第三部 過去の地震の特徴と教訓

  3.1 関東大地震(日本史上最大の震災を招いた地震)
        1923年(大正12年)9月1日 11時58分

区切り棒1

 関東大地震は、日本史上最大の被害が発生した地震であり、火災が発生した大都市は未曾有の災害に拡大しました。

 「関東大震災の跡と痕を訪ねて(写真集)」は こちら ⇒


 旧東京市の焼失地域図(アニメーション)
 関東大地震はどんな地震?
 被害状況
 火災の拡大
 建物の倒壊
 
関東大地震その後

区切り棒1

【旧東京市の焼失地域図(アニメーション)】

中村清二 大地震ニヨル東京火災調査報告 震災予防調査会報告 第百号 戊 1925より 着色編集 

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【関東大地震はどんな地震?】

地震と死者・行方不明者數
図表マーク 図 3.1.1 人的被害の大きな地震

 関東大地震は相模湾を震源とするマグニチュードM=7.9の海溝型の地震であり、被害は神奈川県、東京府を始めとして、千葉県、埼玉県、山梨県、静岡県などに及びました。日本史上、最も大きな被害が発生した地震です。

 全体で死・不明10万5千余名、住家全潰10万9千余、半潰10万2千余、焼失21万2千余(全半潰後の焼失含む)。(理科年表平成18年度版より)
 
 図 3.1.1 は、過去400年間の人的被害を大きい順に並べたグラフです。関東大地震の死者・行方不明者は他の地震のそれと比較して際立って多く、特異な地震であったことを示しています。死者などが多くなったのは火災が原因であり、当時の東京市内で約130ヶ所から発生した火事は三日二夜燃え続け、東京全市街の三分の二が完全に焼失しました。死者などの多くは地震そのものではなく地震によって発生した火災によるものであり、地震発生から何時間も後に命を落とすことになりました。
 一般に、大地震には火災を伴いますが、図 3.1.1の棒グラフによると、関東大地震を除いた地震の犠牲者は2万人強以下です。関東大地震だけが統計上は考えられない(過去の地震では経験のない)ような死者を出していますが、何が原因だったのでしょうか? 
 死者10万人以上といわれる惨事は1657年(明暦三年)の江戸大火(振袖火事)、関東大地震および1945年(昭和20年)3月の東京大空襲の3度あります。
 東京大空襲は戦災であることから除いたとしても大都市が火災に襲われると普通では考えられないような災害に発展することがあるようです。
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【被害状況】

死者・行方不明者数比率 100人当りの死亡者・行方不明者数
府県別人的被害の割合
東京府の人的被害が全体の75%を占める。
100人当りの被害者数(人口比率)の比較
人口比率では、東京市より横浜市が方が被害大きい。

図表マーク図 3.1.2 関東大震災の人的被害状況
(死者・行方不明者数は「新編日本被害地震総覧 1987」、震災時の人口は「関東大震災誌・神奈川編 1988」の人数を使用しています。)

 関東大地震では、図 3.1.2 の円グラフに示すように、死者・行方不明者の75%が東京府で、23%が神奈川県であり、残りの2%が千葉県、静岡県、埼玉県、山梨県、茨城県です。
 当時、東京府と神奈川県で市であったのは、東京府の東京市と八王子市、神奈川県の横浜市と横須賀市の4市だけであり、その内、東京市、横浜市、横須賀市の各市が猛火に襲われ、大都市の火災がこの震災の大きな特徴です。
 関東大震災の被害の大半が東京であったこと(図 3.1.2 参照)、被服廠跡の惨事ような関東大震災を象徴するような出来事が東京(本所)で発生していることから、関東大震災というと東京のということになっています。しかし、図 3.1.2 の棒グラフに示すように100人当りの被害者数(人口比率)では、東京府と神奈川県は同程度です。東京市と横浜市を比較すると横浜市のほうが大きな人的被害を蒙っていることがわかります。
 小田原、平塚など相模湾沿岸、および房総半島南部の方が東京よりはるかに激しい地震動を被っており、方々で壊滅的な被害(小田原市、伊勢原市、厚木市、平塚市などの一部では倒潰率が80%以上)が発生しました。
 小田原の南西、根府川では山津波が発生し、根府川の部落123戸の内埋没戸数64戸、死者406名を出し、更に、地すべりでは根府川駅(現東海道本線)に停車していた列車や鉄道官舎もろとも海中に押し流し、約200名の犠牲者を出しています(西坂勝人 1926 神奈川県下の大震火災と警察)。
 関東沿岸は津波に襲われ、波高は静岡県の熱海で12m、房総半島の相浜で9.3mでした。
 土砂災害や津波災害も発生しましたが、都市部での火災による被害があまりにも大きかったために、あまり注目を集めることはありませんでした。

