2000/6/8
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私の体験 投稿者:Toshy 投稿日:06月11日(金)00時43分10秒
中学生の頃です。 自転車に乗って、川原沿いの自転車道を走行中のこと。
正面には、西日が輝いていました。 と、右手に細い路地があるのが見えます。
こんなところに道があったかな?と思い、入ってみました。
3メートルほどで、左に折れています。 角を曲がると、また右に折れています。
そこをまがっても、またやはり左に折れている。
2、3メートルおきに、左右交互に曲がりくねった不思議な道でした。
両側には、笹の生け垣が続いています。誰とも出会いません。
13個めの角を曲がると、やっと知っている道に出ました。
それからあとは、後ろも見ないで逃げ帰った記憶があります。
その後、何度か川原を訪れているのですが、
この道を二度と見ることはありませんでした。
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怖い話ですね 投稿者:きんたろう 投稿日:06月11日(金)01時09分55秒
皆さんよく知っていらっしゃる。 Toshyさん、沙雪さんは体験者ですから「すごい」ですね。
長篠の戦いは武田勢力のほとんどを喪失させた戦いです。
私のイメージは武田騎馬隊が「ミサイル」とすると織田軍団が迎撃用ミサイル(バリア)です。
ミサイルはことごとく打ち落とされ(当然迎撃用も消耗される)武田はその軍団をほとんど失って
しまったといったところです。 確か死傷者数は織田軍団も相当数だったと思います。
武田はエースを失ってしまいましたが、信長の方はローテーションの谷間を中継ぎピッチャー
クラスで乱打線に6−8位で勝利したようなものだと思います。
総合力が違いすぎたのでしょうね。 数についてはどうなのでしょうか。
どうもよく分からないのですが、少ない方が「本当」だったような気がします。
ちなみにこれは全ての軍記物について同様に思っています。
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武田鉄砲軍団について 投稿者:池内晴紀 投稿日:06月11日(金)01時46分43秒
きんたろう様>なんか食い下がるみたいになってしまってすいましぇんm(_)m
拙者の調べたところによると、武田軍は戦国時代でも最も早くから鉄砲を主体とした軍装備
をしていた軍隊として有名って事になってるんでございましゅる。 それは、今川義元のコーナーでも書きましたが、どうも、騎馬軍団は無かったように思います。
何で、こんな話しを知ってるかっていうと、播磨国別所氏の三木城攻めのとき、
播磨の鉄砲衆、神吉頼定が織田軍に食い下がって20日粘っていたとき、 三木城の支城の神吉城攻略にあたって、元武田軍団の鉄砲組頭を呼び寄せ、鉄砲を装備した
城の攻略方法を聞いているんですね。 それで、「なんで、鉄砲先進国の織田軍が武田騎馬軍団の武田から鉄砲について聞くの?」
と思って調べたのが最初です。 武田軍は騎馬軍団というより、鉄砲軍団と呼んだほうがよい陣容だったようです。
また、武田勝頼は無類の鉄砲好きだったようです。
http://www.interq.or.jp/snake/ninzya/indx.htmll.genron.html/sengoku-kou.htm
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改めて 投稿者:なみ 投稿日:06月11日(金)01時59分47秒
長崎在住のなみと申します。 こちらの、きんたろうさんのPは、井沢さんのPで見て知っていましたが、ちゃんとご挨拶
するのは初めて。 こちらこそ、宜しくお願いします。
茨木、というと、以前寮生活してた時、同期の子にM子ちゃんという茨木の子がいたのを
思い出します。 そこはほぼ全国各地、いろんな地域出身の者が居たのですが、やはり「・・・っぺ」訛り
のインパクトは強くて、まあそれを言ったらどこの地域も、なのでしょうが、お互い、まね
したりされたりしたの、楽しかったですね。
何か、今怖い話で盛り上がってますね。 こちら長崎には飴屋の幽霊という、ちょっと泣ける怪談があり、それに伴うこわーい掛け軸が、今もお寺に伝わっています。
毎年お盆の何日だったかに観覧希望者に御開帳して、住職さんの有り難いお説教と共に
掛け軸を拝観出来る、のでなかったかな? ナマデ(笑)見たい気もありますが、この掛け軸ほんと怖いんですよねー。(笑)
突然ですが沙雪さん、今晩は。 熱心な(?)ファンの方々の事、飽きっぽい私は、その情熱、実はちょっと羨ましいです。
何でもそうですがひとつのこと、只それだけを、迷惑と言われようがひたすら信じて、ユメユメ疑わず、ずっとずっとやっていけたら、こんな楽な事は無いだろうと、私には思えて。
すきなグループでも趣味でも宗教(笑)でも、それやってサエいたらワタシシアワセ、って
いうひと、凄く羨ましくなる時あるんです。(ヘンかなあ)
とりとめの無い内容ですがここらで。 きんたろうさん、こちらのルール違反、みたいなこと、私してませんか?(ひやひや)
して無かったらまたお邪魔していいですか?
