2003/09/05
心に残る「フレーズ」や「一言」というものは確かに存在しています。そして、私たちがこれを見つけるのは、偶然による場合が殆どだろうと思っています。それらの中でも、特に「座右の銘」になるような、自分にとって極めて重要な言葉に巡り会える場合というのは、海辺の砂浜に落とした宝石を見つけ出すようなものなのかもしれません。そのような言葉と何度も出会えるというのは、とても運の良い出来事なのだろうと思います。
口から発せられた言葉は、人の心の奥深くまで届く力を兼ね備えた響きを持っているのです。一旦発せられた言葉は、相手の心と共鳴し合いながら、次第に大きな力を持つようになります。やがて、人の行動にまで影響を及ぼすほど、大きな力を持つものであると古来から考えられて来ました。言葉が「こだま」のように何度も何度も、多くの人の間を行き来し伝わるからこそ、「言霊」という概念が生まれたように思います。
このように「ことば」は強力な「力」を持っているものだと思われていたのです。そして、「ことだま」を保存するために考え出されたのが「文字」であると甲骨文字に詳しい白川先生は述べられていますが、確かに、この欲求こそが文字を生み出した原動力であったように思えるのです。
数年前のある日の事でした。たまたま手にした週刊ポストを何気なく見ていると、ちょうど逆説の日本史のページにたどり着きました。はっきりとは覚えていないのですが、そのページの一節に、「天下統一のやり方を具体的に知っていたのは信長だけだったのである」という部分があったのが目に止まったのです。そして信長の後を受け継いで天下人となった秀吉にしても家康にしても、彼らは信長の思考や行動を参考にして行われたものである、というものでした。(と思う)
また武田信玄にしても、他の全ての戦国大名たちがそうだったように、それまでは本拠地である「甲斐国」安堵のためにだけ戦ってきたようなものなのです。つまり、「本国」に対する「緩衝地帯」をより広く確保することにより、本拠地である「甲斐国」の安全保障が得られるという発想なのです。この発想は全国統一とは無縁のものでした。つまり信長以外の方式とは、少しずつこつこつと境界を接する相手の領地を浸食していく方式だからです。これでは、彼らがもし全国統一を考えていたとしても、それは「願望」にしか過ぎないのです。何故ならばこのやり方では、どう考えても一代の時間では間に合いそうにないからです。その信玄が信長のやり方をみて、それを真似る事により天下統一が可能だと考えたのだろうという内容だったと思います。
つまりは、だからこそ天下統一のやり方については、信玄もまた信長の弟子なのであるというようなものだったのです。(怪しい記憶のために間違えている可能性は大です、笑)ちなみに、この部分を読み返そうとして、何度も逆説の日本史のページを捲っているのですが、どうしても辿り着けずにいます。私が井沢先生のファンになったのは、この部分を読んでからのことでした。こような論理的展開こそが私の好きなものだったからです。
もちろん、私と井沢先生とは全く別の人物ですから、先生は「マイ・マスター」というわけではないのは当然の事です。ですから、書かれている内容については「ちがうっぺよ」という部分があるのもまた事実です。しかし、それは他人である以上当然の事だと思うのです。井沢先生のHPなどで行われた、クレーム等(というかアラシ行為)については私の感覚とは全く合わないものであり、かけ離れすぎているものなのは言うまでもありません。井沢先生に対する批判(というよりは貶し合いかも)というのは、喩えるならば「訓古学」的神学論争に近いものがあるように感じました。この半分以上は表現力の問題であるのは確かだと思いますが、一部の人たちによって井沢先生の掲示板が破壊されてしまったのはとても残念な出来事でした。これは一首の「焚書」事件だと思っています。
しかし、逆説の日本史を毎週読むために週刊ポストを買っているはずの私が、「完璧な文章」だと心の底から憧れてたのは、実は内舘牧子先生が連載されていた「朝ご飯食べた」だったのです。
「朝ご飯食べた」を読んで、文章には人の心を揺さぶる力が本当だと再確認させられました。古代に於いては「言霊」が有名だったように、人の口から発せられた「言葉」は人のに心に強烈なバイブレーションを引き起こす場合があるのです。これは、ちょうどラジオの電波を受信するようなものなのかもしれません。
内舘牧子先生の文章に接したのもまた100パーセント偶然の賜だったのですが、私の心は一瞬にして彼女の虜になっていました。「なんと美しい文章だろう」と私は久しぶりに感動した自分がいる事を感じていました。「美しい文章」に接した私はとても幸せに気持ちで満たされていたのです。何故ならば、これこそが、それまで漠然と私の求めていた輪郭をはっきりと映し出してくれたものだったからです。内舘先生の作り出す文章は、起承転結はもちろんのこと、そのリズムまでもが完璧な美しさをもったものだったのです。
よく言われていますが、NHKの「大河ドラマ」のここ数年の、あまりのいい加減さぶりは目に余るものがあります。でも、何年か前に放送された「毛利元就」はなかなかの出来映えでした。毛利元就は知っている人は十分に彼を知っています。しかし、活躍した地域が中国地方に限定されているために、いくら彼が「常勝」で大毛利を築いた人物であったとはいえ、「全国的認知度」に欠けているのは仕方がありません。そのために大河ドラマの主役としては相応しくないと言われていた人物だったのでした。ですから中国地方の人たちから何度も大河ドラマの候補者にとの推薦があっても、これまでは放送に踏みきれなかった人物だと言われていた記憶しています。
ところが時代は巡り、「全国区」の人物を主人公にしたドラマが一通りすると状況は変わってきました。ちょうど「地方の時代」にマッチした事も放送される要因だったように思います。「独眼流政宗」は地方の人でしたから、その「第一号」なのかもしれません。しかし、彼の場合は太閤記列伝に連なるからこそ、可能だったのだろうと思います。
「毛利元就」という作品の完成度がとても高いものだったのは、脚本を担当したのが内舘牧子さんだったからだと気がついたのは、その後に放送された「史実をねじ曲げた」面白くない大河ドラマを見てからのことでした。やはり、脚本を担当する人物の能力が作品の出来映えに大きく影響するというのは当然なのです。誰がやっても同じ結果が出るはずだという考えは間違っているのです。それは、私達は大量生産のためのラインではないからです。それに、メーカーが違えば同じ価格の飲み物でも売れ行きに差が出るという現実をどう説明するのでしょうか。でも不思議な事ですが、何故か「結果の平等」という幻想を多くの人たちが抱いているような感じがしています。これは逆に、人間が本来持っているはずの「平等」に対する冒涜なのではないかと思えます。