2000/8/17



パスカルの言葉


「人間は考える葦である」とはパスカルの言葉として有名です。人間が「考える葦」であるところの「思考する存在」として成立するためには必ず必要になってくるのが言葉です。つまり言葉によってそれは形成されるものなのです。言葉無しには思考を構築することは叶いません。この事実からは言語が違えばそれによって形成される思考の概念が微妙に違ってくる場合(可能性)があり得るという結論を導き出す事が出来るのかも知れません。


勿論これには各個人の差もありますがその人物が属する集団、民族の歴史によっても違いが生じる場合が出てくるのは当然だと思っています。 例えば寒冷地帯に住む人と熱帯地方に住む人の生活風習に差が出るのは当然のことです。風俗などの違いとは主に自然環境の違いにより発生したと考えられると思っています。自然環境とはその土地の地勢・気候・そしてそれに基づく動植物の生態などを意味しています。このような環境の上に歴史の連続性が加算されていくのです。


日本語と朝鮮語(この場合は新羅系統語を指す)との関係については歴史的に見ても世界中の言語の中でも近い関係にある事は間違いのないところだと想像されています。これは地理的関係から見ても英語より近いのは当然だと思われます。しかし東京大学名誉教授の言語学者である服部四郎先生は「日本語と朝鮮語が仮に同じ源から別れたとしても、その分裂の時期とは今から約7000年から10000年も昔のことである」と述べられています。そして「これだけ古い時代に分離した言語はもはや完全な別言語である」とも言われているのです。


つまり日本の歴史時代が始まる3000年くらい前??の時点においてこれら両者は完全な別の言語になっていたという事なのです。日本語と朝鮮語が独立した別言語であるということはこれらの間には類似性よりも差異の方が遙かにあるという事でもあります。この事実は古代において日本と朝鮮との関係を夫婦の関係に準えて述べてある事がいみじくも示しているような気がしています。つまり互いに夫婦のように親しい関係ではあるが既に兄弟でなく他人であるという認識なのではないでしょうか。


聖徳太子が活躍した時代や大化改新が行われたのは今から約1300年から1400年位前になります。この時代まで来るとなおさらの事だと思われます。日本語と朝鮮語という二つの言語はさらにはっきりと別の言語になっていた考えられていいと思っています。もはや通訳無しでは普通にコミュニケーションを取ることが出来なかったレベルと考えた方が自然なのかも知れません。この時に天分を発揮したのが聖徳太子の語学力なのかも知れないと思っています。


日本人とは肉体的には一般的なモンゴロイドであり黄色人種ですが、肉体的特徴からは民族の差をはっきりと見つけることは出来ません。東南アジアから東北アジアにかけたこの地域に住む民族は外見からはなかなか判断する事は出来ないのは誰でも知っている事です。その上この地域に住む民族の数はかなりの数にのぼっています。そのために民族分類として最も一般的なのは文化を基準にした方法と言われています。これは具体的には言語を基準にする方法の事です。この理由とは年月を経ても最も変化しにくいのは言語であるという観点からなされているものです。


世界中の言語の数は死語も含めると少な目に数えて4200種類であり、多めに数えると5600種類にも上ると言われています。これらの全てを系統立てるのはとても難しく不可能だと見られています。しかし、ある一定の成果を上げているのもまた事実なのです。色々な言語間にある文法構造の類似や音韻上の対応、さらには基礎的語彙の一致などから調べていく方法が採られているそうです。その結果として共通の祖語から分離したものと考えられる言葉であれば同一語族に属するとされています。 現在ではインド・ヨーロッパ語族とセム語族がはっきりと分かる語族と確認されています。ウラル語に属すると見られていたアルタイ語族は未確認の部分が多すぎるようです。なおツングース系諸族の言葉はこれに含まれています。