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迷予想(安田記念編) 投稿者:輔住 投稿日:06月11日(金)08時41分18秒
怪談で盛りあがっている最中申し訳ないのですが、
競馬の予想を一つ。 エアジハード・グラスワンダー・タイキブライドルの3点または
それを中心に買おうと思っています。 前回に続き武(シーキングザパール)を外す懲りない私!
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今日はちょっと気分がよいです。 投稿者:沙雪
投稿日:06月11日(金)10時27分29秒
きんたろうさま。私の母校は確か30年ほど前に最後の甲子園出場を果たして以来甲子園とは
まるで縁がございません。最後の出場もちょっといわく(?)がありまして。本来3高にいく
はずだった有力選手がなんらかの事情で一高に入学したため、野球部が強くなったというそう
です。そういえば、私予選の応援には1年生のときしかいったことがありません。これもいきたく
なかったのですが、近所の土浦球場だったため、全員参加だったため、しぶしぶいきました。
ぜったいかつといわれていたのに、笠間高校に負けてしまいました。かさをもっておどっていた
相手高校の応援団を覚えております。その後の地区予選は日立だったため。応援は希望者だけ
だったので、私はいきませんでした。父などは息子(つまり私の弟)が出場しているので
けっこう見にいっていましたねえ。ぐれて2年の予選を最後にやめてしまいましたが。あ。今は
ちゃんと更生して、「俺は馬を育てるんだ!」とかわけのわからないことを言い出し。鉛筆を
転がしただけで現役で国立大に合格し、今では北海道におります。
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なみさん 投稿者:きんたろう 投稿日:06月11日(金)10時51分52秒
ようこそいらっしゃいました。 長崎には二度ほど行ったことがあります。
市電に乗りました。いいですよね、市電。うらやましいです。
茨城の言葉についてはきんたろうのページの「茨城」テーマの中にありますので覗いて下されれば
うれしく思います。 この掲示板のテーマは「心に移りゆくこと」全てですから気楽に書き込んでいただければいいですよ。
長篠の戦いについて 投稿者:きんたろう 投稿日:06月11日(金)10時54分33秒
池内晴紀さん、詳しいコメントをどうもありがとうございました。
読ませていただきました。毎度の事ながらさすがだと思いました。
さて武田軍団についてですが(と言うより長篠の戦いについてですが)日本史において騎馬隊
とは必ず徒歩兵が廻りにいますから、厳密な意味では(世界史的な意味)では騎馬隊とはいえ
ないと思います。 例外は義経と桶狭間急襲の信長くらいと思っています。
武田が鉄砲を導入していたのにどうして「武田騎馬軍団」と呼ばれているのかと言えばやはり
良馬が多かったのではないでしょうか。 私は長篠の戦いの死傷者数を見たときに武田と織田はほとんど互角(と言える)だったことに
驚いた記憶があります。 それまでイメージは柵の中から「ねらい打ち」と言ったものでしたから。
でも、それでは武田をあまりにも馬鹿にしていると思います。
相手が弓隊で来れば同様に応対するはずです。同様に鉄砲隊で織田軍が攻撃を仕掛けてくれば
武田も鉄砲で応酬したはずです。 ただ、信長軍3000丁と言われているように(1800でも)あの時点で桁違いの鉄砲数を
保有していたのは間違いのないところだと思います。
大が小に勝ったと言うことではないでしょうか。(当たり前すぎるかも)
細かいことを言えば、火縄の改良が多少の雨では支障なく鉄砲を使用できた点も挙げられるの
かなと思います。 武田軍団は(と言うより信長軍以外は全て)連合王国(ユナイテッド・ステーツ)でしたから
池内さんの書かれているとおりだったと思います。
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今度こそ!!(毎度のことかも) 投稿者:きんたろう
投稿日:06月11日(金)11時13分11秒
輔住さん、ありがとうございました。 そう言えば今日は金曜日でした。
