ・・・」と夫は言った。私も子どもの頃、新しい長靴など買ってもらうと雨が降るのが楽しみだった(笑)。夫が買った傘は私も気に入っていたので、「なくさないでね」と私も心配した。何しろ、よく家の傘を持って行ってはなくしてくるので。自他ともに認める「なくし屋さん」なのだ。
 それなので、「私をなくさないでね」と言ったこともあった。

 
 その昔、娘からの誕生日プレゼントにもらった傘まで、我が家の傘立てから消えていた時には、さすがにショックだった。

 一度使ったあと、無事に、ゴッホの絵の傘は我が家の傘立てに戻っていた。「ああ、無事ね」と私は言って、
「傘、なくさないでね」と、私はまた、夫に言った。

 
 すると、夫は、「大丈夫!使わないから」と答えた。使わなければなくさない。だから、気に入った物は使わないことが一番いいかも。でも、では、何のために買ったのか・・・・?

 私も今では、ゴッホの「夜のカフェテラス」の傘があるのかないのか、ひとの傘なので、気にもしていない。
 
 
 不良品ということで交換され、新しく届けられた傘。あの晴雨兼用折りたたみ傘は、まだ一度も使っていない。また、壊れてしまったら・・・と思うと、何だか恐くて使えない。(きっと大丈夫だと思うけど)今度は電話する気持ちもしないし。そんなこと考えるだけでも疲れるし・・・。

 使えない傘ってあるのかしら・・・・?何だか不思議。

 
 今年の夏は、いつまで続くのやら・・・。日傘から早くさよならしたい。







170            除菌できたかな・・・             2012年7月14日・土・記  

 「ピロリ菌がいます。除菌しますか」と言われれば、いないほうがいいから、除菌しようかという気持ちにもなる。

 以前、たまたまどこかの病院の大きなポスターで、ピロリ菌が、がんに関係しているようなものを目にしたことがあった。そのポスターは、ピロリ菌がいかに恐いものであるかのように訴えていた。
 
 その時に見たポスターが災いしたのか、ピロリ菌とは何かということを医師に聞かずに、自分は知っていると思い込んでしまった。

 がんにはなりたくないので、薬で除菌できるというのだから、こんな簡単なことはない。しかし、薬を飲んでも、100%除菌できるかどうかはわからないので、服用後の一ヶ月後に除菌できたかどうかの検査をするということだった。

 
 薬を一週間飲むだけなので、私は迷わず、「はい」と答えた。

 帰宅後にいくつものサイトで調べた結果、ピロリ菌とがんの関係については、医学的に答えは出ていないようだった。

 でも、まあ、薬を飲むだけという軽い気持ちだった。
 
 副作用について、多少の説明があったように思う。昔と違って、今は、薬には、必ず副作用というものが記されている。私自身は、その副作用の影響を体に受けた経験がない。だから、副作用というのは、これまで、私にとって、一応目を通すもののそれほどの意味を持たなかった。

 
 しかし、いざ、薬を朝・晩と1日2回飲むと、私の場合、お腹がごろごろという感じで、不快感がある。明らかに普段とは違う。そんなわけで、一週間、飲み続けるということに、かなりの心身の負担を伴った。

 待ちに待った服用の最終日の7日目が、やっときた時、心から、「よかった!」と嬉しかったものだ。しかし、その後も、症状は、消えず、インターネットを見ると、その後が辛かったというものまであり、ひどくがっかりとした。

 
 お腹に不快感の症状は、それから、5日間ほど続いた後、なくなり、ほっとした。そして、思った。
たとえ、ピロリ菌が除去できなかったとしても、再度の挑戦はしない・・・と。

 
 だから、飲み終わったあとの、「検査」は、どうでもよくなっていた。でも、いちおう、指示された通り、検体としての便を提出した。


 その一週間後、医師から、「除菌できました」との説明を受けたけれど、特に、嬉しくも安堵も何もなかった。ほんのちょっぴり、かすかにかすかに、除菌できないより、できてよかったと思ったくらいだった。

 服用が終わった7日目の喜びとは、全くの比べものにはならないものだった。

 また、ピロリ菌に感染する可能性はあるわけだし、ピロリ菌の保菌者は、たくさんいるわけだし・・・。

 
 その後、私は、知人に「ピロリ菌の除菌、苦しかったわ・・・」と言った。
 「○さん、除菌するんだって。前、除菌したけど、また、ピロリ菌がいたから・・・」と知人が言った。

 「ああ、そうなの・・・。がんとはあんまり関係ないみたいよ」
 「でも、関係あるって言われていない?」と知人は言った。

 除菌に挑戦する○さんの様子が、知人から気軽そうな雰囲気で伝わってきた。
 私も知っている○さんは、副作用がない人なのかも知れない。
  
 でも、あの、どこかで見たでかでかと訴えていたポスターは、何だったの?
 副作用を感じない人は、退治してもいいかもしれない。辛くても心配な人は除菌のための服用をした らよいし。判断は、医療を受ける側なのだから。だから、その判断材料となる詳しい説明は当然のことだろう。


 わが愛する夫が、いきなり、「ピロリ菌がいた。除菌、どうしよう・・・」と言ったら、私は、「薬だけなんでしょ。(ピロリ菌が)いるより、いない方がいいから、飲んでおけば」と言ったかも。


 
 医療行為を受ける側にも正しい知識が必要だけど、その把握も難しい。時々刻々医学も進化し、病気に対する診断も変わる。
 
 私は、1年に1回は、胃カメラを飲んで、それで、異状がなければ、「今年も安心」を繰り返せばいいと思うことにした。ただ、同じ画像を見ても、そこから、病気を発見できるかどうかは、その医師の判断力等にも関係してくるかも知れない。医療を巡る裁判もあとを絶たない。


 夫の友人で医師の話によると、診察の際に、あれこれ聞いてうるさい(?)のは、たいていは学校の先生か、(先生以外の)公務員だそうです。私もけっこう聞くほうですが・・・(笑)。ピロリ菌については、聞き足りなかったかも・・・反省(笑)。


     ◇               ◇            ◇              ◇

※ ・ピロリ菌をもっている人の胃がん発症率は、約1%という結果があるそうです。この結果から、がんとの因果関係について薄いとする根拠となっているようです。(「ためしてがってん」など、いくつかのインターネットサイト) 
・日本人の人口六千万人が保菌者。高齢者では7割以上の人がピロリ菌保有(ある医師の話)
 
 ・除菌が必要な人  胃潰瘍、十二指腸潰瘍等の疾患がある人でピロリ菌がいる人は、除菌の必要があると言われています。ピロリ菌が、その原因とも考えられるということなのでしょうか。(ピロリ菌が、胃粘液のバリアを破壊(ためしてがってんサイト)


 いずれにしても、三宅のエッセイは、個人的な体験であり、ピロリ菌を除去すべきか否かについて書かれたものではないことをお断りしておきます。除菌については医師との相談のうえ、納得のうえで判断されることをお勧めします。






169         胃カメラ飲んで・・・                  (2012年6月23日・日・記)

 身体全体の検診は、毎年行っている。今年の胃カメラは鼻からにしようか、どうしようか・・・と考えていた。鼻からは苦しくないと聞いていた。新聞にも苦痛なしに受けられると書かれていたように思う。

 「ええ、鼻からもやっています」と医師。
 「鼻からだと痛くないですか?」

 「そうですねえ・・・。ただ女性の人だと、鼻の穴が小さかったりして、痛いこともあります」

 そんなやりとりをしていて、何だか鼻のほうが痛いような気がしてきた。管を入れるのに、鼻より喉のほうが大きいもの。結局、口から管を入れる胃カメラにした。


 「あのう・・・、検査のとき、声をかけていただけると、苦しさがだいぶ違うのですけど・・・」と私は医師に希望を述べた。

 「声かけは、うちの看護師はよくしていると思いますよ」

 
 一応、こちらの思いを話したことで、少し、気が楽になった。かつて、私は、まるで大きな掃除機で胃の中を激しくかきまわされるような胃カメラの検査を受けたことがあった。医師は検査中、全くの無言で左右縦横に「掃除機」のホースを操っていた。あれはとう表現したらよいのだろう。「ゴホゴホ・・・」の連続で思い出しても苦しかった。


 懸命にこらえていたが、あまりの苦しさに耐えかねて、むせびながら「ああ・・・、もういいです」と私はついに言葉を発した。結果は、「検査不能」の文字がカルテにあった。

 そして、おまけに、写真を見せられ「ここに何か突起のようなものがありますが・・・この裏側がどうなっているのか、検査ができていません」と、「掃除機」の医師は言った。

 
 私は、とにかく検査は受けたのだし、怪しい突起があろうがなかろうが、同じ医師の検査は、もうたくさんだった。その年は検査不能でも放っておいた。

 
 その後、何回か胃カメラの検査(胃の検査はバリウムではなくて、いつも胃カメラと決めている)を受けたが、いつも「異状なし」で、あの「掃除機」の時より、遙かに楽だった。苦しくないと言えば、そんなことはないけれど、胃に差し込まれた管は、静かにゆるやかに胃の中を流れ、あの時とは、全く違った。

 
 いよいよ、今年の検査の日が来た。
夫も、声をかけながらやってもらえると、苦しさが全然違うと言い、私と同意見だった。夫に、「当日は最大限やさしくしてくださいって言ったほうがいいよ」と言われてもいた。

 
 検査室に入った私は言った。
「あのう、検査中に、声をかけていただけると助かるのですが・・・。いつも苦しいので」
と、この前も言ったが、再度、私は医師に言った。「最大限やさしく・・・」とは言えなかった。

 
 看護師さんが、声をかけてくれたので、ずいぶん、気が紛れた。医師のほうは、私の胃に何か発見したようで、そちらに神経が集中していたのか、全く言葉かけがないわけではないけれど、普通だった。


 「ちょっと、ここ、もうすこし、こっち」というような指示の声が何度か聞こえ、助手らしき男性が手伝っているようだった。画面には、白いものがいくつかちらちらと映っていた。


 時間も気のせいか長く感じられた。実際に長かったと思う。

 「ああ、がん細胞でもあるのかな・・・大変なことになっているのかも?」

 「ごめんなさい・・・」夫や娘の顔が浮かんだ。「仕方ない・・・残された日々をどう過ごそうか」検査という短い時間の中で、ついに私は「覚悟」までしてしまった。

 
 私の目は、画面に映る得体の知れない、いくつかの白いちっちゃなものを、じっと見つめていた。

 
 医師の次の言葉で、私は少しほっとした。「白いものが見えるでしょ。ポリープの芽があります。組織をとって調べます」と、医師が言った。
「ポリープか・・・切除するのだろうか」


 なんかよくわからなかったけれど、まあいいやと思った。・・・と、思いながらも、帰宅後に、初めて聞いた「ポリープの芽」とやらをインターネットで少し調べたりはした。

 夫に言うと、私自身にとっても事が重大になってきそうだったので、ポリープの芽のことは言わなかった。結果がわかってからでいいと思った。その後、1週間は、すっかり忘れて過ごした。

 
 1週間後、診察室で、話があった。
 「ピロリ菌がいます。除菌しますか?」

 「あの、ポリープの芽はどうなったんですか?大丈夫だったんですか?」
 私はポリープが、悪性かどうかのほうが気になった。

 「はい」と言葉短く医師。

 インターネットで調べた時も、ポリープの芽が、がん化することはほとんどないようで・・・。医師も問題視していないようで、ひとまず、安心。つづく・・・。







168 ちょっと見たアメリカ     美術館の入場料         (2012年5月20日・日)

 外国に行くと、自分の国との比較ができることは言うまでもない。ニューヨークの巨大な美術館(メトロポリタン美術館)に行ったときのこと。入場料は、自分の思いで払うのも可能ということに驚いた。ただアメリカのすべての美術館がそうなのかというと、すべてがそうというわけではなくて、多くは定額制らしいのですが。

 
 メトロポリタン美術館では、基本的には、これくらい払ってくださいという金額が書かれていたことを記憶している。また、(入場料は)「寄付」という意味の表示もあったと記憶があり、任意と解釈できる。私たち夫婦は、一応書かれた金額を支払ったが、その金額を払わない人を排除するようなことはしない。

 
 「休みの日には、ここによく来るの」と、娘は言った。学生身分の娘にとっては、気軽に自分の財布との相談で楽しめる美術館となっていたようだ。

 
 広すぎるくらい広いので、じっくりと見たら、まる1日あっても、とてもとても時間が足りない。歩くだけでも、相当な距離になって健康的かも?(笑)

 ゆとりある空間の中に、次からまた次の「部屋」へと世界的な画家のひとりひとりについての作品が、たくさん展示されている。

 
 
 基本的な料金は存在するが、入場料は、その人の寄付という考えも、おもしろい。お金があってもなくても、平等に芸術に親しめる環境(美術館)があるのは現状においては悪いことではない。

 
 ただアメリカという国の貧富の差は激しく、お金持ちは徹底してお金持ちで、アメリカでは、1%の上位が、40%の冨を所有しているという統計もある。お金持ちは、有り余るほどの冨を、貧しい人びとに寄付という形で還元しようという文化も、背景にあるのではないかと思う。

 日曜日など、教会に行列して食べものをもらう人びとを映像で見たことがあった。そこには、食べものさえ食べられない人びとの姿と、お金持ちの施しがあった。

 
 世界の認識も、今や富める国アメリカから、格差社会アメリカへと変化してきている。日本のお金持ちと違うことは、国へ向かって、「私たちに、増税をしてください」という意思を表すことだ。

 

 もしかしたら、美術館の入場料も、このようなアメリカの姿を少しは反映しているのかも知れない。けれど、富の再分配のあり方については大いに疑問がある。施しの社会ではなく、誰もが、健康的で文化的な水準の生活を営むことが可能である社会が望ましい。基本は、みんなが払える能力を持てる社会であるということになるだろう。

 
 最も、国策として、どこへ行っても誰でも美術館は無料という国があるなら、それはそれで歓迎すべきことだろう。お金持ちから貧しい人びとへの施しではなく、お金持ちにはお金持ちであるだけの税率による税金を払えば、それも可能だから。

 





167   ちょっと見たアメリカ    タクシーの運転手           (2012年5月12日・土)

 駅から降りたとき、構内にタクシーがずらっと並んでいた。この光景は、日本でもよく目にするものであり、珍しくはない。私が違和感を感じたことは、目にする運転手が見事に有色人種の人ばかりであったということだ。

 車に待機している大勢の運転手の中に白人を見なかった。アメリカという国に、白人の運転手もいないわけではないと思うが、この時に出会ったのは、有色人種ばかりだった。

 もしかしたら、アメリカ社会では、仕事によって、労働の種類によっては、人種が偏る傾向があるのかも知れないと感じた。

 もっと昔は、白人お断りのレストランがあったり、トイレも別であったりと人種差別が激しかった時代があった。

 たまたま目にしたタクシーの運転手が有色人種ばかりであったからと言って、労働の種類によって人種が分かれると言えないかも知れない。しかし、あまりにも有色人種ばかりだった。

 
 帰りの空港まで送ってくれた運転手は、「娘さんが、アメリカに来ているんですか?」などと言い、、ありきたりの話しかしなかったけれど、実に人なつこい話し好きな中東の人だった。もう長いこと、アメリカに暮らしているようだった。
 

 民主主義の国といわれるアメリカ。何をさして民主主義というのだろう。アメリカという国も、簡単には理解できない不思議な国のようだ。







166  ちょっと見たアメリカ     まちのレストラン              (2012年5月5日・土)

 今から約7年前になるでしょうか。娘がニューヨークに行っていたので、夏に私たち夫婦もニューヨークに行った。
 
 まちの気軽なレストランで食事をした時のこと。娘によると、ウエイターやウエイトレスは、客からの指名を受け、それがチップとなり、その人の賃金になるということなのだそうだ。きちんと決まった賃金がないとしたら、何と不安定な身分なのだろうと思った。

 
 客は、代金の他に、計算をして、チップを置く。代金の15%から20%くらいだったか。そのときは、食べたテーブルの上に娘が計算をしたチップ分を置いたように記憶している。とにかくアメリカで暮らしていて、私たちよりもその国、その地域の習わしに通じている娘の言うようにした。
 
 
 アメリカらしいというべきか。日本では考えられないことだったので、驚いた。日本では何人注文を受けようが、それがそのウエイターの賃金に直接つながることはない。手が空いているウエイターが注文を取りに来る。 このようなアメリカ方式があるとしたら、働く人は、大変。何だか、働いている人たちが、とても気の毒に思えた。

 最低限の固定給があって、それにプラスされるような方式をとっているのかも知れない。娘の話の感じだと、チップによる収入がかなりの部分を占める印象を受けた。

 
 このような「労働形態」には大いに疑問があったが、感心したこともあった。それは、食べきれない料理の持ち帰りだ。どうやら、アメリカでは、レストランで残したものは、持ち帰りは当たり前のことのようだ。娘に言われ、私たちも、日本でなら、残していくのが普通だが、娘に言われて持ち帰ったのを覚えている。

 
 そのときの注文の仕方は、数種類の料理を頼み、3人で食べるというものだった。今、考えると、底なしの強固な胃袋を持つ夫がいたのに、料理を残したのが不思議でもあった。でも、きっとアメリカの料理の一皿が、想像を超えて大量だったのだと思う。他に考えられるとしたら、料理が日本食を好む彼の胃袋には合わなかったということだろう。ウエイターが、持ち帰り用の入れ物を持ってきた。

 
 この風習には、学ぶべきものがあると思った。日本でも持ち帰りが当たり前になれば、食べ物を無駄にしないですむだろう。
 
 日本では、レストランでのお持ち帰りはないだろうと思っていた.。ところが、あったのだ。昨秋、久しぶりに参加した委員会視察で「食の循環」について、新発田市を訪れた。

 
 その時、配られた資料の中に、「食の循環しばたもったいない運動」ということが記載されていた。「運動の協力店」では残した食べ物の持ち帰りをすすめている紹介のリーフレットがあった。
 
 (「持ち帰り」を好まない人は別にいいとしても)場合によっては、持ち帰りがあたり前という取り組みが各地に広がるようになればいいなと思う。

 お腹いっぱいだけど残すのもったいないという人が、無理して食べなくて、肥満予防にもいいかも・・・?!

  それにしても、客のチップで賃金とは・・・?これは納得できなかったですね。





165          クリスマスローズの夢          (2012年4月12日・木)

 今年は、去年以上にクリスマスローズの花が咲いた。土の上に茎が這うようであったのが、すっきりと起き上がり、花びらは、少しうなだれて物思いにふけっているかのように咲いている。

 
 クリスマスローズが花をつけていることに、今年、最初に気づいたのはいつだっただろうか。ふと庭に目をやったら、茎が起き上って咲いていたのだ。

 あるとき、ホームセンタで「クリスマスローズが良く咲く土」などという土が売られているのを目にした。そういう土があるんだ・・・と思いながら、ほうっておいても咲く花が好きな私は、横目で通り過ぎたものだった。

 
 そもそも、なぜクリスマスローズの花を植えたかと言えば、葉が枯れずに1年中緑があるということだった。
そして毎年咲くであろうという花だったからだ。 その花を、私は玄関近くの狭い場所と窓をあければ眺められる我が家の「庭」としている場所の2カ所に植えた。「庭」から少し離れた場所に犬小屋があり、かつては、そこにミコがいた。


 「クリスマスローズが良く咲く土」というものを売っているくらいだから、手入れしなければ咲かないかも・・・と思っていた花だった。それでも、植えて翌年に咲くことは咲いたのだった。地を這うようにだったけれど。それから、毎年咲いてはいたが、美しくもなく同じようだったので気にもしなかった。

 ところが、今年は違う。天に体を向けてすっきりと咲いている。ただ我が家のクリスマスローズはあでやかさはない。


 「ねえ、クリスマスローズが咲いているの、知ってる?」と夫に尋ねてみた。
 「知らない・・・」

(それがどうしたの?)というような、何の関心もないような低い夫の声が返ってきた。


 それから、何日かたって、私は夢を見た。犬のミコが、クリスマスローズの花をみんな食べてしまった夢だった。私は驚いた。翌朝、目覚めた私はカーテンを開いて、すぐに庭を見た。クリスマスローズの花は、全部むしり取られたようになっているだろうと思った。

 しかし、クリスマスローズの花は、変わらず、天を仰いでいるように立ち上がり、そこには花びらがついていた。
「あー、夢だったのだ」と、私は心の中で言った。


 考えてみれば、ミコはもういないのだし、夢に決まっている。
「ねえ、私、ミコがクリスマスローズの花をみんな食べちゃった夢、見たのよ・・・」
と、私は、また夫にクリスマスローズの花の話をした。

 「ふぅーん・・・」とまた、後ろ姿の夫の声は聞こえないくらい低かった。









164               花嫁の父                    (2012年2月12日・日)

 結婚式の準備中の頃に、娘から、電話があった時のこと。

「ねえ、ねえ、お父さん、モーニング持ってるの?」
 どうやら確認の電話らしい。

「持ってないけど・・・」 
 モーニングなんて買った覚えないけど・・・あの、後ろがしゅーっと羽根みたいになった服でしょと思い描きながら私はこたえた。

「でも、お父さん、持っているって言ってたけど。『お父さんはもう花嫁の父の代理をやったことがあって、○○さんのときに着たんだから』って自信持って言ってたんだけど・・・違うの?」

 そんなふうに過去の事例まで並べて答えたということになると、私の「持っていない」という自信もわずかに揺らいだ。
 けれど、電話のあと、洋服ダンスの中を調べてみたが、なかった。

 

 帰宅した夫に尋ねると、
「あ、そうか、間違えた。持ってないのかぁ?持ってないんだ・・・!」
いとも簡単に夫は答えた。

 普通の礼服と間違えたのか、よくわからない。でも、共通理解が得られて、再び洋服ダンスの中を探すこともなく一件落着。

 「わざわざ、モーニング着ないわよねえ・・・」ということで、娘には返事をした。

 
 その後は、夫と結婚式の話になった。

「ねえ、花嫁さんと歩くとき、父親がドレスの裾を踏んでしまって、花嫁さんが転びそうになることって、けっこうあるんですって」
と、私が人から聞いたことを話した。


 「○○さんなんて、父親に3回くらい踏まれたって言ってたわよ。あなた、娘を転ばせないで・・・ね!もしかして二人一緒にで転ぶとか・・」


 「僕のことだから、あり得るかも・・・、(転ぶことを)期待してる?」
「まさか・・・!」と言いながら、私は、娘と夫が二人で転ぶ情景を想像してしまった。

 夫も、自分が転ぶ様子を想像してしまったらしく、「結婚式、めちゃめちゃになったりしてね!」と笑った。


 その後も「期待(?)に応えなくっちゃ・・・」と夫は言っていたので、再び、転ぶ様子を思い描いて笑ってしまった。(実際には、「(そんなこと言うの、やめてよ・・・!」と私も言いながら二人で大笑い?してしまった)

 私の思い描いた情景は、転んでしまった二人を見て、私が心の中で「あらー、やってしまったー!」と叫んでいる。参列者の面々は、ちびまる子ちゃんの漫画で言うと、顔にさーっと斜めの線が走って「あっ、あーっ!」という感じ。

 
 
 式当日、ちゃんと歩けるかなあ・・・と、ちょっと心配していると、教会の入り口からこちらに向かって緊張の面持ちの夫が花嫁と歩いてくる。無事二人そろって歩き終わったので、夫の他には式で失敗する人もいないようなので、ほっと・・・(笑)。娘のドレスの裾を踏んだことはあったようですが、「緊張の」式が終わりました。






163             最後の手紙?                  (2012年2月4日・土)

 私の娘にお付き合いをしている人がいると知ったとき、父が言った。「もう手紙は来ないかなあ・・・」と。

 娘は私の父宛(孫から祖父)に時折、手紙を書いていた。

 おそらくは、はがきに「お元気ですか?」という意味合いで、近況を知らせるほどのものであると思うが、父は孫である娘からの手紙は、やはり嬉しいものであったのだろう。

 恋人ができたのでは、「おじいちゃんへの手紙」を書く心の隙間もなくなってしまうのだろうと思ったに違いない。

 
 しかし、父の予想に反して、手紙は、その後も届いたらしく、たまたま私が父を訪ねたとき「○○・・から手紙がきた」と笑顔で言った。

 娘が結婚することになったとき、やはり、娘から「結婚することになった」という報告のはがきが届いたのだろうか。

 父は、「手紙がきた」と言っていた。そして、そのとき、「これが最後の手紙かなあ・・・」とつぶやいた。

 
 それを聞いた私は、娘も、これからは仕事と家庭と、その他いろいろ・・・で忙しくなるから、「もう娘は、私の父への手紙は書かないかも・・・」と思った。
 考えてみると、娘は、私たちにも何かの折に触れて手紙をくれた。誕生日や母の日などには、プレゼントと一緒に文字を連ねたカードが添えてあることが多かった。

 

 結婚式が迫ってきた頃、我が家にも「お父さん、お母さんへ」という内容の封筒に入ったカードが届いた。
娘手づくりのカードだった。黒地を背景に花が浮き出るように大きく描かれていて、なかなかきれいだなと思った。

 
 親と同居していれば、式の朝の「お父さん、お母さん、今までありがとうございました」という挨拶にでもあたるのだろうか。「今までありがとう」という内容だった。

 ただ、変わっていたのは、表の封筒に、郵便局からの「40円不足です」という不足金納入の案内の紙が貼られていたことだ。封筒の大きさが規格から外れていたようだ。「規格から外れたら、80円(封書の場合)では着かないのよ」と教えてあげようと思ったけれど、どうせ、間違いは今回だけだろうと思って、そのままになった。


 ところが結婚式のあとの親族の食事会で、私の兄が言った。

 「○○さん、一つだけ注意をしますが・・・。私の父(娘からは祖父)に○○さんから時々手紙がきます。外国暮らしが長かったせいだと思いますが、日本では、(規格外の)いろんな形のはがきだと、50円(80円)では届かなくて・・・料金の不足分を何度も私が郵便局に届けています・・・ずいぶんお金をつかいました・・・」・・・みたいな話が出た。
 (そういえば海外では楕円形や動物の形など、さまざまな形のはがきがあったことも思い出した。娘は日本に戻って数年経つけれど、形はあまり関係のないもので出していたのかも知れない)

 
 
 大爆笑だった。そこで初めて私は、娘からの「おじいちゃんへの手紙」で、これまで何度も(何度か?)「料金不足」が生じていたことを知った。我が家では、娘とのやりとりはふだんはメールか電話が中心なので、「料金不足」は、あの結婚直前の一度だけでしたが・・・。



 ところで、「これで、最後かなあ・・・」と私の父が言っていた娘からの手紙ですが、結婚式の後にも、届いているようです。
 「やっぱり手紙というものは、いいね」と父。確かに、文字のほうが心に残るし、心に届くかもしれません。







162         被災地の人びと                     (2012年1月26日・木)

 昨年の11月から12月初旬にかけて、2回だけだったが、双葉町から避難してきている旧騎西高校にボランティアとして関わった。

 それより前に何かできないかと思って、旧騎西高校の役場にボランティア受け入れについて問いあわせしたところ、個人の受け入れはしないと断られた経緯があった。

 しかし、その後ずいぶんたってから購買生協(埼玉コープ)で双葉町(旧騎西高校)へのボランティア募集のちらしを見つけたので、早速、ファクスを送ったところ、すぐに返事がきた。
 

 ボランティアの内容には、調理と配膳があった。もちろん調理もできるのですが(笑)、配膳を選択した。
毎週木曜日のコースもあったのだが、日程的にも無理だったので、土曜日のコースにした。申し訳ないと思ったけれど、そのうち一度は、無理になって、お休みした。

 旧騎西高校は行ったことのない場所だったので、ナビに頼って行くと、困ることなく行けた。裏門から足を踏み入れたとき、目の前に広がった光景は、忘れることのできないものだった。

 
 
 体育館ほどの広さくらいだったかも知れない。外の簡易な屋根の下、ひらひらと白っぽい布の波が広がっていた。それは、洗濯物の集団だった。どこでも見られる光景ではない。それらは、個別のハンガーにかかっていたと思うが、自分の家の洗濯物の隣には、他人の下着がさがっている。洗濯物は、どこの家でも外干しはごく普通のことだ。だが、よその家と一緒の物干し場というのは、想像ができない。

 

  集合場所は体育館だった。私のように新しく加わった人は、グループの中に入り、担当場所にお鍋を持って移動する運びとなった。目の前に大きなお鍋。私が、「あ、持ちますよ」と言うと、「じゃ、一番若い人だから・・・」と返答があった。
 
 内心では、ちょっと(だいぶ?)首をかしげたけれど、渡り廊下を通り、階段では汁物の中身をこぼさないように、がんばって運んだ。こんな大鍋を運ぶことも生まれて初めてだなと思った。

 
 大きなお鍋の中身は、お湯の中の味噌おでんの(串刺しの)こんにゃくだった。ふだんは、いつもお弁当を食べていて、ボランティアが行ったときには、みそ汁など(この日は、おでんになった)がつくということのようだ。


 私が行った最初のときには、ボランティアのラーメンやさんが何台かやってきていて、ラーメンを求める長い列ができた。食べ物をもらいにできる長い列は、配給をもらう戦時中の人びとのように思えた。

 かつては学生たちが使っていた各部屋に声をかけて、味噌おでんを取りにきてもらった。

 
 2回目は具だくさんのみそ汁とみかんの「配給」をした。仕事を終えて「今日の総括」みたいなことで集合した。その場では、みかんは1個だったが2個くらい欲しいという声が紹介された。
 

 
 
 先日、つくば市での講演(講師・福島大学)の中で、双葉町の避難所のことが出た。洗濯干し場付近を通ったときにでも女子校生に出会ったのだろうか。「君たちも、洗濯物をここに干しているの?」と尋ねたら、「いいえ。夜ねるときにふとんの近くに干しています」と、答えたという。 

 
 私は、改めて、あの洗濯物の白っぽい波を思い起こした。女子高生に限らず、大多数の女性は、あそこに干していないのではないかと私は思った。


 自分たちが引き起こしたことでもないのに、なぜ、大変な生活をしなければならないのだ。人権が尊重された生活とはほど遠い。

 

 いつ終わるのか先の見えない、他人との集団生活。洗濯物さえ、まともに干せない生活。心身のストレスは相当のものだろう。すでに震災、原発事故から10ヶ月が経ったが、いまだに生活は好転していない。
 なぜ、仮設住宅建設は進まないのか。東電の補償についても、住民個人対東電の関係に任せるのではなくて、責任を果たさせるべく、国がきちんと介入する必要があると私は考える。

 人間らしい生活を返して・・・という心からの叫びは、なぜ、届かないのか。

 







161 母のこと      駿河台の坂                   (2011年12月11日)

 父と施設にいる母を訪ねるとき、父は昔を思い出して、母のことを語ることが多い。
父はいつも目の前の母の顔を見ながら、私に語る。認知症の母がどこまで、わかっているかは、わからない。

 
 あるとき、「この人は勉強家だった・・・」と、父は私に言った。私は、相づちも打たずに父のその後の言葉を待った。
ー「これから、明治大学で阿川弘之の講座があるから」と言って、駿河台の坂をかけて行ったー

 おそらく、父はそのときの母の後ろ姿を目に浮かべていたのだろう。
私も、母の後ろ姿を思い描いていた。

 
 出版社での仕事を終えた母が、ノートか本かそんなような物を抱えて、多分スカート姿で、いそいそと坂を駆け上って行く姿、青春時代の若き母を脳裏に描いた。

 
 あれは、いつ頃のことだっただろう。私は、母の言葉も思い出した。
「まあまあ、昔は、若くてハンサムだったのに・・・」

 年月を遙かに経て、テレビに映る「講座」の主を見たのだろう。

 年月は誰にとっても平等に残酷な面を持つものであり、それは仕方のないことだろう。

 
 母は、時代を懸命に生きてきた。戦争で奪われたものも大きかった。住居も生活もそれまでの人とのつながりも。

 母は愛媛県の出身で、家では大勢の使用人に囲まれて育った。
「私は貧乏というものを知らなかった。だから、貧乏はちっとも怖くなかったの。貧乏(・・・という体験)は人生を豊かにしてくれるものだと思った・・・」と、母は私に語ったことがあった。

 父の話によると、若き頃の母は、すごく上等な着物を着ていて目立ったが、何枚もの着物はみんなお米に消えていったという。

 文芸評論家の古谷綱武氏(故人)が「三宅さんは、いい着物を着ているねえ・・・」と会合の席で言ったという。(実は母の旧姓、奇遇にも「三宅」なのです)
 (母は若き頃、作品を書いていて、古谷綱武氏を頼って愛媛から東京に出てきていた)

 
 三人の子どもは、一人は東京、一人は愛媛、一人は埼玉の行田市・・・で生まれ、住居を移したことからも、戦争というものがもたらした生活を物語っている。

 
 父の所属していた部隊は、広島に行った。父は何らかのことで行かなかった。だから、父は命を落とすこともなかった。だから、この私が存在している。(戦争に関することは、私もよくわからないこともあり、父にもう一度確認しておきたい)

 
 父の語る「駿河台の坂」の話は、なぜか私に切ない思いを抱かせた。そこには、母の夢と希望があふれていたように思えたのだ。








160           貴重な「三宅農園」         (2011年11月6日・日)

 近所の7軒ほどで、農地を借りている。1軒あたりは、本当に狭い土地なのですが、今年ばかりは、この「農園」に感謝です。

 夫が、素人ながら、休日に種をまいたり苗を買ってきて植えたりしてきた。今、水菜やレタスが毎日食べられる。震災による福島第1原発事故以来、食物の放射能が気にならないといえば、嘘になる。

 
 これまで、ひものように細ーいネギを笑ったり、小指くらいの丸くちっちゃいジャガイモを笑ったりしたけれど・・・、この農園の価値が上がった。

 身元がわかり過ぎるくらいわかる食物は、やっぱり安心感が強い。私、食べる人・・・で夫には申し訳ないのですが、新鮮な野菜が食べられるのも、嬉しい。


 原発事故以来、夫自身も、三宅農園に対する思いも強くなってきたようだ。周りのよその畑は、それこそ、大根の葉があおあおとしげり、ネギ、ほうれんそう、白菜などがよく育っている。

 「あなた、畑を見て!」と私を誘った夫が「我が家も、まあまあでしょ」と言う。
 
 
 遅ればせながら、周りにはかなわないにしても、白菜や大根も育ちつつある。
「そうね。うちもまあまあね。すごいじゃない」と私。

 それにしても、よその畑の作物は、よく育っていて、すごい!

 
 「あなたも、(野菜)とってね!でも、よそのとらないでね」と夫。

 とりたくなるほど、よそは立派に育っているけど、それは大丈夫(笑)。






159            「体調不良」は役に立つ              2011年9月19日    

 夕方か夜になると「ご主人いますか?」
「留守にしていますが・・・」と私。


「奥様ですか?年金対策は大丈夫ですか・・・」という電話が・・・。
「うちは、そういうことは興味なくて・・・」「・・・いくら言われてもだめです」

「実は、お宅の近くの方で、購入される方がいて、そのお宅に説明にあがったんですけど・・・」

 ワンルームマンション購入の話。購入して、家賃を得れば年金生活も安心とセールスのようだ。
「すみません。うちは、年金対策はばっちりですので・・・」

何を言っても相手は信用しない。
「あの、うちは資産があるので、大丈夫なんです」

「いやあ、年金がこれからは、出なくなるでしょ・・・」と、詳しい話をし始める。
「すみません。今、帰ってきたばかりでお料理中なので・・・すみません・・・」
 謝るのも変だけど、謝って電話を切る。


 夫が受ける時もある。「もしもし・・・」
「あっ、もしもし・・・○○の・・・です」で、まずは相手がどんな人だか判断できる。

「まだ帰っていません」「まだ帰っていないんですよ」と、そのときによって声の調子を変えて本人が言う。その種の用件だとわかると、夫の声は、時には、高く、時には声の質を変えて年寄りっぽく。


 夫以外の「男性」だと、話しても無理だと思うのか、相手は電話を切る。そんなことが何回か続き、この方法は成功していた。


 いろいろな人から電話がかかってくるので、いつもそのために構えているわけではない。いつだったか、夫は、ごく自然に電話に出た。すると、相手は、話を始めようとしたらしい。

 「あのう・・・」
 夫の声は、いかにも調子が悪そうな声になった。「体調が悪いんですよ・・・」
 それで、相手は、電話を切ったらしい。

 
 「体調が悪いというのが、一番いいみたい!」
 受話器を置くと、夫は私のほうを向いて笑いながら元気な声で言った。
以前は「資産家の息子なんです」が撃退法だった。それも、信じてもらえなくて、次は、「居留守」になって、その後、「体調が悪いんですよ」になった。


 これが究極の撃退法かもしれない。体調が悪いとか、健康上の理由とか、体に関することでは、人は何も言えない。その後は、この種の電話は、途絶えている。もしかして、さまざまな名前を名乗った先方は一人の人物だったのかもしれない。


 ある時、夫が「もしもし・・・」と電話に出たら、娘からの電話だった。「お父さん、どうしたの?」と言われたらしい。
「うん、今ね、セールスだと思ったの。いろんな声にしてるの」という夫の声が聞こえた。


 夫の「もしもし・・・」は、病人のような声に思われて、娘が心配したらしい。本人になりすますというのはあるけれど、本人以外になりすますという方法も健在らしい。この方法は、身近な人を驚かせることもありますね!



 
158           ミコ、ありがとう!                 2011・9月5日

 ミコは、柴犬の雑種だった。いなくなったはずのミコが、ある日、犬小屋にいたので、私は驚いた。「あなた、ミコがいる!」夫に言って、夫がやってきた。「あ、ほんとだ。ミコだ!」
 それは、まぎれもなく柴犬の愛嬌のあるミコの顔だった。

 どういうわけか、父と母もいて、犬小屋に集まってきた。「あら、違う犬じゃない」と犬小屋をのぞいた母が言った。夫と二人で、もう一度よくみてみると、乳白色の毛並みのゴールデンレトリバーのような顔をした犬だった。風貌が、とても立派な犬だった。


 「どこの犬かしら?」首をみると、鑑札がついていた。「どこかよその犬よ」「どうしよう」などと、私たちは言っていた。その犬は人なつっこくて、かわいい目をしてそばによってくる。

 そこで、私は目が覚めた。ミコがいなくなって、1ヶ月半が過ぎた。いまだに犬小屋から、ミコが出てくるような気がしている。

 
 ミコは、何でもよく食べてくれたので、「もう食べられない」と思うと、ミコにやればいいという感じだった。
夫にしかられてしまうのですが、パンのみみも堂々と(?)残せた。「ミコにやるからいいの」と言って。
 ごはんも、おかずも、何でも。ミコには失礼だが、便利な犬だった。


 我が家にふさわしく、とても元気で病気知らずの犬だった。ここ2,3年は、夏になると、足の毛が抜けたりすることもあって、医者にかかったこともあったが、秋にはまた、体が毛で覆われてきて、どうということもなく過ごしていた。


 でも、今年は、めっきりと老いが目立つようになった。散歩道の路肩からずるずると落ちてしまったり、鎖をぐるぐる巻き付けてしまったり・・・ということが目立ってきた。前は喜び勇んでいたのに、それほどには散歩を喜ぶ様子が見られなくなっていた。後ろ足に衰えがきていた。


 そしてその前から、ドッグフードの小さな粒を口で受けることができなかった。空気中に飛んだ小さな粒を必ず口で受け止めていたのだが、それができなくなっていた。ミコは、コンクリートの上に落ちるのをみてから、それを拾って食べた。人間がおもしろがってやっていたことだが、そんな「遊び」もできなくなっていた。

 
 前は、家の中でドッグフードをえさの入れ物にいれる音がするだけで、鎖の音をさせて小屋から出てきたミコは、じっと小屋の中にいるようになった。耳も聞こえなくなったのか、反応が遅くなった。

 
 今年の夏は、早くから猛暑だった。ミコが今年の夏を越せるかどうか、私も夫も心配だった。鎖をつないでいた柱にこちらがどんな工夫をしても、巻き付いてしまって困った。ある日は、自分でぐるぐる回ってしまって、どうにもできないところを私に発見された。



 鎖は危険なので鎖を解いて放し飼いにと思って、大工さんに、庭から外にでない工夫をしてもらったけれど、それでも、外にでてしまう、あのエネルギーは、どこからくるのか、驚きだった。猛暑の中、ミコの衰えは加速していたが、それでも倒れては歩き、歩いては倒れるといった状態になっても、いつの間にか、とんでもないところに、その姿を発見した。

 雨のふりしきる最後の日は、コンクリートとの段差のある小屋から出ては、何度も挑戦して、やっと自力で小屋に入っていた。それを繰り返しながら、夜には、いつの間にか、小屋に入って寝ていた。

 

 最後まで、自分の足で歩こうとして、がんばったミコ。なんだか人間の老いを重ねてしまって、見ていることが辛かった。17年もの間、本当にがんばって生きてきたなあと思う。元気そうに見えたミコだが、少しずつ少しずつ、ミコの体にも頭にも老いがきていたのだろう。犬には、そのことが自覚できるのだろうか。
 亡くなる数ヶ月前頃からだろうか。たまたま窓をあけると、ミコが小屋の外で首をかしげ瞳をこらして、じいっとこちらを見る姿に何度も出くわした。


「ミコ、泣いているみたい」と、私が言ったことがあった。涙が出ているように見えたのは、違ったのだろうか。

 東京で離れて暮らしている娘もちょうど帰ってきて、ミコとも会えてよかった。ミコは、娘が小学生の時に、親にねだってねだってやっと飼うことができた犬だ。よく散歩して、ミコをかわいがった。親に叱られた時も、娘にはミコがいた。

 
 我が家では、ミコがいなくなって、以前よりも戸締まりに気をつけるようになった。ミコがいただけで、なんだか安心だった我が家。命あるものは、いつかは、消えることはわかっているけれど、命が消える時、悲しい。


 「あなた、残しちゃったの。もったいない」と、また、夫に言われそう。何とか、パンのみみも、がんばって食べなくては・・・!残さないで食べることも、ミコに教えられたような気持ちがしている。

 我が家のために、ミコ、17年間、いろいろとありがとう!






157           姪の結婚                      (2011・8月28日)

 昨年の10月から、今年の4月までに姪たち3人が結婚式をあげた。10月と今年2月の結婚式には参列できたが、4月23日の実家の姪の結婚式には、どうしても出ることができなかった。



 最初、予定の日にちを聞いたとき、「大丈夫」と思ったのだが、その後、少したって考えてみたら、「もしかして、選挙期間中?」と思った。インターネットで4月の統一選挙戦の予定日を調べてみたら、どうも選挙期間中らしかった。

 
 式場は東京。どうしても行きたいなあと思っていたので、式だけでも出て早めに帰って来ようかと思ったりもした。けれど、往復の時間もかかるし、それも不可能なような気がしていた。

 
 候補者が留守で、選挙カーを回してもらうというのも、それも選挙戦の最後の日のこと、本人がいないのでは、応援してくださる方が気が抜けてしまうだろうなと思った。

 結局、夫と娘に出てもらい、私は選挙をがんばることにした。


 4月に結婚式を挙げた姪は私の兄の上の娘で、私の娘が幼い頃、実のお姉さんのようにずいぶんお世話さまになった。私の実家には二人の姉妹がいたので、我が娘は、その3番目の姉妹のように、一緒に過ごすこともあった。



 上の姪とは年齢も離れていたせいか、(もちろん下の姪にもお世話になったが、)面倒を見ながらよく遊ばせてもらった。たいていは、娘を連れて出かけた私だが、電車を使って遠方にいくときなど、実家に娘を預けて出かけることもあった。

 
 晩ご飯まで食べさせていただいたり、母にはもちろんだが、兄夫婦にも、それはそれは、お世話になったものだった。預けられても、姪達がいたおかげで、娘も姉妹のようににぎやかに過ごせた。

 
 先日、我が娘が、その姪の新居におじゃまして、姪が結婚式に着たドレスを借用して写真を撮っていた。「どうお?似合うかしら?」といった表情で。もちろん、お遊びで着たのですが。


 子どもの頃からピアノが得意で、練習を欠かさなかった姪は、今でも音楽活動を続けている。バンドのピアノを担当しているので、コンサートにも忙しいようだ。

 病気で心配したこともあったけど、健康を取り戻して、本当によかった。結婚の相手は、早いから遅いからということは、あまり関係がない。

 
 早くなくても、すてきな人に巡り会う可能性は大きい。我が家も同じ(笑)。○○さん、お幸せに!






156               いっしょにやっている             (11・8月17日)

 選挙を終えて、そのこともエッセイにと思いつつ、そのままになっていた。
今回の選挙は、いつもの選挙とは、まるで風景が違った。以前は、宣伝カーが通ると、お店の人たちが出てきて手を振ったり、声をかけられたり・・・で、とてもにぎやかだった。

 震災の影響で、「選挙どころか」と、中には選挙が行われることにさえ不快感をあらわにする市民もいた。道を通っても、外にも人がいなくて、畑仕事の人も、あまり見かけなかった。

 前半は、選挙カー自体、見かけず、選挙カーを回さないほうが、市民の共感を得られると思っているのかとさえ感じられた。水曜日あたりから、選挙カーにもであうようになった。でも、以前とは違う。台数は少ない。



 にぎやかという表現があっているかどうかわからないけど、他候補の「選挙事務所」の前を通ると、そこの運動員の人たちがそろうように出てきて、笑顔で声援を送ってくれた。

 それで、我が陣営では、「あの人たち、まるで私たちの応援をしているみたいね・・・」なんて冗談も出た。けれど、当たり前だけど、実際には、そんな甘いものではなかった。


 選挙戦も終わってから、我が陣営は、私を含め、世間知らずということを思い知ったような結果だった。4年間の実績を訴えるチラシを配ることにのみ、専念した我が陣営。評価が優等生?(笑)とも言えたので、安心感もあったのかも・・・なんて反省もあったりして。

 もちろん、実績のちらし配布は選挙運動期間の前のことで、選挙戦では、演説をして市民に訴えた。


 結果の後、支持者と集まった席で「選挙では、忙しい中、時間を割いていただいて、申し訳ありませんでした。皆さんのおかげで当選することができました。応援がなかったら、落選していたと思います。ありがとうございました」と挨拶をした私に、「三宅さんは「申し訳ない」とかいうけど、そういうことではなく、私たちは三宅さんと一緒にやっているつもりでなんです」と言われました。

  そう言っていただけると嬉しいけれど、私としては、やっぱり申し訳ない気持ちだった。


 当選できたのに、「今回は、私も仕事の関係で、前よりもできなくて・・・」と涙をこぼされた人もいて、一生懸命に取り組んでくださったのに、悲しい思いをさせてしまった。みなさん、仕事をもちながら、その合間に都合をつけて選挙戦に取り組んでいただいた。または、この期間は、選挙戦の合間に仕事をされた。

 
 今回も、黙々と別室で毎日のように電話かけを誠実に取り組んでいただいた方にも、感謝の気持ちでいっぱいだった。「基本的には選挙にはかかわらないんですが・・・」とその方は言っていたけれど、毎日事務所に通ってくださった。おしゃべりもしないで、ただただ、電話に向かってくださった。そして、相手の反応をメモに残してくださっていた。


「他の候補者が、早くから選挙目当ての挨拶まわりをしているなかで、三宅さんは、そうではないから応援できる」と言っていただいた。


 選挙は、結果であり、選挙のために仕事をするのではない。そう思って議員活動をしている私。
現実は、議会で発言をしなくても、たくさんの票を得ることができる選挙。がんばっていても落選するかも知れない。選挙って、何だろう。

 今回の選挙では、必要のない「反省」を一生懸命に取り組んだ方々にさせてしまった。そして、事務所には来ないけれど、応援してくださった方々をがっかりさせてしまった。



 「もっとたくさん票をとるかと思ったのに、どうしたんですか。うちは4票も入れたのに、ほんとにがっかりしました」と言われたとき、「ほんとにすみません・・・」という気持ちだった。その方も、心から私を応援してくださって、どうしたら票がもっととれるのかという思いからの言葉だった。


 でも、これまでより遙かに多くの市民の方から、「おめでとう!」「議席をとってくれてよかったです!」の声も、わざわざいただいた。


 「世間知らずというものはほんとにしょうがいない」と自分自身を笑いながら、本当は、私も少しは、がっかりしていたのだった。けれど、支えて下さる市民の方のあたたかい応援が今回ほど嬉しかったことはない。だから、とても貴重な経験で、改めていろいろなことを学んだ選挙だった。


 しばらく月日が過ぎてから、支持者の方が言った。「やっぱり、選挙って頼まなくちゃだめなのねえ・・・」とある事例をあげて言った。

 

 そんな思いを抱かせない選挙が行われるまでには、まだまだ遠いかも知れない。日当も払わず、無報酬で選挙を支えてくださった方々。払わなかった分だけ、背中は重い。
 
 当選のお祝いには、無報酬の上に、皆さんがお金を出し合って美しい花束を贈って下さった。花束にこめられた思いに感謝し、背中の重さを背負いながら、私は私のやり方で、徹底して市民の側に立ち、議員の仕事をしていきます。






155               か り ゆ し               2011・7月4日・日       

 沖縄のかりゆしを買おうと思ったのは,昨年のことだった。沖縄と言えば、日本で唯一、地上戦が繰り広げられた場所である。

 
 平和への願いをこめて、暑い夏、私は、かりゆしを着てみようかと思った。昨年、私が最初に注文したのは、紺地にプルメリアとランの模様だった。

 普通のお店にはないので、インターネット注文ということになる。届いたものは、画面で見る色とは少し違って、鮮やかというより、少しくすんだ紺地だった。けれど、それはそれなりに落ち着いた雰囲気でよかった。

 
 早速着てみて、夫に、「これ、かりゆしなのよ」と私が言うと、
「そうか。やっぱりかりゆしだったんだ」と、夫が言った。「僕にも、買って」というので、インターネットをあれこれ探した。マオカラーのものがいいと言うので、探すのも、なかなか大変だった。

 ベージュ色で裾から3分の1ほどの部分に主に模様があるもので、夫は気に入ったらしい。

 不況になってから、お店に行っても気に入った品物が少なくなった。地域のお店を利用したいと思いつつ、目的の商品を探すのも、難しくなった。

 
 
 それなら、今年も、かりゆしがいいかなと思い、沖縄のかりゆしを買おうと思った。
「ねえ、これでいい? それとも、こっちのほうがいいかしら ?」
 ネットを見て、どんな柄がいいかなと、ふたりのかりゆしを選ぶのも、楽しかった。
 

 夫の、紺地に野菜模様と、クリーム地に裾模様の2着の新しいかりゆしが到着してから、間もない日。
 
 「あした、何、着ていくの  」と私が尋ねた。いつもと違うことのある日は、翌日の服装をきくことがある。台所から、洋間にいる夫に向かって、尋ねた。


 「○○○○・・・・」
 「えっ、かれいしゅう ? 」

 何のことがわからず、私は、「加齢臭がするの? 明日、何を着ていくのって、聞いたのよ」
と言った。

 「か・り・ゆ・し」
 夫が、今度は、大きな声で口を大きくあけて、言葉を発した。
 

 夫は女性の多い職場で働いている。「女性に嫌われないように清潔感のある恰好をしてね」と、私はときどき言う。夫は、「わかってますよ」と言う。

 
 加齢臭がするんじゃ困ったな、と思ったのだけれど、「かりゆし」とわかって、大笑いした。聞き違えた私も私ですが・・・。ほんとに、そう聞こえたので・・・(笑)。

 
 かりゆしは、流行もないような基本的なシャツスタイルで、女性にとっても、着心地よさそう。去年から、ちょっとした「かりゆし」ファンになった我が家。

 
 何よりも、基地に苦しむ沖縄の平和を応援している気持ちがして、ほんの少し誇らしい。





154              ブーケのゆくえ           2011・6月4日・土
 
 2月に、夫の方の姪の結婚式が、姫路で行われた。夫と私と娘の3人で出かけた。
式も終わり、純白のウエディング姿の花嫁の○さんは、式場を出たところで、参列の招待客に向かってブーケを後ろ向きで投げた。「次は、あなたの番よ」ということなのだろうか。

 
 願いをこめたブーケを受けたのは、着物姿でおめかしの姪で高校生の○○ちゃんだった。受け取ろうとする瞬間だったか。その時、声がした。

 
 女性の声は、「○○、あかん。とったらあかん」と聞こえた。
まだ高校生の○○ちゃんは、どうしてよいのか。だって、自分のところにきたブーケなので、受け取ってしまうのは、まあ、普通のことでしょう。

 
 「あかん」と言われてもどうしたものか。○○ちゃんがブーケを胸におろおろとした様子であたりを見回していると、また、声が飛んだ。

「やりなおし ! 今のは、練習や。もう一回 !」
それは、まるで、撮影のカメラを回す監督のようだった。声には威厳があり、有無を言わせないものがあった。
 
 その声に従い、花嫁は、ためらうことなく、戻されたブーケをもう一度、自信を持って後ろ向きになって投げた。

 
 さっき、「とっては、あかん」と言われた○○ちゃんは、今度は、とんでくるブーケを受けるのではなくて避けた。○○ちゃんの隣の若き女性は、ちょっとためらいながらも、向かってくるブーケを笑顔で受け止めた。みんなが笑って一件落着をみた。

 
 カメラを回す監督のように威厳のある声の主は、夫の妹さんで、最初にブーケを受けた○○ちゃんの母親。やりなおしでブーケを受けたのは、我が娘だった。女性は、まだ高校生の自分の娘が受け取るより、若い女性が受け取るほうがよいと思った、とっさの行動だったのだろう。

 
 娘は、後になって、「一瞬、私がとっていいのかなと思った。近くにも若い人がけっこういたし・・・」と笑って言った。でも、そう言う娘は何だか嬉しそうでもあった。

 
 普通なら、女性(夫の妹さん)は、「あら、私の娘が受け取ってしまった・・・まだ、高校生なのに・・・」と笑うくらいでおしまいだろう。
 
 「あのときは、すごかったわねえ・・ ! 」と、結婚式からしばらくたっても、私は夫と話したものだった。あの場で、「やりなおし」とは、なかなか言えないものだろう。

 
 
 いわゆる適齢期と言われる世代が受け取って喜んでもらったほうが、いいと思ったのだろうか。それが、その場の状況としてもふさわしいと思ったのだろうか。全体のことを考える優しさと、咄嗟の行動に出られる強さと度胸。それがすごいなあと私は思った。「さすが、あなたの妹さんね」と、私は言った。

 
 花嫁さんの○さんも、美しく、また、度胸もありそうで、頼もしく見えた。お幸せに !

 





153      いつまでたっても、親は親                2011・5月22日・日      

 「お父さん、お元気ですか?」と電話をした。この前、一緒に母を訪問してから、2週間たってしまった。
あんまり調子がよくないけど、まあまあ・・・ということ。

 少し健康状態の話があって、それから4月23日に結婚式を挙げた姪夫婦が先日やってきたことなどを、父は話した。久しぶりに孫娘たちに会えて嬉しかったのだろう。

 「まあまあ元気でよかった」
 と私が言うと、
 「僕は、あなたのことを心配してた」
 と父が言うので、私は、何か親に心配かけるようなことしたかなと、見当がつかなかった。

 「えっ、なあに?」
 「ケーブルテレビを見たんだけど・・・」

 「議員になっての抱負」を見たようだ。
「どうも、迫力が・・・」というので、「そう、力まないで普通にやればいいと思ったから、おとなしくやりました」と私は答えた。実際、演説みたいにする必要もないだろうと思った。(実は、しとやかなのが、「地」なのです・笑)

 

 すると、父は、「そう。見るほうが、つい、そう思ってしまうからかも知れない」と言った。
「見るほうって?」
と、私が聞くと、父は、
「今回、票が少なかったので、元気がないと思って・・・」

 私は、票のことは関係なく、普通に元気に過ごしていたし、臨時議会も張り切ってやったし・・・(?)と思っていたので、
「えー、そんなこと心配してたの?立ち直り早いから、大丈夫。元気、元気」
と笑った。


 「じゃあ、よかった!」と父の笑顔が受話器の向こうに見えた。年老いて自分の体が大変なのに、娘のことを心配していたんだと思うと、何とも申し訳ない気持ちだった。

 
 
 今回の選挙では、たくさんのいろいろな声をいただきました。「票は関係ない。当選してよかった」とか、「どうしたの?」とか、「票が少ないのでがっかりした」とか・・・。

 「おめでとうございます」の言葉が、これほど心にしみたことはなかった。喜んで下さった方が多かったのですが、応援する気持ちが強いあまり、「家族中で投票したのに、なぜ、票が伸びなかったのか」など、さまざまな声をいただきました。

 
 やさしさが涙が出るほど嬉しくて、本当のことを言うと、電話をいただくたび(選挙直後の3日間くらい、けっこう続けて電話があった)その合間には泣いていたのでした。

 「なぜ、票が伸びなかったのか」については、そんなにも応援して下さったのに、「ごめんなさい」という
気持ちで、また、人知れず涙しました。 当選したのに、泣くなんて傲慢だとか、バカとか思いながら。
 
 
 娘からは選挙運動前と後の2回、はがきが届きました。
 選挙後のはがきには、「本当におめでとう」に続いて、「お母さん、ずいぶん無理もしたことでしょうね」「お母さんのがんばりは、見る人はちゃんと見ているから、大丈夫」という言葉があり、まるで親子逆転のようで、胸にじんときてしまいました。

 経験は、どんな経験も、人生を豊かにしてくれる。今回、票が伸びなかった分、人の心のやさしさも届けていただきました。


  票は少なかったのですけど、それがどうしたの?
 当選したのだから、精一杯やるのみ。どんなことがあっても、胸張って堂々と生きる。恐いものは何もない。見る目がないのだ、市民は(すみません・・・)。まだまだ、村選挙(ごめんなさい、でも本当みたい)。・・・働きぶりよりも、地域から選べばよいと思っているから、まちはなかなか良くならないのだ。


  ・・・なあんて、言いたいことばかり並べて、逆に票が少なかった分、恐いもの、何もなし。お父さん、安心して。盾子は元気です。





152              思い出バッグ                (2011・1月29日・土)

 私が若い頃は、バッグは、小さめが主流だった。財布など貴重品やハンカチなどはハンドバッグに入れ、必要に応じて、もう一つの補助的な袋(今では、補助的な袋も含めて、トートバッグというようですが・・。)を持つ姿が一般的だったと思う。

 教員は、いつも、ハンドバッグと、仕事関係の物を入れる袋(「バッグ)が必要だったので、私は、毎日、ハンドバッグと仕事用の二つのバッグを持って通勤した。その頃、ハンドバッグひとつでおしゃれに身軽そうに通勤するOLさんの姿が羨ましく思えたこともあった。
 おしゃれについて言えば、教員より何倍も、OLさんは、おしゃれだった。

 
  (仕事用の補助バッグは別として)小さめが中心であった私のバッグに、大きな異変が起きたのは、学校給食の署名運動にかかわってからのことだ。どこに出かけるにも署名用紙を持ち歩くようになった。自校給食を求める署名用紙は、請願趣旨を十分に伝えたいと思い、B4版にした。それで、それまでの小さめのハンドバッグではなくて、B4版が、そのままきれいに収まり、荷物はすべて一つになるバッグが欲しくなり、大きなバッグを買った。

 
 それは、横長でかぶせ式、金属製の留め具のついた、まさに「かばん」の典型のような物だった。その中でも、おしゃれな雰囲気の物を選んだつもりではあった。
 だが、姪には、「お医者さんのバッグみたい」と言われたことを覚えている。それを持っていつでも、どこにでも、まだ、公開されていなかった議会の委員会傍聴にも出かけた。

 
 委員会の傍聴は、当時、原則公開ではなくて、許可制になっていて、実態として当時の議会は市民の傍聴が許可されなかった。そのバッグを膝の上において、「少々お待ち下さい」と事務局職員の言葉に従い、委員会室に近いソファに数人と腰をおろしていた。そんなことは何度もあった。廊下は、ひどく冷たく感じられた。開かない扉をたたき続けた。しかし、扉はまるで鉄の扉のように固かった。

 

 私が大きなバッグを日常的に使うようになったのは、その頃からだ。その後、やはり大きくて縦長の赤いショルダーバッグを買った。そのバッグも、私と一緒に議会傍聴を重ねた。議員になってからも、たいていは大きなバッグをつかった。中くらいバッグにもう一つノートや書類などの荷物を抱えることもあったけれど、それは、荷物が分散して煩わしかった。

 
 世間では、一時、超小型のポシェットが流行したけれど、そのうち、主流ではなくなった。それは女性の社会進出がさらに進み、通勤途中に読む雑誌、書類などもバッグに収めたいと思う女性が多くなったからかも知れない。小型バッグ主流の時代には、二つのバッグを持っていたが、一つにまとめて持ちたいという要求が強くなったのかもしれない。

 

 今、大きめのバッグが主流となったが、それでも小さめや中くらいのバッグも存在する。私の場合は、ふだんはやっぱり、何でも放り込めるバッグがお気に入り。

 

 今は存在しないバッグにも、それぞれ思い出がある。教員をやめた年に行ったヨーロッパ旅行では、スーツケースの他の持ち歩きとして、「傘なども入る、手のあく大きめのショルダーバッグが便利」と、案内に書かれていた。その時にしては大きめの、明るい茶のバッグを購入して持って行った。

 その後の、(B4版)署名用のお医者さんバッグ、署名も入った赤いショルダーバッグ、それぞれ、人生の節目に愛用したバッグである。それらは、今は私の手元からは姿を消している。

 ただ、一つだけ、私の見える範囲に存在しているのが、何と、あの「お医者さんバッグ」である。このバッグは、書類やノート入れには大変便利ではあったが、男性っぽく(?)なにぶんおしゃれな感じには、程遠かった。


 でも、愛着もあり、B4版という大きさの自校給食を求めた署名活動後も、何年も手元においていた。もう使わないかなと思った頃、まだ、痛みも全くなくきれいだったので、捨てるのも惜しく、リサイクルに出そうと思ったバッグ。 
 
 
 
 そうしたら、「もったいない、僕が使う」と夫が言った。夫があることを勉強していて、今も、それを持って、勉強に出かけている。先日、「このバッグもそろそろ・・・ね」と夫が言った。「歴史ある」そのバッグも、さすがに年月を経て、だんだん・・・ですが。 
 





151 2011年・新年に    「ゆずり葉」がおしえてくれるもの  (2011年1月16日・日)

 我が家の玄関前に、数本の木が植わっている。その中には、「ゆずり葉」の木がある。
娘が生まれた年が、ちょうど引っ越しの年。いくつかの木は、引っ越しとほぼ同時期、あるいは数年以内に植えたもので、かれこれ20数年経過していることになる。

 なぜ、この木を植えたかというと、「ゆずり葉」(作者・河合酔茗)という詩に出会っていたからである。

 「ゆずり葉」は、教員時代に教えていた国語の教科書の中にあった。とにかく、この詩が気に入っていたので、庭のある生活になったら、ゆずり葉を植えたいと思った。

 そして、「ゆずり葉」の葉が、おめでたいものとして、お正月に用いられることは、ご近所の方から、その後に知ったことだった。

 ゆずり葉の葉は、新しい葉ができると、入れ替わって古い葉が落ちる。新しい葉に命をゆずって、厚い葉、大きい葉でも、落ちていく。
 
 

 詩の中で、私が一番好きな箇所は次のところだ。

 世のお父さん,お母さんたちは
 何一つ持ってゆかない。
 みんなお前たちにゆずってゆくために
 いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
 一生懸命に造っています。


 
「ゆずっていくために、命あるもの、よいもの、美しいものを一生懸命に造っている」というところに、すごく感動する。まさに、私たちおとなのすることだと思う。
 
 もちろん、ゆずっていくことが目的ということばかりではなく、自分たちのためにも、いのちあるもの、よいもの、美しいものをつくるのだが、結果として、それは古い葉が落ちるように、新しい葉に受け継がれていく。

 
 次世代のこどもたちに、残したいものというのは、おとなが意識して残さなければならないのだろう。自分達のためにも、次世代の子どもたちのためにも。
 そして、よくない物は、つくらず、また残さないようにしたいもの。


 私は、「(世のお父さん、お母さんたちは・・・)いのちあるもの、・・・・を一生懸命に造っています」という、「一生懸命」という言葉が入っているところにも、心惹かれる。今の時代を、今のおとなたちが、つくっていくという当たり前のことではあるが、人間の生き方を気高く示していると思う。私自身も、一生懸命に生きなければいけないなと思って。


 
 私は、
この詩を解説しようとは思わない。また、それが、できるとも思わない。ただ、言えることは、私は、命のつながりをうたった、この詩が好きだということである。教員時代、どんなふうに子どもたちに、この詩を教えたかも、忘れてしまっている。教えることも離れた今、自分が好きな部分を好きなように勝手に解釈をしている。


 

 玄関前の我が家のゆずり葉。春には、新しい葉が生まれる。生命力が旺盛で、すぐに上に伸びて葉を茂らせる。かわいそうだが、あまり伸びないように、ときどき、夫が枝を切ることになる。時には、そのたくましい生命力を嘆きながら。

 

 




※ 参考
 ゆずり葉            
                 河合酔茗

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

 
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってー


子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。


かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー。


世のお父さん,お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
一生懸命に造っています。


今,お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい,花のように笑っている間に
気が付いてきます。


そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。









151 母のこと      母の入院で             (2011年1月9日・日)

 昨年の秋、母が大腿骨を骨折をしたという連絡を義姉から受けた。母が入院した夜、行ってみると、母は元気な様子で、身動きができない体ながら元気で、よくしゃべっていた。

 その後、手術からわずか数日で、退院となるということで、驚いた。
 
 退院するという前日、私が行くと、理学療法士の男性が言った。
「本当は、もう少し置いてあげて、リハビリをしてあげられたらいいんですけど・・・」
 どうやら、母が元気が良すぎて?他の患者の迷惑になり病院においておけないということらしい。



 理学療法士の方は、母を車椅子にうつそうとした。車椅子に移動する時、母は「痛い!」と悲鳴とも思えるような声で、抵抗を示した。しかし、さすがは、プロだ。母をなだめたりしつつ、移動させる。

 二人の理学療法士が、母を抱きかかえながらの移動。理学療法士の一人が 「どんなお母さんでしたか?」と私に尋ねた。

 「しっかりとした賢い母でした」
と、私は言った。認知症になった母だが、最大限ほめてやりたかった。認知症になるような人は、もともと頭がおかしかったと思われないように、という思いもあって。

 理学療法士と私との間の、問いも答えも過去形だった。過去の母、現在の母。状況が違うのだから、仕方がない。
 でも、私は、少し寂しかった。過去でしか語られない母のことが。


 そして、思い出していた。
「川島さんのように、頭がよくて何でもできた人が(認知症に)ねえ・・・」という言葉を。そう言ったのは、母と一緒にPTAの役員をした遙か昔の知人だった。デイケア通所施設で、その人と出会った時に言われた言葉だ。



 その時、初めて、私は、母がまわりの人たちにどう思われていたのか、娘の私が知らないということに気づいた。

 
 言われてみれば、母は運動神経もよかった。子どもの運動会に出ると、PTA種目のスプーンレースというものがあり、いつも1番であることを自慢にしていた。女学校時代、「遠泳」の時間には、遙か遠くの海まで泳いだという話も思い出した。PTAの役員時代には、その活動の中にコーラス部というものがあって、コーラス部にも入っていた。家でもよくきれいな声で歌を歌っていた。あとは具体的には知らない。

 でも、「頭が良くて何でもできた人」という彼女の言葉を聞いて、「そうか、母は、そう思われていたんだ・・・」と思うと、何だか嬉しかった。

 

 私は、母から、たくさんの目に見えない物ももらって、今、ここに生きている。
 ちょっと哀しいけれど、母からの最後の贈り物は、認知症というものは、どんなものか、教えてくれたということ。認知症になっても、何もわからなくなったのではないということ。
 可能であれば、認知症にならないほうがよいということ。
 

 
 母を見ているからこそ、夫と「認知症にならないように努力しようね」と思える。思っても、なるときにはなるのかも知れないけれど、その対策も、ある程度はわかるような気もしている。
 





150                ミコのこと               (2010・12月23日・木・記)



  【まだ若かりし頃の 恥ずかしがりやのミコ  利根大関河川敷】

 「この頃、ミコ、頭が変になったみたいね!」
と、水道の水を出しながら、私が言った。                 

すると、夫が、「えっ、僕のこと?}と言うので、笑ってしまった。
「ミコよ。ミコ」

「あー、よかった。僕のことかと思った」
「前も間違えなかった?」

・・・ということで、夫ではなくて、問題はミコの老化のことなのですが、「ミコ」の部分を聞き漏らしたらしい。


 ミコは、犬小屋と家の外壁の間に入ってしまって出られなくなって吠えたり、物干し台の棒のまわりをぐるぐる回って動けなくなったり・・・と老化現象が現れてきている。

 ミコも年をとったなあと思う。かわいらしい目で、じっと見つめられると、かわいいし、かわいそうな気持ちがする。

 
「ミコ、散歩の足取りも遅いよ」と夫が言う。

 食べても、太らなくなった。いつだったか、夫が綱を引いていると,何だか、とても軽くなったので、後ろをふり返ったら、ひいているのは、綱だけだったと言う。首輪が抜けてしまっていたのだ。
 そのミコは、後ろからついてきていた。若い頃だったら、どこかへ行ってしまって探すのに、大騒ぎだったかもしれない。

 その昔、何かの拍子に離れてしまって、追いかけても追いかけても逃げてしまい見失ったことがあった。こちらの姿を見ると、からかうかのように、もっと遠くの草むらに隠れ、逃げてしまった。もう、ミコは戻ってこないのではないかと、悲嘆にくれたこともあった。

 
 今のミコは、首輪が抜けてしまって、自由の身になっていても、ちゃんと飼い主の後を歩いてくる。その話を聞いて、何だか、複雑な気持ちだった。

 
 最近、夫と一緒にミコの散歩をした。ミコは私たちの前を弾む足取りで歩き、まあまあ元気なことがわかった。
「ミコ、まだ元気じゃないの」と私は夫に言って、まだまだミコは大丈夫だと思った。
冬に向かうと、痩せていたミコの体も深い毛で覆われてきて、太ってきた。自然というものは、うまくできているものだと思う。

 この前、娘が家に帰ってきた時、娘は、ミコの姿が痩せてみすぼらしくなっていたので、がっかりとしていた。娘が幼い頃、喜びも悲しみも分かち合ってきたミコなので、年をとってもかわいがってやってね、と思ったのですけど。

 
 年をとらないようにと思っていても、人間も年をとるし、困ったものです。
 少なくとも、ミコより長生きしないといけないですね。







149   姪の結婚    「ようじ、あるよー」         (2010・11月6日・金・記)