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【火災の拡大】

 関東大地震は火災によって、未曾有の震災に発展したという特徴があり、死者・行方不明者10万5千人余りの中で、建物の倒壊だけいによる圧死者は7,500人程度あるいは火災がなかったら1万3千人程度(武村雅之 関東大震災 鹿島出版会 2003)ともいわれています。

 表3.2.1は各警察署で検死した焼死者の100名以上であった場所を示しています(中村清二 大地震ニヨル東京火災調査報告 震災予防調査会報告)。焼死者の多い場所は広場や橋の袂であり、より安全な場所として避難した避難先や火に追われた人々が集まった場所が火災旋風に襲われたり火に囲まれて脱出できなかったりした場所であることを示しています。

図表マーク表 3.2.1 関東大地震のとき東京下町の各警察署で検死した焼死者数
(中村清二「震災予防調査会報告」1925)
番号 場      所 焼死者数 所轄警察署
本所区被服廠跡 44,030 相生署
浅草区田中小学校敷地内 1,081 日本堤署
本所区太平町1丁目46番地先横川橋北詰 773 太平署
本所区錦糸町駅 630 太平署
浅草区吉原公園 490 日本堤署
深川区東森下町109番地先 237 西平野署
深川区伊予橋際 209 扇橋署
本所区枕橋際 157 向島署
本所区緑町3丁目1番地竪川河岸 125 相生署
10 深川区東大工町566番地丈六原 113 扇橋署
11 神田区神田駅 108 錦町署
 
東京都慰霊堂 関東大震災追悼碑 新吉原花園池追悼記念碑
横網公園の東京都慰霊堂(東京都墨田区、旧被服廠跡)
表3.2.1の1番目
関東大震災の遭難死者に加え東京大空襲(昭和20年3月10日)などによる殉難者の身元不明の遺骨も併せて、162,600体の遺骨が安置されています。
追悼碑(東京都墨田区横川1丁目、横川橋の袂)
表3.2.1の3番目
横川橋付近でも3,600人余りの人々が焼死しました。(建碑趣旨文より)
新吉原花園池(弁天池)跡 追悼記念碑(東京都台東区千束、吉原弁財天)
表3.2.1の5番目
弁天祠附近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のために大正15年に造立されたものです。

 中村清二 大地震ニヨル東京火災調査報告 

 関東大震災の東京での火災に関する調査結果は 「大地震ニヨル東京火災調査報告」として震災予防調査会報告にまとめられています。
 この報告書によると、火災の延焼状況を火陣・火流という概念で捉え、ある時間ごとの火災動態地図を作図することによって旧東京市の延焼拡大状況が再現されています。このページの最初に示した旧東京市の焼失地域図(アニメイション)は火災動態地図を基にしています。

 火元別比率(円グラフ)東京市内で火が延焼・拡大した火元(起災火元)は76箇所であるのに対し、消し止められた火元(消止火元)は53箇所が挙げられています。全体の火元の約60%が合流併合しながら延焼したことになり、その延焼した火系は58系に分けられることが示されています。
 表3.2.1に示すような箇所は、上記のような延焼過程で、火に包囲される現象が生じたものであり、脱出できずに多数の人が焼死しました。

 本所被服廠跡(現在の墨田区横網町公園)には約4万人の市民が避難しましたが、火災旋風が発生し、約3万8千人の人が焼死または窒息死しました。この惨事は関東大地震を象徴する出来事であり、この地には慰霊堂と納骨堂が建立され、東京都の公園になっています。

 また、火に追われた人々は橋梁の焼失や破損によってますます逃げ場を失い、多くの人が水の中で溺死しました。江東区史(中巻 平成九年)によると、油堀河岸で溺死417人、永代橋下で溺死334人、伊予橋下で溺死140人、小名木川大富橋附近溺死132人と続きます。

