交野・星田郷土史かるた〈ほいさ〉ウォーク
星田駅→大谷→

傍示川→星の森→新池→

大池→六路辻→一里塚→

半尺口→薬師寺→光林寺→家康陣営跡→

善林寺→慈光寺→光明寺→

星田神社→星田寺→新宮山→

小松寺→妙見川原→妙見宮→

星のブランコ→哮が峰


←星田駅構内「ほしだ散歩」案内板
参考文献
 「星田懐古誌」「星田写真史話」
 「星田歴史風土記」[ふるさと交野を歩く」
 「交野市史」

星田駅

右・旧高野道と旭尋常小跡

旭尋常小跡石碑

旭尋常小学校
星田駅
 明治28年(1895)に片町と四條畷間に、浪速鉄道が開通。明治31年(1898)4月12日になって関西鉄道株式会社が四條畷と長尾間を開通させた。明治31年7月1日に星田駅ができる。明治40年(1907)国有鉄道となり、大正元年(1912)に片町線と称することになった。
 昭和51年(1976)、星田駅北側の複線化工事現場で発掘調査が行われ、縄文時代の石鏃や弥生時代の漁具「土すい」(網につけるおもり)、鎌倉時代の素掘りの井戸、溝などがみつかり「星田駅北遺跡」と名付けられた。
 昭和63年(1988)、片町線は「学研都市線」となり、快速が走る。平成14年(2002)3月、快速が星田駅に停車するようになる。

 カルタの句 『 軍用の 走る線路あとは 香里まで 』
 星田駅の引込み線(側線)として香里まで、陸軍専用鉄道が、昭和16年(1941)9月に敷設されていた。昭和12年(1937)日中戦争が益々拡大し、軍需品の生産が急を要するようになった。香里製造所が、昭和14年1月から工事に着手し、17年に竣工し、各種の火薬の製造をした。これらの輸送機関として、星田駅から香里製造所までの鉄道であった。運行したのは、わずか3年数ヵ月で、昭和20年の終戦後は放置されていた。香里団地の建設が昭和33年に始まっているから、この線路は撤去されたものと思われる。(明治中期からあった枚方の禁野火薬庫が昭和14年3月1日に大爆発した。)片町線は、火薬・弾薬を輸送していた。津田駅から禁野へも側線が敷設されていた。宇治(奈良線)で製造した火薬を、木津経由で、津田・星田と輸送し、火薬をつめこんだ砲弾・弾薬を、祝園(ほうその)(片町線)の兵器補給所に輸送した。
・「陸軍用地」の石標 買収した土地の境目の要所要所に立てたもの。畦に数基現存。
戦死者の碑 昭和20年(1945)7月9日、米P51戦闘機が大阪来襲。陸軍少尉中村純一機が撃墜、高田(こうだ)の青田に突っ込む。星田駅の北側の水田において戦死。平成17年(2005)3月第2京阪道路建設現場で機関砲、機関銃、旧陸軍戦闘機のものとみられるプロペラやエンジンの一部など発見。
旭尋常小学校跡(旧高野街道) 
カルタの句 『 寝屋にいく 旧高野道に 旭尋常小跡 』
 
(最初の学校は、明治5年(1872)星田郷学校・慈光寺。学制令。6年星田郷60番小学。8年星田小学。 14年星田小学校・善林寺に移転。 明治18年十小学校廃止。交南小学校を私部に創立。第一分校を星田の駅前に)。明治20年(1887)5月旭尋常高等小学校創立。21年3月廃止。4月旭簡易小学校創立。26年廃止し、旭尋常小学校創立。明治35年新校舎建築石碑のところに移転。大正10年(1921)星田、水本と両校に分離、星田尋常高等小学校創立。現在の星田小学校の位置に移転する。
東高野街道
 鳥羽から陸路で淀・八幡を過ぎ、洞ヶ峠を越えて河内に入り、交野の郡津、星田を過ぎ、寝屋川の大谷・打上を経て四條畷にかかる・・・・・。弘法大師(空海)が高野山に金剛峯寺を建立(816)、その後、京都の東寺に下賜(823)されてから、この道が結ばれた。
大井川万吉碑・道しるべ すぐ 京 八はた道
 カルタの句 
『 道しるべ 郷土の力士 大井川万吉碑 』

 道しるべを兼ねた自然石の碑がある。「大井川万吉」「すぐ京、八はた道」。台石に「門弟中」 安政三年(1856)とある。大井川万吉は近くに住む河流氏の五代前の人。河内相撲から江戸相撲にまで出世した力士。道しるべは、北行きを示すが、南行きは、竹才一口(たけもといもあらい)の墓石を兼ねた道しるべがある。「すぐ高野、大坂道」(大谷の東墓地に移動)(墓石に辞世の句があるが判読できない。)
竹才一口墓石・道しるべ すぐ 高野 大坂道
 カルタの句
 『 右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ 』
 
   「すぐ」とは、真っ直ぐのこと。

大井川万吉碑道しるべ

墓石道しるべ

大師祠 地蔵 柳谷

地蔵堂と愛宕の常夜燈

油しめ石

大谷南大師祠
大谷北のお大師さん・地蔵さん・柳谷さん
 カルタの句 『 村まもる 十五ヶ所の 弘法さん 』
 
石の祠。一石半肉彫。右面に寛政二年(1790)とある。大師とは、国王の師となりえる人で朝廷からおくられる称号。大師といえば弘法大師になってしまっている。それほど弘法大師の信仰が厚い。
 近くに弘法井戸があって、横の抜け穴から湧水が流れていたが、最近なくなってしまった。
 

 地藏さん
 カルタの句 『 そこに立つ 願いかなえる 地藏さん 』
 地蔵さんの普通の形は、左手に宝珠(ほうしゅ)、左手錫杖(しゃくじょう)をもち、頭は丸坊主、袈裟と衣の僧侶の姿。地蔵は死後の世界にかかわる菩薩だが、生前の世界には、あらゆる庶民の悩みを聞いてくださる仏さん。これらの地藏さんは、村ごとに、あるいは道々の辻に立ち、錫杖をつきながら各戸を訪ねて願い事を聞き入れてくださる。地蔵信仰は鎌倉期以降、庶民に密着したが江戸期が最高潮であった。
 柳谷さんの灯籠
 カルタの句 『 眼を守る 柳谷さんの 伏拝み 』
 柳谷観音の伏拝み灯籠がある。楊谷寺(ようこうじ・京都・長岡京)眼病平癒の祈願所。

地蔵堂・愛宕の常夜燈
 厨子に地蔵尊を祀り、釈迦涅槃図が掛けられている。
 カルタの句 『 火から 世を守る 愛宕の常夜燈 』
 延宝八年(1680)の銘がある。火の用心を呼びかける。
 油しめ石
 地蔵堂から二軒目の塀の角に四方四所にくぼみ加工の珍しい石がある。江戸時代、油しめに使った石。
 星田郵便局 明治9年(1876)郵便取扱役所として、大谷の南氏宅に開設。

星田妙見道・道しるべ 旧山根街道 大谷ほろ山のふもと 
 カルタの句 『 右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ 』
 「星田妙見道」「大坂道」「弘化二年乙巳六月」「南燈明講 願主 何某」(1845年)
大谷南大師祠
 集落を南に出ると、旧山根街道と高野道が交わるところにある。ここを開拓した人の名をつけて治右衛門廣(じえもんびろ)の大師堂ともいわれている。大きな石祠の中に石造台石別丸彫の65センチの大師像。裏に「大谷中」とある。星田と打上の境。強地(きょうじ)には明治29年に星田・水本両村組合の避病舎が設けられ、昭和26年廃止。
 関西研究用原子炉設置問題 昭和34年(1959)