逆に文字の場合は言語とは異なりかなり変化しやすいものであるようです。文字は言語間の差異や民族の別を越えて伝播し易いものなのです。またはある時点で個人の発意によって作成されることがあるように容易に廃止される場合もあるのです。文字の起源を見ると、ほとんど全ての文字はエジプトとメソポタミア付近にたどり着く事が出来ると言われています。これは大部分の文字は直接あるいは間接的この地方に関連づけて考えることが出来るということです。さらに漢字は独自に発達したものと考えられていますが、殷の戦車がシュメール発祥のものである点から見ても独自に発達したものではなく同様の可能性が高いのではないかと思っています。(トンデモかな??、笑)


三つ子の魂は変わらないとの格言通りになかなか変化しないものに民族の風俗、風習があります。英語が世界共通語になった理由とはまさにそれが該当するのではないでしょうか。世界を征服した彼らは自らの言語をあくまで変えようとはしませんでした。その他ではフランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語が地球規模で広がった理由も同様です。特にスペインの南米征服はそれまで存在していた文明までも徹底的に滅ぼした事でも有名です。


大量の移民がまとまって一カ所に入植した場合はその民族・集団のコミュニティが必ず出来ると言っても差し支えないと思っています。例えば北アメリカや南アメリカに移住したヨーロッパ人達は新大陸でヨーロッパを再現させてしまいました。または世界中の大都市の中にある中国人街のようなものをイメージしてもらっても良いのかも知れません。 このように集団生活を営める慣れ親しんだ空間があれば人間は敢えて自らの言語や風俗を変えようとはしないものなのです。こうして言葉に代表される風俗、習慣は生き残って行くものだと思っています。まして支配者(=征服者)自らが自分の風俗を変える可能性は極めて低いと考えた方が自然だと思います。このような場合は支配者層と被支配者層の間で二重言語が形成されるはずです。


思想とは言葉によって形成されるものですから、それらの言語を使用する民族の間には文化史的に何かの関係があるとみても不自然ではないのです。日本語の語順は北方的特徴を持っていると見られています。この点から見ると日本語は朝鮮語と同じです。しかし、日本語の基本的語彙は南方諸語と親近性を示しているのです。ところが朝鮮語ではそれを示してはいないのです。この点が日本語と朝鮮語が決定的に違うところだと言われています。具体的に言うと日本語はインドネシア語、カンボジア語、台湾高砂族のアミ語、パイワン語などと基礎語彙において確率論的にしばしば偶然以上の一致を示すとされているのです。ただし百済語と高麗語は新羅語より日本語に似ていたのではないかと言われています。しかし残念ながら資料が少なくて憶測の域を出ない段階のようです。


要するにこれは日本人とは朝鮮人よりもさらにハイブリッドである事を示しているのではないかと思えるのです。言い方を変えれば朝鮮からの因子(=血筋)は日本人を形成するそれのワン・オブ・ゼムであるという事なのではないでしょうか??この事は朝鮮からの因子は日本社会において絶対多数を占めてはいないという事なのです。しかしながらこれが重要な因子であるのは間違いのない事実です。


金田一春彦先生は日本語とはスタンドアローンかも知れないと書かれています。これは先ほどの事とほとんど同じ事を言われていると理解しています。日本語はアルタイ諸語との関係が深いとされていました。しかしこの語族の場合は語彙からみると相互にかなり違っているのです。はっきりと分からない部分が多過ぎるため同じ源から出た同系語かどうか疑問がもたれているほど不確実だという事です。また、これと日本語や朝鮮語との語彙の隔たりもかなり大きいものがあります。さらに日本語と朝鮮語との距たりもまた大きいのです。


「日本語と朝鮮語との間には必ずや密接な繋がりがあるはずだと信じていて多年にわたってこの二つの言語の比較研究に従い一般の人々の期待に応えるほどの結果を納めようとしたが事実は予想に反して研究を進めるに従って疎遠なものであった」と深く東洋史学を研究された白鳥庫吉先生は述べられています。


もし歴史時代以降に朝鮮からの勢力が日本を席巻したような事実があればその痕跡として現在の私たちの言葉になっているはずなのです。