KISS?

 午前4時。
 夜と言ってもほぼ差し支えない暗さの中、時を告げる時計の音にトリスは目を醒ました。
 そしてそのままベットを出て、部屋の外へ。
 ドアの向こうの、ほぼ視界を完全に奪う暗闇に、躊躇する素振りすら見せず一歩を踏み出す。
 そうして廊下に出て、一直線に一つの部屋を目指した。
 目的の部屋はそう遠い位置にはなく、トリスは迷うことなくその部屋の扉の前にたどり着いた。
 トリスは息を殺して、ドア下の隙間から中の様子を窺う。
 扉の前に這いつくばっている様子は、傍からみたら怪しい事この上なく、他人が見たら次の日から後ろ指を差される事間違いなしであったが、彼女はいたって真剣かつ真面目な模様。
 やがて、トリスは安全と判断したのか、あまり良い種類ではない笑みを浮かべながら、そっとドアノブを握る。
 そして音を立てないように細心の注意をはらいながら扉を開いた。
 僅かなきしみ音にもびくりと肩を震わせて、その度におそるおそる部屋の中を覗き込む。
 部屋の中に何の動きもない事を確認してから、再び侵入開始。
 そんな数分の相手のない攻防の後、トリスはとうとう部屋の床を踏んだ。
 足音を殺して、ベッドに近付く。
 規則正しく動く毛布の膨らみに、もはや声を隠し切れず、小さく肩を揺らしてくすくすと小さく笑い声を上げながらベッドを覗き込んだ。
 そして不機嫌を通り越して冷気さえ放つ黒色の瞳と真正面から目が合った。

「……で?」
「な、何?」
「疑問で返すな。こちらが何の用かと聞いている」
 目が合うと同時、「そこに座れ」と言われるよりも前に、トリスは普段はまず見ないであろう、彼の凄みさえ感じさせる剣幕に、驚きのあまり半ば腰を抜かして床の上に座り込んでしまった。
 彼はトリスを視認して、瞳から冷気を抜いたものの怒っている事には変わりはなく。
 不機嫌そうな表情で腕を組み、ベッドの上から小さくなっているトリスを見下ろしていた。
「えーと、それはちょっと……あははははは」
 その眼差しに、トリスは引きつらないように努力しながらもごまかし笑いを浮かべた。
 それは、曖昧にこの場を乗り切ろうとする意思の表れでもある。
(カタブツ眼鏡のネスだもの。本当のことを言ったらどうなるか分からないもんね……)
 そんなことを思いながら、頭の中でもし本当のことを言ったらどうなるか、軽く予想してみる。
 背中を冷たい汗が流れていった。
 ネスティは彼女が口を割らないでいる気でいるのを察したのか、深くため息を吐いた。
「……僕は常々君に言っているはずだ。入るのならノックをしてから入れ。夜中に部屋を出るな。人の寝込みを襲うような真似はするな、と。それぞれ君に言うのは何回目だと思っている」
「え、え〜と、三回……かな?」
 説教モードにはいった兄弟子に、もはや引きつり笑いで答えるトリス。
 しかしネスティは容赦しない。
「通算5回目だ。単独でいくならノックが28回、夜中に部屋を出るなと言うのが8回、人の寝込みを襲うような真似をするなというのが5回」
 眼鏡を押し上げようとして、ネスティは自分が眼鏡をかけていないのに気がついた。
 すこし鼻をならし、尚も彼は続ける。
「1回目ならただの注意ですまされる。2回目ならうっかりだったともいえるだろう。だが28や8回というのはひどいんじゃないか? だから君は粗忽者なんだ。そもそも、君はきちんと人の話を聞いて学習しているのか?」
「聞いてはいるわよ!……身についてはいないけど」
 思わず反論したことばも、最後の方は口ごもりで消えてしまう。
 ネスティは疲れたように顔に手を当て、上を仰ぎ見た。
「……それを学習していないと言うんだ……」
 声の中の隠しようもない疲れと呆れに、トリスは少し、眉を下げた。
「……ごめんなさい」
「謝るくらいなら最初からするな……もういい、続きは明日にする。部屋に帰って寝ろ」
 そう言うと彼はベッドから降りて、トリスを立ち上がらせた。
 トリスはそれに大人しく従ったが、ドアの方に体を向かせられようとして、慌ててネスティの方を振り返った。
「ちょ、ちょっと待ってネス」
「何だ」
「本当に今度から夜中にネスの部屋、来ないから……仲直り、 しよ」
 彼女の言葉に、ネスティは眉を上げる。
「仲直りも何も……君が叱られるような事をしただけで、仲違いはしていないだろう」
「でも、ネス怒ったじゃない。だから仲直り。ね?」
「…………」
 どんなに言っても『仲直り』をするまではトリスは聞きはしないだろう。
 ネスティは深く嘆息した。
「わかった」
 彼の諦め半分の言葉に、彼女はぱっと顔を輝かせた。
 現金と言えば現金な変化に、思わず苦笑が漏れてしまう。
 けれどそんな彼女を可愛く思う自分が頭のどこかにいて。
 結果的に些細な事ならトリスの主張を認めてしまうのは、そのせいなのだろう。と彼は思った。
「じゃ、ちょっとそこに座って」
 そう言ってトリスは彼の手を引っ張って、ベッドの上に座らせた。
 座った分だけネスティの目線は低くなり、図らずとも真正面に来たトリスを彼が見上げると言う構図が出来上がる。
「いいって言うまで、目をつぶっててね」
 彼女の言葉にネスティは素直に従った。
 普段とは逆転した立場に、くすぐったいものを覚えてトリスは猫のような笑みを浮かべる。
 そしてネスティの顔に手を添えて、彼の顔にかかる長い前髪を払ってやった。
 露わになった額にそっと顔を近づけて口づけ。
 ちゅ、と音を立てて吸いあげた。
「!!」
 何をされているか悟り、頬を真っ赤にしてネスティは素早く目を開けた。
「トリス!!」
 音量は下げられているものの、部屋の中になら十分響く声で彼は怒鳴った。
 しかし、彼女は彼が目を開くと同時にぱっと彼から離れ、ドアの方へと走り出していた。
 そして本当に、あっという間にドアは開いて閉まり、トリスの姿は部屋から消えた。