傍示川

布懸遺跡 石器

星の森

旭遺跡 土器

新池堤防

新池
傍示川
 カルタの句 『 ほうじ川 荘園の西境を 流れゆく 』
 
傍示はもとは地上の目印で、杭、石、札を荘園の境界を示すために建てられた。変わらぬ境界となる地物を利用する方法も多くある。
 
後白河天皇の久寿(きゅうじゅ)元年(1154)に円成院領星田荘ができたとき、太政官からの官吏、河内国衙、交野郡の郡司、星田の荘官らが現場に立会いの上で、四方の境界を定め、星田の西南を流れる傍示川をその境目とした。
 
傍示川は、以前、地獄谷とぼって谷の渓流を集めていたが、今は源を地獄谷新池に発し、星田新池の下を流れ、大谷橋を通り、たち川となり、寝屋谷を経て寝屋川に通じている
布懸(のうかけ)遺跡(旧石器時代)
 カルタの句 『 目をさます のうかけ遺跡の 旧石器 』
 
昭和54年、旭小学校西隣りを昭和54年(1979)発掘調査。旧石器時代のナイフ形石器(約15000年前)が出土。サヌカイト。剥片、砕片なども出土。ナイフ形石器製作所ではなかったかと思われる。

星の森・星の森遺跡(弥生遺跡)
 カルタの句 『 秘法で 八丁三所 星がふる 』
 平安期の初期、嵯峨天皇の弘仁年中(810年代)、「弘法大師が交野地方に来られた折、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法をとなえると、天上から七曜の星(北斗七星)が降り、それが三か所に分れて地上に落ちた。一つは星田傍示川沿いの高岡山の東の星の森、一つは星田小字乾にある降星山光林寺境内の星の森、そして今一つは妙見山上の小松神社のご神体の二つの石である。これらの石は神仏が姿をかえてあらわれた影向石(ようごうせき)として、その後信仰されるようになった。」
 「星の森」も妙見山、光林寺と同じ七曜星を祀る霊場。この森を聖地として昭和56年に整備されたとき、聖地の中央に石塚を築き御神体としてあがめられていた5個の石のうち、小さい石4個を塚の中に納め、大きい石を石塚の上に神の磐座として奉っている。

 カルタの句 『 サヌカイト 弥生の石鏃 星の森 』
 
ここから出てくる土器片や石器は弥生式のもの。石器は大阪と奈良との府県境にある二上山(ふたかみやま)から産出するサヌカイト(安土岩あんざんがん)で作られた有柄の石鏃である。半製品の石鏃や砕石等もたくさん出土。

出入橋 火薬庫の跡
源氏屋敷跡
 カルタの句 『 星田氏の 源氏屋敷あと 地下下の地 』  
 星田という武士が地下下(じげげ)に住んでいた。寛政系図に「源姓、星田次郎右衛門正種は河内国星田庄から起る。家紋丸に三星、水車。千姫取次役、後江戸に帰る。」とある。源氏一統の星田氏の屋敷跡。星田氏が千姫の取次役として大坂城に出向いたのは、七歳の千姫が十一歳の秀頼に嫁いた慶長八年(1603)から落城の慶長二十年年(1615)の間。星田氏は、城を脱出して江戸に帰った千姫に随行した。

星田旭遺跡(縄文住居跡)茄子石の谷と拂底の谷からと、地獄谷の谷川と一つに集まるところ。
 カルタの句 『 地を削る 旭の山に 縄文住居跡 』
 明治の末から大正の初めにかけて新池が築造されたとき、ここの土を取って新池の堤防に用いたが、川に近い山麓で、十数個の竪穴式住居跡を発見。どの穴も、穴の底に木灰に混ざって多くの小鳥の骨や、獣類の骨があった。また、貝殻に入れた「貨泉」を発掘。貨泉は、約2000年前の中国の新(紀元八〜二十四)という王朝の王莽(おうもう)という王が鋳造した青銅貨。
新池
 カルタの句 『 新池の 土器の中から 和銅開珎 』
 新池が築造されたとき、南の”早狩り”という山から北の谷の方に延びている尾根の先端のところから、素焼きで底のとがった小さな土器に入れた数十枚の和銅開珎等の古銭が出土。
 拂底(ぼって)の谷 馬の嶺(星田山)
 なすび石の滝 五段の滝 地獄谷 北の小門跡
  廃・小松寺跡
 
大谷新池
 明治の中ごろの片町線の北は、一面綿花畑だったとか、明治末期になって綿花栽培から、水田栽培に戻ったらしい。問題のあった用水について、さらにため池の要望が出てきた。明治42年に築造にこぎつける。2年の歳月を費やす。新池ができたが、大谷まで用水が届かないので、以後2年間で大谷新池(大正池)ができた。

星田名所記・八幡宮・旗かけ松・金堀里・妙音池

鍛冶が坂

妙見宮境内灯籠 金堀中

大池

星田小学校 旧の三本松

高岡山稲荷大明神
梶が阪(鍛冶が坂)・金堀の里
 カルタの句 『 絵図にある 金堀の里 鍛冶が坂 』
 「星田名所(などころ)記」に新宮山八幡宮の絵図がある。その絵図に「金堀里」とあって、7軒の家が描かれている。この金堀の里に、明治13年の資料によると、この時すでになくなっている。
 何々の里という呼称は、奈良朝の霊亀元年(715)に、里を行政区画の最低単位とされたときにつけられたものであるから、その頃には、これらの場所には、すでに、小さくとも住民の集団住居地が出現していたことは確実である。金堀の里は、丘陵地帯であったから、家数は、後年になっても、あまり増加はしなかったようであるが、「乾の里」「野辺の里」(光林寺の裏の土地)の方は、広がっていった。交野市史に「八幡さまはいつも東向いていなさるが、山の南の金堀もとくにお忘れなく護ってくださるように・・・」と願をかけていたが、南の金堀の村々は八幡宮の守護をうけなかったのでなくなったという古老の話を紹介している。
 「金堀の里」の地名としては現在残ってはいないが、「梶が阪」として呼ばれているところである。それ以前は「鍛冶が坂」であった。
 妙見宮の境内に、「献燈 天保十一子年(1840) 金堀中」と彫られた大きな自然石のばけ灯籠が一基残っている。また、もう1基、社務所の前に天保十三年の「常夜燈」の台座に14名の連名に「金堀平右ヱ門」と左最後にあった。

『歴史公論』(第六巻七号)に若尾五雄氏の「鉱山と信仰」の中で北辰星つまり妙見さんのお告げにより鉱山を発見する。金工師の信仰する神とある。各地の妙見山、妙見宮と金工、とくに鉱山が関連しているという。各府県の関連地をあげている中で、大阪府旧北河内郡星田があった。「星田妙見。現在では、妙見社は小松神社というが、ここの裏山は金山と呼び、小字に鍛冶屋敷・金堀などの地名が残る。廃坑跡あり。」とある。金山というところは見当たらない。妙見宮の北側を鐘鋳谷(かねいだん)といい、鐘を鋳造したと伝えられているが、まったく鉱山とは関係がない。廃坑跡があると書かれているが、享和三年(1803)『星田村明細書』では、星田村に「金・銀・銅・鉄鉱山御座無候」とある。鉄の産出は、この付近ではなかった。鍛冶が坂の金堀の里は、運んできた鉄の原料で鍛冶工房を営んでいたのではないだろうか。

