2000/9/24



諸葛孔明とその時代


三千年以上を誇る中国の長い歴史の中で私たちに最も親しみがある人物達といえば一体誰を思い浮かべるでしょうか??おそらく三国志の時代にそのほとんどを輩出していると言っても過言ではないかも知れません。劉備玄徳、関羽、張飛などの豪傑が滅亡しつつある漢王室再興のために巨大な敵である魏の曹操や呉の孫権と全身全霊をかけて戦う姿を描いた物語は広く人口に膾炙している様に感じられています。そして綺羅星のごとく現れる英雄達の中でも最高の輝きを誇っている人物と言えば諸葛孔明に他ならないと言われているのです。


中国大陸の大半を支配した大国である魏を築いた曹操が三国志における前半の主役であるとすれば後半の主役とは諸葛孔明その人なのです。また南方の地からは呉の孫権が脇役として物語りに加わっています。超人的な強さを誇ったと言われている関羽に引導を渡したのは呂蒙という人物ですが彼が残した「呉下の阿蒙に非ず」や「刮目」などの名言は蛇足ながら私の好きな言葉の一つでもあります。 中国江南地方である呉の地域と日本とは歴史的に予想以上に深い繋がりがあると見られています。高級和服の代名詞である呉服などは正にその代表格なのかも知れません。また漢字においても呉地方の発音である呉韻も私たちが使う日本語の中に入っています。


後漢滅亡から魏・呉・蜀が鼎立した三国時代についての中国正史とは西晋の陳寿が著した「三国志」です。この三国志を元にしながら様々に流布していた伝説を集めて集大成したのが一般的に言われている「三国志」にあたります。ちなみにこれは元の時代の末頃??に出来上がったと見られています。


陳寿という名前については中国の正史である「三国志」の作者というよりも私たち日本人にとっては「魏志倭人伝」を書いた人物としての方が日本古代史愛好家(笑)の間では有名かも知れません??^^ちなみに「魏志倭人伝」は余りにも簡潔すぎる表現のため??1700年以上たった現在でも私たちを「古代史の謎」へと誘ってくれています。


陳寿は233年に蜀で生まれています。五丈原で諸葛孔明が亡くなったのは234年ですからこの時点で一歳だったわけです。つまり孔明よりも約半世紀後の人物と言うことになります。蜀が滅んだのが263年、その2年後には魏も司馬一族に乗っ取られて晋が建国されています。陳寿とは30歳で国が滅んだ事を体験している人物なのです。 このような経歴を持った人物ですから蜀に対してはかなり特別な感情を持っていたとしても不思議ではありません。勿論、正史の内容について事実を捏造などしていないのは十分に信じられると思っています。またこの人の編纂の態度は慎重であるとの評価を受けています。


いかし、孔明の最大のライバルだった司馬懿とは晋の高祖宣帝なのです。晋の官僚であった陳寿が自分の属する組織の最高権威者と戦った相手である諸葛亮について手放しで褒め称えることが果たして出来たのであろうかと素朴な疑問を持っています。「死せる孔明生ける仲達を走らす」という有名な言葉についても陳寿は敢えてこれは農民が言ったものであると断り書きを付けているくらいなのです。もっともこれの真相については仲達一流の考えがあったと見る人もいます。後漢王朝の正統継承者とは魏であるとされています。何故ならば魏を受け継いで中国の統一を成し遂げたのが晋だったからです。つまりそのようなポジションにあった人物が正史を書いたという事実を忘れてはならないと思っています。


一方、民間には孔明びいき(=判官びいき)の様なものが存在していたのではないかと見られています。それは孔明という人物が「清廉でも三代」とまで言われている汚職に満ちた中国社会の実体から見ると極めて例外的な特筆すべき存在だったからなのかも知れません。


