2001/9/6
9/7推敲



信長の神髄 番外編 可能性の中の歴史


実際に起こった歴史的事実や歴史の流れが常に必然であるかのように歴史の結末を知っている私たちは思いがちです。でも現実に起こった歴史は果たして本当に「必然の結果」として現れているものばかりなのでしょうか??私は現実の歴史以上に起こり得た可能性の高い(と思われる)歴史の流れについて思いを描く事がよくあります。それは「もう一つの歴史」の方が現実に起こった歴史の流れよりも本来あるべき必然の姿であるように感じられる場合があるからなのです。「本当の歴史」に相応しい「もう一つの歴史」は必ず可能性として存在しているように感じられるのです。


本当ならば間違いなく起こったはずの「必然に最も近い歴史」の流れが現実のものとはならずに別の世界にある場合も多いように思うのです。可能性を一番強く持っていたと考えられる「事象」を歴史の分岐点で数多く発見する事が出来ると思います。現代に繋がる実際に起きた過去の流れは唯一無二のものであり盤石のものなのでしょうか??私はそうとは言い切れないような気がしています。また現実に起こった過去の歴史の流れの分岐点において別の可能性を考える事は発想の柔軟さを大いに育ててくれるように思っています。


私は歴史の流れ次第では「現在」とは全く違う「現在」が出現していた可能性もまた大きいのではないかと思っています。それに現実には起こらなかった可能性について色々と考えててみるのはとても楽しい事です。現実の歴史とは個々の偶然の積み上げの結果として現在に至っていると言われています。私もこのような考えに賛成の立場を採っています。でも、やはり歴史の流れとは何処かに大きな分岐点があったように思われるのです。つまりこれは歴史IFの話題です。


16世紀における日本の社会状況とは「日本版100年戦争」であったと言えるのかも知れません。この何世代にもわたる混乱の時代も織田信長という巨人によってようやく収拾されかかっていました。信長が「本能寺の変」で殺される直前にはかなり多くの人達がこのような予感(=信長による統一)を抱いていたのではないでしょうか??「本能寺の変」直前における全国の戦国大名達の勢力図から予想すれば、信長がこのまま日本を統一して天下の覇者として君臨する可能性を否が応でも感じ取っていたように思っています。勿論このように判断するのは情報を十分に収集する事が出来る人物に限られていたのかも知れません。しかし、例えば関東では鬼義重といわれた佐竹19代当主は早い時期に信長に近づいています。この理由としては北条氏に席巻されかかっていた当時の関東情勢から政治的に判断された部分が大きいと思っています。


当時の日本において信長の支配地域の大きさは他のライバル達と比べて遙かに圧倒していました。この事実から推測すれば「光秀の乱」の直前では信長による天下統一以外の未来図などは想像がつかなかったのではないかと思えるのです。ほとんどの人がこのまま信長の天下が来るだろうと思った程のパワーだったと思います。いずれにしても私は信長があのまま「天下布武」を成し遂げて織田政権を確立する歴史こそが無数の選択枝の中で最も可能性の高かった流れであったように思っています。この根拠としては現実の歴史の流れが大きな参考になっています。つまり信長麾下の一武将に過ぎなかった秀吉ですら天下を統一して天下人になる事が出来たのです。この歴史的事実は彼の主人である信長にとってはさらに容易に天下統一をする事が可能であったという結論を導き出すのに十分な状況証拠であると思うのです。


もし秀吉が信長と同じ程度の能力を有していたと仮定しても彼の置かれていた条件は信長と比べれば遙かに劣悪なものだったのは明白です。この理由とは秀吉が信長のように部下を持っていなかったからです。秀吉が自分の元同僚達を動かすには表技や裏技を酷使しなければなりませんでした。ちなみに秀吉は信長の極めて優秀な生徒ではありましたが、それでもその能力値は信長の3割程度だと考えています。つまり全ての面で信長よりも遙かに劣る秀吉に全国統一が出来たのです。これは信長があのまま統一を成し遂げる可能性がいかに高いものであったかを雄弁に語っていると思っています。信長による全国統一の可能性は最低でも100%であるという事と同じなのです。


信長によって全国が統一された場合の形態とはどのようなものになったのでしょうか??当然の事ながら織田家が絶対的なパワーを有したものになる事は間違いがありません。また信長の後継者である信忠は人並み以上の器量を持った武将だったと見られていますから、徳川家における秀忠以上の2代目には成り得たように思われます。そして秀吉は信長の構想どおりに「筑前守」として、光秀の場合は「日向守」として一国を与えられていたのではないでしょうか。彼らは織田政権の重鎮の家系として成り立っていったように思っています。徳川幕府で例えれば老中を出した家系の筆頭のようなものだろうと思っています。あるいは「パックス・オダ」における有力貴族としての地位を占めるようになったのかも知れません。


それにしても残念なのは光秀の「乱心」による「本能寺のクーデター」です。光秀は40歳を過ぎてから織田家に仕官したにも拘わらず同家において最大の出世を果たしています。このように最大の出世頭である光秀の起こした「本能寺の変」の真相は相変わらず藪の中です。彼の行動があまりに不自然であるが故に、この理由に対する回答例は将来にわたっても諸説が現れると思っています。私は少なくとも光秀が土岐源氏ではなかったのは明らかだと言いたいと思っています。大日本史において光秀は美濃出身ではあるが明智氏の一族であるかどうかよく分からないと記されているのです。ちなみに大日本史の記述が信頼できるものであるのは以前に書いた通りです。(大日本史編参照のこと)


