カルタウォーク   御領・三箇・深野池を歩く
    住道駅→会所橋→両皇太神社→西村橋→北野神社

    →御領・菅原神社→井路川・田舟・段蔵→

    西福寺・地蔵堂(頼尊地蔵)→

    おかみ神社→三箇・菅原神社→深野池→

    道しるべ→本妙寺→四條畷神社御旅所→四条畷駅

住道駅前

昔の角堂浜から住道大橋

両皇太神宮
住道駅
 カルタの句 『 東方に 光りあれと 市のマーク 』
 大阪市の東に位置する。「光りは東方より」という将来の発展を祈っている。図案は《大とう・光》
住道駅前大橋(昭和56年3月))
寝屋川・恩智川 (寝屋川に他力橋、恩智川に戸関橋があった。)二つの川を利用して舟による運送がさかえた。

角堂浜(すみのどうはま・今の浜町あたり)住吉神社(舟運を守る水神)
 カルタの句 『 寝屋川の 剣先船着く 角堂浜 』
 「剣先」とは刀の先の意味。長さは22mぐらいで船の底は浅く楽に進めるように平たくしてある。寝屋川、恩智川で使われていて、角堂浜は船着場としてにぎわい、三箇、中垣内、北条、龍間から荷物が集められ、大阪(京都)まで運ばれた。
寝屋川は、大和川付替えとともに深野池から新開池、そこから徳庵川へ流れ、今福で旧大和川水系と合流。ここからの旧大和川は、その後、寝屋川と称されるようになった。池の跡地は新田開発で水田地帯になり池はなくなったが、上流からの水の流れは寝屋川として残された。

本伝寺(河内街道・三住町)おかげ灯籠(「太神宮」「天保二辛 卯年四月吉日」「御影踊中」)
 カルタの句 『 ええじゃないか お伊勢参り おかげ灯籠 』
 天皇以外は伊勢神宮に願をしてはならず、皇后や皇太子でも随時天皇に許可をもらはなければならなかった国家神である。神宮は20年に一度、式年遷宮のために多額の費用が必要、また500名もの官職の費用捻出が、中世以後には朝廷の権力の低下に伴いできなくなってきた。庶民層へと働きかけ参宮者を誘引し、講の発展とともに伊勢信仰の隆盛は江戸時代に入ると決定的となった。
 伊勢参宮はもともと”ぬけまいり”。誰にも告げないで旅立つ者が多かった。旅費の用意も服装の準備もない者が多かったから、沿道の施しだけによって参宮したが、沿道の住民もよくその面倒をみた。こうした参宮をおかげ参りといっている。こうしたおかげ参りは江戸時代が盛んであった。
 最も盛況をきわめたのが、文政十三年(1830)であった。この年の三月二十七・八日に阿波に発生したおかげまいりの群は河内地方に及びこのうねりに当地域もまきこまれ、村をあげた踊りまでに発展した。三味、太鼓のはやしにあわせ、二日も三日もうかれ、踊り続けた。その場所がどこであったかは分からないが、市内に残る”おかげ灯籠”はそれを記念してたてられたものである。

住道大橋 

 
キリシタン灯籠?
 カルタの句 
  『 三箇キリシタン 謎のおりべ灯籠と
                     数珠のこす
 』

  氷野1丁目N医院の庭にキリシタン灯籠?といわれるもの1基ある。四角い石の下の方でクロスらしいものが見える。N家は戦前から御領におられたが、戦後現在地に移られる。そのとき灯籠も一緒に移したという。

 深野5丁目にある八幡宮(野々宮神社)に2基のキリシタン灯籠がある。(野崎駅から南へ・深野5丁目)

     八幡宮・2基のキリシタン灯籠

←N医院のキリシタン灯籠

なべた橋 鍋田側道橋(鍋田川)

会所橋(寝屋川)深野会所
 この会所が支配したのは深野・深野北新田を中心に154町であるが、建物の規模などは不詳。当時の名残りとして会所橋と現在深野の氏神になっている両皇太神宮だけである。なお本願寺による開発の名残りとして、今もこの地域には「二日講」があり、毎年春秋二回法要を営み、先祖を弔い、豊年を祈願している。
両皇太神宮(深野神社)
 由緒は不詳。祭神は天照大神・豊受大神と菅原道真。

