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推測・壬申の乱..最初の関ヶ原の戦い



壬申の乱は西暦672年にあった戦い(大乱)です。天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の息子の大友皇子が皇位を巡って戦い、叔父の大海人皇子が勝者となり即位して天武天皇となったというのが通説です。しかし、実際はよく分かっていないのが本当のところだと思います。そしてこれは日本史における天皇家万世一系に対する大きな疑問点の一つにもなっています。


歴史は繰り返すものなのでしょうか。この問いに対する答えは「イエス」であり「ノー」でもあります。完全な繰り返しは物理の実験でもない限りあり得ないことです。この事は誰でも知っています。しかし、人間は何千年経っても同じ人間だという面もあります。嬉しければ喜び悲しければ嘆くといった人間の本質は変わるものではないと思います。


人間の本性には強欲で怠惰、小心者で無鉄砲、自らの行為を正義と信じやすく、他人の評判を気にしすぎるといった点が挙げられると思います。付け加えるならば嫉妬深く、有利な方へ加わりたいにもかかわらず、義に憧れるといったところでしょうか。このような人間が持っている矛盾した性質はいつの時代も変化がないものだと思われます。以上のような理由からみても「同じような事象」は何度も繰り返されたものと考えてもいいのではないでしょうか。


壬申の乱についてよく分からないのであれば、それ以降の歴史の中で似たような事例を探し出して検証した方が分かりやすい(イメージを得やすい)のではないかと思います。権力闘争の形は色々とパターンがありますが、出雲の国譲り、大化改新、壬申の乱の三つが基本形として考えられると思います。後世における戦い、事件は全てそのバリエーション(部分的に)であると言ってもいいように思われます。


国譲りの物語とは新勢力が旧勢力を駆逐するということです。大化改新とはクーデターそのものであり、壬申の乱とは国を二分した戦いのことを意味します。


本能寺の変を経て朝鮮出兵から関ヶ原の戦いへと続く16世紀の歴史の流れは、大化改新から白村江の戦い、壬申の乱へと続くそれに驚くほど似た軌跡をたどっていると思います。どうして950年の時間を経て同じような出来事が起こり得たのでしょうか。


それは日本国土という地理的範囲の中で分裂状態から統一へ向かうという点で全く同じものだったからだと思います。同じようなシチュエーションであれば同じような出来事が起こっても不思議ではありません。


軍隊が強いとはどういうことでしょうか。その理由の一つに実戦経験があるといった点が挙げられると思います。朝鮮出兵時点の日本軍は実践に継ぐ実践を重ねてきたと言っても過言ではありませんでした。この時点の日本の軍隊はおそらく世界最強だったと思います。


白村江の戦いで敗れた日本は本当に唐・朝鮮連合軍の日本侵略の可能性に怯えていたのでしょうか。この点については上記の理由から見ても疑問があります。唐と新羅は日本の勢力を駆逐すると今度は戦い始めました。この事は当然日本としては知っていたことです。そうであれば水城築城や防人の意味合いが全く違ってくるのではないかと思うのです。


唐、新羅は自らの勢力を拡大するために今度は日本を仲間に引き入れようと画策したはずです。そうした状況から見ても水城並びに防人の軍隊は、唐、新羅に対するデモンストレーションだったように思えます。何故ならば侵略される可能性があるときに壬申の乱のような国を二分する戦いが起こるはずがないからです。幕末においては日本国土が欧米列強に侵略される可能性が高かったため戦いは行われませんでした。


「関ヶ原の戦い」に至る16世紀の歴史は日本史の中で特に「戦国時代」と呼ばれています。この時代は日本史の中でも極めて強力な輝きを私たちに与えてくれています。それは人間の持つ可能性が生かされた時代だったからだと思います。その時代の終焉が「関ヶ原の戦い」だったのです。


秀吉(=天智)、家康(=天武)は旭姫によって兄弟同士でした。しかし誰も彼らが兄弟だとは認めていません。天智、天武の関係も同じようなものだったのではないでしょうか。(関ヶ原より950年前の常識においてですが)


壬申の乱と関ヶ原の戦いという二つの日本歴史上に残る天下取りの戦いが同じ場所において戦われたのは正に歴史の偶然です。しかし、家康が桃配山を本陣としたのは自身を天武天皇になぞらえたように思います。


足利将軍家という「大国主」は織田信長という「大和」に国譲りを迫られました。二度目の大化改新は「本能寺の変」と呼ばれ再びクーデターが成功しました。そうであれば一度目の大化改新にも「天王山の戦い」や「賤ヶ岳の戦」はあったと考えた方が自然だと思います。