 10月に姪が結婚した。満面の笑顔が幸せを物語っていた。

 私が結婚した時に写真におさまっている姪は、まだ、ほんとに幼かった。姉とおそろいのワンピースにおそろいの赤いよそゆきの靴をはいてすまして写っていた。

 
 (姪の)姉のほうは、体に問題なく生まれたけれど、今回結婚した妹のほうは、生まれたときから、いろいろあった。生まれたとき、2300キログラムの低体重児で、しばらくのあいだ、保育器に入っていた。その直後からは、股関節に異状があったのか、頑丈そうな革のベルトで足の付け根から腰のあたりを固定していた。確か白い色の皮のベルトだった。ベルト姿の小さな体で、親におぶわれていた姿が、思い出される。

 
 そして片方の足には、生まれつき、かなり大きくて地図のような真っ赤なあざが走っていた。肌の色が白かったので、あざはほんとに目立った。それは、お医者さんで、不思議なほど、すっかりきれいにとれた。その後はアトピー性皮膚炎で、足などに発疹ができて、かゆそうだった。

 革ベルトは、赤ん坊を卒業する頃には、とれていたと思われ、あざもなくなり、問題は、その後のアトピーだけになったと記憶している。


 その姪が幼かったころ、家の中をちょこちょこしながら、私の部屋のドアをたたいたりした。かわいい声で、「じゅんこおばさーん!」と言って何度も呼ぶので、私は、「あなたに用事はないのー」と応えた。

 すると、少しして、姪は、「ようじ、あるよー!」と言って、また、ドアのところで大きく叫んだ。ようじ(楊枝)を持ってきてくれたのだ。

 
 
 お医者さん通いの幼い頃がうそのように健康的に成長した○○さん、すてきな人とめぐりあいましたね!お姉さんと一緒に幼かった私の娘の面倒を見ていただき、ありがとうございました。花嫁姿、とてもきれいでしたよ。

   







148         娘の見た とんでもない夢            (2010・10月3日・日)  

 先日、娘から電話があった。
いきなり、「お父さんとお母さん、離婚しないでね」という。何のことだかさっぱり理解できなかった。
話を聞くと、私と夫が離婚する夢を見たということのようだ。



 夢の内容をきくと、およそ次のようなことだった。

 旅館にお父さんがいて、隣には着物を着た上品そうな女の人が立っていた。
 そして、お父さんが、私に、「○○(娘の名)の知らないところで、お父さんにもいろいろあるんだよ」と話した。
 お母さんは、「○○、こうなってしまったんだから、(離婚も)仕方ないわね」と言った。

 
 そんな話だった。娘によると、その夢を見た後、目が覚めたが、また寝てしまった。そうしたら、その「つづき」を見たそうだ。

 
 私は、それを聞きながら「変なの・・・気持ち悪い」と思った。娘が電話をしてきたのは、休日の午後のことだった。その日の朝は、夫に電話してきたそうだ。私は、その日の午後、約束があり出かける予定だった。

 私は、まだ、夢の「つづき」を話したがっていた娘に、「ごめん、出かける予定だから、また、あとで」と電話を切った。

 
 出かける間際でもあり、時間がなかったせいもあったが、「夢のつづき」を聞きたくなかったというのも本当のところだった。「夢」の話でもあり、また、聞きたくない話でもあったのだ。

 
 「変な夢みた」という時の、娘の夢は、これまでも非常に細やかなところまで描写されている夢の話が多く、真実みを帯びているかのようだった。

  なんで、(場所が)旅館なの、なんで女の人が夫のそばに立っているの、と思って、私は、気持ちが悪かった。「上品そうな」着物の人?何が、娘の知らないところで、「いろいろあるのだ」。

 
 その日、帰宅した私は夫と話した。
 「あなた、もしかして女の人、いるの?男の人って、案外わかんないっていうものね」
 「えー、どうして?」
 
 「だって、(娘のみた)夢の中で、○○に、いろいろあるんだって言ったみたいじゃない?」
 夢の中の話をするなんて、するほうもするほうですが。
 
 「はっはっは・・・僕は、あなた一筋」
  ということでした(口だけでも、いいでしょう・笑)。


 それにしても、娘よ、変な夢みないでよ。超仲良し?夫婦に対して、何と失礼な夢なのだ。気持ち悪い「夢」に、夫と私は、大爆笑だったのですけれど・・・ね。








147  母のこと     義(よし)兄さん  ピースブロックへの祈り  
                                           (2010年8月27日・金)

 今年の平和のための行田戦争展で、「ピースブロックづくり」をすることになった。埼玉平和のための戦争展で、そんな取り組みをしていて、とてもよかったという実行委員長の話があって、行田でもやってみようということとなった。

 小さな木片は、大工さんにお願いした。私も知人含めてピースブロックの木片を書いていただくことにした。娘が帰ってきた日があり、娘にも頼んだ。
 娘も赤ん坊の頃から、親と行動をともにしてきたので(親の行くところに連れ歩いていたので)、戦争とか平和とかいうことについては、ある程度の思いはあったと思う。

 その時、母のことが浮かんだ。認知症の今でも、文字を読む能力があると思うが、書くとなると、書かせるところまで行かないだろうと思った。それで、母自身は書くことはできない。だから、このピースブロックに、自分の思いを書くことはできない。

 母は、数年前まで通っていたデイケアでの七夕飾りに、「世界中の人々に平和がきますように」というようなことを書いていた。

 その時、私は、なぜか、夫に話しながら、「すごいわよねえ・・・」と言って笑った。もっと、身近な思いを書くだろうと思ったからだ。

 そんなことが思い出され、私は、代筆で書いてもいいかなという思いがした。母は、きっと平和を願い続けてやまないに違いないと思った。認知症でなかったら、喜んでペンをとっただろう。

 それで、母の代わりに、私は「世界に平和を」という趣旨の言葉を書いた。母の名前の「頭文字」を記して、代筆の意味で「代」と書き添えた。

            
 (※ピースブロックは、当日、戦争展に来場した市民にたくさん書いていただきました。今回、展示の見本という意味もあり、事前にも取り組みました)
 

          ◇       ◇      ◇       ◇       ◇
 
 認知症が重くなる前、母は、それまでに何度か自分の兄のことを私に語ったことがあった。

 母には「義(よし)兄さん」と呼ぶ兄がいた。母の話によると、やさしかった「義(よし)兄さん」は、戦争によって死んだ。いや殺されたと言ったほうが正確だろう。
 読書家の「義(よし)兄さん」は、ロシア文学の書物をたくさん持っていて、本棚にはたくさんの書物が並んでいた。それだけで、特高に目をつけられていた時代だった。母の話では、義兄さんは、「自分はこんな戦争で死ぬのはいやだ。ばかげている」と語っていたという。

 

 義兄さんは、召集礼状がきたのだけれど、満州に逃げた。逃げた義(よし)兄さんを、特高は満州まで、追いかけて行った。そして、そこで見つかって殺されたという。

 

 義(よし)兄さんが、今の愛媛大学の学生だった頃、夏休みなると、毎年友人たち10人くらい引き連れて賑やかに帰省していたこと。お土産に、とても美しい絵本をもらったこと。母から聞いた義(よし)兄さんのことは、それほど多くはないが、母が兄として慕っていたことは、十分に想像された。戦争に反対を言うことさえ、難しかった頃のことだ。
 軍国教育の中で育った義(よし)兄さんが、戦争に反対の気持ちを持っていたこと自体が、特別なことだっただろう。

 
 母自身の東京大空襲での戦争体験と合わせて、戦争がもたらした「義(よし)兄さんの死」は、母の平和への強い思いに結びついている。

 
 ピースブロックには、認知症になった母の思いを母の代わりに記したいと、私は思った。たった一つの小さな木片に、母の戦争への思いをこめたつもりだった。やさしかった「義(よし)兄さん」のこと、戦争に反対していた「義(よし)兄さん」のこと、もっともっと聞いておけばよかったと、今、悔いが残る。







146 母のこと     幸せねえ・・・と言った母          (2010年7月25日・日・記)

 結婚することになった私は、夫となる人と、家探しをした。自分の目でまわって探すことが一番早いと誰かに言われたので、あまりまちなかではなく、でも職場にそれほど遠くもない場所をあちこち二人で見てまわった、

 まだ、新しそうで、まあまあの広さがありそうな貸家を見つけた。狭かったけれど、6畳3間あったので、二人で一部屋ずつ自分の部屋として使い、残った一つを人が来た時の応接間として使うことにした。

 そこに住み始めて、まだ1年目の頃、私は、珍しく体調を崩してしまったことがあった。一人で寝ているところへ、心配した母が自転車でやってきた。「なんか、食べたいものある?」と母は、私に聞いた。

 私は、「プリンもヨーグルトも、○○さんが買ってきてくれたから、ある」と答えた。すると、母は、笑顔になって、「あなたは幸せねえ・・・」と言った。その言葉が、母の心の奥深いところから出たように、私は感じた。

 プリントとヨーグルトを買ってきてもらって、人から羨ましがられるほど、幸せなのかどうか、私にはわからなかったけれど、母は、安心したように言って、そのまま帰って行った。

 
 
 結婚して1年目は、後から思うと、その頃が、一番大変だった。いくつものことで、お互いの生活習慣の違いから、ぶつかり合ったのも、その頃だった。

 
 生まれた場所も育った環境も異なる二人が一緒に暮らすことは大変なのかもしれないのは、当然のことなのだろう。そんなことも初めて知ったことだった。

 
 夫は、すごくやさしかった。小さなけんかはしたけれど、私は父母に、そんなことは一つも言わなかった。どんな人を人生の伴侶として選ぶかは、そのまま自分自身の価値を決めることだとも思っていた。

 母は、誇り高く、どちらかと言うと、難しい面を持った人なので、結婚したての頃、私は、私の選んだ人が、いつも母によく思われるように、変な人(?)と思われないように、気を遣っていた。
 夫は、「あなたたち親子は、変な親子だね」と言っていた。
 
 
 母のほうは、その後も、「あなたは幸せねえ。いい人と結婚したわね」と素直に言っていた。

 
 子どもが親にできる親孝行には、たくさんあると思うけれど、私のささやかで唯一の親孝行は、私が幸せでいること。このことにつきると思う。








145 母のこと      母へのにくしみ、一度だけ      (2010年6月23日・木・記)

 私と母は仲が良かった、と私は思っている。(認知症になってしまった母は、施設に入っているので、つい表現が過去形になってしまうのが、寂しい)

 きょうだいの中で女の子はひとりだったので、買い物やコンサート、演劇など、機会があるとよく母と一緒に出かけた。物の価値観も母から受け継いでいる部分も多いと思う。

 
 そんな母に対して、一度だけ、憎しみを抱いたことがある。それは、夫との結婚の前のことだった。夫は、関西からひとり行田市にやってきて、アパートでひとり暮らしをしていた。食事はどこかの食堂に頼んで、毎晩食べていたらしい。食費代が占める割合も大きかったのかもしれないけれど、おいしい物を食べることに関心はあっても、服装には関心がなく、お金をかけなかった。

 
 一言で言えば、こぎれいな格好をしていなかったということになる。母は、身だしなみをきちんとしているほうが好みだった。そのため、娘の結婚相手としては、あまり良い印象を受けなかったのだろう。
 
 私とは関係なく、母はその頃の夫のふだんの姿を目にする機会もあった。
 確かに白いジーンズなどをはいていたけれど、何だか薄汚れているようにも見えた。


 「あなた、おつきあいしているの」と言って、母は、私にあまり良い態度を見せなかった。母の私に対する態度が冷たくなるのが、わかった。その時、私の心の中で、生まれて初めて母への憎しみが湧いた。私は、自分の中の不思議な感情に驚いた。

 以前から、母は、「結婚しようと思う人ができたら、決める前に相談してね」と言っていた。その頃は、私は、まだ、相手との結婚を決めてはいなかった。けれど、私には決める前に親に相談するということは、頭にはなかった。

 
 夫は、私の両親のもとへ結婚の挨拶にきたとき、きちんとしたスーツ姿でやってきた。(このときのことを、母は、私たちが結婚してしばらくたってから、「手ぶらでやってきたことだけが悪かった」と、私に言った)
 夫との結婚を決めたとき、私は思った。その頃は、彼に対する母の思いも変化していて、母は、「朝、うちに寄って食事をしていきなさい」と彼に言っていた。もう、私の中で、母を快く思わない気持ちは消えていた。

 
 しかし、私は決心していた。何があっても、彼の悪口は言うまい。何があっても、この結婚は失敗だったと言って、実家に泣きつくようなことはしまい。私の新たな人生への旅立ちは、母への思いと、そして、彼の人柄の良さに心をうたれた私の、彼への愛から始まった。(正直言うと、不安はあったのですけれど・・・笑)






144  母のこと   「保育園を出るまで生きていたい」と言った母 (2010年5月28日・金)

 私の娘の○○が幼い頃、母はよく言っていた。「(孫の)○○が保育園を出るまで生きていたい」と言っていた。卒園すると、「○○が、小学校を卒業するまで生きていたい」と言った。それも生き延びると、「○○が中学校を卒業するまで生きていたい」と言っていた。

 「えー! お母さん、○○が保育園までって言っていてたじゃない。今度は小学校?いつもそんなこと言っているんだから・・・」と言って笑ったものだった。

 兄夫婦と同居の母は、おそらく二人の姪の成長を見ながら、同じようなことを言っていたと思う。そして、私の娘が生まれたとき、孫の中で一番小さな命を、母は同じように思ったのだろう。

 娘は、今は、もう社会人となり、今年で3年目となった。いつ頃から、「○○が・・・・まで生きていたい」と言わなくなったのだろうか。

 
 母は自分が長生きするとは思っていなかった。決して頑健な体というわけでもなく、自分では体が弱いと言っていた。そのうちに孫達が成人し、次々と家を出ていった。娘は、15才でオーストラリアに向かった。
 
 今思うと、寂しい思いだったかも知れない。ただ、母は、私が独身の頃、「私が若かったら、外国に行くわ」と言っていたくらいだったから、それほどでもなかったのかも知れない。実際、母自身は、四国の愛媛県から、東京に出てきたのだから。

 父は、「あの頃、四国から東京に出るのは、今で言えば、日本から外国にいくようなものだ」と言っていた。

 
 父も母も、結婚した娘の子育てに関しては、何も言わなかった。子育てのことで私が覚えているのは、母の「のーんびり育ててやりなさい」という言葉だった。のーんびり育ててやれただろうか?多分のーんびりと育ててやれなかった。

 
 もしかしたら、孫達が離れた場所に行ってから、「・・・まで生きていたい」という言葉が聞かれなくなったのかも知れない。もう独り立ちして、案じることもないと思ったのだろうか。それとも、自分はもう長生きすると思ったのだろうか。

 
 私が母と買い物に出かけたりしたのは、いつ頃までだったのだろう。コンサートに出かけたのは、いつ頃までだっただろう。私は懸命に母との過去を追いかけた。

 「おとうさん、女の子がいてよかったですね・・・」と、母が父に言ったのは、いつ頃のことだったのだろう。たいした娘ではないけれど、そんなとき、少しは役に立ったかしらと思ったものでした。

「○○(娘)が、おばあちゃん、元気?って言っていた」と私が娘からの電話のことを話すと、「そうお?○○さんが・・・!」と、とても喜んでいたのは、いつ・・・・?

 
 
 ふと、母は、どうしているだろうと思ったら、なかなか眠れなかった夜のことでした。孫である私の娘が「保育園を出るまで生きていたい」と言っていた母は、今、90才を過ぎて元気で施設にいます。





143              歩き方?               (2010・5月20日・木)

  のどかな休日のこと。夫は庭のテーブルと椅子で、読書。犬のミコも、のそのそと小屋から出てきた。私が、窓を開けて言った。

 「ねえ、最近、腰のあたりが老人っぽくなってきたのよね・・・」

 
 すると、夫は、私の方をじっと見て、立ち上がってきた。「えーっ、・・・・!?」
そして、「ほんとに?」


「ミコよ、ミコのこと」
私は、夫が自分のことを言われたと勘違いしたことに気づいた。

「あー、びっくりした。自分のことだと思った!」
と、夫はほっとした表情を浮かべた。

「老人じゃなくて、老犬と言えばよかったのね」と、私。
 勘違いしても無理ないかと思った。

「せっかくがんばっているのに」
と、夫は笑った。

 

 この前、車を運転しているとき、前方を帽子に細身のジーパン姿でさっそうと歩く男性の後ろ姿を見て、最初、誰かと思ったことがあった。耳にイヤホンあてて、リュック姿。近づくと、夫だった。

 
 家に帰ってから、私は言った。「ねえ、どこの若者かと思ったわよ」(ちょっと言い過ぎかな)
「やっぱりね。年寄りに見えないようにがんばって歩いてる」
と、夫は胸をはった。

 
 そんなことがあってから、まだ、月日がたっていないのに、「腰のあたりが老人っぽくなってきた」と言われれば、驚くのも無理はないかも知れない。「ミコのこと」と言われて、ほっとしたのか、夫は、また、もとのように,椅子で読書に戻った。

 
 老犬ミコは、最近、散歩のとき、歩くのも遅くなったというし、(散歩担当は夫で、えさは私)腰のあたりが妙に痩せてみすぼらしくなってきたように思う。かわいい黒い瞳をこちらに向けるのですが。
 以前のミコは、ドッグフードの粒を空中で上手に受け止められたので、私は時折おもしろがってやっていたが、今のミコは、地面に落ちるのを見てから食べる。

 
 ミコの歩き方は、もちろん老犬っぽい。ミコは犬だから、人間のように、見栄はって若い犬のように歩くこともできない。また、その必要もない。



 「意識しないと、年寄りっぽくなるよ」というから、見栄はりましょうか。年寄りが大事にされない世の中ですからね。うーん、魚の目が、痛い。






142     うなぎは、どうやって〈ひまつぶし〉をするの?
               
                  「ひまつぶし」ではなくて、「ひつ(櫃)まぶし」!  (2010年5月9日)

 先日、友人と会った際に昼食を一緒に食べた。お店のお勧めメニューが「うなぎの櫃まぶし」だったので、それを食べることにした。

 うなぎを食べる時は、鰻重というものだったので、ひつまぶしは食べたことがない。もしかしたら食べたことがあったのかも知れないけれど、「櫃まぶし」という意識はなかっただろう。

 125号線通りに、「うなぎのひまつぶし」という旗がたなびいていることがあり、「うなぎのひまつぶしって何だろう、どうやって暇つぶしするんだろう?」って、いつも思いながら車を走らせていた。

 
 それが、あるとき、その旗は「ひま(暇)つぶし」では「ひつ(櫃)まぶし」であることに気づいた。「ひまつぶし」と思い込んでいた私は、長い間、正しく読んでいなかったのだ。

 「櫃まぶし」の食べ方は、最初はそのまま3分の1を食べる。その後、次の3分の1を薬味とわさびを加えて、まぜて食べる。最後に、残りの3分の1をお茶漬けで食べる。これが、正式?な食べ方のようだ。
 教わったまま、食べてみた。結構量が多かったので、お腹いっぱいになった。

 話しながら食べていて、友人のほうが早く食べ終わった。「教員時代が抜けなくて、食べるのが早いの」と友は言った。私もそうだった。ぱーっと食べて、まだ、子どもが食べているうち、テストの採点をしたり子どものノートを見たりした。それでも、仕事が勤務時間中に終わることは全くなかった。

 かつての仕事のこと、今の社会の状況など、友人とは一致する考えもあって、会話を楽しんだ。


 「私、ずうっと、このひつまぶしを、うなぎのひまつぶしだと思っていたの」とは、言えなかった。「あー、こうして食べるとおいしいのね」と味わいながら食べた。

 それほどは遠いとも言えない距離にいても、何年かに一度どころか、もっと会わない友人とは、積もる話もあったが、また会いましょうということで適当な時間で別れた。


 けっこう長い間、「うなぎのひまつぶし」と思っていた私は、ひまつぶしではなくて、有意義な時間の中で、「ひつまぶし」をおいしく食べた。






141     すごい勘違い        (2010年4月18日・日)

 「ねえ、知らない?べージュ色のズボン・・・」
 夫に尋ねた。
 
 ふだん用にはく父へのズボンを買った時のこと。「プレゼントに何がいい」と、私が尋ねたら、父は、ふだん用の綿のズボンがいいと答えた。

 新しいズボンの裾上げのために、同じ種類のベージュ色のズボンを父から借りてきた。その借りてきたズボンが少し前から探していたのだが、見つからず、とうとう私は夫に尋ねた。

 
「知らない」と、あっさりと夫。
「やっぱり・・・。でも、あなたが持っているのと同じようなんだけど・・・」

 夫は、自分の服は自分で管理している。自分の物は自分で責任を持つことになっている。サイズが違うので間違えるはずはないと思うけれど、夫も持っているズボンと素材も色も似通っているので、夫の服に紛れ込んではいないかと思ったのだ。

「ねえ、ほんとに見なかった?」と何度も尋ねる私に、夫は、やっと思い出したようだ。

「あっ、もしかしたら、あるかも知れない・・・あれかな?」
 夫は答え、タンスをあけ始めた。
 

「これ?」と夫がタンスの奥のほうから出してきた。よかった。見つかって、私はほっとした。ほっとして、「もう、全く・・・」と言いながら笑った。

「ねえ、どうしてまちがって、しまっちゃったの?サイズが、全然違うじゃない」
父は、サイズを探すことが難しいくらい細くて、夫はその反対。だから、間違えることないと思うのですが。


「ズボン、はこうとしたら、全然、体が入らなかった。あなたに怒られるかと思ったから・・・」
「どうして、私が怒るの?」と私。

「ズボンがはけないほど、太っちゃったと思って・・・。それで、タンスにしまった」
「えーっ?!何で、あなたが太ったら、私が怒るの?」
私は、それを聞いて、本当におかしくなって笑った。


 あーあ、もとのズボン(元のズボンと勘違いした父のズボンと夫のズボンとの差、胴回り約10センチ)がはけないほど、太ることなんて、あるかしら。そして、夫が太ろうが、太るまいが、私が怒ることなんてないのに。でも、もし、本当にそんなに急に太ったら言うかしら。「ちょっと太りすぎじゃない?」って。

 
 新しいズボンの裾上げのために借りてきた父の細いズボンが夫にはけるはずがない。見つからなくて困っていたが、尋ねてみるものだ。

 夫が、父の細いズボンに足を入れ、太ってはけなくなったと勘違いしたことがおかしかった。
足を入れようとしている様子を思い浮かべて笑った。太ったら私に怒られる・・・と思ったことがおかしかった。わざわざ、タンスの奥のほうにしまってしまったことが、おかしかった。

「どうして、どうしてよ。ねえ、おかしくない?そう思うのが。」

 いつまでも笑いきれないほど、笑った。夫も笑い出して、ふたりで笑った。








140           雨上がり、娘の誕生              2010年4月10日(土)

 私は雨がそれほど嫌いではない。けっこう好きなのだ。(もちろん、「雨か、いやだな」と思うことも多いのですけれど・・・ね)雨上がりに虹でも見えたなら、それは最高である。

 娘が生まれたのは、お昼近くだったが、その日の朝は、明るい空に雨が少しだけ、ぽつりぽつりと降っていたと記憶している。通りに面したお部屋から、外を眺めることができた。
 無事にあたらしい命に出会ったとき、心の底からほっとした。

 生まれるまで、心配するようなできごとがいくつかあった。私が熱を出して医者にかかり、抗生物質を飲み、その直後、妊娠がわかった。薬を飲んだことは、生まれてくるまで、頭のどこかにあった。生まれてくる子に障害があっても力を合わせて育てていこう、という決心なしには前に進めなかった。

 
 
 教員をしていたので、体育の授業も行った。寒い冬は、少し辛く感じられるときもあった。その頃、一つの学校に、ある基準以上の妊娠教員がいれば、体育の代替教員が来るが、その基準には満たなかった。
 
 そんな中で、体育の時間、用心をしてはいたが、突然とんできた子どものボールがお腹に当たってしまったことがあった。

 「ああ、どうしよう・・・大丈夫かな」と思った。誰が投げたボールか、私自身がわからなかったことを幸いに思った。最悪の場合、誰を恨んでも仕方のないことなのだから。

 直後、お腹に手を当てると、胎児の動きが感じられなかった。

 その日の放課後の時間になって、私は、夫に電話をした。「ボールがお腹に当たってしまったの。それで、お腹の子が動かなくなった」と。

 「診てもらうしかないよ。だめだったらしょうがない」と、夫の言葉は意外にも冷静だった。私の妊娠を知ったとき、飛び上がらんばかりに喜んだ夫の心の内はそうではなかっただろう。

 
 仕事の帰りになってしまったと思うが、病院に寄った。幸い、心音を聞くことができ、お腹の子どもは無事だった。

 やがて、初夏の頃も過ぎ、「今、生まれても、僕は病院に行けないよ。まだだよ、まだ生まれて来ないで」と夫は言っていた。その時期を無事通り越した翌日、娘は予定日より1週間ほど早く生まれた。

 「不思議、お腹の中で聞いていたのかしら。親孝行な子ね」と、二人で笑ったことを覚えている。2300グラムの女の子だった。

 生まれたその日に、私の両親もやってきて、娘の誕生を、とても喜んでくれた。1週間後、小さな赤ん坊は退院時には、2500グラムを超えたので、私たちをすっかり安心させてくれた。

 日程的にも親の都合に合わせて生まれてくれて、小さく生まれても、すぐに大きくなって、偉い子だ・・・と、赤ん坊の娘をほめたたえた。

 「ほんとに○○は偉い子だったのね・・・!」
 おめでたい両親は、あとあとまで、このことで、我が子をほめたものです。

 
 私が、育児休暇を3月までとって4月から職場復帰したとき、娘は10ヶ月。保育園を休むことを知らないくらいのとても丈夫な子どもで、その後も私たち共働きの両親を大いに助けてもくれた。

 
 
 夫の両親は、私たちが結婚する時には、すでに亡くなっており、夫の叔父さんの「両親が生きていたら、(孫の誕生を)どんなにか喜んだことでしょう」という手紙の言葉に、胸がじんときたのを思い出す。今は、その叔父さんもいない。

 雨上がりの空を見つめるとき、娘の誕生とそれにまつわることを、ふと思い出すことがある。







139   父の入院  ぼくですみません         (2010・3月28日・日)

 もう1昨年の11月のことになりますが、夜、父が緊急入院することになった。

 あとで、聞くと、何が起きたか、父自身がわからなかったということで、瞬間的に意識が喪失したのかも知れない。高齢に加え、出血もあり、痩せ形の体型からは体力があるとも思えず、覚悟しないといけないような状況だった。

 
 ベッドから落ちて時間が経過していたため、筋肉の数値がひどく悪かった。その数値等についての詳しいことは医学的なことで、今は、忘れてしまった。幸い、「数値」は1日ごとによくなっていった。しかし、その後も、心配がない状況でもなかった。

 父は点滴が続くベッドの生活となり、私が一番心配したのは、元気になっても父が歩けなくなってしまうのではないかということ。そして、天井をみながらの生活は、父の「記憶」に異状をきたすのではないかということ。体のことは回復しない限り仕方のないことなので、特に後者、父の「記憶」が心配だった。

 

 認知症の母に加え、父まで認知症になったら・・・ということが、いつも私の頭から消えなかった。
それで、1日のうちのどこかの時間、ーたいていは夕方か夜だったーに顔を出すことにした。

 最初のうち、父はベッドでテレビを見ていたが、そのうち、テレビはつまらないと言って、ほとんど見なくなっていた。メモをとりたいからノートを持ってきてくれとか本を持ってきてくれと言った。すでに退職の身となっている長兄が毎日、新聞を持って病院に行っていた。
 
 
 同居の義姉は勤め帰りに毎日のように病院に寄って、身の回りの洗濯物を持ち帰ったりなど、いろいろやってくれた。
 父は、「○○子さんが来てくれるので、本当に助かる」と感謝の言葉を口にした。
 入院の準備の際にも、義姉がパジャマなど新しい物をそろえたりと、手際よくすべてを整えてくれた。

 
 昼間は、兄が新聞を運び、夕方は義姉が、夕方か夜は私と、1日の時間をちょうどずらせたように訪れた。毎日のように、複数の身内が訪れていたが、やっぱり「認知症」にならないかと心配だった。
 
 私が訪れると、父は、「議会は、まだ?議会は大丈夫?」、「議会がんばって」と議会のことを必ず尋ねた。

 
 議会までに、そうは時間もなく、その準備に忙しかった。でも、どうしても病院に行かなければ・・・という気持ちだった。1日でも欠かせば、父の顔を見て話をしなければ、父が認知症になってしまうのではないかという恐怖が大きかった。

 議会の自分の「一般質問」の前日だけは、どうしても行けなかった。それで、夫に「代わりに行って」と頼んだ。

 夫は父に、「僕で、すみません。次は必ず、盾子さんをよこしますから」と言ったという。翌日訪れた私に父がそう言って笑った。

 「僕ですみません」が、私もおかしくて笑った。

 あの頃、病院の行き帰りに車を走らせながら、白い紙に黒く書かれた「○○   式場」の立て札を見るのが恐く、思わず目をそむけた。父は、今、外出時には、杖を持つけれど、驚くほど回復した。

 
 夫が、何かの時に、「すごいね、お父さん。記憶力、僕よりいいみたい」と言うので、ほんとにおかしい。







138  母のこと        お米もらいに             (09 10月25日・日)

 母のいる施設を訪れたとき、父が、母を前にして、「この人は、偉かった・・・」と言った。
戦争中でお米が配給の時代のことだ。
 
 食べるものがなくて、困っていた生きるか死ぬかの時代。母がそれまで持っていた上等な着物も、みんなお米に変わったと母の口から聞いたことがあった。

 母は、一人で、警察に行ってお米を手に入れてきたそうだ。父の話では、その頃、お米は、警察で管理していたようだ。多分、上の兄が生まれていたと思う。

「食べるものがなくて、困っているんです・・・!」と窮状を訴えたに違いない。そのころ、警察まで行って、お米を手に入れた人がいたのかどうかは知らない。父の話の様子だと、おそらく警察まで出かけて行く人は珍しかったに違いない。

 
 はるか昔のあの時代、愛媛県からたった一人で東京に出てくるくらいだから、表面やわらかでも、性格には、強いところがあったと父は言う。

「私は、強い人間じゃないわ。ぐじゃぐじゃよ。そうでなければ、今、こんなふうになっていないわ・・・」と母は言っていたことがあったけれど。志を抱いて、東京に出てきた自身と比べて、そういったのかも知れない。

 

 母は、父のことを「この人は、長男で甘やかされて育ったから、我が儘だ」と言っていたことがあった。
父は、母が認知症になってからのほうが、母に優しくなった。父が母について語るとき、「この人はしっかりとしていた」 「偉かった」という言葉がたびたび聞かれる。



 「過去形」であることが寂しいけれど、父は、今、母との生活をふり返り、母のことを心から、尊敬に値するすてきな女性だと思っているのだろう。








137  母のこと    砂利に倒された 白いワンピース   (09年10月12日・月)

 母のことを父が語った。東京へ出てきたばかりの若き日の母は、雑誌社に勤めていた。父と結婚する以前の頃のことだ。

 ある夏の日のこと、その日は、蒸し暑く、母、父、父の友達の3人は、勤め帰りに落ち合って不忍池のあたりで、夕涼みをしていた。

 
 その時、いきなり警官が母に向かってきて、「女のくせに、男と出歩いて!!」と叫び、母の頬を思い切り殴った。母は、均衡を失って、その場の砂利の上に倒された。

 
 母は、その日、真っ白なワンピースを着ていた。倒れた母を見て、警官も驚いたのか、そのまま立ち去った。

 戦争中の、この非常時に、女が男と出歩くなんてとんでもないことだ、ということのようだ。今では、とても考えられないことだ。

 
 父の話によると、男が女といるところを見ると、片っ端から、その場で警察に検挙されたそうだ。母が倒れたので、警官は、殴っただけで、立ち去ったのだろうと父は言った。

 

 
 幸い、母にけががなかったからよかったものの、もし何かあっても、頭を打ちつけ命に影響したとしても、母が悪いということになるのだろう。父とのつきあいも始まっていなかったとしたら、今の私の存在にもかかわってくる。


 「白いワンピースを着たりして、目立ったからねえ、お母さんは・・・」と、父は私に言った。戦時中なのに、おしゃれな格好が警官の目にもついたので、殴られたのだろうということだ。


 人に乱暴をしても罪に問われることもなく、それが公権力によって行われる社会。若き日の母に対する警官の乱暴も、戦争というものがもたらした行為なのだろう。









136 母のこと       忘れてしまった 母の誕生日      (09年8月23日・日)

 7月のある日、入所している母を訪問した時、母のお部屋に、写真があり、「誕生日、おめでとう!」と書かれてあった。

 それを見て、私は、母の誕生日を忘れていたことに気づいた。毎年、母には、誕生日の贈り物をしていた。それは、服やバッグなどだった。心の中で、私は「ごめん、忘れた」と言った。

 

 数年前から、母は、毎日デイケア施設に通っていた。今年の1月、脱水症で入院した母は退院後に、ショートステイ等の施設サービスを利用することになり、その後、その施設に入所できることとなった。

        ☆                ☆                ☆
 
 入院していた時、母は点滴の毎日が続き、ベッドに横たわったままだった。起きていることもあったが、車いすにすわり、椅子から動かないように体が固定されていた。
 寝てばかりいるのが心配で、私が「筋力が落ちてしまうので、車いすに移していいですか」と聞くと、「もう、歩けませんよ」と病院で言われたので、私は、とてもがっかりしていた。

 
 その後、退院した母が利用した施設に私が訪れたとき、母が歩いていたので驚いた。ほとんど寝たきりの母が車いすも使わずに歩いていたのだ。

 以前、知り合いから、「○○さん(彼女の友人)は、お母さんを施設に入れちゃったのよねえ」という言葉をきいたことがあった。でも、家族介護は、とても大変なのだ。その人の生活ができないほど、大変になってしまう。

 
 身内の人が世話できることは、立派かもしれないけれど、そうでなくても、私はいいと思う。介護する人が心身の病気にもなってしまう現実がある。また、世間を見ていると、それ以上の事態に陥ってしまうこともある。

 母については、以前から家族は大変ではあったが、母が毎日デイケア施設に通うことで、何とか自宅での介護が続いていた。

  しかし、今年の1月、脱水症後の母の介護を家でするのは、誰の目にとっても大変なことが明らかであり、母は施設の入所サービスを利用することになった。

 
 かつて、施設で働く知り合いから「家で見られないから、施設にくるんだ」という言葉を耳にしていた私は、確かに、それは本当のことなのだが、寂しい思いでその言葉をきいた。その言葉の裏には、本来は家族が介護できることがよいという意味があるのか、ないのかわからない。


           ☆                 ☆                  ☆
 
 かつては環境が変わることに抵抗を示し、朝、施設に出かけたけれど、返されてしまい、ショートステイも利用できなかった母も、今、施設で、笑顔で暮らしている。それは、抵抗を示した時より母自身の症状が進んだことも意味している。また、施設の人的・物的環境が良いというあかしでもあるだろう。

 
 世間の人の、「うちは、頭は何ともないの」という言葉を聞くと、「いいなあ、うちは認知症なんだもの・・・」と思う。そして、その人は普通に言っているだけなのに、なぜか、少しだけ優越感のようなものを勝手に感じさせられたり、羨ましくなってしまったりすることがある。「いいなあ、いいなあ・・・」って。


「あなたも、お母さんが認知症でなかったら、いろいろ話せて、もっと幸せなのにねえ・・・」と、夫に言われたことがあった。確かにそうなのだろう。

 でも、認知症になっても、母は母に違いなくて、認知症でも、心から愛する母である。私が大変な母を介護する身になったら、そう思えるだろうか、とも思う。
 数年もの間、認知症の母と一緒に暮らしてきていて、今なお手をかけている兄夫婦、大変な母を仕事とは言え、毎日介護をして下さっている人には、感謝である。

 
 母の誕生日を忘れてしまった私は、父に「お父さん、私、お母さんの誕生日忘れちゃった・・・」と言った。父は、「施設に持ち込めないんだからいいんじゃない」と言った。

 母は、唯一の外出先であったデイケアにも出かける必要がなくなったので、バッグもいらなくなった。毎日の服を含め生活に必要な物は、同居していた義姉が用意している。

 認知症の母の部屋に、何か飾り物でも持っていくことも心配だ。仕方がないのかも知れない、と私も思った。

 施設を訪れると、笑顔で迎えてくれる母。笑顔とは不思議なのもので、笑顔で応じると、笑顔がまた返ってくる。





135             久しぶりのおべんとう              (09・8月6日・木)

 久しぶりに、自分のお弁当をつくった。
 大宮ソニックシティでの3日間の「自治体学校」に参加するので、昼食が必要になった。このような場合、お弁当を申し込むか、外で食べるかのどっちかが多い。

 でも、お弁当は、(申し込みが遅かったので)締め切ったと、メールで返事がきた。
 
 外に出るのも暑いし、お昼の時間もそうは長くなく、食べたいお店見つけるのも面倒・・・で、お弁当を作って持っていくことにした。

 取り出したのは、かつては娘も愛用したお弁当箱。オレンジがかった濃いピンクに、小鳥が数匹かわいく並んだ絵がついたもの。

 

 その前の娘のお弁当箱は、給食のある保育園だが、お弁当の必要があるときに買ったものだった。それは、娘にとっての初めてのお弁当箱で、白いプラスチック製の楕円形。青いキティちゃんの絵がついていた。娘がキティちゃんのお弁当箱がいいというので、一緒に店を歩き回って買い求めたものだった。

 なかなかなくて、瀬戸物やさんで見つけた。奥深くしまわれていたのか、ほこりをかぶっていたが、中身はかわいらしかった。娘はそのお弁当箱が嬉しくて、夫の友人たちにも見せていたことがあった。

 「あんなかわいい時期もあったっけ」と私はお弁当箱をとりだしながら、娘の最初のお弁当箱のことを思い出したりしていた。

 
 さて、私のお弁当は、朝は忙しいので、前の晩に作って冷蔵庫にしまっておくことにした。おにぎりにしようかと迷ったが、ごはんは酢をいれてちらし寿司ふうにした。酢を入れたものは、暑くてもいたまないと思ったから。

 酢のごはんの上に、炒り卵、豚肉を味付けしたもの、鮭を細かくしたものを載せた。おかず入れの部分には、サラダ菜の上にツナ、マヨネーズ少々、りんご、ミニトマト・・・と並べて、あと何にしようか・・・と思った。小さいので、空間は少しだ。

 ウインナソーセージを入れようと思い、何本かゆでることにした。(炒めるよりゆでたほうが保存剤等添加物がとり除けるので、たいてい沸騰した湯の中にいれる)ただ、さましてから入れたかった。朝、お弁当箱に追加すればいい。寝ることにしよう・・・。

 
 (早起きの)夫が食いしん坊なので、食べられないように、夫のところ(食卓の夫の席)に私より多く置き、あとは、自分のところ、それも、テーブルの端の水筒のかげに置いて安心して寝た。

 

 朝、起きて、驚いた。ウインナソーセージは、1本も残っていなかったのだ。お弁当に入れる私の分まで。

 「ねえ、全部たべちゃったの?私の分は、食べられるかと思ってわざわざ陰においていたのに。あなたの分、あったでしょ」
 あーあ。食いしん坊にもほどがある。

 「知らないよ。余りかと思ったんだから・・・」
 「ごめん、ごめん。作ってやるよ」
 
 夫はウインナソーセージを冷蔵庫から取り出して、ゆでると氷で冷やした。対応の早さに、私も許す(?)ことにした。

 
 食いしん坊という敵からの私の防衛策は、失敗しましたが、無事、お弁当を持って会場にいきました。おべんとうは、なかなかおいしかったです。

 
 ※今日は、8月6日、「ヒロシマ」で見たまっくろ焦げに焼かれたお弁当箱を思い出し、胸が痛みました・・・。




 
134 父から聞いた母のこと    電車が止まった話         (09・5月27日・水)
 
 母が若い頃のことだ。今から60数年以上も前のことだろうか。
 愛媛県から東京に出てきた母が、雑誌社に勤めていた20代の頃だと思う。母は定期券を持って、電車で会社に通っていた。
 そのころは、ずいぶん昔のことなので、当然、定期券は駅員がひとりひとりチェックしていた。母が駅に入り、定期券を駅員に見せたところ、そこで、問題が生じたらしい。「(定期券と)年齢が違う」ということのようだ。

 
 他人の定期券を使って電車に乗ろうとしたのではないかと疑われたそうだ。
押し問答でもしていたのだろうか。駅に入った電車は停車したままで、駅員にいろいろ尋ねられているうち、次の電車がきて、また次の電車がきて、電車が後ろにずらりと並んでしまったそうだ。はるかかなたの前の駅の方まで電車がつながってしまったという信じられないような話だ。
「お母さんは赤いワンピースかなんか着ていて、ずいぶん若く見えたんでしょうね」と、父が笑って話す。
 

 今でも時折、父が話す若き時代の中に出てくる話である。
「東京では、一駅、二駅歩くなんて、普通でしたね・・・」と言うようなことも、その頃のことを、かつて、母も語った。

 乗客とのやりとりで、電車が発車しない(待ってくれている、乗客が待たされている)というのも、今とは違って、のどかな時代だったんだなと思う。

 
 東京のことなら、今でも、私より父のほうが詳しい。細かいところまでよく知っている。あちこち出歩き、そして暮らした場所だ。

 認知症になった母からは、もう若き頃のことも聞くことができない。






133  短いエッセイ    ココナッツジュースがおいしい   (09 5月20日・記)
 
 ベトナム旅行中のある日の夕方、食堂で「フォー」を食べることにした。嬉しいことに、ココナッツジュースが添えられてきた。何が添えられてきたかは忘れたが、他にも数品の料理品が添えられてきて何だか豊かな気分になったものだ。韓国に旅したとき、韓国では、メニューを選ぶと、他に決まって必ず数品の副食がついてきた。それと似ているような感じがした。

 果実をくりぬき、そこにストローを差し込んで飲むココナッツジュースは、素朴で自然な甘さがあって、爽やかだ
。ベトナムでは、このココナッツジュースを何度も口にした。





132    ベトナムのバイク    ~ 横断は命がけ ~        (09・4月22日・記)

 2月にベトナムを旅した。ベトナムにバイクが多いことは知っていたが、これほどまでとは思わなかった。
 
 日本からは、帽子にマフラーの冬支度。降りたホーチミンの空港では夏支度に着替えをしたかったが、その余裕もなさそうだったので、そのまま、ホテルへ直行した。

 ホテルの窓からは、広い道路を縦列横隊のバイクの集団がすごい勢いで行き交っているのが見える。翌日からは、早速、案内の車で出かけたが、やっぱり、どこでもバイクの集団に出会う。一台のバイクに、何人も乗っている母子も珍しくなかった。


 その誰もが、マスクをしている。マスクは、日本で見る白のマスクとは違う。色や柄ものであったり、キャラクターの絵がついていたりと、おしゃれなのだ。ヘルメットも、ピンクや淡い青に柄があったりと、これもおしゃれ。老いも若きも子どもも、みんなマスクをしている。

 
 なぜ、みんなマスクをするのかというと、ほこりよけ(排気ガスも?)なのだそうだ。
 ベトナムでの最終日、朝、シャトルバスでサイゴンセンターまで行き、ホーチミン市のまちを自由に歩くことにした。

 夕方の公園では、ものすごいバイクが、列をなして止まっている。バイクの駐車場だ。その光景は圧巻だ。夕方人々が公園で憩う姿は、のどかでいいなあと思う。

 
 子どもの頃、夏にはお風呂上がりに浴衣をきて、近くを散歩したりしてのんびりと過ごした思い出がある。公園で憩うベトナムの人々の光景は、私に、子どもの頃ののどかさを思い出させた。

 そののどかさと対照的なのが、道路を隔てた向こうのホーチミンのまちの光景だ。フランス統治時代につくられた碁盤のような道路、歴史を感じさせる趣のある建物や、林立する高層ビル、そして、バイクの排気ガス。

 信号はきわめて少ない。信号まで歩くとなると、どこまで行くか、わからない。すごいスピードで、広い道路をバイクが走る。

 
 最後の日は、ホーチミン市内を朝から夜まで、よく歩いた。そろそろ時間が来ていた。サイゴンセンターまで行き、ホテルに戻りたかった。道路を横断したい。しかし、バイクはひっきりなしに目の前を走る。振り向くと、黒いカバンを下げた日本人のビジネスマンらしき男性が歩いてくる。どうも、道路を横断したい様子だ。

 「あの人はどうするんだろう?」
 私は、その男性の行動を見ることにした。あの男性も、困るに違いない。すると、その男性は顔色も変えず、悠々と、横隊をなしびゅんびゅん走るバイクの間を縫うように歩いてわたってしまったのだ。
 バイクが止まったわけではない。バイクのスピードは、男性が渡る時も変わらないように見えた。

「すごーい!」
 思わず、私は声をあげた。そして、困った。見習って渡りたいけど、恐い。見習えばいいんだ。このままでは、サイゴンセンターへ行けない。ホテルに戻れない。帰国できない。しばらく歩いてみたので、信号がないのは、実証ずみ。

 「よーし、渡ろう!」「でも、死ぬかも知れない」「こんなところで死んだら、どうしよう・・・」
 迷った末、「死んでも渡るしかない」
 私は覚悟を決めた。縦列横隊のバイクの間を渡ることにした。すると、何と、渡れたのだ!

 
 あとで、ベトナムの案内人に尋ねたら、渡る時には、普通に歩いて途中で歩くスピードを変えてはいけないということだ。普通に渡れば、バイクのほうが、うまく調節してくれるということだった。それにしても、バイクの調節がうまい。
 スピードを緩めているように見えないで、人を渡らせてしまうのだから。今思い出しても、恐ろしきバイクの思い出だ。


 私は、バイクに乗っていた人たちが身につけていたような、おしゃれなマスクを、記念に買って帰ろうかと思っていた。けれど、そんな素敵なマスクを見つけることができなかった。それが、ちょっと残念だった。
 
 


★こんにちは! 久しぶりのエッセイです。

131        青い車あれこれ・・・                (09・4月12日・記)

 私が青い車に乗って、今年の8月で2年になる。しばらく前まで、「車、変えたの?」と言われて、「ええ」とか「うーん」とか答えるが、もとの深い赤の車も健在だ。じゃあ、赤は誰が乗っているのかと言うと、夫が使用している。

 なぜかというと、話はややこしい。
 夫は、車を長く愛用することを半ば自慢のようにしていて、自分の車も10数年も乗っていた。家族の中で、車を買うなら、当然、一番古い車に乗っている人が順番だろう。その常識を我が家では破ってしまった。それというのも、わけがある。

 娘が大学卒業後、家に戻ってきた時から、車のことが問題になった。大学を卒業して、6月末に帰国した娘は、その時期から就職活動を開始した。朝早く家を出る場合もあれば昼間から出かけることもあり、送迎の必要ありで、こちら側の自由がきかない。

 そこで、娘に駅までの足としての車が必要になった。と言っても、娘に新車を買ってやる気持ちはない。家族の誰かが新しい車を買って、古い車に娘が乗る。この方法が一番いいと考えた。

 夫の車が一番古いので、普通ならば、夫が新車を購入するのが当然のことになる。しかし、娘は日本に帰ったときに、免許は取得していたが、夫のクラッチ式の車には乗れない。そうなると、私の車を娘にやって、私が新車を購入することになる。

 夫は、「あなた、車買えば・・・」と、最初から言っていた。
「えー、だって、あなたの車が一番古いじゃない」

 


 私は、何だか悪いような気がして気が進まなかった。夫は、知り合いが乗っている車で、あの車種がいいと言う。色もブルーのきれいな色で、燃費もよくていいと言う。そんなわけで、本当ならば、私自身もどんな車がいいか考えるのが普通だが、夫の意向で、車が決まった。

 私は夫に引っ張りだされるように、販売店に向かった。同じブルーでも、新機種は、少しだけ色が違っていた。

 しばらくは、夫はもともとの自分の車、娘が、私の赤い車、私が、新車である青い車に乗っていた。しかし、1年もたたないうちに状況は変化した。孤独な就職活動の後、昨年の4月、娘は晴れて就職した。しかし、娘は就職後、2,3ヶ月で、通勤が大変なので、都内に引っ越したいと言った。
 
 自分のお給料で自分で生活することも良いだろうと言うことで、娘が使っていた車は不要となった。乗る人間が2人になったのに、車3台は必要ない。廃車なら、当然、一番古い車が該当する。夫の車を廃車にした。

 「じゃあ、私が、(また)赤い車に乗るから。あなたが、(新しい方の)青い車に乗って」と私は言った。
「いいよ。僕が買うなら、もう少し大きい車を買う」

 私は、それを聞いて、「えっ、どういうこと?」と思った。
「私なら、小さくていいってことなの。私だって、自分の車を買うなら、もう少し大きめの車がよかったのよ。自分の車っていう意識があったら、自分でいろいろ選んで買うわよ」

 私が言ったことも本当だった。普通の状態で自分の車を買うとなれば、車に関心がない私でも、カタログを見ながら、どれにしようかと考えただろう。
 それで、その時は、ちょっと気まずい雰囲気となった。

「だって、あなたは市内中心なんだから、小回りがきいたほうがいいんじゃない」と夫は言った。遠出するときには、もう少し大きめの車というのが、夫の考えだったようだ。

 実家に初めて青い車に乗って行ったとき、父が言った。
「もっと大きい車がよかったんじゃない」と、父は青い車に不満そうだった。
 「えー車なんて、大きくったって、小さくったって、いいんじゃない」
 言われると正直言って複雑で、ちょっと気分がよくなかった。
 
 赤い車だって、大きな車ではない。ただ、青い車より車体が長いだけなのだ。でも、赤い車のほうが高かったけど。そんなところなのだ。

 
 その後、青い車に父を乗せて出かけたとき、父は、「なかなかいい車なんじゃない」と言った。もしかして、父は前に言ったことを悪かったと思ったのかも知れない。「うん、○○さんが選んだの。小さいけど、なかなかいいのよ。中の仕様もばっちりだし」と、私は言った。

 きれいな青。その青い車があまり多くないことを、私は心のどこかでちょっと思っていたかもしれない。
 青い車に夫と一緒に乗ったとき、私が夫に言った。「ねえ、この車、すごく多く走ってない?青がきれいだなと思ったけど、ほんとに多いのね」
 以前、ある場所で、車を止めたら、私とすっかり同じ車で、帰るとき、間違えそうになったこともあった。

「いいんじゃない?目立つ車だと、いつどこにいるか、すぐにわかっちゃうよ」と夫。そういえば、そうだ。赤い車に乗っているときには、「車があったから、三宅さん、来ているかなと思って」とか、よく言われたものだ。目立つ車はだめ、と思った。悪いことをしているわけではないけれど。

 

 今、私は青い車が気に入っていて、大きな車に乗っている人を見ると、なんで、あんなに大きな車に乗っているんだろうと、勝手に思ったりしている。夫が古い車で悪いなと思いながら・・・。
 





130
               「戸主」のいたお正月               (09年2月10日・火)

 我が家では、1月1日の元旦は、ゆっくり目の朝を迎える。おせち料理を並べ、お雑煮の準備ができて、おみきもあたたまった頃、食卓を囲む。

 今年、何が変わったかといえば、特別には何もない。あえていえば、娘が初めての社会人になってからの新年ということである。

 家族の一人一人が「今年の抱負」を述べることが、我が家に慣習になっている。
 司会は・・・。夫が口火を切った。

 「えー、では、私が司会をします。戸主ですからね。戸主が進めます」
 「何、それ・・・?」と、笑いながら私。

 3人がそれぞれ、新年の抱負を述べた。自分のことは記憶しているが、さて、日にちがたつと、自分のこと以外には覚えていない

 今覚えているのは、昨年の夫の抱負だけ。
 それは、「妻とけんかをしない」だった。私たち、けんからしいけんかは、ほとんどしないのですけどねえ・・・。笑ってしまいます。ひとりではけんかはできないので、「けんかをしない」ということは、相手に逆らわないという意味にもなってしまいそうで、迷惑?な話なのだ。

 
 新年は、形ばかりのお神酒で祝う。飲めない私も一応注いでもらって。
 そのうち今年もまた、お箸の話が出た。夫の幼い頃、お正月の間の箸は、家族が個人個人の名前を書いて、それを自分で洗って使ったとか。私は半信半疑でその話を今回もきいていたけれど、本当なのだろうか。
 夫の話では、普段働いている母親は、お正月には一切働かないようにということで、そうするのだそうだ。

 何とか、家族全員が健康で新しい年を迎えることができた。食べ終わった頃、夫が、「はい、戸主、終わり」と言った。

 
 
 明治民法のもとでは、戸主が存在した。今年は、我が家で、突然、戸主が復活したお正月だった。我が家の「戸主」は、ただ司会の役目だったのだけれど。何だか今年の始まりも、奇妙な始まりだった。果たして、どんな年になるのかしら・・・。






129         目の前にいても会えない          (08年12月14日・日・記)   

 
 昨年の11月、甥の結婚式で、夫の実家のある兵庫県に帰った。最寄りの駅まで着いて、約束の場所に立って、迎えの車を待った。それらしき人も見えない。まだ、着いていないのかな?待つことにした。

「ねえ、あの人、違うわよね?」と私は夫に言った。

 私たちが、駅に降りる前から、到着している男性は、車から降りて誰かを待っている様子だ。大きめの目立つ眼鏡をかけていた。

「うん、違う」夫の言葉は確信に満ちていた。

 その男性は、私たちと目が合っても、何の変化も見せない。少し待ってから携帯電話で、夫が連絡をとった。約束の場所にはいないので、移動しながら声の指示通りに歩いて見る。

「今、時計のところにいるんやけど・・・」と夫は早くも関西弁に。

 最初着いたところは、駅の出口の東側で、そこが約束の場所だった。しかし、私たちを迎えにくるはずの、夫の兄らしき人はいない。そこでは、さっきから、人待ち顔で到着している眼鏡をかけた男性が、まだ、立っていた。

「あの人、誰、待っているのかしらねえ・・・」
結婚式当日に着用の服などを入れたスーツケースをがらがら転がしながら携帯の指示通りに動いても、見あたらず、また、約束の最初の場所に戻った。

 
 駅の東側で待っている人は、さっきのあの人しかしない。
 「あ、あれが兄貴だよ」「え?!」
 
 さっきからの人待ち顔の人が、夫のおにいさんとわかるまで、どのくらい時がたっていただろうか。数メートル先の目の前にいて、携帯電話をかけていたことになる。

 すでに夫の父母は亡く、実家への帰省も数年たち、久しぶりの兄弟の再会。「わからなかったよ」と夫。私もわからなかった。


 「おにいさん、眼鏡かけていたかしら?」髪のスタイルも変わり、何だか全体的に印象が違ってしまったので、申し訳ないけれど全く気づかなかった。

 夫は、髪が薄い頭にちょっと今風の帽子をかぶっていたので、実物よりかっこよく見えた(?)のかもしれない。兄弟の二人が互いにわからないのだから、私など、もっとわからないのだろう。

 
 この話は、しばらくの間、笑い話として語られた。とにかく無事に着いてよかった。






128            いじめる?                 (08・10月12日・日・記)     

 議員になったばかりの頃、私は、議員として若いほうだった。下から数えたほうが早いくらいだった。
 議員は、古くても新しくても同等であり、そうでなければ市民の役には立てないと認識していたので、よく発言していた。その頃の議場は、私の発言に、なぜか、ざわつくこともあった。
 
 男性社会の中で、女性であるせいか、新人で若い(?)くせに生意気だと思われたのか、どちらなのか、両方なのかはわからない。(質問等の内容が気に入らなかったことは確かなようだ)

 
 ただ、「執行部をいじめる」議員がいると言われたのには、驚いた。
 ある時、「執行部をいじめる議員がいるからなあ・・・」とベテラン議員が言った。
 冗談めいて、「三宅さん、執行部をいじめないでよ」という雰囲気とは違っていた。
 

 多分、私のことだとは思ったけれど、名指しでもなかったので、私は反応しなかった。議員にいじめられていると表現される執行部も気の毒に思えた。

 私にとっては、その時、「いじめる」という言葉の表現が新鮮だった。議員と執行部の関係は、「いじめる、いじめられる」関係とは思っていなかったから、正直、驚いた。
 
 
 議員は、議会で、執行部に向かって、あってはならない市政運営に対し、見解を求めるのも当然のことだろう。制度の運用等で市民の不利益になることや不公平な対応について、是正を求めたり、なぜ、そのようなことが起こったのか明らかにすることもあるだろう。

 それは、仮に一人からの情報であった場合でも、当事者である市民ひとりだけの問題ではない。同じような扱いを受けている市民、また、今後受ける市民がいないとも限らない。
 
 
 そのとき、私は、「ふうーん。議会で発言することを、いじめと思うんだ・・・信じられなーい」というくらいにしか思わなかった。執行部の味方なんだなと思った。
 ふだんの生活においては敵対する必要は全くないけれど、議員なら、おかしいと思ったら、きちんと主張したらよいのに、生意気にも、「じゃあ、議員の意味ないじゃない・・・」と思ったものだ。


 ずいぶん昔のことで、そんなことがあったのも忘れていた。ところが、最近、思い出した。
 それは、「執行部を謝らせようとした」とか、「個人攻撃だ」と、議会で議員に言われたからだ。

 私には、この発想が信じられなかった。市民への対応等において、市民の尊厳や名誉を著しく傷つけるようなことがあれば、それは、市として当然、謝罪をすべきだろう。

 市民への対応等で、謝罪に至るか至らないかは、結果の問題である。謝罪したほうがよい場合もあるかも知れないが、多くの場合、それは、目的ではない。謝らせようとして質問したと認識されたのかと思い、あまりにも意外で信じられなかった。
 (実際には、謝罪を求めるという内容の質問は行っていない)
 
 
 個人攻撃であるはずもなく、議員と市長は対等な関係である。そのときには、市長の代わりに、担当部長が答弁しただけ。(担当部長の答弁=市長答弁)謝らせるとか、謝らせないとかの次元で、質問をしているわけもない。

 
 今回の「謝らせる」も、執行部を「いじめる」ということと、似たような発想なのかと思い、何だか、昔を思い出してしまった。

 
 いじめるとか謝らせるとか、そんな発想は抜きにして、市民の立場で、よりよいまちにするように、市長と対等な立場に立ち議員活動をしていこうではありませんか・・・って思うのですが。







127       先生と呼ばないでくださいね        (08・10月7日・火・記)

 ある日のこと。たいていは共同購入ですむことが多いのだが、食料品が足りなくて、スーパーに出かけた。何しろ一緒に暮らしている人がすごい食いしん坊なので。
 その日は、気分がゆったりとしていて、その気分に合わせた足取りで、かごを押しながら店内を歩いていた。

 すると、一人の男性に声をかけられた。

「こんにちは。木村(仮名)です。先生、いつもテレビで見ています」
と、笑顔を向けられた。「先生」と、その方は私に声をかけた。

「あっ、こんにちは!」
弾んだ声で、私も挨拶を返した。ケーブルテレビの議会中継だということは、すぐにわかった。議会に関心を持って見てくださる方もおられるんだと、嬉しくもあった。


「あのう・・・。もうお子さん、ずいぶん成長されて・・・」と、私は言った。そのスーパーは、かつて私が勤務したことのある小学校の学区の端の方にあった。木村くんも、もうすっかりおとなの年齢のはずだ。木村くんの家、ここから遠くなかったなあ・・・。木村君の面影が浮かんだ。

 だが、相手の男性は、笑みを浮かべたままだ。
「あのう・・・。先生の教え子の親とは違うようですよ」
 男性は言った。笑顔の向こうに、明らかにとまどいが見られた。

 もっと、とまどったのは私のほうだ。

 「えっ、あっ、すみませーん」(じゃあ、だれなのだろう?)
 
 「先生」と言われて、私はすっかり木村君のお父さんだと思ったのだ。そういえば、父親というものは、ふだん授業参観日にも姿を現さない。学校に見えても、日曜参観くらいだ。ただ、私の記憶では、木村という姓は、その学校で教えた中で一人だった。

 
 人違いをするなんて、こんな失礼なことはない。顔は笑っていたけれど、私は、内心どうしよう・・・と思った。

「どこかでお会いしてますよねえ・・・」と言いながら、思い出せない。
「あっ、わかった!」と私は思った。私の知っている木村さんと言えば・・・。Aさんの近くの木村さんしかいない。目の前の男性はその方のだんなさんなのだろう。
 今度は絶対当たると、私は確信して言った。


「もと教員をしていたA さんをごご存じですか?」
まるで、クイズに挑戦しているようだった。

「いえ・・・」
「あ、そうですか」(おかしいな)

「A さんの家の近くの木村さんのだんなさんではありませんか?」
「木村さんのだんなさんですけど・・・」
 木村さんという女性のだんなさんであるにはあるが、やっぱり違うのだ。

 
 もう絶望的だった。わからない。でも、どこかで私自身が会っている人だ。笑顔のままのその方を、私はじいーっと見つめる。うーん・・・。あれ、どうしよう・・・。私は、「すみませーん。ごめんなさい」を何度も言う。

   
 思い出して欲しかったに違いない。いいえ、覚えていて当然だったのかもしれない。誰だって、当然覚えていると思う人が覚えていなかったら、がっかりするに決まっている。
 
 
 とうとう、その方は言った。
「○○○○○○○の○○です」
あ、そうだ・・・!当選後に新議員が初めて集合した時にお会いしていた。個人的にお話をしたことはなかったが、お会いしていた。

「すみません。ごめんなさい。失礼しました」と、私は何度言っても言い足りなかった。


「背広姿しか見ていなくて、わからなくて、すみませーん・・・!」
そう言って、また、失礼なことを重ねてしまったかしらと、私は小さく後悔した。それに、思い出せなくて、「ごめんなさい」を言いながら、私は、その方の前で終始笑ってばかりいたのだ。

 
 夏でもあり、その方は、半袖のポロシャツ姿だった。買い物だもの、当たり前の格好だ。でも、男性は、服装と一緒に頭に入っていて、支度が違うと、わからないこともある。私だけかもしれませんが。


 「先生」と言われると、私はてっきり、昔の自分の職業の関係だと思ってしまうのだ。そのときの状況にもよるが、まさか、「議員」をさして言われているとは思わないので、ついつい最初の入り口から誤解もしてしまう。

 
 それにしても、「木村さんのだんなさんですけど・・・」という言葉がおかしくて、失礼を重ねたことを棚にあげ、思い出して笑ってしまう。ほんとに、ごめんなさい。


※文中の「木村さん」は仮名です。





126              草よ、生えないで            ( 08・9月19日・金・記)
 
 あっという間に草が生える。議会のことで頭がいっぱいの日が続き、ほっと一息すると、プランターの花は枯れ、ペチュニアやポーチュラカの花々の間から、かやつり草が茂っていることも珍しくない。

 このかやつり草を見ると、小学校の頃、夏休みの宿題に植物採集をしたことを思い出す。何だか懐かしい。最近は雨がよく降るので、忘れたとしても、まあ水のほうは、何とかなっている。夜、水をやると翌朝、雨が降る。それで、損をしたような気にもなる。

 草を引かなければ・・・と思ったり、もう秋で草も・・・という思いにもかられる。

 その昔、娘が保育園の頃、玄関前の庭の草をひいてくれた。
 そして、小学校に入学した時、私の母に、娘が言った。

「おばあちゃんねえ。あたし、学校に入ったら、お勉強が忙しくなっちゃって、草取りができないの」

 今思い出しても、何ともかわいい言葉だ。・・・というよりも、いかに親が庭の草を放置しておいたかがわかる言葉なのだろう。草取りができないほど、「お勉強」が忙しかったかどうかは、さておき、せっせと草取りをしてくれたようにも思う。

 それでも子どもの手によるものだったので、狭い我が家であっても、草は生えていた。

 成長した娘は言った。「私、家に草が生えていていやだったの。お母さんたちかまわないんだもの」ということだった。全くかまわないわけではなく私も、時には草も取ったとは思うけれど、それに追いつかず、草はたくましくも生えていた。

 
 夫は「緑があっていいよ」で、それほどは気にもしなかった。私は、「秋になれば、草は枯れる」だった。「秋になれば、枯れる」という言葉は娘の頭に残っていて、その言葉がいやだったそうだ。

 
 娘がどんな思いで草をとっていたのか、私は気づかなかった。「えー、そんなこと、気になっていたの?」という思いと、人間の心はわからないものだ・・・と思った。子どもの心、親知らず・・・というところでしょうか?