私はグラスワンダーとキングヘイロー、エアジハードの3点で行きたいです。
がんばりましょう!!! 沙雪さんの弟さんも「馬」に縁があるとは奇遇ですよね。
でも一度でいいから「甲子園」に言ったことがあるのは素晴らしいでよね。
うらやましいです。
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(無題) 投稿者:Toshy 投稿日:06月11日(金)11時43分34秒
長篠の戦は、「鉄砲vs馬」の代表みたいに扱われていますが、実際には白兵戦だったらしい。
武田軍の将で鉄砲の犠牲になったのは甘利なんとかいう人だけで、
他はほとんどが柵から離れたところで死んでいるのです。
織田4万と武田1万5千の戦いですから、はじめから白兵戦になったら勝負にはならないでしょう。
信玄の旧家臣団は勝頼の命令を無視したといわれていますが、そう単純でもない。
武田一門集はほとんどが生き残り、譜代家臣はほとんどが戦死。
諸悪の根元は穴山信君(変換したら、穴山の不気味になった)で、
馬場・山形両隊が苦戦に陥るや、 後詰めの援軍をみずからのボディガードにして逃げたそうです。
武田勝頼は、気の毒な人だと思います。 彼はもともと諏訪勝頼、いってみれば外様の家臣扱いでした。
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悲劇の男・武田勝頼 投稿者:輔住 投稿日:06月11日(金)12時19分38秒
みなさん、こんにちは。 長篠の戦は鉄砲隊よりも
佐久間信盛を使って武田を騙したのが 大きいと思っています。
この合戦の時、佐久間信盛が内応の約束を していたということです。
これは事実だと思っています。 そうでなければなぜ敵地で
倍以上の人数相手に野戦を挑んだのか 理解に苦しみます。
(普通に考えたら無念ですが撤退でしょう)
勝頼に関してはToshyさんのいう通り気の毒としか
いいようがない。 おそらく武田家臣団は「武田信玄の子」ではなく
「諏訪頼重の孫」と見ていたのでしょう。 だから信玄は彼を跡継ぎにしませんでした。
信玄の跡継ぎは勝頼の子の信勝です。 彼が成長するまでの「代理」でした。
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怪談話は 投稿者:slashdog 投稿日:06月11日(金)13時49分02秒
いつのまにか終わって、武田の話になってるやん!!
皆さんいろいろ詳しくて勉強になります。 やはり、騎馬隊はなかったのでしようか? 私は他の地域よりいい馬が
いて、編成の上で騎馬の割合が多いと解釈していましたが・・・。
それにしても勝頼はかわいそうな武将です。
それとあの戦いは、大量の鉄砲を試す「試験場」だったと思います。
輔住さんがなぜ、野戦を・・・。とおっしゃっていますが、
そうさせた信長の戦術のすごさ!だと思います(柵なども含めて)
あとなぜ 効率良く鉄砲を撃てたか? 三段撃ちはなかったのでは?など
いろいろ、言われていますがある鉄砲の研究者は「早合」を使った
からだと言っていて、私もこの意見にはなるほど〜!と思っています。
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武田氏について 投稿者:沙雪 投稿日:06月11日(金)14時13分41秒
合戦はよくわかりませんが、興味があるのは勝頼の妻政子です。北條氏との関係が悪化した後
勝頼は政子に実家に戻るよういいますが、彼女は結局帰らず勝頼とともに死を選びます。潔い
(あるいは若すぎたためか)生き方が好きです。この時代女性で名前が伝わっている人は少ない
ですよね。この政子にしても兄(名前を忘れちゃった!)の一字をとって政子としているだけで
実際にはどうだったのかはっきりしないみたいですし。あと興味があるのは信松尼です。
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なんでなんでなんで! 投稿者:沙雪 投稿日:06月11日(金)20時00分02秒
お友達にメールを書いて送信しようとしたら失敗!あれえ?と原因を探るうちに
一生懸命かいたメールが消えてしまった!もう!
