2006/04/10
2006/12/17追加
平成18年4月から、これまで10年近く行われてきた悪名高い「ゆとり教育」が、ついに廃止されることになりました。ゆとり教育が廃止されることになった理由は、この教育を受けている子供たちの学力が、「ゆとり教育」以前の子供たちのそれと比べて低下したからだとのことでした。これを聞いて私は「何ばかなこと言ってんだっぺ!!」と思わず叫びたくなってしまいました。というのは、ゆとり教育が実施された小中学校の学習時間は、以前と比べて明らかに少なくなっているからです。子供たちの学力の平均値は授業量に比例して上下しますので、授業時間が物理的に減少すれば、各教科の修得度は下がり成績が低下するのは当たり前だからです。このような「言い訳」は、一般社会では全く説得力を持たないので通用するとは到底思われません。これに対してどの程度無責任さを感じるかといえば、「俺も疲れているんだ!!」と言って全国民の顰蹙を買った雪印の社長の答弁と同程度である、と言えば分かりやすいように思えます。
もし、本当にこの程度の理由で言い訳が認められてしまうのであれば、意志決定集団には「授業時間が半減しても学力低下は起こるわけがない」という信じ難い思い込みがあったという事になります。そして、このような愚かとしか言いようのない仮定のもとで、「ゆとり教育」が実施されたことになるのです。更には、この発想を突き詰めていくならば、授業の内容(質・量とも)と生徒の学力向上は無関係であるという結論に行き着いてしまうのです。
そして、一番問題にされなければならないのは、「ゆとり教育」を廃止して、元のようなカリキュラムにいくら戻したとしても、子供たちの時間を巻き戻すことはできないということなのです。ゆとり教育を受けた世代の子どもたちの平均学力は、明らかに他の世代と比べると低いにもかかわらず、大人になった暁には一社会人として、世代間競争に突入していかなければなりません。責任者たちは、この事実を真剣に受け止めなければならないと思うのです。当時の文部省等でこのような改悪を進め決定した人物には、この人たちの全存在をかけてでも償いをさせるべきだと私は思っています。
ゆとり教育による「失われた十年間」の子供たちの平均学力は、他の世代と比べると明らかに劣っているわけですが、このようなハンディキャップを大人たちから無理矢理押しつけられてしまった子供たちが、これから迎える人生の本番を他の世代と競争して行かなければならないのはまさに「茨の道」です。少しばかりのゆとり(=さぼり??)の代償として困難な未来が必ず訪れるのが分かっているのであれば、誰もそんな「ゆとり」を望むわがありません。それにもかかわらず、彼らは外部から強制的に与えられた被害を受けてしまったのですから、過酷というよりも残酷だと感じています。教育システムはいくらでもリセットして改正することができますが、実際に教育をうけた世代にとっては取り返しのつかないことだからです。子供たちにとって、ゆとり教育という名前の教育を受けられなかった数年間は決して戻ってはこないのです。中華人民共和国でも、1960年代に起きた文革による内乱の時代に似たような事が起きています。子供たちの多くは教育を受けるべき時に教育を受けられませんでした。その結果として、子供時代のまま成長を止められた大人の集団が大発生したのです。彼らはまともな教育を受けていなかったのですから、次の世代との競争に当然のごとく負けました。これは社会的にみると大きな不安定要因と考えられています。それ以上に、本来ならば持っていたはずの可能性を奪われたという事実は、無惨で痛ましいと感じるのです。
ゆとりとは一体どんなものなのでしょうか。日々の生活に追われている私たちにとって、ゆったりとした時間を過ごす事のできることへの憧れがあります。でも一方では、有り余る時間を持て余してしまって、自分の時間を楽しむことのできない人たちがいるわけです。多くの人たちが同じ基準を持てなければ認識を共有することができません。つまり、「経済的ゆとり」のように金銭面のような極めて限定されたものでしか量的に表すことができませんので、「ゆとり」というのは一般論として表現するのが非常に困難な対象であると思えます。よって、「ゆとり」のようなファジーなものについては、共通認識を持つことのできないものだろうと思うわけです。
詰め込み教育とは違って、ゆとり教育なら斬新な発想が生まれるはずだ、などという意見がかつて新聞に大きく載っていたのを読んだ記憶があります。普通に考えても、基礎知識のない人間が鋭い発想を出来るものなのか疑問に思います。また、そう思わないというのは不思議でした。何故ならば、豊富な知識を総動員し、様々な角度から考えることにより初めて新しい発想が生まれるものだからです。決して何もないところから生まれてくるわけではないのです。
