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グローバルスタンダード


ここ数年巷ではI.S.Oに代表されるグローバルスタンダード(=世界標準)の事が話題になっています。これは一体どのようなものなのでしょうか。


単に度量衡の単位等の統一ばかりではなく、基本となる価値基準の統一を目指したもののような気がしています。(ヘクトパスカルやニュートンへの変更は最近のこと)


世界中で大ヒットしたスピルバーグ監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年作)で主役の男の子がRV車を見て興奮しているシーンがありましたが、当時日本ではまだRV車は一般的ではありませんでした。日本でもヒットするのは1990年に入ってからだと思います。15年くらい前にアメリカでは銀行等金融機関の倒産がニュースで話題になっていました。その時「一体どうなっているのか」と思ったものですが、10年後に日本でも同様のことが起こりました。
古くはウーマンリブに始まり、離婚率の上昇まで日本の社会現象とはアメリカの後ろを追ってきています。


すでに現代の私たちはアメリカ基準(西欧型価値基準)にどっぷりと浸かっていると言えます。


例えば暦ですが、これなど浸透しすぎて「キリスト教歴」である事を忘れているだけのことだと思います。言葉は完全に英語(米語)がグローバルスタンダードとして成立しています。(何しろ中国では英語学習者が1億人もいるという事です、白髪三千丈の国ですから割り引く必要はあり) これは英米人に生まれたというだけで有利であることの証明です。


確かに世界各国が独自の単位に固執しているのでは、不便なことが数多くあるのは事実でしょう。ですから基準を統一するということは実際便利なものだと思います。そうした観点から言えば建設的なことだとは思います。世界中で使われる言葉は違っていてもこの単位さえ知っていれば実体を理解することができるからです。


しかしここで問題が発生すると思うのです。一体どこを(何を)基準と定めたらいいのかその根拠がはっきりしないからです。


現実には私たちの日常生活のほとんどが欧米の基準が適用になっています。この事は挑戦的な表現をすれば、キリスト教的支配下におかれた存在と言い換えることもできると思います。堅いことは抜きにしてもどこまで欧米価値基準を日本人が受け入れ続けるのか、またそれが私たちの生活の中に浸透していくのかという問題は現在進行形として続いています。これからも私たちにも関わってくることです。


このような現実の状態を変更させることは、SF小説のように歴史をさかのぼるでもしない限り無理なことですから仕方のないことかもしれません。


誰でも自分の慣れ親しんだ方法を変えるのは反発があります。


いずれにしても世界標準とは欧米標準ということと同義語であり、その基本にはキリスト教があることをしっかりと認識すべきではないでしょうか。


欧米人と生活様式等のうわべだけが似ていても、その基本となる考え方を理解していないと「似ているが故に」新たな軋轢が生じる可能性があるのではないかと思います。(決してキリスト教になれということではありません、念のため)


日本人としてのアイデンテティーをしっかりと確立させなければ、相手(外国人)にとって見れば軽蔑の対象としてしか写らないはずです。そのためには日本の歴史をしっかりと教えることが必要なのではないでしょうか。


その時、自虐的歴史観の強要は子供にとっては決してプラスにはならないことだけは確かです。こうした歴史観を子供に対する教育の現場で行おうとする人達がいるとすれば、この人達は精神的に壊れている人達だと断言することが出来ると思います。また、朝日新聞等のマスコミにおいては「教育現場」とは無縁ですから、無責任な空論に陥っているというのが現実だと思います。(皇国史観を進めているわけでもありません)


これからますます英語の影響が大きくなることが予想されますが(インターネット等)、その時単に言葉だけではなく、欧米人の価値基準の根元のキリスト教を理解することと、一方で日本人としてのアイデンティをしっかりと持つ事が、グローバルスタンダードという世界均一化の波の中で必要とされるのではないかと思います。