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(無題) 投稿者:Toshy 投稿日:06月11日(金)23時23分57秒
沙雪さん、その名は北条氏政ですね 勝頼は義兄弟だから助ける、なんていいつつ、徳川について殺そうとする。
まあ、戦国の世は間違えば身の破滅だから責められないけど。。。。
真田昌幸は、勝頼の身柄を吾妻城にあずかり、武田をもう一度再興しようとしていたとのこと。
吾妻城は上杉・北条との勢力圏の境目で、両氏の力添えがあれば守り切れたと思う。
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久しぶりに 投稿者:きんたろう 投稿日:06月12日(土)00時54分53秒
信長の話題で嬉しいです。 それにしても皆さん詳しいです。(^^)
武田勝頼は当時としては上位クラスの戦国大名だったことは間違いのないところだったと思います。
何が不運かといえば信長と同世代で領地を接していた事が最大の不幸だと思います。
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北条氏政にも三分の理 投稿者:池内晴紀 投稿日:06月12日(土)06時44分39秒
Toshy 様>北条氏政が徳川についたのは、上杉家のお家騒動のとき、
北条家からの養子が上杉家をつぐことになっていたのを上杉景勝が反旗を
ひるがえし、北条家の養子を切腹に追い込んでしまったのです。
そのとき、武田勝頼は、なんと上杉景勝に与力してしまいました。
それで、北条氏政が怒り狂って、徳川に味方したのです。
また、土壇場で小山田氏などが次々と離反したのは、
武田勝頼が鉄砲などの最新兵器を買いあさり、武将たちに経済的負担を
かけすぎたためと言われています。 まあ、歴史の解釈は色々ですね。(^^;
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(無題) 投稿者:Toshy 投稿日:06月12日(土)08時13分34秒
その景勝と景虎との戦いのおり、武田は景虎に援軍を出そうとしたのですね。
でも、肝心の北条氏が軍を進めようとせず、武田と上杉との戦いを見守っていたとか。
武田としては、義理のない景虎のために出血を強いる必要もないので、
景勝から金をもらうや引き下がった。 北条は、しかし、それでも援軍を出そうとせず景虎を見殺しにしています。
氏政はやはり、嫌な奴だ(笑) 武田の財政負担は、新府城の建設とか、いろいろあったようです。
当時は金山も掘り尽くしてしまっていたとかで、
勝頼としては無理すべきではなかったのだろうけど。
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それはしりませんでした。 投稿者:池内晴紀
投稿日:06月12日(土)08時23分12秒
Toshy 様>なるほど、武田が、景虎に援軍を出そうとしたとは知りませんでした。
それはちょっと北条も意地が悪いですね。 たしか、その後徳川と同盟を結んだのに、豊臣と徳川が織田信雄擁立問題でもめたとき
徳川方に援軍を出さなかったとか。
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(無題) 投稿者:沙雪 投稿日:06月12日(土)11時54分19秒
はずかしい!勝頼てお父さんに比べて影のうすい人で、武将としてはイマイチなんて
思っていたけれど、そうじゃないんですね!
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池内晴紀さん 投稿者:slashdog 投稿日:06月12日(土)16時42分07秒
はじめまして 上杉家を継ぐ正当性から言えば景勝が、継いで当然だと思います。
長尾政景の二男で母は、謙信の姉です。養子になったのも景虎より
十年も前ですし。「御館の乱」が起こったのは、 謙信が跡目を決めずに死んだのが、
そもそもの原因ですが・・・。 勝頼ですが、景虎に継がれては、都合が悪かったと思います。
北条の力が大きくなりすぎるからです。 ですから兵を出そうとしたのはたんなる、ポーズではないでしょうか?
あそこは上杉、武田、北条と均衡が保たれなければうまく
いかないのでは? その辺、勝頼もなかなかやるな!と思います。
氏政も勝頼の出方を考えて動けなかったのではないかと思います。
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衣替えを 投稿者:きんたろう 投稿日:06月12日(土)18時11分14秒
しました!!! トップページと目次ページを変えてみました。
(内容は全く変わりません) 更新予定の原稿が五つほど下書き未完のままあります。
かっぽりぱなしになっています。(茨城の方言の使い方2)
話変わって4チャンネルの「ラビリンス」をやっと今日二周分見ました。
上杉の後継者選びの時は直江が主役となり活躍をしましたね。
かつて佐竹氏は男子直系が途切れた事がありました。
そのとき世継ぎをどうするかでもめにもめました。
結局上杉家から養子をもらって源姫(一人娘)と結婚しました。
上杉の場合は非常に短期間で済んでいます。
これはやはり直江の手腕が相当なものだったということの証明になると思います。
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涼しげで 投稿者:slashdog 投稿日:06月12日(土)20時13分28秒
良いですね(笑) 景勝が、勝てたのは、きんたろうさんの言うとおり、兼続の
おかげですね! P.S. ラビリンス これからが楽しみですね!(笑)
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家康と 投稿者:Toshy 投稿日:06月12日(土)23時04分34秒
秀吉が対決したときも、北条氏は知らん振りしてたのですか。それはまた、酷いですね。
しかし天寿をまっとうしなかったのだから、話にもならないか。
slashdogさんご指摘のように、出方をうかがっていたとは、ありえますね。
氏政が戦ったという記録はないけど、勝頼は小競り合いながらもやって、
しかも上杉から大金をせしめた上に同盟まで結んだのだから、
勝頼の当時の戦略はなかなかだと評価したいです。
なお、景勝と景虎との戦いでは、7割が景勝についたようです。
やはり謙信と血のつながりのある方を応援したくなるのは、
越後人として当然の感情なのでしょう。 もちろん策略を巡らしたのは兼続でしょうね。
武田=上杉の同盟を締結したのは、 悪名高き勝頼の側近・跡部と兼続だったのかな。確か。
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確かに、血統という点では正当ですね 投稿者:池内晴紀
投稿日:06月12日(土)23時17分31秒
slashdog様>私は、謙信は景虎を世継ぎにするつもりで養子にしたと考えてましたし、
もし最初から景勝を後継者とするなら、景虎を養子にする必要性は無かったと思っています。
ただ、血統の上からは当然景勝が正当ですね。
というものの、結果的に上杉景勝が上杉家をついで正解だったと思います。
それにしても直江兼続は、ほぼ天下を掌握していた徳川家康に詰問状を突きつけるなど
根性がすわっています。かなり気性の激しい人物であったと聞いています。
ちなみに、私の親戚の池内太郎という人が上杉景勝の家老職を務めていたそうですが、
誰か知ってますか?