織田家中において最大の出世を遂げた実績から判断しても光秀ほど信長に評価された人物はいないのです。それにも拘わらず信長を裏切った光秀の行動に対してどうしても合理的な説明がつかないからこそ多くの説があるのだろうと思っています。


信長による天下統一の結果として織田家が日本一の家系になるであろう事は明らかだと思います。それでは天皇家に対する関係についてはどうなったのでしょうか??実はここでもIFが起きる程の様々な可能性を秘めているように思っています。信長は「鳴かぬなら殺してしまえ」といったイメージが強くあります。しかしこのイメージとは江戸時代に悪意を込めて敢えて作られた真実の姿からはかけ離れた姿だと感じています。実際の信長はとても我慢強く慎重な性格の持ち主であり目的外の行動はしなかったのではないかと思っているからです。信長をイメージさせるスピードとは決断を下した後にあります。


もし天皇家が信長の前に立ち塞がる事態が出現するのであれば「天下布武」の名の下に足利家のように対処した可能性を捨て去ることは出来ないように思っています。この場合は天皇家も足利家と同様の運命を辿った可能性があると思います。しかし一方信長は辛抱強く物事に当たる性格の持ち主でもありますので、このような可能性は1割以下のように思われるのです。しかし、信長が公家集団に「価値」を見い出したかどうかは疑問です。彼らに対してはひょっとしたら追放劇のような事が行われたかも知れません。


統一後には無用の長物となった肥大化した軍事力の処置の方法として秀吉は「明国征服」を考え出しました。私は信長の場合は関心が「南蛮」へ向いていた事などから判断して南方へと航路を取った可能性の方が強いように思っています。この結果としてあるいは織田政権下における軍船とイギリスのキャプテン・ドレイクとの間に「ニュージーランド沖海戦」が行われていたかも知れないと思っています。織田家による天下を考える場合にはあまりにも未確定要素が多いためにかなりトンデモ気味になりそうです。しかし、織田政権の場合は「三河者」が政権の中枢にいた徳川幕府とは決定的に違っていたのは間違いがないと思えるのです。少なくとも鎖国政策は採用しなかったであろうと思っています。もしそうであれば「島国根性」と呼ばれる私達の日本人気質は大きく変わっていたものになっていたことでしょう。


一代の英雄である秀吉はまるで魔法のように信長の後継者としての座に収まりました。実際の歴史では秀吉が全国統一を成し遂げて「でんか」として日本に君臨する事になりました。信長亡き後の秀吉の行動を見れば、彼がいかに信長だけを尊敬し、信長だけに忠誠を誓い、そして恐れていたのかはあまりにも明らかだと思います。例えば柴田勝家と組んだ三男「信孝」の場合を見ればよく分かります。秀吉は信長の妻の一人であった「坂氏の娘」と「信孝の子ども」をあっさりと殺しています。これは信長が死んでから僅か1年も経っていない時点で行われました。1年前までは「絶対者」の妻とその孫に対してこのような行為が出来る状況になろうとは秀吉自身も予想もしていなかったのではないでしょうか。この行動からは秀吉がいかに装おうとしても「乗っ取り屋」の本性が現れていると思っています。言葉を変えれば秀吉がいかに「残酷」だったかという証明になるのではないかと思います。


さて秀吉マジックによって全国は統一されました。例え「張りぼて」のようなものであっても一端出来上がってしまった全国規模の組織とはよほどのアクシデントがない限り容易に崩壊する事などあり得ません。秀吉の前に屈した家康にとってはこの全国組織を崩壊させて自分が次の天下人になるという意思もアイディアもなかったものと思っています。恐らくは「関ヶ原の戦い」の時点においても家康は「執権」まではイメージする事が出来たにせよ「将軍」までのシナリオを描いていたとはとても思われません。家康は豊臣家を滅ぼしてから神として祭られましたが、あくまで生身の人間には将来を見渡す事など出来よう筈がないからです。秀吉が死んだ時の豊臣政権の正統な後継者は幼な過ぎるために大黒柱の役目を果たせませんでした。このために豊臣家の崩壊現象が起こったのです。これによって家康が天下人となり徳川幕府を開く歴史へと道が変わりました。


秀吉が死に前田利家も死んで、そしてライバルは誰もいなくなった、というのは単なる偶然の結果に過ぎません。さらに天下人秀吉の後継者はまだ幼すぎました。幼子を利用して主家を乗っ取るという手法は既に秀吉自身が鮮やかに演じていました。この絶大な効果についての記憶は誰もが強く持っていた筈です。今度は立場が180度変わって豊臣家が「子羊」の立場になったのです。秀吉の役を今度は一体誰がするのだろうか、という話題に対して興味が集中したと思われるのです。


秀吉は見事に織田家を乗っ取って天下人「豊臣氏」になりました。しかし、織田家を支える重役としての立場を選ぶ道もあったように思うのです。もし織田家の正統な後継者である三法師(=織田秀信)の後見人として仕えたとしても、秀吉は天下の「執権」として全権を掌握する事が出来たはずなのです。もしそうであれば秀頼は羽柴家を無事に継ぐことが出来たはずだと思います。秀吉がこのような「前例」を作っていれば家康もそれに従い「執権」以外の選択枝を選びようがなかったと思えるのです。勿論「前例」ばかりではなく信長の直系の孫が相手では家康も執権の座を狙うしか道はなかったのではないでしょうか。