「限られた命をどう支えますか?」 
−教師の立場でできること


赫多 久美子(東京都立城南養護学校)


 高度医療機関の中に設置された病院内学級・分教室に勤務していた十数年の間に、私は教師として大切な「教え子」を何人も見送る経験をしました。だからといって、死に向かっていく彼らを「このように支えました」などと言えるものは、私にはありません。「ターミナル期の子どもを前に、教師である自分にいったい何ができるのか」これは非常に厳しい問いかけです。
Aさんは、小児がんで入院し、外科手術、自家骨髄移植をした後に再発し、小学6年で病院内学級に転入してきました。その時には、すでに治癒は見込めない状況でした。お母様の要望は、「いつまで今の状態を保てるか分からないので、本人のやりたいことをさせて欲しい。一日一日を大切にしたい」というものでした。

 授業では、Aさんの興味・関心のあることをリストアップし、優先的に取り入れました。病棟内で実行可能な理科の実験、顕微鏡の観察、楽器の演奏、ビーズ手芸、七宝焼きアクセサリー作り、編み物などです。

 一方、教科書・ノートを使った学習も継続しました。「まず病院内学級の中学部に進学後、リハビリに励んで歩けるようになって退院し、友だちの待つ地元の中学校に通う」というのが、彼女の目標だったからです。彼女は大変優秀な頭脳の持ち主でした。転入前にかなりの学習のブランクがあったにもかかわらず、5年の内容からやり始めた算数でも、あっという間に標準的な進度に追いついてしまいました。学習に意欲的で、どの教科の勉強にも熱心に取り組みました。それは、Aさんが「退院する」という希望を持ち続けていたからだと思います。

 薬の副作用で、吐き気がありベッドに横になったままの時もありました。そういう時は、リクエストされた本の読み聞かせや、たわいのない雑談をして過ごしました。話をしているうちに、Aさんの気分が少しずつよくなって、声が元気になってきたこともありました。

 卒業式の日、車いすに乗ったAさんは、病院スタッフも含め大勢の来賓の前でも臆することなく作文を立派に読み上げました。それは、入院や病院内学級での日々を綴ったもので、「リハビリに励んで早く退院したい」と結ばれていました。卒業証書を手にした彼女の美しく晴れやかな表情を忘れることはできません。
春休み中に容態が悪化し、中学部の入学式には欠席、数日後に帰らぬ人となりました。その最期の時、私は病室に呼ばれました。個室にはご家族とドクター、病棟スタッフが集まっていました。「声をかけてやってください」とお母様から言われ、弱々しい呼吸を続ける彼女の手を取りました。「Aちゃん、かくた先生だよ・・・あなたの担任になれて、一緒に勉強できて、本当に幸せでした。ありがとう・・。」と耳元でささやくのがやっとでした。彼女の呼吸の間隔が長くなり、お母様が「まだがんばっているの?もう、いいよ。もう、がんばらなくていいから。」と言われました。そして、Aさんは静かに息を引き取りました。

 葬儀の後も、彼女を思い出しては涙する日が続きました。もっとするべきことがあったのではないか、どうしてあのときこうしなかったのか・・・次々に後悔の念にかられました。また、「一緒に学習した分数の計算や比例の概念など、いったい何の意味があったのだろう」と、虚脱感に襲われました。

 どれぐらい経ってからでしょうか。「そうかぁ!」「えーっと・・・うん、分かった!」「やったぁ!できたぁ!」と、Aさんがその時々で達成感と満足感を味わっていた場面が思い出されるようになりました。授業中に彼女が発した言葉、目の輝きと笑顔。彼女は、その瞬間その瞬間の小さな感動を積み重ねて、限られた命を百パーセント生き抜いたのだと気づかされました。私は、そのすばらしい人生のラストに、教師として一緒に時を過ごす特権に与ったのです。決して十分なことはできませんでした。後悔することは山ほどあります。すると「じゃあ、次には後悔しないようにすればいいじゃない?」っと、Aさんに言われたように感じました。

 子どもたちは、死ぬ瞬間まで成長し続けようとします。ならば、その成長を助けるために、教師は全力を尽くさなければなりません。体力が低下し、痛みもある中でさえ、私の出会った子どもたちは、教師による何らかの働きかけを喜んで受け入れてくれました。「今、この子は何を望んでいるのか」「どうすることがこの子にとってベストなのか」を見極め、すみやかに実行するべきです。大切な教え子の最期の日々に、一つでも多くの感動と一つでも多くの笑顔をもたらすために。



* この文章は、難病のこども支援全国ネットワーク(平成19年5月1日発行) 『がんばれ!』102号に掲載されたものです。