河内街道(寝屋川筋)

道しるべ

野崎まいり

北野神社
西村橋(寝屋川)
道しるべ(右のざ起観音道 左大坂道 すぐ星田妙見山道 天保八年・1837)
 カルタの句 『 右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ 』   <「ぬれながら 旅人守る 道しるべ」>

野崎まいり
 カルタの句 『 屋形船 野崎まいりは 花ざかり 』
  昔の野崎まいりのコースは、大坂からの野崎まいりには舟路と平行して堤防を行く陸路があった。
舟は大坂の八軒家浜から大川をのぼり寝屋川に入り、徳庵・諸福を通って角堂浜(石切、生駒聖天へはここで降りる。)で一休み。ここから舟は北におれ、やがて西村橋付近に着く。ここにのざき道の道しるべがある。一説には、乗りかえて観音井路を東に進み、観音浜で舟を降り、現四条農協の端を通り、まず専應寺さんにお参りし、それから野崎観音にお参りしたともいわれている。江戸時代後半に出された「河内名所図会」には菜の花や桜の咲く頃、野崎まいりの往来のにぎやかさや参詣者の浮かれた様子が描かれている。
                                          野崎駅から南へ200m →
氷野・北野神社(現大東町) 
 祭神・菅原道真。以前は素盞鳴命を祀っていた。古墳遺跡の上にたつ。由緒不詳。赤井と氷野両地区が氏子となっていたことが、奉納されている狛犬・灯籠からもわかる。

 御領 菅原神社

  排水路記念碑

地車小屋
御領・菅原神社 排水路記念碑(1944年に排水路を新設、その記念碑) 地車
 カルタの句 『 知恵さずく 菅原神社に 手をあわす 』
 明治12年(1879)改築。鳥居は安永七年(1778)。宮座があり御領開拓者11軒で構成。一年交代で神主役を務めていたが、今は特定の家が当たっている。
 天神さんは菅原道真と同一視されるが、本来は天を司る神、天候の神と考えられたから、農民は豊作を祈り全国の至る所に祀った。道真が政敵藤原時平に讒言(ざんげん)されて大宰府に没した後、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の歌を詠み、大宰府として配所の月を見つつ逝く。死後、京には落雷しきり、道真の怨霊のなせるものとして天満大自在天神の称を賜り、北野天神に合祀された。

 カルタの句 『 村祭り われらの地車 誇りもつ 』 
         <「宵宮の だんじり祭り かね太鼓」 「累年の 地車祭り なお続け」>
 神座を木車に乗せ、車上では太鼓を叩いて拍子をとり、氏子が威勢よく、これを担い、あるいは綱で引いて村中をねり歩く。豊作感謝と氏子繁栄の祭り。明和年間(1760)より出来始めたらしい。

井路川 田舟 段蔵

西福寺 地蔵尊

頼尊地蔵
水郷 井路川 田舟 段蔵
 カルタの句 『 豊作だ 井路を行き交う 三枚板(田舟) 』
 田に水を入れるため、寝屋川からみぞを作って流す。これを井路(いじ・用水路)という。農家では、その井路を三枚板といわれる舟(舟底と両舷各一枚の板からなる小舟)に、農具を入れたり、刈り取った稲を積んだりして、家と田の間を行き来していた。田仕事やれんこん掘りには、田舟はなくてはならないものであった。

 カルタの句 『 水害から 家財を守る 河内段蔵 』
 3つの蔵を階段状につないだような形をした蔵が北河内に多くある。水害の時の家具や米などの避難所。(蔵は、北西に建てた。風から母屋を守るため。)

地蔵堂 頼尊(よりたか)地蔵
 カルタの句 『 頼尊と 刻む逆修の 地蔵さん 』
 幅60センチ・高さ80センチ大の自然石に、身丈60センチ大で半肉彫されている。頭部光背は線刻円型で、径26センチ。右側に「奉大乗妙典千部供養所地也」左には「于時永禄元年戊午(つちのえうま)八月吉日逆修頼尊越後助敬白」の銘がある。
 頼尊越後助が、永禄元年(1558)八月吉日に、逆修(生前供養)のため大乗妙典を千部供養(千回読経)した遺物。ちょうど戦国時代である。畿内では三好長慶が覇権を握り、永禄三年に飯盛城を本拠と定める。明日をもしれぬ生命のため、頼尊越後助は生前に自分の死後の供養をしたと思われる。逆修とは、あらかじめという意味がある。市指定文化財。