 
 広い所に住みたいと思った時期もあったけれど、草とりをすることを思うと、今は、狭い我が家、愛する我が家になってしまった。
 
 先日、オランダチューリップの球根を共同購入で、たくさん買い込んだ。春には、チューリップの花を大量に?咲かせたい。草に負けないで咲いてくれるだろうか。いいえ、花のために草とりをしましょう。 






 パソコンに入っていたものから、少しずつ取り出したもの中心に連載してきました。選挙については、笑ってしまうこと、辛かったことなど、パソコンの中にはまだまだたくさんありますが、ひとまず、打ち切ります。また、機会があったら・・・。





125 最初の選挙      
 得票の多い順?           08・9月19・転記

 めでたく当選し、議員になった人たちに「当選証」というものが与えられるということで、新議員が集まった。選挙直後なので、結構みんな疲れた顔をしていた。(自分が疲れていたから、そう見えたのかも知れない)

 名前を呼ばれて、正面に進んで行って受け取る。一つの儀式のようなものなのだろう。このようなものが必要なのかどうかはさておき、初めての当選の時、名前を呼ぶ順番が選挙時の得票数の多い順には驚いた。議員は得票数の多少に関係なく、トップだろうと最下位であろうと、当選すれば、皆同じと思っていた。

 
 当たり前だけど、得票数が少ないから、一般質問の時間が短かったり、視察に行けなかったりすることはない。また、その逆もない。

 たかが、当選証の順番だといわれるかも知れない。しかし、順番というものは、ある意味で「差」をつけることだ。「差」をつけるなら、それなりの正当性が求められよう。新聞や市の広報等で得票数を順番に示すのは、これは、事実の報道であってなんら問題はない。選挙において誰が、どのくらい市民の支持を集めたかを順番にして分かりやすく示すことは報道の役割として適切なことだろう。

 しかし、当選後の議員への対応については、同等にすべきではないかと思う。例えば、高校や大学に合格後、入試の得点で名前を呼ばれたりすることかあるだろうか。また、市の職員が採用試験後に得点順で辞令を受け取ることがあるだろうか。そのようなことはないだろう。議員の当選証の場合、選挙時の受け付け順でもよいだろうし、名前の順でも問題はないだろう。

 
 2期目に当選した直後、当選証をわたされる前に、文書かどうかは忘れてしまったが(多分口頭)、「得票順は、やめて欲しいこと」を議会事務局に申し入れた。以来、当選証の受け取りは、得票順でなく行われている。





★次のエッセーでは、文字の大小のばらつきがありますが、変えられません。大きな文字のところは強調というわけではなく、他意はありません。

 
125              「お返し」は仕事で              08 8月24日・日 転記

 学校給食での活動仲間や、その友人、知人たちが、最初の選挙を支えてくれた。

 それから後、文化活動をする市民の方も加わった。それらのつながりは、そのまま現在に至っている。選挙のお手伝いにくれば、日当が出るという形の選挙が多いなかで、私は、公的支出のある運転手の報酬を除いては、ボランティアということにこだわった。

しかし、パートを休んでも、選挙活動に参加してくれる人に対し、その賃金程度は払わなければ申し訳ないような気もした。それでどうしようかという迷いも当然あった。

 
地元中心の選挙の中で、人手不足はけっこう深刻だ。「運動」が始まると協力者も集まってきて最終的には体制が組めることになるのだけれど、少なくとも、「予定表」の段階で頭を悩ます。自治会で、役割が割り当てられてしまう地域もある(多い?)と聞く。他候補の運動をしていることが知られたら、地元では、白い目で見られる場合もあるということも話題にのぼった。
 
 そんな状況の中、支持者の間から「手伝ってと誘うのにもお金が出なくては、呼びかけもできないから」、「他の陣営に行くと、1日いくらでお金が出るからね」という意見も出された。
 人手を確保するためには、お金を出した方法も考えたほうが良いのでは、という意見だった。

私は複雑な思いだった。お金を出さないのは申し訳ないけど、お金で運動していただくと、それは、単なる労働の対価として、「応援」が帳消しになるような味気ない気持ちもあった。また、別の思いもあった。仕事をしている人としていない人を分けた考えもおかしいかも知れないけど、仕事を持っている人が選挙活動に参加することで収入がなくなってしまったら・・・ということがあった。
 ただ、最初の選挙では、動き出してしまっていた中での話だったので、それを十分論議する時間的余裕もないまま
になった。


 2度目の立候補の準備会では、今度は私の方から、報酬(お金)のことを持ち出してみた。すると、「お金なしでやろうよ」と強く言い切った人もいて、話し合った結果、選挙運動の報酬については、出さないという結論に達した。
「私たち自身が、市民の代表として出てもらいたい人に出てもらうんだから、ここでは、日当は出さない.。日当が出ないということを、了解して参加できる人にしてもらう」という強い主張が通った。


 2月頃であっても、すでに印刷済みの議会報告のちらしは、新聞販売店で入れてもらえなかった。これは予想外だった。「選挙前、特定の候補者の宣伝になるから」という理由だった。
ふだんの市議会報告なので、納得するものではなかったが、入れてくれないなら仕方ない。

私は、新聞折り込みするのと同じなので、1部配布につき、販売店と同額の実費を払うことにして、手配りの配布ができないものかと支持者に話してみた。私ももちろん配りはしたけれど、3月議会もあり、それ以上、遙かに多くの労力をかけて支持者の方が、分担して足で歩いて配ってくれた。2万枚近かったと思う「議会報告」のちらしを、ほぼ全部配りきった。


 当然実費なのだから受け取ってもらえると思っていたのに、いざ、枚数をきいて、金額を渡そうとしたとき、受け取ってはいただけなかった。受け取っていただいた方は、「カンパするわ」と、その場で戻されてしまった。結局、「配布」までみなさんに奉仕させてしまった。

選挙準備から運動期間中まで、すっかりお世話になってしまい、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。感謝の心をこめて、「お返し」は仕事でしていこうと改めて思った。心からの応援を心からの仕事で返さなければ、と思った。

 ※「手当」、「報酬」、「お金」は、同一の意味です




      
124 最初の選挙         
ケ-キとジュ-スの祝杯         08・8月17日・転記

 特別な知名度もなく、地盤もなく、ほとんど何もなく選挙に立ったのに、なぜか落選するとは思わない。でも、自信過剰とか、傲慢などとは違う。もしかしたら、「00をよろしくね」といった時の「わかりました」をそのまま素直に受け取っているのかもしれない。

 
 なにかわからないけど、「きっと、大丈夫よ」になってしまう。世間の人の話によると、負けると思って選挙戦をたたかう人はいないのだという。そういう意味からすれば、私も支持者も、ごく普通のひとの感覚ということだ。でも、結果が出るまでは、不安はいっぱいであったことは確かだ。

 
 一回目の選挙では、支持者と開票の会場まで、開票結果を見に行った。候補者の顔に出会わなかった。入り口にはりだされる掲示板の前は、各陣営の支援者たちでごったがえしていた。携帯電話で状況を知らせる人の姿も、あちこちで目立つ。そして、まとまった票が示されるたび、声があがる。自分が立候補するまで行ったことのなかった場所だ。(途中で事務所に帰った)

 結果は28人中  位(覚えていない。後で調べます。真ん中より下位)で当選できた。支持者たちは、もっといけるのではないかと思っていたようだが、知名度も組織も何もない私が当選できたことの方が不思議かもしれない。

 
 「議員は地元から」と言う意識が強いまちでは、なかなか票がとれない。選挙戦は初めてと言う人ばかりで、よくがんばれたと思ったほうがよいのだろう。「新人は強い」というのもあたっているように思った。未知であるから、何かやってくれるのではないかという期待感なのだろう。私への票も、まだまだ女性議員が少ない中、女性であることも多いに影響していると思った。

        ☆               ☆               ☆
 
 選挙事務所は、投票所から300メ-トル以内にかかってしまう場所にあったため、投票日には閉鎖しなければならなかった。2階の窓の「選挙事務所」の文字も娘が友達と二人で描いただるまの絵もすべてはずして、集まった支持者と「開票結果」を待った。(開票の会場まで行ったが、人ばかり多くて、結果が出る前に戻ってきてしまった)当選がわかったとき、事務所ではない階下の暗い部屋で、わずかに灯した光のなか、ささやかにジュ-スで祝杯をあげた。当選するかどうかわからないのに、支持者がお祝いのケーキを用意してくれていた。「おめでとう」の文字の入ったケ-キを集まった人たちで食べた。






123 最初の選挙         準備に悲鳴               (08・8月17日・日・記)

 立候補を決めてから、とにかく会議を開いた。まず、後援会入会申込書のちらしを作った。支援者の中には他候補の色刷りでしっかりとした紙質のリーフレットを見本として持ってきて、きちんとしたものを作ったらよいのではという意見を述べた人もあった。

 
 しかし、私自身はなぜか、そんな立派なものをつくる気持ちがなかった。普通の用紙に、自分の基本的方針などを書いて、後援会の入会者を募った。もちろん、義理で名前を書いてくださる人もいたことだろう。

 
 最初の選挙では、入会者として記載してもらった名前だけが頼りだった。入会申込書で名簿をつくり、それをもとにして選挙運動期間中の電話かけが可能になる。行田市内を小学校区ごとに分け、責任者を決めて入会申込書を集めることにした。

 
 後から考えると初めての選挙というものは、初めてであるがゆえに、情熱的と言ってもいい。そして、本当は私を応援しないのだけれど、「初めて立つ三宅さんを当選させなくては」という人も現れた。その人たちは「(応援は)今回限りね・・・」ということだった。詳しいことはわからない。(だが、次の選挙の時からは姿を現さなかったので、本当だったのだろう)


 
 選挙準備は、本当に面倒で、書類を準備するにも骨が折れた。一つのことにかかわって、何枚もの書類を作らなければならない。もう少し簡略化することは無理なことなのだろうか。

 
 車も借りるのが面倒なので、自分の車で、選挙運動をした。選挙カーについては公費支出されるのだが、それだけ税金もつかわないことになり、いいかなとも思った。(これは後からつけた理由ですが)

 
 また、ほとんど何も買わなかった。車の看板はポスターカラーで書いた。たすきは支持者の方が縫ってくださったものに、自分でマジックで書いた。他候補に比べればみすぼらしかったが、名前がわかればいいと思った。






122                小さな応援者              08 7月30日(水)記
 
 家族が全く選挙にかかわらないと思っていたら、思い出した。
それは娘のことだ。娘は、最初の選挙のときは小学校の5年生になったばかりで、友達と一緒に大きなだるまを絵の具で模造紙に書いてくれた。
 
 
 だるまの広告がよく送られてきていた。こんなにだるまが高かったのかと思った。買う気持ちはなかった。私が娘に頼んだのか、娘のほうから「書いてあげる」と言ったのかは、忘れた。友達と一緒に書いたそのだるまは、勢いの良い筆遣いで書かれ、かわいかった。
 当選したとき、私は事務所の窓に貼っていた模造紙の大きなだるまに目を入れた。

 
 2度目に当選したとき、娘は中学生になっていた。
「お母さん、私も選挙では、ずいぶんがんばったのよ」
得意そうな娘に、私は娘が何をがんばったのか、わからなかった。

「私ね、友達に、私のお母さんを入れてねって、頼んだんだから。そうしたら、○○ちゃん(娘の愛称)のお母さんに入れるように家の人に話とくよって言ってくれたの。けっこう票、かせいだ」

 今でもこの話を思い出すと笑ってしまう。子どもが言って、親が投票してくれるほど、選挙は甘くはない。でも、子どもに言われて票を入れてくれた人もいるかも知れない。

 
 3度目の選挙のとき、娘は、オーストラリアの高校を卒業して海外の大学の合格通知を待っているときだった。落ち着かない日々のなか、娘は庭で、色あせた選挙カー用の看板(白を基調とし、うす桃色・水色・紺色などの淡くやさしい感じの看板で、2期目に出るときに、業者に作ってもらった)をきれいに塗り替えてくれた。
 
 選挙運動に入ったとき、「娘さんが、庭で看板を塗っていましたよね」と、まちで知らない市民の方に言われた。家のそばを通ったときに見たのだという。
 
 
 選挙運動の期間中は、娘はイギリス旅行に行っていなかったのだけど(娘は、スーパーでのレジうちで得た初めてのバイト代で、一人旅に出た)、考えてみると、陰で応援してくれていたのかも知れない。

 
 今思う。成長の過程でいろいろあるなかで、けなげな娘を、私は大きな愛でやさしく包んでやれただろうか。「お母さんとお父さんはいつも忙しかった・・・」と娘は言う。

 落第の母親なのに、娘よ、いろいろありがとう。





⑤ 選挙に出るまでのこと    選挙と家族             転記 08・7月16日

 私が選挙に出るとき、夫は両手をあげて賛成したわけではなかった。しかし、最終的には、「あなたの考えでいいよ」と夫は言った。

 選挙というと家族ぐるみの場合が多い。我が家では、血縁関係者は、一人も関わらなかった。なかには、家族が事務所に来てお礼の挨拶をしたり選挙を手伝ったりするのが常識であり礼儀であるという考え方の人もいるだろう。

 でも、私は、家族とは全く関係ない形で選挙を闘う候補者がいてもいいと思う。もともと、家族であっても、一人一人の人間は、別人格である。場合によっては、主義主張が異なっていたとしても不思議はない。また、それぞれ、仕事上の立場もある。

 夫が私の選挙に関わることはなかった。また、私の父母やきょうだいがかかわることもなかった。

 支持してくれる市民が寄り集まった形の選挙では、むしろ親類縁者が集まらない選挙のほうが、私は好きだ。それに、父母がこの地にやってきて私が生まれたので、血縁関係もきわめて少ない私である。

実務の分担がかろうじて可能になっている我が選挙事務所では、訪れる人は時間の合間を縫って何らかの役割を担うために事務所に来る人たちばかりである。仕事をしている人、子育て中の人、それぞれの人たちが都合をつけて、応援してくださった。

 立候補前夜は、最後には二人三脚で歩いてきた強力な支持者と私が残り、準備は深夜にも及んだ。心の中では、苦しい苦しいと言っていた。







④選挙に出るまでのこと    初めてのポスター            転記 08年 7月11日

 市内のあちこちにポスタ-がはられていた。立候補するのなら、ポスタ-の写真をとらなければと思った。大きさなど、何も分からなかったから、市役所にたずねに行った。

 納得して帰って来た翌日だったか、とにかく日にちがたたないうちに、(まだ勿論、写真撮影と言う行動をとる前だった)呼び鈴がなるので出てみると、誠実そうな市役所の職員の方が立っていた。
 ポスタ-について私がたずねた職員の方だった。話の内容は、「まだポスタ-は、はれません」ということだった。

 
 確かに、まちで政治家のポスタ-は見かけたが、市議会議員候補がポスタ-をはる時期ではなかったのだ。なにも知らなかったので無理はないものの、あとで思い出して笑ってしまった。勝手にポスタ-をはられたら大変と職員の方は心配になってやってきたのかもしれない。それにしても、名前を名乗らなかったのに、なぜ、私だと分かったのか、とても不思議だった。有名人でもなく、また、市役所に行く用事といえば、戸籍抄本などで行くぐらいだ。名前がわかったばかりでなく、家にまで来られるなんて、とてもびっくりした。

 早くから、ポスタ-のことで市役所を訪れていながら、その後、ポスタ-のことはずっとそのままになった。いざ、写真撮影となると、服を何色にしようかということも考える。紺など地味な色は華やかさに欠け、どちらかと言えば、沈んで見えるから、ふさわしくない。と言って、黄色は好きだが、落ち着きに欠けるような気がする。赤はちょっとポスタ-には強すぎるかも知れない・・・。

 ポスタ-の印象は大事だ。場合によっては、私のことを全く知らない人がポスタ-の印象で投票するかもしれない。そこまでいかなくても、少なくとも、ポスタ-の印象が悪いから、見ただけでだめと思われないようにしなければ・・・。

 結局、好きな色で落ち着きもある程度備えている、きれいなピンク色の服をさがすことにした。値段もある程度頭におきながら、ピンク色の服をさがした。ところが、近隣のお店で、なかなか見つからない。やっとピンクに巡り合うと、今度は材質やデザインが全く気にいらない。春の選挙に冬を思わせる厚地はだめ、かろやかでなくてはと思いながらの洋服さがしも、ひと仕事だった。思い切って時間をつぶすのも覚悟で、電車に乗ってでかけた。

 何とか、色を最優先で、ピンク色と黄色のス-ツ2着を買った。写真を撮る時には完成までの日数を考えると、事前のポスター提出まで、もうぎりぎりのところだった。

 それに、あれほど、ポスタ-の印象を考えていたのに、いつもの私が、実際には、お化粧もろくろくしないで服だけ着たと言う感じで写真屋さんに出かけて行った。
 私の心の中では、ポスタ-撮影はすでに面倒なことになっていた。
ピンクの服で撮影できればそれでいいという感じだった。勿論、髪も美容院で整えてもらわなかった。

 
 そんな私を写真館の方は少しでも魅力的に(?)実物以上に撮影しようと一生懸命だった。あとで、議員に立候補した他市の知り合いの女性から、お化粧もプロが行い、スタイリストの助言のもと、服も数着持参し、髪形を変えたもの含め、撮影をしたということを聞いた。心構えが足りなかったと反省した。

 自分の写真はいつもいやで、できあがりを見て、「ああ」というため息。最初のポスター写真の撮影は、こんな感じで終わった。






③選挙に出るまでのこと   「ミコ」がやってきた             転記  08年5月26日

 芝犬(めす・雑種)のミコが、我が家にやって来たのは、4月に行われる選挙前の二月だ。ミコも、私の選挙を支えてくれた。ミコは生まれて2か月ほどで、我が家にやってきた。

 当時4年生も終わる頃の娘は、以前から、犬が飼いたいと言っていた。しかし、我が家では、人間の面倒さえ見るのが大変なのだから、犬まで見られないということを娘には、繰りかえし言ってきた。娘は、「あたしが、全部世話するから」と、かなりしつこかった。

親のほうは、「どこの家でも子どもは最初、みんなそう言うけど、結局は、毎日、親が散歩している状況だから、全くもって、あてにできない」と、とりあわなかった。「そんなことはない」と娘はがんばったが、とうとう犬は無理かとあきらめたのか、ある日、「ひよこでいいから、飼いたい」と言ってきた。「ひよこねえ」といっていたが、ひよこもすぐ死んでしまうし、成長したとしても、雄は大声で鳴いて、近所迷惑になるし、雌は卵をうむけれど……。とにかく、生き物は、我が家のような家では、煩わしい。そんなことで、良い返事はしなかった。

 しかし、私の「立候補予定」で、事情は一変した。選挙にでるとなると、私も夜はいつ帰宅できるか、わからない。夫の帰りも遅い。娘一人きりの夜と言うことも考えられる。そうなると、だれかは必要だ。だが、その「だれか」はいない。夫と私は、「動物でもいれば、娘も留守番がさびしくはないだろう」という気持ちに少しはなっていった。でも、二人の間で結論はでていなかった。

 そんなとき、娘が、また、いつものように「ヒヨコ、飼っていい? 」と夫にきいたらしい。(私にきいても、だめだと思っていたのだろう)その時、夫は、うっかりして「ひよこか、犬、どっちか」と「犬」をいれて答えてしまったのだ。娘にとっては、初めてのよい返事。それも、もともと飼いたかったのは「犬」で、それが選択肢に入ったということで、「やったー、やったー」と飛んで跳ねての大騒ぎの喜びようだった。夫の失言(?)で、我が家では「とても飼えない」はずだった犬を飼うことになった。

 ちょうどその頃、夫の仕事の関係のU君の家で、犬の子どもが生まれた。「(容姿が)かわいい犬が飼いたい」と娘は言っていたので、私が「見に行って、かわいくなかったら、やめる?」ときくと、娘は「かわいくなくても、もらう」ときっぱりと答えた。

 春休みになり、夫といっしょに子犬のひきとりにいった娘のうれしそうなこと。2か月の犬は小さくて小さくて、母親と離れたのが、かわいそうなくらいだった。瞳が大きくて、バンビのようにかわいい。知人に「(娘に)似てるよ」と言われると、娘は得意そうだった。犬の名前は、いい名前が思い浮かばず、「美しい子で『美子』(ミコ)でいいんじゃないの」ということで、夫の案が採用された。

 子犬は、元気そのもので、「明るく元気だが、やや落ち着きにかける」この言葉がぴったりの小学生時代の娘とよく似ていた。(娘もミコも現在は、それなりに落ち着きがでてきた。犬と娘の名誉のために言っておく)動物は飼い主に似るとはよく言ったものだ。散歩に行っても、よその犬より激しく動き回るので、「同じ子犬でも、うちの犬は落ち着きがない」と娘は、あきれていたようだった。

「散歩をします。えさをやります」と言う誓約書のとおり、娘は実行した。1日に何度となく連れ回し散歩をさせていたので、ご近所の方に「そんなに散歩させると、犬も過労死するよ」と言われるほどだった。今でも多少なりとも基本的なしつけができているのは、娘が本を読み研究してしつけてくれたおかげだ。

 夫の仕事の関係のU君が、夫に「ぼくんち、○○さんち(?)と親戚だね」と言ったという。犬の子をもらって、U君の家とも親戚(?)になった。

 その後も、U君は「ミコ」のことが気になるのか、夫にあった時など「犬は元気にしてる?」と声をかけていただいたようだ。 とにかく、選挙期間中も、娘は我が家の一員となったばかりの子犬のおかげで、ひとりでも、がんばれた。娘は親に叱られたら、ミコのところにとんでいき、ミコに話しかけ、数年の間は喜びも悲しみも犬と一緒のように見えた。

 それから4年後、思いがけなく娘が家を離れてからは、我が家のミコは、名づけ親である夫のよき散歩相手となっている。







議員になったきっかけ   学校給食の運動から    その②   転記08・5月18日


 私が在職中の時、一人の教師が、「子どもは、まだいいよ。中学校までだからね。教員はこの給食を退職まで、食べるんだよ」と言った。誤解を招くといけないので、ことわっておくが、この教師も、子どもはどうでもいいと考えているわけではない。「食」の安全性に関しても、私の何倍もよく知っていたし、子どもたちに安全で豊かな給食を」と願う気持ちから勿論出発していることだ。けれど、「私たちは、やめるまで、食べ続けるんだ!」ということに気がついた時、そのことにびっくりしたのだ。当たり前のことなのに、私は、新発見をしたような気持ちだった。周りからそれを聞いた他の人も、「なるほど」「ほんとだよ」と言う声があがったのだから、ほかの人もきっとそうだったのかもしれない。

 「学校給食を考える会」の活動を始めることにした。結局、誰かいないかなと思っていたが、私が始めることになった。それまで問題のあった民間のセンタ-方式の学校給食の経験から、学校給食の学習会をもつことで始まった。退職した年の秋のことだったと思う。ある教育講演会(母親大会主催)が行われた際に、私は会場で1枚のちらしを配らせてもらった。そのよびかけで、集まったのが10名ぐらいだったと思う。この後、メンバーは少し入れ替わりもしたが、活動にかかわる人も増えていった。

第1回は、地域公民館で開き、役員やその後の主な計画をきめた。まずは学校給食について良く知ろうということになった。他市町村の見学、学習会を重ね、行田市や行田市教育委員会との話し合いなどを含めた活動を2年ほど行ってきていた。

 ちょうどそのころ、私たちは、市がそれまでの民間委託の給食センタ-方式を変更し、公設の給食センタ-建設を計画していることを知った。

 私たちは、自校給食が望ましいという結論を会全体としても固めつつあったため、民間でなくてもまたセンタ-方式ではたまらないということで、署名運動に入った。

 署名は、9月半ばごろから始めて、12月議会には提出ということで、約3か月弱であったが8万数千人の市民のうち約1万3000名を集めた。そして学校給食の研究者である雨宮正子先生をお呼びし学習会を開催した。1万3000名突破総決起集会とした。この署名の数が多いのか、そうでもないのかは分からない。だが、多くの市民の協力を得て、会のみんなでがんばったのは、確かだ。

 12月議会はすごかった。傍聴者がたくさん集まった。今でも、いっぱいにつまった傍聴席、色鮮やかなスカ-フ姿の女性、休憩時間に執行部や議員席に呼びかけるにぎやかな声などが思い出され
る。「○○さん(市長の姓)、私は市長に投票しました!」と言いながら、自校給食の実現を呼びかけている人もいた。

 結果はだめだった。ごく少数の議員だけが請願に賛成した。

あれほど、がんばったのにという失望感がひろがった。(自校給食の署名活動の後は、市内唯一自校給食が行われていた、T小学校の自校給食を残す署名活動を行った。これも賛成少数だった)でも、「自分達の要望を身近なところから」ということで、今度は選挙にむけて出発することになった。

 きっかけは、「三宅さん、議員になりなさいよ。男性ばかりの議会ではなくて、やっぱり女性で市民の立場に立てる議員がいないと、だめよ」「議員になること、考えておいて」という熱い言葉だった。学校給食を考える会の会員の母親の方からも応援の声をいただいた。
 そんな思いを伝えられ、私の中でも、「そうかなあ」という気持ちが動いてきたのだった。

 選挙については、なにもかも初めての人ばかりで、頼りは市の選挙管理委員会というところから始まった。選挙数ヶ月前の秋のことだったと思う。

※雨宮正子さんは、08年現在も学校給食問題で、ご活躍中です。インターネット上で拝見し、なつかしく思いました。
※一部修正・加筆 5月21日






②  議員になったきっかけ    学校給食の運動から   その①    転記・5月13日

 
 自校給食運動を一緒にやっていた仲間から、「議員になること考えておいて」といわれた。きっと、その言葉が議員になるきっかけとなったのだと思う。そう言われたのは、学校での勤めをやめて、4年目の秋のことだった。

 
 
 そもそも、教員をやめた理由は、文学に専念したいということだった。  20年勤めたのだから、定年までのあと残りの20年近くは、他のことにうちこんでもよいのではと思って仕事をやめた。教師の仕事は決して嫌いではなく、子どもたちからも喜びをたくさんもらったけれど、自分の人生の目標は、「物書きになること」と決めていた。

 退職後の私は、しばらく児童文学に専念していた。ただひたすら、原稿用紙のます目を埋めていた。それは、全く飽きることのない作業だった。

 それでも、書くこと以外のいくつかのことにかかわっていた。一つは学校給食の運動だった。教師として給食を食べている頃から民間委託だった学校給食を安全でおいしい給食にしたいという思いが、ずっとあった。

私の中では、最終的には自校給食を実現するための運動を目指していた。この運動も、もともとは、誰かにやってもらいたかったものだった。

 夫に「ねえ、だれか、やる人、いない?」と、家でしょっちゅう言っていた。
「学校やめた、あの人どうかしら、聞いてみてくれない?」と勝手に名前をあげていた。そのたびに、夫は「多分だめだよ」とよくわからない人の忙しいと思われる理由をあげていた。そして、いつも最後に言うことは、「あなたがやるしか、ないよ」だった。

私はそのころ、原稿用紙のます目を埋めるのに必死だったのに、夫は、私のことを暇だと思っていたのかもしれない。確かに、限界ぎりぎりで生きている人に比べれば、原稿用紙を埋めることなんて、どうでもよいことかも知れない。ただ、「あなたは、あなたの思うように人生を生きればいいよ」と言う夫の言葉だけは、ありがたく胸に受けとめていた。






 次のエッセイは、私が議員になる前、一市民として市議会を傍聴した頃のことを書いたものです。
 かなり前に書いたもので、パソコンの中で見つけました。



※(三宅・ ホームページに転記 08・5月10日)

                   
 ①     〈市民の目〉      
初めての議会傍聴   (1991?年頃の議会)

 私の住むまちには、現在、約8万6千人のひとびとが住んでいるが、一体どれだけの人びとが、議会を傍聴してきただろう。議会についての話を聞いたり、議会だよりで議会の様子を知ることはあっても、市民の多くの人びとは、直接、議会をみてはいない。

 20年間の教員生活に終止符を打った私は、ある時、自分が投票した議員が議会でどのような仕事をしているのか、知りたくなった。ちょうどその時、自分自身の世界の広がりを意識していた時だった。職場と家の往復に精一杯の生活から離れ、また、新たな生活にも、落ちついたころだったと思う。

 生まれてから40年以上も経って、私は、初めて市議会というところに足を踏み入れた。議会は市役所のなかの3階にあった。受付名簿に名前等を記入し、中に入った。傍聴席は固い感触の椅子で、傍聴席以外の床には、赤い絨毯がしかれていた。天井は高く、窓はない。すべてが壁に囲まれている。

 高い傍聴席からは、議員の後ろ姿がよく見えた。傍聴席を振りかえる議員がいて、顔が見えることもあるが、殆ど後ろ姿だ。議員のうち、女性はたった一人だけで、男性ばかりの議場だった。
 議員の多くは黒か紺等のス-ツに身を包んでいて、その色彩のせいか、また、壁面の装飾もないせいか、議場全体は極めて、地味な印象だ。敷物の赤がなければ、それこそ、暗いイメ-ジになるだろう。  傍聴席から顔の見える議長席と執行部席側には、女性が一人もいなかった。議場は、一人の女性議員を除き男性ばかりでうめられていた。議案の説明においては、傍聴者は資料をもっていないので、何をやっているかは、分からなかった。分からないので、その時は、時間が非常に長く感じられた。市政に対する一般質問では、何人かの議員が順番に質問をしていた。議員の真面目な発言に対し、時たま、議員席からは嘲笑とも思われる笑い声があがったりした。

 傍聴席は40数席あるが、傍聴者は私のほかに一人か二人の男性だった。一人は前回までは議員だったが健康上の理由で立候補をやめた人だった。傍聴席に市民がとても少ない議会は、さびしかった。そのせいか、全体として、活気も感じられなかった。

 それまで、私自身、仕事と家庭の生活が精一杯で、市議会に特別な関心を持つこともなかった。また、日中は、市議会を見に行けるはずもなく、議会は遠い存在だった。国の政治については、毎日のマスコミ報道の範囲において知る事はできる。しかし、それに比べれば、市政については、知る手段が少ないと思う。市民は、知らなければ、市政に対し、興味がわかない、取るべき行動もないということも真実だろう。その後も私は市議会の傍聴に通ったが、自分が議員に立候補することになるとは、思ってもみなかった。







121         カレーの次は、またカレー              (4月30日・水・記)

「ねえ、あなた、あなたの日は、カレーつくらないでね」と私が夫に言った。
「じゃあ、いいよ。カレー作らない」

 土曜日と日曜日の食事づくりは、原則として夫の当番と決まっている。先日、その当番の夕食に珍しく、カレーをつくられてしまった。
 
 その献立は、私にまかせてと言いたいのだ。二日間の夕食のうち1食にカレーをとられたら、ちょっとがっかり。原則5日間の当番の私の献立に残しておいて欲しい。(当番制は原則であって、早く帰宅したほうがとりかかる)
 ・・・と言っても、私も一週間に一度、カレーをつくるわけではないのだけれど。それほどはつくらない。

 
 カレーライスが嫌いな人はうちにはいない。カレーライスは、とても便利だ。翌朝もカレーが食べられる。夜作れば、明日の朝も安泰というわけだ。それに、おいしいから大歓迎の献立。


 しかし、どういうわけか、我が家でカレーをつくると、夫の職場もカレーということが多い。先日も、帰宅した夫に、
「今日は、カレーなの」と私が言うと、
「えー。今日のお昼、カレーだった」と言われた。
「でも、まあいいや。同じカレーでも味が違うから」

 味がどう違うのかは知らない。我が家のほうがおいしいに決まっていると思うので、答えは聞かない。翌朝もカレーなので、夫はそんな日は、3食がカレーになってしまう。

 
夕食にカレーをつくり、「ねえ、今日のお昼、カレーだった?」
「違うよ」
「じゃあ、よかった!」と、私はほっとする。
すると、会話の翌日、今度は夫の職場のお昼がカレーだったりすることがある。

 この場合も、夫は前日の夜に続き、その日の朝、カレーを食べて出勤しているので、連続3食カレーを食べることになる。


 そのせいかどうかは、わからない。最近、夫は、夕食の自分の辛口カレーを朝まで残さないで、食べてしまう。(我が家では、夫が辛口なので、2種類のカレーにわけてつくる)

 
 どういうわけか、我が家のカレーは、夫の職場の献立とつながってしまうのだ。私もカレーライスは好きだが、多分3食連続カレーは、気が進まない。ああーでも不思議。






120                男の涙                 (08・4月20日・日)         

 最近、男がよく泣くようになった。昔は、男は泣くものではないと言われてきたようだ。しかし、男でも女でも、泣きたいときもあるだろう。自然と言えば自然だし、全面的に否定はしない。

 スポーツ選手が良い成績を得た時など、感極まって涙する光景は、しばしば目にする。中には大泣きの選手などもいて、一緒に涙してしまうこともある。かつてスキーの原田選手の大泣きの時には、その泣き方の豪快さに笑ってしまったが、好感を持って涙した。

 
 でも、政治の世界の涙というものは、何の涙であっても、少なくとも公の場での涙には違和感を感じてしまう。それは男であっても女であっても同じだ。また、政治の世界ではなくても、意見をたたかわす場では、涙を見せてはいけないのだろう。それから、たとえ嬉しくても悲しくても式典等、公の場での聞き取れないような涙声も、私は好きではない。そのような場面での役割は涙なくして果たしたほうが良いだろう。
 
 
 大阪府知事が泣いたという報道があった。なぜ、泣くのだろうと思った。立場上、さまざまな意見を聞くことは当然である。批判や怒りをかうこともあるだろう。

 
 教師をしていたころ、子ども同士のけんかは日常茶飯事である。子どもはけっこう涙に弱いように思う。
「先生、○○ちゃんが、○○ちゃんを泣かしちゃった!」
 なぜ泣いたのか理由は別で、泣いたほうが勝ちなのだ。たとえ、泣いたほうが、悪いことをしたとしても、子ども同士では、涙に同情が集まることが多かった。

 
 子どもの涙は話題にもならないが、おとなの涙、特に政治家の涙は話題になる。政治家の涙に対しては、国民は冷ややかだと思ったら、意外にも、同情の声も多いようだ。

 
 私自身は「涙」には冷ややかである。政治家は、泣きたくても、我慢しなければいけないと思う。自分の感情に負けてしまう人間は、物事を理性的、論理的にとらえられない資質の人間だと判断されてしまうのではないかと思う。「涙」を計算するなら、それはまた、論外である。


 いずれにしても、男も女も人前では可能な限り泣かないほうがいいのでは。私自身は、女は人前で泣いてはいけないという思いで生活している。 花粉症の涙目は別として。今日も涙目です・・・。
  




119      まったく思い出さない結婚記念日               (08 4月12日・土)

 今年もまた、結婚記念日を忘れてしまった。
・・・ということは、結婚して以来、一度も、その日に間に合うように思い出したことがないということになる。

 結婚して間もない頃、「結婚して8年になるの」という知人の言葉を「8年も経ったの。すごい・・・」と感動を持って聞いたものだ。

 その8年どころか、我が家もずいぶん長く続いてきたものだ。そして、世間には、仲の良い夫婦もいれば、あまり仲の良くない夫婦もいることがわかった。

 夫婦も人間関係なので、うまくいかないと相当なストレスになるのではないかと思う。
それにしても、我が家では、ご飯をよそっても、「あなた、ありがとう!」なので、心があたたかくなる。
 結婚するなら、やさしい人が一番。我が娘も、将来的には娘を大事にしてくれる人と人生を歩いていって欲しい。

 結婚記念日はお互いに忘れても、まあいいや・・・と思う。ごちそうさまーかな?
 
 

★「子どもの頃」はひとまず終わりにします。また、思い出したら、書きたいと思います。




118 子どもの頃 ⑩    おはじき・・・など              ( 08 3月20日・木 )  

 私の子どもの頃は、男の子と女の子の遊びは、ある部分では、はっきりと分かれていたと思う。
例えば、おはじきは、女の子の遊びだった。ビー玉やメンコは男の子の遊びだった。

 おはじきには、全くの透明のものや、白っぽいものにきれいな絵が施されていたりするものがあった。透明のものは、なぜかつまらなかった。それで、絵のついたおはじきを集めることが楽しくもあった。

 おはじきをはじいて勝つと、相手のおはじきが手に入る。男の子のビー玉やメンコと同じような遊び方なのだろう。

 また色とりどりの細いひも状のビニールで、腕輪を編んで、腕を飾った。今でいうブレスレットである。
そのひもで、袋を編んだりもした。袋の場合はビニールの中に強い糸が入った材質を使った。

 考えて見ると、昔の子どもは、体全体ももちろんだが、手先もよく動かしていたと思う。器用な子がいて、小学生のころ、編み物ができた子もいた。私は、そのころ編み物をした記憶はないけれど、すごいなあと思って眺めていた。


 あっ、そうそう・・・男子にもはやったのが、網を編むことだったように思う。「編む」ということでは、女子と共通性がある。魚を捕る網を編むことが流行っていたのだろうか。
 兄が中学生の頃、編んでいて、「そんな物、編まないで勉強をしなさい」と親に叱られていた。(ひとの叱られたこと、書いてすみません)




 
117 子どもの頃⑨      おーしゃれ、おしゃれ            (08 2月4日・火)

 次兄が通っていたキリスト系の幼稚園で、母は、ある時期、洋裁を習っていた。そして、既製品が少ない頃、子どもに洋服を作って着せていた。編み物のほうは、どこで習得したかしらない。時代が時代なので、特別に習わなくてもできたのかも知れない。
 
 女の子であったせいか、母は私にスカートやワンピースをミシンでよく縫って着せてくれた。母がスカートばかり縫ったせいかどうかわからないけれど、冬でも、私はほとんどスカートをはいていた。そのころは、冬になると、ズボンをはく子どものほうが多かった。(今は、春夏秋冬かかわらず、パンツスタイルがおしゃれとしても定着)
 
 ストッキングは、今のタイツのように厚手で、肌色だった。このストッキングを買ってもらうことはとても嬉しかった。

 通学時、十字路にさしかかったところで、反対側からやってくる男の子たちに スカート姿のせいか、「おーしゃれ、おしゃれ」とはやし立てられたのを憶えている。昔の子どもは、今の子どもより気にしなかったのか、私はただ、無視をしていた。

 学校がお休みになると、近所に東京からやって来る子どもがいた。寒さに震えるほどの冬なのに、その子は、ストッキングもはいていなかった。短い靴下だけだった。
 そのころから、都会の子は、おしゃれな気がしていた。






116  子どもの頃⑧    うちの保育園えらび            (08 1月19日・土)

 「おとなの話に口をはさむものではありません」
 子どものころ、母に叱られたものだ。
兄たちは外遊びに夢中だった。私は外で遊ぶこともあるが、家にもいる子どもだった。

 父と母はよく話をしていて、その話を私はそばで聞いていることがあった。そんなとき、質問したりすると、よく母にそう言われた。

 母は父とある「過去」を振り返って話をしていた。
 兄を新しい保育園に入れた日の事だったのだろう。最初の日、お昼までで様子を見ることになっていたので、母はその時分に迎えに行った。

 母が保育園に行くと、兄は、一人砂場で砂をいじって遊んでいたということだ。他の子どもたちは、部屋でお昼を食べていた。

 「みんなお昼を食べているのに、○○だけが外で一人で砂場で遊んでいたの。ほっぽらかしなんだから。それを見て、私はすぐに連れ戻してきたわ・・・」
 外で一人遊ぶ兄の姿を見て、母は即断した。

 「子どもを大事にしない。あの時、ここはだめだと思ったわ・・・」と母は言った。そんなことがあって、兄は別の幼稚園(そこは、たまたま保育園ではなくて幼稚園だった)に行ったということだ。
 そこでも同じように最初の日はお昼に迎えに行ったのだろうか。

 すると、兄は、お部屋の中で、他の園児たちと一緒で、お昼を食べていたのだという。兄はその幼稚園に入園した。

 「子どもを大事にするところと大事にしない所は、よくわかりますねえ、お父さん」というようなことを言って、母は父と話していた。

 即断できるところが母らしい。「おとなの話に口を出すものではありません」と言われながら、それでも、話をきいていて口をはさみ、叱られた子どもの頃・・・。





115 子どもの頃 ⑦    先生、おれは?              (07 12月22日)

 子どもの頃、授業時間のことで一番印象に残っていることがある。何の時間だったかははっきりとしないが、多分算数の時間のことだったと思う。

 先生が、列の前から、「○○さん・・・・と指名して答えさせていった。正解が出なくて、次、次と指していった。「わかりません」 「わかりません・・・」と進んでいったように思う。

 Aくんの所まできた時、先生は、Aくんを指さずに、次の子を指名した。すると、Aくんは、「先生、おれは?」と先生の方をまっすぐに見て言った。Aくんはいわゆる勉強ができる子どもではなかった。

 

 先生はもしかしたらAくんの行動を予期していなかったのだろう。教室の子どもたちも、ふだんすごくおとなしくてひっそりと目立たないAくんの言葉に驚いたと思う。

 私は、「あっ、先生はAくんを抜かした」と思ったので、驚いた。またAくんの「先生、おれは?」の言葉に驚いた。
 先生もはっとしたのか、わずかに時が流れ先生はAくんを指名した。指名されたAくんは、「わかりません」と答えた。そのとき、教室のみんなが笑ったのかどうかは憶えていない。

 

 教室のみんながどう解釈したかは、わからない。私は、こう思った。Aくんより勉強ができる子が「わかりません」と答えたので、先生は、当然Aくんにはわからないだろうと思い、飛ばして次の子どもを指名したのだろうと思った。

 今考えると、先生に他意はなく、まちがってAくんを飛ばしてしまったのかも知れない。真実はわからない。
 ただ、指名されても「わかりません」なのに、ちゃんと自分を主張できたAくんのそのときの行動が忘れられない。

 後に教師になった私はこの場面が忘れられず、今なお心に刻まれているできごとである。






114 子どもの頃 ⑥         ひよこ               (07・11月24日・ )             

  お祭りにいくと、ひよこを必ず売っていた。小さな箱の中で、ぴよぴよと鳴いていて、かわいい。箱の前には、たいてい中高年の男性が座って、ひよこを売っていた。幼い頃、何度かひよこを買いもとめたように思う。
 
 ひよこは、寒くないように湯たんぽを入れて育てた。湯たんぽは、母がやってくれた。ひよこは、はこべを食べると言うので、よくはこべを摘んだりもした。
 ゆったりと時が流れていた頃のことだ。

 なかなかうまく育てられなくて、順調に育つことは、まず珍しかったように思う。ところが、あるときの3羽のひよこは、そのまま大きくなった。兄妹3人だったので、飼い初めてすぐに一羽ごとに自分のひよこを決めて名前をつけていた。

 年数を経た今、「とさか」と「ちび」の名前は思い出せたのだけれど、もう一羽がどうしても思い出せなかった。
 
 

 それで、小学校の4年生の文集「ささぶね」に作文が掲載されたことを思い出し、「あるかなあー」と思いながら、ありそうな書棚を見たら、ちゃんととってあった。結婚する時にも、持ってきたのだ。捨てなかったことに感心し、「えー、えらーい」と思いながら、すっかり茶色に変色した文集をめくってみた。すると、出てきた。名前がわかった。あと一羽は「でぶ」だった。次兄のひよこで一番大きくていばっていたからだった。

 

 ・・・ 「○○お兄ちゃんのは、一ばんいばっていて、ふとっているので、「でぶ」とよぶようになりました。私のはつぎに大きいのですが、なかなかつかまらなくてはやいので、なんとなく「ちび」とよぶようになりました。○○おにいちゃんのは、とさかが一ばんのびているので、「とさか」とよぶようになりました。私は「とさか」を一ばんかわいがっていました。・・・略

 
 ひよこから成長した3羽のにわとりの行方は、その後かわいそうなことになり、悲しい思いをした。「コケッココー」の鳴き声も勇ましく近所には迷惑になるし・・・おんどりを飼い続けても仕方がないと母に言われ、めすのにわとりと交換をすることになった。

 
 ある日、自転車に、にわとりの入ったかごをつけたおじさんがやってきた。オスの3羽は、お金を足して、めすのにわとりと取りかえた。それからは、お祭りで売られているひよこを見ても、買うことはなかった。






113 子どもの頃⑤                「たてこ」って誰?           (07・11月18日・日)

 保育園には、当たり前だが、下駄箱(靴箱)があった。初めて、自分の場所と言われたところを教えられた私は、驚いた。ひらがなで、「たてこ」と書かれていたからだ。その驚きは今でも忘れられない。周りに「たてこ」なんて呼ばれる子どもは、誰もいなかった。

 それから、ずうっと、学校で先生が、私の名を呼ぶときになると、そこで止まってしまう。父が3人の子どもの名前をつけた。ただ、残念なのは、3人とも、本当の名前で呼ばれることは少なかったと思う。2番目の兄の文字も、正しく読んでもらえなかったと記憶している。

 私の娘が生まれたとき、母が父に言った。「誰にでも読める名前がいいですね」と。私は病院で、いろいろ娘の名前を考えた。最終的に、ごくごく日常的に見る漢字の一文字にしたのだけれど、それでも、娘の名前通りの読み方をしてくれる人は、ほとんどいない。

 
 父は、人々の明るい未来を考えて、3人の子どもの名をつけてくれた。だから、名付けたように読んでもらえる人が少なくても、父の意思が十分に表れている自分の名前が、私は好きだ。
 
 けれど、「たてこ」は、衝撃的で、今でも、保育園の下駄箱に貼られた名札が目に浮かぶ。


 




112 子どもの頃④         パンが好き             (07・11月3日・土・記)

 保育園には、お弁当を持っていくこともあれば、パンを注文することもあった。パンを買う日には、家からお金を持っていったと思う。好きなパンを注文すると、お昼には、今でもパンやさんで見る平たい木の箱に並んだパンが運ばれてくる。木の箱には、お店の名が記されていた。

 
 保育園時代に食べたパンでは、クリームパン、ジャムパン、コロッケパン、甘食などが印象に残っている。特に、コロッケパンは印象的だ。ソースがパンの生地になじんでいて、独特の味がした。カレーパンやチョコレートパンも「注文」にあったかも知れない。これらも好きだった。

 
 家庭では、特に父がパンが好きだった。食パンに「あん」が挟まれたあんサンドを食べていた姿も思い出す。また、食パンにバターを塗って食べるのは、日常茶飯事だった。

 そんなわけで、幼い頃の食卓には、パン食(食パン)のこともあり、そんな時には、必ずといって母の作ったスープがあった。湯気と一緒に飲んだスープのおいしさも思い出す。

 
 結婚して、夫が私のパン好きに気づいた。夫は、幼い頃、パンなど食べなかったという純和食に徹していた。「日本文化を尊重しない、欧米文化に毒されている」、と夫は今でも時々怒り(?)を込めて私に言う。

 私は、子どもの頃、おやつにも結構パンを食べていた。さっき書いた他に、あんパン、うぐいすパン、マーガリンがのせられたロールパンなどなど、菓子パンはすべて好きだった。その頃は、メロンパンは、なかった。今では、種類もますます豊富になって、パンがおいしい。
 
 
 といっても、我が家は普通に朝も夜もお米をきちんと炊いている。ただ、今でもパンがとても好きで、パンも食べるというだけである
娘が、やはりパンがすごく好きで、似てしまった。





111 子どもの頃③      お昼寝の時間              (07・10月21日・日・記)
 
 私は、バスに乗って、保育園に通っていた。確か透明のビニールケースに入れた定期券を持ってバスに乗っていた。私の保育園の鞄は、緑の地に細い線で黄色と赤が入った格子柄だった。この柄は今でも好きで、もし、その柄のスカートでもあったら、今でもはきたい。

 
 
 バスで保育園に通うのは、普通のことと思っていたので、結婚後、夫に何かの折りにそのことを話したら、「ずいぶん偉かったんだねー」と言われ、「そうかなあ」と、初めて、ちょっと自慢に思った。

 ところで、その保育園の頃のことだ。お昼寝の時間は、静かに寝なければいけない。しかし、たいていはそんなわけにはいかない。
 誰かが何かを言って、周りがくすくす笑ったりすることもある。すると先生が笑った子どもを叱る。

 その日は、お昼寝の時間に園長先生が見えた。園長先生は黒い服を着ていた。怖そうで威厳があった。
 誰かがくすくすっと笑った。何人かが続いた。そこは広いお部屋で、最初の方の子どもは、園長先生に笑ったことを気づかれなかったのか、注意を受けなかった。
 
 私が笑ったのは、ほんの少し遅れて最後のほうだった。なんと呼ばれたのか言われたのか覚えていない。

 とにかく叱られたのは、私だった。最後にちょっと笑っただけだったのに。それで、押入に入れられてしまった。

 
 そんなところに入れられるのは、私は初めてだった。でも、他の子どもが入れられるのも見ていたので、別に動揺もしなかった。ただ、思ったのは、なんか損をしたような気分だった。
たとえは悪いが、逃げ遅れて捕まった「間抜け」のように思えた。
 
 
 私は昔の子どもだったので、「先生、・・・したのは、私だけではありません。○ちゃんも・・・」と言えなかった。今の子は、そう言う。

 
 教師になったとき、子どもを何かで叱るとき、最初に行為をした子どもには気づかないことがある。複数いけないことをした子どもがいるのに、気づくのが遅れて、最後の子どもを叱ることがある。

 
 「先生、僕だけじゃないよ」 「最初、話しかけてきたから、私が注意してたの。そうしたら、おしゃべりをしていると先生に(誤解されて)叱られた)」・・・・などなど、言い分を述べる。言い分を述べることは良いことだ。

 述べなければ、誤解も解けない。複数の子どもがいけない行為をしたなら、いけない行為をした子どもは、みんな注意を受けることが、本人にとってもよいことなのだから。


「あなたはいけないことをしたんでしょ。ひとのことは言わなくていいの」と、おとなは言いがちである。自分の非は、非である。しかし、他の人の非もその人自身が改める(指導を受けるべき)必要はある。子どもの側からしたら、可能な限り公平で平等な対応でなければならない。
 
 
 みんな昔の子どもだったので、黒い服の園長先生は怖く見えたし、押入はいやなので、私が叱られると、声をたてる子はいなかった。みんな静かにお昼寝に入った。私は押入れの中で、お昼寝に入った。
 






110  子どもの頃②         なくした履き物           (07・10月1日・月・記)      

 大きな小石の山が道の端にあった。そこは道路なのだが、今のように頻繁に車が通っていなかった時代だ。・・・というより、ほとんど車は通っていなかった。そのころは、道路も、子どもの遊び場だった。
 子どもの頃、「靴さがし」という遊びがあった。誰かが自分の履き物を、その石の山に隠し、鬼になった子が、それを見つけ出す遊びだ。

 たいていは、鬼になった子が探し当てるのだが、鬼は、私の履き物を探し当てることがなかった。鬼ばかりでなく、誰も、私の履き物を探すことができなかった。心の中では半泣きの私自身も探すことができなかった。小石の山は、黙ったままだった。私の靴は見つからなかった。


 親に叱られた記憶もない。道路の端にそびえていた灰色の小石の山と、片方の靴で、家に帰った自分の姿だけが目に浮かぶ。




109   子どもの頃 ①          「石山」と こぶしの花   (07・9月1日・土・記) 

 「石山に行こう!」誰かに誘われて、石山へ行ったのは、子どもの頃のことだ。

 子どもの頃の風景の中に、「石山」が存在する。小学校の頃のことだ。それも低学年の頃のような気がする。家から遠かった石山まで、何で行ったのだろうか。歩いて行った記憶もない。自転車に乗って行ったという記憶もない。
 
 兄とその仲間の数人の友達と一緒に行ったのか。それなら、幼かった私は自転車に乗せて連れて行ってもらったのかも知れない。数人の中には、私の他に女の子がいたという記憶がない。

 
 辺り一面の田園地帯の中に、石山はそびえてみえた。記憶では、木々にこんもりと被われていた。「石山」は、石が重なり合った岩山のように写った。その石の上に上ったりして遊んだ。ただ、それだけのことだった。それで十分楽しかった。
 
 石には、子どもが書いたのか、数箇所に落書きのように名前が刻まれていたことが記憶されている。

 石山には、白い花が咲いていた。花びらが大きくて美しい花だった。花全体から気高い香りが漂っていた。私は、それを一枝折って、家に持ち帰った。誰かに折ってもらったのかも知れない。

 母は、「きれいな花ねえ」と言って花瓶に挿して、私に「こぶし」の花だと教えてくれた。そのとき、私は、「こぶし」という花の名前を覚えた。

 

 それ以来、私は、その花が好きになった。おとなになり、石山の存在は忘れても、「こぶし」は忘れなかった。小学校に勤めるようになり、高学年の担任になったとき、私は、学級通信の名前に「こぶし」とつけた。私は花の「こぶし」を意味してつけたのだが、握りこぶしと思っていた人も、かなりいたようだ。

 
 
 子どもの頃からずいぶんたって、いつの間にか、石山はなくなっていた。どこを探しても見つからなくなった。と言っても実際に探したわけではない。「石山」はどのあたりにあったのか。それさえ、わからなかった。

 

 最近、また、ふと、子どもの頃の「石山」は、どうしちゃったの?・・・と心の中で思うことがあった。でも、それは、すぐに心の中から消えてしまうので、誰に尋ねることもなかった。時折尋ねてみたいと思いながら、消えていった。誰に聞いたらよいのかもわからなかった。

 

 行田市の藤原町にある「八幡山古墳」に行って見る機会があった。私はそれを見て、子どもの頃の印象とは違うけれど、これが「石山」ではないかと思った。八幡山の周囲は、住宅や工業団地だった。
 
 田園の中で、ただ一つこんもりとした木々に被われ、そびえていたかつての「石山」ではなかった。しかし、これ以外に「石山」と呼べるものはないと思った。
 
 今の国道125号線から、石山は見えたと思う。周りには、建物は何もなかった。

 

 あるとき、ある人と会話をしていた。そのとき、話の流れの中で、「八幡山古墳って、昔の石山ですか?」と聞く機会があった。「石山ですよ」と、その人は言った。

 「ああ、あれは石山だったのだ・・・!」と私は、確認できたことが、ひどく嬉しかった。石山は存在していたのだ、という思いだった。八幡山古墳は、「関東の石舞台」と呼ばれる石室で、歴史的価値のあるものだった。

 
 心の中に存在していた風景の、一つの謎が解けた。





108 我が選挙戦 ⑧        K子さんのこと                 (8月5日・日・記)

 4月17日は、毎年お祭りだ。「植木市」と今では呼んでいるのだろうか。
 私は、「ごんげん様」のお祭りと子どもの頃から呼んでいた。幼い頃は、よくお祭りにつれて行ってもらった。娯楽の少ない世の中だったので、お祭りというと、どこの家族も出かけたものだった。今では、とても寂しいお祭りになっている場合も多い。

 
 それでも、私が立候補した最初の年は、この「ごんげんさま」は、にぎやかだったように思う。人の中を、「よろしく」と声をかけて歩いた記憶がある。お祭りの日は、宣伝カーにはあまり乗らないで、お祭りの場で、選挙活動をしたと言ってもいい。その日は、太陽がさんさんと降りそそいでいた。

 
 それから、10年以上たつ。4月17日が、(改選時にあたる)選挙期間中に含まれる時には、私はいつもお祭りの人の中を歩いた。
 今回の「ごんげんさま」は曇っていた。空からは今にも雨が落ちてきそうな日だった。「人が出ていないのよねえ・・・」と支持者の人と言いながら、歩いていた。

 

 そんな時、向こうから自転車に乗ってくる見慣れた男性がいた。Tさんだった。Tさんは、私を見ると、いきなり「妹のK子が死んじゃった」と言った。私は驚いた。K子さんが健康に良い生活をしているとは見えなかったが、まさか、急に亡くなるなんて思いもしなかった。
「なんで死んだんですか?」というと、話の様子からして、脳血管関係らしかった。


K子さんは、時折、私に尋ねることがあった。
「三宅じゅんこさんは、何歳ですか」 
いつも彼女は、フルネームで、私のことを呼んだ。そして、私が答えないでいると、自分の年齢を言った。

 およその私の年齢を知っているらしくて、自分との年齢差を推し量っていた。何歳以上の年下でないと、自分より先に死ぬかも知れないから、相手の年によっては、その先の話は興味を失うらしかった。

 

 議員になった頃は、(またその後もだが)毎日のように彼女の姿を市役所の中で見かけた。
 彼女は、窓口に行っては、職員の方に「私の老後はどうなるんでしょう」と尋ねていたようだ。
 K子さんはK子さんなりに自分の老後を心配していた。私の年齢についての質問も、自分の老後の 心配からだった。
 
 いつの頃からか、(用事のない人は)市役所内に入らないようにと言われたらしく、それからは、庁舎の入り口付近に座り込んで、たばこを吸っていることも多くなった。

 私と出会うと、「ご主人は?娘さんは?」とK子さんはよく尋ねた。(私的なことはあまり人には言わない私だが)夫の職種のことなども聞かれ、K子さんにはある程度のことを答えていた。彼女は、それをよく覚えていて、次の時の話題にした。



「私は脳が悪いけど、三宅じゅん子さんは、頭がいいから議員さんになっていいですねえ」ともよく言った。
 議員になる人が頭がいいかどうかはわからないけど、彼女はそう言った。


 市役所ロビーのモニターテレビに映る議会の映像も見ていて、「あれを見て、みんなが、三宅じゅん子さんのようになれたらいいなあと言ってますよ」とも言った。そんなことはないわけで、お世辞の上手なK子さんでもあった。

 
 その昔、K子さんは、教員をしていたこともあったと話していた。あまり深い話をしたことはなかったが、出会うと必ずと言っていいほど言葉を交わしていたK子さんが、こんなに急に亡くなるとは思っても見なかった。

 
 長身でやせ形のK子さんが、バッグを持って市役所前の歩道を前だけを向いて歩いていた姿、市役所入り口付近で、お茶を飲んでいた姿、たばこを吸っていた姿が、思い起こされる。

 多分、私以上にK子さんと言葉を交わしていた人も多くいたことだろう。お兄さんからは、市民の方からK子さんにと服やバッグをいただく話も伺っていた。
 
 いろいろ複雑なこともあるのか、よくわからないことも多いK子さんのことだが、どんな思いで暮らしていたのだろう。


 「私の老後はどうなるのでしょう」と、自分一人になった時のことを心配していたK子さん。その心配の必要もないくらい早く旅立ってしまった。

 車の中から、お兄さんの自転車姿を時折目にすることがある。どこか、以前より寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。お祭りで出会った時のお兄さんの悲しそうな顔が目に浮かぶ。私は、お兄さんが妹をかわいがっていたことを知っていた。


 

 そういえば、お祭りでK子さんのお兄さんに出会ったとき、「(投票)よろしく」の声をかけなかったことを思い出した。






107 我が選挙戦 ⑦     若者の参加を得て               (7月28日・土・記)

 今回の選挙戦で、画期的だったのは、20代前半の若者の二人が選挙を手伝ってくださったことだ。
 

 一人は、娘とちょうど同じ年齢の男性だった。
 若者ということで、少し緊張感もあったのは私だけだっただろうか。運転手の仕事をお願いしたのだが、年代の異なる集団の中で、気持ちよく過ごしてもらえるかなあと思った。でも、そんな心配は無用だった。

 
 年代の差を、いい意味で感じさせない爽やかな青年だった。食事の時も、自分から話題を持ちかけ、その場にとけ込んでいるように思えた。

 若者にしては、ちょっと珍しいと、私は思った。パフォーマンスアートをやっている青年で、そのことに多少?興味を持っている支持者もいて、話がもりあがっていたようでもあった。

 
 若者でないとできないアートの世界なのだろうと思った。今回、行田市で、公演が行われるようなので、是非、行ってみたいと思っている。

 

 もう一人は女性で、二十歳くらいの女性だ。こちらは、選挙事務所にきていただいている方の娘さんで、忙しい合間に、車に同乗してアナウンサーを務めてくださった。

 車に同乗した時だけの短いおつきあいだったが、こちらも、やっぱり、若さだなと感じさせられた。
 学んできたことと関係しているせいもあるのか、さすが、言葉がはっきりとしていて、なおかつ、若さの持つかわいらしさがきわだったアナウンスとなった。


 親子というものは、やっぱり似てくるのか、声ももちろんだが話し方も似ていた。落ち着いた中にしとやかさの感じられる話し方だった。


 最近、私は、話し方によって、その人の雰囲気がずいぶん違ってくることに気づいた。最近にならないと気づかないということがある、このことが不思議でもあるのですが。

 
 
 二人の若者に接して、私自身は、この年代のとき、どんな若者だったのだろうかと、ふと思ってしまった。
 お小遣いで本だけは、それも安い文庫本など買って読んでいたことだけは確かだが、ただただ、ボォーとしていたというイメージしか湧いてこない。

 今の若者は・・・なんて思わないほうがいいことは確かなようだ。
 





106 我が選挙戦 ⑥       やっぱり戦い?                (7月22日・日・記)

 某スーパーで、演説をする予定でその場所に行った。しかし、そのとき、すでに他の候補者が演説をしていた。
「じゃあ、終わる頃また来ようか」ということで、他の場所で演説をして、また、もどってきた。

 
 ところが、まだ、演説は終わっていなかった。力いっぱいの応援演説が行われていた。白い帽子をかぶった応援の女性の声が、かれていた。何人もの人がいた。我が陣営よりにぎやかだった。聴衆も動員され、私は、組織のうらやましさを感じていた。

 
 私たちは、もう一度他の場所をまわり、演説をすませた。しかし、戻ってみると、まだ訴えていたので、もう夕食の時刻でもあり、あきらめて事務所にもどった。腹ごしらえをしてから、そのスーパーで演説をすることにした。

 
 
 ごはんを食べながら、「人に集まってもらわなくちゃ・・・」と誰かが言いだした。
 「事務所にいる人は、みんな外に出て、さっき(さっきの陣営)みたいに並んで・・・!」と、ふだんに増して積極的にな った。対抗意識なのか、急に?活気づいた。

 
 某スーパーは、我が陣営の選挙事務所から、歩いてほんの数分のところにあった。だから、事務所にいた人は、歩いて、その場に集まった。
 
 近いけれど、候補者の背後には名前の大きく書かれた車の看板が必要だったので、もちろん車ごと移動した。

 
 
 その場にいた我が陣営の人たちはみんな燃えていて、私ももちろん、聞いている方々が私に投票してくれるように心をこめて力をこめて、演説をした。

 
 やっぱり選挙は戦いなのだと思った。
 でも、あのときの急に熱気の漂った光景を思い出すと、やっぱりおかしくなってしまう。
 





105  我が選挙戦 ⑤       最後の「握手」             (07 7月10日・火・記) 

 よくテレビなどで、握手を求めている候補者の姿を見ることがある。誰かにも言われていて、候補者は、握手をするものだと、一応頭にはあった。しかし、私は、握手を全くしないわけではなかったが、ほとんど、そのことを意識していなかったかも知れない。

 
 握手で人の心をつかもうとするなんて、なんか変・・・という思いもきっと頭のどこかにあったのだと思う。

 選挙戦も終盤に近づいたとき、私は、「三宅さん、握手、握手」と候補者カーに同乗の支持者に言われた。

「さっきの人も三宅さんと握手したかったんだと思うよ」
「ああ、握手ね」と、私も気づいた。

 
 選挙運動期間中、私は候補者カーに、当たり前だが、いつも乗っていた。人が比較的集まると思える場所や住宅街では演説をしたが、道行く人を見つけると、車から降りて、少し話をしたり、「三宅をよろしく」という声をかけていた。
 そのとき、私は、「握手」をするということをどれくらい意識していただろう。

 

 支持者に言われたとき、「私と握手をしたい人なんているかしら・・・」とも思った。
 実際に票がとれるかとれないか、わからないけれど、握手の効果をねらう。選挙でそんなことを思うなんてバカだと思われてしまうかも知れないが、何か不純なものを感じてもいた。

 
 でも、支持者に言われたその日、私は握手を忘れないように心がけた。あつかましくも進んで、握手を求めた。何という変わりよう・・・? 言われた時には守るが、またすぐ忘れる子どものようだったかも知れない。
 
 
 時には畑での農作業中の人に握手を求め、「手が汚れているから・・・」と遠慮がちに言われた。でも、「いいです、いいです・・・」と言って、握手を求めた。

 
 支持者の方が言うように、相手の方がいやがっているふうにも見えなかった。ただ、私の握手で、相手が喜ぶと思うのは思いすぎであり、傲慢で相手に失礼な気持ちがしていた。

 
 

 選挙戦の最終日の夕方だったと思う。最終日は、心が揺れる。いつものように駅頭で終わりにしようかと思ったのに、行田のまちの中で、「最後」を終えたくなった。

「変更して悪いけど、いいかしら?」と、私は同乗者に言った。

 駅に到着して演説をしたものの、また、車はまちの中心部に向けて戻ろうとしていた。その途中、赤信号で車は止まった。
「選挙戦もこれで終わりか・・・」私の心に少し不安がよぎった。

 
 そのとき、横から、信号待ちの選挙カーの前に男性が飛び出す形で、助手席の私のところに走ってきた。そして、手を差し出し、「○○です・・・」と言って、握手を求め、走り去った。ぎゅっと握りしめられる力が、すごかった。

 
 男性が飛び出してこられ、私と握手を終えるまでは、一瞬のできごとだった。名前はあまりに早くて聞き取ることができなかった。あの稲妻のように現れて、去っていった人は、いったい、どなただったのだろう。
 ほんとに不思議なできごとだった。選挙戦の最後を締めくくる、力強い握手となった。






104   我が選挙戦④    隠れ家がお気に入り                (07・7月4日・水)

 今回の選挙でも、事務所をどうしようか、ということになった。しかし、前回のようには悩まなかった。知人を通して前の借り家が空いていることを知っていたからだ。

 
 その家は、前回、知人が教えてくれた(見つけてくれた)場所だった。実務をこなし支持をしてくださる方にとっても、交通の便もよく、私は気に入っていた。外部からは、全く目立たない。周囲にはお店がそろっていて、何か足りないと気づいたら、その時点で手に入るという全く便利な場所だ。

 選挙事務所というものは、一般的には目立つ場所がよいとされるが、目立ちたいという気持ちがなかった。
 ひそやかに選挙戦が戦えたら、それでよかった。こんなことを言うと、支持者の方に叱られてしまいそうですが。

 
 3月はじめに、事務所びらきを行ったものの、私自身も3月議会があったりで、事務所には誰もいなかった。議会が終わったら「事務所に詰めます」と私が宣言したものの、議会が終わると、すでに3月も下旬になっており、印刷物等の準備にも追われ、事務所に座っている時間がなかった。
 
 
 「事務所にいきましたが、誰もいないので、帰ってきました。いついますか?」というメールがいくつも入ったりもした。しかし、「ごめんなさーい」だった。「おいでになる時には、連絡をください」だった。


「ここ、いいわよね。静かで、隠れ家みたいで・・・」なんて支持者と話しているようでは、だめかもしれませんが、「隠れ家が好き」というのは、新たな自分発見でもあった。

 
 
 ・・・と言っても、隠れ家に集まる住民は、ひっそりとしているわけでもなく、(私を含めて)にぎやかなので、お隣さんにも、ご迷惑をおかけしました。







103  我が選挙戦③     頭を下げていたら・・・?           (07・7月1日・日)

 「あと、1票ね、私がお姑さんに、頭を下げてお願いしますって言っていたらねえ・・・」と支持者の女性の方が言った。それは、私の得票が、2299票だったからだ。あと1票で、ちょうど2300票になったからだ。


 得票が確定したとき、実は、私も、「1票」のことを思った。私は、まず、娘の1票をちらっと思った。娘が日本にいたら、きっと私に入れてくれたに違いない。しかし、これこそどうしようもないことだ。
 
 次に、支持者の「お姑さんの1票」で、頭に浮かんだのが、母の1票だった。母は日本にいるのだから、真っ先に、「1票」の「対象」になるはずなのだけれど、母は投票が無理だった。

 2度目の選挙の時までは、母は、私に投票していたと思う。
 
 

 父と母は、一緒に公民館まで投票に行くのが常だった。あるとき、父は母に紙を持たせた。それには、候補者の名前が書かれていた。しかし、投票場で、母はなんと書くのか父に尋ねた。

 母の投票したい候補者は、父と同じであったろうことは、娘の私にはわかる。しかし、いくら夫婦とは言え、別人格である。立会人のいるところで、父は母とのやりとりに苦労したらしい。
 このとき、何とか母は投票を終えたが、「大変だった・・・」と父が言った。そして、「もう、選挙は無理だね」と言った。

 私も、それには納得だった。「大変だった」という父の言葉から、その場を想像することもできた。

 3度目の選挙では、私への母の1票は無理だったかも知れない。(4度目の今回は、全くの無理)

 母は、ふだん時々私に尋ねる。
 「あなた、今、お仕事、何してるの?」
 「市会議員よ」と私は答える。
 「あら、あなた、市会議員なの?」
 「市民のために働いていまあす・・・」と、ちょっとおどけて私が言う。
 「そうですか。えらい、えらい。よろしくお願いいたします」と、母もおどけて拍手しながら頭を下げる。

 私は母と、人に聞かれたら恥ずかしいようなこんな会話をすることがある。


 私が頭を下げなくても、私に間違いなく投票するであろう母。もし、母が娘に投票できない自分を自覚することができたなら、どんなに悲しい思いをするだろう。

 「あと1票。お姑さんに、頭を下げていたら・・・・」と言ってくださった女性の言葉は、支持をしてくださる人の思いとして、嬉しくありがたく受け取った。そして、私は私なりに、「1票」を思い浮かべ、母への思いにつながった。
 
 





102   我が選挙戦 ②      傘をどうぞ          (07・6月21日・木)                 

 よく演説をしているスーパーで、拡声器を取り出して、準備をする。空から、雨がぽつりぽつりと落ちてきた。「(これくらいだったら)大丈夫」と言って傘をすすめる支持者の方に、私は言った。

 選挙運動に入る前にも、ここでは、演説を繰り返してきた。なかなか立ち止まって聞いてはくださらないが、遠く離れたところで、あるいは隅のほうで、耳を傾けてくださっている方は、いるものだ。

 そうでない方も、言葉をいくつかでも歩きながら拾ってくださる方もいるだろう。全然聞く耳を持たない方も、がんばっているという空気は受け取ってくださるだろう。


 顔なじみの方が、笑顔を向けた。雨は、ぽつりぽつり・・・。今回は、お天気があまりよくなくて、雨だからと言って、演説をしないわけにもいかない。

 

 そのお店で働いている男性の方が、支持者に何か話していた。後で聞くと、傘のことだったと言う。
 その男性は、車の中にいる運転手の方にも声をかけたということだ。「議員候補がぬれてしまうので、傘をさしてあげてください」と言ったということ。

  
 支持者の方が、そのことを私に言って、傘をさしかけた。「ありがとう」と言って、なんだか心があたたかくなった。
 
 私自身は少しぐらいの雨は何ともなくて、支持者の方もそのことを了解していたのだけれど、心配してくださった男性の気持ちはやはり嬉しい。

 

  私と違って拡声器は雨に弱いので、雨ふりの日に、私は、拡声器に傘をさしかけていた。
選挙戦では、雨が多く、いつも、拡声器に「傘をどうぞ」ということが多かった。
 







101    我が選挙戦 ①       静かな事務所         (07・5月9日・水)   
       
 
 選挙戦終えて、約一週間後の休日の4月30日、後援会で、ささやかな集いを持った。組織も地盤もなく、これまでと特には変わらない中で、選挙戦が何とか終わった。
 
 当初、担当者は日程表がなかなか埋まらなくて、頭を抱えていた。担当者から、三宅さんが「もし、誰もいなかったら、誰かが運転をして、私と運転手の二人でやる(選挙戦に臨む)と言ったので、私もやる気になった」と、選挙戦後に言われた。
 「誰もいない」話を聞いて、「やる気になる」人というのも、「すごい人」だなと思った。

 
 
 私のほうは、あまり記憶になかったので(なんと無責任な・・・ですが)、「そんなことも言ったっけ・・・言ったかも・・・」みたいな感じだった。そうだそうだ、思い出した。「お昼は、お弁当を買えばいいんだしね・・・」と、何とも寂しい話もしましたっけ。

 
 しかし、実際には、出陣式当日の支持者の訴えもあってか、運動員として次々とお手伝いしてくださる方も増えてきた。その後の流れの中で、「ぜひ、やりたい」という方まで現れた。
 また、今回は珍しく若者の参加も得て、私としては、まあまあにぎやかに終えたと思っていた。
 
 
 
 この日、司会者の、「では、みなさんからの一言、お願いします」の言葉で、一人一言が話された。その中で、「いつ来ても、静かな事務所で・・・。9時に来ても、誰もいないし」という「電話かけ」の仕事をきちんとやってくださった0さんの言葉には、みんな大爆笑だった。
 

 我が陣営では、女性が多いということもあり、過去三回の選挙戦と同様に無理のない時間設定をしていた。選挙カーも9時出発だった。だから、選挙カーが出てしまうと、もしかしたら、その時間帯は、あまり人気もなかったかも知れない。
 
 1日の時間帯を4分割しているから、それぞれ自分の受け持つ時間帯に合わせて、事務所に人が出入りすることになる。それなので、やっぱり、静かな事務所だったかも知れない。(私自身は、選挙カーで、ずっと外でした) 
 
 
 自治会をあげて選挙戦に取り組むところでは、地域住民に役割が分担されると言う。だから、我が陣営に参加している方の中にも、自治会での役割?を果たした人もいる。
 
 私の住む自治会では、自治会としての選挙戦の応援はいっさい行わない。私はそれでいいと思う。一人一人、誰を応援しても投票しても全く自由な存在なのに、「アナウンサー、お願いします、運転手お願いします」では、おかしいと思うからだ。自治会とは、そのような組織ではないと思う。

 

 だから、私は、苦しいけれど、今の形でいいと思う。実質的には、すべてボランティアに頼っている(運転手に関しては、規定の公費が後から支給されるので、それは分配して支払うことになる)。
 報酬を支払ったらどうか、という意見もかつて出た。そうでないと、(お手伝いしてという)声をかけられないということだった。そのとき、話し合った結果、現在の形になっている。

 
 運動員にお金を支払って、運動してもらう。それは認められていることだし、それはそれで、いいと思う。お金を支払う選挙運動だから、当選したら、気楽ということではないだろう。やはり、私は、市民のために、精一杯働きたいと思うだろう。

 
 しかし、支払ったほうが、心は軽いかも知れない。選挙戦での「ありがとう」という気持ちは、金額で精算されてしまっているように思える面もあるからだ。

 今の方法では、心は、ある意味、重い。報酬を支払わないで、本当の支持に支えられた運動は、候補者に、相当なプレッシャーを与える。

 
 体のほうは、「おつかれさま」と言われるのだけど、私自身は、選挙運動期間中も夜更かしをしていたのに、不思議と疲れなかった。しっかり食べていたせいかもしれない。「お弁当を買えばいい」と思っていたお昼は、実際には、すごく豪華なものとなった。
 
 
 お昼に選挙カーで戻ると、まるで和洋レストランにでもきたように、たくさんの種類のお料理が待っていたりして、本当においしかった。自宅で作ってお昼に持ってきていただいたお料理もあったようで、時には、お手製のゼリーフライや桜餅までいただいた。食事の良い事務所は、我が陣営の自慢の一つである。(食べることは、強く記憶に残るようです・・・)
 
 
 担当の方に聞くと、「せめて材料費だけは、いただいて」というのに、受け取られない場合もあったようで、本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。

 
 「静かな事務所」であっても、いつも笑顔がいっぱいで、心からの援助に支えられ、選挙戦をたたかえたことは、すごく幸せである。
 「静かな事務所」と言われた、0さんの、「(支持者は)すてきな方ばかりで・・・」と私に言った言葉も合わせて、紹介させていただく。

 
 
 エッセイ書きつつ、今日は、ひとり自宅で、パンとコーヒーとサラダのお昼を食べている。ああー、あの大勢?で食べたおいしいお昼が懐かしい。「静かな事務所」とともに思い出す。


   
 ※エッセイ、長い間、ご無沙汰しておりました。書けないほど、時間と心の余裕がなかったんでしょうね。






100             「納豆」騒ぎ            
 (07・1月28日・日・記)
 
 買い物に出かけた1月のある日のこと、最近、納豆を食べていないので、買おうと思った。ところが、納豆がない。
 「売り切れかしら・・・」黙って店を出た。

 別の店に行った。ないので、尋ねてみた。
「納豆はないんですか?」「売り切れました」
 
 夫は、関西出身で、納豆には、あまりなじみはなかったようだが、こちらに来てからは、好きになったようだ。
 「ないと、よけいに食べたくなる。じゃあ、違うところに行こう」と、夫が言うので、そのまま二人で、納豆を求めてスーパーに向かった。

  「納豆はないんですか?」「売り切れました」
 スーパーで納豆が売り切れること自体、私は奇妙だと思った。でも、きっと、別のところにはあるに違いない。
 
 それで、4軒目に着いた。ふだんは行かないスーパーだ。やっぱり見つからない。どうして、納豆は、どこもないのだろう?