 中村清二は大地震ニヨル東京火災調査報告(震災予防調査会報告)の中で、防火に対して次のような感想を述べています。
『東京市ノ大部分ヲ焦土ニシタ彼猛火ノ中ニ、尚上記ノ如キ焼残リガ点々存在スルノヲ見、又一方消防ニ勤メタ所デハ多ク其効ヲ奏シテ居ルノヲ見ルト、吾人ハ人ノ力ノ偉大ナルニ驚カザルヲ得無イ。之カラ考エルト今度ノ大火ハ多数ノ人達ガ自己ノ安全ヲ先ニシテ市民トシテ共同一致シテ働作スルコトヲ怠リ人力ノ偉大ナ効果十分ニ発揮シ得無カッタカラデアルト断ジテモ過言デハ有ルマイ。子孫ニ対シテ恥ズベキ一大恨事デアル。江戸ノ先代ノ住民ハ明暦ノ大火**ニ鑑ミテ京橋、日本橋ノ中程ニ中橋広小路ト云ウ防火用ノ広場ヲ新設シタ。愚ナル子孫ハ之ヲ無益ナル土地ノ使用法ト盲断シテ之ヲ廃シ、民家ヲ以テ之ヲ充タシ、今ハ唯其地名ヲ存ズル計リデ其実ガ無イ。』

[注]*  神田和泉町佐久間町を始めとする140箇所の焼け残りを指す。
   ** 明暦の大火:明暦三年(1657年)の江戸の大火で、死者10万人以上といわれています。

そして、調査から導き出された結論として、次のような項目が列挙されています。(編者による現代語訳)

(一) 地震より火災のほうが恐ろしい。地震そのものを小さくすることはできないが、地震が襲ってきたときの災害を小さくするように準備することは可能である。

(二) 火災が災害にならないようにすることができる。もし、火災が災害となってもその災害を小さくする方法がある。

(三) 生命財産の損失は地震の方がはるかに小さい。

(四) 地震はまれに発生し、火災は頻繁に起こる。

(五) 地震による火災を防止するためには、@発火しやすい薬品の取り締まり、およびA地盤の悪い地点での建築方法の取り締まりが必要である。

(六) 耐震で耐火建築物であることが望ましい。

(七) 建物が高くかつ大きくなるほど耐火耐震に関するレベルを高める必要がある。

(八) 地震を恐れて消火活動を放棄することのないような訓練が必要であろう。

(九) 消火方法は一種類に限ることなく、数多くの方法を準備しておく。甲の方法が失敗すれば乙の方法、乙の方法が無効であれば、丙の方法というように複数の方法を準備しておくことが必要である。

(十) 道路の舗装や橋梁は必ず不燃質であることが必要である。

(十一) 広場を設ける場合は十分な消火設備を備えるべきである。

(十二) 広場よりも幅の広く延長の長い道路の方が有効と思われる。

(十三) 避難者が道路や橋梁上に荷物を置いて交通を妨害することは許されないことであり、法律として取り締まるべきである。

(十四) 以上の項目が有効になるためには教育をおろそかにしてはいけない。区画整理などの公共事業に無理解なのはこの種の教育がないためである。

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【建物の倒壊】

浅草凌雲閣
浅草凌雲閣
「地震」 中村左衛門太郎

文化生活研究会 大正13年より
構造別被害率(棒グラフ)
図 3.1.3 横浜における構造別被害 
データは新編 日本被害地震総覧より
 建物の倒壊は、建物の被害だけに終わりません。建物の倒壊によって死傷などの直接的な人的被害と火災の発生が増加し、その火災の発生が人的被害を加速させます。

 1891年(明治24年)に発生した濃尾地震では紡績会社や公共の建物であった煉瓦造の建物に大きな被害が発生し、煉瓦造の建物が地震に弱いことがわかりました。
 その後、コンクリート造の建物が現れますが、関東大震災当の建物はまだ煉瓦造の建物が多く、濃尾地震以前に建てられた煉瓦造の建物もそのまま残っていました。
 そして、濃尾地震の32年後に関東大地震が発生し、多くの煉瓦造の建物に被害が集中するなど耐震性を考慮されていない建物や粗製乱造の建物は容赦なく破壊されました。
 その一方では、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の耐震性(図 3.1.3 のグラフ参照)が明らかになったことから、鉄筋コンクリートや鉄骨造りの建物について新しい研究が起こり大きな進歩を遂げることになります。