星田名所(などころ)記
 
カルタの句 『 わが村の 絵図で語る 星田名所記 』
 春潮亭蘆噸(ろとん)という人の書いたもの。作成時期は明治元年から明治3年の間と推定されている。経歴等は一切不明。多くの絵図を入れ、星田の山川、社寺、古跡等を詳しく書いたもの。手書きの原稿本のみで故西井長和氏が所蔵。

山根街道
 カルタの句 『 現存の 国府にいたる 山根街道 』
 カルタの句 『 すそのをめぐるは 山の根の道 』
 (「交野郷土史かるた」より)
古代の河内の中心である国府(柏原の国分)に至る道として山の根の道があった。時代が古いほど村は山に接近していたから山麓の村々を通るためにまがりくねっていた。その後、高野山が開かれて以来、この道は整備されて東高野街道となった。
 星田の中は、天の川西の「ついしょう川」→印地山北麓→辻屋裏→星田神社東→円通院跡→梶が坂・鍛冶が坂(狸藪あり)→御農の丘→高岡山北麓→強地(きょうじ)→
大池 元禄十一年(1698)に大池の堤を修復した記録がある。それ以前に造られたのであろう。不明。
 カルタの句 『 大池の 土砂流れくる 三本の松 』
 星田の稲作に欠くことのできない大池。星田小学校に、今はない三本松の築山(冷納山すずみやま)があった。星田名所記によると三本松は歯痛を癒してくれたそうだ。元禄期に堤防の決壊により流れきた土砂が積もったものであると伝えられている。1本は落雷で、もう1本は室戸台風で、そして、最後の1本は、昭和26年の校地拡張で切り取られ、山もなくなったが、現在新しく裏門の東側に小さな山がつくられ、3本の松が植えられている。
 大池の西側の一段低いところに「見取(みどり)池」がある。大池の余水溜めとしての築造か、あるいは大池の堤防を築くとき、土砂運搬通路として使用の際に、偶然堤防に変わり貯水されたか、明らかでない。

高岡山稲荷大明神
 カルタの句 『 主がいる 三太郎ぎつねの 高岡稲荷 』
 河内国にある三所の太郎稲荷大明神の一つである。
 稲荷は京都の伏見から勧進(かんじん)したもので全国に約3万、家業、商売繁盛の神として尊崇されているが、これは伏見稲荷が渡来人の秦氏の勢力下にあり、秦氏が商工業方面で活躍したことによるのであろう。しかし、本来はイナリ(稲成り)に由来するといわれるように農耕の神として出発したものであろう。なお狐と稲荷が結びつくのは狐が山ないしは田の神の使いと信じられたためであろう。

御野立所

六路の地蔵

一里塚跡・西側金門

偉人の墓

新仏道しるべ地蔵

迎え地蔵

六地蔵

大蔵・星田墓地と茄子作のさかい
六路の辻 野立所
 カルタの句 『 六路の 辻に野立の 行幸あと 』
 六路の辻に御野立所(おのだちしょ)がある。大正3年(1914)11月16日、大正天皇の行幸地。陸軍特別大演習。

 上ん山の辻(私部の西と茄子作南の境)に「閲武駐蹕記念碑」(えつぶちゅうひつ)天皇の行幸中、一時のりものをとどめること。

六路の地蔵
 花崗岩の双体仏で、左が地藏さん、右が阿弥陀さま。六路の川を地蔵さんの川とも呼んでいる。地藏さんを動かすと腹痛が起こるとかでそのまましたという。「歯痛の地蔵」といって、今も宅地の隙間に流れる小さな川の土手にたたずんでいる。
六道の辻 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天へ行く辻。星田墓地へ向かう道。

一里塚
 カルタの句 『 旅人の 高野のみちのり 一里塚 』
 一里塚は、江戸時代に全国の諸街道に設けられた里程標である。旅人の休憩するために一里(約4キロ)ごとに土を盛って松などを植えた。交野市内では星田の旧高野街道にある。星田駅の東から街道を北に少し行ったところに石碑がある。小字は東の方が四馬塚(しばづか)西は金門(かなかど)。一里塚に大師堂が祀られていたが、現在は半尺口に移された。
東高野街道 嵯峨天皇の厚い保護をうけた弘法大師空海が816年、高野山に金剛峯寺を建立、京都の東寺を823年に下賜されてより、この両地を結ぶ道として、高野道と呼ばれるに至ったものであろう。聖地巡礼への道として、往時の人々の心を捉えた名称。

金門(かなかど)
 カルタの句 『 金門に 長者屋敷あと 鉢かづき姫 』
 
星田駅北に「金門」という小字名がある。そこに長者の豪壮な門(東門)があって、それも金の門であったかも知れない。寝屋に門口というところがある。ここが西門跡であろう。寝屋長者屋敷となれば、「御伽草子」の有名な「鉢かづき姫」がある。

神出来(かんでら)
 光林寺の俗称を神寺(かんでら)と呼んでいる。当て字で上寺となり、さらに神出来という当て字になっている。

星田牧
 カルタの句 『 利水なく 牛馬を飼う 星田牧 』
 
星田は禿山が多かったから、水不足で農作地にできず、中川から西の広い土地は牧場として利用された。平安期の末、星田は爲禰牧(いねのまき・三島郡上牧村)との永年の紛争が続いていた。かつて淀川が大洪水があったとき、いねの牧の牛馬を一時星田の牧地に移されたことがあって、それ以来、いねの牧は星田を属地のように扱うようになり、幾度も住民の家財を没収するようなことがあった。
偉い人の墓
 カルタの句 『 鳥羽伏見 田に土まんじゅう 偉人墓 』
 神出来の交差点より東の方、道路より北側、小字「市の西」の田の中に小さな土盛りがあった。今は建物で埋められてしまったが、昔から鳥羽伏見の戦いで負傷者の村送りで死んだ「偉い人の墓地」ではないかといわれている。正月には鏡餅をあげていたという。
 鳥羽伏見の戦い
 慶応四年(1868)1月3日近代日本の幕開け。5千の新政府軍(薩長連合軍)と1万5千の旧幕府軍、4日間の死闘。

川尻池跡
 カルタの句 『 埋められた 河太郎の住処 川尻池 』
 川尻池は埋められて、建物が建っているが、その池の主・河太郎(がたろ・かっぱのこと)の話。

星田墓地 新仏道しるべ地蔵 迎え地蔵 六地蔵
 カルタの句 『 そこに立つ 願いかなえる 地藏さん 』
 新仏道しるべ地蔵 
 苦しい暮らしのまま生涯を終えた人が、せめて西国浄土への道だけでも間違わないようにと念を入れて建てた、浄土への道しるべ。
 迎え地蔵 
 墓地の入口の手前にある。新仏を迎えてくださる「迎え地蔵」。迎え地蔵は舟形光背地蔵菩薩。舟形光背阿弥陀仏坐像。その他の石仏や五輪塔の水輪などが並んでいる。
 六地蔵
 カルタの句 『 六地蔵 業をいやして 墓地守る 』
 
墓地の入口には、必ず六地蔵さんがおられる。「人間は、前世の業(ごう)によって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界の六道を輪廻(りんね)するという、この六道世界での苦しみを軽減すべく、死後の守り神として六地蔵を祀るのである。」といわれている。
 天正五年墓石(安土桃山時代)氏名、年号のわかる個人墓として交野最古のもの。
  「森田新右エ門」「天正五丑二月 日」「法界萬霊」(1577年)
三宅郷(みやけのさと)
 カルタの句 『 をふ蔵(大蔵)に 茨田の米庫 三宅郷 』
 三宅はもと屯倉の文字を使い、天皇領の米倉の意味。それが郷名になる。古事記・日本書紀に、仁徳天皇が茨田屯倉をおつくりになったことが記述されている。そこが星田であると推定されている。星田の古地図に出ている小字「をふ蔵(大蔵おおぞう)」がその遺跡ではないかと考えられている。星田墓地の西側、枚方市茄子作との境界に近い小高い地。