 西福寺
 浄土真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寛永四年(1637)蓮如上人掛幅の裏書きには寺号がなく、西福寺という名は一如上人(1678〜1700)の時下附された親鸞聖人真影等にみることができる。

おかみ神社

おかげ灯籠

おかげ参り
おかみ神社(雨の神)  おかげ灯籠
 カルタの句 『 わが町の 水つかさどる おかみ神社 』
 「おかみ」を漢字で表すと雨と口三つと龍となる。農業に必要な水を司る神。由緒は不詳。おかみの神は池沼に住む天に昇る雨雲を司る龍神。

 カルタの句 『 ええじゃないか お伊勢参り おかげ灯籠 』
 天皇以外は伊勢神宮に願をしてはならず、皇后や皇太子でも随時天皇に許可をもらはなければならなかった国家神である。神宮は20年に一度、式年遷宮のために多額の費用が必要、また500名もの官職の費用捻出が、中世以後には朝廷の権力の低下に伴いできなくなってきた。庶民層へと働きかけ参宮者を誘引し、講の発展とともに伊勢信仰の隆盛は江戸時代に入ると決定的となった。
 伊勢参宮はもともと”ぬけまいり”。誰にも告げないで旅立つ者が多かった。旅費の用意も服装の準備もない者が多かったから、沿道の施しだけによって参宮したが、沿道の住民もよくその面倒をみた。こうした参宮をおかげ参りといっている。こうしたおかげ参りは江戸時代が盛んであった。
 最も盛況をきわめたのが、文政十三年(1830)であった。この年の三月二十七・八日に阿波に発生したおかげまいりの群は河内地方に及びこのうねりに当地域もまきこまれ、村をあげた踊りまでに発展した。三味、太鼓のはやしにあわせ、二日も三日もうかれ、踊り続けた。その場所がどこであったかは分からないが、市内に残る”おかげ灯籠”はそれを記念してたてられたものである。

三箇 菅原神社

廃水月院

地車小屋
三箇・菅原神社(三箇菅原神社は大東市の総社) 
 三箇の由来は、深野池に三つの島があったから。地図によっては四つ、五つの島のものもあるが、これは池床が浅く水量により陸地となるところがあったからと思われる。
 カルタの句 『 知恵さずく 菅原神社に 手をあわす 』
 由緒は不詳。戦国時代の末、三箇城主が教会に改めたという神社は位置から当社と思われる。

 廃水月院
 神社西隣の旧寺地に塔や碑を残すだけ。由緒は不詳。明治時代までは村の寄合いがよく開かれたという。なお「城ハ灰埋は土となりぬとも 何を此世に思ひ残さん」とあるが、城とは三箇城のことであろうか。(三箇城の菩提寺として建てられた曹洞宗の寺といわれている。)

  地車
 カルタの句 『 村祭り われらの地車 誇りもつ 』
         <「宵宮の だんじり祭り かね太鼓」 「累年の 地車祭り なお続け」>

          三箇城跡

               三箇教会→

     キリシタン数珠

←キリシタン灯籠(氷野)
三箇城跡
 450年前も昔、飯盛城を中心にして、三箇、野崎、北条、御領などに小さな城があった。三箇菅原神社のあたりにあったといわれている。しかし、三箇6丁目だという説もある。築城年代、規模など不明。深野池に浮かぶ最大の島(大箇)にあったといわれ、城屋敷・城堤などの地名が残る。飯盛城の支城。永禄四年(1561)大雪の12月25日に油断をつかれ畠山方に落ちたという。

 カルタの句 『 キリシタン 三箇の聖堂 聳え立つ 』
 天文十八年(1549)イスパニア人フランシスコ・ザヴィエルが鹿児島に来航してから9年後の永禄二年(1559)ポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラが入京し、将軍義輝から日本布教の許可を得た。もちろん実権を握っていた三好長慶が与えたもの。このような問題の処理にあずかったのは結城山城守忠正であろうといわれている。このころ長慶の家臣で三箇の領主であったのは、いわゆる三箇殿で、飯盛城で洗礼を受け、三箇にあった小庵をキリシタンの聖堂とした。天正五年(1577)になると三箇で集団改宗がおこなわれ、寺院はすべて破壊された。三箇殿は家督を子のマンションに譲り、その臣下1,500名もキリシタンとなった。