子供の頭は「高性能のCPUを搭載した新型のパソコン」のようなものだろうと思っています。その理由は、子供時代の頭脳というのは、無限と思われるほど大量の知識を極めて容易に吸収するのできるものだからです。しかし、いくら高性能のパソコンでもデータが入っていなければ、ただの箱にしか過ぎないのは自明のことです。ちなみに、ここで言うデータとは、ウィンドウズやマックOSのような基礎ソフトや、ワープロや表計算ソフトのようなアプリケーションソフトを含みます。もちろん、蓄積された多くのデータがあってこそ、高性能処理能力が生きるのはいうまでもありません。このためには、データを入力するという地道な作業が必要になるわけです。つまり、無数の情報(知識)を頭に詰め込むという地道な作業(人によっては苦痛)が必須条項としてでてくるのです。この作業は、コピー機やスキャナーで新聞記事をコピーしたり読みとるようにするわけにはいかないものです。かつて問題にされた「詰め込み教育の弊害」というのはこの部分だと思われます。しかし、そうは言ってもデータを頭の中に詰め込むという基本の作業がなければ、いくら子供たちの頭脳が最新式のものであったとしても、宝の持ち腐れになるのは明白です。
昨年話題になったドラマ「女王の教室」の中で当たり前のように言われていたように、東京に代表される大都市の住民にとっては、公立の小学校・中学校と私立の小学校・中学校の両方から選択する事が可能です。そして、それらのどちらを選択するのかと言えば、まず私立から選ぶわけです。ここで思い浮かぶのは、文部省などでゆとり教育を推進した人たちは自分の子供の進路として私立学校を選択することが出来るということです。私立学校ではゆとりとは無縁(というか正反対)の「鉄は熱いうちに打て」教育を実施しているという現実があります。つまり、この改悪を推進した役人たちは、ゆとりによるマイナスとは無縁であるところへ自分の子供を進ませることが出来るのです。自分の子どもだけは「改悪」の弊害から確実に回避させておいて決定がなされたということになるわけです。自分の身には火の粉が降りかからないようにして、他人の人生を大きく左右するかもしれないような重要な事項を勝手に決定していいはずがありません。
もし、このような決定をする場合には、失敗したときには自分の生命や財産を差し出すくらいのことは当然であると考えています。そのくらい真剣であるべき事柄だと思うからです。もしそうでないならば、手続きさえ踏んでいれば他人の将来がどうなってもかまわないという無責任がまかり通ってしまうからです。この無責任さは、国や都道府県等の地方自治体が自分たちのポスト用として作った(だから経営感覚が全くない)特殊法人が何百億円もの赤字を出していながら、誰もその責任を取っていないということにも現れています。それどころか、役員として高給を得ているのですから、その実態は間接的な泥棒です。公務員以外の場合なら、たとえ悪意によるものではないとしても、株主に損害を与えてしまった場合には「背任」とされて責任を追求されるのですから。
ゆとりとは勉強をしないというのと同義語であるわけです。多くの子供たちが、ゆとり教育によって本来なら進んでいたはずであろう未来を奪われてしまったのですから、この罪が重すぎるということはありません。この子供たちが大学入試に向かったときに、合格を勝ち取るのはどちらかといえば、答えははっきりしています。ひょっとしたらですが、ゆとり教育が廃止されたということは、決定を下した人たちの子弟の大学入試が終わったことを意味するのかもしれません。ちなみに大都市圏以外の地方に住んでいると、このような悪意に対して自己防衛する術を持っていないのてず。
授業時間が短縮されたことに反比例して、子供達に与えられる宿題の量がかつてはなかったほど増加しました。これは、物事を覚えるのに必要とする物理的時間が不足しているために、それを補う方法として必要である事はよく分かります。つまり、教師が自分たちの生徒に対して学力を低下させないようにと熱心に教育をする事は、宿題等を子供たちに与えることになるのです。ところで宿題というのは、宿題をこなしたり提出することに意義があるのではありません。各教科の理解度を深め学力を高めるために宿題は存在しているのです。クラスに30人がいれば、宿題や予習・復習を熱心にこなす子供がいる一方で、そのようなことを全くやらない子供がいるわけです。授業時間が減少しているという環境下において、子供たちの学力を向上させたいという意図は十分に読みとれるのですが、本来授業で行うべき事柄を自主学習に求めるのは根本的に無理があると思っています。
土日も学校を開放して授業を行えばよいのではないかと思うのですが、公立の学校でこれを実施しようとすると、公務員の就業規則の制限等により難しい面があるようです。でもその対応には教師資格を持っている人物を別途に採用すれば出来るのではないでしょうか。もしくは、土曜日は試験専門の日にするなどの方法をとって、アマチュアに近い人物でも対応できるようにするなどの方法があります。あるいは、ゆとり学習的な内容をこの時間帯に行うのはどうなんでしょうか。父兄は土日が休みばかりではないので、土曜日、日曜日にも学校が開かれている社会は21世紀型のモデルになり得るように思えます。