半尺口の大師堂

薬師寺と薬師如来立像→

千体仏

左・阿弥陀さんと中央・古式地蔵

右端・六字名号碑とカラウス地蔵
西の村本通り(中川から西)
 カルタの句 『 村の中 西の村の 本通り 』
遠見遮断(集落内の道路)
 カルタの句 『 敵の目に 遠見遮断の 迷い道 』
 家並みの道路は、狭く曲がりくねっているため前方を見渡すことができない。遠見遮断で村を防禦している。
半尺口(はんじゃくち)(木造)
 カルタの句 『 半尺口 眼にいわれある お大師さん 』
 もともと一里塚にあった。そのとき、寝屋の人が盲目となり、夜静かになって夜参りに杖を頼りに三年間祈願し続けた御利益があり、ある夜お大師さんの「私の片目をお前にあげる。」とのお告げがあって、その日から片目が見え出し、代わりにお大師さんの右の片目に傷ができて、その傷は今も残っている。(木造)
畑堂(はたんど)の薬師寺・お大師さん・古式地蔵・六字名号碑
 カルタの句 『 如来さん 千体仏の 薬師寺 』
 本尊は薬師如来立像。室町時代のヒノキの寄木造り、像高158センチ。市指定文化財。もと大念仏宗、現在浄土宗。創建不明。
 5個の木箱に納められている室町時代の千体仏。地蔵菩薩坐像、薬師如来立像等671体。村人が悪疫などが流行しないようにと祈りをこめて、浄財を出し合って仏師に作ってもらい奉納。市指定文化財。「交野郷土史かるた」の句は、『 瑠璃光山 薬師寺に 千体仏 』
 お大師さん 寺内に木造。
 カルタの句 『 村まもる 十五ヶ所の 弘法さん 』
 六字名号碑 「南無阿弥陀仏」慶長十二年(1607) 六西衆中六〇人。「六西」は「六斎」の当て字。
 カルタの句 『 念仏の 六字名号碑に 手をあわす 』
 「南無阿弥陀仏」の六字名号(ろくじみょうごう)碑がある。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏に帰依する意味。善導(唐の僧)はこれを称念(しょうねん・南無阿弥陀仏と唱えること)すれば必ず往生することをいう。
 古式地蔵
 カルタの句 『 ややふしぎ 錫杖のない 古式地蔵 』
 
石は松香石(凝灰岩)。頭の後ろに三重の線刻の円光背。右手与願印、左手宝珠で錫杖を持たない。古い形式の地藏さんの特徴である。
 
頭の非常に大きい阿弥陀さん、上にくぼみのあるカラウス地蔵などある。室町のもの。

光林寺

光林寺・星の神祠

光林寺・大師堂

門の木地蔵

野辺橋・大師堂

左側・平井家

徳川家康陣営跡碑

家康使用の皿類
光林寺・お星様の霊所・大師堂
 カルタの句 『 降星の かんでらと呼ぶ 光林寺 』
 カルタの句 『 秘法で 八丁三所 星がふる 』
 山号は降星山。以前は大念仏宗であったが、西山浄土宗。本尊は阿弥陀如来。初めは降臨寺とし、その後同音の光林寺と変わる。古い時代から神寺(かんでら)と呼ばれ、私称を「龍降寺」ともいっていた。
 嵯峨天皇の弘仁年間弘法大師が獅子窟寺の獅子の岩屋に入って仏眼尊(ぶつげんそん)の法を修法されたとき、天より七曜(しちよう)の星が三箇所に降ったという、その一箇所。村の人は、お星様という。
 寺宝 第120代仁孝天皇御用の茵(しとね・御座)一枚がある。これは19世住職圭忍上人が、もと西山浄土宗総本山粟生(あお)光明寺の衆頭職であったころ、仁孝天皇の形見としていただいたもの。(弘化四年1847天皇崩御)
 釈迦三尊像(室町時代) もと新宮山愛染律院(明治五年廃寺)のもの。
 山門の蟇股(かえるまた) 室町時代
 松の大木(有明の松) 『星田名所記』に老松と歌われ画かれている名木。歌謡一首「いづ方へ 枝は行くらん 老松の 霞の中の浮みどり 姿変れど色変えぬ 千代も変わらぬ心にて 尽きぬ思いは有明の 松に引いたか横かすみ」(星田名所記)
 河内西国三十三所観世音霊場の第廿四番札所
 大師堂(木造)
 
野辺橋 大師堂
 
カルタの句 『 村まもる 十五ヶ所の 弘法さん 』

 腹減(はらへり)地蔵 

門の木地蔵(送り地蔵)
 中川に沿って、西向きに七体の地蔵がある。小字を「東森の木」といい、「森の木」が訛って「門の木」。阿弥陀坐像、地蔵の立像、立像の双体仏、わかりにくい石仏などがある。新仏ができるとお盆に「新棚」(青竹と葦で)をつくり、新仏を迎える。そして、15日の夜を徹して回向し、門の木まで新仏を送る。

菊屋(星田の酒造)
家康陣営跡碑
 カルタの句 『 夏の陣 陣営跡碑と 旗かけ松 』
 
慶長二十年(1615)五月五日、徳川家康は大坂城攻めのため、午前9時に京都二条城を出て、東高野街道を進み、洞が峠を越えて河内に入り、午後3時星田に着き、里正(りせい・村の長)平井三郎右衛門宅に入った。これより先、秀忠は五月三日伏見を立ち、四條畷の岡山に陣をとった。また、家康の旗じるしは、新宮山八幡宮の社前の松の大木に高く掲げられた。明治初年に枯死して今はない。(五月七日、家康は、天王寺口の茶臼山口に布陣、秀忠は、生野の岡山口に布陣し、二手に分かれて決戦に臨んだ。大坂城落城。)
 文化二年(1805)、平井家の裏手に家康陣営の記念碑が建てられた。

大師堂と地鎮さん

善林寺

慈光寺・二月堂柳谷伏拝

慈光寺・大師堂

十三仏

鍋賀地蔵

除夜の四辻
←中川・すじかい橋・札場    
星田名所記より          
地神祠(じじんし・地鎮さん)・札町大師堂
 カルタの句 『 ちょうちんで 土地の地鎮さん 祀っている 』
 お大師(石造)の祠、五輪塔の台石など、宝篋印塔の台、卵塔、灯籠、地蔵などがある。逆(さかさ)地蔵。中川と東川との間に垣内をつくった上代の人たちが、自分たちの先祖を神としてお祀りした祠。
善林寺
 カルタの句 『 礼拝の 西向きの本堂 善林寺 』
 
山号・中埜山。浄土真宗西本願寺末。本尊は阿弥陀如来立像。平安後期の作。徹底した他力念仏宗。『星田名所記』に「中の寺」と記されている。
 本堂が西向きになっているのは枚方出口の光善寺と相対するように建てられたからだという、言い伝えがある。光善寺は1476年蓮如が河内の民衆を教化したところで、当寺のこの伝説や寺号に善の字があるのを考えれば何か深い関係が・・(「交野郷土史かるた」より)