 カルタの句 『 三箇キリシタン 謎のおりべ灯籠と 数珠のこす 』
 三箇には、宣教師、スパル・ヴィレラやルイス・フロイスが来た。三箇城内には大教会を建て、集団の改宗(宗旨をかえる)などが行われた。その間フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さな島にある」と報告している。その後織田信長が死に、三箇キリシタンは危機を迎え、豊臣秀吉が天正五年(1587)六月十九日にキリスト教を禁止した。市内にキリシタン灯籠(?おりべ灯籠)といわれるものが三基(氷野1基、深野・野々宮神社<八幡宮>2基)ある。当時の厳しい取調べと、秀吉の居城に近いし、大きな深野池だっただけに、それらしい遺物はキリシタン数珠以外ほとんど見つからない。

河内湖

大和川洪水の様子


大和川付け替え工事

新大和川

深野新田開発

南遊紀行
深野池
 カルタの句 『 砂州のびて 河内湖のなごり あちこちに 』
 河内湾は上町台地の北から東にかけて海水が入り込んでいた。生駒山系の山裾まで海岸線が迫っていた。山から、川から押し出された土砂が堆積して、海水が押し出され、島や州ができ、湖沼となっていく。

 カルタの句 『 洪水に 川替え願う 古大和川 』
 古い大和川は、奈良にはじまり、河内平野で、いくつかの川に分かれて深野池や新開池に流れ込んでいた。この古い大和川は、淀川よりも随分長い間河内平野に住む人々を苦しめてきた。特に1674年から3年間続いた吉田川や深野池の決壊は、大きな被害を与えた。そこで、河内今米村の庄屋中甚兵衛たちは、この古い大和川を柏原から堺へ流すように村の人々や役人に訴えた。ついに、宝永年元年(1704年)に完成した。
 カルタの句 『 うれしいと 深野新田 開発す 』
 大和川の付け替え後、洪水が少なくなった。川や池が浅くなり、水がなくなり、できた土地を平らにして田んぼにつくりかえた。新田開発と共に、田んぼの水の確保のために井路(いじ・用水路)もたくさんつくられた。
 深野池の開拓は東本願寺難波別院の手で宝永年2年(1705年)開発され、完了後平野屋又右衛門に譲られ、助松屋、天王寺屋、高松長左衛門と移った。深野新田等14ヵ所の新田ができ、深野池は干拓され、水田地帯になって、池はなくなってしまった。
 南西の新開池の方は同年、大和屋六兵衛と庄屋長兵衛が落札し、開発利権を鴻池善右衛門宗利が譲り受け、鴻池新田として開発された。ここで新開池は消滅した。

 カルタの句 『 にこやかに 旅する益軒 南遊紀行 』
 元禄二年(1689)の2月ごろ、貝原益軒が京都から生駒山麓の東高野街道を通り、紀州方面に旅行。深野池の干拓直前の様子を書いている。
「ふかうの池は深野池とかくと云。本名は茨田(まんだ)の池と云。池の広さは南北二里、東西一里、所によりて東西半里許有。湖に似たり。其中に島有。三ヶと云村有。故にこの池を三ケのおき共云。三ヶの島に漁家七、八十戸あり。田畠も有。此島南北廿町、東西五、六町有と云。・・・ふかうの池のまわり凡四十二村有と云。此の池水流れの末、大和川に出づ。河下より商船毎日往来す。是より大阪へ二里あり」と記している。
河内街道の道しるべ 2基
 「右河内街道 左河内街道」(寝屋川を津の辺方向に折れる角から移動)
 「河内街道 距枚方町国道第二号 路線分岐三里」(170号線との合流近くから移動))
 河内街道は枚方道ともいう。枚方から寝屋川・高宮、四條畷・砂、大東・住道、そして八尾へ。
 カルタの句 『 右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ 』
  <「ぬれながら 旅人守る 道しるべ」>
本妙寺(津の辺・ほんみょう)日蓮宗 本尊釈迦如来と妙見大菩薩 キリシタン五輪塔?

四條畷神社御旅所(おたびしょ)
ハラキリ

河内街道道しるべ

本妙寺