話を戻しますが、宿題というのは子供達が理解力を深めて学力高めるための手段としてあるものです。しかし、「手段」であったはずの宿題が「目的」にすり替わってしまったことが問題なのです。宿題等をしっかりとこなすことが、子供に対する評価基準の極めて大きなウエイトを占めているわけですが、これはどう考えても適切ではないとしか判断出来ません。宿題をしっかりこなす子供というのは、学力も高い子供が多いのですがこれには理由があります。それは、宿題をするという作業をすることが、即ち子供達の学力を高めるものであるからです。「プラクティス メイクス パーフェクト」という、宿題が本来持っている能力が発揮されるわけです。宿題をこなすことによって学力が高まるために成績が良くなるわけです。一方、宿題をしない子供の場合は、勉強そのものをあまりしていないために学力がつかないという図式になります。
よって、各生徒の成績を評価するための判断には、学力を測る古典的な方法である「テスト」の結果をそのまま採用すればいい事になると思うのです。まして、今はかつての相対評価から「絶対評価」へと変わっていますので、全国的な基準で判断すれば特に問題はないはずです。そして同じ学力と評価された者同士で、宿題等の提出物をより丁寧に行った生徒には追加で評価すればよいと思えるのです。しかし、現実はどうなのかと言えば、全く異質のものに変わってしまったと言っても過言ではないと思えます。宿題等を提出しない子供には、ペナルティとして試験の結果が良くても、通信簿の評価が下げられているからです。これを具体的に言うと、90点を取れば評価5である場合でも、評価が4や3にされてしまう場合があるということなのです。これでは一体何のための「絶対評価」なのか分かりません。
茨城県の県立高校入試の場合だと、以前は通知票と試験の比率は5対5でした。(現在は3対7??)つまり、5段階評価なのでオール5の場合が、入試の500点と同等に扱われるのです。これが何を意味するかと言えば、中学校の先生たちには生徒を導く能力が身に付かないということです。何故ならば、通知票の比率が50%も占めていることを知れば、どんな生徒でも先生に反抗的な態度をするはずがないという下心が見え見えだからです。
このインパクトは親に対しても同様に強烈なものです。学園ドラマでは父兄が職員室に乗り込んで先生を糾弾するというシーンをよく見ますが、現実にはまず有り得ません。何故なら、先生を完全に敵に回した場合、通知票にどのようなことを書かれるか分からないのです。これではいくら批判したい場合があったとしても、父兄は言葉を飲み込んでしまうのではないでしょうか。これが事実であるのは、数年前に熊本(だったかな)で、高校を不合格になった生徒が起こした訴えが物語っています。現在は訴えれば情報の提供を求める事が出来ますが、なかなかそこまで思い切る事は難しいと感じられます。そしてもし、裁判を起こして勝訴したとしても失われた数年間は絶対に戻ってこないのです。
人間は何事においても自分の責任においては納得できるのものです。しかし、自分ではなく他人のせいで自分の進路を阻まれたと知ったら、その子供は社会に対して復讐者として立ち向かうようになるかもしれません。そして、自分の学力が水準を満たしているにもかかわらず、通信簿のせいで希望する未来を奪われてしまった子供がいるとするならぱ、それは社会全体にとって大きな損失になるのではないでしょうか。
このような事が決められてしまったのは、なんだかんだと言っても、最終的には「お上」のの決定に従うであろうという思い上がりを感じられます。リサイクル商品の販売に関して、PSEマークのないものは認めないというお役所の決定も、相似形の発想から行われたもののように思えて仕方がありません。このような流れの結果として、公立高校に見切りをつけて私立高校に進む子供が増えるのはある意味当然のように思えます。
この状況はかつてのドラフト制度に似通った発想のような印象を持っています。ドラフト制度とは、それまで何の援助もしてこなかったにもかかわらず、能力の高い選手の人生を勝手にねじ曲げてもかまわないという極めて傲慢な発想の産物です。それは他に選択肢(=逃げ道)はないだろうという思い上がりの思考をここから感じるからです。しかし、人生は一度しかないのですから、このような事柄があれば必ず防御策を考え出すものなのです。一方的に指名して、それ以外の道を閉ざしたという悪弊は、日本球界に対する魅力を増加させることにはなりませんでした。まして日本以外の世界(=アメリカ大リーグ)が姿を現すと、優秀な選手が日本球界ではなく、大リーグに憧れを抱いて進みたがるようになったわけです。この事実は人材の流出というよりも、学校群制度によって日比谷高校を潰したことによる事態の推移によく似ているように思えます。
物事が行き過ぎると弊害の方が多くなるのは全てにおいて当てはまる真実です。そのために改善しようとする意志が生まれるのでしょう。しかし、改善をするために始めたにもかかわらず改悪になってしまう場合が多いという理由について検討する必要があると思います。
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2005年、当時中山文部科学大臣は、「ゆとり教育は、学習塾に通わない限り、充分な基礎学習を得られない教育だった」とし、週休二日制や「総合的な学習」の廃止を検討することも含めた方針転換を早々に打ち出しましたが、現状のままであるようです。