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北条氏政は 投稿者:きんたろう 投稿日:06月13日(日)00時22分40秒
やはり暗愚といわれても仕方がなかったのでしょう。
それでも家康と戦ったり佐竹と戦ったりとしているのですが、これらの戦いではほとんど互角の
勝負をしています。 やはり、秀吉軍の主計将校団は当時の常識を越えていたのだと思います。
勇者ロトさん、風邪の具合はいかがですか?
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池内さんのご先祖が 投稿者:Toshy 投稿日:06月13日(日)00時45分56秒
上杉家の家老なのですか。びっくりです。 ちなみに私のご先祖も、やはり上杉家の家臣だったと聞いたことがあります。
直江兼続が家康に喧嘩をうった話は、痛快ですね。
あれが今も根強い直江人気のもとなのでしょう。
もっとも、まったく事実無根の罪を問われたために、
謙信以来の上杉の意地も手伝っていたのに違いない。
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氏秀(景虎)は 投稿者:slashdog 投稿日:06月13日(日)00時49分15秒
和睦の証としての、人質ですので、跡目とは考え辛いと思われますが
その辺、いかがでしょうか? 謙信は不憫に思ったのと、和睦の証なので、粗末に
できない・・・。(だから「景虎」の名を与え、景勝の妹を娶らせた) 秀吉が秀康を養子に
したように。 ですから継がせる気はなかったと思えるのですが・・・。
池内晴紀さんの言われる「景虎 後継者論」は初耳なのですが、
もしよろしければ、どのような資料からの物なのか
お教え下さい。 お願いします。
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えー 投稿者:きんたろう 投稿日:06月13日(日)01時09分32秒
池内さんとToshyさんのご先祖が上杉家の家臣どおしだったのですか!!!
すごい奇遇ですよね。 池内さんは松平家の家臣の末裔でもありますからダブルですごいですね。
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そうなると 投稿者:きんたろう 投稿日:06月13日(日)01時50分25秒
長野県知事の戦い第二幕が切って落とされたのかも知れないですね。
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ところで勝頼が景勝と戦った時、 投稿者:Toshy
投稿日:06月13日(日)01時36分28秒
北条の援軍が来ないため、勝頼は単独で上杉景勝を撃破し、ついで景虎を倒して越後を取る気だったのでは?
でも直江兼続のいる上杉軍を倒すのは難しいから、同盟を組んだのかも知れない。
なお、私は上杉の家臣だった先祖よりも、アテルイ公や安部貞任公に親しみを覚えます。
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いや、これは 投稿者:Toshy 投稿日:06月13日(日)10時09分25秒
新潟県知事選でしょうな この当時は既に、長野県知事は決まっていました
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そうでした 投稿者:きんたろう 投稿日:06月13日(日)10時57分51秒
偉大な新潟県知事の後継者争いでしたものね。
ところで急にPCが不調になってしまいました。この画面で三回もビジー状態になってしまいました。
(俺は何も悪さはしてねーだよ) 新しいパソコンに変え買いようと思ったことがいけなかったのでしょうか?
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ご先祖様につてい 投稿者:池内晴紀 投稿日:06月13日(日)16時21分38秒
slashdog様>もうしわけありません。かなり推察からモノを言っておりました。
上杉謙信が景虎を後継者に指名したとの文献は持っておりません。m(_)m
おっしゃること、ごもっともです。 Toshy様・きんたろ様>
あ、いや、私の先祖が上杉氏の家老というわけではないのです。
私の先祖は元々、平資盛の末裔、玉木氏の枝族で越前の豪族でした。
その後、越前に残って徳川につかえたのが私の先祖です。
越前から越後に渡って、上杉氏に使えたのが、例の池内太郎という人らしいです。
ですから、同時代的には、私の先祖は越前にいたわけで、直接の先祖ではありません。
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slashdogさん 投稿者:きんたろう 投稿日:06月13日(日)16時37分56秒
ありがとうございました。 ただ、トップページを変えてからPCが何故か不調続きです。(本当にどうしてなのだろう?)
