2001/6/9
世界の四大古代文明に見られる共通点とは「肥沃な耕地」などを代表にしていくつもありますが、その中でも「文字の発明」は特に重要なものとして挙げる事が出来ると思っています。もしこれらの地域よりも地理的環境において例え恵まれていた場所があったとしても、「文字」の発明を成し遂げる事が出来なかった「文明」はさらなる発展をすることが難しかったように感じています。それは先人達の貴重な「情報」の蓄積を次の世代に伝える事が非常に困難だと言えるように思われるからです。記録された「文字」がない場合には何かの拍子に今までの情報が途切れてしまった可能性が極めて高いと言えるのではないでしょうか??情報の蓄積が無い場合には人類の文明はその階段を上がっていく事は困難だと想像がつきます。恐らく将来には発掘作業が進み世界四大文明よりも更に古い「住居跡」を世界中に見つける事が出来るようになると思っています。
勿論、「語り部」の情報の方が「文字」に因るものよりも遙かに優れている点が数多くある事もまた事実です。これは「文字としての情報」と「音声としての情報」の差でもあります。いずれにしても文字に書かれた情報とは「語り部」が伝えるものよりも容易に後世に残る可能性が高い事を誰も否定する事は出来ないと思っています。何しろ「人間レコーダー」である「語り部」とは生身の人間ですから、不慮の死や天変地異、あるいは戦争等によって彼らの持つ情報はあっけなく断絶してしまう可能性が極めて高いからです。
一方の文字情報も「物事の様子」を細部まで形容すには十分ではないように思われます。何故ならば文字に表された情報とは「様子」のかなりの部分を削ぎ取ったものであると言えるからです。これは正確な姿の何分の一かを伝えているに過ぎないと同じ事でもあります。これが「文字情報」の限界だと思われます。
しかし、情報が蓄積されてこそ初めて「文明」が進歩するものであれば、やはり「文字」の役割の偉大さを否定することは出来ないと思うのです。世代を容易に越えて伝播する能力に関して言えば「人間レコーダー」である語り部の「音声」はどうしても「文字」に比べると劣ってしまうと言わざるを得ないと感じられてしまいます。「文字による情報」の基本的な部分と、「語り部」による「より高密度の情報」がミックスされた状態こそが最良のものなのかも知れないと思ったりします。動画までも記録する事ができる環境にある現代に対して未来人は、私たちが「古代史の謎」に抱くようなロマンを湧き起こらせる事は無いのかも知れませんね^^;;
古代中国人の偉大な発明を一つだけ挙げろと言われたのなら「漢字の発明」こそが相応しいのではないかと私は思っています。漢字は「表意文字」と一般的には言われていますが、ネイティブ・スピーカーの中国人(ちょっとアバウトな表現です^^;;)にとっては物事の意味を表すと共に「音」もまた同時に付加された「記号」でもあるのです。漢字におけるこの「音」の部分の比重の高さを私たち日本人の感覚ではどうしても見落としてしまいがちになってしまうように感じています。つまり漢字とは「意味」をもった「音」を表す記号そのものなのです。
ちなみに漢字は紀元前1500年頃に発明されたと言われています。一般的によく知られているようにこれは象形や指事から発達しました。その特徴とは1字が1音節であり、かつ特定の語義を表すところにあると言われています。簡単に言えば「形」・「音」・「意味」の三要素から漢字は成立しているという事なのです。
漢字は一世紀頃には日本へもたらされたと見られています。これ以来「かな」が発明されるまで日本では漢字を唯一の文字として言語活動が行われてきたのです。そして現代に至るまで漢字は日本語の中で極めて重要な地位を占めていると言っても過言ではありません。もし漢字が日本に伝わっていなかったら、日本語の表記は現在のものとは大きく隔たったものになっていたであろうとは誰でも容易に想像がつく筈です。
当然の事ながらこれは日本語の語彙の面でも多大の影響を及ぼしています。いかにこの文字が私たち日本人にとって生活に深く根付いた必要不可欠の存在である事を改めて思い知らされています。漢字を発明した古の中国人の偉大な才能に対していくら感謝を捧げても足りないように感じています、笑
漢字の輸入によって訓読みや万葉仮名の用法が発達していきました。9世紀に入ると万葉仮名を簡略化する事により日本独自の表音文字である「平仮名」や「片仮名」を生むに至ります。これは日本人の先人達がとても柔軟で素晴らしいアイディアに富んでいたからこそ生まれたものだと思っています。万葉仮名は漢字のもつ意味とは全く別に(というかこれを完全に無視して)音だけを取り出して日本語を「表音的」に表記する道具として使われた記号です。ちなみに字音を借りたものを音仮名といい、和訓を借りたものは訓仮名といいます。この用法が万葉仮名と名付けられた理由とは「万葉集」での用法が特に多彩であったためです。
さてこの万葉仮名で表された古事記とは「語り部」達の伝えて来た「言葉」をそのまま「音」として書き写した(記録した)ものではないかという勇者ロトさんの説があります。これは私にとっても大変興味深い内容です。「読んで聞かせる」という意図の下に造り出された用法が「万葉仮名」ではなかったのだろうか??という意見はとても説得力があるように感じています。
それは音声を伴う言葉には「不思議な力」が宿るという「言霊信仰??」を持つ私たちの祖先が、ただ単に内容を伝えようとするのではなく「音声」を「保存」するために考え出した方法ではないかと思われて来るからなのです。つまり文章として意味を書き残すのであれば「漢文」として書いた方が万葉仮名で書くよりも遙かに易しいように感じるからです。(思いっきり勘違いをしているかも知れませんが...笑)