慈光寺・十三仏・大師堂・鍋賀地蔵・六字名号碑・梵字の種子の碑・二月堂灯籠・柳谷灯籠
 西山浄土宗。本尊・阿弥陀如来。 
カルタの句 『 生前に 追善供養 慈光寺の十三仏 』
 慶長十二年(1607)。人間が死んで、あの世へ往生するまでに三十三年かかるそうだ。そのために亡くなった人に供養する。初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)、百ヵ日、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、三十三年忌の十三回の追善供養。十三仏は、死後の法要を、生前、自分でしておこうという逆修(ぎゃくしゅ・あらかじめ)の意味するものが多い。一石に十三仏の仏が彫られている十三仏は交野に一基、慈光寺にある。
 鍋賀(なべが)地蔵 
新宮山妙音池から土塀道に出る。下水道工事の際に出てきた。掘り出された町名から「鍋賀地蔵」という。頭に円光背があり、右手を上に左手を下に、いずれも手のひらを外にし親指と人差し指とをねじた来迎印の阿弥陀立像(室町初期)である。慈光寺で供養。
 二月堂灯籠
 カルタの句 『伏拝み ねがう観音 二月堂 』
 柳谷観音の灯籠
 
カルタの句 『 眼を守る 柳谷さんの 伏拝み 』
最初の学校
 明治五年、慈光寺に星田郷学校が創立。明治十四年善林寺に移転。慈光寺に寺子屋時代の机が保存されている。
一字一石三部経の経塚 
哲空上人が弘化三年(1846)に建立。
河内西国三十三所観世音霊場の第廿三札所

中川通り
 カルタの句 『 中川の すじかい橋の 札場あと 』
 
慈光寺の前は札場の跡。「星田名所記」に描いてあるように、石垣を高く積み上げて掲示場の姿が画いている。幕府の掟・禁令など書いて知らせたのであろう。また、中川に架かるはすかい橋も画いてある。
・中川沿いに3基の水車

除夜の四辻
 カルタの句 『 累年の 除夜の四辻 鐘の音 』
 慈光寺の鐘撞堂(梵鐘寛政二年・1790)のすぐ下にある四辻を除夜の四辻という。

光明寺

堂坂・薬師堂

星田神社

古宮・八幡宮・金毘羅宮・天満宮などの末社

西の地車・東の地車

星田寺・右側は観音堂
     十一面観音立像→

旧松岳庵・大師堂
光明寺
 カルタの句 『 天文の 逆修塔まつる 光明寺 』
 山号は東光山。東寺真言宗。本尊は阿弥陀如来。薬医門を入ると右手に数基の石塔が並んでいる。そこに塔婆の一部分に「結縁逆修八十二人 天文十八年(1549)十月十五日」の銘がある。逆修の宝篋印塔の一部である。境内の墓石中に室町時代の一石五輪塔が数基ある。
 お大師さん(木造)
薬師堂
 薬師仏は、弘仁期(810年代)の手法が見られるが、元禄八年(1695)に光明寺住職が奔走して村方から光明寺に貰い受けたものである。。

星田神社(住吉四神)・交野大明神・八幡宮
 カルタの句 『 住吉さん 豊作ねがう 星田神社 』
 祭神は住吉四社明神。宝永年間に磐船神社より移された。10月17日御例祭。
・古宮・交野大明神
 カルタの句 『 敬虔な 古宮とよぶ 交野大明神 』
 
 
本社の住吉四社明神が来るまでは、この交野大明神が上代からの星田の氏神であった。それで古宮と呼ばれている。祭神は饒速日命、素戔鳴命、仁徳天皇である。
・八幡宮 新宮山にあった八幡宮。神仏分離の際に移される。石段、鳥居、灯籠等も新宮山より移したもの。
・戎社
(福の神)・金毘羅宮(最初は航海の安全を守る神。地主の信仰が厚い。慈光寺から神仏分離の際に移転。狛犬、石の灯籠、石の鳥居もともに移る)
・天照社(天照大神・国家祖神・農耕神)
・天満宮(菅原道真を祀る。)   
・庚申塔(十干十二支の組み合わせによる庚申〈かのえさる〉の夜にまつられる民間信仰で、60日に1回まわってくる。庚申信仰は、中国の道教の思想で、平安時代に日本に入り、江戸時代に流行した。庚申の日は、夜に眠ると命が縮まり、眠らずに身を慎めば災難が除かれるとされ、人々が、当番の家に集まって、飲食をともにし、話や遊芸を楽しむなどの行事を行われた。今は、この日にこんにゃくを食べると病気にならないとされている。)
・祖霊社(護国の英霊と神社の総代等の霊を合祀。)
・放生池
(ほうじょう・殺生を禁ずる)
くぼみ石(正面鳥居の石段・300年前) 昔の子どもたちの餅つき遊び(草団子や泥団子を作って遊んだ跡が窪みになった。)
地車(だんじり)
 カルタの句 『 宵宮の だんじり祭り かね太鼓 』
 現在ある地車は、東の地車・天保四年(1833)、西の地車・天保五年に新調された。戦前は、東の地車は、星田神社の北の堂坂の蔵に、西の地車は畑堂の蔵に格納したが、現在は星田神社の東のお旅所に建てられた地車蔵に二台とも格納されている。10月16日が宵宮、17日が本宮である。昔は東と西が各々地車親父分がいて、中老がおり、その下に若中(わかなか)という集団があって、互いに絢爛華麗を競い合っていた。

 「交野郷土史かるた」より
 カルタの句 『 連判状 残す星田の 若い衆 』
 江戸時代の終わりごろ、星田村の若者たちが書き残したものに連判状がある。これは日常生活の「諸法度(しょはっと)」を村の長老たちに誓ったもの。「差入れ一札の事御公儀よりの御法度のおもむき堅く相守り申す可く候」からはじまり、勝負事はしない、両親を大切にする等十二条あって、末尾に署名拇印が押されている。
 カルタの句 『 吉田屋藤七 幕府に進言 』
 江戸時代の中ごろ、星田の吉田屋藤七は親の遺志をついで、交野の治山治水について、実施に調査してまとめ、そして、それを幕府に進言し、役人を動かしたといわれている。

田寺(しょうでんじ)
 カルタの句 『 富くじと 十一面観世音の 星田寺 』
 「三室山」(みむろさん)という木製の額があるが、寺の固有名詞ではなく、「神仏の坐(いま)す清浄なところ」という意味。星田寺の山号は三宅山である。院号花岳院。宗派は東寺真言宗。本尊は不動明王、室町時代の作。開創は不詳、平安時代には存在していた。
 十一面観音堂 十一面観音立像は、像高140センチ、平安後期の作、市指定文化財。小松寺の根本草堂の仏像で、『河内鑑名所記』(1679)に「小松寺の観音」と載せ、元禄十六年(1703)小松寺が廃寺になったときに、星田神社の古宮の北に観音堂を建て、その中に祀られたが、明治初年の神仏分離の際に星田寺に移された。
 富くじ 寺を維持していくため、富くじを売ったという記録が残っている。この富くじは年号が享保乙卯(1735)と明らかになっていて、現在わかっているわが国のなかで多分最古のものだといわれている。(「交野郷土史かるた」より)
      カルタの句 『 富くじの 最古の記録 星田寺 』 (「交野郷土史かるた」より)
 五輪塔 「永禄六年(1563)勝海大徳」小松城主遠藤昌親(あきちか)の弟昌俊(あきとし)の墓塔。
 稲荷社
 お大師さん(木造)
 
旧松岳庵・大師堂(木造)
 