 店員さんに尋ねた。
「あのう、納豆がどこにもないんですけど、こちらにもないんですか」
「あれ、テレビ見なかったんですか?」
 商品を棚に入れていた店員さんは、不思議そうな顔をして言った。

「ええ・・・」
 私は、いったいテレビで何があったのだろう・・・と思った。

 店員さんは続けた。
「メーカーから品物が入らないんですよ・・・。入っても少しなので、すぐに売れてしまいます」

 私は、夫に言った。「納豆がすごい人気らしいけど、何があったのかしら?」
夫も、「さあ・・・」だった。

 とうとう、納豆は買えなかった。この調子では、日本中探しても納豆を手に入れることは不可能なような気がして、5軒目を回ることは、あきらめて帰宅した。

 

 それから、数日して、「納豆のダイエット効果は、捏造」の新聞記事が出た。
それで、やっと、「納豆不足」に納得した。どんな食品だって、食べたらカロリーが増えて、やせられないと思うのだけど、納豆を食べてやせられる(?)ということのようだった。一日(一度に?)4パックを食べる人もいたとか・・・。

 

 それにしても、世は、ダイエットブームのようだ。ダイエットはどうしたらできるのか・・の答えは、割合と簡単だ。必要なカロリーをきちんととって、運動することなのだろう。
 
 ただやせればいいと言うのは、どうなのだろう。若い女性の摂食障害を助長するので、「やせすぎモデルは、採用しない」ということがヨーロッパの国であったが、賢明な判断だろう。拍手を送りたい。
 
 
 やせすぎの若い女性たちを見ると、ちゃんと食べてねと思ってしまう。やせたら美しいと思っているのが不思議でならない。(食べても太れない人は、これは体質なので気にする必要はないでしょう)
 中高年の肥満は、健康上の問題なので、食べ過ぎずに適量を食べて、運動したらよいのだろう。
 
 
 広告で宣伝されているようなダイエット食品のようなものなどを口にしてやせたり、食べないでやせるなんていうのは、どう考えても、健康によいとは思えない。

 
 よく食品をあげて、「○○・・・は健康に良い」と言うけれど、いったい、(アレルギー等の特殊の場合は除かれるが)食べて悪いものなんて基本的にあるのだろうか。何でも食べればいいのだと思う。偏った食事が一番いけないのだろう。

 

 それにしても、「嘘」はいけない。番組に関する、その後の報道を知ると、なんと、これまでにも根拠のないことをいろいろと報道していたとのこと、ただただ、あきれるばかりだ。
 
 そんなことが番組で報道されていたとは知らなかったのだが、みそ汁でやせるとか、レタスで眠くなるとか・・・全くの嘘であったということ。(それはそうでしょうと思いますけど)私自身、レタスを食べて眠くなったことなど、一度もない。

 
 
 「捏造事件報道」から数日たって、ご無沙汰していた納豆を食べることができた。共同購入の注文で、食べた丸麦納豆だった。
 (注文書の提出忘れで)電話注文したら、「国産品の納豆は品切れで、ありません」と言われ、「カナダ、アメリカ産」の納豆も、あまり好まなかったので、結局、丸麦納豆に変えた。

 どんなのかなと思ったが、普通の納豆と同じようだった。「おいしいよ」と夫が言った。
 納豆を食べたので、今年もねばり強く過ごしたいものです・・・。





99               懐かしき頃           07・ 1月8日・月・記)       

 「ねえ、これ見て」と夫が笑みを浮かべながら、2枚の写真を見せてくれた。それは、私も初めて見る写真だった。「○○くん(学生時代の友人)が、パソコンで送ってきてくれた」ということだ。学生らしき若者が7,8人写っていた。

 「えー、どれなの?」一瞬、私はわからなかった。といってもわかりましたが・・・。
今の夫とは、ずいぶん違う。前列でほほえみを浮かべているスマートな青年だ。

 「なんか、アイドルスターみたい・・・かわいい!」
夫に、「かわいい」なんて言葉を使うのは、初めてだ。
「俳優になればよかったんじゃない?髪の毛が薄くなったら、かつらにして」

 「変わっちゃったわねえ・・・」と言っても、夫は、にこにこしている。「○○(娘)に見せようかな」と言うので、「やめたほうがいいんじゃない?」と別に意味もなく、私が言った。
 でも、見せたらしい。

 


 夕方、夫が、「髪の毛切ってもらおうかな・・・」というので、「行ってきたら・・・」と言ったのだが、
「あなたに切ってもらうので、いい」と言う。
 それで、はさみを取り出して、私が夫の髪を切った。
 
 
 ほんとの素人で、全く心得もない私だが、「どうでもいい」と言うので、これまでに何回も、夫の髪を切っている。基礎的な技術がないので、うまくなるはずはなくて、いつも同じようだ。回数も少ないので、場合によっては、下手になっているかも知れない。

 
 夜、パソコンを打っているところへ、夫が、やってきた。また、あの写真を手にしている。
 髪を切ったあとなので、もみあげも短く、顔があか抜けて見えた。


 「ねえ、あなた、きれいにすれば、まあまあじゃない?これで髪の毛があったら、割合とハンサムかもね・・・」と私。

「じゃあ、かつらつけるか・・・、おもちゃの、ないかな」と夫。
 

 「でも、朝、かつら探しが大変じゃない?」
 帽子探しより、かつら探しのほうが、ことは深刻だ。
 夫は帽子をいくつも持っているのだけど、朝出かけるとき、いつも帽子を探している。帽子はどこか?・・・で、車の中と家の中を行ったり来たりする。

 
 同じように、かつらが見つからないことがあり、その日によって、かぶって行ったり、行かなかったりしたら、(どちらかが)別人みたいになって、どうするのだろうと思ったのだ。

「ねえ、ねえ、1週間、毎日違う色のかつらにして、かぶって行ったら、毎日楽しいかもね」と、私が言ったら、夫も、「そうしようか」と言う。誰も本気にはしていませんが。

 
 
 そこへ、娘がやってきた。あるテレビ番組に憤慨して、「テレビ局に電話をかける」と言いながらやってきた。
「今、お父さんの若い頃の写真を見てたの・・・」と私。
 娘は「自慢してるの?」と笑う。

 「明日、この写真、持って行って見せようかなあ・・・」と夫が楽しそうに言うので、「見せたら?」と私も賛成した。
 夫は、「アイドルだったら、もっと、もてても良かったのになあ・・・」と、つぶやきながら、写真とともに、立ち去って行った。
 
 
 明日あたり、職場に写真を持って行く人は、きっと成人式をあげた娘さんの写真なんだろうなあ・・・。
 
 私も「持参」に賛成したものの、いくら今の自分と違うからと言って、(年齢だけは成人式と同じくらいだが)若きころの男性の写真を見せる人なんているのかなあ、なんて思いましたけど。
 
 









98          世間て、こんなものですか?      (06・10月22日・日)    
 
 まだ寒さの厳しい季節の休日のこと。
「あなたの服、買いに行きましょうよ!」と、私は夫に声をかけた。

 私が前から言っているのに、「いいよ。着る服あるから」と、いつも同じ言葉を繰り返してきた夫。
 でも、ある機会があり、夫も渋々承知した。


 早速、紳士服のお店に行った。店員以外に人気もなく、し~んとしていた。スーツをあれこれ見ていると、
「何か、お探しですか!」
男性の店員さんが、ほほえみを浮かべながら声をかけてきた。

 そろそろ春ものが出ていた。着る時期を考えて、どうしようか・・・と考えた。三つボタンや二つボタン、どちらがいいか。色は、生地は?うーん難しい。
 

 紳士服って、つまらない。おんなじような色ばかりで。夫も私もけっこう明るい感じが好みだ。
 暗い色の中でも、比較的これが・・・と思うと、ちょうど合うサイズがない。
 気に入っていたスーツは、いわゆる薄い紺色よりのパープル系で、すがすがしい印象を与えていた。なんと、それは、虫にやられてところどころ穴があいてしまった。あんなスーツが見つかればいいなと思っていたのだ。


 「みんな、おんなじよ。どうしよう・・・仕方ないかもね」「しょうがないね」
そんな会話をしながら、夫が店員さんに言った。
「スーツは着ないので・・・。みんなこんな感じですか」


 夫の言い方は、「ふだんは・・・」という言葉が抜けていて、まるでスーツなど、買ったことも着たことも見たこともない人のようだった。

「そうですねー。こんな感じですね」と店員さんは、ややぶっきらぼうに言った。

 
 夫が「スーツは着ないので・・・」と言ったあたりから、なんだか流れる空気が違ってきた。店員は、急に、スーツを着た事がない人に着方を教えるようなちょっと偉そうな言い方になった。
 
 
 それは、夫がスーツなど着ない職種だと受け取り、相手を見下す雰囲気に感じられた。店員の頭の中では、スーツを着る事務系の仕事のほうが、肉体労働より、価値があるという考えなのかも知れない。


「前、淡いパープル系の色のスーツを持っていたんですけど、明るい色の服はないんですねえ・・・」と私が言うと、「男性のスーツにそういう色はありませんよ」などと断定までする。それは、「この肉体労働者の妻が、生意気な・・・」という感じにさえ受け取られた。

 
 言葉というものは、書き言葉だとわからない場合であっても、その話し方で、相手に対する思いが表されてくることがある。

 
 その店員は、まだ、服を決めかねている私たちに、「この服に合うネクタイは・・・、ネクタイは持っていますか」みたいなことも言った。

「あっ、いいです。ネクタイは家にありますから」と、私は、その店員の思考の流れを止めたい思いで言った。すると、「服に合っていないとダメですよ」みたいな言葉。
 おまけに、こちらが尋ねると、相手がお客であることを忘れたかのように反論?までしてくる。


「あっ、ちょっといいです・・・。いろいろ見てますからー」と言って、私たちは、店員さんに離れてもらった。
 私は、夫に、「なんか、いやあね・・・。おかしくない?あの店員・・・」と囁くように言った。
「うん」といって、夫も苦笑。
「(ふだん)スーツを着ないといったら、急に態度が変わったわよね」

 
 感じの悪い店員さんだが、夫がせっかく買う気持ちになったときに買っておかないと、またそのままになるので、買うことにした。「あと、千円出して2着買うと、1着が半額になります」と言われたけれど、「同じような服、2着はいらない」と夫が言うので、1着だけ買った。
 
 
 裾上げを頼み会計を済ませたとき、店員さんは、私たちが店に入ったときと同じほほえみを浮かべていた。し~んとした店を出た。

「ほんと、店員としては失格よね。研修受けているのかしら・・・」と言いながら、怒りより笑いのほうがこみ上げてきて、家に向かう車の中、二人で大笑いした。

 
 
 数年前、健康・福祉的なお祭り行事で、「健康チェック」の場所に立ち寄ったことがあった。そのとき、夫は、その場でハリ治療を試みた。夫にハリをさそうとするその男性が、目の前に差し出された夫の腕を見て言った。問いたいほどの腕だったのだろうか。


「肉体労働者ですか?」
 子どもの頃、健康優良児で、顔の大きさと胸囲は誰にも負けないと言っている夫だ。数多くの人にハリをさしてきた経験者からの言葉なのだろう。

「知的労働者です」
と、夫は真顔で即座に言った。(傍らで聞いていた私は、ひどくおかしかった)

 
 瞬間考えたように見えたが、相手もすぐさま続けた。
「お医者さんですか」・・・と。肉体労働者から、今度はお医者さんになってしまった。
「いえ・・・」それ以上は、夫も語らなかった。
 
 
 なんだか、世間というものは、わけがわからない。相手がどんな仕事だっていいのに・・・。このときも、その場を離れてから、二人で大笑いした。








97            消えたハネムーン写真         (10月4日・水)   
         

 「ねえ、あの写真(フィルム)、ほんとにどうなったのかしらねえ・・・」と、私は夫に言った。
「うーん、どうなったんだろう・・・」夫の返事はいつも、これでおしまいだ。

 
 写真とは新婚旅行の写真のことだ。京都や白浜を旅し、夫の実家や、夫が学生時代を過ごした神戸にも寄った。そのときに、何枚もの写真を撮ったはずだった。3月という、通常の仕事に加え、事務処理も多い時期に結婚し、ほんとにあわただしかった。
 

 行く先々で写真をとったのに、仕事再開と同時に、フィルムを出すこともそのままで、帰ると、新生活が始まった。

 
 最近になって、また写真のことを思い出した(写真のことは、一年に一回くらいの割合で思い出す)のは、新聞のエッセイに、結婚した頃、撮った写真のことを記したことが掲載されていたからだ。投稿されたその方は、夫と寄り添った写真、お姫様だっこをされた写真を懐かしんだことが書かれていた。
「お姫様だっこ」とはどんなだっこなのか、初めて知る言葉だった。インターネットで調べたが、載ってはいなかった。

 
 
 その記事を見た私は、確か、初めて夫と寄り添って写真を撮った、貴重なあの写真はどうなったのかなあ・・と思ったのだ。

 まだ、夫がどんな人なのか、別世界の人のようでもあり不安だった、あの頃。
「大丈夫、僕と結婚すれば、絶対に幸せになれるよ」と自分で太鼓判を押した夫。大丈夫かなあと思いながら結婚した私。

 
 これも最近のことだが、「ねえ、男の人も、外見じゃないわよね」の私の言葉に、「外見じゃないよ」の言葉が即座に、これも自信を持って返ってきた。

 
 「意外とみんな面食いなのよねえ・・・」と、私は写真うつりも良さそうな知り合いのだんなさまをを思い浮かべながら夫に言った。私は、見かけは全く問題にしていなかったけれど、けっこう、みんな外見のすてきな男性と結婚しているのだ。それを見るにつけ、「あっ、意外と面食いなんだ。だから、結婚したんだ」と、勝手に思う。

 先日友人に会ったとき、彼女が夫のことを「年とともに、容貌も変わってきちゃってさ・・・」と真顔で嘆くので、そんなふうに思うものかなあと思い、びっくりした。私の場合、変わりゆく容貌にびくともしないので。 

 

 男性も女性も間違いなく、人柄や生き方が問題で、見かけで選ぶと失敗の率も高い。これが、私の経験から出した答えだ。ごくごく平凡で、優等生の答えになったけれど。
 もちろん、すてきな人はすてきで、胸がどきどきするかも知れないけど、なぜか私はハンサムな人は、あんまり好きではない。ともに年輪を刻んだ、今の夫の顔を愛している。


 あまえたように寄り添った写真は1枚もないし、といって、「じゃあ、今から撮ったら」と言われると、考え込んでしまうのはなぜだろう。答えを出すのがちょっとつらい。



「ねえ、あの写真、どうしたのかしらねえ・・・」
「うーん、どうしたんだろう・・・」
・・・と、貴重な?写真をめぐって、再びいつもの会話で終わった。

 




96               謎?                (06・9月16日・日・記  )

 ある女性が、「昨日、夫とけんかしちゃった・・・」と言ったことがあった。
「えー、どうして?」
「うーん。夫が旅行なんだって。それで、下着(丸首シャツなどの肌着)を用意したら、夫が《もっといいの》ないかって・・・」
 それを聞いて、よその夫は妻に面倒をかけ大変だなと思いながら、ちょっとだけ、いいなあと思った。

 
 我が家の夫は、すべて、自分のことは自分でする。当たり前のことだと思うけれど、よその話を聞いていると、そうでもないようだ。

 
 夫が旅に出るとなると、下着から靴下まで、身支度を、妻が整えるという話も聞く。
 以前、スキーで一緒だった時、知人が 「昨日の晩は夜遅くまで、子どもと夫と自分の4人分の用意で、ほんと睡眠不足で疲れちゃった・・・」と言った話も記憶にある。

 そんな彼女たちの話を聞くと、あーあ、我が家は楽でいいなあ・・・と、当たり前のことに喜びを感じたりする。

 それなのに、「ちょっとだけいいなあ」と思ったわけは、「(下着の)もっといいの」という言葉だ。我が夫は、そんなことお構いなしなのだ。むしろ、家にある一番「悪い」下着を旅のバッグにつめてしまうので、困る。「もっといい下着を」と気にするくらいの人のほうが、妻は助かる?と思うのだ。

 
 
 夫の旅の準備の様子をたまたま目にしたときは、「ねえ、それ、汚くない?もっときれいなのを持っていってよ」
「下着なんか誰も見ないよ」と夫は気にしない。
「お風呂に入るとき、見えるでしょ」
「見ない、見ない」
「あーあ・・・」
と、私はため息をつく。そして、「もっといいの」ないかと夫の肌着(シャツ)を探す。真っ白でなくてもいいけど、それに近いもの・・・・けれど、なかなか見つからない。


「ねえ、どうしてあなたの下着、すぐに汚い色になっちゃうの?」
「わかんない」
「不思議よ。ねえ、どうして?」
たまらなく不思議だったので、私は、繰り返した。


「体から、毒が出てるのかもね・・・」と夫は言った。
「まさか」と私は思った。でも、夫の言うように「毒?」の出るような特異な体質なのかなとも思った。新しいものを買っても、次から次へと黄ばんできてしまうのだから。

 いつの頃からか、夫が宿泊で出かけるときには、「下着、きれいなのを入れた?」と、私も尋ねるようになった。そして、その前に、買うようにもなった。しかし、出かけた後に、買ったシャツが部屋に残されたままになっていたりもする。

 
 あるとき、謎は少し解けた。夫はお風呂にはいるとき、着ていたシャツを脱ぐと、シャツをまるでタオルのようにして、汗をかいた上半身を何度も力強く、こすっていたのだった。それから、シャツを洗濯機に放りこんでいた。
 シャツの黄ばみは、体の毒なのか、繰り返し汗の体をぬぐうせいなのか、本当のところはわからない。依然として、我が家の謎でもある。

 
 同じ男性でも、その違いは大きいことに気づかされる。
気にしないのも困るけど、準備はすべて自分でするのだし、旅の前のシャツのことだけを私が気にすればいいので、やっぱりそのほうが、楽か・・・。楽なことは、「幸せ」にも通じることなのだ・・・という結論に達した。
 






95         女性専用車両に乗った          (8月20日・日・記)
 
 お台場の「東京ファッシンタウンビル」で行われる研修に向かう途中のこと
 それは、偶然だった。気がついたら、女性専用車両だったのだ。車内はとてもすいていて、らくらくと座れた。ああ、これが女性専用車両というものかと改めて思った。

 
 「女性専用車両」については、テレビのインタビューなどで、「ああ、そうですね。痴漢に遭わないでいいです」という女性の声が紹介されたりする。男性は「間違えられなくて、いいですねえ」や、「ほかの車両が混んでしまうので困る。特別扱いしなくてもいいのでは」など・・・。

 
 あくまでもテレビの紹介なので、ほかにも紹介されない意見があるとは思う。
満員列車の中の痴漢は、私も何度か経験がある。
 また、満員列車では、他人の腕が体に触れているだけの場合でも、列車の揺れと同時にその腕が動いたりするとき、痴漢かなと疑うこともあった。

 
 
 都会が嫌いな夫は東京方面に出かけると、途方もなく疲れるらしい。まず、人を見るのがいやだし、女性を見るのも疲れるという。
 
 列車に乗って、出かける夫に私は言ったことがあった。
 「あなた、痴漢と間違われないでよ。気をつけてね」

 「大丈夫」と夫は、胸を張って言った。


 「僕、いつも手はバンザイしてるから。絶対に手を下に下げないから。いったん痴漢と思われたら、最後だよ。いくら、痴漢をしてないと言っても信じてもらえないからね」

 なるほど・・・と私は思った。

 
 痴漢行為をしていなくても、証明はきわめて難しい。それに、疑われただけで、社会から抹殺されかねない。裁判を起こして、運良く、その結果、犯罪を犯してないということになっても、最初のことが印象づけられ、あとの結果は、すでに人々の関心をひかない。疑われたことが、場合によっては、犯罪者に等しくなってしまう。

 
 「疑われた」段階で、職場を追われかねない。家族も、世間から冷たい視線を浴びせられることだろう。もちろん痴漢行為は許せないが、犯罪を犯していない人が犯罪者になる場合もあり、怖い。

 「女性専用車両」は、被害を受ける女性にとっても、加害者とされる男性にとっても疑われたり犯罪を未然に防いだりという面では、好都合かもしれない。

 
 ただ、やっぱり 心のどこかで違和感を感じるというのも正直な気持ちだ。混み合わなければ、犯罪も起こりにくい。満員列車にならない解決策は難しいのだろうか。
 





愛のシリーズ その2
94     愛は伝わりにくい?   「愛してるよ」のシャワーを  (8月13日・日)
 
 愛していても伝わらない。これはよくあることである。相手側に聞かないと伝わっていないことさえわからない。

 愛が伝わりやすかった時代


 ハンセン病患者のこだま雄二さんの講演を聴いたことがあった。そのとき、こだまさんの「皆さんにお子さんがいたら、心から愛してやってください」という言葉が私の心に深くしみた。

 子どもを愛するということは、ごくごく当たり前のことだろう。しかし、世の中には、事件にも見られるように、子どもへの育児放棄や虐待なども起こっている。

 こだまさんは、国の隔離政策で、長い間、社会と断絶させられて生きてきた。患者の人権を求めて、長い間、根気強く仲間とともに、闘ってきた。

 
 質問者に答えた際に、、こだまさんは、「皆さんにお子さんがいたら、そのお子さんを心から愛してやってください」と述べた。患者として特殊な環境の中で言葉に言い表せない苦しい生活を強いられて生きてきたこだまさんには、子どもはいない。そのこだまさんの言葉であっただけに、私の心にしみた。

 
 こだまさんが、ハンセン病患者の権利を求めて国と闘ってこられたのは、「お父さんやお母さんの愛情があったからだ」と講演の中で話された。

 幼い頃、すでに親と離された生活であったと思うが、その短い期間過ごした親の愛。「愛」はすごい力を持つものなんだなと改めて思った。そして、こだまさんをずっと支え続けられるような愛を与えることができた親は、なんてすてき親だったのだろうと思った。

         
              
 
 愛が伝わりにくい今 (子どもへの愛があっても・・・の場合)
 
 我が人生を振り返るとき、親の愛は当たり前で、信じて疑うことはなかった。特別に我が子への愛を表現する言葉はなくても。
 

 今、この複雑で不安定な、競争社会の中で、子どもたちは親の愛を感じて生きているのだろうか。親子を巡るあまりに多い悲惨な事件が、世の中に提起していることは何なのだろう。
 

 さまざまな外的要因はあるが、親子の関係に絞って、考えてみた。親は愛情をそそいで育ててきても、受ける側は、案外受け取っていないのではないか。最近になって、友人や知人と再び?子育てについて語り合うことがある。
 

 そして、私自身が出した結論は、子育てには「教える」ことがありすぎて、求めすぎて、つい、そのことばかりを言ってしまいがちで、その結果、愛は伝わりにくいのではないか、ということだ。だから、親は、口で「愛してるよ」の言葉を、常に?囁かないと、「愛」は伝わりにくいのではないか、ということだ。

 
 私たちの世代が育った頃は、まだ、ゆったりとした空気が地域にも流れていて、人のぬくもりが感じられた。ことさら「愛」を表す言葉はなくても、子どもたちの心もやさしさに包まれている部分があったのかもしれない。

 
 今の時代では、意識的に、特に注意したり叱ったりしたあとは、抱きしめて必ず「愛してるよ(大好きよ)」の言葉を添えることにより、愛が伝わりやすくなるのではないだろうか。(・・・と考えた)

 
 
 先日、私は夫に、「うちは○○をよくほめて育てたわよねえ・・・」という話をしていた。わずかなことでも、何かできたときなど、必ずほめていたと思うのだ。夫は、「でも本人は、ほめられたと思ってないんじゃないの」と言った。そうかもしれないと思った。

 
 娘には悪いけど、その瞬間瞬間で、あとになるとほめられたことも記憶にないのでは?と思った。親は、どこの親も、子育てでは、あんなこともした、こんなこともした・・・と思うのに、「愛」は、案外伝わっていない(記憶されない)のかもしれない。


 
 「愛してるよ」を(ちょっと大げさな表現ですが)シャワーのように浴びせれば、愛された記憶も残るかもしれない。言葉だけではない、と猛反発くらいそうですが、言葉はやはり重要だと思うのだ。

 
 たとえ、おとなになった子どもにでも、子育ては、子どもが生きてさえいれば、いつでもやり直しができるのだ。(・・・と思いたい)たとえ、子どもが親を愛していなくても(?)、親は、「愛してるよ」(大好きよ)の言葉を、メッセージをおくってやりたいものだ。

 
 愛が伝わりにくいのは、夫や妻の場合も同じだ。(相手の一挙手一投足を見つめている恋人のほうが、遙かに伝わりやすいと思う)
 愛されていても、「愛してるよ」を言われなければ、愛されていないと感じる人が多いかもしれない。
 
 
 
 私は、自分が言われたいために(?でもないですけど)、夫に「愛してるわよ」とけっこう言う。でも、娘に対しては、愛して育てても、夫に対するよりも、その言葉は遙かに少なかった。子育ては親も子どもも夢中だ。まさに相手との格闘で、余裕がなかった。
 
 子どもも、欠点だらけの私のつたない子育てにつきあわされて大変だったことだろう。ほんと、反省である。お疲れさま。


 でも、「愛してるよ」は、家族や(将来的な範囲含めて)恋人などに、とどめておきたいものだ。外で異性に「愛してるよ」をシャワーのように浴びせ、愛を伝え歩く人は、ちょっと困りものです






 愛のシリーズ
93     愛するこころ  (その1・心の自由 )    (06・7月16日)  

 「あなたは、○○を愛するように」と言われて困惑しな人はいないのではないだろうか。

 仮に、妻は夫を愛さなければいけないと言われたら、愛せない夫と「愛しなさい」という、「指示」や「強制」の間で真面目で古風な人の中には、苦しむ人もいるかも知れない。(まあ、今の時代、そんな人もいないと思いますが・・・いませんね)


 愛するも、愛さないのも、心の中は、全く個人の自由であり、人から言われることではないだろう。もともと、「愛」なんていうものは、自然に育まれていく性質のものだ。「指示」や「強制」によって生まれるものではない。
 
 
 対象が人であるなら、誰もが、「勝手でしょ」と思うが、「国」となると、「それも教育か・・・」などと言う人も現れる。人によっては、「昔はお国のために死んだんだ。人も国も同じだ。愛する人のためなら死ねるだろう」という無茶な苦茶な話にもなりかねない。

 
 人の心の中は、自由なので、表現したことと心の中で考えていることが異なっても、誰にもわからない。人は表に出たことを信じるしかないのだ。また、表現されたことを信じるか信じないのか、これもまた、人の自由だ。

 
 人間の心に対して、政治や教育はもちろん、誰も、指示を与えたり強制したりすることはできない。人は、誰にも左右されない、こころの自由を持っている。

 私は夫に、「愛してるわ。私はあなたと結婚して世界一幸せよ」と、よく(?)言う。
 夫は「ウソでも一生つければ、本物だよ」と言う。ウソか本当かは、私の心だけが知っている。(何かすごいこと、書いちゃっていますが・・・)



 「あの人が心から憎い。殺してやりたい」(私自身は、そんなことを思ったことはありませんが・・・)と思っても、実行しなければ殺人犯にはならない。
 心の中は、とても広くて、何を思おうと、誰にも侵されない自由の海であり、人はその海を自由自在に泳ぎながら生きる。





92             不思議な時間        (4月29日・土)   

 つい先日の数日間、私は、車を運転しながら、歌をくちずさんでいた。繰り返し、繰り返し歌っていたのは、「何も怖くなかった・・・ 何も怖くなかった・・・ ただ、あなたのやさしさが怖かった・・・」(神田川・かぐや姫)だった。
 
 きちんと覚えて歌おうという気持ちが薄いので、歌ってと言われると、正確には歌えないと思う。そんな私だが、思わずくちずさんでしまう歌なのだ。
「ただ、やさしさが怖い」とは、なんて意味が深くてすてきな表現なのだろうと思う。

 
 遙か昔に流行った歌だ。 歌を思い出して、自分の青春のころを思い出すというのは、本当だ。その時代に流行っていた歌というのは、そのころの自分の姿(生活)と重なって思い出される。(「神田川」が作られた頃、私は、教員になって電車通勤をしていた)
 
 
 夫に、「あなたも、自分の持ち歌があったほうがいいよね」と言われたことがあった。議員になって最初の頃、宴会の席で、「デュエットをしよう」と言われ、断るのに困ったこともあった。
 その話をしたら、夫がそう言ったのだ。でも、今は、しつこく誘うのは、セクハラになるとされ、私にとっては、その点では、とても楽な時代になった。そんなわけで、「神田川」は、私の「持ち歌」にもならず、ひと前で歌ったこともない。

 
 車の中の時間は、けっこう自分の人生を考えたりする時間になっている。くちずさみながら、私の人生、これでいいのかなあ・・・と思ったり、まあまあの人生かと思ったり、いろいろである。今年は、鉢植えの花も足りなくて、草花に気持ちが入らないのはなぜかなあ・・・・と考えたりもする。(ほんとに、せっせと花を植えていた去年とは、何という違いなのだ)

 
 いつだったか、「私、あなたの愛だけが恐いのよねえ」と言ってみた。夫は、「あっ、そう・・・」と言った。運転しながら、そんなことも思い出していた。







91        みやはらさんのその後           (3月18日・土)
 
 少し前の娘からの手紙の端に、こんな言葉(お知らせ)が記されていた。
「みやはらさんは、老人ホームです(HP)」とあった。
 私は、その言葉を見て笑ってしまった。
 
 
 みやはらさんは、もしかして、海外の老人ホームに入ったのだろうか。海外にでも出かけて行きそうなくらい心も体も元気なみやはらさんだったから、それもあり得る。それとも、日本の老人ホームで元気にしていて、日本から娘に手紙でも書いたのだろうか?
 考えていたら、またまた、おかしくなってしまった。

 確か、みやはらさんは、今では、100才を超えていると推測される。日本では、介護保険制度の見直しもあり、高齢者にはますます厳しい状況も待っていそうだ。

 年をとっても、食べて行くことができ、病気になったら、医療行為が受けられる生活。文化的とまでは欲張らない、そんな生活ができたら・・・と思う人は、この日本にあふれているのではないだろうか。

  力を合わせて生きることさえ、今ではみんな忘れてしまった 
そして、富める者は、ますます富を追い・・・なのでしょうか?

 
 それにしても、もしかしたら、あのちゃっかり者のみやはらさんだから、日本の中で、あるいは世界の中で、一番福祉が進んで、住みやすいところを求めて暮らしているのかも知れない・・・です。「わしはのう、まだまだ元気じゃ!という声が聞こえてきそうだ。年をとっても幸せでいて欲しいみやはらさんです。


※「みやはらさん」は、ニューヨークの老人ホームで暮らしていると、娘から連絡があった。とても元気で暮らしているそうだ。





90            みやはらさん              (2月11日・土)

 昔、「みやはらさん」という90才になる不思議なおばあさんがいた。その人は、前ぶれもなく突然、我が家にやってきたものだ。

 
 先日、娘と一緒に東京に出かけた高崎線での帰り、「宮原駅」を列車が通過したときのこと。「ねえ、みやはらさんて、覚えてる?」と娘に尋ねてみた。「覚えてる」と娘は答えた。

 もちろん、みやはらさんは、宮原という駅の名前とは無関係で、私が同じ名前の、「みやはらさん」を思い出しただけだ。

 みやはらさんは、いつも我が家にやってくると、突然、布団の中にやってきた。「その人、どんな人?」と不思議がられると思うが、本当なのである。
 その小さな人は、「あのう、宮原じゃがのう・・・・」とやってくる。
 私も、みやはらさんの出現には、慣れている。

 
 「あら、みやはらさんですかあ。今ね、ちょうど、うちの娘の○○がいたんですけど、いなくなっちゃって」
「わしも、見なかったじゃがのう・・・・」
「いつも、みやはらさんが見える時には、娘がいなくて・・・」
「そうじゃのう・・・」

 「みやはらさん、今日はどうしたんですかぁ・・・」
「あのなあ・・・、うちのだんながなあ、飲んだくれでなあ・・・」
みやはらさんのだんなさんは、飲んだくれなのだ。それで、時々、みやはらさんは、困っているらしい。


「それでな、今日はな、追い出してやったんだ」
みやはらさんは、90才にしては、(だんなさんを追い出すほどの)強気で生きているらしい。
 よく「わしはなあ、90才じゃ、年をとってしまってなあ・・・」と言うので、年をとったことを嘆いているのかなと思うと、そうでもないらしく、むしろ自慢にしているとも受け取れる。

 「お体は・・・大丈夫ですか」と私が尋ねると、みやはらさんは、「元気じゃ、元気じゃ・・・」と言ったものだ。


 夜になると、ときおり、娘は90才のみやはらさんを演じた。みやはらさんは、「今日は、どこどこへ行ってきてのう・・・」など、いろいろとお話をしてくれて、私は娘と一緒に、この遊びを楽しんでいた。
 なぜ、「みやはらさん」の名前がみやはらで、年齢が90才で、みやはらさんの夫が飲んだくれなのかは、私にはわからない。

 
 
 列車の中で、娘が「覚えてる」と言い、私が「ふっ」と笑って、話はそれきりになった。みやはらさんが我が家を訪れることは、もうないだろう。みやはらさんが家にやってきていたのは、娘が小学校の低学年の頃までだったかも知れない。私の記憶もさだかではない。
 
 みやはらさんのだんなさんは、「飲んだくれ」で、みやはらさんは困っていたようだけど、(将来の相手が飲んだくれで)「ほんとの みやはらさん」にならないように・・・。




89         ドキドキ・・・した?             (1月27日・金)

 冬休みに帰ってきた娘にきかれた。
「お母さん、お父さんと結婚するとき、どきどきしなかったでしょ?」
私は即答ができなかった。そして、少しの間、考えた。「うーん・・・」
 ちょっと、不安だったかも・・・。

「結婚式の友達のスピーチが、ねえ・・・」

 新郎をほめたたえるどころか、ひどい話ばかりだった。「裸(もちろん上半身だと思います)で、神戸から北海道までバイクを乗り回して・・・」とか、あと、何かあったかなあ・・・。学生時代の友達数人は、何を考えて結婚式にやってきたのかしら??
 
 次から次へと続く話に、会場は大爆笑の渦で、出席者の中には、後日、「いやあ、あの結婚式は楽しかった・・・」と言って、喜んでいる人もいましたが。

 私がちょっと考えている間、娘は、さらに続けた。
 「ねえ、お母さんは、お父さんと、どうして結婚したの?」
 夫にしてみれば、何と失礼?な話のことか。それとも単なる疑問?

 「心の美しさ、かな」と、私は言い切った。
そう言ったとたん、娘は、「いいから、いいから・・・・」と言って、話を打ち切った。(なあんだ・・・いいこと言おうとすると、聞きたくないんだ・・・)

 
 それから、数日後、私は、夫に言った。

「このまえ、○○にねえ、『お父さんと結婚するとき、どきどきしなかったでしょ?』と言われちゃった・・・」

 夫は、全く動揺もせず、「『そうよ。どきどきしなかった』って言ってやればいいじゃない」と言った。

 夫は、さらにに続けた。
「でもね。結婚してからの方が結婚する前より好きになったって、言えばいいじゃない」ということだ。

 夫は結婚してから、「あなたは、僕に期限をきられたから決心がついて、僕と結婚したんだから、よかったと思わなくちゃ・・・」と言った。

 なるほど、確かに、猪突猛進型で同じ言葉を繰り返す夫に、私が、「ちょっと待って・・・」と言ったら、「3月31日までだったら、待つ」と言われた。(職種がばれそうな期限の設定だ)
 
 
 私は、「普通なら、『愛しているから、いつまでも、僕は待っているよ』って言うんじゃないの?」と夫に言った。すると、「僕は、28才で結婚するって決めてたからね」という言葉が返ってきた。そんなに計画生のある?人だったのかと、思った。

 
 ドキドキしたか、しなかったか・・・なんてことはどうでもいいのか、重要なことなのかはわからない。世の中には「ドキドキ」を繰り返し、それが幸せと思う人もいる。一緒にいることで、ほっとできたり楽しかったりで、それが幸せと感じる人もいる。 
 
 ただ、長く一緒にいられるためには、お互いに相手を尊敬できることが一番なのだろうなと思う。

 
 どきどきしたか、しなかったか?ときかれると、ドキドキしたのかも知れないし、それほどではなかったのかも知れない。
 「愛ってなんだろう?」って、久しぶりに考えてしまった。




88  時期はずれのエッセイ 最後のサンタさん   (06年1月9日・月)   

 おとなになってからは、クリスマスを意識したことはないが、幼い頃は、プレゼントが楽しみだった。クリスチャンではないが、子どもたちに(ささやかな)贈り物を与える楽しみのための「クリスマス」を、我が家でもしていた。

  我が家では、母が昼間、ミシンで、三人の子どもたちのために長靴の形をした透明な袋を三つ縫っていた。
 朝、目を開けると、枕元にお菓子がつまった袋を見つけて喜んだことを記憶している。母が昼間縫った袋に、夜サンタクロースがやってきてお菓子を詰めていったと思っていたのだろう。

 途中に目を覚ますことがあって、寝たままの姿勢で腕を伸ばし、「あっ、まだない」と思ったこともあった。そんなことが何歳まで続いたのかは、覚えていない。
 
 
 娘は、幼い頃、「お母さん、うちは煙突がないのに、サンタさんは、どこから入ってくるの?」と私に尋ねた。「さあ、どこから来るのかしらねえ・・・」とあいまいに答えていたのだろう。

 
 仕事の後、保育園に迎えに行き、プレゼントを買う暇もなかった。眠りについた娘を夫に頼み、夜中に車で、お菓子の詰まった赤い長靴を求めて、店に走ったこともあった。
 
 
 保育園の年長の頃になると、娘が、「サンタさん、サンタさん、あたしに○○をくださーい。おねがいしまーす」と、夜、小さな手を合わせて言っているのを聞いて、私が贈り物を買っていた。
 たいていは、ささやかなもので、オルゴールが欲しいということもあった。娘は、「サンタさん、私の欲しいもの、よくわかるんだね」と言って喜んでいた。

 
 サンタさんからの贈り物の最後は、山野に咲く花などの図鑑だった。小学校の2年生の頃だったと思う。娘が欲しいという図鑑を見つけることは、大変だった。
 それに、ふだんなら、娘を連れて買い物ができるのに、そういうわけにもいかない。
 私は、「サンタさんも、らくじゃない」と呟きながら、限られた時間の中で、あちこち本屋さんを巡った。

 「見つからなかったら、どうしよう・・・」とあせったりもした。「サンタさんに、それが見つからなかったら、次に何を持ってきて欲しい?」と二番目に欲しい物を娘に聞いておくんだったと後悔もした。やっと、これなら、娘も気に入るかも知れないと思って選んだものは、かなり厚い本だった。
 
 
 希望を叶えてくれた、サンタさんのプレゼントの定価を見た娘は、「サンタさん、よくこんなに高くて重い物持って来られたよねえ・・・」と、しきりにサンタさんをほめ称えた。
 
 私は、知らん顔をして、「ほんとねえ・・・」などと言っていた。
 花の名前が何でもわかる図鑑と言われると、それまでの贈り物に比べたら、高価にならざるを得なかったのだ。
 しかし、よその家からしたら、高価な物ではなかったかも知れない。


 「お母さん、サンタクロースって、ほんとはいないの?!」
ある日、学校から帰った娘は真剣な目で、私を問いつめた。「じゃあ、誰が、プレゼントをしていたの?お父さんなの?お母さんなの?」


 もう娘の顔は半泣きだった。真実を知ったときの衝撃は相当なものだったようだ。
ついには泣きじゃくる娘を、私は抱きしめていた。それからの「クリスマス」は、しばらくの間、全くのプレゼント目当ての日となった。そして、やがて、クリスマスプレゼントもなくなった。
  




87        
 バラが咲いた         (12月7日・水)

 「あなた!バラがきれいに咲いてるよ!」
 日曜日の朝、夫が私に言った。
「そうお?」と言いながら、カーテンを開いて庭を見ると、ほんとだ、きれいに咲いている。

 淡いやさしいピンクのバラのはずが、濃いピンクの花を咲かせていた。夫は、花びらが美しく重なっているので、「きれいに咲いている」と言ったのだろう。庭の隅で、2輪のばらが美しく咲いていた。

 ここしばらく、私は庭を見なかった。庭を眺める余裕も失っていた。

 冬の庭に、ピンクのバラが二つ。しばらくの間、私は、見入っていた。そして、あの歌を思い出した。「ばらがさいた  ばらが さいた・・・真っ赤なばらが・・・」のあの歌である。

    
            ☆            ☆             ☆

 「さびしかった僕の庭に バラが 咲いた」
 この殺伐とした世の中、先の見えない不安な社会の中で生きているという実感がある。
 日本の国は、どうなっていくのか。若者の非正規雇用が増えている。それだけでも世の中暗い。若者が未来に希望が持てない。若者に未来がないようなら、世の中良くならない。

 仕事もなく、金持ちと貧しい層の二極化が進む。社会が不安定になればなるほど、犯罪も増えるだろう。犯罪が増えれば、それに対応して、規制や取り締まりも増えるだろう。

 スウェーデンを訪れ、ある施設で食事をとったとき、「高齢者も、(食費を)ちゃんと同じだけ払います」ということを聞いた。なぜなら、高齢者は、職を退いてからも、現役時代と同じ程度の生活ができるような仕組みができているからだと言う。
 
 
 日本では、「高齢者は金持ちだ」ということがマスコミでも流されたりする。統計をみたたとき、決してそんなことはなかった。平均値で高齢者の生活をはかることくらい危険なことはない。お金持ちは途方もなくお金持ちだからである。例えば、10億持っている人と0円の人が3人いれば、4人の平均値は、2億5千万円になる。
 高齢者に限らず、過日も、「国民の貯蓄なし」が多いことが報道されていた。

        
            ☆            ☆             ☆

 娘が肺炎になった。「お母さん、お金があれば、アメリカはいい国みたいよ」と娘は言った。
「(私につかった薬)、すごくいい薬だって」と言った。親から離れている娘に対し、大学の医者の指示に従うように助言することが親にできるすべてだった。
 先日、娘から「肺がすっかりきれいになった」というメールがあった。

 
 アメリカには、日本のように保険証一つで医療機関にかかれる国民皆保険のような制度はないようだ。
 
 数年前、日本に住むアメリカ人から「日本はいい。アメリカには、保険がない」と言うのをきいた。最近、インターネットでも調べてみたが、一般の国民は、主に営利・非営利保険者の医療保障プランに加入するとあった。とにかくいろいろ調べてみたが、アメリカの保険制度は複雑でもあるようだ。

 
 また、ラジオの英語番組のなかでも、「アメリカ人は、医療費が高いから、かぜくらいでは医者にかからない。ビタミン
(オレンジジュース)を飲んで寝ている」というエピソードが紹介されていた。

 
 幸い、娘は、大学の留学生保険に入っていて、それをつかって治療を受けた。アメリカの病院に対して何の知識もない娘が、学んでいる大学で医療行為が受けられたということは、何と幸運なことであっただろう。アメリカの「豊かさ」の一つなのかも知れない。


 
 日本の介護保険制度について言えば、「社会的介護」という考え方からは、前進であると思う。とりわけ、「お金のある人には、ほんとに良い制度ね」と言われる。

 お金さえ出せば、介護の、肉体的精神的負担が軽くなる。しかし、多くの国民にとっては、利用料の1割負担が大変だ。介護認定で、受けられる範囲の4割程度の利用率である現実が、それを物語っているだろう。

 
 日本も「お金があれば、いい国」ではなく、お金がな
くても、贅沢はできなくても老後は安心で、病気になったら、医療が受けられる国。そんな国になることを願ってやまない。

 
 娘の病気が治り、そして、私の日常の中では、最大の行事の一つといえる議会の一般質問がおわって、やっぱりほっとした。

 庭に美しく咲いた濃いピンクのバラは、嘆くことの多い毎日の中で、私の心を少しだけ明るくさせてくれた。





86          「水」の話                 (10月30日・日)  

  ふだんは、あんまり水を飲みたいと思わない私だが、もともと声帯が強いほうではないためか議会では、長く話し続けていると、声がかすれてきてしまうことがある。かぜをひくと、必ず喉にきてしまい声がでなくなるので、やはり、強くはないのだろう。

 
 最初のうち、議場中央の質問席で、水を飲むのにはためらいがあった。だから、少しくらい声がかすれても、そのまましゃべっていた。最近は、かすれる前に予防的に、飲んでしまうこともある。

 

 忘れられない光景がある。私の質問中に、傍聴席のちょうど真ん中あたりに腰掛けていた男性が、軽く体をのけぞらせ、「あああーっ!」と声を発したのだ。
 私が質問席の台の傍らに置かれた水の入った器を、口に運んだ瞬間のことだった。それは、大きな声というのではなかった。もしかしたら、「あああーっ」という口の形と驚いたような様子から、思わず漏れてしまった程度の声だったにもかかわらす、私が聞き取ってしまったのかも知れない。

 
 サスペンス劇で、誰jかが毒入りの液体を、それとは知らずに口に運ぶのを見たとき、「飲んじゃだめ!」「ああー、飲んじゃった!」というような場面に当たるのかも知れない。

 質問を続けながら、私は、一体何が起こったのかと思った。あの男性の驚きよう(?)は、何なのか?
 
 
 疑問がちらっと頭をかすめたものの、執行部の1回目の答弁をもとに、再質問の最中だった。頭の中で思考を巡らせ、必死だった。
 
 議場は、真剣勝負の世界なので、質問に集中するのみで誰が驚こうが、例えば質問中に自分が倒れてしまうなどの異変を感じない限り、他のことは問題にはならない。
 議員の間でも、ざわざわと笑い声などが起こっていた。

 
 私は、台の上に置かれたガラスの瓶の水で、早く喉を潤そうという気持ちが先立って、ペットボトルのように瓶をもち、そのまま飲んでしまったことに気づいた。ふたをとり、ふたの部分をコップがわりにして飲むのが、一般的な普通の飲み方だ。
 
 普通の飲み方をしなかったことよりも、いかに再質問を組み立てるかのほうが遙かに重要だったので、そのときの私には、大した問題ではなかった。議会の会議録に、「ガラスの器の水を、ふたに移さずに、そのまま飲んだ」というようことは記されないのだし・・・。

 
 
 まだ、質問を続けているとき、私はもう一度、水を飲んだ。このときは、喉は全く渇いていなかった。声もかすれていなかった。議場の中の視線を感じながら、ふたをコップ代わりにして、ゆっくりと水を口に運んだ。今度は正しい?方法で。ヘンな飲み方をしたので、訂正?をしておきたかったから。
 普通以上に落ち着いてゆったりと飲んだから、「これで、プラスマイナス、ゼロね」と私は思った。

 
 休憩時間、廊下を通りながら、傍聴に来られていた市民の方と、少しその話になった。
「質問の中身に集中していたから、すぐには何で笑っているのか分からなかったの!」と自分で言って、笑いながらも、私は、すごく恥ずかしかった。
 コップと比べたら何倍も重い花瓶のような入れ物を持ち上げて飲んだことを想像すると、何という飲み方をしたのかと、ほっぺがかっかとしてきた。


 知り合いの方には、「今、ペットボトルで、飲むじゃない。だからだと思った」 と、慰め(?)のようなことも言われた。

 
 家に帰って、私は、「今日、あたし、水の飲み方、失敗しちゃった・・・!ねえ、どうしよう、どうしよう・・・花瓶みたいな瓶持って飲んじゃたのよう・・・!」と言った。

 
 夫は、全然関係ないような顔で、「ふーん。大丈夫だよ」と言っただけだった。そんなとき、思い出すことがある。娘がお腹にいたとき、「重い物を持ってはいけない」と周りの人たちに言われていた。
 あるとき、仕事柄いろいろあり、私はついそのことを忘れ、何か重い物を持ってしまった。

 
 家に帰ってほっとしたとき、私は、そのことが心配になった。「お腹の子、大丈夫かなあ」と思ったので、帰宅後、私は夫に、「今日、重い物、持っちゃった。大丈夫かなあ・・・」と言った。

 
 夫は、「冷蔵庫を持たなければ大丈夫だよ」とまじめな顔で言った。重い物を持っちゃいけないって、冷蔵庫のような物を指すの?あまりに途方もなく重い物を例に出され、すっかり納得してしまったことがあった。でも、そのことを思い出すと、私は、今でもおかしくて笑ってしまう。

  
 そんなわけで、この「水の話」も、人には笑われたかも知れないけど、「バケツの水をバケツごと飲んだわけでなし・・・」とあり得ない例を自分で思い描いて、大したことではないと納得した。





85 私のちょっと見たニューヨーク  その①  まちゆく女性 

       なに着てても平気?           (05・8月27日・土)

 旅行者含め、ニューヨークのまちを歩く人は、軽装だ。ビジネスマンなどは、やはりきちんとした服装を心がけるのだというが、夏休みをとる人も多いせいか、まちのなかでは、気楽に暑さをしのいでいるような恰好に多く出会った。

 
 女性はタンクトップやキャミソール1枚だけの姿が、とても多く目立つ。足元は、素足にサンダルか、ぞうりのような物をはく人ばかりを多く見かけた。踵の高い靴、というより踵のあるような靴をはく女性は、ほとんど見かけなかった。

 
 日本の夏とは違い、湿気が少ないように思う。からっとしているので、日本にいるときほど、暑さをほど感じない。誰だったか、日本の夏には、参ってしまうと言った外国人がいたが、やはり、そうなのだろう。イラクは、40度、50度にもなるそうなので、どんな暑さなのか、とふと思いはしたけれど。

 
 娘が、日本にやってきて、キャミソール姿で出かけようとしたきには、やはり気になった。「何か、上に着ていくんでしょ?」と言ってしまう。タンクトップはともかく、日本では、背中のあいた下着のような(?)キャミソール1枚で電車に乗ったり、出歩く女性は、それほどは見かけない。
 
 
 ニューヨークで、「お母さん、何も言わないの?」とキャミソール姿の娘は言った。
「ここは、ニュークヨークだから、何着てもいいんじゃないの」と、私は答えた。よその国だからと言う理屈も、変なのだが、ただ、何か言うのも、面倒くさかっただけだ。

 
 前に娘が、「ニューヨークは、(裸とか?)たとえ極端に変な恰好した人がいても、頭が変だと思われるくらいで、何着てても、平気なまち(笑)」と言っていた言葉を思い出していた。(と言って、彼女自身が変わった恰好をしているというわけではないのですが)

 
 日本と比較すると、女性の肌の露出度が高いのも、女性であることを強調する一種の文化のようなものかも知れない。昔から外国映画などで、胸を必要以上に大きく開けたドレス姿の女性を見たりもするが、そうなのかも知れない。
 古くは、腰を極端に締め付け、その細さを強調する服など、簡単に言うと、女性は鑑賞の対象という要素が強く求められた歴史があるのかも知れない。
 
 
 まちゆく女性の中には、キャミソールなどの服装で、かなり、胸の方まで見える姿で歩いている人もいた。ここまでくると、私もちょっと抵抗がある。
 
 
 日本でも、最近は、(舞台衣装でもないのに)タレントなどは水着のような下着のような支度で、ブラウン管に登場する。でも、胸まで見えるような服装は少ない(?)と思うし、普通のキャミソールでも、まちをゆく女性たちは、その上に薄手の物を羽織っている人が多数だろう。そうではない人もいるようですが。

 
 キャミソール姿を弁護するつもりも、さらさらないのだが、キャミソールは、若者だけというのでなく、老いも若きも関係ない(?)のは、やはり、外国なのか。

 
 若くはない人が、背中と、胸をぎりぎりのところでまで開けたキャミソール1枚、(中には、けっこう脂肪がついた足を出し)半ズボンで闊歩する姿は、日本では、ちょっと見られない。ただし、彼女たちがニューヨークの人なのか、観光客なのかは、区別がつかない。あくまでも、私が約1週間の、ニューヨーク滞在で(地下鉄等の乗車を含めて)見た、まちゆく女性の姿である。

 
 外国に行ったとき、男性も含めて、人々の服装や、髪型、持ち物を見るのも、興味深い。今や、メディアによって、世界中、流行も変わらなくなってきてはいるが、それでも、「違い」も見いだされて、面白い。





84         帰ってきたら ・・・               (05・8月20日・土)

 いつものように、無事に我が家に帰るのを当たり前のように、家を出て、8日目に帰宅した。
 それでも、夫と、無事着陸の瞬間は、「命、大丈夫だったね」のような思いを抱く。
帰宅後、飛行機の事故があったニュースも見た。とにかく、最近は、事故も多いように感じる。
 
 それはともかく、今回も無事に日本に着いた。無事でなかったのは、我が家の柿の木た。
 留守の間に、アメリカシロヒトリにすっかりやられたようだ。今年はとてもたくさんの柿の実をつけたので、喜んでいた。渋柿なのだが、お酒を柿のへたにつけて密封して数日おくと、見事に甘い柿になる。大きさもけっこうなもので、他の柿に負けない。

 ある人に、「いろいろもらって食べたけど、その中でもおいしかった」と言われた柿なのだ。

 私自身は、どちらかと言うと、柔らかめがすきで、少しだけとろっとしかかったのが好みだ。あまり柔らかくなってしまうと、歯ごたえがなく量がわからなくなって、いくつでも食べてしまうから、おいしいけど、困る。
 
 柿にも個人差(?)があって、密閉した袋の中で、ある柿はほどよい固さで甘くなっても、ある柿は、熟れすぎて崩れた状態になる。あんまり柔らかくなりすぎた柿は、見かけも悪く、人にあげられないので、処分の方法として、自分のお腹に納めた結果、体重が増えてしまって困ったこともあった。
 

 この柿の木は、植木などが並ぶお祭りで、父が(我が家の)娘の出産を祝い、記念樹の一つとして、我が家に贈ってくれた柿の木だ。甘い柿のはずが、渋柿とわかったときには、驚いたが、すぐに甘い柿に変身することを知った。以来、「今年は、柿はどうかしら・・・」と思いながら、毎年眺めてきた。

 ただ、娘は、柿が好きではないので、食べない。私と夫だけが、期待をもって、眺めてきた。
 
 
 旅から戻って見た柿の木の葉は、葉脈がちらほら透けたような状態で、ことごとく虫に食いちぎられ、虫ばかりが元気にしていた。留守の間、近所の家にも、大変な迷惑をかけてしまったことになった。

 
 もはや、消毒薬も効力がなかった。夫が「もう、全部切り落とすしかないね」と言った。 柿の木は、無惨にも、すべての枝が切られた。その哀れな姿を見たとき、私は少し悲しくもなった。
 大きな枝を広げ、日陰の役目もしてくれた柿の木だった。

 
 枝のない柿の木を見て、別のことで、私は困ったことになったなと思った。
 いろいろな物をくださる昔からの友がいて、その友に古代蓮の里の売店で求めた藍染めのバンダナを差し上げたりもした。
 
 しかし、いただくことのほうが遙かに多い私は、何か差し上げないと悪い気持ちがして、「そうだ!今年は我が家の柿を食べてもらおう」と思っていた。

 
 それで、まだ、青くて固い小さな実をつけたばかりの時、友の家に柿の木がないことを聞いた上で、「うちの柿、おいしいのよ。秋になったら、あげるから食べてね」とメールを送っていた。
 
 友からは、「私、固めが、好きなの。秋が楽しみ!」というような返信が来ていた。

 
 そう言えば、別の人だが、ある果物のことで、「実がなったら、あげるよ」と言われていたのを思い出した。私は、真面目に(?)楽しみにしていたのだけど、あれは、どうなったのかなー。あれも、アメリカシロヒトリの仕業かしら・・・。

  
 今、柿の木の枝は、大きくなりつつあった青い実をつけたまま、我が家の庭に姿を横たえている。





83         サルビアの記憶              (05・7月27日・水)
 
 毎年のように、一応は季節の花を植えたりしてきた。大して手入れもしないので、草に負けてしまったり、土の栄養が足りなくて、消えてしまった花もある。

 
 三色の葵の花を植えて、白だけ花が咲き、あとは、消えてなくなってしまった。「葵は、丈夫でどこにでも咲く」と言われた時は、がくっときた。その白い葵の花も、今年は、姿を消してしまった。

 どんな花が好きかと問われれば、もちろん花の種類もあるのだけれど、「植えっぱなしの丈夫な花」とも、答えるだろう。先日、ある人が、「植えっぱなしの花がいいわよね」と話すのを聞いて、仲間がいたと安心した。

 種がこぼれて毎年咲くなどという花を聞くと、まず、植えたくなる、。でも、どういうわけか、我が家では、種がこぼれるのかも知れないけど、芽を出さなかったりする。

 

 今年は、サルビアの花を庭の一角に植えた。ホームセンターでサルビアを手に取りながら「これは秋まで咲くのよ」、と話しているのを耳にした。長く咲く花も歓迎だ。それに、サルビアも種がこぼれて毎年咲くと思うからだ。

 
 サルビアは、丈夫な花であることは、ずいぶん前から知っていた。でも、私は、サルビアの花の苗を買うことはなかった。幼い頃、我が家の庭に、真っ赤なサルビアが咲き誇っていた。その花のあまーい蜜を吸って、私は楽しんでいた。

 
 私が、サルビアの花を植えなかったわけは、成長してから聞いた、母の一言である。
 「真っ赤に咲いているサルビアの花を見ると哀しくなるの」と母は言った。父が入院した頃、庭にサルビアの花が真っ赤に咲いていたという。サルビアの花の「赤」はその出来事を思い出すのだと母は言った。

 父が十二指腸潰瘍で手術をし、入院したことがあった。そのころ、私は、まだほんとに幼かった。サルビアの花の悲しい記憶はない。
 
 父が入院していた病院の廊下のソファで、寝そべって遊んだ記憶がある。
母が入院中の父に付き添っている間、祖母が代わりに来てくれた。祖母とお祭りに出かけ、木製のおもちゃの小さなタンスを買ってもらって嬉しかったりもした。入院中の父に会いに出かけて行くことが楽しみであったかも知れない。

 
 幼すぎたせいもあるのか、父と母が留守であっても、寂しかったり悲しかったりした記憶はない。
 けれど、母の「サルビアが真っ赤に咲いているのを見ると、哀しくなるの・・・」という言葉で、私まで哀しくなるような気がして、私は、今までサルビアの花を植えることはなかった。


 丈夫で長く咲き続けるというサルビアの持つ力に負けて、今年は、初めてサルビアの花を庭に植えた。

 サルビアの花は、葉を増やし、だんだん大きな花を咲かせてきている。たくましく成長していくサルビアの花を見ながら、いつも母の言葉を思い出す。庭の真っ赤なサルビアの花は、母の哀しみと幼い頃を思い出させる。
 
 けれど、今年からは、「母の哀しさ」と一緒に生きていけるような気がしている。サルビアの花が種を落として、これからも咲き続けますように・・・。






82           幻の家                (05・5月29日・日・記)

 「この家、いいと思わない?」 昨年の夏のある日、夫と散歩をした日のこと。夫が、「売り家」の札を見て言った。
 夫は、一人で散歩したときにも、「この家いいなあ」と思ったという。


「えーっ、今の家(のある場所)便利でいいのに・・・」とすぐに私は思った。もう小中学校に行く子どもはいなくなったけど、学校に近く、お店あり、ホームセンターや、医療機関あり、コンビニあり・・・、(今のところは必要ないけど)職業安定所(どうして、「ハローワーク」という名前になるのか抵抗感あり)などあり、それでいて、我が家からは田畑も見える・・・ということで、悪くない環境なのだ。

 夫が塀に「売り家」の札がつけられた、その家が気に入ったわけは、敷地が広い、つまり庭が広いから、ということだった。「でも、お店とか、遠いんじゃない?年とって車乗れなくなったら、不便よ・・・」と私。

 夫は「どうしても買いたい」とまで言い出した。
「家を建てるとき、あなたの意見で決めたから、今度は、僕の意見に賛成して欲しい」
   
            ◇         ◇       ◇        ◇

 確かに、借り家から、今のところに家を建てるとき、土地の広いところと、今の場所の2カ所を業者から示された。住宅会社が「家を建てませんか」と言って、土地探しから書類から、それこそ、返事さえすれば、すごい勢いで事を進めてくれた。

 
 広いほうは、今の場所の2倍以上の土地の広さだった。夫は、より牧歌的な環境の広い土地のほうを望み、私は、狭くても比較的まちに近いほうがよかった。自然が残っていて、まちにもそれほど遠くないというのが、私の理想だった。

 
 そもそも家を建てることなんか、まだ考えていなかった頃だった。急にその気になったのは、「頭金」だった。 私たちは、会社の営業の人がやってきて、「家建てるなら、頭金がこれだけで建てられますよ」と示した金額が、たまたま通帳にあった(大した額ではない)ということだけで、その後に生じる借金はさておき、その気になった。まず私のほうが、「ねえ、あなた、家、建てよう」という話になった。

 
 だから、土地はどこがいいか・・・なんて、ほとんど考えなかった。すぐに2カ所、業者が走るように持ってきたので、そのどちらかを選択するといった考えだった。

「えー、いやだ、あそこは遠くって」という私の言葉で、2カ所のうちの1カ所である今の場所になった。今考えると、もっと他の場所は?なんて、探さなかったのが不思議なくらいの速い決断だった。

 ふたりとも忙しくて、家の完成までに、二回ぐらいしか見に行かなかった。ときたま夜、車で通ったとき、遠くから見えて、「あら、まだ電気がついて仕事してるわ・・・」ということもあった。
 地鎮祭も、面倒なのでしなかった。でも、何も悪いことは起こっていない。
(というより、良くないことが起こったとしても「・・・しなかったから」と結びつけないから、関係ないのだ)

             ◇        ◇        ◇        ◇

 「売り家」を見た夫は、「庭が広かったら、定年後に野菜をつくったり、庭でバーベキューを楽しんだりしたい」と言った。すべては、食べることにつながっている。
 あんまり夫が熱心なので、「そうねえ、いいかもねえ」と私も少しすつ思うようになっていった。 そうだ、実のなる木だって、心おきなく植えられる。

 今ある柿はもちろんだが、サクランボ、びわ、さくろ、くり、みかん、ゆず、なつめ、もも、クルミ、いちじく・・・あと、何かしら・・・・植えられると思われる可能な果物の木などを思い浮かべて、私も楽しくなってきた。

 庭が広かったら、四季おりおりの花いっぱいの家にしたい。(花を買っても、すぐに、枯らしてしまうことのほうが多かったのに)
 緑の木々の間で、ハンモックの昼寝なんかもいいかも知れない・・・。ますます楽しくなってきた。

 
 二人とも、決断したら早いほうがいいと、札に記された場所(不動産会社)に連絡をとり、金額を聞き、次の段階に入り考えた。夫は「買いたい」ということ。

 
 家の中を見せてもらった。夫は「なかなかいいよ。 ほら、あなた、いいよ」ばかり。
 私は、自分たちで建てた家でないだけに、間取りなど違和感もあった。また、修繕も、絶対に必要と思われる箇所もけっこう目についてしまった。 
 
 この家が住めなくなったら、また、新しく建てることになる。今、まだ十分に住める現在の家があるのに、もう一度、家を建てるのも、疲れる。夫も本当の魅力は、敷地の広さのようだった。


 とにかく、買ってもすぐに住めなくなるのでは困るので、専門家に家の調査をしてもらおうということになった。
 このとき、季節は、夏も終わり頃だった。「古くなった家を壊しても、その後、建てられない場合もあるから、調べたほうがいいよ」と知人に言われ、それも調べた。そんな法律の適用も確かにあるようだったが、条件的に「建てられる」ということがわかった。
 
 
 ところが、そうこうしているうちに、秋になった。夫が腰痛になった。それがなかなか治らなかった。

 病というものは不思議なものだ。腰痛になった夫は、まだまだ先ではあるけれど、定年後の庭での野菜づくりの夢の実現も面倒になってきたようだ。

 「広いと、草取りが大変だよ」と、広い庭を持つ知人が言った。
なるほど・・・そうかも知れない。今の狭い庭でも、草が生えて困る我が家。
 病で気力が失せた夫は、意外にもあっさりと諦めた。腰痛と草取りや野菜づくりは、あまりにも深い関係にある。


 
 春が来て、幸いにも、夫は何とか腰痛からも解放された。時折、犬を連れて、あの家の前を通ることもある夫に、私が尋ねる。
 
 「ねえ、あの家売れた?」
 「この前、売り家の札がなかったよ」
 「じゃあ、売れたんだぁ・・・」(少しだけ、不思議とがっかり・・・)
 
 何日が経って、今度は、夫が、「(売り家の札、風で)飛ばされちゃってたみたいね。また、札がかかってた」
「やっぱりねえ・・・」と私。(売り手に叱られそう・・・)

 つい先日、久しぶりに、夫と散歩をした。そのとき、あの家の前を通った。「売り家」の札は健在だった。

 
 「もしかしたら、うち、引っ越すかも知れない」と友人に話したりもしたが、それは、夫の腰痛で一瞬のうちに、消えた。何しろ一番熱心だった人が、急に心変わりしたので、それで終わった。
 
 あのときの夫の「腰痛」がなかったら、(あの家の修繕を含めて)我が家は、引っ越しへの準備を進めていたかも知れない。健康への不安が、心の状態を変えるってことだろうか。なんか、人生って不思議だ。
 
 
 今は、「引っ越さなくてよかった」・・・草取りが大変だあ・・・。将来、夫が腰痛かどうかは分からないけど、野菜を作りたいと言った夫は腰痛で、私も草取りしなくて、草ぼうぼうだけのおばけ屋敷かも・・・。第一、今の家住みごこち悪くないし、貯金も減らさなくてすむし・・・。
 
 で、いつも、そのときそのときの(やめることも含めた)決断が良し、と思うことにしている。
 

 




81         捨てられないもの            (05・4月21日・金・記)

 
 私にとって、捨てられない物は、
いくつかある。以前、この欄で書いた、結婚式で履いた白いハイヒール、お年寄りが集まるところで作った私の手作りだが壊れてしまったペンダントなどなど・・・。
 
 最近のもので将来にわたっても捨てられない物になるだろう物。それは、1枚の小さな紙切れである。
 娘あてに初めて届いた「投票所入場券」である。娘が二十歳になって間もなく行われた選挙の,、娘にとっては初めての投票所入場券である。そこには、「参議院埼玉県選出議員選挙」「参議院比例代表選出議員選挙」と印刷され、平成16年年7月11日とある。

 
 
 日本にいたら、行使できた選挙権..。行使できないのは仕方のないことなのだが、娘の政治参加への1票が、(娘本人でないにもかかわらず)、私には、とても大切に思われたのだろう。
 この「投票所入場券」は、食器棚の引き出しにしまわれていて、時々、「あるかな」と思って、確認をするほど大切な物である。
 
 いつか、引き出しから姿が消えたことがあり、見つかるまでは心が落ちかなくて、必死で探したことがあった。人生の半分くらい?は探し物をしている(?)我が家の家族が何か別の物を探していて、一緒に引き出しの外に出されたらしく、見つかった時には、ほっとした。

 
 そんなに大切な物なら、別のところに保管すればいいものを、いまだに、同じ場所においているので、そろそろ、場所を移そうと思っている。



 娘が二十歳になってからの選挙は、1度ではなかったが、娘の「投票所入場券」をためようなどという気持ちは全くなく、それ以後のものは(残念に思いながらも)、ゴミ箱に捨てている。
 
 ただ、あるじ不在の最初の「投票所入場券」だけは、なぜか、いとおしくて捨てられない。
 もしかしたら、それは親である私にとって、娘の成人の証のように思え、感慨深い思いを抱かせたのかも知れない。
 
 
 考えて見ると、「私にとっての捨てられない物」は、白い靴は別としても、他人から見たら、すぐにでもゴミになるような物が多いよう・・・です




80         春、さ く ら                  (4月8日・金・記)

 さくらが満開の季節。「さくら」というと、思い出すのは、私自身の小学校の入学式。 小学校の入学式には、満開のさくらを背景に記念写真を撮った。最近は、入学式には、散ってしまって間に合わない年も多い。

 
 さくらの季節は、好きな人も嫌いな人もいるらしい。私は、気持ちが新しくなるので、けっこう好きだ。新しい何かが待ち受けているような気がして、心が躍る。私にとっては、1年の始まりも、どちらかと言うと、お正月というよりも、さくらの季節という感じのほうが、強い。

 
 遙か昔、母は、この季節が、あまり好きではないと言っていた。私たち三人の兄妹は、ちょうど、三学年違いなので、卒業や入学が重なったりした。私が中学入学の時などは、兄二人が、それぞれ高校・大学入学で、三人一緒だった。受験に続き、その後の入学と慌ただしさが好きではなかったのだろうか。

 
 でも、その割には、母は、慌てもせず、のんきそうにも見えた。今、子どもの頃を思うと、やはり母は変わっていた。なぜ、母はよその母に比べて変わっていたのだろう。最近、そう思うことがある。そして、ふと、母から私にもつながっているような気もする。

 
 満開のさくらもあっという間に散るのが、寂しい。今年は、ちょうど入学式の時期まで咲いていて、間に合った。





79    力を合わせて生きることさえ・・・♪♪  (2月27日・日・記

 我が家では、計画的にテレビを見るという習慣がない。一息入れるときに、気まぐれにテレビをつけることがある。だから、時たま、「ああ、もっと早くから見ればよかったなあ」、と思う場合もあるが、別に後悔もしない。


  いつものように、何を見ようという気もなく、家族がチャンネルをあちこちいじっていた時、たまたま「BS」で、歌番組をやっていた。夫が、自分のことは棚に上げて、「○○も、いい年になっちゃったなあ・・」などと、ある男性歌手のことを言った。

 
 なるほど、見ると、ほんと、かつての面影は・・・という感じでもあった。でも、年齢とともに、味のある顔になっているように思えて好感がもてた。私は、「こんな顔、好きだなあ」と思った。

 
 誰かが、「若い時、ハンサムがよくて結婚しても、年をとればハンサムじゃなくなるから」
と言ったが、なるほど・・・とその言葉を思い出した。 簡単に言えば、見かけのよさにこだわっても、そんなものは大して価値がないということだろう。
 
 
 曲は、「白いぶらんこ」、「戦争を知らない子どもたち」、「遠い世界に」、「翼を下さい」などなど・・・。これらの歌は青春時代に口ずさんだりした歌だが、この日、特に、心にしみたのは、「遠い世界に」だった。

 
 多くの方ご存じ(?)と思われる「遠い世界に~、旅に出ようよか~,それとも~、赤い風船に乗って~、雲の上を~歩いてみようか」(西岡たかし・作詞作曲)という、あの曲である。

 
 2番は、「ぼくらの住んでるこの街にも / 明るい太陽 顔を見せても/ 心の中は いつも悲しい/ 力を合わせて生きる事さえ/ 今ではみんな忘れてしまった/ だけどボクたち若者がいる


 とりわけ、2番の歌詞が心にしみた。昔この歌を歌った頃より、今、じーんときてしまった。まさに、今、「力を合わせて生きることさえ、今ではみんな忘れてしまった・・・」ということが昔よりもっと強く当てはまるような気がする。

 力を合わせることより、「競争」ばかりの今の社会の中で、現代に通じるこの歌は、私にとって、とても新鮮に思えた。
 そして、私の「じーん・・・」をさらに高めたのは、次の、「だけど、ボクたち若者がいる」というところである。

 その時代の若者の思いを表している。残念ながら、今、このような若者の熱さは、それほどには感じられないようにも思える。その意味で、この部分は、古い歌詞かも知れない。
 
 
 私自身は、今の時代に比較的乏しくなってきたように思える若者の熱さを歌の中に感じて、じーんときたのかも知れない。自分の青春時代を思い出したのかも知れない。

 
 
「力を合わせて生きることさえ、今ではみんな忘れてしまった」でも「ボクたち若者がいる」という言葉のように、未来を切り開き、時代を変えていく力を予感させるこの歌詞が好きで、胸を張って声高らかに歌いたい思いにかられた。
 実際、この歌番組(の断片)を見たあとの数日間、私は、車を運転をしたり、台所に立ったり、一人で物思いにふけったりしたとき、気がつくと、「遠い世界に」の歌をくちずさんでいた。

 
 
 「遠い世界に」をよく歌った頃から、?十年。
 世の中も私生活も変わったけれど、けっこう、思ったほどには、心の中は、変わらない。
「年をとっても、気持ちは同じです」という言葉を若い頃、年配者から耳にしたものだが、それは、ある意味では本当だったのだ。

 
 情熱は、多少姿を変えても、また、それほど激しくなくても、しっかりと脈を打っている。昔より年をとることによって変わったことと言えば、「人間」というものが、わかってきたということだ。また、人や物の表面より、より中身を重視するようになったということだ。だから、若い頃より今の私のほうが、人間が賢くなったのではないかと思っている。
 
 
 でも、今、「だけど~私たち中高年がいる~~」とは歌えない。年をとっても、昔の若者である私は、やっぱり歌の歌詞のように、「だけど~ボクたち若者がいる~」と歌いたい。

 そして、この歌をうたう歌手は、やっぱり昔の若者がいい。
 
 
 若者を表す一人称が、一般的に男性だけが使う「ボク」となっているのが少し気にはなるけれど・・・。ずっと歌い継がれて欲しい歌である。
 もしかして、「翼をください」や「この広い野原いっぱい」のように、この歌も子どもたちの使う教科書にのっているのでは?
 