また漢字の「原音」は日本語の音韻の影響を受けて日本独自の日本字音と変化して行きました。これは漢字の日本語訳である「訓」とともに日本語文を表すのに使用されるようになって行きました。このようにして日本語の語彙は増加していったものと推測しています。逆に近代以降に入ると中国や韓国では欧米の文物を翻訳する手段としてまず「日本語訳」になっている書物から自国向けの言葉へと更に翻訳していくルートが確立されて行くようになります。これについてはあまり言われていませんが、欧米のものが漢字文明圏に伝わっていく過程に関して日本語は大きな役割を果たしているのです。
新しい未知の単語を訳すのはとても大変な労力を要します。これを省いて中国や韓国で比較的容易に自国語に翻訳する事が出来たのは、すでに日本語訳が存在していた点が最も大きな理由なのです。この様にして日本語は隠れた貢献をしている事実もあります。
ところで日本語の特徴を見ると「同音異義語」の数が極めて多いことに気が付きます。これは単語の発音だけでは何の意味なのか分かり難いという事です。つまり日本語の言葉とは文章全体から理解して行かないと意味を取り違える可能性が高いという事なのです。特に文字として表した場合にはそれが特にはっきりするはずです。もし「漢字」を使わずに「仮名」だけで書かれた文章があるとすれば、私たちはとても読みにくく感じる事でしょう。「仮名」だけの文章はなかなか理解出来るものではありません。このような文章は非常に分かり難いものになる事は明白です。
同音異義語が非常に多いという特徴を持った日本語を文字で書き表す場合に「漢字」とは正に打って付けのアイテムであると思われるのです。私たち日本人は漢字の持つ本来の発音を忠実に再現する事は出来ませんでしたが、漢字を使用する事によって日本語の文章の意味をより分かりやすく表現する事が可能になったのです。私は漢字のような文字は日本語のような同音異義語が多い言葉にこそ最も相応しいのではないかと思っています。
中国大陸で話される言語は北京語が公用語とされています。最近は北京語を「中国語」と表現してある場合が多いのですがこの表現はアバウト過ぎるように感じています。広東語、福建語、上海蘇州語、客家語などは一応「方言」と呼ばれていますがその実体は英語とフランス語ほどの違いがあると言われています。ユーラシア大陸の西の外れに興ったヨーロッパ文明圏はその空間的な大きさを見ると中国のそれと大体似たような規模になります。これは条件が変わらない場合の人間の物理的行動半径の大きさはさほど大きな違いがないという点に原因を求めることが出来るのかも知れません。
ヨーロッパにおいては各地方が主体となり、幾つもの国に分かれて歴史が進行していきました。しかし一方の中国ではそうではありませんでした。もっとも中国史を見ると統一の時代より分裂の時代の方が長いのですが...(笑)。しかしそれでも中国においては統一の意識はヨーロッパに住む人たちよりも強く反映されているように感じられます。このように東西の大文明圏が「地方自治」VS「中央集権」というような好対照を示している点に関して非常に興味深く感じています。この対比をとても面白く感じているのです。
現地の言葉を全く知らない私などが広東語を聞くとこれと北京語は全くの別物であると実感してしまいます。これらの言葉がとても同じものであるとは「音声」の面からは全く想像がつきません。耳で聞いた限りでは、これらの言葉は「別の言語」であるとした方が私は自然であるように思っています。一方では広東語はベトナム語やタイ語などの東南アジアの言葉とはかなり近い関係にあるものに聞こえるのです。少なくとも広東語とベトナム語の方が北京語よりも遙かに近い言葉だと思われてきます。そう言えば香港のテレビ放送では一般の人が北京語を聞き取れないために字幕スーパーがついていました。
ところが発音上は全く異質でも文字に表すと全く同じものになる(表現をする)というところが「中国語」の特徴だと思っています。この事は漢字の「音」だけを変えて「意味」「形」を北京語以外の広東語などでも全く同じに使用していると言うことなのでしょうか??つまり漢字の「発音」は北京語、広東語、福建語などでそれぞれ独立して複数存在しているという事です。カエサルのスペルを英語の発音ではシーザーと読む事と同じ様なものなのでしょうか??
発音はそれぞれに違っていても文字として表した場合全く同じ文章になるという事こそが、中国大陸の言葉の長所でありまた短所でもあるように思っています。広大な中国大陸に住む人たちに「中国」という一体感を植え付けた最大のものは「漢字」の存在なのかも知れません。
もし、アルファベットような「発音記号とリンクしたパーツの組み合わせで出来た文字」が中国で発明されていたとすれば、北京語や広東語はドイツ語やイタリア語のように独立性をもった別の言葉として認識されていた可能性が高いのではないかと思っています。もしそうであれば「大帝」が現れて大帝国を作りあげても、ヨーロッパのような形に収まって行ったのではないかと思われます。
漢字はとても難しいと言われていますが、アルファベットで書かれた文字が簡単という訳ではありません。どちらにしても庶民にとって文字は難しいものだったのです。動詞や名詞に同じ漢字を使われているために紛らわしい点がある事を考えてみると、ひょっとしたらアルファベットの方が記録する上では漢字よりも優れている文字なのかも知れないと思ったりします。しかしその様な欠点は日本語の文章として漢字を使用する場合には見事にうち消されるのです。