カルタの句 『 村まもる 十五ヶ所の 弘法さん 』
 
松岳庵は、星田村明細書に、宗旨は真言律宗で愛染律院の末寺とある。この寺の中興の上人の墓石からは、元は光明寺の末寺であったようだ。本尊は大日如来。明治五年(1872)神仏分離の宗教改革の際、愛染律院が廃寺となる。その際光明寺の末寺になったが明治七年に庵号を廃した。松岳庵はなくなったが、露路門のすぐ西側にあった大師堂がいまも残っている。

妙音池と弁財天

新宮山

八幡宮跡・宝篋印塔

旗かけ松

星田名所記より・愛染律院
愛染律院の地蔵菩薩像→

新宮山下の遺跡
星田の最初の稲作地

明星院跡
妙音池(みょうげ・みょうおんいけ) 元来は新宮山の南側に位置した八幡宮の放生池(ほうじょう)であったといわれている。
 カルタの句 『 浮島に 弁財天の 妙音池 』
 妙音池の弁天島の守り神、弁財天を祀る。弁舌、音楽、知恵の神、弁財天。わが国では七福神の一つとして信仰された。
 妙音池は、星田の池では最も古い。新宮山八幡宮の放生池(ほうじょういけ)としてつくられたと伝えられている。『河内鑑名所記』(1679)には、「明星の池」とあり、貝原益軒『南遊紀行』にも書かれている。江戸中期の『星田村絵図』(1803)には、妙音池となっている。弁財天は、もとは旗掛け松の下、崖の中腹に祀ってあったが、江戸時代のいつのころか、崖が崩れ、弁財天とともに妙音池の中に落ちて小島ができたといわれている。
 カルタの句 『 水底に 鐘の音ひびく 妙音池 』
 『星田名所記』に「愛染院は紫雲寺と撞入相(つくいりあい)は新宮の晩鐘、妙音池の底までも聞て騒ぐ蛍狩」と記され、鐘のことをとりあげていることは、その音色のすばらしさがうかがえる。
新宮山(しんぐうやま) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 カルタの句 『 薫風の 宝篋印塔 新宮山八幡宮 』
 カルタの句 『 夏の陣 陣営跡碑と 旗かけ松 』
 山頂(標高65m)には明治の初めごろまで「新宮山八幡宮(祭神・応神天皇、仁徳天皇、神功皇后)」が祀られていた。北側の一段低いところに「愛染律院」が建っていた。また山頂の本殿前には、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣に、当地に本陣を置いた徳川家康が軍旗を懸けたと伝えられる「旗かけ松」という松の大木があった。
 新宮山の名の起こりは、天暦三年(949)当時三宅山と呼ばれていた星田一帯の土地を石清水八幡宮(全地域の守護神)に寄進し、八幡宮の分霊を勧請(かんじょう・お迎え)して祀ったことから、石清水八幡宮を本宮と呼び当宮を新宮と言ったことによる。新宮山八幡宮は室町時代には隆盛を極め、文安二年(1445)には六小社を有する大社と六支院が権勢を誇るかのように山頂に立ち並んでいた。しかし、その後はしだいに衰退を重ね、八幡宮は明治五年(1872)に廃されて星田神社に合祀され、愛染律院もまた廃寺となった。
 愛染律院は、新宮山愛染律院紫雲寺。八幡宮の社坊であった寺。真言律宗で、創建不詳。中興開山は、慈観円暁上人という。幕末の安政六年(1906)より八年間、高僧として聞こえた和田覺樹僧正が在住。本尊は釈迦如来、明治五年廃寺になったとき、光林寺に移される。
 新宮山八幡宮があった土地の北端に、台石に天文十七年戌申二月廿八日(1548)の年号を刻んだ「宝篋印塔」がある。宝篋印塔は密教系の塔で鎌倉前期から石造の遺品が出現。宝篋印陀羅尼を納める塔。後には供養塔・墓碑塔として建てられる。その西側に「延慶二年(1309)十二月八日造之、一結衆十八人敬白」と銘ある五輪塔の台石がある。
 弥生時代の住居跡と推定される遺構や、土器が出土している。
 カルタの句 『 玉筆の 歌人蓮月尼の 愛染律院 』
 愛染律院は、真言律宗で八幡宮の社坊。明治五年の神仏分離令により廃寺となる。
 太田垣蓮月は、名を誠(のぶ)という。藤堂藩伊賀上野城代家老藤堂良聖(よしきよ)の子で、生後間もなく京都知恩院の寺侍大田垣伴左衛門の養女となる。養子を迎えて男女4人を生んだがいづれも早世し、夫も若くして没した。このとき、32歳だった。菩提を弔うため尼になった。京都で香川景樹の弟子富田泰州に歌道を学ぶ。新宮山愛染律院の茶所に寄寓していた文久三年(1863)にはすでに73歳になり、和歌と文字が巧みで円熟していた。晩年はかねて懇意の和田月心の住む京都西加茂神光院の茶所に移り住み、明治8年、85歳で没した。
 著名な画家冷泉為恭(れいぜいためちか)は、岡田氏の養子になり、岡田為恭となる。政治活動に関与したということで、文久三年(1863)四月愛染律院にいる蓮月を頼って逃げてくる。そして、堺の大徳という人の家から大和丹波市の永久寺に逃げるが、五月五日42歳で鯖のように切り付けられた。

 カルタの句 『 岡山へ 移った地蔵菩薩は 重要文化財 』
 明治五年の神仏分離令)により、八幡宮は星田神社に移された。愛染律院も廃寺になった。愛染律院の地蔵菩薩像が、岡山県井原市の真言宗別格本山高山寺に移座され、国の重要文化財に指定されている。

新宮山下の遺跡
 星田で、最初の稲作が行われたところといわれている。約2000年前、新宮山で居住し、その下で水田稲作をしたことがわかった。

明星院跡
 カルタの句 『 土盛りの 経塚あとの 明星院 』
 新宮山より道路を隔てて南西の方角にある丘陵を明星院と呼んでいる。(新宮山は明星院まで一つの山・昭和19年に分断され南線ができる。)明星院の森の中に土饅頭型の塚があって、周囲に空堀をめぐらしていた。戦後、この塚は壊されてしまった。この塚は経塚ではなかったかと考えられる。

中の池・浅間堂の池
    富士浅間大日如来像→

法華宗・小松寺

妙見道の道しるべ
中の池(浅間堂の池)・浅間さん
 カルタの句 『 のぼりつめ 富士で開眼 浅間さん 』
 もとは上の池・中の池・今池と並んでいた。中の池の西側に浅間大日如来の堂が建てられた。上の池は中の池のすぐ南にあったが、明治のころすでに上の池と中の池と区切る堤防は形骸を残していた。今池は中の池のすぐ北側であったが近年埋められ住宅地になっている。
 池の西側のお堂には、富士浅間神社の大日如来像が安置されている浅間堂がある。創建は延宝の末(1670年代後半)。開基は修験道の先達であった奥田浄安。浄安は、大日如来を京都の仏師に依頼して造立。この仏像を富士講の世話人数人の助けをかりて、富士山の頂上にある富士浅間社の奥の院にて開眼供養を行った。8月7、8日が祭事。
 役の行者像 中の池は役の行者の行池ともいわれている。池の西はしにある。

星田妙見道・道しるべ
 カルタの句 『 右ひだり 「すぐ」と教える 道しるべ 』
 星田南線突き当たり中川の四つ角「すぐ星田妙見道 南燈明講 願主 何某 弘化二年(1845)乙巳八月 日」
 上垣内の四辻「大坂 妙見道 南燈明講 願主 何某 取次 橘 民部 弘化二乙巳/六月」