 
 「昔の若者」の今も、「心の中は悲しい」こともあり、歌の文句ではありませんが、「翼」も欲しいし、「遠い(すてきな)世界」に旅にも出てみたい~~~。
 




78          「着物」の結末                         (1月15日・土・記)

 娘は、すでに二十歳だった。昨年から、着物のチラシが舞い込み、お店には悪いけれど、捨てても捨てても(実際には紙のリサイクル)、郵便受けに入ってきた。
 
 
 電話も、よくかかってきた。その度に、「こちらにはいませんので・・・」とことわってきた。
「では、成人式にはいなくても、着物を着てお写真はどうでしょう?・・・記念ですから、お写真だけでも撮っておくといいですよ」と言われたりもした。

 
 実際、娘は海の向こうにいて、お正月(成人式)に帰ってくるか、来ないかも分からなかった。ちらしや電話は、何と、成人式直前の、昨年の12月頃まで続いた。「これが、最後です!」とうたったちらしの着物は、価格がすごく下がっていたように思えた。

 
 親のほうは、「何で、成人式に着物を着なくてはいけないの?成人式って一体なんなの?・・・」という感じで、成人式のとらえ方について思っていた。
 販売合戦の中、まるで、着物を着ることが当たり前のような風潮に抵抗を感じていた。

 
 着物を着たい人は、着ればいいし、着ないのも自由だろう。親である私自身は、二十歳のころ、(行くことが悪いという意味ではなく)成人式に行きたいとも思わなかったし、着物を着たいとも全く思わなかった。


 
 娘はどうか・・・。着ないことを期待していた私に、娘がメールを打ってきたのは、11月頃のことだったか・・・。
 「海外にいると、日本の着物の美しさがわかってきた」というような内容だった。

 
 親の強みは、(大したことはない)経済力だった。娘の弱みは経済力が全くないことだった。
親と子の意見が違う場合、経済力があるかないか、これが、決定的なものだと、私は確信していた。

 
 「娘の着物姿が見たくないの・・・!?」と娘に言われた。「見たいと思わない」と、私は言った。娘は多分あきれたようだった。

 
 成人式に、着物なんて着ることはないと思っていた私は、「着たいなら、自分の力で着るのが、成人でしょう」、とも言った。成人だから、自由。自分の考えで生きたらいい。着物を着ることに反対はしない。けれど、自分の力でやったらいい、と私はメールに打った。

 
 それぞれの家庭には、それぞれの親の考え方がある。経済的に依存して生きているうちは、、経済的負担が伴うことについては、親の価値観で、子どもは生きるしか、ないのだ。親は賛成しないことには、お金は出さない。これほど当たり前で、明白な答えはないだろう。

 
 何度か、メールでのやりとりが交わされた。娘は、親に言うより先に、すでに親戚の姪たちに海外からメールを打っていたようだ。
 姪に、「成人式に着る着物を貸して欲しい」と訴え、了解をとっていたようだ。「借りて着るからいい」ということらしかった。

 娘にとっては不幸なことに、夫も私と同意見で、「着物を着て、どうするの・・・」と冷ややかだった。夫の職場で、成人式の着物のことが多少話題になったようだ。
そして、夫がいうことには、「みんな着ているみたいだよ」ということだった。

 
 私たちの 「親が価値を認めないことについては、成人は自力で」という考えは変わらなかった。ただ、夫からの話は、意外でもあった。親がすすめたけれど着なかったという若い人がいて、「今思うと着ておけばよかった・・・」と言ったそうだ。「そんなものかなあ・・・」と私は思った。ただ、この言葉は、私の心に残った。


 
 
 私たち、親のほうは、成人式のために着物を買ったり、貸衣装で借りたりするつもりは全くなかった。「自力なら自由」と私は言ったが、12月下旬に帰国した娘は、姪の着物を借りることも諦めたように見えた。でも、本心は着物が着たかったのだ。
 私が、「じゃあ、自分で借りれば・・・」というと、自分で、実家に電話をして着物を借りに行った。


 
 娘が、私の義姉から借りてきた(姪の)着物はとてもあでやかなピンクで、柄もうっとりするような、すてきな着物だった。娘はそれを着て、成人式に出かけて行った。
 
 親は妥協して、娘の着物姿を見ることになった。妥協した親の気持ちは、ただ一つだった。成人式に、着たかった着物が着られなかった・・・と、あとあとまで、娘が思うかも知れないということだった。手近なところで借りられるのだから、いいとしようか・・・ということになった。

 
 親子の「着物戦争」は終結した。
 娘は自力(ためたお小遣い?)でやるつもりだったようだが、結局、「着付け」で、娘が出していたお金は、娘に返した。

             
               ☆             ☆            ☆

 「(親のほうではなく) ○○(娘の名) ちゃんに応援するよ。この勝負、○○ちゃんの勝ちー」と言った人は、写真を撮って大きく引き延ばし、額にまで入れてくれた。そして、心をこめて、すてきな着物一式を娘に貸した人たち・・・。
 娘には、応援団(?)がついていた。

 
 
 私たち夫婦は、最初、ほとんどとも思われる親が、気持ちよく娘に着物を着せる中で、「95% 対 5% の 5%の親かしら」と言っていたが、「99%対1%の1%の親かしらねえー」に変わった。

 少数派は、考え方は変わっていないが、娘に親の考えを伝えたことで、「よし」とし、最後までこだわるより、和解(?)の道を選んだ。そこに至る過程において、娘も親もエネルギーをつかったが、私はそれが無駄なものであったとは思っていない。

 まあ、こんな風変わりな親を持った子どもも、かわいそうかも? お互い、おつかれさま・・・。

 






77         我が家の大晦日                  (12月31日・金・記)

 お正月を迎えるにあたって、二人で一応の役割分担をした。障子の紙が少しだけはがれかかっているところがあって、障子貼りは、夫がすることになった。他に和室はあっても、我が家の中で障子のある部屋は一つだけだ。
 まず、買い物から始め、刷毛やのりなどの道具がそろった。

 もう、夕方だった。私が言った。
「ねえ、他のところは、まだきれいじゃない?その、少し破れそうな枠の1箇所だけ貼りなおせばいいんじゃない?」
「そうだね」
 最初は張り切っていた夫も、外は雪だし、気分的にも億劫になってきていたようだ。

 私は、夫が障子を貼り替えている間、おせち料理を作ることにしていた。

 少したって、夫の声がした。
「あなた、すぐ下の枠まで、破いちゃった!」
「じゃ、下の枠内と2カ所つなげて貼ればいいんじゃない?」と、私。

 
 しばらくして、また夫の声がした。
「あなたぁ!」
今度は、もっと興奮している。何かとんでもないことが起こったかのようだ。いやな予感がした。
 
 「どうしたの?」と、私。
 夫はすぐには答えない。ただ、笑っている。だが、さわやかな笑顔ではない。


「今度は、別の所に、はさみを落とした!」と夫。
 障子貼りの部屋に行ってみると、はさみを落としたと見られる穴があった。
 
 破れた場所が3カ所にもなると、私は、「じゃあ、3カ所、貼ればいいんじゃない?」とは、思わなかった。夫も、そう思ったようだ。

「もう、全部貼ったほうがいいみたい。」ということで、1枚の障子をばりばりとはがすことにした。
 もう1枚は健在なので、そのままにした。本当は、じゃーじゃーと水をかけて、障子の枠組みを気持ちよく洗うところなのだが、あいにく外は雪だし、切羽詰まった大晦日、そんなことは不可能だ。
 いつもの年だったら、夫が、外で水を流し、2枚の障子をきれいに貼り替える。

 
 今年は、畳の上で、二人で、ばりばりと紙をはがした。だいたいきれいにはがしたところで、紙をぴーんと張りながら木の枠の上に乗せていった。なかなかうまく行ったような気がした。

 カッターの切れ味がよくなかったので、周囲の障子紙の切り落としはうまくいかないところもあったが、「何とか外から見てまあまあには貼れた」と思った。

 障子のある部屋が1カ所だけということは、幸運だった。もっとあったら、大変だ。他の和室には障子を作らなかったのは、賢い選択だったと納得した。
 
 
 もともとは、2枚とも貼り替えるはずの予定が、1枚になり、その後、最大限縮小されて、1カ所の枠内に予定変更された。そして、結局は、1枚全部の貼り替えとなったが。

 
 「健在」のもう1枚は、貼り替え作業中に壁にたて掛けてあったので、「もう1枚の障子にどんと寄りかかって、破らないでよ」と思わず言ってしまった。私と夫は、もう一枚の障子も破ってしまって、まるまる2枚をすっかり貼り替えるはめになった時のことを想像して、大笑いをした。

 
 
 地震や津波等の災害、続く戦争・・・、事件、と国内外で、さまざまなことが起こり過ぎた、この1年。
 まあ、何とか、我が家に限って言えば、障子の破れくらいですんだのは、「平和」であったということだろうか。その後、障子貼りの出来具合は、外からは見ていない。







76      「ブッシュ」の夜                    (11月23日・火・記)
 
 アメリカ大統領選挙も、「確定」と見られた日の夜、私は夫と、散歩をした。

 「ああ、暗いわよねえ。世界が・・・これで、また、戦争?」「そうだねえ・・・今回の選挙は世界中に影響及ぼすからなあ・・・」

 星が出ていたか、いなかったか、忘れた。とにかく夜空を見上げ、ため息をつきながらほんの15分程度の夜道を歩いた。

 二人の候補は、どちらもそうは、変わらないと言われていたが、イラク戦争のことだけを考えてケリーのほうが、現状よりはマシだろうと思った。

 地震災害で土石流に埋もれた車の中から、一人の男の子が無事救出されたあの日、日本中の人々が喜び感動したのではないだろうか。

 同じ子どもたちが、イラクでは殺されている。一人の子どもの死に何人もの人々が涙を流していることだろう。一人の子どもが誘拐されたら、大騒ぎになるのに、イラクでは、毎日のように、子どもが殺されている。
 
 命を殺す政治なんて、幸福をわざわざ奪う政治なんて、ひどすぎて価値がない。でも、現体制が支持された。選挙の投票については、方法などいまだに疑惑を残して・・・。「民主主義アメリカ」の、おかしな選挙・・・。

 ブッシュ当選の現実に、私も夫もひどくがっかりとした。何で、人を殺すの?


 悲しくて腹の立つ夜だった。深い悲しみのなかで、幸せも感じた。イラクで子どもたち(を含む人たち)が殺されるのも仕方ないよと言う人が夫だったら、私の人生はどうだろう。食べ物の好みも全く違う二人だが、生きる上での価値観が同じということは、一緒に生きていて、何という幸せなことなのだろう・・・。

 今、何が幸せって聞かれたら、私は答えるだろう。価値観が同じ人と共に人生を送ること。
しかし、数え切れないほどの人々の幸せな人生も、まあまあの人生も、あまり幸せとは思えない人生も、すべてが、戦争によって破壊されるのだ。





75        我が家にも・・・!                  (11月9日・火・記)
 2004年11月9日、ちょうど、パソコンに向かってホームページを打っていた。
世間で騒がれているものの、まさか、我が家に・・・とは思わなかった。

 
 電話が鳴った。
 「もしもし・・・・」と相手の言っている言葉が、こちらの名前と違うようだ。
 「○○さんではないですか」

 相手は、もう一度、こちらの名前を尋ねた。
 あまり若くはないと思われる男性の声で、「スミさんですか」と聞こえた。こちらは、「みやけ」なのに。
 「いえ、違いますが・・・」
 間違い電話だと思って切ろうとした。相手の男性は、確信があるのか、切ろうとしない。なおも、「スミさんですか」と早口で繰り返す。やっと聞こえたのは、「スミ」は聞き違いで、相手は「スミ」とは言っていなかった。「スミ」ではなく、○○と言っていて、それは娘の名前の漢字の読み方の違いだった。(普通は、苗字で電話してくると思いますが・・・)

 
 ・・・と気づいたので、「また、成人式の着物か・・・いやだな・・・何度もいろんなところjから・・・」と思った。でも、なんだか、それとは違うようだ。
 
 「はい、娘です・・・が、娘がどうしたんですか」
 「事故起こしたんだよ」と男は言った。言葉が乱暴な調子になった。
 私は、(はあ、?)という感じだった。
 「オレオレ詐欺じゃないんですか」と私は言った。

 「お母さん、娘が事故起こしても平気なんかい」
 相手の言う「娘」が歩行者なのか運転者なのか、はっきりとしない。(娘は、まだ、運転免許も持っていない。「事故起こした」という表現からは、車を運転していたということ?)
 
 「娘じゃないと思いますよ」
こんな電話につきあっているほど、暇じゃないと思って、私は早く電話を切りたかった。

 「娘じゃない?!」相手は幾分、狼狽気味だが、まだ強気。
 「ええ。娘じゃありません・・・」と言いながら、私は、参考のために、相手の手口を知るためにもうちょっと聞いてやろうという気持ちになった。

 
 「娘は、どこで、事故を起こしたんですか?」
 「埼玉県だよ。交差点で飛び出してきて・・・。示談にしようと思ってるんだけど・・・」(普通、警察をいれるのに、何で示談?)

 娘は、日本にはいない。
 「娘ではないと思いますよー」
 「娘だよ。住所もわかってるんだから」と、男は、また、自信たっぷり。
 「どこですか。住所は・・・」と、私が言うと、「埼玉県行田市○○・・・・番地」
 男は、私の家の住所を言った。これも読み方が違ったが、漢字で書くと合っていた。

 「示談に応じなけりゃ、風俗に売り飛ばしてやろうと思ってるんだけど、お母さん、それでもいいかい?まだ若いから、5年は稼げるから」
 「いいですけど・・・」(男の言葉に、風俗って幾つくらいまで働けるのかなと思ったりした)


 「いいんだね。さっきから、泣いてるんだよ。声聞かせてやろうか」(まるで、身代金目当ての誘拐?)
 「ええ。聞かせてください」
 
 すると、受話器の向こうから、「お願いしまあす・・・、お願いしまあす・・・」と泣きじゃくりながら懇願する女の声が聞こえてくるではないか。その声は、若い娘特有のどちらかと言うと高く細い声で、娘の声にもよく似ていた。

 
 「示談に応じなけりゃ、風俗に売り飛ばすよ。さっき、5年間の同意書も書いたんだから」と、男は、「風俗」を繰り返す。
 「いいんだね、いいんだね!」
 「どうぞー、いいですよー」
 男は、諦めたのか、やっと電話を切った。

 ウソに決まっていても、電話の後の私の心臓はどきどきしていた。あの、世間で言われているような種類のことが、我が家にまでやってきた!

 
 決定的なことは、まず、娘が日本にはいないこと。連絡もなく急に埼玉に帰ってくるはずがない。だから落ち着けたのかも知れないけど、聞かれればバレルような手口で、下手だったことも確かだ。そもそも名前の読み方も、何かの名簿を頼りにしたのか違っていたし。

 
 電話を切ってから思うことは、「(傍らで泣いているという)娘は、どんな髪型してますか?身長はどれくらいですか?また、自分の名前を何と言ってますか?娘は車だったんですか?」など、もっといろいろ聞いてやればよかったと思った。相手は、私の問いに、どのように反応しただろうか。

 落ち着ける状況にない人は、だまされる可能性もある。「だまされないで!」の声を、今よりもっともっと大にしていく必要もあるだろう。マスコミ報道はされていても、高齢者などの中には、「情報」から離れて暮らしている人もいるだろう。

 
 それにしても、示談に応じなければ「風俗に売り飛ばす」というのだから、まさに「おどし」だ。お金を持って来なければ(振り込まなければ)・・・ということに違いない。本人や警察官などになりすまし、うまく装うこともできずに、手口が丸見えだった。

 
 二十歳の娘が、事故起こしたら「風俗」と言われて、ただ、泣くばかりというのも、あり得ないだろう。
 監禁されているわけでもないのに、身代金要求のように、「声を聞かせてやろう」というのも芝居じみていた。じゃんじゃんかけて、1件でもひっかかったら「儲けもの」の世界なのだろうか。
 まず最初に「衝撃」が走り、信じてしまうこともあるだろう。咄嗟に状況判断ができなくなる場合の人間の心理を逆手にとり人を騙す行為は、許せることではない。

 
 日本の国も犯罪が多くなり、治安も悪くなった。不況もそれに拍車をかけている。今後、ますます、住みにくい世の中になっていくのだろうか。
 「漫画」みたいな電話のあとで、考えてしまいました・・・。







74                     しゅろの木         (10月26日・火・記)

 我が家の庭に1本のしゅろの木がある。この木は、植えたわけでもないのに、結婚して、現在の場所に住まいを移した我が家の庭に、勝手に生えた木である。

 その木は、ずいぶん前から生えていたのだが、しばらくの間、ほかの木々の谷間にあってずっと大きくならなかった。ある高さにまで大きくなったときから、太陽の光を浴びて、ぐんぐんと伸びていった。

 
 しゅろの木の思い出は、ずっと昔の子どもの頃にさかのぼる。その当時、父と母は小さな事務所を構えていた。私は、小学校の低学年だっただろうか。
 家に帰ると、たいてい私は、友達と遊んだり、宿題をしたりして、父母が帰るまでの時間を過ごしていた。ある日、雨が、ポツリポツリと降ってきた。父と母は傘を持って家を出ていなかった。

 
 まだ、傘は貴重品だった。家族の者が傘を持って出ようが出まいが、わからないほど、気まぐれな傘が傘立てに乱立している時代とは違う。

 私は、父母が傘を持って行っていないことに、すぐに気づいた。それで、2本の傘を父母のもとに届けようと決心して家を出た。自分で、傘をさし、大きなおとなの傘を抱えて、事務所までの道を歩いた。

 おとなの今、あの距離を歩くなんて、考えられない結構な距離だ。きっと、昔の子どもだったから考えたのだろう。(あー、でも週一度くらい通っていた習字の塾も街のなかにあって、もう少し近くて同じ道ではないが歩いて通っていたんだ・・・と書きながら思い出した)

 
 しゅろの木はその途中にあった。商店街にさしかかろうとするあたりの道の端だった。私がおとなになってからも、ずっと、そのしゅろの木は健在で、数年前まで、そこに立っていた。

 
 傘を届けたときの母の笑顔より、なぜか、しゅろの木の記憶が強い。
 当時のおとなの傘は重量感のあるがっしりとした骨組みのものだった。傘をさし、抱えて歩く私にとって、しゅろの木の存在は、「あー、やっとここまで来た」という道しるべで、安堵感のようなものだったのだろうか。
 しゅろの木は、商店街通りにあって、家からは離れていたものの、見慣れていた光景の一つだった。

 そのころは、七夕もにぎやかで、その下を家族で歩いたこともある商店街だった。保育園のころは、定期券を持ってバスに乗って通った通りでもあった。

 
 今、パソコンを打ったりしながら、ふと、しばしの休憩に、また、犬のえさをやるときなど、自分の家のしゅろの木が目に入る。そんなとき、子どもの頃、傘を届けた日のことを思い出すことがある。
 
 
 
 母は後になってからも、時々、この時の「傘の話」をすることがあった。
「あなた、よく歩いて大きな傘を持ってきたわねえ・・・」と言って、母は笑った。

 あのころ、私は人生を全くと言っていいほど知らなかった。その後、成長しても、まだまだ、人生の表面しか分からなかった。

 
 今、やっと、生きている人々の苦悩もいくらかわかるようになった。そして、若い頃はつまらないと思うようなささやかな多くのことが、人生に喜びを与えてくれることも知った。





73                議員としての命                  (9月26日・日・記)

 私がなぜ、議員になったか。その理由はただ一つである。
なぜか計画性のない人生を歩んできた。本当は、あることに専念するための時間だった。

 
 それなのに、議員になったのは、市民の声を市政に届けたかったからである。

 
 議員になる前、ある時期、私は、純粋に市民運動をしていた。(議員になった今も知られていませんが)、私は名もない一市民で、選挙のやり方も全く知らなかった。
 
 きっかけは、「議員に立候補して!」と市民運動の仲間に強く言われたことである。「地盤も支持母体もない人間が選挙で勝てると思っているの」とも言われた。それこそ、なーんにもなかった。

 
 選挙運動を支えてくれた人々は、ボランティアで、心から市政を良くしていこうとする心を持った人たちである。
 今も、その人々は、私を支えてくれていて、私が議会で、がんばれる(そう思っています)のも、そういう人々がいるからである。

 一方で、市政に対し、要望したり、批判したりする議員を見て、「行政にたてつく議員はおかしい」と言う市民もいると言う。しかし、正直言って、私のもとに届くメールや電話などは、「がんばって!」というものや、「声を届けて」というようなものばかりである。
 

 私は、「市民の声を届ける」という、ただ一つの理由のために議員になったので、その目的を達成するために働くだけである。

 
 議員になって、よく言えば知らない世界を見て人間の幅が広がったと言える。まさに、人間というものは複雑で、立場によって変貌をとげるさまにも遭遇した。行政の人が、一般の市民をとらえるいくつもの目にも気がついた。

 
 議員は、常に、よりよい政治を必要とする市民の目でなくてはならないと思っている。たとえ、批判をする人がいたとしても、一番困難な状況にある人の立場で取り組みたいと思う。

 
 私は、行政側の相手が、一握りの権力者側にすり寄って(?)いると思われる対応をし、納得のいかないなどの場合には、時折、強い言い方をしてしまうことがある。

 そんな時、「ああ、強く言いすぎてしまった・・」と、反省したりもする。保身のためなど利害関係(?)のない立場なら、相手もきっと良き一人の市民であろうことを思って・・・。
 
 
 もちろん、議会は、それとは別で、執行部側にきちんとした答弁を求める立場をとるのは当然である。多くの市民は生ぬるさを求めてはいない。

 
 さまざまな矛盾に満ちた世界を感じながら生きている。そんな中で、「ねえ、どう?普通の市民だったら、こう考えるわよねえ・・」と市民に問いながら、日々を生きている。

 自分の考えが多くの市民感覚に合っているかどうかを確かめながら、生きている。市民感覚に徹し、市民の声を届ける立場で働くことが、やはり、議員の命であると思うから。

 


【幼い日々の記憶】
72     おかい、それとも、おかゆなの?           (7月15日・木・記)

 私がいくつぐらいの年だったのか・・。小学校に入学する前のことだと思う。
 私は、父に「ねえ、お父さん、おかいなの?それとも、おかゆなの?」と尋ねたことがあった。
父が「おかゆだよ」と言って、それで終わりだったら、私は、「おかいか、おかゆか」と尋ねたことさえ忘れていただろう。

 私がいつまでも、このことを覚えているのは、父の、次に発した言葉を聞いたからだろう。
父は、「この子は、言葉の細かいところによく気がつくねえ・・・」と深く感心したように言った。
 
 いまだに心に残っているということは、父にほめられたことが、ずうっと心の底に生きていたのだろう。幼心に、きっとすごく嬉しかったのだろう。

 
 父は、私が幼い頃、胃潰瘍を手術したことがあった。そのせいか、よくおかゆを食べていたことがあった。それで、「おかゆ」という言葉は耳慣れていた言葉だったのかも知れない。幼い頃の風景はよく浮かんでくる。父は、夕食前にはいつも帰宅していた。そして、浴衣に帯をしめて、夕涼みをする私がいた。蛍の光景も目に浮かぶ。

 
 私は忘れ去っていると思われる、幼い頃の数々のことを思い出した。それらは、私が娘を育てる中で、呼び起こされ、また、新たな記憶となっていった。
 
 
 子育てをしながら、私は子ども時代を二度生きたように思った。娘の成長に合わせて、自分の幼い日々の記憶が呼び起こされたように思う。そして、その時から、私のなかで、子ども時代も現在も、ともに生き続けている。

 
 ゆったりとした時の流れのなかで、愛に育まれた生活があった。子どもの頃の生活が、私のなかで時折思い出され、また、今の私を豊かにしているようにも思う。

 そして、そのたびに思う。いつの日にか、もし、親となったなら、我が子は幼かった日々をどのような思いで思い起こすだろうかということを。





71      ときたま、いますよ、そんな人              (6月27日・日・記)  

 私が初めて議員になった年のこと。議員としては何もかも初めてで、最初の6月議会を控えていた。
 何しろ、私は市民運動から議員になったので、(他の人も同じだと思いますが)市民の要望に応えなければというプレッシャーを必要以上に自分で自分にかけていた。少なくとも、今よりはるかに心のゆとりがなかった。
 
 
 道を歩いていても、お店に買い物に行っても、頭のなかは一般質問のことでいっぱいだった。
 質問の文章が、頭のなかでテープのように絶えず流れていた。誰かが私の頭の中を開いて、コピーしてくれたら、書き写す手間も省けて、そのまま原稿になるものだった。

 
 ある日の夕方、買い物を終えて、駐車場の自分の車をあけようとしたとき、私はびっくりした。間違いなくお店の物と思われるかごに品物を入れたまま持ってきてしまったではないか。
「えーっ。何これ!」

 私は思わず、声にはならない声をあげてしまった。「私って、泥棒?、まさか!」
一瞬、自分で自分が分からなくなるほどの衝撃だった。次の瞬間、もちろんレジでお金を払ったことが自覚できたのですが。レジを通っているのは当たり前なのに、店の買い物かごに、自分でびっくりしてしまったのだ。ほっと胸をなで下ろしたのもつかの間、今度は別の不安におそわれた。

「えーっ、でも、もしかして泥棒と思われたのでは・・・」と心のなかで心配になった。何しろ、議員なのである(偉そうな意味ではありません)。
 
 市民の代表として、選挙で選ばれた者が、もし、泥棒と思われたら・・・と思うと、心穏やかではなかった。もしかしたら私が相手を知らなくても、私を知っている人がいるかも知れない。そこは選挙運動で、買い物客を対象に演説をした場所でもあったのだ。
 
 品物の入ったお店のかごなど持って歩いていたら、泥棒でなくても、泥棒と思う人もいるかも知れない。
 「市議会議員が、泥棒・・・」なんて新聞沙汰・・・? 見出しの文字が頭のなかで大きく躍った。 あ、でもレシートがあるものね。証明はできるわ・・・。
 
 
 「うわぁ、でも、どうしよう・・・」
 警察に捕まったわけでなし、証明なんて問題ではないのだ。私を見て私が泥棒だと、心のなかで思いこんだ人の「記憶」が問題なのだ。サスペンスの世界に迷い込んだ気持ちさえした。
 瞬間的に、いろんな事が浮かんでは消え、私の胸は小刻みに揺れた。
 
 
 私は、すれ違う人たちに「間違えてかごのまま持ってきてしまったんです。お金はちゃんと払ったんです。泥棒じゃないんです・・・」と説明したい思いにかられたが、それはあまりに滑稽に思われた。
 私はかごを持った姿で、何人かの人に出会いながら、駐車場からお店に戻った。妙な笑いを浮かべていたかも知れない。

 
 店の人に、私はわざわざ言った。
 「すみませーん。お金は払ったんですけど、かごを持って行ってしまいました」
「お金は払った」というところに思い切り力をこめて言った。

 
 店の男性は、「ときたま、いますよ。そんな人」とちょっと笑って、さっぱりと言った。「そうかなあ。いるかしら、こんな人」と私は思った。
 私にとって、それは、すごくやさしい言葉として響いた。何かほっとして私は車に乗ると同時に、頭のなかで、また、一般質問原稿を書き続けた。

 
 家に帰っても、一般質問のことしか考えられなかった私は、今度は机に向かってちゃんと原稿を作り続けた。 私の心を悩ませたあの瞬間の「どうしよう・・・泥棒だと思われたら?・・」という思いなんて、どこへやら。全く消え去ってしまっていた。

 
 
 それから、8年近くもたって、あのできごとを思い出したのは、3期目に向けての選挙運動期間中のことだった。
 あるスーパーの道路を隔てた前で、演説用のマイクを取り出していたら、店の中から、スーパーのかごを持って出てきた女性がいた。かごのまま出てきてしまったらしい。
 彼女の場合、店を出たところですぐに気づいたのか、照れくさそうな笑いを浮かべて、また、店の中に引き返して行った。
 
 
 私は「えー、ほんとに同じことやっている人がいた!」と、その発見にとても驚いてしまった。まわりの人は気づかなかったかも知れないけれど、私は、約8年前の自分の姿と重ね合わせて笑ってしまった。
 




70                ケセラセラ・・・・                  (6月6日・日・記)

 どちらかと言うと、あまり先のことは考えない。先のことは分からないのに、きっと、この先も不幸になることはないだろう、と思って暮らしている。

 幸か不幸かは、自分自身が思うこと。なぜか(温かい視線のなかで)冷たい視線もあり、風当たりのきわめて(?)強いなかで、「いつも住民の立場に立っている」、とこれだけは自信を持っていえることが、すごく幸せ。社会的弱者の立場に立ち、権力に強い(と思っています)自分が好き。(なんか、すごいこと言っちゃってます)

 
 私の場合、もともと人生の計画をきちんと立てるより、行き当たりばったりで、きた電車に乗ればよいというほうだ。教員になったのは、迷っていたとき、「教員になれば」と言われたのがきっかけ。議員になったのは、これまた、「議員に立候補して」と言われたからだ。この二つとも、きっかけはどうあろうとも、なったからには、精一杯、よい教師、よい(?)議員になろうとやってきた(と自分では思っている)。

  議員にならなかったら、来る日も来る日も原稿用紙の升目に・・・パソコン時代になってからは、パソコンに向かってとにかく文字を埋める作業をしていたことだろう。この文字を書く作業がとっても好きなので。 一つのことに集中する能力はあるらしい。

 今は議員の仕事に集中してしまっているので、こちらのほうはご無沙汰している。一般質問の原稿や討論原稿を必死でパソコンで打っているとき、「やっぱり、私は、原稿を書いている」と思って満足したりしている。

 
 とにかく先のことはあんまり(「全く考えない」というと、ばかじゃないのと言われそうなので)考えないので、晩ご飯のおかずも冷蔵庫を開けた瞬間、考えてすぐにつくる。ということは、それだけ、時間の無駄がないわけで、悩むこともなく、これがひどく気に入っている。
 家族が聞いたら、あきれられるので、長い間、たった一人の胸に秘めて暮らしていた。

 
 ある時、夫に話したら、やっぱりあきれられた。夫は休みの日など(自分の当番?のとき)、「あなた、今日の夕食、何にしようか。何が食べたい?」と言ったりするからだ。たとえ、5分間クッキングであっても、数時間前から、頭のなかで、「ちらちら」とは考えているのだ。
 母は、私が子どものころ、「ああ、今日の献立何にしようかしら、頭いたいわ」みたいなことを言っていた。

 人によって「幸、不幸」の感覚は違うので、この献立に悩む時間が幸福な人もいるかも知れない。

 
 行き当たりばったりの私だが、これもいきあたりばったりにやってきた。突然「死ぬかも知れない」と思ったことがあった。娘は、母がいなくても若さで何とか乗り越えていけるだろう。
 私は、夫が最愛(?)の私を失って悲しむことが、悲しくて、「死んじゃったら、ごめんね」と涙をぽろぽろと流した。夫は「まだ新しい人が見つかってないから、だめ」と言った。
 
 そんなこともくぐり抜け、ここまでやってきた。
老後、年金・・・。考えないこともないが、多少の貯蓄があっても何になるだろう。そんなもの、すぐに消えてしまうだろう。安心して暮らせる社会、まちをつくることしか方法はないだろう。まわりの人々とどうしたら、そんな社会をつくれるか考えることが大事だろう。

 
 とりあえず、考えてもどうにもならないことは、心配を増やすだけなので考えない。多少の煩わしさはあっても、助け合える地域社会の再生も本当は必要かも知れない。

 
 若い頃は、ここまで生きるなんて考えられなかった ?十年。ええ、ここまで生きてきてたいしたもの。
もっと生きてきた人は、もっとたいしたもの。
 
 ケセラセラ・・・で生きていくしかない..。とは言っても、考えてどうにもならなくても考えないわけにもいかない人びとも存在する。国民年金も上がりそう・・・。この不況、若者になかなか仕事のない時代。ケセラセラ・・・で生きられる社会が欲しいものです。





69            いのち                 (5月20日・水・記)
 
 命、それは何よりも大切なもの。事故で新車が壊れても、命があれば(「あー、車が・・・」と持ち主の本人は思っても)「よかったじゃない、命が助かったんだもの」と人は言うだろう。身内だって、「買ったばかりの車をこわして、どうするの!」なんて言わない。命が助かったことが、どんなに嬉しいことだろう。命というものは、そういうものだと思う。

 
 結婚する前で夫とつきあっていた頃、私は自分の不注意で、事故を起こしてしまったことがあった。道案内の前の車について行くということに注意がいき、理由にならない不注意によるものだった。双方ともけがはなかったが、相手方にも迷惑をかけてしまった。

 事故の直後、私に会った彼は、「(無事で)よかったぁ!」と言った。自分の着ていたコートのポケットの中に私の手を入れて、ぎゅっと握ってそう言った。すごく温かい手だった。今でも、ぬくもりと一緒にそのときのことを忘れない。

               ☆            ☆             ☆
 
 まだ、人々の記憶に新しいことだが、イラクでの人質事件があった。人質になったのは、真の人道支援を行っている女性とイラクで何が起こっているか、真実を知らせる目的で行った男性たちである。

 
 人の命が失われるかも知れないというとき、家族をはじめ親族はどんなにか、息子や娘の身を案じたことだろう。
 しかし、三人に対し、「危険なのに行った。自己責任だ」などと言う言葉が、この国の政府から出た。また、それに呼応するかのように、世間の少なくない人々から三人の若者に対し非難の声があがった。

 私は、三人が早く救出されるよう、毎日、報道に注意していた。政府との話し合いの場で、「自衛隊を撤退させない」立場をとる政府に対し、親族が声を荒げたと言って、誰がそれを責められよう。自衛隊が派遣されていなかったら、この種の事件も起こらなかったのも真実であろう。

 
 自分の家族だったら、自分は、どうなのか。何としてでも我が子をきょうだいを助けて欲しいと思うだろう。三人は無事救出されたが、今回の事件を被害者が加害者のようになったと表現する人もいる。また、本人たちにとって恐かったのは、拘束された時より解放後の日本だったのではないかとも言われた。

 
 ある時期、メディアに登場する人たちも、けっこう、自己責任論に傾いていた。海外のメディアが、日本政府を非難すると、日本のメディアも変わってきたように思う。

 海外のメディアの見解は、日本政府とは逆に日本の若者を賞賛するものだった。4月25日の朝日新聞では、「帰国の人質に”凶暴な対応”」 ー日本政府の「自己責任論」を批判ーという見出しを掲げ、ニューヨークタイムズ紙の報道を紹介した。その他、欧州のメディアでも、同じような見解であった。

 「自己責任」については、「危険な地域に行くのは、個人の責任と吹聴する」態度は、日本政府は海外にいる国民の安全を保障しようとしていないのだと指摘していた。

 
 人質三人が、政府というより国内外の民間人(自衛隊撤退を求めデモをした日本の市民を含む)やイラク人(イスラム聖職者協会の人など)、また、何よりも三人自身によって救出された日、あの日の親族の喜びようは、どんなものであったか。
  一人の人間の命が助かったことで、人はあれほど喜ぶのだ。命とはそういうものなのだということをまざまざと見せつけられた。

 イラクでは、アメリカの大義のない戦争で、子どもや女性を含む大勢の民間人が殺されている。

 
 アメリカの兵士も命を落としている。アメリカ国内でも、戦争反対の声が高まっている。
 イラクや、アメリカの兵士、民間人たち、戦争によって命を落とした人たちには、それぞれ彼ら彼女らを心から愛する人たちがいる。法治国家なら、人ひとりを殺せば、殺人罪に問われる。戦争なら殺人が許されるのか。

 戦争を始めた国、アメリカの自由と民主主義とは何なのか?人の命の尊重こそ、民主主義の根底ではないか。

 娘がアメリカに行ってから約1年がたとうとしている。「(まわりの)アメリカの人、みんなブッシュ(政府)が嫌いだよ」と娘は言った。当たり前のことだが、アメリカ人イコールアメリカ政府ではない。戦争をする国アメリカ、それを支持する日本、その両方の国に、平和を求める人々がいる。

 
 一つの命が失われる陰で、深い悲しみにくれる人たちがいる。自分のことに置き換えてみればわかることである。人間は、他人の悲しみを共有したり、想像したりできる存在である。

                ☆             ☆              ☆
 
 私は彼と、車の事故から約3ヶ月後(まるですごい事故みたいですが、たいしたことはありません)、結婚した。
 2年たって、娘が誕生した。
 関西の地に住む夫の叔父からの手紙に、こんな言葉があったのが忘れられない。

 
 「おめでとう。お父さんが生きていれば、(孫の誕生を)どんなにか喜んだことでしょう」と言う言葉だった。私たち夫婦の喜びはもちろんだが、一つの命が、人に喜びを与えることを、この言葉で、さらに強く知らされた。

 
 夫の父親は、私たちが結婚する年、その数ヶ月前のある日、校長の研修視察中に倒れた。父の死を知らせる電報が、28歳を迎えた(?)彼のもとに届いた。私自身は、彼の父にとうとう会わないままになった。母親は、すでに彼が学生時代に49歳の若さで亡くなっていた。

 
 誕生し、存在すること自体が大きな喜びをもたらす命、それが失われるかも知れない状況がつくりだされてよいはずがない。戦争で失われてよいはずがない。





68
  子育ての頃、あれこれ    耳から出てきた!       (5月2日・日・記)

 娘は幼い頃から本当に体が丈夫で、私たち夫婦も、娘の病気で職場を休むことは、なかったと言ってもいいほどだった。私は夫と「ほんとに親孝行な子ねえ」と、よく話したものだ。
 
 それでも、「三日ばしか」か何かのときに保育園を休み、実家に面倒を見てもらったことがあった。3歳ぐらいの頃だったかも知れない。そのときのことだ。


 実は、娘が生まれて以来、私は娘の耳かきをしないでいた。
欧米には耳かきというものはない(耳かきをしない)と聞いていた。耳かきがなくても大丈夫な国があるのだから、別に必要ないとも思っていた。(赤ん坊や幼児?の)耳垢はとる必要がない(自然に出る?)と、本にも書いてあったような気がする。

 それに、あんなに小さな耳に耳かきの棒を入れるのはとても恐かったのだ。もし手がすべり鼓膜にでも触れたとき、鼓膜が破れて耳が聞こえなくなったらと思うと、恐かった。

 
 その日、職場からの帰りに娘を引き取りに行くと、母が言った。
「○○(娘の名前)の耳からこーんなに長くつながった耳あかがでてきたの!」と驚いたように言った。
母の腕を広げた長さが約1メートルもあったので、私も「まさか!」と思った。 

 
 どうやら、母が娘の耳かきをしたわけではなくて、自然にするりと耳から出てきた物のようだった。
 
 実際、娘の耳から出てきたものは、もちろん1メートルもあるはずもなかったが、長いらせん状のひものようなもので、「えーっ、何これ!」と私も声をあげた。それは、けっこう透明感があり、美しくさえ思えるようなものだったと思う。今思うと、記念にケースにでも入れて保管しておけばよかったかも・・・。

 
 
 赤ん坊や幼児の耳垢をどうしているのか、誰かに尋ねたこともないので、分からない。何かよい方法があるのかも知れない。(私だけ知らなかったりして、今ごろになってなんだか恥ずかしくなってきた)

 
 後になって、なぜか、我が家では、娘も夫も耳かきが好きで、よく「耳かきして・・・!」と言われたものだ。膝枕のほうは、気持ちよさそうだが、私は胸をどきどきさせ、指を震わせながら耳かきの棒を動かした。
 
 今、成長した娘は遠く離れ、夫はパソコンを使って帰宅後も仕事に忙しい。
 そんなわけで、最近では、耳かきのリクエストもめったに聞かれない。もっとも、私も夕食後の時間、いつもパソコンに向かっている。
 
 
 「耳かきして・・・」と言われたら、私も「えーっ、ちょっと待って」と言いそう。家のあちこちにある「耳かき」は暇そう・・・。




67         年をとることもすてき?              (4月25日・日・記)

 めったに会わない、かろうじて年賀状だけのやりとりをしている友人と、ちょっとした用事で電話で話した。そのときに彼女が言った。「私ぐらいの年になると、人間がわかるじゃない?」
(ああ、そういえばそうかも知れない)と思って「そうねえ・・・」と私も言った。

 さらに彼女は続けた。「
Kさん(年上の昔の知り合い、実は共通の知り合い)に,、電話で話したら、次から次へと自分の家族の自慢話ばかりなのよ。息子が何していて、娘がどうしたとか・・・(電話を)切ろうと思っても切れないの・・・」
「えー、そうなの・・・いやだぁ・・・。でも、もしかしたら話をする人もいなくて孤独なんじゃないの」と、私は言った。

「あのさあ、人間もさあ、自分のことでなくて、家族の自慢話ばっかりするようじゃ、がっかりよねえ」
あきれたように彼女は言った。

「そうねえ」と私も言った。
「最も、私なんか自慢することもないけどさあ」と、彼女は謙遜して付け加えた。

 
 夫(妻)や子どもを他人に自慢するのもいいけれど、でも、それよりは自分自身だろう。自分のなかで自分が好きになれる(自慢できる)自分をつくることだろう。「期待」を持つ対象も、希望を見いだすことも、人生の終わりまで自分自身でありたい。

 「自慢」の種の多くは、身内の人格に触れることよりも、人間についている部分が圧倒的であるから不思議だ。例えば、「うちの息子は、超エリートで○○会社に入ったの」「娘が医者と結婚してね・・・」「うちの夫の実家が、すごいお金持ちで・・・」など。
 考えてみると、人間としての本当の価値よりは、地位や名誉やお金のことが自慢になるらしい。
 

 身内の自慢でも、「うちの娘(息子)は、ほんとに性格のいい子どもで・・・」という自慢話は、あまり聞かない。そんな話は具体的であるほど、感動することが多い。「うちの妻は素晴らしい」なんていう話も、「夫婦で尊敬できるなんてすてき」と、どんな方かしらと、その奥さんに会いたくなったりする。しかし、これらは自慢話としての価値が低いのか、世間ではあまり通用しないのだろう。

 
 誠実な人の自分自身の自慢は、人々(特に同世代)に生きる意欲や希望さえ与えて、さわやかだ。
 例えば、80歳の人が胸を張って「私は、今年から大学に通っています」と言ったら、「えー、すごい!」と思って、「大学に行かないにしても、自分もまだまだこれからだ」という気持ちになるかも知れない。
さらに、80歳の人が「それが、超一流の大学なんです」と言っても、少しも嫌みに感じられない。

「僕の作るお米はとってもおいしいです」「私はおいしいものしか作らない」(お料理の腕の自慢)「私は、この仕事で絶対にミスしません」(「絶対に」なんてあり得る?と思いつつ・・・)のような「自慢」には、そういいきれる人に私は尊敬の念すら抱いてしまう。
 
 
 最も、地位や名誉や富の話でも、事柄を述べるなかで、また自分の人生との関わりの中で語られる場合には、それは「自慢」ではなく事実として語られるだろう。

 
 いずれにしても、私は友人の話にうなづきながら、自分が納得できる生き方が最良だと当たり前のことを思った。「あの人、不幸ねえ」と言われても、人間の幸不幸は、その人自身にしかわからない。自分自身のなかに期待と希望を、つまり目標や夢を持ち続けること。そんなふうに命が終わるまでを生きていけたらいいなと思う。
 
 
 ただ、人はそれぞれ価値観が違うので、身内の自慢をする人がいれば、(富や地位や名誉の類であっても)「そうなんですかぁ・・・」と、しとやかに多少は心をこめて聞いている。身内を誇りに思うことが、その人の人生を支えているとしたら、耳を傾けることも心地よい。


 
 友人の「私ぐらいの年になると、人間がわかるじゃない?」の言葉に、人間がわかるというところまでいかなくても、ぼーっとした私でも少しはわかってきたかなと思い、「なるほど・・・」と納得した。そして、「年をとることも、すてきじゃない?」と思った。




66           我が家の生存競争        (4月11日・日・記)

 かつて、我が家の生存競争は厳しかった。人が生きるための一番の源である「食」がたびたび脅かされたからだ。

 結婚以来、我が家では、おかずを小皿にひとりひとり分けていた。サラダでも煮物でもすべてそうしていた。大皿に置いて分けなくてもいい場合もあるが、これは本能的に恐怖を感じていたからか、とにかく、常に分けて食卓に並べていた。

 おかずの食べ方は人によっていろいろだ。夫は満遍なく食べる。私の場合は、どちらかと言うと1種類ずつ順番に食べていく。
 
 気がつくと「あなた、これ、、食べないの?」と言いながら、私のお皿のおかずに、夫が箸をのばして食べている。
「どうして、私のおかず食べちゃうのー」と、私がびっくりして言うと、
「嫌いなのかと思った」と、夫は意に介さない。

「私はねえ、ある程度、順番に食べるのよ。嫌いなものはないの」と私。
「普通はいろいろ少しずつ食べるんだよ」と夫。
「食べ方なんて、自分の好きじゃないの」と、私は、おかずの消えたお皿を見て嘆く。

 幼かった頃の娘の被害はさらに大きく、「えっ、お父さん、私の!」と叫んだときには、かなりの量がなくなっていたりした。「お父さんが、私の、食べちゃった!」と時には泣きべそをかくことも。
 この癖はなかなか なおらなかったので、我が家の食卓では、たびたび同じようなことが繰り返された。
 私はあきれて、「あのねえ、親は食べなくても子どもに食べさせるっていう話もあるぐらいなのよ」と言ったものだ。もし仮に好き嫌いがあって、子どもが食べないでいれば、食べるように促すのが、普通だろうと思ったものだ。
 
 
 言われても、夫はいっこうに気にならないのか、「だって食べないのかと思った。残すの、もったいないもん」で終わってしまう。

 
 こちら側も自己防衛するようになり、その努力の結果、何年かかかって、どうにか食卓もだんだん平穏になった。しかし、その裏には、「ぼうーっとしてると、食べられてしまう・・・!」と、少なからず緊張感があったことも確かだ。
 
 冷蔵庫の「いくら」(三人とも大好物。ふだん、あんまり買わない)など、気がつくと、あっという間になくなっていたときは、娘も私も、「あーあ」と深いため息をついたものだ。それで、「いくら」などは、最初から三等分して、小皿に分けたりもした。
 そして、お皿に名前こそ書かなかったが、各自が自己責任で保管し、自分の持ち分として自分が食べたいときに、食卓に並べる時もあった。

 
 幸いなことは、作ったお料理を捨てることが、まずないということだ。煮物のお鍋もとにかく空になることが多い。夜の残りを翌朝食べるなんて話も聞くが、我が家に関しては、あり得ないことだ。

 
 冬に、娘が帰ってきた時、「お母さん、うち、おかずの量、作り過ぎよ」と言われた。確かに、そうかも知れないと思った。3人いるときに4人分ぐらい作って、2人になったのに、やっぱり4人分作っているのでは・・と反省させられた。

 
 その娘とたまたま一緒に買い求めたものだったが、味見してみると、おいしかった。それは、くらげが入った佃煮のようなものだった。
 娘が言った。「お母さん、これ、置いとくと、お父さん一人で全部食べちゃう。分けとこうよ」
私も、とてもいい考えだと思った。
「そうね」と言って、小皿に三等分して、冷蔵庫にしまった。

 我が家の生存競争、まだ続いていると思っておかしかった。

 
 今また二人の食卓になり、最近、「あれ、私のおかず・・・」と私が言ったことがあった。「知らないうちに手がのびちゃった」と夫は言った。  それは、意識がなく、ほんとに「知らないうち」らしいのだ。
 
 その数日後のこと。その日は面倒だったので、ゆでたアスパラガスを一つのお皿に出していた。いつまでも残っていて、夫が「これ、半分食べたから、あなたの(分)・・・」と言った。珍しいと思いながら、長い道のりだったと思った。人間はすぐには変わらない、気長に、気長に・・・・ということのようだ。

 
 我が家では、子どもに「よく食べたね」とほめたことは、皆無だったと思う。食べようと思って残していると、「嫌いなんだ。ありがとう」という感じで食べたい人がいるのだから。ほめられるような環境は存在しなかったのだ。
 世間の家でよく見られる(?)ような、幼子が食べるのをゆっくりと見守って、「あら、○○ちゃん全部食べたの、えらい、えらい」なんて拍手するような光景は一度もなかった。
 
 
 夫は会議で夜遅いことのほうが多く、三人で食卓を囲むことは少なかったけれど、それでも一緒のときには「生存競争」は、避けられなかったりもした。
 
 でも、考えてみると、食べられまいとすることが、娘の(食べ物の)好き嫌いも作らなかったのかも知れない。何が教育になるかわからないものだ。これも、我が家の「自慢の子育て」の一つかも・・・。
 
 世界の国々には、満足に食べられず、飢餓に苦しんでいる人々がたくさんいることを思うと、「我が家の生存競争」なんて、全くの問題外で叱られてしまいますけれど・・・。





65           サスペンスが好きなわけ      (4月4日・日・記)  

 家で何かテレビドラマをみるとしたら、恋愛ものやいわゆるホームドラマは、ほとんど見たいと思わない。私が好きなのは、何と言ってもサスペンスである。ビデオでみるとしたら、外国映画がみたい。外国映画の場合は、人間というもの(の深さ)が描かれていれば、恋愛ものでもいい。それは、外国映画を見る理由の一つに、外国語(英語)のリスニングという目的もあるからである。

 
 人の命を奪うのは嫌いと言って、なぜサスペンスが好きなのと問われてしまうかも知れない。現実でなく劇の世界だと思って見ているし、サスペンスが好きなのは、推理していく楽しみである。
 だから、初めから犯人がわかってしまうようなものは、つまらない。劇中の探偵や刑事とともに、自分も犯人を探っていく、その過程がとても楽しい。
 
 
 犯人がわかっているサスペンスでも好きな場合がある。それは、人間の心理の奥を描写したものである。例えば、松本清張の作品などは、それに当たるものと思う。松本清張の原作は、どたばたと犯人を追い求めるものではなく、活字から映像のドラマになっても、普通の小説のように「人間」が現れてくる。犯罪を犯したその背景までが描かれ、人間の弱さや複雑さが感じとれる。
 
 
 ただ、私は単に気まぐれなサスペンス好きなので、目的を持って見ることはほとんどなくて、たまたま夫がチャンネルを動かした時「、「あっ、ストップ。これ、サスペンスらしいわ」と言って、そこから見たりする程度である。だから、途中から推理が始まる。それでも、推理は楽しい。
 

 私は、議員の仕事自体が嫌いではない。それは、もしかしたら、このサスペンス好きとも関係あるのかも知れない。真実に迫るために、時には探求することが必要である。すぐには、真実が見えて来ない場合もあり、なぜ?と考えたりすることも少なくない。
 
 そして、私の見るサスペンスと同じで、それは途中からで、最初はどうなっていたのか、さかのぼって探る楽しみまで与えてくれる。
 
 ある件にかかわって、「えっ、おかしいんじゃないの」と思って行政に尋ねると「県の指導ですから・・・」という返答だったりすることがあった。「県?そんなことないのでは?」と思って県に尋ねる。すると「県では指導していません」と、市と違ったりする。
 「やっぱり!」とそんなとき思うのである。  
 
 これは(※最近では少なくなった)きわめて単純な解き明かしである。もう少し複雑だったが、ある住民運動のときなどの市の対応も、この解き明かしが必要だった。

 また、「えっ、じゃあ、そのときの会議の様子はどうだったんだろう」、「それはいつどこで決まったの?」などと、資料から資料へと解き明かしていく場合もある。この解き明かしの必要が小さくなればなるほど、もう一段上の楽しさも多くなるのかも知れない。

 
 けれど、世界の状況を見ても、政治の隠された真実は常にあるようで、それを人々の前に明らかにしていく仕事は永遠になくならないものかも知れない。
 
 「権利」は、不断の努力によって、権利として守られるということなのだろう。住民が主人公であるという住民自治の精神も、住民の絶えざる監視と自治を進めていく努力によって守られるものである。

 今も、私のまわりには、その大小(単純・複雑)はともかく、解き明かしのサスペンスの世界がひろがっている。





64        
 憎しみよりも愛が好き             (3月・19日・金・記)

「あなたは死刑制度について、どう思う?」
 晩ご飯を終えた時、夫に聞かれた。
「えっ、分かってなかったの?」
と私は言った。これまでに、二人の間でも少しは話題になったことがあったと思っていたからだ。

「人の命を奪うことは嫌い」
と、私は答えた。
 罪があるとされた人のなかには冤罪の可能性もある。人の叡智をもって裁いたとしても、過ちもある。また、本当に罪を犯したとしても、「目には目を 歯には歯を」と言う考え方は私はとりたくない。

 「そんなこと言っても、被害者の家族の気持ちになってもみて」という人もいるだろう。実際、愛する家族を失ったりした場合、「極刑を望みます」という人たちも少なくない。それはそれで、その人たちは寛容の気持ちがないとか、そんなことを言うつもりは全くない。
 
 
 ただ、「極刑の判決が下ったことは、関心の外である。恨みはない」という言葉や、「私は罪を許してはいないが、殺された娘なら、その男性が更正し、生きていくことを願っていると思います」のような被害者家族の言葉に、やはり私は心うたれる。

 私は夫に言った。
「もし、私の肉親や愛する人が被害者で、命を奪われたとしても、その人を死刑にしてとは思わないでしょうね。殺人はいやだし、犯人への憎しみをエネルギーに生きることは自分自身にとっても大変だし・・・」


 憎しみでは、私自身が人生を生きていけないと思う。だから、自分が生きて行くために、いわば自己を愛するがゆえに、加害者の命を奪う刑を望まないのかも知れない。

 ただ、もし私が被害者の家族なら、なぜ、被害にあったのかなどの真相究明がなされ、本当に罪を犯したのなら、法の裁きを受けた上で、被害者家族への謝罪の言葉が欲しいと思うだろう。そのときに、加害者を許せるかどうかは分からない。

 
でも、でも、死刑制度について語るなら、国家による殺人であるとも思える死刑制度はなくして欲しい。
 死刑制度があるから、人は罪を犯さないのだろうか。制度との関係は薄いものと思う。死刑制度がある国とない国の犯罪数などを調べてみればわかることだろう。

 「謝罪はして欲しいね」
と夫も言った。被害者の人たちには、「被害者の立場にならなければ分からないことだ」と言われるかも知れない。
 
 
 しかし、被害者でなくても、死刑制度の是非について語る資格はあるだろう。罪を許せないかも知れなくても、自分への愛かも知れなくてもやっぱり、私は憎しみより、「愛」を選びたい。そして、加害者の命であっても、人の命を奪う制度の廃止を願う。





2004年
63            みそ汁は、僕が作ります           (2月29日・日・記)

「あーおいしい!味がよくでてる。あなた、今日の、おいしい」なんて、こんなこともある。夫の作ったみそ汁がすごくおいしかった。
 もちろん、私が自分で作ったみそ汁に「わぁー、今日のみそ汁、おいしいー。ねえ、おいしいと思わない?」と相づちを求めることもある。
 もともと、みそ汁が好きなのは私よりも夫のほうだ。私は別にどうしてもというほどではないが、夫はみそ汁がとても好きだ。

 
 みそ汁と言えば、こんなことがあった。結婚することになって、夫(そのときは夫になっていない)が我が家にやってきた。スーツをきちんと着ていた。

 私も一緒で、父と母が彼(夫)と会った。
 「○○さんと結婚したいと思っています・・」のようなことを、緊張の面持ちで、まず夫が切り出した。

 「娘は夢を持っているので・・・」みたいなことを父が言った。
 彼は言った。「僕も夢を持っています」
 
 母は、何を思ったか、「娘はみそ汁も作れないんです・・・」と言った。私は驚いた。「みそ汁くらい、つくれるわ」と思った。ただ、なぜか黙って聞いていた。結構緊張していたのだ。
 
 母の言い方は、まるで、「それでもいいんですか」みたいなところがあった。なんかお見合いの席だったら、ぶちこわし役のようだった。そして、そのあと、「こう見えても、娘は結構きついところがあるんですよ」と続けた。(はあぁ・・・)と、私は心のなかでため息をついた。

 
 「はあ・・・」と言ったり、考えたりしているような感じで彼は聞いていたが、はっきりと言った。
 「みそ汁は、僕が作ります」
 そう言っても誰も笑わなかった。それぞれがそれぞれの思いを抱き、みんな真剣だったのだ。
「僕も料理くらいできますから、大丈夫です」と彼は続けた。

 そのほか、父と母が彼にいろいろ聞いたと思うが、私は、この日のことでは、「夢」と「みそ汁」の話のことしか覚えていない。

 
 それから数年たって、母が私に言った。「あのときのことだけど、ひとつだけ欠点があったの」
彼もそれなりに誠実に対応していたし、スーツをきちんと着込んでいたし、と思ったので、何のことだったのか、私にはわからなかった。

 「それは、手ぶらできたこと」と言われてしまった。言われてみれば、それもそうかと思った。
 私も夫も、あのとき「手みやげ持参」なんてこと気がつかなかった。だから、彼に「家へ来るのに、何か持ってきて」と言わなかったし、彼は彼で、自分自身が行けば、それでよいと思ったのだろう。

 もちろん、母は何か品物が欲しかったわけではない。娘の結婚の挨拶(という重大な出来事)に手ぶらでやってくるのは・・・ということなのだろう。

 
 しばらくしてから、そのことを夫に言ったら、「ふうーん」というだけで終わってしまった。
 2月29日、日曜日のこの日は夕食を夫がつくり、みそ汁には具がいっぱい入っていて、とてもおいしかったので、「夢」はさておき、みそ汁の話を思い出してしまった。






62                  赤い靴                   (2月15日・日・記)

 ふと立ち寄ったお店は、もう春の香りでいっぱいだった。
 サンダルのような春の靴。白やベージュ、ピンクのなかで、赤い靴に目がいった。その赤い靴は私からするとすごく踵が高くて、普通なら初めから手にもとらないようなものだった。赤い靴がはきたいというわけでもなかったのに、気になった。見ているうちに、赤といっても落ち着いた(?)赤で、はきたい気持ちにもさせられた。
 
 
 はいてみると、不思議と踵の高さはそれほど気にはならなかった。倒れそうなピンヒール、と思ったが、意外や意外、バランスを失うことなく歩けた。もともと踵が高い靴は好みではない。けっこう実用中心主義なのだ。特に電車を乗り継いでいくような距離の場合には、はきたいと思わない。

 

 母はよく言っていた。「踵の高い靴は駅の階段で転ぶわよ。それから、男の人に追いかけられても逃げられないから、低い靴をはきなさい」
 そのころ、私は今よりももっと踵の低めの靴をはいていたから、母の「低い靴」が意味するのは、踵の高さがないに等しいほどの靴のことだった。
 なるほど、踵の高い靴では思うように逃げられないなと、私も納得していた。

 
 この「男の人に追いかけられても、・・・・・・低い靴をはきなさい」は、独身の頃、外出のたびに母に言われていた。だから、知らず知らずのうちに、「男の人が追いかける。私は逃げる」という図式が、頭の中にできあがっていたのかも知れない。そんなわけで、逃げても根気強く追いかけて(?)きたのが、夫ということになるのかも知れない。

 赤い靴をはいた鏡の前で、こんなに踵の高い靴は、買ったことがない、と思いながら、思い出した。結婚する時、ピンクのスーツと真っ白いハイヒールを買った.。ピンクのスーツはどうでもいいのだが、白い靴は今もある。
 
 
 結婚式の数日前、ショーウインドーに趣ある様子で飾られていたその靴を、私は一目で気に入った。白い皮革についた金色の飾りもわざとらしくなくてすてきだった。
 
 
 その靴は、それまで買ったことのない靴だった。値段と踵が高かった。でも結婚式だからいいと思った。ふだんはくには踵が高過ぎて、結婚式場ではいた後は、一度、知人の祝宴で、はいただけだった。多分今も私の押入のどこかで、眠っているはずだ。
 
 白の皮革にはカビやシミのようなものが浮かび、部分的に変色してしまった。だから捨ててしまってもよい物だが、結婚式にはいた靴というだけで捨てられない。


 
 あの白い靴と同じぐらいの踵の高さかなあ。どうしよう・・・。考えあぐねた末に、私は赤いハイヒールを買うことにした。そして、いつはこうかなと楽しみになった。追いかけられたら、どうしよう。逃げられなかったら、どうしよう。そんな心配はないかしら・・・?