 やってやった。
 廊下を軽い足取りで歩きながら、トリスはそう思ってくすくす笑った。
 興奮からかそれとも別の何かからか、ほのかに頬が赤い。
「ネスがあそこまで取り乱すなんて見ものだったわね」
 しばらくはあれだけで彼をからかえそうだと、彼女は笑いながら考えた。
「すこしごたついたけど、イタズラ成功♪」
 それから、ふと笑い声を消し、しかし笑みを唇に乗せたまま彼女は呟いた。
「でも、あたしがあーいう事したのの意味は考えないんだろーな。あのカタブツメガネ」

 朝。
 ネスティの目覚めは最悪だった。
 明け方近くという妙な時間に起こされたせいで、あまり寝起きは良くなかった。
「全く。どこであんな事を覚えてきたんだ。あの考え無しは……」
 まだくっつきあおうとする瞼をこすりこすり、彼は悪態をつく。
 この後で太平楽に惰眠を貪っているであろうその犯人を起こしにいくであろう事を思うと、そう言わずにはいられなかったのだ。
 ぶつぶつ言いながら、寝ぼけた顔で外を出歩くわけにも行かないだろうと、彼は洗面所に立った。
 冷たい水で顔を洗うと、大分目がしゃっきりした。
 タオルで顔を拭いていて、ふと鏡の中の自分と目が合う。
「……?」
 普段は気にもかけない自分の姿に、彼はふと違和感を感じ、顔を拭く手を止めてまじまじと自分の姿を見た。
 鏡の中の自分と目を合わせて、数秒。彼の頬にさっと赤みが差した。
 荒々しい足取りで鏡に向かい、額を隠す前髪をさっと掻きあげた。
「……あの、バカは……!」
 彼の白い額のど真ん中。
 そこには、昨日の彼女の口付けた印が、紅く、生々しく残っていたのであった。


バカ一直線ですね。はい。大体、兄12.3歳。トリス11歳位の話だと想定しています。
トリスはキスするのは好意の表れだと理解していますが、自分のしでかした事の重大さ(重大かー?)には気がついていないと言う方向で。
兄はご想像にお任せします。しかし音を立てて吸うのって、すこしえっちっぽいですよね。(死)
直接な繋がりはないものですが、護衛獣EDのルートで続きを書こうと画策しています。
兄弟子のリベンジ、なるでしょうか(十中八九、ならない気が……)