三輪明神(上垣内にあったが、現在祠がない)
 カルタの句 『 水田を 古くから守る 三輪明神 』
小松寺(しょうしょうじ)
 カルタの句 『 重盛の 位牌をまつる 小松寺 』
 
法華宗尼崎本興寺の末寺。開基は耕雲院日応という上人で、創建は宝永元年(1704)。小松寺の寺号は、元禄の末に廃寺となった小松寺の伝統の永い寺名を惜しみ、その寺名を継承したと伝えられている。荒廃になろうとしたとき、平氏の嫡子小松重盛卿の再建した寺であるという伝承があったので、日応上人は、その伝承に基づいて重盛卿の位牌を造られている。当寺に今も残るその位牌がある。

妙見川原の桜

家康しのぶの藪

妙見宮・小松神社

妙見宮影向石

登龍之瀧

絵馬堂から鐘撞堂北側の谷が鐘鋳谷

妙見山古墳出土品・玉類

妙見山南の墓地・鎌倉墓
妙見川原 
 カルタの句 『 またや見ん 妙見川原の 桜狩り 』
 妙見川(東川)は、星田の山間に源を発し、菖蒲滝を落下し、十方橋をくぐって妙見川原を通り、天井川をなし、中川の支流を合わせて天の川に入る。天井川の高い堤があった。星田と私市を結ぶトンネルがあった。妙見川にある地藏さんは、トンネルの頂の藤の根元にあった石仏だという。天井川の改修は昭和41年(1966)に終わった。明治42年(1909)、妙見川原に400本の桜を移植した記録がある。延宝七年(1679)『河内鑑名所記』、元禄二年(1689)『南遊紀行』、享和元年(1801)『河内名所図会』などには星田妙見の絵図はあるが、桜の名所ではなかった。妙見川原の桜の絵に見えるのは春潮亭蘆噸の『星田名所記』(明治元年から明治三年の間に作成)。

しのぶの藪
 カルタの句 『 家康の 伊賀越えたすく ひそみの藪 』
 天正十年(1582)六月二日、織田信長が京都本能寺において、その家臣の明智光秀の反逆によって滅亡した時、信長の盟友であった徳川家康は堺にあって、その事変を知り、急遽本国三河の国に逃げ帰らんとしたとき、星田の伝承によると、家康は六月二日の深夜に星田に来て、山城方面に出る間道に精通している星田の農民二人を、道案内人として雇い、その案内によって、山城の木津川べりの飯の岡に達し、この所より木津川を渡り、伊賀方面に逃走することを得たのである。星田妙見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの藪」のことを俗に「けんしきの藪」といって、家康が堺から逃げ帰るとき、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。家康一行の道案内をした農民の一人は、俗称をしゃみ安といった人であるが、今一人は、後年になって、けんしきという俗称で呼ばれるようになった農家の人であった。

妙見宮(小松神社)
 カルタの句 『 ねがいごと 星の霊岩 妙見宮 』
 妙見宮のご神体は二個の霊岩である。原始信仰(岩座信仰)で古くから小松大明神と尊称されていた。
 平安期の嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824)に、弘法大師空海上人が、河内の国私市の観音寺で虚空蔵菩薩求門持(こくうぞうぼさつぐもんじ)の法を修められた。すると、その法力によって、その夜、山の手に仏眼仏母の光明が輝いた。そこで、夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って、仏眼尊の秘法を唱えた。すると、七曜の星が降り、それが三つに分かれておちたという。この霊岩に七曜星の影向(ようごう・神や仏が姿を現われた)せられるのを拝されて、七曜星をまつる霊場とされたと伝えられている。七曜星とは、北斗七星のことであり、北辰星というのは北極星である。北辰星について、桓武天皇や嵯峨天皇が一般民衆が北辰祭を行うことを禁止する令を出している。弘法大師は妙見宮に祀ったのは、禁止されていない北斗七星であろう。真言宗の北斗七星の信仰は、人間はその生まれ年によって七星の中にいづれかに属しているので、その属星をまつれば、災いをさけて幸福を求める現世利益を受けることができるとされている。平安時代「神禅寺」と称される。河内長野の天野山金剛寺の古文書に「嘉承元年(1106)九月二十三日星田神禅寺」とある。天文四年(1535)の神明帳には、小松大明神と記されてある。明治三十九年十一月に星田神社境外社となる。

 三大星の祭典 「星祭り」2月8日北辰妙見菩薩降臨・「七夕」7月7日星祭りの半年目の降臨日と七夕。・「星降り祭(ほしくだりさい)」7月23日(妙見祭りといっていた夏祭りは本来は七曜星の降臨をまつる。 降星山光林寺「星まつり」8月  星の森「星まつり」5月)
 カルタの句 『 宙(そら)のもと 光りたまわる 星祭り 』
 カルタの句 『 秘法で 八丁三所 星がふる 』
 
登龍之瀧 不動明王
(隕石落下 わが国の隕石落下記録上、二番目に古いとされる弘仁七年<816>の星の降臨によって、この山の大部分が吹き飛ばされ、馬蹄形になっています。山を登りながら、当時の衝撃のすさまじさ、宇宙の神秘を感じて下さい。最古の記録は、764年読日本紀<日本天文史料下巻神田茂編>―案内板より) 
登龍の瀧(隕石落下の窪みの底)
 
落下した隕石は北斗七星の方向からやってくるペルセウス流星群で、星田に三ヶ所落ちたという。
金色龍王社
(雨を祈る本尊) 妙見稲荷社(稲荷ふいご祭り)
延命地蔵尊 祖霊社(妙見宮に尽力した古人の霊を祀る) 庚申社
「星田十左ェ門 紀州徳田願主 常燈 講中」
鐘鋳谷(かねいだん)
 カルタの句 『 鐘づくり 妙見坂の 鐘鋳谷 』
 妙見宮への登り口の石段を登りつめて、右に折れる、絵馬堂がある。そこから、また石段を登ると平地がある。この平地の北側に鐘撞堂の跡の土壇が残っている。この土壇の北側の谷が鐘を鋳造した鐘鋳谷である。

豊臣稲荷  妙見宮の奥の院の稲荷社

妙見山古墳
 カルタの句 『 物部の 首長葬るか 妙見山古墳 』
 標高162mの妙見山に所在した古墳。発掘の時点で、すでに南半分は完全に破壊され、残存部分も盗掘により撹乱され、わずかに残存する遺物を採取。勾玉、ガラス小玉、管玉、鉄器、埴輪片、石英などと遺物に付着する朱を発見。この古墳は、四世紀中ごろの造営と認められ、天の川と磐船街道を支配する交野物部氏の一族の首長を葬ったとみるべきであろう。

鎌倉墓
 カルタの句 『 霊まつる 五輪塔・地蔵尊の 鎌倉墓 』
 明治時代、この土地を入手した人が開墾すると、地蔵石、墓石や骨壷が出土。その種類は、五輪塔、一石五輪塔、舟形板碑等立派なもの。約200を数える。石造物は鎌倉中期が一番古く、室町時代に及んでいる。小松寺の荒廃そして廃寺へたどる時期である。この墓地は、小松寺の上級の僧のものであろうと考えられる。

