9/28



源氏物語試論1


御堂流と村上源氏  

実際の藤原道長一族と賜姓源氏の関係はどうだったのかを見てみようと思います 。  
「藤原頼道の時代―摂関政治から院政へ」(平凡社、坂本賞三)から資料を採っ ています。  

光源氏のモデルとも言われ、藤原氏によって失脚させられた源高明は、道長の第2夫人とも言うべき源明子の父です。さらに大事なのは、村上源氏と御堂流の関係です。道長の嫡子頼道の正妻隆姫は、村上天皇の皇孫に当ります。道長は、為平親王系の村上源氏と、頼道の間にも姻戚関係を作っています。隆姫は、弟の源師房(万寿宮、資定王)を伴って、頼道に降嫁しました。師房は、藤原家の人々に大変可愛がられたと「栄華物語巻十二」にあります。しかし隆姫は子供が産めない性質だったらしく、しかも皇孫なので、ある時期まで頼道が側室を作るのを遠慮したらしく、頼道にはなかなか子供が出来ませんでした。  


これを憂えた道長は、源師房を頼道の養子にします。頼道の弟教通の長男である信家も養子にされました。道長がその決断を下したのは治安3年(1023)、源明子の女児、隆子を師房に嫁がせた時と考えられます。道長は師房を頼道の後継者にするつもりでした。その後藤原道長が師房を重視したのは、師房は4年間昇進がなったのに、隆子との結婚の半年後に従四位下から従三位に3日間で昇進していることからもわかります。  


道長は、御堂流の家格を賜姓源氏と同等に上げる計画を持っていたらしく、その一環としての師房の養子だったのでしょう。異姓養子は平安時代の貴族では異例のことでした。これ以後数代は、師房の子孫は御堂流と同等に扱われます。白河院政や鳥羽院政で重用された源氏は師房の子孫です。ところが万寿2年正月(1025)頼道に待望の男児通房が産まれます。このことによ って、源師房は御堂流の後継者の次席にされます。かくて道長と頼道の期待は通房に集中し、長暦元年(1037)13歳で十三位、長久3年(1042)18歳で権大納言に任ぜられ(正二位)、35歳で正二位権大納言であった源師房と官位で並びます。しかし、師房が次席であった証拠に、頼道はその後祇子との間に5人男児を産みますが、そ のうち4人は養子に出たり僧籍にいれられりさせられて、御堂流から除かれています 。これは師房に遠慮してのことです。  


しかし通房は長久3年8(1044)に18歳で死亡し、頼道と祇子との間の第6子師実が新たな後継者とされました。師実の子孫が以後は御堂流の頭領となります。このように、道長は村上源氏を始めとする賜姓源氏と深く姻戚関係を結び、他の藤原氏と御堂流との差別化を図りました。これは成功し、頼道以後外祖父である無 しに関わらず、摂政関白の地位は御堂流で独占されます。