61                     ほめてなーい              (1月25日・日・記)

 昨年、テレビに映った方、見たような方と思ったら、教育講演会の講師として、以前、この地にも何度か見えたA氏だった。
 そのころ私の参加する講演会は、現場の教師が主催し、招くものがほとんどで、それは具体的で感動もあり結構明日への仕事へのエネルギーにつながるものだった。

 
 もちろん、それ以外にも講演会に参加の機会はあった。今も講演会というのは、大流行だが、ただ、おもしろおかしくて、そのときは楽しいが、後に何も残らない話というものもある。
 
 いわば、そのとき限りのレクリェーションのような講演もある。また、とても偏狭な考え方のもとでの「家庭とは、教育とは・・」・というものは古い教科書のようで、これもまた最悪である。
 
 なかには、講師が自分だけ立派なような顔をして、参加者をこき下ろす事で話を盛り上げる講師もいるようだ。参加者は講師にはこき下ろされても、「先生」と仰ぎ楽しいのか、こき下ろされて笑っていたりする。テレビに出て来る著名人で話慣れしていて笑わすことはうまいが、ただそれだけというものは、私は好まない。

 
 
A氏の話は具体性があり、子どもを取り巻く社会環境も視野にいれたものだった。そして日々の教育実践に元気をもらえるものだった。
 
 私はその日も保育園から娘を迎えに行ったあと、教育講演会に参加した。娘はたいてい一緒につれて行くことが多かった。娘は4歳くらいだったか私の隣の席で絵を描いたり本を読んだりしておとなしく過ごしていた。
 
 
A氏の話のなかのほんの一こまとしてこんなことがあった。「何でもいいんです。ご飯をいっぱい食べれば、よく食べたね、とほめてください」
「皆さん、ほめていますかぁー?」 と
A氏が言った瞬間、すかさず、絵を描くことに熱中していると思われた娘が突如として顔をあげ、「ほめてなーい」と会場に響き渡るような子どもの声で叫んだのだ。
 


 それまで静まりかえっていた会場にはどっと笑いが起こった。夫も私もご飯をいっぱい食べたからと言って「よく食べたね」と娘をほめたことはなかった。理由は簡単で、言わなくてもよく食べる子どもだったからだろう。でも、まるで子どもをほめたことがない親のようできまりが悪かった。最も、私も会場のみんなと一緒にどっと笑っていましたが。

 
 あれからずいぶんたって、昨年、テレビで意外にも若い母親むけに講演していた画面のなかの
A氏は、「読み聞かせの薦め」の話をしていた。
「ほめてなーい」を思い出すと同時に、私は、その画面から「ああ、よく読み聞かせをして子育てをしたな」と思い起こしていた。
 
 最近、娘がこちらに帰っていたとき、何かのときに「お父さんね、お母さんは仕事ばっかりだったのよー。第一ゆっくりと話す時間だってなかったんだから・・・」と母親の子育てを厳しく(?)批判した。だが、このとき、私は自信を持って言った。

「何言ってるのよ。ねえ、あなた」
傍らの夫に、「私、何歳まで私読み聞かせしたっけ」と語りかけながら、娘に、
「あなたが小学校何年生ぐらいまでだったかしら、相当長い間、毎晩、寝る前に寝床で読み聞かせしたんだから・・・」
 心の中で強力な応援団がいた。(読んでると眠くなっちゃたりしても、仕事があっても毎日読んでいたんだから・・・)

 
 その前に、同じようなことを娘が言ったことがあった。そのときには、反撃できなかった。(心の中では、「えー、結構、いろいろと話してたじゃないの」と思ったが、相手がそう思っているのなら仕方がないという気もしたので)

「お母さんはね、忙しかったかも知れないけど、いつも自分の行くところに子どもを一緒につれて出たのよ」
 確かに親が自分のことをしたいためではあったかも知れないが、学習会や演劇等文化的なもの、親の行く場所に赤ん坊のときから連れて出た。どうしても連れて出られないときもあり、夫や実家にお願いすることもあったが。(実家の人たち、ふたりの姪にも良く面倒をみてもらった)

 しかし、娘は素っ気なく「一緒につれて出てもだめよ」と言った。
私は、「そう・・・」としか、そのときには何も言えなかった。
 
 
 でも、あの
A氏をテレビで見た後からは、読み聞かせをしてきた事実がよみがえった。
だから、あれからは言われてもひるまない。小学校の中学年まで読んだだろうか。正確な記録はない。(もしかしたら、あるビデオが家に残っていれば、分かるかも知れない)
 
 娘は育休明けの生後10ヶ月ぐらいから保育園に行き、家に帰り夕食。夜は、私が絵本などの読み聞かせや、または親の作った話を聞きながら眠った。即席のお話に、娘が声をたてて笑ったことも、思い出す。
 
 子育ては難しい。親の思いと子の思いは同じとは限らない。でも、我が家にも自慢の子育てが少なくとも一つはあったのだ。まさにこれは皆勤賞ものだ、と私は心のなかで胸をはった。

 
 たまたま、テレビに映った講師の画面から思い出した「ほめてなーい」と「読み聞かせ」。
 思い出させてくれた
A氏とタイミングよくテレビの画面に出会った自分に、(たいした武器ではないかも知れないが)「反撃の武器をありがとう」、である。
 




60                    あたらしい年に         (1月13日・火・記)

 去年の1月は、妙な初夢を見て、あまり気分がよくなかったが、今年は良い夢も悪い夢も見なかった。
 でも、今年くらいいろいろ新年に決意した年はないみたいだ。人生のゴールまでをどう過ごそうかと無意識のうちに思ったのかも知れない。どちらにしても、今年はこの目標で過ごしたいという目標を持ったのだから良いことだ、と思う。
 
 
 一つは一日の時間配分をきちんとすることだ。私の部屋の本棚のガラスには古びた日課表がはってある。起床から就寝までを、細かく定めたものだ。今はこれとは全く関係なく過ごしている。この日課表を今の生活に合った新たなものに変えて、基本的には実行すること。

 
 でも、他にどんなことを決意したの?と聞かれると、とても決意とは思えないような恥ずかしいことばかりだ。
 これは、(日課表に関係するので)一つ目に含まれることだが、例えば、夜更かしの癖をなおすことだ。昔から夜はいつまででも起きていられる。
 それをかなりの期間持続できるので、簡単にいうと無理がきく。ただ、朝はとても苦手だ。今年からは、12時には就寝できるようにしようと思っている。(といいながら、昨夜も2時まで起きていたので、私にとってはかなり難しい)

 
 今年、「初日の出で新年を迎えました」というメールをいただき、ああ、そんな新年の迎え方もあるんだなと改めて思った。私は初日の出を一度もみたことがない。なぜかと言うと、生まれて(?)このかた夜型の生活で、初日の出なんて、とんでもないと言う感じなのだ。
 
 いつか、何かの講演のなかで講師の方が「朝、起きると、『今日は早く寝よう』って、起きた瞬間から、寝ることを考えている人がいるんですよねえ」と言うのを聞き、「まるで私みたい」と笑ってしまった。

 朝目覚めると辛くて、私は「ああ、今日こそ早く寝よう」と思うことを繰り返していたからだ。「でも、もしかして、そんな気持ちがわかる人って、講演した人、自分がそうだからじゃないの?」なんてことも思ったのですが。
 
 人生は、いかに限られた時間を豊かにゆったりとした気持ちで生きられるかのように思える。時間配分はあってももちろん時計の針のように生きることではなくて、無駄な時間もつくること。明日のためにきちんと眠ること。それが、よりよく生きる力になるというあたり前のことが、やっと分かったような気がする。

 時には無理をして緊張し続けて時間との闘いで過ごし、その後に訪れる開放感が私はとても好きなのだが、基本的には、あまり良い生き方とは思えない。

 

 2番目は、体力作りだ。日常的に全く運動をしない私。「走ったほうがいいんじゃない?」「走らなくても歩いたほうがいいんじゃない? 一緒に散歩しようよ」「せめて家でストレッチでもしたほうがいいんじゃない」こう家族に言われ続けて?年。

 
 あとは、今年は形になるものを作りたい。そのほか仕事に関わることでもいろいろあるが、ここでは省略。戦争という名のもと、人が人を殺すなんてことやめようよ。そんなことも言いたいですね。

 ともかく、いくつもの思いを新年に決意したのは、いまだかつてない。だから、それだけで(実行できなくても?)今年はきっといい年になると信じている。




 ここから2004年
59                 ピアス記念日                (1月11日・日・記)
 
 ピアスの穴をあけてから、もうすぐ1年がたとうとしている。 私のピアス記念日は1月27日だ。戸籍上の結婚記念日は忘れても、ピアス記念日は忘れないだろう。

 
 最初は、体に穴をあけるなんて、たとえ一部分でもイヤと思っていた。その後、気が変わり、ピアスにしようと思ったときに聞いた話が「痛い」とか、穴がしっかり形成されるのに1年くらいかかった人の話も聞いたので、断念したことは、前にこのエッセイ欄に書いた。

 
 それでも、ピアスに対する興味を失っていなかったので、耳元で可憐にゆれたりきらりと光を放つピアスを目にするたび、「すてき」と思ったり、「痛くなかったですか?」などと尋ねていた。そのころは、テレビに出てくる人を見るときでも、顔よりも耳ばかり見ていた。
 
 どんな小さなピアスも見のがさないほど、私の目は耳ばかりじっと見た。そして、ピアスばかりでなく、人間の耳もいろいろな形があるんだなとつまらないことを思ったりした。

 
 ピアスへの「決断」をしたのには、知り合いである二人の女性に時を前後して出会ったからだ。と言っても何か特別なことがあったわけではない。
 
 1昨年の暮れにAさんに会った時、彼女の「仕事中にね、ちょうど目の前で耳元のピアスが光って揺れたの。うわあ、きれいと思って、私もピアスをすることにしたの」という言葉がまずきっかけとなった。私の頭のなかで、その情景がゆれた。
 
 その後、昨年の1月、ひょっこり昔の同級生に銀行で出会った。彼女のピアスが目立った。両耳で真珠など合計5つのピアスをつけていた。「痛くなかった?」いつものようにこの言葉を私は発した。「ねえ、どこであけたの?」と私は続けた。
 
 
 彼女から某皮膚科の名前を聞いた私は、その日の夕方ピアスを買ってから電話して、翌日そこを訪れた。受付で「ピアスを見せてください」と言われた。受け取った彼女は、他の女性と何やらピアスを手に話していた。私が持って行ったピアスは適当ではなかったようだ。
 
 私は自分の好みのピアスを買ったので、それが最初のピアスにふさわしいかどうかなんて考えたこともなかった。結構飾り部分が大きめだった。小さすぎるとめり込んで、大きいと皮膚に負担がかかり、穴の形成に不都合であることがわかったのはこの日医者に行ってからだった。

 
 医者に「これだと適当と言えないんですが、今日あけたいですか?」と聞かれた。「はい」と私は答えた。せっかく決心してきたのに、今日帰ったら、明日は決心がにぶるかもしれないと思った。

「1ヶ月の間は、夜眠るときもとってはいけません。寝相はいいほうですか」と言われて、びっくり。
 寝相もいい方とは思えない。揺れる飾りが下がったタイプのピアスを1ヶ月ずっとつけっぱなしとは、気が重くなった。なんだか拷問にかけられる気さえした。「ピアス拷問」という聞いたこともない拷問だと思った。

「もし、違うものと付け替えたい時には早めに来てください」と言われ、また2日後には、あわてて小さいものに替えた。
 
 最初、取り替えたのが影響したのかわからないが、1ヶ月たっても、穴の形成が十分にできなかった。
 誰かが言っていたが、穴が形成されないうちに途中で外してしまったり、膿んだりすると完全に穴ができるのに半年、1年かかることがあるという。私の場合もあてはまりそうだった。それに、夏になって、ピアスをつける時には穴の皮膚を痛めたらしい。針(?)の部分が太めのピアスだったのに、無理をして皮膚を傷つけてしまったようだ。
 
 
 四つ葉のクローバーのピアスだったのに、幸せでなく不幸を招いた。汗も災いし、もともと皮膚も強くない体質なのか膿んでしまった。でもピアスをしてないと、膿みでふさがれ、たちまち針が穴に通りにくくなることに気づいたときは、ショックだった。流れ出る膿みと毎日闘って根気よくピアスをし続けていた。

 過去にピアス経験のある友人(彼女は金属アレルギーで穴をふさいでしまっている)に言ったら、「医者に行ったようがよい」と言われ、また皮膚科を訪れた。その後なんとかピアスをすることができたが、すぐには完璧というほどにはならなかった。結局、1年ほどかかってしまったというわけだ。

 
 
 ある時、何が原因か忘れたが、ちょっと落ち込んでいたことがあった。そのとき夫が言った。
「早く耳がなおって、あなたがいろんなピアスができるようになって、元気になれるといいね」
 そのとき、私もピアスが自由にできるようになれば元気になれる気さえしたものだ。

 今年もがんばれるように、新年に新しいピアスを買った。そしたら、娘からの誕生日プレゼントが白と黒の2種類の(私が持っている物より高そうな)デザインもすてきな真珠のピアスだった。

 
 娘がピアスの穴をあけたとき、「何で体に穴をあけなければならないの」と思って、私はいい感じのことは言わなかった。今は「すてきなピアスじゃない?」と言っている。ときたま娘に私からあげることもある。


 ピアスから心の元気をもらっているのだから、ピアス記念日を契機に、もっと元気になれるように体力づくりでも始めようかなあ。



ここまで2003年

58   
        のぞき穴から                (12月28日・日・記)

 2年くらい前に、玄関の扉を新しくすることにした。
 ぬくもりが感じられる明るい色彩の木材の扉であったが、風雨にもさらされて、ニスがはげたりして表面が傷んできていた。他にも改修する箇所があったので、ついでに玄関のドアも取り替えようかということになった。
 
 改修を依頼した会社のひとが訪れたとき、何と信じられない言葉を聞いた。
「あのう・・・、のぞき穴のガラスが反対に取り付けられていましたよ」ということだった。
「えーっ!ほんとに?・・・?!」
私はびっくりとしてしまった。

「ねえ、あなた、うちののぞき穴、反対にとりつけてあったんですって!外から中が見えていたのよ!・・・今までずうっと・・・」
 夫が帰宅するやいなや、私は言った。
夫も、「えーっ!」と言ったきり驚いて言葉を失った。その後、「うそー!」と夫が言い、私が「ほんとなのよ」と言って、なぜか二人で笑ってしまった。

 
 のぞき穴は、普通、家の中から外部の人が見えるように取り付けられている。ところが、我が家の場合、外の人から、中が見えるようになっていたという。
「そんなバカな!・・・?」
 腹立たしかったり笑ってしまったり、あきれたり。

 あきれた訳は、反対に取り付けた業者と、それに気がつかずに長年暮らしていた自分たち家族の両方だ。確かに実験してみると、外から、家の中が見えた。これまでの長い間には、あわてて、玄関からまっすぐ先の洗面所の境のドアが開けっ放しになっていたり、廊下に物が置かれていたこともあっただろう。

 とにかく新しいドアが取り付けられるまでの間、内側から、小さく切った円形の紙を貼りつけ、外から中が見えないようにした。「反対ののぞき穴」に気がつかなかったということは、内側からのぞき穴を使わなかったということ?つまり中から訪問者を見たことがなかったということ?自分自身でも信じられなかった。

 過ぎたことは過ぎたこと。まあ、仕方ない。訪問者がのぞき穴から家の中をのぞくなんてこと、よほど変わった人でない限り、あり得ないことだろう。まさか・・・である。そんな結論をだし、心を落ち着けた。

 新しいドアになり、娘が帰ってきた時、私は、「家のドア、のぞき穴が反対だったんだって。外から中が見えていたのよ!」と娘に言った。
 娘は別に表情も変えず、「そうよ。あたし、小学生の頃、学校から帰った時、外から中見てたもの」と言った。のぞき穴の位置は低いので、小学生の頃の娘には、見えた位置でもあったのだろう。「中から、外は見えなかった」と娘は言った。

 何と何と、気づいていた人はいたのだ。ああー。





57              自分へのご褒美              (12月15日・月・記)

 自分へのご褒美を買おうと思う気持ちが芽生えたのは、いつの頃からだろう。
 それまでは、ただ買っていたのだが、最初に意識して買ったのは、児童文学作品で某文芸賞をもらった時だった。その時には、(賞金が出たこともあり)幸せの象徴、四つ葉のクローバーの形のペンダントを買った。いくつか石の種類があって、迷わずに誕生石を選んだ。
 
 せっかく記念に買ったのに残念なことに、それはしばらくして、なくしてしまった。はるか昔に買ったペンダントはずっとあるのに、なぜ、幸せを意味する四つ葉のペンダントがなくなってしまったのか、ほんとにがっかりした。

 その後は何度か、自分にご褒美をあげようと思いながら、そのまま過ぎて来た。議員になってから社会福祉を学ぼうと思って入った大学を卒業した時には、やっぱり自分へのご褒美はふさわしかった。ご褒美にはすてきなペンダントが欲しかったのだが、前に買ってからしばらくしてなくしてしまったことを考えると、ご褒美とするには気が進まなかった。

 そのとき、父が「よくがんばったね」と喜んでくれ、父は記念の贈り物をしたいと私に言った。母からはあっても、父から贈り物らしい贈り物をもらうのは生まれて初めてだった。
 
 父は、「これから出版される本だから」と言って、目録を示し、女性史の関係か社会福祉の関係かどちらの本がよいかと私に尋ねた。私は社会福祉関係の書物を選んだ。

 その本が、あるとき行方不明になってしまって、私は必死で探したことがあった。
 それ以来、つかっても必ずもとに戻すよう、居間の本棚において、常に健在かを確認できるようにしている。なんだか、父からのご褒美で十分になってしまって、自分へのご褒美は買わずじまいになった。

 
 先日、大学がお休みになり帰国した娘と買い物に出かけた。品物を見ているうち、すでに所有していて必要ではないのだけれど買いたいというものは、やっぱり無駄遣いのような気がして躊躇した。
 「うーん、どうしようかなあ・・・」と考えた。そして出した結論は、「自分へのご褒美」だった。自分では日頃仕事を精一杯やっていると思っているので、途中だが一区切りとし、自分にご褒美をあげることにした。何を買ったかはここでは秘密。


「これ買うけど、買っていい?」
と、私は聞くのがおかしいと知りながら、思わず傍らの娘に尋ねた。買うのは自分のお金なので娘には関係ないのだが。必要感が乏しく自分のおしゃれの部類に入る買い物なので、気が引けたということである。(かつて、娘は幼い頃、お店で私が品物の前で立ち止まると、「おかあさん、いろいろ持ってるでしょ」と母の手を引っぱったものだった)

「私はもう自分の物、買ってもらったから・・・。いいんじゃない、買えば」
と娘は笑って答えた。許可(?)を得た私は、自分からのご褒美をもらって、ちょっと幸せ気分だった。(品物自体は、ごくささやかな物なのですが)


 
 結局、自分へのご褒美というものは、買う必要性がない贅沢品だけど、買いたい時に「これはご褒美よ」と(理由がつけられる時に)理由をつけて自分を納得させるもの、ということがわかった。
 





56
         こころの風景                  (12月7日・日・記)


 テレビで池内淳子さんが出ているのを見て、「香川京子さんは、どうしているかしら・・・」とふと思った。別に知り合いでも何でもない。幼い頃に見た映画「しいのみ学園」を思い出したからだ。 その映画に先生役として香川京子さんが出演していた。きれいな先生だと私は思った。母は俳優の名をよく知っていたので、私もそれを聞きながら育った。
 
 
 この「しいのみ学園」は、なぜか、ずっと私の心に残っていて、主題歌のメロディーまで覚えていた。
「ぼくらは しいのみ、まああるい しいのみ・・・お池に落ちて遊ぼうよ、お船に乗って遊ぼうよ・・・・・・・遊ぼうよ、遊ぼうよ・・・」
 もし間違いなければこのような歌詞があって、今でも歌える。
 映画の内容はほとんど覚えていない。でも、足の不自由な子どもたちが出てきていたように思う。子どもたちが暮らしていたところが「しいのみ学園」で、先生役が香川京子さんだった。

 今でも歌を口ずさめるあの映画はどんな映画だったのだろう。年をとったのだろうか。昔見た映画に興味を覚えるなんて・・・。
 
 幼い頃、私は母と映画を見に行った。母は映画サークルに入っていたと言っていた。どのくらいの数の映画を見たのかもわからない。今覚えているのは、「しいのみ学園」と「蟻の街のマリア」だけだ。他に、時代劇も見た。いわゆるチャンバラものと言っていたもののようで、大きな井戸のなかに、刀で切られた侍が水しぶきをあげて真っ逆さまに、ざぶんと落ちて行った場面が今でも記憶に残っている。
 
 あのころ、まちには映画館もあったので、映画はいくつも見ているはずだ。でも、ほとんど記憶にない。
 最近になって、私はインターネットをつかって、「しいのみ学園」を調べてみた。1955年の作品ということなので、映画は私が小学校1年生のときの作品ということになる。

 九州の大学教授が全財産をなげうって小児麻痺の子どもたちの学校を創ったということだ。教授の二人の子どもたちも、小児麻痺だった。「しいのみ学園」は実在の学校だった。

 以下はあらすじである。
 岡山から来て、しいのみ学園で生活する鉄夫は 最初いじけたところのある子だもだったが、次第に明るい子どもになっていった。楽しいピクニックの翌日岡山の父母に手紙を書いたが返事がこない。電車ごっこをしていた鉄夫は、誤って倒れたことが原因で重病になる。
 
 「手紙、手紙・・・」とうわごとを聞いた先生(香川京子さんの役)は、自分で手紙を書いて郵便局から出した。それを父母から届いたものと思い、喜びながら死んでいった。その初七日に先生と子どもたちは鉄夫にお別れの手紙を書き、しいのみ学園の歌を歌いながらポストに出しに行くという話だった。

 あらすじを改めて知った私は、先生と子どもたちがいっしょに急ぐ姿が思い出されるような気がした。

 
 子どもの頃のもう一つの記憶に残る作品は「蟻の街のマリア」だ。私は「蟻の街」とだけしか覚えてなかったが、正確には「蟻の街のマリア」という題名の映画だった。この作品は、若い女性が貧しい人たちの住むところに入って行き、苦労を共にするといった内容だったと思う。私の記憶のなかでは、若い美しいお嬢さんが必死にリヤカー(?)を引いている場面が心に残っていた。

 インターネットによると、1958年の作品だった。私が4年生ぐらいの時の映画だ。マリアの洗礼名をもつカトリック信者である北原怜子さん(実在の人物)が不幸な人たちの存在を知って救いの手をさしのべようとやってきたのだった。(インターネットの説明)彼女は貧しい子どもたちの資金集めのため働き、過労で倒れた。


 確か二つの映画は小学生の時に見た映画である。なぜ、こんなにもいつまでも記憶にあったのか不思議だった。蟻の街の北原怜子さんの名は、社会福祉の勉強をしたときに出てきてそこで記憶が一度かすかにつながれたような気もしていたが、その程度だった。
 
 
 この二つの映画は特に私の人生を左右したわけではないが、あんなに昔に見たものなのに場面が記憶に残っていることが不思議で不思議でたまらない。幼いながら(子どもながら)心をうたれたのかも知れない。


「あれは、どんな映画だったのだろう・・」。特に歌まで覚えていた「しいのみ学園」については、今回その謎がインターネットで解けてすっきりした。映画ができた頃、私はまだ子どもで、母はまだ若くて、あのころには戻れないが、懐かしい。映画を見せてくれてありがとう。




55        あと始末は?                  (11月16日・日・記)       
 
 共働きだと、余裕なく朝家を出るので、火の後始末が気になることがある。
 以前は、私も夫もほぼ同時刻にせわしく職場に向かっていたので、特に冬の季節は、ストーブが心配だった。

 それに以前は、反射型のストーブを使用していたこともあり、車を発車させてから、「あれ、ストーブ、消したかしら・・・」と心配になる。引き返すと、ちゃんと止めてある。(無意識のうちに後始末をしている)遅刻しそうで、「いいや」と思って行ってしまうこともある。あんなに気になっていたのに、勤め先にいくと、もうすっかり忘れている。
 
 勤務が終わり、家路へと向かうとき、朝のことを思い出して、自分の家があるかなと思ったりする。火事で燃えて、もしかしたらお隣の家までなかったりして・・・なんて思い、背筋がぞくっとしたりした。家々の間から、我が家が立っているのを見つけた時、「家があった!」とほっとする。

 
 夜は寝た後が心配だ。お布団に潜り込んだとき、突然、「はっ」とする。「ねえ、ガス(の元栓)止めたか、自信ない・・・」と私が言う。(ストーブは「寒い・温かい」とからだに感じるので、夜の消し忘れはほとんど心配なく、ガスのほうが心配だった)

 お互いに起きあがるのがいやなので、「大丈夫だよ」と夫。
「えー、火事になっても知らないわよ」
と半ばおどして(?)私が言う。
「じゃあ、じゃんけんしよう・・・」
と夫が言って、「じゃんけん、ぽん」とじゃんけんをする。1回ではつまらないので、5回勝負くらいする。途中勝ちそうかなと思う方が最後に負けたりして、おもしろい。5回先に勝ったほうは、見に行かなくてすむ。

「ねえ。お風呂のスイッチ誰がみてくる?・・・」(自動的にスイッチが切れないものなので)
「じゃあ、じゃんけん」
というわけで、我が家では、何かというとじゃんけんをしていた。どういうわけか、私がいつもというくらいよく勝っていた。勝った方は勝利の大笑い。それなので、私はこのじゃんけんのおかげで以前はとても楽をしていた。

 
 いつの頃からか、二人ともじゃんけんをしなくなった。この前、娘が帰って来ていたとき、「お母さんとお父さん、じゃんけんでどっちの名前にするか決めたんでしょ」と言われ、じゃんけんの「始め」を思い出した。
 このときは、私のほうがじゃんけんに負けてしまい夫の姓になった。くやしかったけれど「まあ、仕方ないや」とあきらめた。実はこの話は娘にだけしかしていない話だった。夫が誰かに話しているかは知らないが・・・。

 最近は、じゃんけんはしなくなったけれど、夜心配がないかというと、そんなことはない。時たま「あれ、ガス・・・」と思い出す。「ちょっと見てくる」と言って私が進んで起きあがる。または、「ねえ、ガス、見てきて・・・」と私が言って夫が起きあがる。娘にじゃんけんのことを言われ、じゃんけんが懐かしく思えた。

 
 現在は、火事の心配のない暖房を使用しているので、出かけた後の心配は、ほとんどなくなった。火事ばかりでなく、心配の時はたいてい大丈夫なので、心配しなくなった時は、逆に恐い。





54            椅    子               (10月4日・火・記)

 子どもって、椅子が好きだ、と私は思っている。我が家でも、ある時期まで小さな椅子があった。まだ娘が赤ん坊のときには、姿勢がある程度調節できて、危なくないように固定できるベルトつきの椅子。少し大きくなると、小さいけれど、一人前の顔して座れる椅子。その後は、足がつかなくても、大人と同じ椅子に座るようになった。娘の成長とともに使う椅子も変化した。

 
 また、椅子というものに愛着を覚えるとともに、自分の選んだ椅子が欲しくなるのだろうか。我が家では、最初は近所や親戚でもらった椅子を使ったが、娘にねだられて、子ども用の椅子を買ったこともあった。

 
 改めて考えてみると、椅子は人にとって、魅力的なものなのだろうか。幼かった娘は「00ちゃん(自分の名前)の椅子!」と叫んだりして、よく椅子にちょこんと腰掛けていたりした。
 子どもは椅子取りゲームも好きだ。教員時代、ゲーム大会と称して、その中の一つとして椅子取りゲームをしたことがあった。真っ先に椅子に座ろうとする、そのスリル、座れた時の快感は(自身も経験したことがあるが)「やったあ!」という気持ちだ。
 
 
 椅子は、必ず誰かが座るもので、ぽつんと一つだけ空いた椅子は誰か主を待っている気さえする。先日、市の某部署に行ったとき、椅子が主を待っていた。まさに、そのように見えた。そして、椅子がたいそう立派に見えた。背もたれが高く、私は「えっ、こんな立派な椅子、あったの?」と思った。

「部長の椅子ですか?」と私は尋ねた。その部署は二部制になり、部長職が増えることになっていた。
「そうです」その場の職員の方が答えた。
「えー、椅子って違うんですか?」
と私は言って、あたりを見回した。周りの職員の方の椅子は普通の灰色の事務用の椅子だった。
「そうです」

 今まで議員になって以来、市役所の職場を見てきたのに、椅子にこんなに差があることに気づかなかった。椅子に注目することがなかった。遠くの部長席に目をやると、確かに大きくて背もたれが高い。少し黄ばんだ(はじめからそのような色だと思う)白いカバーがかかっているから、大きさの違いがそう目立たない(ような気がした)。
 新品かどうかは知らないが、新たに用意された椅子はまだカバーもなく、主を待っていた。

 
 「部長の椅子、課長の椅子・・・・」というような話はサラリーマンの世界の話として聞いたことはあるが、市役所もそうだとは気づかなかった。

 私がおかしいのだろうか。私は椅子の違いに本当に驚いてしまった。座り心地がよいのだろうか。背もたれがあんなに高いのはふんぞり返りそうな気がした。

 
 私の次の疑問は、部長の椅子だけでなく、もしかしたら、もっと段階は細分化されているのではないかということだった。でも、まさか・・・たかが椅子のことだ。仕事をするのはみんな同じ。仕事がしやすい椅子が、職員みんなにあてがわれているのだろう。

 翌日、「部長の椅子って違うんですねえ・・・」といいながら、某課の椅子を見たら、課長の椅子も違っていた。部長ほど立派ではないが、課長の椅子も少し立派だったのだ。机も大きめだ。
これまで、私は椅子よりも座っている人ばかりを見ていて、椅子を見ていなかったようだ。

「あれ、課長の椅子も違うんですねえ・・・」
と言いながら、さらにわかったのは、ああ、何と・・・!さらに段階づけがされていて、肘あてがついた椅子と肘あてがつかない椅子があったのだ。(机の大きさもやはり違っていた)まさか、と思っていたことが、的中してしまった。

 別の課を訪れたとき、「椅子が違うんですよねえ、驚きました」と言ったら、
「主任になると、何も言わなくても、椅子がくるんです」ということだ。
 ずいぶん細かな注意が働くようだ。主任になると、「肘あてなし」の椅子から「肘あてあり」の椅子に交換されるようだ。(数の変化に対応できる「肘あてあり」の椅子の在庫があるのだろうか、などとよけいなことまで考えてしまう)
 
 一体なんのためにここまで、細かく差をつけるのだろう。椅子にまでランクづけするなんて、私だったら、いやだなと思った。市役所で働く可能性の全くない私だが、主任になったとき、肘あてつきの椅子を誰かが持ってきたら、「いいです、今までの椅子で」と言いたくなってしまう。個人的には肘あてつきの椅子が好きだが、「仕事で使う椅子までランク付け」ということに抵抗を感じると言う意味で。

 
 某自治体に椅子のことで、問い合わせしてみた。そこでは、職員の椅子は全部肘あてつきの椅子だということだった。「やっぱり・・・!」と思った。本市のように細かくは分かれていなかった。


 椅子は、仕事をする上で、重要な道具だ。例えば、すぐに疲れてしまうような椅子は不適当である。職員が仕事しやすい椅子はどのようなものかという観点で、(肘あての有無を含め)椅子の種類も選ばれるものだろう。(個人的な好みもあるかも知れないが)、圧倒的多数の人が、仕事に適当な種類であるとする椅子を職員の椅子として購入することが、仕事をする上においても、また財政上にも効率がよいに違いない。


 子どもの椅子取りゲームと同じとは言わないが、あまりに細かくランクづけられた「椅子」に競争社会を感じた。ランクのあがった椅子に座ると快感があるのだろうか。「あの椅子に座りたい」(?)と新たな椅子を目指して働くのだろうか。(意識しない人も含めて)思いは人それぞれだろう。
 
 仮に「競争」というものがあるならば、椅子などで差をつけず、市民に顔を向けた仕事の内容で、職員の方が互いに力を合わせ、知恵を出し合うといった競争であって欲しいものだ。

 
 子どもは成長とともに、体に合った椅子に変わるが、おとなにとって、椅子はランク付けの象徴として存在するのだろうか。


※議場の傍聴席(固定式)はクッションもなく固く冷たく、座り心地はひどく悪い。普通以下の椅子である。なぜ、あのような粗末な椅子なのだろうか。椅子一つとってみても、設置時には考えられつくられたものである。何も考えず、自然にああなったとしたら、もう言うことはないと言う感じである。





53
      ごくろうさま              (10月19日・日・記)  

 夕方、ときどき電話がかかってくる。相手は若者の声でこれまでと同じ人、または同種類の会社かなと思われるのだが、さだかではない。名乗る名前は同じではない。
 男性なのだが、声の調子も女性のようにいやに高かったりすることもある。無理して変えているような気もする。そんなことはどうでもよいことだが、この種の電話はその気持ちがない者にとっては煩わしいもの。
 
 
 話の内容は、ワンルームマンションやアパートを持つことや投資のおすすめだったりする。最初のうちは、(断っても)私に一生懸命に話していたのだが、最近は見込みないとあきらめたのか、電話は夫あてになり夫が留守だとわかると、「あっ、留守ですか。わかりました」と言って、向こうもさっぱりと電話を切るようになった。
 
 そのうち、「00ですが、△△さんはいらっしゃいますか」と夫の名前を指して言うので、「00さんとおっしゃいますと・・・?」と尋ねると、「友人です」と答えたりする。「どちらの?」と重ねて尋ねると、九州だったり北海道だったりする。でも、そんな友人の名前は夫から聞いたこともない珍しい名字だったりした。


 名乗る名前は違うのだが、同じ人のように話し方が似ていたりする。
また、ある時は「しのぶ中学の 00の 00ですが・・・」
と言った。管理職を名乗っていた。忍(おし)中学校はあるけど、忍(しのぶ)中学というのは聞いたことがない。管理職(教頭職と言っていた)の名前も違うのではないかと思った。
 
 相手は私が居留守を使っていると思っていて、「00中学の00」と名乗れば、夫が出ると思ったのだろうか。でも、会議の多い夫は本当に留守なのだ。


 「あのう、しのぶ中学校というのはないんですけど・・・」
私は「ははあ、忍中学の「忍」を、「しのぶ」と読んでいるんだな」偽者だなと思った。自信があった。

 「ありますよ。忍(しのぶ)中学ですよ。あるんですよ。しのぶ中学の00です」
声も大きくなり、相手の自信は、私以上だ。

 あまりの自信たっぷりさに、電話のあと、私は忍中学校の学区の知り合いに電話を入れてしまった。万が一もし、相手が本当にその中学校の方だったら、とんでもなく失礼な受け答えをしてしまったことになる。そんなことはないと思いつつも、私はあわてた。

 「もしもし、あの・・・忍(おし)中学のこと、最近は地元では『しのぶ中学』って呼んでるの?」
 いきなり、息せきったように言う私に、
 「呼んでないけど・・・」
 当たり前だが、知人落ち着いていた。
 「そうよねえ。」
 私はほっとした。

 もう電話はないかと思っていた。すると、しばらくしてまた、かかってきた。夜、いつもより早めに帰宅していた夫が電話に出た。
 「あのう、そういう考え(ワンルームマンションを持つとかの気持ち)はないですから、うちへ電話  するより、よそへしたほうがいいと思いますよ」
 いつものように、相手もなかなか切ろうとしないらしい。おそらく年金だとか老後だとか不安材料を並べ、そのためのおすすめということなのだろう。

 夫は言った。
 「あの、今はこの仕事してますけど、実は、僕は資産家の息子なんです。だから、心配は何もないんですよ。そんなわけで、切りますよう・・・、いいですねえ・・・」
 「もういいかい・・・まあだだよう・・・」みたいな調子で言って、夫は電話を切った。
 
 夫の話では「資産家の息子です」と言ったら、「切りますよう・・・」と言っても、相手はあっけにとられたのか、何も言わなかったと言う。

 資産家の息子だったら、今の仕事をしないみたいな話でおかしかったし、それ以上に「資産家の息子です」がおかしかった。私は「資産家の娘です」という断り方を思いつかなかったので、大笑いしてしまった。


 それにしても、同じ人か違う人か知りませんが、何度も何度もごくろうさま。まるでゲームのようにかけてくる電話のように思えて、迷惑なのだがおかしかったりもして、やっぱり迷惑なのだ。
 この不況のなか、お客もとれず、大変なのだろうとも思う。声も明るいし、元気な挑戦を繰り返しているようですが。
 
 
 今の世の中、確かなことは、年金も老後も不安なこと。だが、そうかと言って、二人とも何かの物件を管理したり、お金が増えたか減ったか計算することはすごく苦手で、とてもできないことなのだ。

 資産どころか、本当は腕時計さえ身につけることも嫌いな夫、先のことはあまり考えない妻。
 我が家には何度言っても無駄ということ、わかって欲しいものです。






52        ランドセルの忘れもの                (10月13日・月・記)
 
 この欄のエッセイに、ランドセルのことを書いたら、そのことが、ある時話題になって、私自身の小学生時代のランドセルにまつわる話を思い出してしまった。
 
 
 私が小学校に入学するので、母は赤いランドセルを買った。そのころ、品物を持ってよく来ているおじさんがいて、母はその人から赤いランドセルを買った。商品は鞄だけではなかったと思うのだが、「カバン屋さん」と両親は呼んでいたように思う。
 そのランドセルを背負って3年目、小学校3年生の時のことだ。
 
 
 女の子の赤い皮革のランドセル(最近はピンク・紺色など他の色もあるようだが)は今も昔も変わらない。そして、通学班の登校も同じだった。
 多分、私は一度通学班の集合場所に集まったのだと思う。そして、忘れ物をしたことに気づき、あわてて家に取りに帰った。玄関でランドセルを肩からおろし、忘れ物を手に持って再び集合場所に集まり、登校した。

 
 学校に着いたら、ランドセルを背負ってなかったことに気づいたが、遅かった。一度背負っていると、降ろしてもまだ背負っているような感覚があって、背中にあるものとばかり思っていたのだ。通学班の子も気づかなかったらしい。誰も何も言わなかったので、多分そうなのだろう。
 
 自分の席から先生のところに進んでいった私は普通の忘れ物のように「先生、ランドセルを忘れました」と言った。先生は原田先生と言って、黒く大きな瞳が印象的な美しい先生だった。色白の肌に黒いセーターがよく似合っていたのを覚えている。
 
 
 原田先生はその美しい表情を全く変えず、怒ったわけでも大笑いしたわけでもなく、ただ一言、しとやかに「いいですよ」とだけ言った。
 ランドセルは少し時間がたってから、忘れたことに気づいた母が届けてくれたような気がしている。忘れたことだけが記憶に残っていて、その後のことはあまり覚えていない。
 
 ノートや筆入れや宿題を忘れる子はいても、ランドセルごと忘れる子は珍しいに違いない。なぜか、先生にも父母にも叱られなかった。母は、「先生がいいですよって言ったんですって」と、しばらく後になってもそう言って笑っていた。私も一緒に笑っていた。
 
 
 
 後に教員になった私は、もしもランドセルを忘れる子どもがいたら、あの原田先生のように「いいですよ」と言ってやりたいと思っていた。でも、20年もの教員生活で、何度言っても忘れ物を繰り返す子どもでも、ランドセルを忘れた子どもはひとりもいなかった。






51            シソの葉   
                   (10月5日・日・記)

 今年の夏、夫がうどんづくりを仲間と行った。そのときに揚げ物もつくったという。
 その日、帰ってくるなり、夫は
 「あなた、しその天ぷらも、おいしかったよ。それでね、どうしたら、そんなにからっと揚がるのかと思ったら、片面だけ衣をつけるんだって・・・」
と一気に言った。

 
 お料理やさんのシソの天ぷらは、確かにからっと揚がっておいしい。これは、やっぱりプロだからと私は思っていた。プロのまねなんてしないほうがいい、とずっと思っていた。けれど、なんだか夫の話を聞いているとプロでなくても、おいしく揚がるらしい。

「みんな、お料理、うまいよ。よく知ってる。たいしたもんだ。」と、夫は何度も言って、仲間の人たちの技能にひどく感心していた。

「そうなのよ。選挙で集まった時も思ったんだけど、みんなすっごく上手なのよ。私、感心しちゃった。パセリを天ぷらにしたのも、おいしかった!」
 シソで パセリを思い出した私が言った。

「僕、退職したらさ、本気でお料理習うよ。だって、おいしいもの食べたいもの・・・。」と夫が言う。
                       ( けっこうおいしいもの食べてると思うのですが・・・ね)

 思い出してしまうことがある。結婚後しばらくして、ある会合で(私の)兄に出会った夫は、兄から「三宅さん、まだ生きてたの?・・・」と言われたという話だ。
 お料理があまり得意でないふりをするのも、けっこう難しいこと。まさに、敵(?)を欺くなら、味方(身内)から。
 
 夫の話を聞いたので、さっそく我が家の庭にあるシソの葉、天ぷらにしてみた。なるほど、片面だけ衣をつけたら、からっと揚がった。
「おいしい!」とそれを食べた夫が言った。ふだん、「あなた、このサラダおいしい」とか、「生のにんじんがおいしい」とか、素材のおいしさに感心している夫だ。
(でも、誕生日につくったお料理に関しては全体的にほめていたので、真価(?)がわかっているようです。誤解されると困るので、念のため・・・)
 
 
 シソの葉はなかなか、役に立つもの。結婚したばかりの時、母がわざわざ一本の大きなシソを鉢に植えて持ってきてくれたことがあった。そのころ、借家ずまいで庭もなかったので、玄関に置いた鉢から葉を何枚かちぎっては、刻んでお豆腐の上にのせて食べたりしたものだった。

 今年はなぜか忘れ去られていた庭のシソの葉が、夫の言葉で、久々に食卓に上った。





50       初めてのメール                  (9月28日・日・記)
 
 パソコンを始めたころ、まだ、周囲にメールアドレスも知らせてなかった頃のこと。それでも、名刺にはメールアドレスを記していたので、名刺を配った日などは、メールがくるかな、こないだろうなと思いながら、少しは期待した。

 その頃は、まだ夫と私にとってメールのやりとりが新鮮だった。(今でもメールは好きですが・・)メールがない日は、夫も私もそれぞれのノート型パソコンを開いて、ため息をついた。

 「パソコンを始めたので、初めてのメールを送ります・・・」などと、子どもの親からメールが入ると、夫はとても喜んでいた。

 でも、その日、二人にメールはこなかった。
「あーあ、ゼロ。メール来ないわ・・・」と、私が言った。「僕もだよ・・・」と夫も嘆いた。
 くるのは、どこかの会社からのもの。

 夕食の後だった。「ねえ、あなた、あなた!」と夫が大きな声で私に言う。
「なあに」と私。

 「あのさ、ちょうど今頃さ、どこの家でもご飯食べてほっとして、メールを打ってる頃じゃない?」
 ご飯食べてほっとすると、メール打つかどうか分からないけれど、夫の言葉に私は明るい気分になった。
 「きっと、メールきてるよ、あなた、あけてごらんよ」と励ますように夫が言う。(励まされるほどのことではないのですが・・・)

それで、私もその気になって、「そうかなぁ・・・」と、つぶやきながらパソコンを開いた。

 
 「あ、ある、ある」受信(1)とあった。ご飯食べてほっとすると、メール打つって本当なのかも・・・。だが、私は、次の瞬間、爆笑してしまった。
 
 ご飯を食べてほっとして私あてにメールを打ったのは、夫だった。
 小学校2年生の教科書に載っている教材「お手紙」(訳・三木卓 
※註)を思い出してしまう。手紙が来なくてしょげているがまくんを見て、かえるくんがお手紙を書く話だ。ほんわかとしてあたたかい話だ。
            ☆                             ☆   
 
 そのときの夫からのメールの内容は覚えていない。実は夫からのメールが、私にとっての初めてのメールだったのか、どうかも覚えていない。ただパソコンを始めた頃のあのできごとは、あまりにおかしくて忘れられない。
 だから初めてのメールだったような気がしている。

 (
)作者は、アーノルド・ローベル。「ふたりはともだち」の中の一話。





49          三つのランドセル           (9月22日・月・記)     

 自分でいうのも変だが結構学習意欲があったので、あちこち幼い娘を連れてでも、学習会や講演会に出かけたものだ。子育てをしているころ、どう子育てをしたらよいのか、真面目に考えた。自分の仕事と子育ての問題はつながりが深かったせいもある。

 子どもは貧しさのなかでこそよく育つ・・・これは、「子育てごっこ」の著者の三好京三の講演での話である。なるほどと私は思った。言い換えれば、贅沢は子どもをだめにするということだろう。
 
 私は子どもを質素に育てようと思った。だから、使える物については、新しい物を買わないことだと思った。

 
 実家の姪のランドセルは、6年間使っても新しかった。赤い皮革がつやつやしていた。「うわあ、もったいない、買わなくてもいいわ」という私に、夫もすぐさま賛成した。
 私の母も、「あら、新しいわ、使えるなら使ったほうがいいわ」と言った。誰の反対にも合わず、娘には、姪のランドセルを使わせることにした。 いくらか新しさにはかなわなかったが、娘は全く気にもせず、それを背負って元気な新一年生になった。

 
 「川島さん・・・って呼ばれちゃった」と帰宅後、笑いながら娘が言った。姪の名前がランドセルの側面に記されていたので、ある先生にそう言われたらしい。姪の姓は、私の旧姓でもある。
 
 まだ、新しくそれからも十分活躍してくれそうに見えたランドセル、娘が2年生を半分くらい終えた頃から、背負う皮バンドの部分が痛んできた。さて、どうしようと私は思った。せっかく、新しい物を買わないで子どもに物の大切さを教える教育をしようと思った私は、とてもがっかりした。

 でも、思いついた。姪は二人姉妹だ。二番目の姪のランドセルを見せてもらったら、「新しい!これ捨てるのもったいない」ということで、それをもらうことにした。これで、六年生まで大丈夫と思った。
 ところが、そのランドセルも、私の期待に応えてはくれなかった。これも、2年目に、裏切った。ランドセルの背の部分の皮の表面がはがれぼろぼろ崩れてきた物が、娘の服にくっついたりした。
 帰宅すると、その「ぼろぼろ」をはらわなければならなかった。そこで、ガムテープを貼ってみたりしたが、うまくいかなかった。

 
 「あーあ」と私は思った。娘の4年生が終わろうとしていた。せっかく、ここまできたのに、今からランドセルを買うのでは、あまりに悔しい。始めから買えばよかったことになる。

 
 隣の人に聞いてみた。「きれいなのよ。とってあるわよ」というので、もう小学校を卒業した娘さんのランドセルをいただいた。三つ目のランドセルも、やはり新しかった。あと、2年なんだもの。これで安心と、私は思った。そのランドセルは、2年使ってもまだもつ感じもしたが、やはり、二年目になると、故障が出てきた。でも、何とか、娘が卒業するまで、使えた。ランドセルも限界だった。

 こうして、娘は三つのランドセルをつかって、6年間の小学校生活を終えた。一つのランドセルは、それぞれ、2年間ずつ働いてくれた。どれも、不思議と2年間だった。

 
 ランドセルは たいてい6年間の保証がついている。6年間使っても新しさは残っているが、やはり、6年間保証は間違いないと、私は、体験から知った。でも、途中で買うことくらい悔しいことはないし、何とか、初心を貫いた満足感を味わった。内心、すごい教育(?)をしたと思った。娘も、ランドセルを乗り継いで使っても何の不満も言わなかった。

 
 
 よいことをしたと思ったのだが、娘が中学生になったある時、一言、「ランドセルは、新しいのを買ってほしかった」と言われてしまった。この体験、どこかで生きることあるかしら・・・??




48                        雨            (9月10日・水・記)  
 
 今年の夏は、ほとんどの日、涼しくてよく雨が降った。雨の音を聞きながら、私はある雨の多かった年を思い出していた。

 その年は、本当に来る日も来る日も、しとしとと雨が降りつづいた。
 人々は真夏の装いこそしてはいたが、夏とは違っていた。その年、母が腹痛を訴えて医者に駆け込んだ。
 腹痛の診断だったが、耐えきれず、お盆明けを待って訪れた別の医院で、母はそのまま入院となった。もう少し遅れていたら命も危なかったということだった。母は盲腸だったが、すでに手遅れで、腹膜炎を起こしていた。

 
 普通の患者と違って、回復するまでに時間がかかった母は、同室の盲腸の患者が退院していくのを、何人も見送った。
 若者と母あり、かわいい小学生あり、病気の夫を持った女性ありで、一つの病室には代わる代わるいくつもの人生が出たり入ったりした。
 
「いつになったら、退院できるのやら・・・」と母はため息をつきながら床のなかでこぼしていた。
 腹膜炎を起こした母のおなかには、いくつかのホースのような管が差し込まれていて、毎日医師の回診があり、傷口のガーゼが取り替えられた。

 
 私もまだ結婚前で、自由がきく身だった。仕事の面でも比較的都合がつけられた夏ということもあり、昼間も、ほとんど母に付き添っていた。何しろ、母はベッドから起きられない身であったので、看病という看病ではないのだけれど、つきそう必要があった。病院での一日一日は、母にとっても私にとっても長く感じられた。
   
 母は、ある時、ほほえみながら「あなたが入院したら、看病してお返しするわね」と私に言った。私は笑った。
 

 私ばかりではなく、母の留守中、家族は、みんな大変だった。共働き夫婦には二人の幼い子ども(母にとっては孫)もいた頃で、母の洗濯物、身の回りのもののことなどでも、なかなか大変だったと思う。(それに、そのころは、母も家事の分担もできていた頃だったと思うので)

 
 母が退院した日、本当に嬉しかったのを覚えている。
 今も思い出せるのは、そのときの母の笑顔。母がそのまま入院となった日に着て行った、白地に水色の花柄のワンピース。そして、入院中に家族が言った言葉、 「一番大変なのは、本人(病人)なんだから」は、忘れられない。

 
 母の語った「看病のお返し」は、幸いにして受けていない。
 今年の夏、雨の音を聞きながら、二十数年前の母を思い出した。





47         愛しているなら             (8月17日・日・記)  
 
 夫が、部屋の整理をしていた。書類も多く、なかなかはかどらないらしい。
 晩ご飯を食べた後、夫が言った。「結婚する前の、あなたからの手紙を読んだら、感動しちゃった」古いものも含め、整理をしていたらしい。手紙を書く距離でもなかったので、私もほとんど、手紙を書かなかったように思う。

「何が書いてあったの?」と私が聞いても、こたえない。私も夫からの手紙がとってあって、夫の内容はうっすら思い出せても、自分が何を書いたかは、覚えていない。
「もう、箱のなかに封印しちゃった」と言ったので、それ以上は、聞かなかった。

 
 それで、遠い昔を思い出してしまった。いろいろあるなかで、私はある女性の言葉を思い出してしまった。
 結婚直前だったか、私は夫に、何人かの集まりに連れていかれた。そのときに、一人の女性が夫に言った言葉が忘れられない。「奥さん(になる人)を愛しているなら、家事を分担をして、男の人もやってね。奥さんが大変だから・・・」と、彼女は言った。その雰囲気は、冗談ぽくなくて、妙にしんみりとしていた。
 
 私は、心のなかで、「うん、そうそう。愛しているなら、きっと、夫は妻が大変なのを黙って見ていられるはずがない。家事分担なんて当たり前」と納得した。「要は、愛情なのだ」と思い、その言葉を優しい響きで受け入れた。もしかしたら、彼女は家事のほとんどを担っていて自身の経験から出た言葉なのかも知れないとも思った。

 
 家へ帰っても仕事の持ち帰りの毎日で、もし、家族の協力がなかったら、大変だ。我が家の場合、夫は仕事が終わっても、その後、会議の連続だった。
 
 保育園のお迎えは、何か特別な時を除くと、私の役目だった。夜泣きのころは、何とか、体を疲れさせ夜中に起きないように、保育園の園庭で夕方遅くまで遊ばせて帰ってきたりした。
 努力の甲斐もなく、愛する我が娘は、毎晩、必ず夜の2時になると泣き出した。不思議と時刻がいつも同じだった。深夜、泣きやまない子を車に乗せてドライブしたり、赤ん坊と一緒に近くの駅の待合室に座っていたりした。

 
 それでも、夫が家にいるときは、「毎日、あなたがつくっているから、休みの日は、僕がつくるよ」と言って、食事をつくった。また、夫が早く帰っているときは、帰ると夕食ができていた。そんな時、ほっとしてすごく幸せな気分につつまれたものだ。(我が家は、3人家族だが、夫は会議が多く、夕食を家族がそろって食べることは、ほとんどなかった)
 
 
 娘が赤ん坊の頃、外出時などには、進んで夫が背中におぶった。そして、知り合いの夫婦で、小柄な妻が赤ん坊をおぶっているのを見て、彼女の夫に、「あれ、奥さんがおんぶしてるの。大変だよ」と言ったりした。夫の理屈では、男女に関係なく力がある方が、おぶえばよいというものだ。小柄でいかにも華奢な女性がおぶっていたので、大変と思ったのだろう。

 そんな時、私は、「愛しているなら・・・」と言った、あの時のあの女性の言葉を思い出したりした。
 多分、夫に聞けば、あのときの女性の言葉についても、「そんなことあったけ。覚えてない」と言うだろう。夫にしてみれば、愛しているとかいないとかの問題ではなくて、ただ自然にやっているだけだと思うので。

 
 この世の中、妻を愛し、家事も可能な限り分担したいと思っている男性は星の数ほどいると思うけれど、(休日出勤や深夜労働等)現状での特に男性の置かれている就労形態を考えると、なかなかそうもいかない家庭も多いことだろう。男女共同参画社会の実現のためには、意識の改革よりも先に、男女の労働環境の改善の問題が先かも知れない。

 
 遠い昔からまだ意識改革の進んでいない私は、帰宅してご飯が炊けているとき、「あなた、ありがとう!」と夫に心をこめて叫んでしまう。夫は、ご飯が炊けていても特別に「あなた、ありがとう!」と言わないのにね。???我が家では、労働環境の改善とともに、女性の意識改革も必要のよう・・・です。






46        ごせんえんくださーい             (8月4日・火・記)      
 その頃は、娘は、小学校1年生。外では、選挙戦のスピーカーから、「00でございます。よろしくお願いいたします」や「00に、どうぞごせいえんください」などと流れていた。また、「ごせいえん、ありがとうございます」と言ったりする。

 ちょうど、そのとき娘は遊びから帰った時だった。息せきったように「お母さん、今の人、00です。ごせんえん(五千円)くださいだって。高いよねえ・・・」と言った。「ほんとだ、高い」と思って、笑ってしまった。「ご声援」を「五千円」と聞き間違えたのだが、とてもおかしかった。

 やがて、まちからスピーカーの声がやんだ頃、また、娘が言った。「お母さん、あの人、どうした?受かった(当選した)の?」
 
 その名前を今は記憶してないが、娘が言った候補者のその人は落選した。「ご声援ください」の類の言葉はきっと誰もがいう言葉のようにも思えるが、娘には、ちょうどそれを聞いた時の一人の候補者の名前が頭に深く刻まれていたのだろう。
 
 私 「落選したみたいよ」
 娘 「そうだよねえ。だって、ごせんえん、くださいって、高いもんね。やだよねえ」

 娘は、いかにも納得という顔をした。
 その後になって、自分が選挙戦を迎えるたび、娘とのこの会話を思い出して、笑ってしまう。そして、幼かった娘のいたずらっ子のような元気な顔を思い浮かべる。まさか、その頃、自分が選挙に立候補するなんて考えたこともなかった。
 時は流れて、あれから12年。今回の選挙では、娘が色あせた選挙カーの看板を淡いピンクとブルーのペンキできれいに塗り直してくれた。

 
 選挙中、私は車のなかで、時にはうぐいす嬢になり「ごせいえん、ありがとうございます。あたたかいごせいえん、ありがとうございます」と言っていた。
 あり得ないことだが、もし、娘が小学校1年生なら、言われたかも知れない。「お母さん、だめだよ。そんなに(お金が)高いと、落っこちちゃうよ」と。
 「あたたかいごせんえん」だったら、娘は、「あたたかい」をどう解釈するのかしらと、つまらないことを考えたりもした。






45        女性を意識させられて        (7月27日・日・記)

 仕事が、全く男女の差というものを意識させられないものだったので、ある時期まで、ある面では、世間を知らなかった。
 このごろになって、やっと世間のことがわかってきたのかなという感じだ。
 その一つが、男尊女卑の考えが、思っていたより遙かに多く強く存在するということだ。

 学校給食の自校給食の市民運動の代表をやっていた頃のこと。ちらしを新聞折り込みして市民に訴えたりしていた。また、署名活動にも取り組んでいた頃、ある男性から電話をいただいた。

 「きょう、『社長さん、署名してください』って、うちの社員に言われて、署名したんだけど、女だてらによくやってるよ」
 電話をくださった方は、激励のつもりだったのだと思うが、「世間じゃ、女がって思ってるよ」とも言った。そのころは、「えー、遅れてる!別に、男が女がってことじゃないのに」と思っただけだった。
 
 議員生活になって、(議場や事務局や議員控室のある)3階にトイレができたのが、私が議員になる1期前の女性議員が選出された時からだということを知った。
 何年も前のことだが、「女性議員が出て、初めて行田市議会では、トイレが造られたんですって・・・」とある男性に言った。そしたら、「そうだよ。女性は、選挙権だって、なかったんだから」と、当たり前だといわんばかりの調子で答えが返ってきた。話が参政権がない時代にまでさかのぼってしまった。
 
 かつて、女性に参政権がなかったこと、3階には、女性トイレがなかったことについて、「では、あなたはどう考えるのですか」、と問いかける意欲を私は失っていた。

 
 ある時読んだ新聞に国会のトイレ建設の経緯もそのようであったことを知ったが・・・。市議会は公開されていて、傍聴者の市民には、当然、男性も女性もいるのに、議場のある3階には、女性のトイレがなかった。議会事務挙局には、女性職員もいるのに、トイレがなかった。同じ話を女性にすると、「えー、女性議員が出るまでトイレがなかったの!何考えてるの、市役所って、いつできたの。」という声が返ってきた。ほんとに考えられないほど、おかしなことだ。

 詳しくは言えないが、とにかく、「男はえらい」と思っている人たちが多いことに気がついた。
「えらい」人間がいるとしたら、男だから女だからではなく、人間として「えらい」ということだろう。それに、えらいかどうかは、第三者が評価するのであり、自分で自分がえらいと思っている人には、えらくない人が多いようにも思う。

 昔は別として、男女共同参画社会を唱え、「市民の皆さん・・・」と言って市民への「啓発」を呼びかけている(啓発を行政の仕事とすることの是非は別として・・・)市役所の現在はどうだろう。
  職員が、来客にお茶を出す時でも、女性が出す場合が100パーセントに近く、女性職員が席をはずしている時には、お茶は出ない。本市では、「お茶は、女性」というのが、まだ慣習なのかと思っていた。

 これは思い出すと笑ってしまうのだが、ある時、私が先にきていて、某課で話をしていた。
その後、しばらくして、男性の議員がやってきて、私と同様、腰をおろした。そうしたら、何と、男性の職員が立ち上がり、お茶を入れて出してきた。もちろん、その時には、男性議員ひとりだけではなく、先に来ていた私にもですが。

 何度も行っていたが、それまで、その課では、男性職員の方が、私にお茶を入れてくれたことは、なかった。だから、女性の職員の方がいないときは、お茶は、出なかった。あまりに「差」のある対応は、滑稽な感じさえした。

 仕事の合間に職員の方にお茶を入れていただくのは恐縮であり、入れてくださいと言っているのではない。(誤解されると困ります)
 男性と女性で、その対応に差をつけるのは、男女共同参画社会の実現を掲げている市として、また、それ以前の問題で、行政の公平性からもおかしい。
 女性には、お茶の接待をしないのであれば、男性にもしないことである。(もし、「男女」によるのでなければ、人によって?これもおかしい。)

 
 参政権の話ではないが、戦後何十年たっても、社会はまだまだ男性社会であると、感じさせられることが多い。議員という仕事になった時、その意味で、日常的に女性を意識させられることにぶつかる。
 
 世間を知ってきたのは、このごろというのも本当。過去において、行政のある方に、(あることについて)「・・・あれは、議員さんに対するいじめだったんですよ」と言われた時、「えっ、私、いじめられてたの?」という感じだったので、(性の違いによる差別的待遇が色濃く残っている)「世間」が身近にあることに気がつくのも、遅かったのかも?
 
 いずれにしても、「人生経験、ありがとう・・・」です。






44      しみぬき(しみとり?)の店              (7月4日・金・記)

 車で通った時に「しみぬき」(しみとり?)と大きく書いた店があった。着物や洋服の染み抜きと思った。
 
 ある時、誰かが、「あそこは、顔のシミとりよ」と言った。すぐさま、「うそー、洋服じゃないのー」の確信に満ちた声があがった。「違うの違うの、顔よ」のもっと確信に満ちた声。
 その店のことだが、私が車で通った時、なかには、衣類は下がっていたような気がした。
 
 だとすると、衣類と顔の両方のシミ抜きをやるのかしらと思った。なんか、不思議なお店だと思った。(もしかしたら、「しみぬきは、衣類」という先入観のせいで、私の目には衣類が下がっているように見えたのかも知れない)
 
 その後、確かめていないので、本当のところは私は知らない。でも顔のしみとりなら、おもてに「しみぬき」(しみとり?)と書くのが、おもしろい。美顔とか美容などと書き、しみ専門とするのが、普通かなと思ったり・・・。いや、はっきり書くから目に入るのかなと思ったり。
 
 おとなの女性なら、顔のシミなんて、誰にだって一つや二つ、いや、それ以上あるもの。しみやそばかすは、太陽に向かって堂々と生きてきた証拠と言いたい。(だが、実のところ、若き頃の紫外線の浴び過ぎに後悔しているのが本音)
 
 でも、顔のしみぬきなんてもので、商売になるのかしらと思った。それとも、今の「美の探求ブーム」で結構繁盛するのかしら。


 それにしても最近のテレビでの「整形とメイクで美人に」という番組は、問題の番組のような気がする。(番組名はしらない)
 整形・メイク前と後の違いに、ゲストの人全員が「ほうー」と驚き、カメラがそれをとらえる。女性は美人でなければ価値がないとも錯覚させるような番組は、私は好きではない。

 番組では、美容整形のプロが、シミぬきどころではなく、あらゆる角度から、美しくするらしい。

 さて、ある人の話では、しみぬきのお店は、しみがきれいにとれるらしい。とってもらおうかしら。でも、失敗したら、こわーい。(ほかの人は誰も失敗しないで、私の時だけ失敗するかも知れない)
 
 それに、行って、「洋服は、どれですか」なんて聞かれたりしたら、どうしよう。恥ずかしくないように、本人と一緒にシミのついた洋服も持っていかなくては、なんて。

 あの店は、衣類専門か、人間専門の店か?どちらだろう?
 あっ、でも、衣類なら、しみ取りとは言わないかも知れない。しみ取りなら、人間対象で、しみ抜きは、洋服や着物かな。私の考えは、こう落ち着いた。ということで、お店の表示がどうなっているかを確かめれば、わかる。でも、お店の表示って、けっこう表現の間違いもある。
 
 だから、やっぱり、わからない。衣類と人間両方の専門店としておくほうが、おもしろいので、どちらなのか確かめたいとは思わない。



 43         詩人さん          (6月19日・木・記)
 
 
さんを知ったのは、私が20代の後半だった。そのころ、私は小説を書き始めていた。キューポラのある街の作者、早船ちよさん、その夫で評論家、井の川潔さんの主宰する「新作家」に入った時、そこに私より何歳か年上のYさんがいた。

 彼女は飾り気がなく、体はスリムで少女のような雰囲気をもっていた。今でも、白いパンツに白っぽいコート姿でホームに降りた姿が浮かぶ。
 そのころ毎月1度の例会の帰りは電車のつり革にもたれながら、ふたりで語り合った。彼女は、いつもおっとりとした語り口だった。私も彼女も東京で開かれる例会にほとんど欠席しなかった。
 
 同人のお見舞いなども彼女から連絡があり、連れだって出かけた。物書き仲間としてのおつきあいだけだったが、二人でいるとき、夢に向かっている思いがあった。彼女の詩には、人間に対する優しさと凛とした強さがあった。
 
 
 私は、彼女と例会で出会ってから、数年して結婚した。生活が変化し、なかなか物を書く時間もとれなくなった。そして、娘の出産と続いた。保育園に娘を預け、仕事をする生活は、なかなか大変なものだった。例会からはだんだん遠ざかっていったように思う。それでも、何かの時には、彼女から連絡をいただいていた。

 私が仕事をやめてからは、児童文学にのめり込んでいた時期もあり、小説のほうの例会にはご無沙汰していた。思いがけなく、今の仕事になり、「いつかは、いつかは・・・」と思いながら、月日は流れた。

 ある時、彼女はいつも私を待っていることに気づかされた。「欠席の時には、連絡くださいね。でないと、来るかと思って待ってしまうから・・・」と彼女は言った。でも、やはり欠席ばかりの連絡は心が重かった。また何度か電話をしたが、留守だったりして、実際には相手に通じないことのほうが、多かった。「ごめんなさい」と私はこころの中で、彼女に謝っていた。

 
 5月の例会に作品は書いてないけど、行ってみようかしら。久しぶりにYさんにも会える。そう思っていた5月、Yさんが亡くなった知らせが入った。あまりに急だった。最後に会ったのは、1年以上前だったか、それも私は久しぶりに出て行った、合評会の後の2次会だけの参加だった。飯田橋の駅に近い店で、Yさんとコーヒーを飲んで別れた。

 お互いに若き頃、電車のつり革にもたれながら語り合い、Yさんの言った言葉が忘れられない。
「私たち、10年やれば、何とかなるよね」
 そのとき、私は10年か、長いなと思って、彼女の言葉を聞いた。実際の10年はあっという間だった。彼女はこれまでに第4集まで詩集を世に出した。告別式の後、夫のMさんが「第5集が出ます。楽しみにしていてください」と言った。
 
 
 Yさんはずっと独身でいたが、Mさんと結婚していたのを、私は告別式で知った。「よかった」と思った。若い頃、恋愛の話も少しだったが、したことがあった。
 彼女には好きだった人がいた。一人の男性をずっと想っていたようだった。ある時、彼女は喫茶店で、彼からの1枚のはがきを私に見せてくれたことがあった。その人はどうしたのか、私は聞かないままだった。
 夫になったMさんとはその後、出会った同人誌の仲間である。

 
Yさんは、短い人生を十分に生きた人であったとは思うが、まだまだ、これからであっただろう。
 
 定年後すぐに亡くなったある人のことをさして、彼女が言ったことがあった。「定年まで働き詰めで、これからが自分の人生だったのに・・」と言ったYさん。この3月には定年までの数年を残し、仕事をやめ、文学に専念しようと取り組んでいたYさん。これからは、もっともっとすてきな人生を夫のMさんと一緒に送れたにちがいない。
 
 夫のMさんは一番悲しいはずなのに、悲しみの席でも、いつものように、人を気遣ったり、人を笑わせたりしていた。
 
 
 Yさん、結婚おめでとう。そして、さようなら。二足のわらじを履くことができない私ですが、Yさんの「10年やれば、何とかなるよね」の言葉を、今また心に刻んでいます。






42        名前のこと               (5月22日・木・記)
 
 私の名前を初対面で読む人に会ったことがない、・・・と言ってもいいぐらい、「じゅんこ」と読んでもらえない。もしかしたら、国語の先生が、一人くらい読んだかも知れないが。
 
 保育園の靴箱に、「たてこ」とはっきりと書かれていたのを鮮明に覚えている。「たてこ」という響きは、なじめず強烈な印象であったが、この後も「たてこ」と言われたことはあった。
 
 その昔、学校で、先生に初めて50音順に名前を呼ばれるときも、私のところまでくると、はたと止まってしまって、困惑の表情で、「なんて読むの?」と聞かれた。学校時代は、こんなことばかりだった。

 
 社会に出て、何かの折りに、必要があり名前を聞かれて「じゅん子です」と答えると、「じゅんは?」と聞かれ、「矛盾の盾です」と答えてもぴんとこないのか、聞き返され、多くの場合、首をかしげられてしまう。相手が、「ああ・・・」と笑顔になったりしたので、わかってくれたかと思うと、書類にさらさらと「じゅん子」と書かれたりすることもあった。
 郵便物には、眉子や質子や循子、また、こんな字あるのかしらと思うような字もあったりする。

 
 なかなか人に読んでもらえない書いてもらえない私の名前だが、親は、やはり願いをこめてつけてくれた。私の名前には、「民主主義を守る盾になるように」という思いが込められていると、子どものころに父が話してくれた。民主主義を脅かしたり、妨げようとするものから盾 (たて)の働きをするようにいう意味なのだろう。だから、私は、この名前がすごく気に入っている。
 
 父は3人の子ども(兄二人と私)に、新しい時代をきり拓く人間になるようにという期待と願いを込めて、それぞれ名前をつけた。父の話を私は、ある種の感動を持って聞いた。そして、私も、名前のように生きたいと思った。
 
 
 もう少し優しいなめらかな響きの名前も好きだが、こめられた意味を考えると、この名前がとても気に入っていて、名付けてくれた親には、「ありがとう」である。一生つかっていく名前として、全く飽きないし、市民の立場を直接代弁するといった今の自分の仕事からしても、この名前を意識させられることが多い。

 
 自分が親になった時、女の子誕生で喜んだものの、さて、我が子の名前となると、さんざん頭を悩ませた。届けなくてはいけないぎりぎりの日まで、考えた。期限の日にちがのばせないものかと思ったりもした。結局、華やかな響きとわかりやすさと、親の願いをこめた一文字の名前にした。
 
 娘の名前と同じ呼び名での漢字は、ほとんど見ないが、(名前のように読んでもらえないのは、私と同じ)この年、多くつけられた名前で、偶然かしらと驚いた。けれど、成長してから娘が、「私の名前好き」と言ったので、私は「よかった」と思った。
 





 
41
    まち一番の人と・・・              (5月15日・木 ・記)

 この前、結婚記念日のことを書いたら、ふと結婚した頃のことを思い出してしまった。
結婚してまだ間もない日、夫がある学習会に参加する日のことだった。その学習会は、たぶん珍しく小料理屋(というのかな?)の2階で行われることになった。

 「僕と一緒に行って、あなたは階下で食事をすれば・・・」という夫の言葉に従って私も一緒に出かけた。
 2階に上がっていく夫の姿を見送り、いすに腰掛け食事の注文をしようとすると、黒っぽい服装の一人の男性が、店の隅の方から私に近づいてきた。

 
 その男性は私に言った。
 「あなたが、あの人と結婚したんですか」と、私をまじまじと見つめた。
 彼は私たちが店に入った時から、私たちを見ていたのかも知れなかった。
 「ええ・・・」
 と私は答えて、この人は、変なこと言うなと思った。でも、次の瞬間、私は特別な人と結婚してしまったのだろうかと、ちょっぴり不安にかられた。
 
 男性は続けた。
 「あなたは、行田で、一番貧乏な人と結婚したんですよ」
 「一番」に力がこめられていた。いかにも確信があるという響きがあった。私は半分驚き、半分おかしかった。行田で一番貧乏って、どうしてわかるの?なぜ、あなたは、夫を 知っているの?
 