菖蒲が滝

廃小松寺跡・現ゴルフ場内

星のブランコ・つり橋

哮が峰と岩内道跡

藤が尾・坊領遺跡

天野川・私市橋付近
菖蒲が瀧(しょうぶがたき)
 カルタの句 『 山の中 信者の修行 菖蒲が瀧 』
 妙見川の源流。妙見信仰と相まって、古くから修行の場となっている。いまも敬虔な信者の行が行われている。
地蔵谷の石地蔵
 カルタの句 『 谷底に 宗円ころりの 石地蔵 』
 菖蒲が滝への道の西の荒坂を上がり、ゴルフ場に向かう。戦いに使う矢竹(やの)が見える。小松寺の僧兵がいたのだろう。谷に台石があって、その上に三つにわれた地蔵さんがあった。今はない。室町のころ、宗円という和尚がいた。谷のどん底にころんで落ちてしまった。首に吊るしていたお守りの地蔵が三つに砕けて落ちた。かすり傷だけで、里人に助けられた。地蔵谷にいくと石地蔵も三つに折れて倒れていた。「宗円ころり」という話がある。
 梯子坂
 小松谷川

廃小松寺跡(はい・こまつでらあと)
 カルタの句 『 平安の 小松寺縁起に 星田郷 』
 『続群書類従・河内国小松寺縁起』によると、「当初、荒山寺と称した。元明天皇の和銅五年(712)、田原郷の住人宇紀八の子若石丸、宗次郎の子熊王丸、中四郎の子松若丸の三人がこの山に遊び、方五尺の草堂をつくったのが開山の始まりである。」とある。また、「延長三年(925)、小松寺と称する秦の姉子(はたのあねこ)なる人が、亡夫の小松景光供養のために、七間四面の堂一宇を建てた。そのために荒山寺改まって、以後、小松寺と称するにいたる。」「保延五年(1139)の再建にあたっては、近郊農村たる、星田、田原、大坂(逢阪)、甲可(四條畷)等荘官級有力農民が募金、寄進をしている。」出土の瓦は、平安から鎌倉期のものが主であるところから、小松寺は鎌倉期までは盛大をきわめていたと思われる。戦国期には、山城化した小松寺を小松城とよんだそうだ。
 平安期の延長八年(930)に書かれた「小松寺縁起」にはすでに、星田郷と書かれていた。宗旨は真言宗。金堂の本尊は弥勒菩薩。根本草堂には十一面観音を祀っていた。
 小松寺へ登るみちは、菖蒲が滝の方からは、梯子坂の険を越えるのが容易ではなかったので、いずれも地下下(じげげ)の里から登った。
 カルタの句 『 大地震 小松の本尊 谷底へ 』 (「交野郷土史かるた」より)
 妙見川の谷からさかのぼった標高278メートルのところに小松寺があった。奈良時代に大地震で山くずれし、堂が谷底に転落して星田郷の美しい青石で刻んだ石仏は地中に埋もれてしまったといわれている。
 金の鶏 元旦の朝、廃小松寺の峰で金の鶏がなくという。また、入日が太い躑躅(つつじ)にあたるその下に、黄金が隠してあるという。
 埋蔵金の話 京の油商人で大金持ちの長者が、その死の前年、病気療養のため良医をもとめて、京に趣くとき、十個の壷に入れた砂金を、小松寺山内のどこかに密かに埋め、三年を経ても帰らぬときは、この文箱を開封して見るようにといって、一個の文箱を貫主の僧正に預けて去ったが、三年後、長者の死を知った貫主の僧正が、約束によって文箱を開封したところ、「朝日さす夕日はささぬ三本の、榊(さかき)のもとに黄金が十壷」という埋蔵金の在りかを示唆した和歌を書いた紙片が一通入れられていたという話。
星のブランコ
 カルタの句 『 天の川 星のブランコ 夢のつり橋 』
 平成9年(1997)10月府民の森「ほしだ園地」にできる。国内最大級の高さ50m・長さ280mの大つり橋。
 交野が原を流れる天の川は、平安貴族の桃源郷であった。天体になぞった地名が多くあるゆえ、現在も美しい夢が描かれる。この天体に関する地名はどこから来たのであろうか。桓武天皇は、奈良寺院の僧侶の力をきらって都を移そうとした。その大事業の実行は、仏恩ではなく神恩、すなわち星を祭った。中国の影響をうけ、陰陽道の栄えた当時の敬天思想をとり入れた。郊祀壇として交野に星祭の土壇を築いた。そして多くの貴族たちが遊猟が交野が原であった。文字をもつ彼らの詩興が、天体の名称へと交野が原を描いてしまったのであろう。
哮が峰
カルタの句 『 雄大な 天孫降臨 哮が峰 』
 天孫降臨の神話がある。饒速日命(にぎはやひのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の命をうけて、天の磐船に乗って河内哮が峰(たけるがみね)に天降ったという話である。饒速日命は、生駒東方鳥見(とみ)の地方<首長は大和一帯を治めていた豪族・長髄彦(ながすねひこ)>に勢力をのばしていた。その子孫が物部(もののべ)氏で、田原から交野、枚方へ稲作をひろめたという。
 天孫降臨の神話は、『古事記』『日本書紀』。物部氏の始祖伝説は、『先代旧事本紀』(『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の文章を引用し、つづりあわせたもの)。
 天孫とは天照大神の孫。饒速日命と瓊瓊杵命(ににぎのみこと・天皇家の祖・九州の高千穂に降臨)
磐船神社
 カルタの句 『 物語る 磐船神社の たけるの峯 』 カルタ「田原の里」より
 祭神は饒速日命。天の磐船(あめのいわふね)に乗って降臨。岩座信仰(縄文から弥生)

 石碑「登美毘古大神
 登美毘古(とみびこ)は長髄彦で鳥見地方の首長。降臨した饒速日命の妻に妹(登美夜毘売トミヤヒメ)をさしだし臣従する。神武天皇の東征にあたっては戦いに挑む。饒速日命の手によって殺される。饒速日命と登美夜毘売との間にできた子(可美真手ウマシマデ)が、物部氏の祖にあたる。

「元亨利貞」の碑石
 カルタの句 『 三光を 首長に捧げる 石の碑 』
 標高186mの哮が峰。頂上に万治二年(1659)の年号と三光(太陽・月・星)を刻し、首長に供物を捧げる意味を示す石碑がある。碑の刻銘 太陽(奉祭妙見法三年成就必 万治二年大坂釣鋳町) 星(乾元亨利貞 正月七日大行院法元) 月(現世安穏為二世安楽也) 「乾」は「天」。「元亨利貞(げんこうりてい)」とは易経に出てくる、速やかに成就するようにという意味。

岩内道
(がんないどう)
 カルタの句 『 岩内道 断崖のこる 石切り場 』
 哮が峰の東南に岩山があった。全山が花崗岩で、岩山の底部が洞窟になっていた。トンネルのような形になっていて通り抜けることが出来たらしい。昭和の初めごろ、岩内道は、業者によって、石垣用の石材になって、十年ばかりかかって取りつくされてしまった。断崖絶壁となって残っている。その岩場に16.5mのクライミングウォールの人工岩場が作られている。

天野川
 上流は田原で、生駒山系東斜面のしたたり水を集めて、水系を整えている。磐船秘境をつくり、交野、枚方を経て淀川に注いでいる。私市、天田の宮から枚方禁野にかけて、大化の改新後条里制がひかれた。

藤が尾 坊領遺跡
 カルタの句 『 藤が尾の 弥生稲作 ぼうりょう遺跡 』
 学研都市線天野川鉄橋から西200mのところ。遺物は石鏃や土器。弥生中期。

 カルタの句 『 わがほいさ かるた遊びで 村を知る 』

磐船神社

登美毘古大神


元亨利貞の碑石
太陽・星・月
かるた絵札字札