そう言えば最初の頃トップページに日付をつけたら「固まった」事がありました。
今までこの486はほどんどエラーが出たことが無かったのですが。
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調子は 投稿者:slashdog 投稿日:06月13日(日)19時06分32秒
どうです? たまには「蹴り」のひとつも入れてみては?(ジョーダンですよ!(笑))
池内さん 「もうしわけありません」なんてとんでもないです!
私はまた、どちらかの蔵などから新しい資料でも発見されたのかと思いまして・・・。
最近は、最新の情報を仕入れておりませんので・・・(笑)
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質問です 投稿者:きんたろう 投稿日:06月13日(日)19時16分39秒
DNS項目とは一体何のことか分かりますか? 突然固まったり、ダイヤルアップが立ち上がらなかったりと散々です。(;;)
参りました。 突然ビジーになってしまうのですからね。
元に戻せば治るのかな?(よく分からないです)
slashdogさん、けりを入れたら壊れてしまいますよ。
何しろ大化改新の頃からこちらでは「けり」が得意だったのですから。
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それなら 投稿者:Toshy 投稿日:06月13日(日)20時24分14秒
金槌で叩いてみたら、どうじゃ(ウソです)
景勝は織田・徳川連合軍が甲斐に攻め込んだ時、武田に援軍を出そうとしたそうです。
親同士が激闘し、その子たちは同盟を結ぶ。涙の物語じゃのう
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きんたろうさんも!! 投稿者:勇者ロト 投稿日:06月13日(日)22時17分56秒
きんたろうさん、私のノートがついに壊れてしまいました。
2.3日前から、動きが悪くなってビジー状態とDNSエラーの連発だったので、昨日
修理に持って出たら、なんとマンションの階段から落としてしまいこなごなになって
しまいました。それで旧型のデスクトップを借りてきた所です。
98とIE5をインストゥールした所これもちょっとおかしいのです。
IE5が駄目なのかな?と考えていた所です。
黒田家についての質問をBBSに投稿してきました。Toshyさん、slashdogさん
教えてください。
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さすがslashdogさん、 投稿者:Toshy
投稿日:06月13日(日)23時11分58秒
早いですね。書くことがなくなってしまいました。
それにしても、又兵衛は黒田家の子供同様にして育ってきたのですか。
初めて知りました。ありがとうこざいます。
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Toshyさん 投稿者:slashdog 投稿日:06月13日(日)23時50分53秒
ごめんなさぁ〜〜い!!(泣) 一人で書いてしまって・・・。 ゆるしてくだされぇ〜〜!!
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勇者ロトさんも 投稿者:きんたろう 投稿日:06月13日(日)23時53分09秒
ですか!!! 一旦トラブルになると今まで当たり前だったことがとても貴重なことに思えてきます。
ところで風邪は治りましたか? 先ほどIEを試してみたら、全然問題がありませんでした。
ネスケと微妙に相性が悪いといった程度なのかも知れないです。
ただ、このマシンではIEはちょっと重いのです。
昼間仕事で使っているマシンはIEでもスムーズな動きをするからいいのですが...