 結婚するとき、相手がお金持ちかそうでないか、考えたこともなかった。でも、お金がありそうには思えなかったことも確かだ。その頃、夫の話では、一年前ごろから、月2万円の貯金を始めていたということだった。それが、将来に向けてとても計画的だということらしかった。

 単純に計算すると、約24万円の貯金ができたところで、私と結婚することになったというわけだ。それより前に、ある人から、「家を建てて、お嫁さんを待っているばかりの人がいるの。一度会ってみない?」と言われたが、それとは、ずいぶん違うということになる。

 
 この近づいて来た男性はいったい誰なのかしらと、私が思っていると、彼は、言った。
 「実は、私は某新聞の集金をしているんですよ」
 「ふうーん、なるほど」と私は思った。集金屋さんなら、もしかしたら、その家が貧乏かどうかがわかるかも知れないとも思った。(結婚前、他県出身の夫は、このまちの賃貸住宅で一人暮らしをしていた)
 
 「あの人は、いつも、私が集金に行くと、部屋の奥から、小銭をいっぱいもってきて、小銭で支払いをするんですよ」と、男性は言った。どうやら、小銭ばかりの支払いが、「貧乏」を決定的なものにしたらしい。お金のある人は小銭があっても、お札で支払うかもしれない。小銭だけの支払いだとしたら、それがいつものことだとしたら、まちでも珍しいのだろう。
 男性の言う、「まち一番の貧乏」という根拠は、それなりにきちんと存在していた。
 私は、素直に「そうなんですか」と言った。

 
 この話は、やっぱりおかしくて(おもしろくて)、その後、「私、まちで一番貧乏な人と結婚したって、言われちゃった」と、夫に話したものだが、なぜ、いつも新聞代が小銭だったかは、ずっと聞きそびれていた。

 最近になって、この話を思い出したので、夫に聞いてみた。
「(仕事がら)小銭が集金で集まるけど(新聞屋さんではないが、こちらも集金だった)、業者に支払いの時には、面倒でお札などで払ってしまうので、手元に小銭ばかり残ってしまう」のだということ。

 
 もう今から約20年ほど前のこと。あのときの男性の真剣なまなざしを思い出す。からかわれたとも思えない真面目な顔だった。あの時の男性の方、あなたは、今でも、このまちに住んでいますか。





40  また、わすれました 大事な?日   (4月12・土・記)  

 3月28日の夜、湯船につかりながら、思った。「あっ、明日は結婚記念日じゃない!」と。毎年わすれて思い出さないのが、この結婚記念日だ。1年間過ぎても思い出さないで次の年になることもある。
 今年は、その日が過ぎないうちに思い出したのだから、「これはすごい」と、自分で自分に感心した。何しろ、これは画期的なこと。その晩は、「すごい、すごい」とずっとひとりで思っていた。

 結婚したのは、?年前の3月29日だ。忙しくて忙しくて、どうしようもなかった。区切りがよいので3月の結婚に決めたのか、あまりよくはわからない(多分そうだと思う)。でも、二人とも、「3月」を選んだことに間違いない。

 派手なことや、形にとらわれることが嫌いなので、式もウエディングドレスもなくてよかったのだが、結局、何だかんだと面倒になったので、(式をあげないのではなく)式を挙げることにした。貸衣装のウエディングドレスは、すぐに、とてもすてきなものが見つかった。

 「いいのが入りましたよ」と、お店の人のいうとおり、新品でまだ誰も手を通していないものだったが、確か4万円だった。私も一目で気にいったので、何も迷うことはなかった。決めるのに時間にして7、8分というところだ。

 指輪の交換もケーキカットもいらないと思ったが、それでは形にならないと誰かに言われ、これも面倒なのですることにした。身体につけるものは何でも嫌いな夫なので、普通の指輪を買ってもしかたがない。結局、その場しのぎでマグネットの指輪650円を前日探し当てた。どうでもいいので、とにかく、形だけ整えることにした。私も指輪を買った。結構すごいダイヤモンド。結婚式に使ったのは、この偽物。

 
 披露宴は、会場の大勢の人々の爆笑の中で、(爆笑混じりの)ため息の私。
 司会者の友人たちは、「学生時代に夫が裸でバイク旅行をした」という話とか・・・。
「(夫から)式場は、駅から信号が3つ目(?)と聞いたので、(バスやタクシーにも乗らずに)、吹上駅から式場の産業文化会館まで、歩いてきてしまった」(信号の数で、ふつうなら駅から近いと判断されても仕方ない・・?年前)という話など。
 
 その後のスピーチで、どちらかというと年配者。この方たちは、常識派で、きっと夫をほめちぎるに違いないと、一人目の人が立ち上がった時、私はほっとした。しかし、この方たちもすでにできた流れに逆らうことはなかった。誰もわが夫をほめる人もなく、私は、「ちょっとちょっと、みんなどうしたの!」と心のなかで叫んでいた。
 
 
内容は書かないが、爆笑に爆笑・・・。自分の側のスピーチをきく余裕はなく、何を言われたか記憶がない。どうも、私のほうも、ほめられていなかったかも・・・。

 披露宴にはいくつも出たが、初めて経験する自らの披露宴は、みーんなリラックスしていて、花嫁にしては珍しく(?)私も目の前のお料理を全部食べてしまった。

 ・・・というわけで、結婚式の披露宴で、もっとも印象深かったのは、自分の披露宴ということ。
 新婚旅行から帰ったら、新学期で、入籍するゆとりもなく、戸籍上で結婚した日は、5月だが、何日かときかれたら答えられない。結婚記念日は、やはり、式をあげた日なのだ。

 前日には思い出した結婚記念日だが、実は、その日にはすっかり忘れてしまった。
今年も、「今日は、私たちの結婚記念日ね」ということはなく、過ぎてから「あっ!」ということになってしまった。夫は、今も思い出していない。
 ああ、それでもいい。イラク攻撃で、子どもたちが命を落としたり、傷ついたりしている。そんな時に、二人とも思い出さなくてよかったのかも・・・。







39         まちに出る             (3月29日・土・記)

 冬のある日のこと、S市に行く用事ができた。娘のS市への用事もあり、娘と一緒に出かけた。

 私の用事だけなら、いつものように駅から歩いていくのだが、娘の行き先は、そこからまた先なので、バスに乗ろうと思った。無料バス(註)が出ているというので、交番で教えてもらった場所に行った。少し待って飛び乗ったのはいいけれど、どうも逆周りのバスに乗ってしまったらしい。そこで、一度降りて、また乗り換えることになった。
 
 
 降りた(無料バスではない)停留所で、私たちの問いに親切に教えてくれた年輩の女性に出逢った。
その方は、「私は毎日、バスで家を出て、買い物をして帰るんです」と言った。
 年齢が書いてあるらしく、そこを指で隠し、笑顔で、「ここ見ないでね」と言って、定期券を見せてくれた。
 「これで、ひと月(だったと思う)、何回でも乗れるの」
 「えー、いいですね」と私も娘もあいづちを打った。

 有料らしかったが、安価の定額で、何度乗ってももいいので、とても便利だと言った。もう一度、目の前に出して定期券を見せてくれた。その時も指で隠していたが、指がずれて年齢が見えた。
 「見ないでね」と言った彼女の言葉を思い、見てしまったことが、何か悪いことをしてしまったような気がした。それなので、私は、すぐに目をそらせた。彼女は80歳を超えていた。年齢より遙かに若く見えた。

 「家でひとりでいると健康にもよくないので、朝起きて決まったことを済ませたら、バスに乗って、毎日まちに出るの」と続けた。心の健康にもいいのだろうと思いながら、私達も話を聞いていた。上手な生活の仕方だと思った。話し相手もなく一日中外にも出ずにいたら、心の健康も心配になる。
 
 外出することで、おしゃれにも気をつかうのだろう。あったかそうなコートやマフラーを身につけていて、落ち着いたなかにすてきな装いをしていた。
 「とても便利だったんだけど、来年から、この定期はなくなるの・・・」と顔をくもらせた。合併して、この制度のないまちに合わせることになったということらしい。
 
 定額の制度のおかげで比較的気軽にまちに出られた高齢者にとって、この制度の廃止は生活に響くだろう。出かけるのは、用事があるときばかりではない。気軽に外出できることは、生活の質を高めることにもなるという当たり前のことに気づかされた。
   
            ◇           ◇            ◇
 
 わが行田市では、4月から、これまで無料だった循環バスの運賃が有料になる。たかが百円と思うかも知れない。だが、往復では2百円。途中、用事があって降りれば、3百円だ。多くの高齢者にとって、負担になるだろう。無料だからこそ、気軽に福祉センターに行き、お風呂で仲間と交流していた高齢者も多いことだろう。
 
 あの日の、彼女の笑顔のなかの、残念そうな表情が思い出された。


(註)S市の無料バスについては、調べてみようと思いながら、まだです。






 
38     peace   平和を願って   peace   (3月18日・火 ・記)   
 
 今や、世界は平和か戦争かで、真っ二つに割れそうな気配すらする。
 
 私の平和に対する考えはいたって簡単である。戦争になれば人の命が奪われる。命は大切だと誰もが言い、この社会は、命が大切に守られるようにさまざまな取り組みが行われている(行われるべきである)。その一方で、戦争という名のもとに殺人行為が容認されて良いはずがない。
 
 誰の命でも、命の重みに差はない。命が奪われることがきらい。だから、戦争はきらいということになる。昨日まで、さっきまで生きていた人が死んでしまう。こんな悲しいことはない。
 
 何をするにも平和があってこそだろう。戦争に勝つためには、国民はこのようにしなさい、などという規制が行われれば、一人ひとりの人権なんて言っていられなくなるだろう。


 
 10年以上も前になるが、アウシュビッツの収容所跡を旅した。そこには、髪の毛で編んだ大きな絨毯や人間の皮膚で造ったというもの(ランプの傘だったと思う)が展示されていた。  人の髪の毛でじゅうたんを編んだのは、やはり同じ人間なのだ。人の皮膚でランプのかさを作ったのも人間。どんな思いで作ったかなどと聞くのが、おかしいのかも知れない。
 まちがいなく戦争は人を狂気にするのだろう。
 
 ガス室でなくなった人の所持品が山のようだった。歯ブラシ、メガネ、靴、カバンなど、小さな子どものものと思われる物もたくさんあった。その数はおびただしいものだった。小さなもの、大きなもの、それらをガラスごし見ながら、幼くして奪われた未来を思い、小さな物にはやはり特別な感情が湧いた。



  戦争で、私の母は優しかった兄をなくした。父自身は、もう少しで命を落とすところだった。父は残ったが、一緒だった仲間はヒロシマに行き、そこで亡くなった。
もしかしたら、この世にいない私だった。戦争は、絶対にやめて欲しい。
 
 人間一人を殺せば、重い罪に問われるのに、大量殺人が許されて良いはずがない。戦争になれば、人殺しに優れた最新の兵器で、罪もない大勢の人々が命を失っていくだろう。
 
 
 アメリカのイラクへの最後通告が行われた。戦争が起こるかと思うと、心が重い。日本の立場を考えると、いろいろな面で日本の人々には関係ないとは言えない。

 どんな努力をしてでも、戦争はさけて欲しい。戦争で、生まれるのは、愛ではなく、憎しみだけ。
 戦争に反対する理由は、ただひとつである。命の重みである。






 37     記念のペンダントが・・・     (2月16日・日・記)

 お正月のある日、外出するのに、黒のセーターに合う装飾品に手作りのペンダントを箱から取り出した。
もう7年くらい前に私が自分で作ったペンダントだ。後にも先にも私手作りのペンダントは、これ一つだけだろう。
 周りは金色の金属の縁取りで、赤を基調としているが、適度に落ち着いた日本的な花柄模様の楕円形のペンダントトップ。鎖はやはり金色で、我ながらうまくできたと気に入っていた。だから、服に合うと思う時には、好んでつけていた。


        
              ◇            ◇            ◇      
 
 このペンダントは、議員になった頃、ある人に「来てみない?」と言われ、行ったところで作ったもの。今思うと、私の議員としての視野を広げてくれた場所でもある。そこは、お年寄りばかり集まっていて、その日は、たまたま手作りの装飾品をつくる日だったらしい。講師の方が材料をいろいろと持ってきていた。私は、私の好みで華やかな柄を選びペンダントにした。(ペンダントでもブローチでもどちらを選んでもよかった)

 「私にできるかしら」と少し心配だったが、講師の方が「簡単ですよ」と言われた通り、とても簡単に作れた。好きな柄の紙を楕円形の型にはめ込んで、上からニスで艶を出す。使ったのは、接着剤とニスと、はさみといった感じ。
 
 
 単純な作業なのに、紙とは思えない光沢のすてきなものができあがって、とても嬉しかった。かかった費用は材料費だけで、千円もしなかった。私はセーターに似合う大きめのこのペンダントが気に入った。赤を基調としているので、どの服装にも合うとは言えなかったが、黒のセーターを着るときにはぴったりだった。
 

 その時のあるひとりの女性の姿を今でも思い出す。それぞれが、材料を選んでいるのに、ひとりだけいつまでたっても、材料に手も触れない女性がいた。

 「作らないんですか」と声をかけても、はっきりとしないが作りたくない様子。「どうしてですか」というと、「お金がもったいないから」と小さな声で答えた。
 
 へんな考えかも知れないが、私はそのとき、「私がお金をだしたい」と単純に思った。
「(材料を)プレゼントしますよ」と私は言った。でも、そうされるのは、どうも「いや」のようだった。
「見ているだけでいい」と彼女は答えた。

 
 私は職員の方に相談した。「ひとにもらうのは、プライドがあるから」ということだった。それもそうだと私は思った。そして、職員さんは続けた。「お金はあるんですよ」とその方のことを言った。当たり前だが、彼女の状況を職員さんは知っていることだろう。お金はないわけではないが、使いたくないということらしい。
 
 自分の考えで、お金は使いたいものに使うという姿勢は偉いのかも知れない。人は人、自分は自分という強い生き方ができる人なのかも知れない。みんなが楽しそうに作っているのに自分だけ見ているということは、なかなかできないものだ。彼女は、まわりの人たちが仕上げていくのを、羨ましそうでもなく、どちらかと言えば無表情のまま最後まで見つめていた。
 私は彼女にも作って欲しいと、心のなかで勝手に思っていた。
             
              ◇          ◇           ◇     
 
 お正月、訪問先で、私は胸のペンダントがなくなっていることに気づいた。「ああ・・・」と思わず、小さく声をあげた。きっと留め金が外れて、落としてしまったに違いない。とめる時にきちんと留めなかったのだろう。家を出る時には、確かに身につけたはずだったから。

 翌朝、ペンダントは発見された。我が家の玄関を出た敷地内で、無惨にも車の車輪にひかれたらしく、形が崩れていた。
 玄関前は夫の駐車場(?)だが、罪はない。「あなた、私のペンダント、ひいてしまったのね」とも言えず、ひとり静かに、ペンダントの変わり果てた姿を悼んだ。
 
 とても大切なものだった。「お金がもったいない」と言って作らなかったあの女性をなぜか思い出す。これも、なぜかわからない。装飾品として価値のなくなったペンダントが捨てられない。



 
36
   
         にわとりを探す      (2月2日・日・記)

 休日の朝のこと。
「朝方、鶏がうるさくて眠れなかった。どこの鶏なのか外に出て探しちゃった」と夫が言った。
「えっ、うそー、鶏?」
 夜はものすごい大雨が降ろうが、地震があろうが、ほとんど熟睡していて、昨夜何かあったと聞いても、「えっ、そうなの?」という私なので、もちろん、鶏の鳴き声なんてものでは、目がさめない。このへんに鶏なんていたかしらと思った。


 「玄関にでてみたら、聞こえないんだよね。それで、今度は方角を変えて00さんの家の方にでたけど、全然聞こえない」
 「それで、どうしたの?」と私。
 「うちにもどると、やっぱり鶏がうるさい」
 
 家から離れると、鳴き声が小さくなることから、いろいろ考えた末、どうも、鶏は部屋のなかにいるらしいと、夫は思ったそうだ。あの羽のある鶏が、家の中にいたと私は聞いて、何だか不思議な光景を思い浮かべて、胸がどきどきした。
 そして鶏がピアノのカバーのなかにいると思った夫は、ピアノの方に恐る恐る近づいたという。
 
 夫はうまく捕まえられたのだろうか。逃げようとして、天井近くに鶏が舞い上がり、空中で胸元あたりの柔らかな白い羽が飛び散る様子が浮かんだ。私の胸はますますどきどきした。

 「それで、鶏はつかまえたの?」
 「それが・・・」
 夫はなぜか口ごもった。その先が聞きたかった。夏の夜の虫ならともかく、鶏がどんな経路をたどって我が家に侵入してきたのか私は不思議でならなかった。

 「何だったと思う?」
 「じゃ、鶏じゃなかったの?」
 夫の話では、まぎれもなく「コケコッコー」と鳴いたというから、鶏でなかったとしたら、何だったのだろう。私には全く見当もつかなかった。
 
 「これ・・・」
と、夫が見せたものは、鶏とは似ても似つかない金属製の固いもの。携帯電話だった。
 携帯の目覚ましが「コケコッコー」という声にセットしてあったということらしい。夫が、そのかなりやかましいコケコッコーの鳴き声を私に聞かせてくれたが、ああ、本物の鶏の鳴き声と信じたとは・・・。
 
 その携帯を現在使用しているのは、暮れから戻ってきている我が家の娘である。夫の所有物なのだが、こちらに滞在中は彼女が使用している。携帯電話は彼女の部屋から離れた階下で、孤独にも臨時の主を離れ、「コケコッコー」と鳴いていたということになる。

 鶏が家のなかに侵入していなかったことにホッとしたものの、もし、本当だったら奇怪な事件(?)となるところだった。何とも言えない妙な気分でした。早朝に鶏を探し回った夫の姿が思い浮かんで大爆笑もしましたが。




 
 35
        叔父のこと         (1月27日・月・記)
 新年会で、顔見知りの男性、氏と隣の席になった。そこで、私は氏から意外なことを聞いた。父方の叔父が若きころ氏と交流があったらしいことは、それとなく耳にしていたことではあった。だが、詳しいことは知らなかった。


 「小さい頃、
さん(私の叔父)が、あなたを自転車に乗せて、私の家にやってきた。リンゴを持たすと、あなたは手ではらってしまった」
 私はそんな失礼なことをしたのかと、何だか申し訳のない気持ちになった。
 「えっ、手ではらったんですか」
と私が言うと、K氏は「まだ、3つか4つのころだったから」と笑って言われた。

 
 
氏のところに行ったなんて知らなかった。そして思った。小さい頃、叔父は私を本当にかわいがってくれていたのだと思った。青年であった叔父は、よく私を自転車に乗せてよそへ連れて行った。
 
 今でも憶えている。現在の本丸あたりに広い敷地があって、そこに野の花がたくさんさいていて、花を摘んだことを。なぜ、それが印象深いかというと、花を摘みながら、虫にさされて皮膚が腫れたことがあったからだ。それ以外は私の記憶に残っていないが、叔父は、私をK氏のところや私の知らないところに連れて行ったのだろうと思った。

 
 多分、私が叔父に連れられて、知人宅などを訪れたのは本当に幼い頃のことで、私が小学校に入学したころには、もう叔父は、行田にはいなかったように思う。
 都会に住むようになった叔父が我が家にやってくるのは、夏とお正月になった。私も幼い頃のことは忘れて成長していった。それぞれ皆忙しく、そのうち、親戚が集まるのは結婚式や法事の時という感じになっていった。

 
 私が結婚する時は、議会開会中であったため、叔父は「議会で結婚式に出席できません。お幸せに」というような言葉を添えてくれた。
 親族で仕事として政治にかかわりを持つ人間は、叔父だけであったが、後に、はからずも地方政治にかかわる身となった私に叔父はあたたかい言葉をかけてくれた。
 
 当選後、訪問して叔父と話もしたいと思っていた。だが、なんやかやと追われる毎日でいつでも会えると思い、行かないまま月日が過ぎていた。
 
 
 そんな時、叔父が倒れた。私が議員になってから、一度いろいろ話したかったのにという悔いが残った。それから数年、叔父は意識不明のまま病院生活の身となった。
 そして、一昨年の秋に叔父は亡くなった。妻である叔母は「生きていてくれるだけでもよかった」と深く悲しんだ。お酒も愛したかも知れないが、人間を愛し、平和や正義を愛した叔父。

 年を重ねても、若々しかったこともあり、叔父は、私のなかでさっそうとして穏やかで、今も昔の姿のままである。
 
氏の話は、私の宝物となった。

 
 おそらくは若き頃に友人であったと思える
氏に、私は叔父が亡くなったことを言わなかった。「叔父は亡くなりました」という一言が言えなかった。
 人の死という事実を知らせることがよいとも思えなかった。また、今もなお、叔父は世の中の不合理に立ち向かって生きていると私が思いたかったからかも知れない。

 氏も含め、ふだん無口と思える人も、饒舌になって語り合い、新年会はとてもすてきな雰囲気だった。





 34     世界に一つだけの花束         (1月19日・日 記)

 「誕生日、おめでとう!」
 夫の声で玄関に出ると、目の前にいきなり大きな花束が・・・。
 「えっ、覚えていたの?私の誕生日」
と、受け取りながら私の方が驚いた。大きな白いユリの花に可憐なかすみ草も大量で豪華版。ピンクや黄色のきんぎょ草。名前を知らない花々もあり。私の誕生日を祝う花束は、すごく立派な花束で、だが黄色い値札がついている。値札は、287円。

 「これ、287円? 何でこんなに安いの?・・・」
 花の匂いをかぎながら、くるりと回してみると、そこには、また値札が、357円。
 大きな花束は、合計4つの値札で構成されていた。
 「1400円ぐらいだった」
 と、自慢そうに夫が言った。

 「普通、花束にするんだったら、値札は、はずしてもらうんじゃないの?」
 お店の人にちょっと一言いえば、はずしてくれるはず。
 「(買おうと思った)花屋さんが閉まっていて、花屋さんでは買えなかった」ということだ。
 それにしても、スーパーの花束を大きな花束にするなんてこと、よく思いついたと、感心したりびっくりしたり。

 某月某日は、?歳の誕生日。「こんなに生きてしまったか・・・」「ここまで生きるなんて、昔は思わなかったけれど・・・」
 (私よりたくさん生きて来られた人からすれば、叱られそうですが・・・)うーん。なんか、不思議な気分。
 しなやかにしたたかに、そして、素直に、堂々と・・・。人生を遊び気分で生きたいものと思いつつ、時には悲しいこともあり。プレゼントをくれた夫は「ケセラセラ・・・」だそうです。

 それから、何日もたったある日のこと。
 「ねえ、この花、ずいぶん安いわりには、長持ちするじゃない?」と私が言うと、
 「花の水、替えてる?」と夫。
 私は一度だけ替えていたので、
 「ええ・・・」と言った。花の水を替える人なんて私以外にはいないと信じ込んでいた。
 「僕が時々替えているんだよ」

 夫がひそかに(?)花の水を替えているのも知らないで私は、「安いのに、こんなに元気な花」と思いながら、毎日眺めていたのだった。スーパーの花束を集めて一つの花束にする人も珍しいと思うが、値札がいくつもついた花束のプレゼントも珍しい。もしかしたら、世界で、たった一つの花束かも知れない。




 
33  呼ばれ方は選べませんが・・・ (1月12日・日・記)          
 人に呼びかけるには、何と呼んだらよいのか考えることはこちら側の問題だが、呼ばれるほうは相手まかせである。呼ばれ方に注文はつけにくいものである。

 若い頃、知人が 「老けて見えるのか、奥さんと呼ばれちゃうのよ」 と言ったことがあった。彼女は、その呼ばれ方を歓迎していなかった。でも、「奥さんではないので、そう呼ばないでください」とまで伝えないで終わってしまう。
 
  他人の場合では、何と呼ぼうと、一方的な相手側の自由であることから、気にいらない呼ばれ方であっても、言えないことが多いのだろう。
 
 鳥取砂丘に家族で行った時、らくだ(・・・と思いました)を引いた男性が、夫に 「社長! 社長、乗りませんか」と呼びかけた。私は、社長でもない人に「社長!」と言うのがおかしくて笑ってしまった。
 あとで、「あの時、どんな気持ちだった?」と夫にきいてみた。「うん、悪い気はしなかったよ」と夫は答えた。
 「社長」は、相手(男性)の心をくすぐる言い方なのかも知れない。
 
 
 「おい」・「おまえ」

 数ヶ月前であったか、夫が妻を呼ぶのに、「おい」とか「おまえ」ということについてだったか、記事があった。(あまり詳しくは読まなかった)「それでいい」というもの、「それはよくない」というもの両方の意見が採り上げられていたように思う。あまり、私が興味がなかったのは、自分と夫との関係で考えてみれば、悩んだり考えたりしたことがなかったからだと思う。

 我が家では、夫婦は対等な関係と思っているから、私は、おまえと呼ばれて、「それでいい」とは思わない。もし、仮に、相手が私に「おまえ」というなら、私も夫を「おまえ」と呼ぶことになってしまうかも知れない。でも、私は、夫を「おまえ」と呼びたくはない。対等な立場にこだわってしまう。
 それだから、まして、他人から、「おまえ」などと呼ばれたいとは思わない。

 「あんた」
 かつて、学校に勤めていた頃、職員を「あんた」とよぶ管理職がいた。(あとにも先にも、その人だけであったが。)男性職員の声は知らないが、少なくとも、女性職員たちはこの呼び方にひどく嫌悪感を抱いていて、「私、ほんとに、あんたって呼ばれるのが、イヤなの」「ほんとねえ」などと言っていた。
 
 ある時、私は視察で他市の議員と一緒だった。多分、私より年齢が上で、議長を経験している男性議員だった。私に向かって「あんた、年いくつ?」と聞いて、その後も「あんた」を連発していた。きっと、この男性は、自分のことをえらいと思っているのかも知れないと思った。
 何を勘違いしているのか、目下扱いのような雰囲気であった。やっぱり、「あんた」は感じがよくない。

 「奥さん」
 この呼ばれ方も、一般的に評判が良くない。セールスマンなどは、「三宅さんのところでは・・・」と言えばよいものを、「奥さんのところでは・・・」が多い。この場合、表札が出ている家では、やはり苗字で呼ばれたい。まあ、でも、見知らぬ他人でもあり、仕方がないと受け流す。
 
 だが、名前がわかっているのに、話のなかで行政の職員から「奥さん」と何度も言われた時は、気分がよくなかった。市民に対する接遇について考えてしまう。
 
 「おかあさん」
 人によるかも知れない。私は好きではない。理由は簡単で、呼んだ人のおかあさんではないから。
 社会人の学生たちが、大学の先生から「おかあさんたち」と言われて憤慨したと言う話を聞いたことがあった。私もそれを聞いて、「失礼な・・・」と思った。そのうちの一人が「おかあさんではない人もいるので、やめてください」と言いにいったという。(既婚か未婚かは別として、おかあさんとは、子どものいる人をさす。だが、他人からはおかあさんではない)
 
 学生と先生の間に、お嬢さんも奥さんも、おかあさんもない。あるのは、(年齢も関係なく)学生と先生の間柄である。

 おばあさん・おじいさん

 本人に呼びかけていいのは、家族ぐらいだろう。(「あそこの家のおじいさんは、またはおばあさんは・・・」と第3者が話すのは別である)
 他人が高齢者に向かって、「おばあさん(おじいさん)・・・」のように呼びかけるのを聞くと、私は気分がよくない。正確には、呼んで妥当と思えるのは、その人の孫だけである。
 
 どこかの市長が敬老の日に「おばあちゃん、元気ですか」も失礼であると思うし、テレビで、「このおばあちゃんは・・・」などとアナウンスしているのは、品格に欠けるように思う。可能な限り、名前で呼ぶことが失礼にあたらないと思う。そうすれば、呼ぶ人、呼ばれる人両者の品位を損なわない。赤ちゃんや子どもは一応別としておとな同士では、人間として対等な関係を表す言葉を使いたい。
 
 もしも、名前が言えない時は (知らない場合も含めて)、「あのう・・・」とか「すみません・・・」と呼びかけたり、何も言わないで、「お元気ですか?市長の00です」と言えばよいのではないだろうか。

 どこかに、人を尊重しない意識が働いているとも思える言い方は避けたい。言葉は使う人の品位をとてもよく表す。自分でも気をつけたいなと思う。



 32                
初夢?
         (1月4日・土・記)         
 
 年が明けて、初めて夢をみた。明け方、一度目が覚めて、「あ、まだこんな時間」と思って、もう一度眠りについた。そしたら、夢を見てしまった。
 なぜか、授業中で、私は制服姿の学生。何の授業だかは、はっきりとしない。男子学生、女子学生がいて、先生は丸顔で丸い黒縁のメガネをかけた長身の30代の男性。

 
 ふと、夢のなかの私はそこで思い出す。(なぜか、教室と議場が一緒の舞台になっている)
「あ、今日は、一般質問の日だ」と。だが、一般質問の原稿が書けていない。「あー、どうしよう」と教室で私は焦る。「あー、まだ(質問までに)3時間はある」と思う。骨子だけでも書ければと思う。傍聴者の人たちの顔が浮かぶ。どうしよう。胸の鼓動が自分でも分かるくらい高くなる。

 いつものノートをめくる。私の一般質問のノートは、定例会ごとに
A4版のもの1冊を使う。議会での再々質問までが整理されてできるように、項目ごとに余白を十分に設け、さらにそのなかに小さな項目を記しておく。質問事項に対応するように答弁を書き入れていく。
 
 ノートをめくるが、なんと、項目もない。私は何を一般質問することにしたのか、わからない。周りの学生に「一般質問の項目が書いてある紙、持ってない?」と聞く。後ろの席の男子学生が紙を渡してくれたが、見てもよくわからない。

 「先生、一般質問の項目を書いた紙がなくてわからなくなってしまったんですけど・・」
と、私は黒板の前で学生が持ってきたノートを見ている先生のところまで歩んでいく。

 
 先生は「今考えたものでいいですよ」と簡単に言う。「そうか」と思う。だけど、執行部に前もって質問事項を連絡(通告)してあるわけだから、質問と答弁がかみあわなくても困る。それこそ、議会がめちゃくちゃになってしまう。傍聴者含めて議場は騒然とするだろう。

 それで、私は再び先生のところへ行く。「質問と項目がかみ合わなくてもだめだと思うんですけど・・・」と言う。けれど、先生は「さっき、言った通りでいいです」と冷たい調子。
 
 「ああー、どうしよう・・・どうしよう・・・」と思っているところで目が覚めた。夢で本当によかった。これが、もし本当のできごとだったら、私の議員生命はなくなってしまう。

 
 当日に一般質問の項目がわからないなんてことはあり得ないし、一般質問の日を忘れることもあり得ないのに、とんでもない夢を見てしまった。


 初夢は正夢なんて、いったい誰が言ったのかしら?



03年


 31           お正月を迎えて            (1月1日・水・記)
 
 我が家でも、伝統的日本文化を重んじて、お正月を迎えるために一応おせち料理なるものを作る。今年は29日ごろから材料の買い物に心がけたが、最悪の場合、大晦日の夕方になって、お店を駆け巡ることもあった。田作りの材料は、「売れてしまいました」といわれることが多く、あちこちの店を回り、やっとどこかの店で手に入ったりした。
 
 
 今回は、田作りは29日に買っていたので心配はなかった。大晦日の年越しそばも、夫が箱で買ったばかりのものがあるから年末もお正月も材料は全部そろったと思っていたら、おそばがないということが、31日の夜になってわかった。どうにか買えて一段落、準備万端。

 きんぴらと厚焼き卵は、「僕がつくる」と夫が言っていたので、私は、その他のものを作った。思い出すのは、子供のころのことである。大晦日は、母が、お正月のおせち料理に大忙しだった。「(準備が忙しいから)お正月はいや」と母は毎年のように悲鳴をあげていた。
 
 
 おせち料理は、きちんとすべて家でつくることが当たり前の時代だった。作る量も多く、きんぴらもきんとんも大鍋いっぱいつくっていた。よく「昆布巻き手伝って!」と母に言われ、一緒につくったことを思い出す。
 母の時代には、いくら忙しくても、おせち料理作りは、必ずする仕事だった。今、できる範囲でそれほど無理しないでつくる(あるいは作らない家もある?)時代に変わってきている。
 
 
 気楽な3人家族の我が家は我が家なりのおせち料理を囲み、お正月を迎えることになった。
 新年の朝の話題は、まず「お雑煮は、お味噌かすまし、どちらにする?」だ。
 関西育ちの夫は、子どもの頃から
味噌」で、私は「すまし」(しょうゆ味)だ。夫がどちらでもいいと言ったので、「すまし」になった。きのうつくったおせち料理を食卓に並べて、元旦の朝は無事におわった。
 片付けをして年賀状を見たりしていると、やがてほどなくお昼に。


 「お昼、何たべようか」と言って、何気なく、中身のあるはずのない炊飯器のふたをあけると、なんと湯気が立ちのぼり白く光った米粒が美しく炊き上がっていた。

 「ねえ、どうしたの?」と聞くと、「今朝のために炊いた」と、夫が答えた。
 「だって、いつも元旦の朝は、お雑煮じゃない。どうしちゃったの?」と私は言うなり、笑ってしまった。
 前の晩にタイマーで朝のご飯をセットする仕事は、夫の仕事になっている。でも、ふだん忘れることも時たまあるのに。だから、朝になって、炊いてあると思ったご飯がなくて慌てることもある。でも、この日のようなことがあると、時たま忘れる程度の習慣でも、習慣は怖い。

 片方で、さっきから印刷機が音を立てていた。
 「(ご飯炊きに続いて)また、失敗しちゃった!」という夫の声。
 「えー、何やったの?」
 「同じ名前の人に30枚以上も印刷しちゃった」
 見ると、パソコン操作のボタン一つおし間違えたばかりに、同一人物あての名前の年賀状が36枚も行儀よく完成していた。


 
 新しい年も荒波に向かって船出した我が家ですが、今年もなんだか困難なことを暗示させられるような元旦の我が家の小さなできごとでした。



 
30          心痛むできごと    02年 (12月30日・月・記)
 11月29日の午後8時前、近隣のまちで、少年たち3人ががホームレスに暴行を加え死亡させてしまうといった悲しい事件が起こった。男性のホームレスは、近所に物乞いをして歩くなどしていたことからも、少年たちも知っていたということだ。暴行を加えた少年たちは、「死ぬとは思わなかった」と言ったという。
 青少年のけんかでも、度合いがわからず、殴ったりして相手を死に至らしめた事件は、これまでもあった。一言で言えば、命の大切さ、重みが認識できなかった結果起きたものといえるだろう。
 
 
 事件後、おとなたちの反省として、「ホームレスに対するおとなの気持ちや対応が、少年たちに影響した」という記事も報道され、私の頭に残っていた。また、この事件を知ったとき、「他人に暴力をふるって傷つけてしまう人は、自分を大切にできなくなっている人なのです」という旭爪あかねさんの講演での言葉も思い浮かんだ。
 
 この事件にかかわった個々の少年たちについて詳しいことはわからない。ただ、言えることは、現代社会が生み出した事件であることは確かである。背景には、青少年の置かれている社会環境があることを見逃せない。
 
 競争社会のなかで、自分(の価値)を見い出せない状況。「普通というものさし」から並外れて、「物やお金を持たない人たち」への蔑みのような感情。人の生きる権利に対する認識の貧しさ・・・などなど。これらは皆おとな社会が育んできたものではないだろうか。
 
 識者の意見として某新聞には、「事件の背景にあるのは、少年たちの社会性の欠如ではないか。人に聞いたり調べたりすることで他人とコミニュケーションする力が育ってくる。・・・・」(教育評論家の話)とあったが、それで解決できるような単純なものだろうか。
 
 教育としての観点はわからなくもないが、ずれているとしか思えなかった。おとなの責任として、おとな社会そのもののあり方が根底から問い直されなければならない事件ではないだろうか。
 
 
 私が子どもの頃、家いえを歩き、物乞いをする人がいた。たいていの家では、人にあげられる程度の物やお金をあげていたのではと思う。地域社会が存在し、社会全体が現在とは全く違っていたその頃、このような犯罪が起きることはなかった。青少年が、その人たちに危害を加えるなんてことはなかった。

               ☆         ☆        ☆

 しばらく前から気になっていた。夏でも冬でも家があるのかないのか、分からないが、通りをよく少しの荷物を持って歩いている人がいる。
 ごみ箱から食べ物を探しているようなとき、話しかけたが、無言だった。2回目に声をかけたとき、会話が成り立った。家はあるのだが、帰らないのだとその人は言った。「市役所に行きましたか」と私は尋ねた。「行ったが、はっぱをかけられるだけ」とその人は答えた。


 よくはわからないが、その人が市役所に行ったとしたら、市では「他の人は苦労して働いているのに、怠けてなぜ働かないのか」ということなのだろうか。その人の話からは詳しくはわからない。
 「働かないでいる人が悪い」ということで片付けられることなのだろうか。働かない結果、お金や物がなく、、そのため死に至ってしまっても、その人個人の責任と言うのだろうか。
 社会保障や福祉というものの基本的な考え方に立ち戻る必要がありそうである。
 
 今回起きたホームレス事件を機に、県では、ホームレスの多い市には、支援していくという報道記事があった。ホームレスが多い少ないにかかわらず、県・市として何とかならないのかと思ってしまう。
 解決していく必要のあることが本当に多くて、心が痛む。



 29   委員会が公開された日・・・12月16日のこと  (12月21日・土・記)

 10時を過ぎていた。市民団体の方が、委員会の公開を求めて出かけておられることだろうと思った。だが、もし、これまでのように傍聴できなかったら、もう自宅に戻っている頃かも知れないと思って電話をかけたが、連絡がつかなかった。
 
 そのこともあり、この日、もしかしたら、委員会の傍聴ができたのでは!と私は思った。請願の紹介議員になっていたので、私は気になっていた。(前回は私が委員会を傍聴したが、今回は家にいた。議員は、委員会の傍聴は可能)
 
 事務局から別の件で連絡をいただいた時、ついでに「委員会は、市民が傍聴しているんですか?」と私は聞いた。「お二人の方が傍聴しています」の言葉を聞き、「ええっ!よかった」と思った。
 
 12月議会には、私が紹介議員になった市民からの請願が2件出されていた。前にも市民団体が提出していたもので、「ケーブルテレビ放映の拡充を求める」ものと「市役所ロビー等にモニターテレビの設置を求める」という内容のものである。

 
 12月16日。この日は、総務委員会で、この二つの請願が審議される日だった。市民団体が審議の中身を見とどけたい思いで傍聴に出かけると言っていた。市民は、これまで、何回となく委員会の傍聴を求めて、ねばり強く委員会の扉をたたいてきた。しかし、いわゆる委員長の許可がおりなかった。(本市では委員会の公開は、委員長の許可となっている)

 委員会を「非公開」とするいつもの理由は、「公開すると、自由な発言が妨げられる」というようなもの。市民から選挙で選ばれた議員が、発言をするのに、公開の場では、できないということ自体が不思議なのだが、それが議会の現実だった。

 私が議員1期目に受け取った議会関係の冊子
(註1)によると、委員会の公開は昭和40年代が最後となっている。そして、私が2期目の時に議員に配布された冊子(註2)では、「公開」されたという記録がすっかり消えている。(あったと言う事実の記載がすっかりなくなっている)
 
 1期目の資料には公開の事実が記録されていて2期目の資料には記録がないというのも、全く信じられない話である。これまでの議会の歴史が、正しく刻まれていないということになる。
 
 昨年度も、市民が委員会の公開を求めた時、事務局に「今までも市民の傍聴はありませ
ん(公開の事実はないという意味)。前例がないです」と言われた。
 
 確か、私の頭のなかでは、遠い過去のことだが
ある運動にかかわる請願で委員会は公開されたという記憶もあった。現在、私がそれについての確認ができないにしても、(公開の事実が記載された)古い資料からして、これまでに公開されたことがないというのは、偽りだろう。

 
 今まで、この問題を巡って議員としても要望書を出すなどいろいろとあったものの、何はともあれ、この日は記念すべき日。何十年(?)ぶりかで委員会が公開された日だ。とにかく、私もすぐに市役所に行こうと思った。もうお昼近くだったと思う。急いでクッキーをちょっとだけ口にほおりこみ、紅茶を流し込んだ。
 まだ審議が終わっていなかったら、午後は私も市民と一緒に傍聴するつもりだった。心がすごく浮き浮きした。
 
 スーツの上着を着て、黒いバッグを手にした。バッグは、つい取り替えるのが面倒でいつもの物を持ってしまう。けれど急いでいるのに、このとき、スーツが地味なのだから、バッグは赤にしようと思った。赤のバッグを2階の押入から急いで見つけ、中の物を入れ替えると、車に乗り込んだ。急いでいるのに、いつもは磨かない靴をさっと磨いた。

 通りがかりの小さな店の店頭には、すみれ色のセーターが出ていて、「きれい」と思った。道路の端のプランターに咲く色とりどりの花たちは、可憐に何かを語りかけているみたい。郵便配達の男性をみると、車の中から、「ご苦労さま」と呼びかけたくなった。
 いつもは通り過ぎてしまうまちの風景が、この日、とても新鮮に目にうつった。
 
 幸せと思える日を見つけながら生きてきたように思う。生きてきて今が一番幸せと思った最初の日は、忘れもしない同人誌に自分の小説が初めて活字になった日だ。今だったら、そんなことと思えるようなことが飛び上がるほど嬉しかったのだ。

「児童文学を書いてみませんか」と言われ、短編が、書店で売られる本になった日。多少の不安はあったが、夫との結婚を決意した日。お腹のなかの娘の存在がわかったあの日。そして、娘の誕生。その後も日々の営みのなかで大小の喜びをたくさん見いだしてきたものの、天にのぼるほどのうれしさ、感動は、ここで途絶えている。

 その後の、単行本の出版や、議員の当選などは、嬉しいというより、ほっとしたというようなものだった。

 
 市役所に向かう車のなかで、これまでの幸せの数々を数えていた。この日の「委員会の公開」も、(公開というだけで) その日々を思い起こさせるほどに匹敵するくらい、なぜかとても嬉しかった。


 (註1) 94(H6) 行田市議会先例集
 (註2) 98(H10)行田市議会先例集
 ※「公開」は嬉しかったのですが、この請願2件は、残念ながら委員会での採択はされません   でした。
    


 28           I love you forever.      (12月14日・土・記)
  
 外出前にメールを開いた。同じ人からのメールが3通も入っている。開くと「test test test」「2222」「Y Y Y Y」というもの。ADSLに変えて数日間、(メールが入らないとか言って)そのテストのため、夫が私のパソコンにメールを送ってきていた。「また・・・? もうほんとにY Y Y ってうるさいなー」なんてつぶやいて、私は家を出た。
          
               ◇          ◇           ◇
 
 本当は二人でいこうと言っていた河野義行さんの講演と映画(「疑惑は晴れようともー松本サリン事件で犯人とされた私ー」)だが、夫のほうの都合がつかなくなり、ひとりで熊谷の文化センターに出かけた。荒川沿いの道路は、車がずらりと並び、やっぱり駐車場は混んでいて、無理かなと思った。が、運よくちょっと変わった場所にひとつだけ空いていて、そこに案内していただけた。

 会場では、河野さんの講演が始まったところだった。河野さんは警察の取り調べでも犯人と疑われ自白の強要を受けたり、マスコミ報道でも犯人のように扱われた。
 
 当時、第一発見者であった河野さん自身もサリンの被害に遭い入院していて、妻は重体で意識不明に陥っていた。その中での事情聴取に河野さんは協力した。が、医師からの診断書に書かれた「事情聴取は2時間程度」は、警察では全く守られなかったということだ。

 
 私は事件が起こった94年当時、新聞を読んで、この大変な事件の様子を知った。新聞は河野さんについての報道のなかで、「会社員宅から薬品を押収」「会社員は薬品の扱いに多少の知識があり、数種類の薬品から農薬を作ろうとして調合を間違え、有毒ガスが大量に発生したらしい」などと報道した。
 
 熊谷での講演のこの日、河野さんは事件当時のことを淡々と語っておられたが、殺人の容疑をかけられた河野さんやその家族の受けた苦しみは、想像を絶するものであったに違いない。河野さんは事件から間もなく弁護士を捜した。映画にも実名で登場する永田弁護士である。
 河野さん自身も被害者であり、熱や不眠等の体調不良が続くなか、取り調べで自白を強要されたら、それに耐えられないかも知れないという判断もあったようだ。
 
 長引くと思った時、その後、弁護団をも結成したが、弁護士費用は交通費などの実費だけで、あとはボランティアであったと言う。
 皮肉にも、多くの犠牲者を出した地下鉄サリン事件により、河野さんの容疑は晴れることになる。冤罪事件に巻き込まれた時、疑いを晴らしていくことは、本当に困難であるということが、講演を聞いてよく分かった。この事件に関し、警察やマスコミのとった対応についても考えさせられた。
 
 
 事件当時、私はこの河野さんのことを、この方は奥さんを愛しているんだなと、新聞報道で強く印象づけられたことがあった。多分、自身の健康がある程度よくなってからだと思うが、確か「毎日病院の妻のところによってから帰宅する」と言う記事があって、そう思ったのだ。
 
 講演のあと、映画が上映された。映画の最後の方で、河野さん役の寺尾聡さんが妻を車イスにのせて満開の桜の木の下を散歩している場面がとても印象的だった。
 妻の役は、女優の二木てるみさんで、子役のころから見ていたような気がする。まだ、回復していない病人とわかる表情の妻の役が巧みだった。
  
 この映画は、高校生の若者男女ふたりが、事件の取材をし、案内役を務めるといった手法をとっている。冤罪事件が生まれていく要因には何があるのか。若い世代につなげ、事件を過去のものとしないところがよかったと思う。           
             
               ◇          ◇          ◇
 
 帰宅してから、会場で買った同名の文庫本を読んだ。そして、本当に河野さんは奥さんを愛しているのだと、私は心から思った。河野さんは、次のように書いている。(註)

 「私と家族にはやらなければならないことがある。私たちは、妻であり母である澄子がいつか回復すると信じている。いま彼女が生きているだけでも幸せだと思っている。

 疑惑が晴れるまでの1年余り、妻が生きていることで私は支えられてきた。犯人扱いされようが、私には妻の回復に努める仕事があった。・・・・・妻が生きていたからこそ、私は頑張ってこれた」



 「私は事件が起きたあの瞬間、妻と一緒なら死んでもいいと思っていた。二人とも命は取り留めた以上、私は妻の回復に全力を傾けるだけだ。10年かかっても20年かかっても少しすつでも良くなれば、それは私にとっても最大の喜びになる。」 


 河野さんの妻は、医学的には意識不明の状態が続いていて、現在、重度障害者施設に入所している。が、河野さんのする話の内容によって、奥さんは悲しい時には涙を流し、「大好きだよ」「愛してるよ」と話しかけると、機嫌のよい表情になるという。会社の帰りには毎日必ず寄るようにしているという。7時から消灯の8時までの1時間が河野さんにとってかけがえのない時間で、日課となっているメニューをこなすという。

 そのメニューの内容を知り、私はまた驚いてしまった。
「最初に化粧水で顔をたたいて保水しローションを塗る。髪をとかし手足にオイルマッサージ、背中もさすって血行をよくする歯磨きと歯茎のマッサージ・・・・病人臭さが消えるように香水も・・・・・できるだけきれいにし、彼女が快適に過ごせることを心がけている」(
著書から)

 私は帰宅すると、すでに帰宅していた夫に、「講演と映画は、本当によかった」ことを告げた。河野さんの事件や家族への対応にも感心したこと、(実費以外受けとらない)弁護団が立派だったことなどを述べた。
 そして買ってきた本を読むと、河野さんがいかに妻を深く愛しているかがわかり、「私、河野さんの奥さんへの愛情に感動して、涙が出ちゃった」と結構そのことを強調して言った。
  
 今回の事件で、人間の醜い部分と優しい部分の両方を見たという気がする。・・・・・・・・・・・私はできることなら人間の優しさを大事にしていきたい。著書のなかで、河野さんは述べておられる。そんな河野さんの人柄にもひかれる。
 
 現在、長野県公安委員をされている河野さん。被害者であること、犯人とされたこと、大きな二重の苦しみを負った河野さん。私は、一日も早く愛する妻である澄子さんが少しでも快復されることを願ってやまない。そして、このような冤罪事件が二度と起こらないことを願う。
 
 河野さんは、著書のあとがきの最後をこう締めくくっている。「この本が犯罪捜査や犯罪報道の行き過ぎにわずかでも抑制になれば幸いに思う」と。

 
 感動のまま、就寝前、パソコンのメールを見てから一日の日課を終えることにした。すると、何とまたもや夫からのメール。
「また・・・!もうやめて欲しいんだから・・・」と思いながら、メールを開くと、今度は珍しく内容が違った。
 メールには、「
I love you forever.」とあった。



(註) 河野義行著 「疑惑は晴れようとも」松本サリン事件の犯人とされた私  (株)文芸春秋社発行・文春文庫から引用  著書からの引用は、すべてこの著書より
     





  27         韓国の女性たち          (11月25日・月・記)
 この夏の韓国行きで3回、韓国を訪れたことになる。それぐらいで韓国の女性たちを理解するのも難しい。だから、私の出逢った韓国の女性ということになる。
 
 前にこの欄で、「韓国は男女別姓である。保守的だと思っていたが、驚いた」と書いた。別姓であることは事実なのだが、今回、韓国の女性と話しているうちに、わかったことがあった。

 韓国の男女別姓は、男女が対等という考え方ではなく、男尊女卑であることから、男性の姓が名乗れないということのようだ。子どもは男性の姓を名乗る。
 ガイドの李さんの話によると、保護者会などでは、お母さんの出席が多い。すると、お母さんと子どもは、誰もがみんな姓が違うので、誰がどの子のお母さんだか、わからないそうだ。
 
 家事にかかわる男性はまだ、それほど多くはないということで、かなり、女性の負担も大きいのが、現状。ちょうど日本でも、その昔、男の子が生まれると喜び、女の子が生まれると極端にがっかりするという時代があった。その頃に似ていて、男性がとても大事にされる社会のようだ。男性の自立という点から考えると、必ずしも大事にされているとは言えないが・・・。
 
 ただ、男子出生を喜ぶことに関しても、それを「ほんとにそうです」と強調する女性と、そんなことはないという女性もなかにはいる。だから、はっきりとはわからない。ただ、男尊女卑であることから、少なくとも前者にかなり近いことは間違いないようだ。
 
 結婚に関しての特徴は、同じ地域の同じ姓の人とは結婚ができないということだ。血縁が濃い者同士であることを心配することからきているということだ。

 
 韓国では、また女性の美容整形が盛んなことが知られている。容姿の美しさが、ある意味、女性の価値とされるようだ。例えば、求人の広告などに、堂々と「身長00センチ以上、眉目秀麗」のような断り書きもあるということ。これには、ちょっと驚いた。
 
 今年、韓国に行った時の(自治体問題の研究や翻訳の仕事の)李さんの話だと、特にサービス業、また、どちらかというと単純作業などの労働に多い要件だという。
 日本でも、新聞記事によると、学生が入社試験など採否にかかわり、容姿の影響を不満としてあげているという。女性の場合が多いのだろう。
 
 
 女性の見かけの美しさが求められる社会というのは、まだ成熟してない社会という一面を強くもつのだろう。人によって、「美」のものさしは異なるが、人間を含め美しいものは、鑑賞の対象としては、人の心を和ませたり、時に感動させたりすることもあると言える。しかし、人であれば、その価値はほんの一面(以下)に過ぎず、そのことで、仕事上あるいは、何かの時に、差別的待遇をうけたら、おかしい。

 
 ガイドをしてくださった李さん、自治体問題に関する研究の翻訳等をされている李さん、そして、役所の課長をしている女性二人( 韓国では、公務員と教師の地位はとても高い。公務員で役職についているこの女性たちもいわばエリート的存在である )というように、今回、交流したのはみな働く女性たちばかりだった。
 
 
 韓国では、高齢者は長男と住み、家族が親の老後を見るという感じだ。そして、子育てにかかわっては、孫を祖父母が見ると言う場合が多い。だが、時代は急速に変わり始めでいることも確かだ。若夫婦は親から独立して住むことも多くなってきているようだ。社会における男尊女卑も少しずつ変わり始めているのだろう。
 よいか悪いかは別として、核家族化していくことが、「家」というものを崩し、男女のありかたをも変えていく面は大きい。韓国の状況は、日本の現在にも当てはまるが、過去と同じ歩みをみせていると言える。
 
 
 韓国のIT化は、日本より遙かにめざましく、パソコンが家庭でも役所でもどこでも活用されているといった感じだ。情報手段の発達が社会や家庭の封建制をうち破る力にもなっていくだろう。まだ「男子厨房に入らず」の風潮の強い国だが、そのなかで、女性たちが切り開いていく力強さを感じた。
 
 
 最近は、「お料理まではいかないけれど、夫も少しずつ手伝ってくれています」と、女性の課長のひとりが言った。
 情報社会である今後の韓国の変貌は、女性を取りまく環境にとっても急速であるに違いない。



 
26       あの日の にじ色のゼリー   (11月17日・日・記)
 買い物のお店で、きれいな色のゼリーを見つけた時、ふと、10数年前のできごとを思い出した。娘がまだ保育園のころのことである。
 夕方、娘を連れて立ち寄ったお店で、娘に「おかあさん、ゼリー、買って!」とせがまれた。透明で大きな菓子袋に入ったゼリーは、色とりどりで虹色のように美しいものだった。

 袋には人工着色料が明記されていて、あまりにも鮮やかな色(
註)に、私は娘に「だめ・・・」と言った。お店ということもあり、その場所で、幼い娘に、着色料について話すということは、無理だった。別の売り場に行こうとしたが、娘はどうしても買ってくれと、譲らない。
 
 子どもの要求に負けてはならないと、私は、取り合わなかった。まだ、不機嫌な娘を振りきりながら私は他の売り場を歩いた。そのうち娘も諦めたのか、おとなしくなり、買い物を終えた私はほっとして、娘とレジに進んだ。
 
 レジを通過したその時、初老(?)の男性が私と娘のところにやってきて、私に「これ・・・」と微笑み、手渡そうとする。それは、娘がねだった、あのゼリーだった。私は男性の行為に、本当にびっくりした。見知らぬ人から、物を受け取るわけにはいかない。それに理由があって、欲しいとは思わないものでもあった。


 「いいえ、いえ、いいんです」と何度も断ったが、男性も「いいよ」と言って、全く譲らない。男性は、けっきょくゼリーの袋を私に押しつけて、ちょっと照れたような笑顔で立ち去ってしまった。
 私は、ゼリーを持ったまま、予期せぬできごとに「えー」といったまま、呆然としてしまった。買いたいと思わないものに、「じゃ、お金を・・・」と、お金をその男性に払いたい気持ちにもならなかった。また、商品として選ばなかった理由を、その人に話す気持ちにもならなかった。もし話したら、男性は、自分の行為の見当違いに気づきはしただろう。そうすることは、ひどく、男性をがっかりさせるのではないかと思った。

 
 その男性が、私たち親子のことをどう見ていたのかわからない。「子どもが買って欲しいとねだり、買ってやらない親」ということだけは確かだ。
 
 きっと、男性の目には、お菓子を買ってもらえない幼い子どもがかわいそうに写ったのだろう。もしかしたら、自分にも孫がいて、とてもかわいがっているのかも知れない。それで、他人の孫が自分の孫のように思えたのかも知れない。
 親が子どもに買ってやらないなら、自分が買ってやろう。男性は、とっさに、そう思ったのだろうか。
 私のことを、「経済的な面から、買ってやらない親」と思ったのかも知れない。

 
 子どもに物を買い与えるのが愛情とは、決して思わない。(「モノ」をめぐっては、多くの家庭で、子どもとのたたかいがくり広げられることでもあるだろう) だが、男性の行為の対象が私たち見知らぬ親子であったことが、驚きであるとともに、私の心に温かいものを残した。(男性が)どんな思いであれ、普通の場合、たまたま出逢った見知らぬ他人の子どもにまでそんなことするかしら、と思うのである。いつまでも忘れられないできごとである。

 添加物へのこだわりとは別に、虹色のゼリーは、その後、袋が開けられ、娘のおやつとなった。


 ★(註) ゼリーにもいろいろあって、果汁そのものの色の商品もあると思います。人口着色料も、もちろん国で認可されているものが使用されているわけですが、人口着色料を含め、食品添加物の摂取についてはできるだけ少なくしたいという私のこだわりから、このようなことになったと思います。誤解のないよう、付け加えさせていただきます。




  
 25 
          わたしと ピ ア ス       (11月10日・日・記) 
 最近、ピアスをしようかと思った。自分で自分自身の変わりように驚き、おかしかった。若者の結構多くは、ピアスをしている。それまで「耳に穴なんか、よく開けられるなあ」というのが、私の思いだった。身体を傷つけるなんて、嫌いだし、恐いし、痛いし・・・と思っていた。
 
 ピアスにしようかなと思ったのは、買ったばかりの、それも気に入ったイヤリングを続けてなくしてしまったことからだ。イヤリングは、小さいので落としても音もせず、いつの間にか片方をなくしていることが多い。
 
 それから、イヤリングは耳たぶを挟むので、つけていると痛いということだ。洗濯バサミのようなタイプのものは、特に痛い。日によって、一日つけていると痛くてたまらない時もある。頭痛まで伴ってくることもある。痛いのは辛い。
 この二つのことが理由で、イヤリングからピアスに変えようかと思った。

 
 痛くて、落とすなら、イヤリングなんて必要なものではないのだから、やめればいいと思うだろう。
 
 でも、イヤリングもおしゃれの一つで、私の場合、少しだけのおしゃれをすると、なぜか元気がでる。失った若さや足りない部分の埋め合わせができたような錯覚とともに、元気がでる。身だしなみを整えると元気がでるのと同じように。
 
 何もおしゃれをしない人は、しなくても元気がでるのだから、羨ましい。外見を飾る人より、飾らない人のほうが、誠実で信頼がおけそうな感じもする。
 
 
 私は、もともとネックレスなどを身につけるのは、嫌いではない。それが、耳にまで及んだというもので特別なものではないかも知れない。ただ、ネックレスと違って、イヤリングは、買っても落とすことが多いので、もったいない。
 店員さんの、「つけていきますか?」の言葉に、変身でもできるような気がして、つい「そうですねえ」と言って、耳たぶにつけたその日のうちになくしてしまうことも、あった。2、30分(あるいは、それ以上)もかけて選んだイヤリングは、一瞬のうちに消える。
 帽子などかぶったりしている時は、なくしやすい。そして、なくすのは、不思議と必ず片方だ。
 
 若い頃から、いくつかイヤリングを持っていて、私は、ちっちゃな目立たないものを、ほんの時たま思い出したように身につけることがあった。それも、今はほとんど片方だけになっている。
 
 別に左右対称にする必要もないので、左右べつべつのものにしようかと考えたりする。そんなことを思っていたら、電車のなかで、左右べつべつのピアスをしている女性にであった。経済的なので、これは不況に合ったおしゃれで、流行するかも知れないなどと思った。
 また、アンバランスの美というのもいいかも知れない。
 
 

 ピアスにすれば、身につけて痛くないし、なくさない。そう思って、東京に行ったついでに、駅ビルの売り場を覗いた。そこで、ピアスの穴もあけないうちから、あけたときのために、ピアスを初めて買ってみた。買うことにより、「ピアスにする」決心を固めた。
 
 ピアスには、針のような細い金属に小さな留め具がついている。ピアスというものを初めて認識することとなった。小さくて危うげな留め具は、身につける時に、指の感覚をしっかりとしないと、床の上に落としたら見つからないような気さえした。
 
 
 イヤリングは身につけてから落とすが、小さなピアスは身につける前に落とすことになるかも知れない。出かける前の忙しい時間に、顔をこすりつけるようにして、床の上を探し回る自分の姿が浮かんで、ふと心配になった。私の「ピアスは、なくさない」というのは、思いこみに過ぎなかったのかなと思った。でも注意を払えばいいとも思った。何しろ、イヤリングと違ってピアスは身につけてさえしまえば、痛くないのだから。

 
 ただ、忘れてはいけない私にとってのもう一つのピアスの問題点は、耳に「穴をあける」時の痛さの問題だった。でも、痛みも一瞬のことだろう。スゴイ痛みだったら、ピアスがはやるはずがないと私は思った。
 たまたま立ち寄った装飾品のお店の人に聞いたら「痛くないみたいですよ」ということだった。
 その女性は、大きな輪が連なった銀色の、歩くたびにジャラジャラと音でもしそうな感じのイヤリングを両耳にぶら下げていた。彼女は「自分で開けてしまう人もいますよ」と付け加えた。
「なるほど、痛みは、大したことはないのだろう」と思った。だが、ピアスをしている人に聞くのが一番いい。

 
 ピアスをしている人に出会ったので、聞いてみた。「開けた時と、それからしばらくは痛かった」とその人は言った。「あ、痛いんだ。いやだな」と思った。でも、複数の人にきいてみなくてはと思ったので、5ヶ月ぶりに行った美容院で、ピアスをした若い美容師さんにきいてみた。
 
 
 「穴をぱちんと開けるもので開けたんだけど、痛かった。私の場合は、1年以上も、開けたところが、じくじくして、その上、痛んだの。いくつも開ける人がいるけれど、二度と開けようとは思わないわ」ということだった。

 「えっ、そんなに長く痛かったんですか?」と驚く私に、
 「そうなんです・・・」と、彼女は自信をもって答えた。

 穴を開けるのに、痛くないはずはない。やっぱり痛いものなのかと思った。ふたりの体験者の語る「結構長引くこともある痛み」というのを信用することにした。3人目に尋ねてみる気持ちはなかった。

「なくさない・痛くない」という私のピアス神話(?)は、崩れて、ピアスも「なくす、痛い」ということになった。ある期間の「痛み」を過ぎれば、後は痛みもなく身につけられることは分かっているが・・・。 私のピアスへの「挑戦」は、崩れた。

 
 最近、片方の耳だけに、4つのピアスをつけている男性に出会った。
 4つのピアスは、4回もの痛みに耐えたものなんだと、その浅黒い耳たぶを感慨深げに見つめてしまったりした。
 
 私は、やっぱり、身体を傷つけるの、「嫌いだし、痛いし、恐いし・・・」に戻ってしまった。
 手元のピアス、さて、誰にプレゼントしようかしら?
 私好みの、耳もとで可憐に揺れる銀色のピアス・・・。






 24           けなげな子どもたち  (11月3日・日・記)
 旭爪あかねさん(作家)の講演をきいた。そのなかで、再認識させられたことは、子どもは、いつの時代でも、本来、「大好きな親を喜ばせたい」と思って生きているものであるということである。
 講演のなかみは、あかねさん自身の体験でもあることから、心にずしんと重いものだった。
 
 
 あかねさんの場合、特に親を喜ばせたいという思いが強かったのか、親の期待に応えられないと思ったとき、自信喪失とともに、空っぽになったような気持ちになった。(あかねさんの母親は、あかねさんに研究者の道に歩んで欲しいと思っていたようだ)
 
 子どもの頃から、失敗することを恐れ、周囲の人からどう思われるかを非常に強く意識する傾向のあった彼女は、挫折感とともに、極度の対人恐怖症に陥ってしまったということである。
 あかねさんの場合、生育環境等からくる他の要因もあったようだが、以来、20代から10年間「ひきこもり」の状態が続いた。しかし、小説を書くことで、自分を取り戻したということだ。

 
 自分がどうすれば、親が喜ぶか、子どもはよく知っていて、いじらしいほど、期待に応えたいと思っている。このことは程度の差こそあれ、どこの家庭にも共通する親子の関係だろう。 
 
 時代が競争社会になればなるほど、このことに圧迫感を感じる子どもの数は増えていることだろう。子どもの学習の成果に寄せる親の期待も、また大きい。
 子どもは、小さなうちから意識の差こそあれ、「期待に応えられなくて、ごめんなさい」と思っているのかもしれない。

 自分の子育てを思い起こす機会になったのは勿論だが、自分のことについても、また、思い出させてくれた。

 創作に専念したいと思って仕事をやめた私だった。
 私は、満足のいく作品を書きたい、単行本を出したいと思っていた。私が本を出すことは、親を、とりわけ母を喜ばせることに違いなかった。
 
 古い著名な作家が、まだ有名になっていない頃、「賞をとりたい」という思いを誰かに宛てて、せつせつと訴えた手紙があり、そのなかに、「老いた母を喜ばせたい」と懇願する(裏で賞がとれるよう御願いしたものであったように記憶している)箇所があったように思う。
 それを読んだとき、私は単行本の1冊も出していなかったが、その作家の気持ちがとてもよくわかった。
 
 退職してからの私は、ほとんどの時間を原稿用紙に向かっていた。「親が生きているうちに
、どこかの出版社で本にしてくれないかなあ」と、ため息をついた私に、夫は「あなたは、お母さんのために書いているんじゃなくて、自分のために書いているんじゃないの」と言った。

 
 確かに嫌いでできることではない。私にとって作品を書くことは、縦糸と横糸を編んで1枚の彩りのある織物に仕上げることのようで、とても楽しくまた苦しいが飽くことのない作業なのだ。自分のこととしてやっていることなのだが、それが完成して本になることがあれば、親が喜んでくれると思ったものだ。

 紆余曲折を経て 1冊の本を出したとき、私はやっと、これで少しは親の期待に応えられたかと、ほっとした。今でも親の子であることに変わりなく、一番親孝行になる方法で、親孝行をしたい気持ちに変わりはない。
 今、親は私にすべての面で、何も言わない。「今の私でいいの?」という問いかけをしたら、親はなんと答えるだろう。
 
 この年齢の娘に何も言うことはないかも知れない。けれど、娘の私のほうは勝手にいまだに重くはないけれど、十分に親を喜ばせてはいないという軽い荷物をどこかで背負って生きている。そして、それは、もう誰かに背負わされたものではなく、自分自身の荷物になっている。
 
 「今のあなたで、いいよ」と言われたら嬉しくて、私は「ありがとう」と言って、やっぱり荷物はおろさないでいるだろう。そして、いろんな意味での適度の荷物を背負わせてくれた人生に感謝している。


 あかねさんの話から、幼い子どもは幼いなりに、もっと大きければ、大きいなりに親を喜ばせたいと思って、けなげに生きていることを改めて気づかされたとき、胸をつかれる思いだった。
 そして、現代を見る時、今の子どもたちは、私たちの育った時代より、もっともっと大変な時代に生きていることを思う。
 
 現在のあかねさんは、親の期待ということに対して、否定はせず、親子関係も社会のあり方とそのなかで生きる人間関係という広いとえらえ方をしているように思えた。
 


  
23
       オーストラリアの小学校で      (10月27日・日・記)
 
 この夏、オーストラリアのビクトリア州立小学校を訪問した。幼稚園からバイリンガルの教育が行われている小学校だった。
 
 オーストラリアの学校は、私の見た範囲においては、小学校に限らず、土地が広いせいか、たいてい平屋づくりとなっているようだ。(大学は、平屋ではなく、敷地、建築物とも巨大だった)
 廊下の壁面は、子どもたちの絵や工作などの作品でいっぱいだ。通りすがりの子どもたちが、訪問者が日本人と見て、口ぐちに「こんにちは!」など、日本語で話しかけてくる。小さな耳に、ピアスをしている女の子も珍しくはない。
 
 「授業をどうぞ」ということで、幼稚園から6年生までの各クラスを参観させていただいた。
 中学年のクラスでは、「魔女の宅急便」の劇を日本語で演じていた。

 先生は、ショートカットの髪をした活発そうな若い日本人女性の 「ケイ子さん」と、もう一人。(オーストラリアの人で、日本語が話せる先生)
それに、ボランティアの先生のふたりを合わせた4人が指導にあたっていた。(この日、ケイ子さんが全体の指導をしていた)
 
 授業は、日本語で話し、一切、英語は使わない。子どもたちは、ケイ子さんの話す日本語を理解しているようで、指示に従って演技指導を受けていた。声も大きく、のびのびと体が動いていた。

 子どもたちの日本語は、なまりがなく流ちょうで、「日本語が上手!」と思った。オーストラリアでは、日本語がかなり重要視されている。どのクラスも20人程度の少人数クラスだ。
 
 小学校から外国語学習に力を注ぐのが良いか否かは別として、諸外国の語学に対する取り組みは日本のそれとは、全く違うことに気づかされる。

 
 日本の指導的立場にある人たちは、日本人が英語をしゃべれないのは、文法中心の教育のせいだと考えたようだ。それで、(何と単純な発想?で)、もう何年も前から、教科書は会話中心に変わった。会話中心で、果たして子どもたちの英語力がついたかというと、そんなことはないと現場教師も言う。

 
 文法がしっかりと頭に入った上で文章が頭のなかで組み立てられる(それが話せることにもつながる)。文法力がなければ、文章にすることもできない。まさに、文法は、基礎基本ではないだろうか。
 
 「読みとる、書く、話す」のうちの二つは文法を身につけなければ、不可能だ。「話す」もできないのでは・・・。
 「いや、考えて言葉が出るようじゃだめ」というのも、最もだ。けれど、考えなくても、話せるようになるには、英語を日常的にシャワーのように浴びる環境にいる場合だろう。文法の力が不足していると、外国滞在で日常会話が話せるようになったとしても、誤った文法で話すということも予測できることだ。
 
 
 また、外国語の学習には、少なくとも、学校現場では、少人数学級と時間数が絶対的に必要な条件だろう。


 
  現在、私の住むまちの中学校では、英語助手として外国人が 3時間のうち 1時間入った授業が行われている。だから、昔の子どもたちに比べて、生の英語に多少は慣れる機会があると言えるだろう。
 
 しかし、国をあげて、「英語、英語」と騒いではいても、今の日本の英語教育では、話すことも書く力も、しっかりとは身につかないのではないだろうか。いや、日本語もおろそかになっている現状である。だから、やはり、日本語を含めて、言語の教育に対する考え方や方法が適切ではないのだろう。
 
 それは、もちろん、ひとりひとりの教師の考え方や努力によるものでなく、国の定めた方向性(枠組み)にあると言えよう。
 言語で考えれば、一番大事なのは、母国語である日本語で、(最近は日本語も心配である)外国語は、その次だろう。子どもたちにどちらの力もしっかりとつけたいのであれば、やはり、日本の言語教育は、どうもおかしいのではと思う。

 まず、授業時間数が、少ないことがあげられる。私達が中学校の時でも、英語は週4時間で今より1時間多かった。
 小学校の国語の時間数は記憶にないので、私の教員時代と比べると、低学年は同じで、中学年以降は減っている。これで、国語や英語を重視していると言えるのだろうか。どうも言っていることと、やっていることがかみ合わないように思う。

 「(オーストラリアの)子どもたち、日本語がずいぶん上手ですね」と言って、けい子さんに時間数を尋ねると、週に7時間半の授業だと言う。1時間の授業は、「1時間」ということだ。 (日本の公立中学の外国語の授業は、普通は、50分の4日間・3時間20分)
 
 (1学級の人数等にも原因があると思われるが)授業時間数だけを考えてみても、歴然とした違いがある。
 オーストラリアで出会った韓国の留学生や先生に尋ねてみたら、英語は毎日で、1時間の授業時間は50分ということだ。やっぱり、日本とは違う。(数年前の中国では、小学校3年生から授業で行っていた)

 
 外国語に関して言えば、日本の学生が英語がしゃべれないとしたら、なぜなのか、原因を探るのはそう難しいことではないと思うのだが・・・。
 
 単に、文法中心であったから、会話中心にすればよいというものではないように思う。文法も、とても大事である。その上に従来足りなかったもの(生の英語を聞く、そして、話す時間)を上乗せしていかなければ、力はつかないだろう。外国語を学ぶには、持続した長い時間が必要であると思うから。
 
 英語の時間ばかりとった方がよいというのではない。しかし「国際化、国際人」と叫ぶ中で、私達が受けた英語の時間数より少ない今の状況をどう考えたらよいのか。そして、「ゆとり」を言いながら、子どもも教師もゆとりがなくなっている学校現場の状況・・・・。(国語では、漢字が読めない、書けないと言いながら、、やはり時間数は減らしている)


 さまざまな思いを抱きながら、「さよなら」という元気な子どもたちの声と笑顔に送られて、ハンティングデール小学校 (Huntingdale Primary Biligual 
School) をあとにした。


 
 22                ひとり暮らし     (10月21日・月・記)     
  10月の福祉ゼミは、多摩市の公民館の講座で学習している高齢者の人たちと一緒の勉強会になった。
 他地域での取り組みが学べるということで興味があった私は、少々遠方ではあると思ったが出かけることにした。
 
 
 多摩市では、高齢者のための講座を年間を通して開催し、参加者は、介護保険等福祉の問題等についても学んでいる。そして調査したものなどを含め、冊子にまとめている。
 
 この日は、小グループに分かれて話し合うなかで、講座の参加者のなかから、「ひとり暮らしの会」ができたという話が出された。今は理由があって休止しているが再開を期待されているという。私が参加したグループでは、この「ひとり暮らしの会」の状況についても、かなり話された。
 
 
 ひとり暮らしには、優雅なひとり暮らしもあるかも知れない。「年をとっても、一人が自由でいいと」言ってほがらかに暮らしているように見える人もいる。
 逆に、若い時のひとり暮らしと違い、年をとった時のひとり暮らしには耐えられない(だろう)と言う人もいる。この耐えられないという人には残酷だが、誰でもひとり暮らしになる可能性はある。

 高齢者のひとり暮らしは、やっぱり気になる。地域や友人と交流を持つ人はよいが、そうでない人は、情報が入らず、不利益を被ることもあるだろう。そうならないように、行政や地域での取り組みもあるだろうが、それでも十分とは言えないのが実態ではないだろうか。
 (例えば、私の住むまちでも、一人暮らしの高齢者が受けられるサービスの一つである食事サービスを知らないで過ごしていた高齢の人もいた)

 
 また、ひとり暮らしの人のなかには、一日中だれとも話さず、声も出ない状態になる人もいると聞く。どちらかというと、物事を明るいほうに考えられなくなり、精神的にも参ってしまうことも多いかも知れない。
 人と交流がもてれば、出かける時の服装に気も配るかも知れない。(女性なら特に)おしゃれな人を見れば、自分も少しはおしゃれをしてみようかしらとも思うかもしれない。誰かがおもしろいことを言い、周りで笑うこともあるかも知れない。もしかしたら、すてきな異性との出会いがあるかも知れない。

 
 自分が誰とも交流をもてないひとり暮らしになってしまったらと思うと、すごく寂しいし、また恐い気がする。ひとり暮らしの会ができているなんて、すばらしいと思った。ただ、どこかで気づかれずに、ひとりで生活をしている人を見つけだすことは、結構難しい。自分から会の存在を見つけて出て来られる人は、幸せな人かも知れない。

 
 うーん。何か考えてしまうこの頃である。強い者が中心の社会のなかでは、高齢者は、特別な場合を除くと、やはり紛れもなく弱者または弱者扱いである。それでも、まあまあ健康であったり富があったりする人は、まだいい。何もない人はどうしたらよいのかしら。
          
                
                  ☆       ☆      ☆   
 
 敬老の日に某市の市長が高齢の女性を表敬訪問し、「おばあちゃん、元気ですか」と呼びかけたという新聞記事があった。これを書いた記者の視点は、別にこの呼びかけの言葉に批判的というものではなく、記事は敬老の日のごく一般的なありふれたできごととして書かれたものである。
 
 私自身は、尊敬すべき高齢者に向かって、「おばあちゃん・・・」という呼びかけは失礼ではと、思ってしまった。名前で「00さん」と普通に呼んだらいいと思う。
 もし、これから先、私が運よく(?)長生きをして市長から表敬訪問され、「おばあちゃん・・・」と呼ばれたら、「ありがとうございます。でも、名前で呼んでいただけませんか」と言いたい。
 
 もし仮に、目の前の人が高齢であっても、その市長が自分の尊敬する人や社会的地位が高いとされる人であれば、「おじいちゃん」、「おばあちゃん」とは、絶対に呼ばないと思うのである。普通の場合では、(名もなく富もなく、権力をもたない人は)年をとったら、低い価値に見られるとしたら、この社会は寂しい。

 
 講座に集まった人で、ひとり暮らしの
Aさんは、娘さんを病気でなくされてから、それほど経っていないという。自己紹介の時、明るい声で「とても幸せに、元気で暮らしています」、とおっしゃった。でも、仲間の人など、人との交流があるから元気でいられるのではないかと思う。  娘さんを亡くされたということは、生きていられないくらい、とても悲しいことに違いないと思うから。悲しみも苦しみもたくさん乗り越えて年をとって、長く生きてきたこと、それだけでも大変なこと。十分に尊敬してしまう。

 多摩市の高齢者の人たちと一緒に学べたことは、とてもよかった。


 
 21     今でも好きなコロッケパンですが・・・   (10月14日・月・記)
 この夏、珍しく熱を出してしまった時、とても食欲がなかった。何か食べたいものと聞かれた時、私は「コロッケパン」と答えた。
 
 他の菓子パンも好きなのだが、コロッケパンを食べたいと思った。コロッケパンが好きなのは、昔からだ。パンの生地に、ほどよくしみこんだコロッケのソースとコロッケがよくなじんでおいしい。ふだん、コロッケパンを食べているわけでもないのに、コロッケパンが好きなのは、なぜなのだろう。
 
 38度の熱にふーふー言っている私に夫
が、さっそく、食べたいと言ったコロッケパン2個と注文のなかったコロッケを1個買ってきた。(夫は、コロッケもパンも好きではない)
 「そんなに買ってきたの? 」と驚く私に、「だって、好きだと言ったから」と
夫は答えた。
 その日のお昼は、コロッケパンを一つ食べると、熱のせいか、もう何も食べられなかった。あとの食事は、やはり、病人食のおかゆになった。
 