どのような英雄にしても彼らが下部構造である社会状況の影響下にあるのは間違いのないところです。後漢末の頃の中国社会の様子をみると全国各地の豪族の自立が大きくなった時代であることが分かります。つまり後漢末とは地方の豪族が大土地所有者となりつつあった時代でもあるのです。 後漢末の大地主は公役の負担に耐えかねて本籍を離れて流浪する貧農などを賓客や佃客と呼んで田地を耕作させたのでした。そしてこれらの農民の中から私兵を組織したのです。彼らは部曲と呼ばれています。このように大地主の下には佃客、部曲などの封建的な従属関係を持って結ばれた農民が集まっていました。


彼らは混乱を避けるために大小の塢壁、堡塁、邸閣などと呼ばれる砦を築いて自衛していたのです。大地主=豪族とこれらの臣従者とは経済的関係(視点も)からだけでは捉える事は出来ません。これは単なる地主と農奴の関係ではなかったのです。流浪民達は砦の城主である豪族=大地主に保護を求め、一方では軍人として忠誠を尽くす事を誓った私兵だったのです。つまり彼らは私臣の関係をもって結ばれていたと見る事が出来るのです。 このような軍事的意味をもった私的な封建関係が正に公的体制に取って代わろうとしていた時代だったのです。つまり大地主は領主と化していたのでした。


特に後漢末から三国時代とはこのような軍事的封建制が中国全土的に形成されつつあった時代なのです。これが統一国家の出現を阻む大きな要因と見られています。 大小の豪族が中国全土を割拠した結果として交通は遮断されてしまいました。これは商品の流通を妨げて商工業を衰えさせて行きました。その結果として商品市場は消滅しつつありました。このようにして自給自足経済が復活しつつあったのです。 組織のピラミッド化が形式的には重層的に存在していました。しかし生産力を増した各地の豪族の勢力の増大は中央との力関係を大きく変化させていったのです。これは中央統制力の減少を意味しています。また国土の広大さから見ても地方と中央の綱引き状態とは中国の歴代王朝の課題でもありました。


このような社会情勢下においては大量の食糧を調達して大軍を遠距離に送ることはほとんど不可能であったのです。赤壁の戦いにおける曹操の敗北の最大の理由もここに求める事が出来るのではないでしょぅか??勿論曹操の用兵における失敗や呉軍(特に周瑜)の戦略による部分も大きいとは思っています。しかしいずれにしてもこの敗戦の理由とは当時の社会構造的なものに逆らった部分こそが最も大きいように思っているのです。要するにあの戦いの結果とは必然だった(のかも知れない??)と捉えてもいいのではないか思っています。同じように考えてみると孔明の遠征の失敗の理由も理解できると思っています。


赤壁の戦いとはいわば魏軍の自滅のようなものだったのです。何故ならばこの戦いの後に曹操は大軍を遠征させる前にその補給路戦に沿って屯田兵による自給を試みている事実から見ても明らかではないでしょうか。ちなみにこれはこれは晋の占田制へ引き継がれていくことになります。さらにこの大陸では水が衛生的ではないという点も挙げられると思っています。これは3000種類以上を誇る中華料理の実体がほとんど炒め物しかないという点から見ても伺い知る事が出来るのではないでしょうか。この料理法は正にこの大陸に生きる民族の知恵だと思っています。


後漢成立直後から中国では分裂へと進んできたような印象があります。つまり三国鼎立の発想とはこのような社会環境の上で成立したものであると考えられるのではないでしょうか??要するに一種の戦国時代のような情勢下においては統一はほとんど不可能であると理解していたのではないかと思っているのです。この後の晋による中国統一とは言い換えれば蜀や呉の自滅に他なりません。


各地に成立した地方勢力の増大は今まで辺境と呼ばれていた地域の開発に繋がって行きました。遼東半島付近から朝鮮半島北部にかけて半独立勢力を保っていた公孫度の存在も忘れるわけにはいかないと思っています。彼は混乱を避けて遼東半島から朝鮮半島付近に逃れてきた難民たちを組織して燕という国を建国しています。ですから本来ならば三国志ではなく四国志の方が正しいのかも知れません。この流れを受けて邪馬台国や卑弥呼の名前が魏志に現れるのです。