 右の写真は20階建ての浅草凌雲閣であり、8階で折れるようにして潰れたのは象徴的でした。
 また、横浜でも煉瓦造の横浜地方裁判所が倒壊し、まもなく付近一帯から発生した火災の猛火に襲われ、1つの建物で94名が犠牲になる惨事が発生しました。
 浅草凌雲閣も横浜地方裁判所も濃尾地震の前年に建てられた煉瓦造の建物であり、耐震性に劣ることは分かっていたにも拘らず、有効な対策をすることなく関東大地震を迎えました。

 現在においては煉瓦造はすでに過去の建築構造であり、煉瓦造が直接大きな問題になることはありませが、一度建てられた建物は耐震性に劣るとわかっていても耐震補強などの対策がされにくいという事実は当時と変わっていません。

 学校、体育館、病院、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所など、多数の人が利用する建築物で、建築基準法などに適合していない耐震性の劣る建物は、耐震診断を行い、必要に応じて耐震改修を行うことが法律(建築物の耐震改修の促進に関する法律)で定められています。しかし、このような公共性のある建物でさえ耐震化は進んでいないようです。(例えば、2003/3/24の読売新聞によると、耐震化率は小中学校の体育館で48.8%、公民館など公的建物で52.7%、医療施設で56.1%と記載されています。 内閣府が一月にまとめた全国調査)

[注]* 関東大地震当時、東京駅は建築中でした。東京駅を始めとして、煉瓦造のように見えても実体は鉄筋コンクリート造である場合がほとんどです。なお、横浜の赤レンガ倉庫は煉瓦造でしたが碇聯鉄構法(ていれんてつこうほう)とうい耐震性が考慮された構造であって関東大震災を生き抜きました。
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【関東大地震その後】

 当時はラジオがまだ無い時代でした。地震の混乱と正確な情報が得られない状況下において、地震発生の翌日ごろから社会主義者および朝鮮人が暴動を起こして放火しているという流言蜚語が非常な勢いで拡大しました。

 『この流言は浮説にとどまっていなかった。九月二日夜、警視庁保安局長は全国に「不逞鮮人取締」を打電し、翌三日には関係地域の郡市町村にこの「注意ノ件」の通達がおろされていた。』(神奈川県通史 昭和57年)ように、警視庁や政府までが流言を信じたため、町々には自警団が組織され、朝鮮人や朝鮮人に誤られた日本人多数が殺害されました。その数は数千人とも言われています。
 警視庁はその流言がまったく根拠が無いことに気づくと、流言を流すものを検挙し、流言を煽るような新聞や雑誌の記事を検閲し、発禁処分などで取締りを強化しました。 
 また、「大杉事件」や「亀戸事件」のように無政府主義者や労働運動活動家が国家権力によって意識的に殺害されるという事件も起きています。
 社会主義運動の監視の強化や検挙、報道の自由の制限、物価の上昇などの震災後の混乱は、国家統制の強化に繋がり、関東大地震は日本の進路に大きな影響を与えたかにみえます。

 関東大地震を契機として東京帝国大学に地震研究所が設立されました。

 「防災の日」(9月1日)は、関東大地震が発生した日に由来しており、この地震を記憶にとどめ、災害に備えようと、1960年(昭和35年)に制定されました。

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本文中記載外参考資料
 天下大変 −資料に見る江戸時代の災害− 国立公文書館 2003
 理科年表 国立天文台編 2001年発行
 力武常次 「新版 日本の危険地帯」 新潮選書 1996
 井上公夫 「関東大地震と土砂災害」 砂防と治水 28巻2号 1995
 高村直助他 「神奈川県の百年」 山川出版社 1984
 藤井陽一郎 「日本の地震学」 紀伊国屋新書 1967
 吉村昭 関東大震災 文春文庫 1977
 姜徳相 関東大震災 中公新書 1975
 村松郁栄・藤井陽一郎 「日本の震災」 三省堂新書 1970
 
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