福祉文化会館 2003


 

中学で難聴学級を担任する先生の投書
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中学で難聴学級を担任する先生の投書


第一部

鞄の中にいつも入れておいた一折の新聞紙。
だんだんに擦り切れ、読めなくなりそうなので、
ここに書き留めておきます。


2002年9月8日の朝日新聞投書欄「声」のトップに、
「「難聴学級」が高校にほしい」と題して中学の教員が書かれています。


著者は、公立中学で難聴学級の担任をしており、
表題は三者懇談のときに必ず出る言葉との事。


この先生が、聞こえない子どもたちを次のように紹介しています。
「一見、ごく普通に楽しくやっているように見えても、
聞こえにくさからくる緊張や不安は計り知れないものがあります」
「難聴学級は…素顔の自分に戻れる唯一の場所。
張りつめていた神経のひもを解き、ほっと一息ついて元気になる
心のオアシスでもあるのです」
その難聴学級がない高校へ巣立った、かっての教え子たちを思うと、
次のように書かざるをえない。
「公立や私立の高校で、神経の休まる間もなく孤軍奮闘している卒業生を思うと、
胸がはりさけそうになります」
「県内に一つでいい、公立高校に難聴学級があればどんなにうれしいでしょう」


無我夢中で過ごし、文字通り怒涛疾風の時代でもあった、
自分の高校時代を振り返って、大いに頷けます。


難聴学級は、聞こえを少しでも保障する施設・制度ですが、
実際はそれに止まらず、心のオアシスにもなっている事、
もっと知られていいと思う。


聞こえるだけ、難聴者はろう者より健聴生と共に多くの時間を過ごし、
コミュニケーションに苦労している。
聞くための多大な緊張を伴いながら。


難聴は、すべての音域で聴力が等しく落ちるのではなく、偏りを伴う場合がある。
高い音ばかりがよく聞こえて、低い音があまり聞こえない人もいれば、
その反対の人もいる。
又、耳の中で難聴の原因となっている部分が違うと、聞こえる音も変わってくる。
耳鳴りなどの雑音に悩まされながら、聞いている人もいる。


補聴器は、だんだんに性能を上げてはいるけれど、
基本的に入ってくる音を増幅して出力する機械で、
聞こえてくる全ての音の中から聞きたい音を選り分けているのではないのです。
聞きたくない音の方が大きく、聞きたい音が小さくて聞き取れない事がよくあります。


だから、人の話を聞いていて、聞こえたり聞こえなかったりする。
これが、双方の誤解を生み易い。
聞くことに疲れる…。


難聴学級はそういう聞こえの不具合をお互いに理解しあい、
受け入れている者同士が集うのですから、
聞こえに伴う緊張から開放されるわけです。

第二部

上記の投書から、ほぼ一年後の2003年8月30日(土)に、
同じ方の投書が、掲載されていました。


今回のタイトルは、「手話の学習の制度化を望む」です。


研究会の発表を機に、
卒業生にアンケートを取ってみると、
「どの子も卒業後に手話と出あい世界を広げていた」。


この先生は、難聴学級で口話法のみをやっておられたとの事。
これについて深く顧みなかったことを悔やまれております。


聴覚障害者への教育史上で、手話と口話とがどのように扱われていたかについて、
様々な文献がありますが、
手早く理解するには、山本おさむさんの「我が指のオーケストラ」がいいでしょう。


それはともかく、卒業生の多くは、卒業後、他の多くの聴覚障害者と出あい、手話と出会った。
手話でコミュニケーションが取れれば、聞くことの緊張から開放されます。
私が想像するに、この先生が担当されていた生徒には、高度難聴者が多いのではないでしょうか?
(ちなみに私は中等度難聴者です)


難聴といっても実に多くのケースがあり、一概に扱えないし、
それぞれの聞こえにきめ細かく応じた対応がなかなか出来にくいものです。


自分の受けた教育や難聴児への教育について考える時、
子どもの日々の学習が、聞き取りの訓練になってはいないかと、気にかかります。
子どもたちは、聞き取りの訓練に学校へ通うのではなく、
学ぶために通っているのですから。


聞こえの保障は、言葉では一言ですみますが、
実際には、ケースバイケースで、細かな配慮が必要になってきます。
トータル・コミュニケーションが考えられる由縁です。


その一つである、手話のできる教師を増やす事、
また、学校で手話を学習させて欲しい事へと、
文章は進みます。


私の娘は、健聴ですが、
幼稚園でも、小学校でも、教育の一環として、手話を習った事があります。
ホンのちょっとだけでしたが、もう一歩進めても構わないと思う。
指文字と簡単な日常会話とが出来れば、大きな一歩でしょう。


手話の研究をしている一人が、手話の公用語化を求めていました。
又、聞こえる人も、
遠くの人とのコミュニケーションや騒音が大きいところでのコミュニケーションでも、
役立てます。
そして、とっさの時、相手が聴覚障害者であれば、後悔しなくてすむ。


それになにより、大きいのは聴覚障害者がいるということを忘れない事。
車を運転していても、前を歩く人が聞こえないかもしれない。
エレベーターを設置する時、聞こえない人が中に閉じ込められた事を考えてくれるかもしれない。


手話が知られる事で、平等な社会の実現に近づく、と投書の筆者は末尾近くに書いておられます。
もう一歩踏み込んで、私はこう書きます。


手話が知られる事で、
聴覚障害者の人権がより守られる。


2003.10.5 記