ソーテックの宣伝を見ると心が動きます。(^^)
BBSへ投稿してきました。
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明石一門 投稿者:池内晴紀 投稿日:06月14日(月)00時02分18秒
黒田氏関連については、明石氏が興味深いですね。
三木合戦のおり、播磨衆では、黒田と明石だけは秀吉側についた。
明石氏は、各種合戦で黒田に劣らぬほどの活躍をし、出世もしたようですが、
秀次謀反事件で連座の濡れ衣を着せられて、
一族ことごとく処刑されました。 そして、その存在も歴史から消しさられてしまった。
この点は、武功夜話の前野氏に似ていますね。
前野氏もかなり歴史上活躍したし、出世もしたのに、歴史から抹殺されてしまった。
唯一生き残った明石全登は、最後は旧友の後藤又兵衛と行動を共にしたそうです。
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前野長康 投稿者:Toshy 投稿日:06月14日(月)00時28分40秒
に関することは、少しだけ分かるので書いてきました。
slashdogさん、泣かんでください(笑) 明石全登というと、大坂の陣で活躍した切支丹隊長ですな。
関ヶ原では宇喜多の戦陣として福島隊と烈しい激闘をなさったお方じゃ。
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地元ですね!! 投稿者:きんたろう 投稿日:06月14日(月)00時32分35秒
池内さん、さすがに違いますね。 ところで大河ドラマの浅野家ですが、そちらに行く前は茨城の笠間5万石だった
はずです。 無理矢理茨城に結びつけた話題でした。(^^)
http://www.net-ibaraki.ne.jp/kintaro/
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勝頼の失敗は 投稿者:輔住 投稿日:06月14日(月)08時52分44秒
長篠以上に北条を敵にしたことでしょう。 確かに北条が大きくなりすぎることは好ましくないが、
織田というそれ以上の大敵がいることを考えると...。
これ以降、今日は北条、明日は徳川と合戦という状況に
なってしまい、武田は疲労していきます。
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(無題) 投稿者:沙雪 投稿日:06月14日(月)08時55分03秒
なんだかもう話題についていけません。普通の女の子以上には戦国時代に関する知識は
あるけれど。それらは女性史のほうから得たものばかりなので・・・・・
「黒い家」を読み始めたのですが、女性にはすすめないという指摘はごもっともです。通学途中
の電車のなかでよむものではないですね。気分が悪くなりました。
電車の中 投稿者:勇者ロト 投稿日:06月14日(月)09時13分25秒
で、「黒い家」を読むとは!! 今日は月曜日だというのに気分の悪い日になりそうですね。
やはり、ふとんの中でこっそり読むのが一番です。
寝れない夜になるかも?
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戦中の和 投稿者:Toshy 投稿日:06月14日(月)10時53分09秒
北条は、それでも、多少はいい奴らしい。 勝頼がやばいな、と思った時、伊豆の笠原を偽装で武田に従わせています。
北条としても、武田がつぶれて織田が大きくなることは好まなかったのです。
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謙信はなぜ 投稿者:輔住 投稿日:06月14日(月)12時29分31秒
跡継ぎを決めておかなかったのだろう? 生前から景勝か影虎のどちらか決めておけば、
よかったのに。 それ以前に普通に考えれば氏秀(影虎)は「人質」として
扱っても不思議ではない。 氏康の死後、北条・上杉同盟が破棄になっても待遇に変化はない。
いつかは北条と(再び)手を結ぶことでも考えていたのかなー?
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北条と言えば 投稿者:きんたろう 投稿日:06月14日(月)12時32分12秒
「俺は直角」の照正くんを思い出してしまうのは私だけでしょうか?
輔住さん、安田記念道でしたか? 私はまたまた究極の1点勝負枠連5−6ではずしました。(;;)
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無題 投稿者:ina 投稿日:06月14日(月)13時15分15秒
こんにちは 初めまして?? ちょっとお邪魔してみました。戦国時代を語る時、自分の先祖がだれだれの家臣だったりすると
楽しいでしょうね。私の場合、頭が稲で、村中同じ名前だったときいてますから多分農家なので
しょう。むかしから上杉謙信ファンだったので、上杉さん、という女の娘と結婚して苗字を変えよ
うと決心してました
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あっ 投稿者:slashdog 投稿日:06月14日(月)13時30分47秒
inaさん! こんにちは! 私もどこかの由緒ある家の末裔ならば、養子になってその家を
継ぎたい! などと思ったことありますよ(単なる妄想ですけど)(笑)
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ありがとうございます 投稿者:輔住 投稿日:06月14日(月)13時52分28秒
先ほど、間違って3回も同じ物を 投稿してしまったようですが、
もう直ってますね。ありがとうございます。
競馬の方は金曜日の予想通り買って当たりました!
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ブルーな一日 投稿者:沙雪 投稿日:06月14日(月)17時34分22秒
勇者ロトさま。あなたさまのご忠告を聞いていれば今日これほど一日いやあな気分にならずに
すんだかもしれません。いつもだったら退屈でたまらない講義中、今日はぜんぜん眠くならなかった
のです。もう!なんであんなに生々しい描写をするのでしょう。私、死体がどうしたこうした
という部分では体中の力が抜けてフラフラになってしまいました。この本は、一年ほど前に読んだ
松本清張の某小説に次ぐブルーになるしろものでした。松本清張のほうはあんまり気持ちが悪いので
途中(とういうか冒頭で)読むのをやめてしまいました。これは、あるホテルで殺人事件が起こり
犯人は浴そうで被害者の全血液を抜いたとか・・・・・なんかもう気分が悪くなってきたので
もうやめます。 みなさん、あまり気にしていらっしゃらないようなのですが。勝頼の妻の政子を私は北条氏政の
妹としたのですが、今日国史大辞典で武田勝頼をひいてみたら、政子は氏政の娘となっていました。
勝頼の肖像画も載っていたのですが、けっこうハンサムだと私は思いました。
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どっち? 投稿者:輔住 投稿日:06月14日(月)18時34分20秒
沙雪さん、みなさん、こんにちは。 >みなさん、あまり気にしていらっしゃらないようなのですが。勝頼の妻の政子を私は北条氏政の
>妹としたのですが、今日国史大辞典で武田勝頼をひいてみたら、政子は氏政の娘となっていました。
私が読んだ本では(歴史群像シリーズ「北条五代」など)まず氏政の妹ですが
どっちが正しいのでしょう?