 次の日のお昼に2個目のコロッケパンをやっと食べた。このとき、熱も下がらず、私にとって、コロッケパンは食べたいものにはならなかった。2個のコロッケパンは食べ終わったが、冷蔵庫には、まだ、「ころっけ」が1つ残っていた。だが、いくら好きでも、毎日は食べられない。

 夫がせっかく買ってきた、ころっけ。「あなた、買ってきたのに食べなかったの?」と言われたら、どうしよう・・・。何しろ、食べ物を無駄にすることにかけては、人一倍憤りを感じる夫だ。
そして、(何か食べるものないかなと言う感じで?)冷蔵庫を一日に何回となく開ける夫のことだ。そのうち、食べなかったことが分かってしまうだろう。と言って、今すぐ処分するには、ころっけがかわいそう。寝床のなかで、ちょっと頭を悩ませた。 
 
 
 病気の時は暇なせいか、床のなかで、どうしてコロッケパンが好きなのかと思った。答えは割合と簡単だった。きっと子どものころ食べたものだから、だろう。


 その頃、母が仕事をしていて、私は保育園に通っていた。保育園にはお弁当を持って行くことがほとんどだったのだが、時折、パンを買って食べることもあった。保育園では、パンを買う子どもたちのために、毎日パンの注文をとっていたように思う。お昼になると、パン屋さんが店の名前入りの大きな木箱に入ったパンを運んできた。
 
 クリームパン、ジャムパン、うぐいすパン、甘食(あましょく)、それにコロッケパンなど。これら、みんな好きだった。形は今あるものとほとんど変わらない。この古典的な形をパン屋さんで見ると、昔を思い出して懐かしい。

 その保育園には、どうして通っていたかというと、バスで通っていた。毎日、定期券を首にぶら下げて(または、かばんにつけて?)通っていた。母が「あら、定期買うのわすれたから、ちゃんと車掌さんに言ってね」ということもあった。のどかな時代だった。もちろん、遺伝子組み換え食品等の心配もなくコロッケパンも食べられた。
 
 今、時代とともに、食の安全にも注意を払う必要が出てきて、食品を選ぶ時に、表示があっても、「これ、大丈夫かしら」と思ったりする。
 コロッケパンもそうだけれど、すべての食品が安心して食べられますように・・・。

         
                ◇          ◇           ◇
 
 さて、3つ目のコロッケパンでない「ころっけ」は、どうなったかと言うと、しばらく冷蔵庫のなかに眠っていたが、食べられなくて・・・と言う結果になってしまった。
 熱のある時には、同じ種類のものが、おいしく食べられるのは、「一つ」が限界なのかも知れない。ころっけよりコロッケパンのほうが好きなこともわかった。
 そして、冷蔵庫を開けて、「あなた、せっかく買ってきたのに、食べなかったの?」という夫の言葉は予想通りだった。




 20                 女優さん       (10月7日・月・記)
 美里町で行われた朗読劇「この子たちの夏」を見た後、しばらくして車に乗り込んだ時、ひとりの女性が会場から出てきた。
 
 「ああ、舞台にいたあの方」とすぐに分かった。公演を終えたばかりのその人は、ブルーのジーンズ姿で立っていた。化粧を含め特別なものを身にまとっているわけでもないのに、舞台をおりても、やっぱり女優さんだった。
 
 車のなかで連れを待っていた私は、しばらくの間、ガラス越しに彼女を見ることになってしまった。人待ち顔のその人は早く会場を出たので、なかまの女優さんたちを待っていたのかも知れない。
 
 時代とともに、個性が重視され、顔かたちの整った人だけが女優になれるというのでもなくなった。が、やはり、印象として人びとに美しさを与えるのが女優さんなんだろうなと思った。やや短めの少しウェーブのかかった髪に小柄なしなやかな身体のその人は、何かを考えているような、魅惑的な表情でそこに立っていた。十分に絵になる風景だった。
 
 行田公演は、この翌々日だった。当日は見ないで何らかの仕事に当たれる人も必要で、私と連れの者は、前もって、美里で行われる公演を見にきたのだった。
 
 8月5日夕方からの行田での公演当日は、ほぼ満席の状況で、大成功をおさめた。朗読劇
で、6人の女優さんたちは観客を十分に「この子たちの夏」の世界に連れて行ってくれた。
 ヒロシマ、ナガサキの原爆で死んでいった多くの子どもたち・・・。また、親を失った子どもたち・・・。失った者の悲しさ、くやしさ。なぜ、死ななければならなかったのかという怒り・・・。
 
 平和のメッセージの数々を観客は女優さんたちの朗読の中からくみ取ったことだろう。子どもたちも、もちろんいたが、会場がざわつくことはなかった。人びとの心に奥深く入り込み、揺さぶるのに十分な朗読劇であった。
 また 女優さんの他に、地元の朗読グループの人や公募した人たちが短歌を詠み、舞台に加わった企画も、とても興味をひいた。
 

 朗読劇・「この子たちの夏」の上演が成功したのは、実行委員長を始めとする実行委員会の人たちの大きな努力があったからだ。(毎日毎日、チケットの出る数が頭を離れなかった人も多い)
 また、平和を願う市民を中心とする多くの人びとの思いや協力があったからこそだ。
 
 それに加えて、やはりテレビや舞台で顔なじみとなっている女優さんたちが出演するといったことも大きな魅力であったと思う。「え、女優の00さんが出るの? はい、買います」と言ってチケットを買ってくれた人もけっこう多かったようだ。
 
 終演後、6人(大森暁美・川口敦子・北村昌子・神保共子・高田敏江・山口果林 さん)の女優さんたちとの交流会がロビーでもたれた。その周りには大勢の人の輪ができた。
「女優さんを、なまで見たくて、0市からきました」と言う人もいたし、「女優の00さんと同級生です」と言う人もいた。6人の女優さんのなかの2人が、埼玉や栃木(と聞いたと思う)に居住していたことのある方のようだった。
 
 それぞれ忙しい仕事の合間をぬっての女優さんたちの夏だけの公演、「この子たちの夏」。「わたしたち、車椅子になっても続けようねって話しているんです」と言う女優の高田敏江さんの言葉に、単なる仕事ではない平和への熱い思いを感じた。
 人の生き方は人の美しさにも通じるもの。6人の女優さんたちは、みんなとても美しく魅力にあふれていた。
 



 19
           ミコよ、ぜいたく 言わないで  (9月30日・月・記)    

 ミコは、我が家の愛犬の名前だ。我が家にきてから、もう7歳と7か月になる。娘が小学校の5年生になろうとする春休みの前にもらってきた犬だ。
 
 「人間の面倒をみるのも大変なのだから、犬までは、面倒みられない」と我が家では、長い間、思ってきた。だから、しつこいほどの、娘からの「犬が飼いたいの・・・」という話には、夫も私も「いくら言っても無理、無理」と、何年もの間、一切のらないできた。
 
 娘は、もう言っても無駄だと思ったのか、ある日、「ひよこでいいから飼っていい?」と夫に聞いた。私ではなく夫のほうに話したのは、多分、夫のほうが、もしかしたら自分の願いをかなえてくれると判断したものだろう。
 
 それまで、娘に「飼えない」と言い続けてきた夫は、このとき、「ひよこか犬のどっちか・・・」と
心にもないことを答えてしまった。娘の喜びようは大変なものだった。もちろん、娘の選択は、ひよこではなくて、犬。答えてしまった夫のほうは、自分の言ったことにびっくりしてしまったようだが、あとの祭りだった。
 
 
 そんなわけで、我が家ではこの日をきっかけに、それまで考えもしなかった犬を飼うことになった。ちっちゃなかわいい子犬は、生まれてたったの2か月で、お母さんのにおいのついた座布団と一緒に我が家にやってきた。(名前はなかなか決まらなかったが、「じゃあ、美しい子で「ミコ」でいいんじゃないの」と夫が名づけ親になった)

 基本的なしつけができているのは、娘が教えこんだおかげだ。主人に絶対服従の関係づくりのために、例えば、えさをやるときには、「おすわり」をさせて、「待て」と言って必ず待たせる。食べようとするので、叱る。娘は、これを何回も繰り返した。

 次の段階では、窓のシャッターを下ろして、様子を見る。シャッターが降りたなと思うと、ミコは、「もう大丈夫」と犬ながら考えて、ご主人さまの「よし」の許しも出ないうち、食べ始める。食べ始めた音を聞くやいなや、娘はシャッターを開け、すかさず叱る。娘のおかげで「よし!」と言う合図がなければ、ミコは、えさを食べない犬になった。


 ところが、あまりに真面目(?)すぎるのも・・・というのは、犬も人間と同じかも知れない。人間のほうは「よし」を言うことを忘れて、「待て」のまま出かけてしまうことがあった。夕方、帰ってみると、えさの前でミコが疲れたように寝そべって待っていたこともあった。
 そんなとき、「なんて、利口な犬!」と感激するよりも、「今まで食べないで、ばかじゃないの・・・」なんて、つぶやき、食べてくれればよかったのにと勝手に思う。

 
 こんなことが一度あると、言うことを聞きすぎるのも逆に困りものということにもなる。しつけが思い通りにできると、人間の失敗が許されない。こちらも完璧さを求められる。それが恐い。(人間の子育ては、思い通りにできないから、ちょうどいいのだ)
 
 それで、出かける前などは、こちらも忘れないうちに、「待て」のあと、できるだけすぐに「よし」の許可を与えるようにした。
 ミコは、とにかく、与えられたえさは、(我が家のえさに大いに満足なのか)、なんでもおいしそうに(?)がつがつ食べた。
 
 
 娘が滞在しているオーストラリアを私たちが訪問するため、家を空けるので、実家に預かってもらった時のこと。旅から帰り、ミコを引き取った翌日、ミコはえさを食べようとはしない。ミコがえさを食べない!一体なにが起こったのだろう。あのミコがえさを食べないなんて考えられなかった。
 

 「ねえ、ミコがえさを食べないのよ。体の調子でも悪いのかしら・・・」
 「えっ、ミコが? どうしたんだろう」
 
 夫もわたしも心配した。
 「ミコ、よし!」何度言っても、横目でちらっとこちらを見るが、無視するといった感じだ。侮蔑にも似た表情なのだ。こちらは、何が何でも食べさせようと、「よし!」連発するのだが、ミコは、別人(別犬?)のように、えさに見向きもしない。

 
 そのうち、あることを思い出した。
 「うちはうまいもの、食べさせたよ!」という実家の兄の言葉だ。肉と野菜を煮たり、魚の缶詰と何かを組み合わせて与えたりと、何しろ、料理したごちそうを犬に食べさせたらしい。
 娘が持っていた犬のしつけに関する本のなかの、絵も思い浮かんだ。その絵は、えさを前にして、「ふん」と顔をそむけている絵だった。まさに我が家のミコそのままだ。
 ごちそうに慣れ親しんだミコの舌先は、もとの我が家の食事を受け付けなくなっていたのだろう。
 その本には、確か、「えさが気にいらないときに犬はえさを食べない時があるが、わがままを許さず、そのまま、放っておくこと」と書いてあった。
 
 
 それで、食べなくても、かまわないでおいた。すると、まる1日ぐらい食べなかったが、翌日にはきれいに食べていた。「犬のくせに生意気な・・・」と腹も立てながら、安心もした。
 このままえさを食べなければ体が弱ってしまうだろうし、と言って、豪華な食事は我が家には無理というもの。
 

 現在のミコは粗食にも耐え、とても元気だ。ご主人である娘が家を離れて、はや2年と数ヶ月。娘が愛し世話をしたミコは、今は、夫の散歩の良きパートナーとなった。



 18            もう少し落ち着いて!?      (9月13日・金・記
 
  夫が帰宅と同時に叫んだ。手には郵便受けからとったばかりと思われる小型の郵便物を持っている。私もちょうど帰宅したばかりだった。
 夫は、「これ、何、あなた!」と叫んだ。その瞬間、夫の開いた書類の金額の数字だけが、私の目に飛び込んできた。書類のまわりは赤で縁取られていた。
 
 「30,652円」という金額だ。隣をみると、「お支払い額」とある。どうして、こんなに支払わなければ、いけないの?私も、びっくりした。
 今後とも「AO」(仮名)をお引き立てくださいますよう、御願い申し上げます・・・とある。
 夫はひどく興奮していて、「あなたのも、あるよ!」と私に別のものを渡した。こちらは、
23,117円とある。「この夏、オーストラリアでかけた携帯の電話代だよ」と夫が言う。
 
 「こんなに高かったの?」
 「うん、そうみたいだね」
 「やっぱり、だめよね。携帯つかわなければよかったわね」
 
 二人は、娘との連絡をとるのに便利な携帯電話を使ったことを、この数字で、ひどく後悔した。娘は、昼間は学校に通っていて、私たちは、その間、外出しているので、どこかで待ち合わせるのに携帯を使うことは、とても便利なのだった。
 でも・・・と私は思った。私と夫の携帯の会社は、「AO」じゃなくて、「AC」(いずれも仮名)なのだ。
 
 「違うんじゃない?会社がちがうもの」
 「ホントだ」と夫。
 「もしかして、これって、娘の携帯?」
 
 差出人は「イースト・・・・」とある。聞いたことのない長い名前だ。
 お支払い先として、我が家がつかっている銀行名が記載されている。娘の携帯電話代金 を日本に回してきたのかも? 娘から日本にかける普通の電話代は、こちらに請求なので、今度は、てっきり、そうだと思い込んだ。(娘は、ホストの家に電話代で迷惑をかけないよう、区別するため、必ず、日本で支払うカードを使うようにしている)
 
 書類の「相手方の欄」には、娘の名前が書いてある。向こうは電話が、比較的安くかけられると娘から聞いていた。((ある時間以上は定額になったりする)

 「えー、携帯の電話料を、こんなにも使っているってこと?電話してみようか?」
 「うんうん」
 夫もすぐさま同意した。
 
 「電話代の請求が送られてきたみたいで、びっくりしちゃったんだけど・・・。イースト・・・センターというところから・・・。何しろ、3万とか2万とかいうものなのよ」
 ところが、電話に出た娘はひどく落ち着いていて、「ああ、それは、盗難にあったときの保険がおりたの・・・」ということだった。
 娘が現地で盗難にあったのは、もう何ヶ月も前のことで、頭のどこかで忘れかけていたことだった。
「請求」と思ったのは、こちらへの(保険からの)支払いだった。

 
 電話をきった後、よく見ると、いくつもの間違いに気づいた。「あなたのも、あるよ」と夫は言ったが、2通とも夫の口座あてだったし、「請求額」ではなくて、「支払額」だった。
 思い起こしてみると、携帯電話も、海外でも、・・万円になんてならないと予測できたので、携帯をつかったことも思いだした。実際、頻繁には使わなかったので、桁が違う。
 
 書類の表紙には、「保険金のお支払いのご案内」と赤い文字でしっかりと書いてあった。
私も、夫が開いて持ってきた中身しか見なかったことが悪かったようですが・・・。どうやら、すぐに開いた夫は、その文字に全く目をとめなかったようだ。
 すべては、あとで分かったことだった。
 
 ふたりとも、なんやかやと目まぐるしくしているので、もう少し落ち着いて生活したいですね。多分、皆さん、電話代のこれぐらい驚かないのかも知れませんけれど・・・。とにかく、真実がわかり、二人とも大爆笑しました。無実の罪を着せられた娘には、もちろん謝りました。心優しい娘は「いいよ」と意に介さないようでした。




 17             私の好きな人       (9月3日・月・記) 
 
 「ねえ、どういう人がいいの?」独身の頃、人に聞かれた。「そうねえ・・・」と言いながら、頭の中でいろいろ考える。怠け者で働かない人は困るけど、お金は暮らしていけるほどでいい。
 あとは、いい人が、いい・・・。いい人がいいのは当たり前で、さて、どんな人がいい人なのかは、人によって、ものさしが違うだろう。もちろん誰がみても、いい人も存在するかも知れない。
 
 独身の頃の異性とのおつきあいは、難しい。ある年齢にもなると、将来、人生を共にできる相手かどうか見定めるという目的を持つ場合が多いからだ。
 「いい人だから、友達としておつき合いしてるの」なんて言って、いつまでも気軽におつき合いをしたり、ネックレスをもらったりしていると、相手に迷惑をかけたり、誤解を生んだりすることにもなる。

 若い頃の話はともかく、今、私は、「どんな人が好き?」の問いに明確に答えられる。(ただ、若い頃と違って、だれも尋ねてはくれなくなった・・・)答えは、自信を持って、「私利私欲のない人」である。
 
 
 私利私欲の思いの強い人は、自分の財産を増やしたりするために、不正を働くことがあるかも知れない。(辞職したが、高校の同窓会の会費1万円までも、税金で当てていた政治家がいて驚いた)そして、お金にならないことのために、働くことは好まないかも知れない。
 また、人を蹴落としても、自分がのしあがろうとするかも知れない。そのために、利害関係で動くあまり、人を傷つけることも多くなるかも知れない。
 
 逆に、私利私欲のない人は、それほど、物や金銭や地位に執着しない。お金になるかならないかは、、あまり考えない。だから、この社会のなかで生きているさまざまな人の置かれている環境にも目を向けた行動ができるかも知れない。そのために、自分の時間を提供したり、わずかながらであっても、お金を出すことも、できるかも知れない。
 
 誤解されると、困るのは、財産のある人が、私利私欲の思いが強くて、財産のない人が私利私欲のない人と言っているわけではない。簡単に言うと、私利私欲のない人というのは、お金にならないこともできるということではないだろうか。
 
 じゃあ、ボランティア?と簡単にいわれても、難しい。もちろん、ボランティアのできる人は私利私欲のない人と言えるだろう。だが、ボランティアができなくても、私利私欲のない人は、存在するし、その行動はボランティア以外でも見ることもできる。
 
 ボランティアに関して言えば、一番腹立たしいのは、行政側が、ボランティアの人達を使って、職員の仕事をさせようとする考え方である。正職員を減らし、市民の皆さんの税金を使わず、市民の皆さんの有償ボランティアで、市は運営されます、なんていう自治体も出現しつつあるようだ。しかし、当然、労働の対価として賃金を出すべきところを、ボランティアで間に合わせるとしたら、それは、おかしいのではないだろうか。
 
 有償ボランティアで、市の税金の支出が少なくなっても、収入の少ない市民がそれだけ増えて、税収が減るということも考えられる。
 行政側は、ボランティア、つまり善意の人を利用すると誤解されるような方法は、とるべきではないと考える。自治体の基本として、住民の生活を守ることを忘れてはらない。 住民の目に見えるところばかり税の削減を言わないで、最低限の押さえをしっかりとした上で、どこを削減したらよいか考えるべきだろう。

 いろいろ考えると、「適度に」私利私欲のない人が、私利私欲のない人と言えるかな、とも思う。私利私欲があまりにもないために(本当は私利私欲の問題ではないが)、正規の職員の仕事を有償ボランティアの名のもとに、安い賃金で働いてしまうのも、困るからだ。
 
 これからの時代、特に、ボランティアの仕事とボランティアでやるべきではない仕事、この区別を、見極めることが大事になってくるのではないだろうか。

 どんな人が好き?ときかれたら、他の答えもないわけではない。例えば、正義感の強い人など・・・・。でも、その土台には、やはり、私利私欲のないということが必要なのでは、と勝手に思ったりしている。
 
 結局、私が「どんな人が好き?」に明確な答えがもてたということは、自分自身が、私利私欲のない人でありたいという思いなのだろう。だから、人に対してより、むしろ、自分自身にこめた思いなのである。
 
         

 
 16           遙かなるスウェーデン  (8月31日・土・記)
 数年前の11月、スウェーデンを訪れた。空は曇り空で、雪の降る日もあり、寒さが厳しかった。
 目的は福祉の状況を自分の目で見たかったからだ。 到着してすぐに言われたことがあった。
「日本人は、毎年スウェーデンにたくさんやってくるが、日本に帰って取り組んだ結果、こうなったと知らせてくる人はいない」というようなことを言われた。
 
 案内してくれたのは、長い間、スウェーデンで福祉の研究をしている(訪れた時には、大学の研究員をされていた)日本人女性のNさんだった。単に、施設の見学だけではなく、スウェーデンの福祉の仕組みについてなど、資料をもとにかなりの時間で説明を受け、(それこそ、レクチャーという感じで)分からないことを聞く時間もきちんととられた日程になっていた。
 F旅行社の企画(その企画は、福祉、環境問題など扱い、とてもいいと思っている)に申し込んだ一行は13名程度であったかと思う。うち男性は5名ぐらいだった。
 
 参加者の面々の仕事は、保健婦、行政関係者、医者、議員等だった。研修中の研修というべき内容だ。費用の約50万円については、自費は、私ぐらいで、ほとんど全員の人は、公費の出張・視察という形で参加していた。(正直言って、ちょっと、うらやましかったですけどね・・・)

 サービスハウスと呼ばれる高齢者の福祉施設は、周囲にお店がたくさんあり、お年寄りが買い物にでたりするにも便利で生活に潤いをもたらすにも都合のよい場所にあった。
 周囲を見た時、「ほら、まちに施設があるって、やっぱり当たり前」と私は思った。「お年寄りですから、緑が多く空気のきれいな環境のよいところで過ごすのか一番です」というのは、全くの見当ちがいなのだ。交通の便が悪ければ、訪れる人々も少ない。そのまちの福祉施設がどこにあるか、(まちか、人里離れた場所にあるか)、その自治体の福祉に取り組む姿勢のひとつのものさしになるとさえ、言われる。
 
 福祉では有名なスウェーデンのことなので、行かなくても、かなりのことが日本でも情報として知られていると思うが、個室は個人の持ち物できれいに飾られていた。施設のなかには、美容室もあり、訪れた時、ちょうど、年輩の女性がパーマをかけていた。
 みなそれぞれ美しくしていて、年をとっても、あんなふうにしていられたらいいななんて思えた。機織りで、きれいな布を織っていた女性に、一行のひとり(議員)が、「年、何歳?」と日本語できいて、「日本の男性は来るとすぐに、女性の年齢を聞く」と案内のN子さんに言われた。
 「えー、日本の男性ってそうなの?」と私は新発見したかのように思った。(もちろん、みんなというわけではないでしょう)
 
 にぎやかなまちのなかに住む、在宅の高齢者の家(賃貸マンションと言う感じがした)も訪問した。0さんが車いすで、妻と二人暮らしをしている家だ。高い食器棚があるが、ボタンで上の棚が水平に飛び出してきて、次に垂直に下降してくるようになっている。「車イスの生活でも何も不自由はない。僕は王様のような生活だ」と彼は冗談ぽく言っていたほど、住環境は完璧に整っていた。スウェーデンでは、改築も大家さんが許可するという話も聞いた。
 どこかに出かけようと思えば、すぐタクシーがくると言っていた。

 本人自身の可能な限りの自立への援助(施策)が、最も重要だと私は実感した。
 例えば、Oさんの場合、食器が自分でとれなければ、妻がとれる。また、妻が、もし運転ができれば妻の援助で、出かけることは可能だ。
 
 でも、逆に、妻がいなければ、何もできないことになってしまう。妻等同居者であっても、年をとれば、大変なことも多くなり、いつも機嫌良く、応えてくれるとは限らない。また、けんかをすれば、頼みにくいかも知れない。つまり、愛情でつながっていたとしても、対等な関係ではなくなるかも知れない。また、大変な思いが持続すれば、愛情も消えて行くかも知れない。
 
 車イスで家のなかを自由に動き回れたり、家の中のものを自由に扱えたりできるような住居は、ある意味、その人の人権を保障する一つの要素であるだろう。
 また、どんなに福祉機器が発達しても、人の手をかりなければならない障害の場合、ヘルパーなど外部からやってきて、十分にその役割を果たしてくれるシステムが必要だろう。
 こちらは、実際の現場を見なかったが、スウェーデンを紹介する本に、ヘルパーの働きぶりが紹介されているのを読んだ。
 
 しかし、身体や知的機能が不足しているが、訓練により、できる人には、親切すぎる必要はないだろう。最近の日本の知的障害者施設などをみると、トイレなど、驚くほどすべて機械化されていて、これでは、障害者が自分でやろうとする能力まで失ってしまうなと思ってしまう。 身体機能の回復が期待できない重度の障害ならともかく、指導と援助で自立できそうな場合でも、機械で間に合わすと言う背景には、人件費の節減の問題があるのだろう。決して親切とは言えないなと思う。
 
 だれでも、身近な人に負担をかけて暮らしたいと思わない。健常者も障害者も共に人権が守られる社会が必要とされる理由だろう。家庭内にかぎらず、公共施設やまち並み等、外のバリアフリー化は、言うまでもない。

 「えー、スウェーデン?だって税金が高いでしょう?」という人も少なくない。確かに税率は日本より高いだろう。でもでも・・・だ。産声をあげた時から、学校教育から、高齢になり死ぬまで、経済的な心配がないとしたら、どうだろう。私は、スウェーデンのような福祉国家を選択したい。

 
 施設で美容室を利用していた高齢者、お昼の食事をとっていた高齢者、その人たちは、皆、無料でなく、お金を払っていた。日本では、きめ細かなサービスが行き届いた自治体などで、高齢者に理容券などが出され、それで、毛髪を整えられるサービスがあるようだ。
それも、もちろんすばらしい施策だが、そうしなくても、若い時と同じように、お金が払える生活だったら、それが当然のような生活だったら、どんなにか、心はすがすがしいことだろう。
 
 「枯れ木に水・・・」などという言葉が、政治家から出たことがあった。年老いた時、年寄りが長生きするから、若い人が大変だなど、年寄りがやっかいもの扱いされるなら、こんな悲しく腹立たしいことはないだろう。若い時には精一杯働き、社会を支えてきた人たちが、働けなくなった時、路頭に迷う、なんて社会がいいはずはない。
 スウェーデンでは、仕事をやめた後も、その人が受け取っていた収入と同程度の生活費が得られるとN子さんは言っていた。
スウェーデンを訪問してから、もう6年近くになる。また行ってみたい国である。


 数年前、行田市に総合福祉会館「やすらぎの里」が建設されることになったとき、市民から、福祉施設はもっと「まちのなか」に、という場所についての変更を求める請願が出された。(市民の声は議会にも届かず、請願は、不採択だった)
 市の姿勢は、「施設の分散政策」であり、計画は、交通の弱者でもある高齢者や障害者が利用する施設が、まちの遙か遠く離れた場所なのだ。田畑の中に立つ建物は、周囲と交流できる要素も乏しい。その時も、福祉の基本をどう踏まえているのか、とても疑問に思った。

 スウェーデンから日本に帰って、住むまちの福祉施策の充実のために取り組んではいても、残念ながら、「その結果、こうなりました」という報告ができるようになるには、まだまだ遠いようである。



15           よのなか、いろいろあって・・(8月2日・金・記)
 いろいろな人がいろいろなことを言う。内容は笑ってしまうものから、とても迷惑で腹のたつものまで、まさにいろいろ。
いくつか例をあげてみると・・・。
 
 今でも思いだすとおかしくて笑ってしまうのは、結婚することになった時、「あの人を私が変えて見せます」と私が言った、ということだ。まるで、流行語大賞でももらえそうな(?)言葉みたいだ。

 私自身は、一人の人間を変えようなんて、そんな大それたことは考えてみたこともない。このようなことを言った覚えもないし・・・。一緒に生活するなかで、影響し合って変わっていくのは、お互いに、だろう。
 この私が知らない、(実際には存在しない)「変えてみせます」の人の、このすごい「自信」がおかしくて笑ってしまう。そして、気の毒にも一番迷惑なのは、その対象とされた夫である。変わらなくては、いけないと見られる何かがあると思われることになるのだから。
 「変えて見せます」の人は、夫の何を変えようと思ったのかしら。私のほうは、夫が変わってしまって別人になったら、逆に困るのだけれど・・・。この話を聞いた夫は、「何、それ・・・」と言っただけだった。

 笑えないのは、次の例で3年ちょっと前のこと。私が、「教員時代に同僚をいじめて、学校から追い出した」という話である。このことが(ある時期?)まことしやかに伝えられていたらしく、ある時、ある人に、「そんな人とは、話ができない」と激しい憤りをもって、対応された。「00が言っているから、その人に聞いてみてくれ」というので、このときばかりは、「ばかな噂」と聞き流せない状況にもあり、知人と一緒にその人を訪ねてみた。根も葉もないことが、流れるものである。
 
 人事権のない一教員が同僚を追い出すなんてことできるはずがないし、いじめるなんて、身に覚えのないことである。これを聞いた時は、本当にびっくりした。

 続いて、「怪文書」に関してだ。怪文書は何回出ただろう。最近は、出ているのかいないのか、届いてないし、話も聞かない。しばらく前、ある人から、この怪文書に、私が関係している(書いている)と見られていたらしいことを聞いた。「えー、なあに?そんなこと思っている人がいたの?」という信じられない世界だった。
 私は怪文書を書くためになんて、人生のエネルギーは使わない。多分、あのエネルギーはすごいものだ。私は発言の場をもっているし、怪文書を出して、実名で書かれた人の反応を想像したりするような気持ちは持っていない。何よりも、怪文書をばらまくなんていうのは、正当な手段ではない。
 
 「こんなつまらないことをなぜ?」というのもある。展望タワーの建設に、私は反対した。
しかし、市民の反対運動も実らず、残念ながら、建設された。建設中の展望タワーを視察するのは、仕事として当然のことである。スカートでもあったし、私は仲間の最後から、歩くとこつこつと音のする金属製の長い階段を上り(そのときはまだエレベーターは完成していない時だった)、降りる時は、最初に降りた。静かにしとやかに(?)上り下りをしたので、騒いだ記憶もない。この件は公務での視察であり、私以外はすべて男性だった。
 
 その後、市民から怒りの電話をいただいた。「三宅さんは、展望タワーの建設には反対したのに、ほかの人に押し上げられ、きゃーきゃー言いながら上ったそうですね。私も反対署名したのに、それを聞いてあきれました」というようなことを言われた。

 私は反対したものであっても、立場上どのようなものか知る必要はあるので、反対した建築物を視察することは、いけないとは思っていないこと、また、なぜ、そのような話になるのかわからないが、上り下りに関しては、状況は異なることについて述べた。「押し上げられ、きゃーきゃー・・・」ではまるでセクハラ的状況も想像され、私がそれを喜んでいると思われかねない。
 
 世のなか、つまらないことにも脚色されることがあるらしい。何の目的があって、作り話が生まれるのか、身に覚えのない話がいくつも作られる。
 だから、人の話は鵜呑みにしないことにしている。相手のあることの話を聞いた時は、相手の話をきかないでは、判断しないことにしている。


 14                色を着る          (7月14日・日・記)
 
 男はこうあるべき、女はこうあるべきという観念が薄れ、それとともに、いろいろな面で、男女の境界線がなくなってきた。髪のスタイルでも男性のロングヘアも珍しくなくなった。服装の色をみても、男は青系統、女は、ピンクや赤などという感覚はほとんどなくなったのではと思う。
 
 先日ワイシャツ売り場に行ってみたが、実に華やかだった。青や水色は昔からだが、それに加え、黄色やオレンジ、濃淡のピンク系がならび、かつてないにぎやかさをかもしだしている。考えてみれば、男性だって、いろいろな色を着たい気持ちは女性と変わらないのかも知れない。しかし、実際には、売り場にあふれているほどは、着ている男性にはお目にかからないというのも不思議ではあるが。

 近年、女性はすべての色を着てきた。青も水色も黒なども含めて女性は自由に色を選択してきた。男性は、色の世界において、一定度制限された社会のなかで暮らしてきた。男はかくあるべし、という枠から出られなかったのだろう。
 
 ちょっと前なら男性がピンク系統のシャツなど着ていると、「気持ちわるーい」とか「頭、おかしいんじゃないの」、「女みたい!」という目で見られたかも知れない。特に、サラリーマンなら上司から注意を受けたかもしれない。もしかしたら、人格や仕事ぶりまで疑われるようなことにもなったかも知れない。最近は背広の下に色物のシャツを着こなす男性も結構目につくようになった。けれど、ただ単に、色を着たというだけの感じの服装もある。
 
 日本の男性にとって、色を着る歴史はまだ浅いと言えるかも知れない。
 昨年、オーストラリアに行った時、男性のファッションに気をとられた。夫と道行く男性の色彩感覚に見とれることもあった。色物のワイシャツ姿は日本より遙かに多く、着こなしのセンスの良さが目立った。二人で「色、色、あっ、また、色、白、色、色」などと、行き会う男性のシャツが色物か、白かに注目しながら、歩いた。色には、暖色系あり、寒色系あり・・・。 
 
 すてきな着こなしの人に出会うと、「あの組み合わせで、日本に帰ったら、僕も着よう」などと夫は言った。ワイン色のシャツにネクタイをしめて、黒のスラックス。上着の色はグレー系統だったかどうか・・・。とにかく全体の感じがとてもよかった。道行く男性のおしゃれ度は高かった。
 娘のホームステイ先のベイス家の知人宅を訪れたことがあった。彼は、真っ赤なジャケットに茶系統のコーデュロイのスラックス、緑の帽子姿で現れた。画家の妻を癌で亡くされたばかりで、その色彩は、憂いを含んだ青い瞳によく似合っていた。
 夫は、このときも服装のセンスにとても感動して、「僕も日本に帰ったら、赤いジャケットに帽子をかぶるよ!」とはりきって言った。
 
 日本の男性全体をみる時、色の世界をもう少し気ままに泳げる自由さがあってもよいのではと思う。その意味での自由さは、女性のほうがあるだろう。そして、それは、心の状態とも全く無関係とは言えないかもしれない。男性と女性の境界線がなくなりつつあり、さまざまな面で変わってきているのは、確かだが、まだ男性という裃を心に着ている人も少なくないような気がする。
 私自身は、「あした、何着ていこうかな」と思う時、服装のパターンはだいたい同じなので、「何色着ていこうかな」という感じだ。真っ白も好きだし、色物も好きだ。異なる色を着ることで、やはり、気分が違う。色彩は、私にとって、気分転換でもあり、生活を豊かにしてくれる。
 
  議会の初日、一般質問、最終日は、私は同じ色は着ないことにしている。いつか、議会の様子を知らせる紙面に、議会最終日として、写真が載ったことがあった。でも、私には、「これは、最終日ではないようだ」とすぐに分かった。カラー刷りではないので、ピンクは白っぽく、グリーンは黒っぽく写る。写真は、最終日には着ていなかった服の色だったのだ。「これ、最終日の写真ではないでしょ」と自信を持って言うと、言われたほうは、苦笑したかどうか忘れたが、すぐに「服装がちがうんですか」と言った。「色」は真実を語っていた(?)。
 
 
 ところで「日本に帰ったら・・・」と言っていた夫は、忙殺される日本の日常に戻った。黄色、ベージュ、緑、ワイン、ピンク系と色はそろったが、洗濯済みでハンガーにかかっているものを手あたり次第着ていくという感じである。ビジネスマンの白のワイシャツに紺やグレーなどの背広は、色を考える必要もないので、余裕もなく働く日本の風土に合った色なのかも知れない。男性の色に変化が起きつつあるものの、(特にカジュアルでない服に)色の世界が広がってこなかった理由の一つには、日本の多くの男性がおかれている環境にもあるような気がする。
 
 男女とも、色をセンスよく着るには、時間や心の余裕が必要ではないのかしらと思う 。忙しくて心に余裕がない時は、色を着ても、ただ色を着ただけになってしまうような気さえする。そして、平和な日常も欠かせない。平和がなければ、色を着ることも楽しめない時代になってしまうだろう。



 13            親子映画   (7月11日・水・記)
 
 「えっちゃんのせんそう」が、「親と子のよい映画をみる会」(親子映画)の作品として6月23日に産文で上映された。
 児童文学者の岸川悦子さんが、旧満州・ハルビンから引き上げた実体験をもとに描いた同名の原作「えっちゃんのせんそう」を映画化したものである。苦難の中を乗り越えたくましく生きる少女の目を通して、戦争の時代を描いている。
 
 敗戦後は環境も変化し、幼いえっちゃんは、ハルビンのまちの路上で飴などを売るようになる。水道技師のお父さんは、連れ去られ行方不明になっていた。(後に元気で、戻る) 路上の隣で中華饅頭を売る中国人のおじいさんは、最初の頃、日本人のえっちゃんに冷たい目を向けていた。(おじいさんは、孫を日本人の兵隊に殺されていたのだ) 
  
 そのおじいさんが、寒い冬の日、えっちゃんの手のひらにあったかい中華饅頭をひとつのせてくれる。また、えっちゃんのすり切れた靴をみて、赤いきれいな靴をくれる。孫娘にやる靴だったのだろう。おじいさんから孫娘を日本兵に殺された話を聞いたその日、えっちゃんは、靴を抱え、泣きながら走って帰った。えっちゃんが中国から引き揚げる時、おじいさんは、えっちゃんに食べ物を持たせてくれた。人間の心の温かさを感じさせてくれる場面である。
 
 悲しくて悲しくてたまらなかったのは、えっちゃんの仲良しだった男の子「かつぼう」(という名前だったと思う)が、日本への引き揚げ船のなかで、病気で死んでしまい、その遺体を海に流す場面である。遺体を布でくるんで縛る時、「かつぼうが、痛いよ、痛いよ!」と叫ぶえっちゃん。「船で亡くなった人は、海にかえすのよ」というえっちゃんのお母さんの言葉。その遺体が海に落とされる瞬間の場面。戦争がなければ、飢えや栄養不良もなく、助かったであろう子どもの命である。
 (かつぼう) 「えっちゃんは、今でも、20人も子どもを生んで、兵隊さんにしたいと思ってい          るかい」
 (えっちゃん) 「ううん・・・」
 (かつぼう)  「よかった・・・」
かつぼうが亡くなる前のふたりの会話である。

 戦争のむごさに、こらえても涙が止まらなかった。
 命の重みがひしひしと伝わってくる。アニメではあるが、おとなにも子どもにも若者にもみてもらいたい作品だった。しかし、残念ながら、観客数は・・・・名だった。

「親と子のよい映画をみる会」の活動は、市内の親と教師が「子どもたちによい文化を」という願いから、1975年5月から、上映が開始された。
 「教室205号」という作品が第1回の上映作品である。もう今から27年前に発足したということになる。当時、市内の父母と教師が一緒の学習会をしていた。学習会の方は、いつの頃からか立ち消えになってしまったが、親子映画は、ずっと続いてきた。
 
 私はその頃、教員をしていて、学習会に参加していた。だから、親子映画の初回からの関わりである。母親たちのエネルギーには本当に頭が下がった。初回の「教室205号」は、観客数1600名で滑り出した。子どもたちはよく見に来た。
 「ふたりのイーダ」(1977・昭52)は、なんと3800名。「パパママバイバイ」85年(昭60)が、1900名。「チロヌップのきつね」、「となりのトトロ」(90・平2)も約2000名.。
 
 戦争が犬の命まで奪う過酷さを描いた「マヤの一生」(96年・平8)は1800名で、これも多くの人びとに見ていただいた。一貫して、子どもたちに、命あるものへの愛、平和への思いをこめた作品をおくり続けてきた親子映画だが、98年2月の「フランダースの犬」(1200人)を最後に、観客数は、千人を割った。
 その後は下降の一途をたどり、環境問題をテーマにした今年1月の「ダイオキシンの夏」は、わずか250人だった。
 映画鑑賞後の感想文を書いた子どもたちには、会のメンバーが感想文集を作成し、学校などを通して配布している。観客数の減少とともに、感想文集も薄くなり、作業は楽になったが、喜べない。「うわあ、大変!」と嬉しい悲鳴をあげてみたいとメンバーの誰もが思っていることだろう。
 
 観客数減少の背景には、少子化の影響もあるだろう。ビデオの普及で、わざわざお金を出して映画を見なくてもということもあるだろう。子どもたちの生活の変化もあるだろう。ゲームで時間を費やしたりする子も、増えてきているだろう。
 休みの日も塾で忙しかったり、また、行事が組まれたりと、子どもたちの生活にゆとりがなくなってきていることもあるだろう。「親まで子どもの映画につきあってなんかいられない」という親の生活の忙しさもあるだろう。(親子映画は、本来は親子で見て欲しいものである)
 
 昨年あたりからは、また、ぐんと観客が減っているところをみると、先の見えない深刻な不況の影響も考えられる。
 いずれにしても、「子どもたちによい文化を」ということで、始められた親子映画の衰退は、残念なことであり、とても寂しい。
 
 親子映画は、私たち夫婦にとっても忘れられない存在である。親子映画の活動に、後から夫が加わってきた。今も、映画の前にアトラクションとして、会場のみなさんと歌をうたったり、時には、手遊びをしたりしているが、そのころ、私も多少はそんなこともやっていた。
 
 私が夫と直接の交際のきっかけになったのは、このステージである。正確には、一緒に組むことになり、その練習を二人でしたことだ。(一緒に組みたいといってきたのは、記憶に間違いがなければ、夫のほう。どちらでもいいけれど・・・)
 「翼をください」を夫がギターで弾き、私も歌った。なぜか、服装まで覚えていて、私はピンクのワンピース。夫はわからない。
 
 今年18歳になった娘は、あかちゃんの時から親子映画で育った。娘を抱いた会場で、たまたま出会った人に、「あらあ、お母さんになったの!信じられなーい」と、なぜか驚かれたのを、思い出す。成長してからは、娘は熱心な観客であると同時に、会場のお手伝いにも参加した。我が家では、親子映画の歴史とともに歩んできたような感じだ。

 
 今回の「えっちゃんのせんそう」でも、夫はステージにたった。語り口はかわらなくても、風貌にはやはり歳月の流れは感じるが・・・。決定的に違うのは、やはり産文の座席を埋める人びとの数だ。上映会のたび、ため息がでる。

 「まだ死なないでよ。新しい人、見つかってないから」、こんな会話が弾む(?)我が家。
 親子映画の衰退が、我が夫婦の絆にまで影響がないよう、祈るばかりだ。

 親子映画の合い言葉は、「子どもの心に愛と希望、知恵と勇気を!」である。おとなのこころにも愛と希望、知恵と勇気をください。



  
12         女の涙・男の涙 (6月20日・木・記)

 よく、「ほんと、泣きたいぐらいよ」「僕だって泣きたいよ」などと言う。でも実際に泣くかというと、普通の場合、そうでもない。
 大切なものを探している時など、見つからなくて、泣きたいけれど、泣いている暇はない。また、失恋をして泣いている暇があったら、次の新しい恋人を見つけたほうがいい、という人もいるだろう。苦しい時でも、「泣いている暇なんかないのよ」と言う言葉もよく聞く。
 
 「男の子は泣かないの」という言葉もよく聞いた。幼児が走って行って何かにつまずいて転んだ時、泣き顔を見た母親が「ほらほら、男の子でしょ」などと言いながら、なだめたりする光景をよく見たものだ。その後、「痛いの痛いの、とんでけー」なんていう言葉が続く。

 時代の流れの中で、「男の子だって、泣きたいときには、泣いていい」という考えが広まった(?)。
 確かに、女の子は泣いてもいいけど、男の子は泣いてはいけないとしたら、やはり、おかしいだろう。男も女も、それぞれの個人差はあっても、同じように感情を持つ人間だからだ。
 「男は泣かない」という固定的な考え方の背景には、涙=弱いもの、男は強い者、男は強いのだから、涙は見せないということなのだろう。
 その考え方が強調されすぎた時、、強くない男は、強くあらねばならないと虚勢を張るかも知れない。強さを女性に対する力(暴力)で示そうとするかも知れない。

 
 男の涙をよく目にするようになった。スポーツ競技等の勝ち負けの場面など、涙、涙、涙・・・なんてこともよくある。嬉しい時、悔しい時、悲しい時、感動の涙・・・。男の涙もおそらくは、こらえきれず自然に流れ、人びとも、「男子たる者が泣くんでない。嬉しくても、悔しくても、悲しくても、じっとこらえろ」なんて言う人は、いなくなったのだろう。観客もいっしょになって涙している。

 小学生などは、男の子のほうが、「うわぁー、うわぁー」と、あたりかまわず大声で泣いていて、女の子のほうが、冷静だったりもする。でも、人は誰でも、おとなになるに従い、感情を押さえるようになる。人前でなくのは、普通の場合においては、あまり格好がよくないと思うのだろう。
 
 だから、男でも女でも、おとなが、人前で流す涙は、こらえきれないほどの特別なものと見てよいのではと思う。
 女性の国会議員が流した涙について、「涙は女の武器」と言った政治家がいた。「男は女の涙に弱い」というようなことだったと思う。
そのことに関連して、「私も、すばらしい男性の前で、涙を流してみたい」と言った女性がいた。私は、報道されたこの二人の有名人の言葉にあきれてしまった。(男性の政治家も涙を浮かべたり、流したりすることがあるが、それについての発言はない)
 一国の首相の発言は、女性への侮蔑発言と、とられても仕方ないだろう。現在、外相である
女性の発言に対しては、驚くばかりである。
 
 政治の場でさえ、このような発言が出るのに対し、とても残念だが、世間には、まだまだこのような次元でしか、物事を捉えられない人たち(政治家)がいるのだと、改めて思った。
 
 他人が涙をこぼすことについては、どうこう言おうとは思わない。特に、結果としてこぼれてしまった人の涙について、言えるものではない。ただ、私自身の日常の「心構え」としては、仕事の場面では、泣きたいようなことがあっても、人に涙は見せないということだ。男は泣いてもよい(?)が、逆に、女は泣かないほうがよいと思っている。
 

 今年も花粉症に悩み、今もまだ私の目は涙目のままである。泣いていなくても、家族に、「何、泣いてるの?」と言われてしまう。
 お医者にも行かず、ときおり、目尻の涙を指先で拭いながら、毎日人に接しているので、知らないうちに、「女の武器」を使っていたのかしら。でも、そうだったら、武器の効果があってもよいはずなのだが、いっこうにその気配はない。ただ、武器を持っていると思われるのも不本意なので、早くお医者にいかなくては。



  11              ミニスカート  (5月26日・日・記)
  
 5月の連休に我が家にオーストラリアから日本の高校に留学しているレイがやってきた。彼に「日本に来て、おかしいと思うことは何か」と聞いた。そのとき、レイは「女子高生のミニスカート」と言った。
 しかし、ミニスカートについての感想を尋ねると、彼は「No complain」(満足だ)と答えた。そして、その後、「I am a boy」と付け加えた。すると、満足だけど、おかしいということになるのか?おかしいけど、満足なのか?「男子だから」というのが、正直で、おかしかった。ともかくレイにとって、女子高生のミニスカートは、日本にやってきて「おかしいもの」の一つには間違いないようだ。

 スカートに関して、私の好みはどうかというと、ロングスカートも、少し短めのスカートも両方好きだ。 ロングスカートが好きなわけは、冬は暖かいし、腰掛けるときに足を組んでも畳に座って足をくずしても、長い布がカバーしてくれるから、気持ち的にも、体にとってもらくだから。少し短めのものが好きなわけは、足さばきがよくて、活動的だからだ。
 
 どちらかというと、個人的には、ミニスカートにも賛成派(?)なのだが、日本の高校生のミニスカートの短さには驚く。適度なミニは活動的でよいと思うが、それを通り越して太ももまで出している。ちょうど幼稚園ぐらいの子どものように、おしりすれすれの長さのスカートで、通りを闊歩して行く。でも、いっこうにこのスタイルが廃れない理由は、彼女たちにとってみれば、何らかの理由で心地よいのだろう。

 外国に行った時、その国のファッションにも興味があり、注意しているのだが、この超ミニの姿を見かけることはない。おとなの女性も短めの少しミニはあっても、超ミニスカート姿は見なかった。
 数年前の晩秋の北欧では、黒のコート姿が多くコートの上から襟元にかけた色鮮やかなスカーフが美しく印象的だった。ロングスカートやパンツ姿を多く見かけた。
 
 高校生の制服に関して言えば、オーストラリアで見た冬の女子高生も膝くらいの丈の軽快なスタイルだった。また、まちで見かけた別の高校生も短くなくて、タータンチェックのスカートにグレーのタイツ姿だった。娘のオーストラリアの夏服のスカートは、少しミニ丈の軽快なものだと、写真で見た。
 
 夏の韓国では、日本からの修学旅行生にけっこう出会った。もちろん、彼女たちはそろって超ミニスカートだ。日本の高校生の集団に出くわした時、韓国の女性のガイドさんは、こう言った。「日本からずいぶんやってきますよ」と言い、「ただ、その後、韓国の女子高生のスカートが短くなるので困ります」と美しい眉をひそめた。本当に韓国の女子高生のスカートが短くなるのかどうか知らないが、(多分、冗談かと思う・・・)そんなことを言った。

 昨年、オーストラリアの空港で、日本からの高校生の集団にやはり出会った。そろってみんな超ミニで、おまけにあたりかまわず、すごく騒がしかった。(もちろんこのような高校生ばかりではないのだが、外国の人からみれば、日本の高校生は、公共の場でも騒がしいと見られかねない)超ミニ愛好家の女子高生には悪いが、スカートから太ももをすっかり出した姿は、やはり格好がわるい。
 今年の春、タイの人が日本の高校にやってきて、学生と交流したことを伝える新聞記事があった。驚いたのか珍しかったのか、その表現は忘れてしまったが、タイの男性もレイとおなじように、女子高生の「ミニスカート」のことを感想のなかにあげていた。
 
 女子高生が長いスカートをはいていた時代があった。長いスカートは、特にひだの多いものは活動しにくい。膝下何センチなどというスカートは重苦しく、当然、今の女子高生には支持されないものだろう。厚めの生地の長いスカートは、好きではくのは別として、おとなでもうっとうしい。
 今の超ミニは、制服や規則と言う形で、現代の多くの女性に支持されないスタイルを強いてきた反動のせいだろうか。それとも、実際、レイが「
boy」 なので、「no complain」というように、それは、性的アッピ-ルを意識したものだろうか。
 
 いずれにしても、女子高生の超ミニ姿は、それまでのスタイルに極端なほど反対の方向にある。そして、日本全国を覆う圧倒的多数の超ミニは「みんなと同じでないと安心できない」、「異なったものを排除する」という、これも日本の文化の現れなのだろうか。
 活動しにくい長いスカートから、極端なほどのミニスカートへの移行は、一体なにを表しているのだろう。「活動的」を通り越し、異性への媚びや、「みんなと」同じということからくるものであれば、日本女性は、まだまだ進歩していないと見られても仕方ないのか。
  

 だが、もう何年もに及ぶ「超ミニ」の日本の「女子高校生文化」は、いまだに世界に少しも広まっていないことをみると、やはり、これは、多くの人には支持されるものではなく、やはり「おかしい」のだろう


 10               雨の日の買い物  (5月19日・日・記)
 
 浦和駅を降りたら、雨がぽつぽつと落ちていた。傘を持っていなかったので、デパートやアーケードのある所を通って何とか目的の書店までたどり着こうと思った。

 通りすがりに傘が並んでいたので、見るともなしに手にとった。赤い折りたたみの傘の値札を見て、「千円にしては、まあまあかしら」と思った。雨が降り続くようなら困るから買おうかなという気持ちも少しはあって、もう一度、手にとった。何と、傘は、千円ではなくて、一万円だった。0の数が一つ多かった。この傘が一万円?私は、手に取った傘を置いて歩き出した。一万円の傘なんて、一生に一度だって、買いたくないと思った。
 この種の間違いは、よくある。「えー、このスーツが一万円?安ーい」と思って足を止めると、10万円だったり・・。一万円?と思ったネックレスが百万円だったりすることがある。
 
 ついでにと思って、私は横道にそれた。目的地に行く前に、横道にそれることも、よくあることだ。(ちょうど、私の人生みたい・・・?)
 そこで見つけたのは、娘に似合いそうな普段着の服。若者向きのものが、いろいろあった。これを娘が着たら、どうなるかしら?想像しながら、似合いそうなものを見つけた。そして、私は、「そうだ」と思った。もうすぐ6月。娘の誕生日がやってくる。誕生日のプレゼントにすればいい。あー、よかったと私は本当に喜んだ。
 
 ここ数年、海外にいる娘の誕生日の贈り物には、何がいいかと考えてしまう。海外に行って1年目の誕生日には、ペンを贈った。娘からは、「何で、ペンなのお・・・」という言葉が返ってきた。「ねえ、プレゼント、何がいいかしら、何がいい?」と夫に言いながら、苦労して選んだのに。

 いくつか贈り物の候補をあげた時、夫の返事は、いつも、「いいんじゃないの」だった。
 「ねえ、ペンにするわ」と私が言った時、やっぱり夫は、「いいんじゃないの」と言い、私は「やったー」と言う思いだった。早速、私はお店に走り、店員さんの箱にリボンをかける指先を見つめながら、(贈り物が決まったという)何とも言えない成就感を味わったものだ。娘にとっては不評ではあったが・・・。
 
 どんなに忙しくしていても、海外にいる娘の誕生日のプレゼントは忘れられない。
 海外で元気でがんばって暮らしている娘でも、辛いこと、悲しいことは結構あるに違いない。自分の誕生日を忘れずに、贈り物と言う形であらわしてもらうことは、娘にとって、親の愛情を感じられる時でもあるだろう。
 「なんで・・・」と言われたペンは、考えてみれば、必要ならば自分で買うものだし、使い捨ての若者好みのペンもたくさん売られている。私もそうだが、やはり、身につけるものが嬉しい。別の売り場で、小物を買って、添えることにした。
 
 
 早々と、娘への誕生日のプレゼントが買えて、心もうきうきした分、おなかがすいて、お店で久しぶりのあんみつを食べた。エネルギーを補給したので、目的の書店へと向かった。雨は、少し強くなってきていた。でも、あんみつのおかげか、力強くアーケードを抜けて、少し雨にあたってから、無事、目的地に着いた。
 
 書店での買い物の大事な目的は、娘に頼まれた、アメリカの医療や福祉に関する本だ。ところが、結構、専門書もそろっている書店なのだが、やはり、アメリカの福祉は見つからない。まだ出版されてそれほど経っていない「世界の福祉」というなかには、あるのを知っているのだが、全集のなかの一冊で、それも、もちろんなかった。手軽に読めるものを探したが、書棚にはなかった。福祉というと、どうしてもスウェーデン、デンマーク、イギリスなどが多い。
 
 アメリカには、保険制度がなかったりして、病気になると大変だ。お金がかかるのでかぜぐらいでは、ほとんど医者にはかからないで、治すということを読んだり聞いたりしたことがある。高齢者福祉を学んだとき、北欧とアメリカの老人の様子が紹介されていた。どちらかというと、対比という形で。
 娘は、映画で、アメリカの貧しい人たちの暮らしを知ったらしい。それで、保険や医療等に関する本があったらということらしい。やっぱり、東京の紀伊国屋に行かないとだめかなと思いながら、岩波新書を見ていたら、ある著者の著者紹介のところに「アメリカの医療と看護」という著書の記載があり、良さそうな本なので、その本を注文しようと決めた。(註)
 
 次は、自分のための買い物、日本語のテキストだ。もしかしたら、外国人に日本語を教えることになるかも知れないという気持ちで。これは、日本語のコーナーで簡単に見つかった。いろいろあるなかで、「にほんご1・2・3」の上・下を買うことにした。レジに持って行き、本を差し出したとき、(日本語を教えることに)迷いを残していた気持ちに決別した。新しいことを始めようとするとき、いつも、私の心は弾む。
 
 
 何とか、目的を果たし、書店を出ると、雨は、ますます激しくなっていた。傘、どうしようかなあと思った。前も、降り出した雨に、気軽に傘を買ったので、傘は増えるばかりだ。でも、電車から降りた後、駅から自分の車のある駐車場まで冷たい雨に濡れて歩くことを思うと、やっぱり傘は欲しかった。
 
 それで、お店に入ると、そこでは、何と、すてきな傘が、500円。行きがけに、1万円の傘に出会ったばかりだったので、5千円かしらと思って、目を凝らして「0の数」をもう一度見たけれど、正真正銘の500円だった。
 私は、「こんなに安いのだもの。傘は、必要」という判断をした。ピンク色の傘は、金色の柄が長く、ツルの首のように品格があり、その姿も美しい。広げると、まるでおとぎの国にでも誘われそうなすてきな気分にさせてくれた。
 
 その一方、大量生産大量消費でいいのか。誰がどこで、こんな安い傘を作っているのかと思うと、複雑な気持ちだった。
価格競争の陰で、国内外の生産者の生活はどうなのか。   ピンク色の傘は、その美しさと安さで私の心に潤いとやすらぎをもたらしたけれど、喜んでばかりはいられない。

 
 (註) 翌日の月曜日、直接、出版社に問い合わせたところ、「アメリカの医療と看護」は絶版ということで、また、本をさがすことになった。




       母の日に・・・              (5月12日・日・記)
 
 私が幼いころは洋服でも食べ物でも、手作りが多かったのだと思う。母は、ある時期、洋裁を習いに行っていた。その技能を生かして、私にワンピースやスカートなど、せっせと縫っては着せてくれた。時には母と私はお揃いの布地のワンピースを着ることもあった。
 
 今でも、母と一緒に服地を買いに行った幼い日のことを憶えている。ある時、母と私は意見が食い違った。母は白地に赤や黄色やピンク、水色の大小の水玉模様が、私には、かわいらしいと言った。私は、淡い水色の地に魚の絵柄のものが気に入った。結局、私の主張が通って、母は、魚の絵柄の布地を買った。母は、その布地を使い、襟ぐりや、ノースリーブの袖ぐりに紺色の布の縁取りをつけて私の夏服を縫った。「あなたの選んだので、よかったわ」とできあがった服を着た私を見て母は笑顔だった。
 
 母になった私は娘と買い物をする時、「こっちの方がいいと思うけど・・・」と娘に言うことがある。でも、娘が選んだものは、着てみると、娘に結構似合ったりする。そんな時、いつもではないけれど、私の幼い頃のこの日を思い出すことがある。
 
 母はまた、ドーナツなど、おやつをよく作ってくれた。寒天をつかったようかんも懐かしい。お肉のたくさん入ったコロッケも大好物だった。
 幼い頃を思い出すとき、母の手作りの洋服のことや、おやつなどの食べ物のことがすぐ浮かぶ。

 私にとって幼い頃の一番幸せな場面と言えば、赤とんぼの風景である。
 家族5人で、宝登山に行ったことがあった。お昼にしようということで、腰を下ろしお弁当を開いて、おにぎりをみんなで食べた。
 
 そのとき、どこからともなくやってきた、無数の赤とんぼが、あたり一面、私達を取り囲むかのように飛びかった。それは、真っ赤に染まった別世界だった。子どもたちが見つめる中、赤とんぼたちは、一瞬のうちに、青空へ向かって高く高く飛び立っていった。あのときの胸がわぁーっとわき起こるような赤とんぼの大群は、幸せな時とともに、ずっと私の中にある。もちろん、家族みんなで食べたおにぎりの味が格別だったことは、言うまでもない。
 そして、そのとき母と私は、手作りのクリーム色の地のお揃いのワンピースを着ていたという記憶がある。

 
 
 母は幸せな娘時代を愛媛で過ごし、東京に出てきてから、父と知り合い、結婚した。戦争中、母の持っていた上等な着物はみんなお米に変わったと言う。東京大空襲で、家を焼かれた後は、行田にやってきて、その後、私が生まれた。
「戦争がなかったら・・・」と、よく母は言う。東京で、若き頃の母は文学の道を志して順調に歩んでいた。また、母にとって戦争とは、優しかった自分の兄を奪ったものでもある。
 
 元気なのだが年をとった母は、娘の私と買い物に行きたいとも言わなくなった。コンサートや演劇、そして買い物に、母は、以前のような意欲を見せなくなった。私にとって、おとなになってからも、(後には私の娘も加わり)、母と時折、連れだって外出することは、心躍るできごとだった。母と一緒に外出することがめっきり少なくなった今、私は母と一緒だった幼い日々の頃のことをよく思いだす。

 母の日だからというわけではなくて、本当に母には、「ありがとう」である。
 今年の母の日、私はちょっとだけ、よそ行きっぽい服を母に贈った。ピンクのカーネーションの小さな鉢を添えて。



 8
           「そうだんべえ」  (5月10日・金・記))
 
 5月の連休、オーストラリア人のお客さんが、我が家にやってきた。
 彼の名は「レイ」で、18歳。留学生で今年の4月から前橋にホームステイしている高校生。日本に来て、ちょうど1か月たったところだ。日本語をまったく知らないで日本の高校に留学する、という度胸の持ち主でもある。
 
 連休で道路は混むと思うので、あまり遠くには行けない。さて、近い所で、どこを案内したら、18歳のレイに気に入ってもらえるか、日本の文化を少しでも知ってもらえるかと、連休前から私達夫婦は頭を悩ませたりしていた。
 娘からは、きちんともてなすよう、メールが入っていた。
 
 レイは、オーストラリアに留学中の私の娘が、途中、約6か月間、ホームステイしていた家の息子である。「途中」というわけは、もともとの娘のホームステイ先のベイス家が、約6か月に及ぶヨーロッパ旅行で家を留守にしたため、その間の臨時(?)のホームステイ先が、彼の家だったということだ。

 昨年の夏、私と夫がオーストラリアを訪れた時、彼が日本に留学するという話は聞いていた。そのときの日本の留学先は、神戸ということだった。だから、娘からのメールで、前橋に彼が来ていると知った時は驚いた。前橋と言えば、我が家から、車で1時間半もあれば行く距離だ。それで、5月の連休には、我が家へようこそ、ということになった。
 
 
 再会したレイは、少年っぽさが抜けて、ずいぶんとおとなっぽい雰囲気になっていた。
 玄関で、「コンニチワ」、スリッパを出せば、「アリガトウゴザイマス」、ジュースが飲みたいというので、ジュースを出せば、「アリガトウゴザイマス」。
 
 礼儀正しさに少なからず感動もした。そして、流ちょうとは言えないが、「アリガトウゴザイマス」は、心地よく耳に響き、私は、日本語の美しさを再認識させられた。
 私達は、「アリガトウゴザイマス 
is very polite Japanese.」
そう言って、まだ、ほとんど覚えていない彼の日本語を称賛したのだった。
 
 4日、さきたま火祭りに出かける時、レイが、「行くべ!」と威勢よく言ったので、方言を憶えていることに気がつき、どんな日本語を憶えたのか、彼に聞いてみた。実は、彼の今住んでいるところで、語尾に「べ」をつけることを、私は知らなかった。
 レイは、「食った、食った。腹へった。ばか、ブス」と並べ立てたので、私達は、ほんとにおかしくて笑ってしまった。これらは1ヶ月の高校生活のなかで、修得したものらしい。
 
 翌日、川越の喜多院で、レイが再び、「行くべ!」と言った時、周りの人たちが、びっくりした様子で振り向いた。「べ(べえ)」は方言で、若い人たちは使わないと思うと言うと、納得したかのように見えた。昼食のときは、お店の人に、「アリガトウゴザイマス」を丁寧に言い、上品さをかもしだしていた。
 蔵造り資料館や古い町並みやお菓子横町などを十分に歩いたあとは、私の実家に立ちより、夕食をとることになっていた。
 
 実家では、私の父母、兄、義姉に大歓迎されて、「コンニチワ」「アリガトウゴザイマス」「イタダキマス」と言って、大好きなぎょうざから遠慮なく食べ始めた。テーブルの上には、料理の得意な兄夫婦を中心にして作られた料理の数々が、ところ狭しとならんでいた。

 
 私が、レイは高校生だと話したのに、母は聞いてなかったのか、忘れたのか「おとなっぽいわね。結婚してるの? ビールはどうかしら」などと、私に日本語で聞く。それで、父もあきれた顔をしていた。
 「高校生なのよ。そんなこと言って失礼よ」と私が言うと、「日本語、分からないのだから、大丈夫」と母は平気な顔だった。相手が言葉が分からないことをいいことに、その後も笑顔をふりまきながら、日本語で気楽にいろいろしゃべっていた。だから、母の言葉はそのままはレイには伝えず、選択して伝えた。
 
 レイが、「ばか」とか「ぶす」などという言葉
,bad Japaneseを知っている話から、言葉の話題になった。すると、彼の口からいろいろ出てきた。食事中だったが、出てきた言葉は次のようなもの。

「うめえ」 「てめえ」 「この野郎」 「ばかやろう」 「あほう」 「あほたれ」 「くそったれ」 
「くそ野郎」 「クソガキ」・・・。
 私達は爆笑しながら、よくも、これだけ
bad Japaneseを短期間に修得したものだと感心(?)した。日本人でも、この種の言葉は、一生に一度も使わない人もいるのに、そう考えると、言葉って不思議だなと私は思った。

「うめえ」は、「うまい」「おいしい」という「段階」で説明を聞くと、初めて分かったような感じで、「オイシイ?」(「おいしい」がきれいな日本語か?)と聞き返してきた。


 母が「私は女学校で、英語がよくできたの」とj自慢そうに言うので、私がそのことを英語でレイに告げると、彼は、母に向かって日本語で、「どうぞ・・・」(どうぞ、英語で話して)と言った。
 
 だが、母が、いくら女学校で英語が得意だったと言っても大昔のことで、話した経験も乏しければ、しゃべれない。(中学校で、初めての英語に接した時、母が、私たち子どもに英語を教えてくれたのは確かなので、過去において得意であったのは本当だろう)
 
 母は微笑んでいるだけなので、私が 「She is shy.」 というと、彼は、すかさず、母をじっと見つめて、大きな声ではっきりと、「そうだんべえ!」と言った。それで、驚いた母はもちろん、みんなでどっと笑ってしまった。
 留学期間は1年間ということ。(ひらがなの読みは、すでに全部憶えたということだ。)方言もよいけれど、共通語や美しい日本語もたくさん憶えて帰れるかしら。ちょっと、危ぶまれる(?)状況だ。
 

  その夜、レイを前橋のお宅まで車で送りとどけ、オーストラリアのお客さん、まあまあ何とか、おもてなしができたかなと、ほっとした。詳しいことはよく分からなくても、さきたま火祭りでは、たいまつに囲まれた行列の情景や、炎が空に舞い上がるのを見つめながら、レイは、「スゴイ!」と言って、写真をたくさん撮っていたし、川越の町並みも良かったみたいだし・・・。そして、我が家はともかく、実家での手料理に 「
very delicious」と満足そうだったし・・・。
 娘にレイのハッピーな様子がわかるよう、無事、もてなした報告がてら、日本からメールを送っておいた。


★さきたま火まつり   天照大神の孫「ニニギの命」が「コノハナサクヤ姫」と婚姻。一夜にして身籠もったのを疑われた「コノハナサクヤ姫」が疑いをはらすため、自ら産屋に入り「神の御子であるならば、たとえ火の中でも無事に生まれるでありましょう」と火を放ち燃えさかる炎の中で「海幸彦・山幸彦」を生んだ。(古事記) さきたま火まつりは、この故事によるもの。
 (「ようこそ さきたま火まつりへ!・さきたま火まつり実行委員会 」 より)



      「先日は、どうも・・・」 (5月4日・記)         
  数年前、韓国への旅をした。バスの中で、韓国のガイドさんが、日本人と韓国人の習慣の違いということで、話した中に、こんなことがあった。
 
 韓国の人は、その日にお世話になったりしたら、「お世話になりました」(ありがとうございました)などとお礼を言うが、次に会った時には、もう言わない。ところが、日本人は、次に会った時にも、「この前は、お世話になりました」と、もう一度お礼を言うというのだ。
 
 そう言われてみると、自分も確かに言っている。友達やごく親しい人には、それほど気をつかわないかも知れない。しかし、その範囲を超えた人には、言っている場合が多い。(実際には、忘れている場合の方が多い?)
 「ほんとだ」と、改めて気づいて笑ってしまった。丁寧なほうが相手に失礼にならないと、いつから思ったのだろう。きっと、おとなになるに従って、相手に悪く思われないようにということも含み、丁寧に越したことはないと感覚的に身につけていったのかも知れない。それでも、身についていなくて、はっとする(?)ことがある。


 
 以前、知り合いの人から、手作りのお菓子をいただいたことがあった。「えー、いいんですか。ありがとうございます。」と、ていねいにお礼を言っていただいた。
 お菓子は、手作りのせいか、こくがあって、さすがにおいしかった。「うわー、おいしい!」と言って、家に帰ってから、娘と一緒に、いくつも食べてしまった。

 何日かたって、ある会合で、いただいた人に出会った。
 時間もたっていたので、いただいたお菓子のことは、思い出さなかった。それに、話題もいろいろ出て、関心は、お菓子のことから全く離れていた。
 
「じゃあ、・・・」と言って帰ろうとした時、「三宅さーん」と呼び止められた。「はーい、なんですか?」と、私は振り返った。「この前のお菓子、おいしかった?」と聞かれた。はっと気づいて、私は言った。「ええ、すごくおいしかったです。すみませーん。娘も、ほっぺが落ちるって言って、ほっぺを拾いながら、食べていました」
 
 お礼をもう一度言わなければいけなかったことに、おとなの礼儀に背いたことに気づいた私は、彼女にとても申し訳のないことをしたと思った。それに、お菓子は、普通のものと違って、その人の手作りだったのだし、なんかとても悪いことをしたと思った。

 彼女は、一瞬、「は?」という顔をしたが、「ああ、そう・・・。まあ、おもしろい娘さん・・・」と言って、彼女はにっこりと花のような笑顔になった。
 
 彼女は、もちろん私がもう一度お礼を言わなかったことを咎めたのではなく、自分の手作りのお菓子が気にいってくれたかしらという気持ちから、尋ねたのだと思う。でも、このとき、私は、次に会った時にも、もう一度お礼を言うほうがまちがいない(失礼もない)と思った。特に、お菓子はおいしかったのだから・・・。もう一度の)お礼を忘れないようにしようと思った。
 
 また、特別お世話にならなくても、何かの会議で一緒になったりした人には、次の時、「先日は、どうも、お世話さまになりました」ということも多くなった。でも、たいていは、相手のほうから、「先日はどうも・・・」と先に言われてしまう。「あっ、こちらこそ・・・」とあわてて言い返す。

 そんな私にとって、実は、特別な場合を除いたら、韓国のように、お礼の言葉も、そのときでおしまいというのも魅力だ。

 あー、それにしても・・・・。なんということを言ってしまったのだろう。娘がおいしいものを食べる時、「ほっぺが落ちる」と言っては、落ちたほっぺを床から拾いながら(拾うまねをしながら)食べたのは、保育園か、せいぜい小学校低学年までの頃(その時、娘は小学校高学年?になっていた)のことだ。とてもおいしかったことを表現したい私の気持ちが、とんでもないことを言ってしまった。
 
 あの時のできごとを思い出すと、私のほっぺは、それこそ落ちて、いや、飛んでどこかへ行ってしまうかと思われるほど、かっかと熱くなる。


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