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まるで 投稿者:きんたろう 投稿日:06月14日(月)18時56分32秒
夏がやってきたようです。 気まぐれでIE4をインストールしてしまいました。
この環境だと仕事用のパソコンと同じです。
それにしても上書きで70メガ近く使われてしまった。
いよいよハードの残が無くなってきました。
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ようこそ 投稿者:きんたろう 投稿日:06月14日(月)19時01分10秒
おいで下さいました、inaさん。(^^) こちらでもよろしくお願いします。
輔住さん、おめでとうございました。 さっきはジャストタイミングだったみたいです。
沙雪さん、読んだことがないので分からないです。
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どっち?(二) 投稿者:slashdog 投稿日:06月14日(月)20時26分23秒
輔住さん、沙雪さん こんばんは 私も、妹だと、思っていましたが気になったのでちょっと
調べてみました。中に一つだけ娘と書いてある物もありました。
その他は、妹と載っていましたが・・・。
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やはり、妹と 投稿者:Toshy 投稿日:06月14日(月)23時47分33秒
書いてある本が多いようです。
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スクロールすると 投稿者:きんたろう 投稿日:06月14日(月)23時56分47秒
画面が波打ちます。(笑) なかなかユニークな画面だと思います。
それにしても北条、武田ほど有名なのに「娘」か「妹」かハッキリしないとは一体どうして
なのでしょうか。 やはり敗者の一族だからなのでしょうか。
ところで「〜女」は「〜の娘」と読むということを急に思い出しました。
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年齢的に妹の方が 投稿者:Toshy 投稿日:06月15日(火)00時03分07秒
あたると思いますが。。。。。 ところで疑問がひとつ。
源三位頼政の孫・有綱ですが、吾妻鏡では「義経の婿」という紹介が。
このころ義経は30前の青年。娘がいるとすれば、2つか3つのはずだ。
一体どういうことなのだろう??? そういえば、三成の孫娘が徳川家光の側室になっているという。
徳川は石田を保護していたのか?!
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そうですよね。 投稿者:沙雪 投稿日:06月15日(火)10時23分18秒
私も妹だとずっと思っていたので・・・・ゼミの発表のため、いろいろと鎌倉時代関係の文献を調べているのですが、
この時代の婚姻関係は非常に複雑で(再婚、再々婚なんて当たり前)、現在はっきりとしているほうがめずらしいそうです。
有綱が義経の婿というのもインチキかもしれませんね。
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ところで武田勝頼、 投稿者:Toshy 投稿日:06月15日(火)12時36分38秒
北条氏との手切れはやむをえなかったと思います
景勝−景虎の戦いでは、北条が兵を出していないのだから、武田が手を引くのは当然。
真田昌幸が武田勝頼の軍師となって活躍していれば、
歴史は変わっていただろうか。
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北条も 投稿者:輔住 投稿日:06月15日(火)12時42分14秒
景勝−景虎の戦いで兵を出そうとしなかったわけでは
なさそうです。 雪のため間に合わなかったそうですが...。
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いやいや 投稿者:きんたろう 投稿日:06月15日(火)19時21分56秒
すごく詳しいですね。参考になります。 ところでオフ会は7月25日に東京で行います。
昼頃池袋に集合といったところまで決まりました。
よろしくお願いします。 ささやかに開催しましょうね。
沙雪さん、参加してね!!!
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勢いで 投稿者:きんたろう 投稿日:06月15日(火)22時06分57秒
ネットスケープ・コミュニケーターもインストールしてしまいました。
性能はIE4の方がいいようですがNCの方が旧タイプでも動きは速そうです。
BBSに投稿しました。
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ささやかに 投稿者:Toshy 投稿日:06月15日(火)23時04分44秒
なるかどうか、芥川系の人たちが何人来るかで、大人数ですよ。
りきさんが参加表明のメールをくれました。。
輔住さん、真田ともう一人の、勝頼の側近武将ですが、名前分かります?
ちょっと忘れてもうた。。曽根なんとかいうひとです。
この人は新府城建設に真田とともに反対した、先を見る目のある武将。
そして、その後どうなったのかも分からない。。。
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