2000/9/1



逆襲のオオクニヌシ(真説!!出雲の新羅経営)


出雲と古代朝鮮における新羅との関係とはかなり密接なものがあったのではないかと様々な視点から考察されています。そしてそれらの意見の基本的なものとは新羅から出雲への流れを想定したものばかりのような印象を持っています。しかし果たしてその通りなのでしょうか??


大国主命は少彦名神と共に日本国土の経営に当たったと言われています。これはつまり大国主命が穀物の神とも見られている点からも稲作を全国に広めた主役ではないかと考えられると思っています。この視点からすると稲作が日本に伝わった弥生時代初期において出雲が全国の主導的な立場にあったということなのかも知れません。稲作の伝播のルートとは朝鮮半島経由ではなく中国の江南地方やさらには南方のベトナム方面から日本へ直接伝わったと考えた方が自然のようです。つまり稲作に伴う南方の文化は朝鮮半島を経由してたどり着いた訳ではないと考えられているです。しかし、朝鮮半島南端の地である任那(=加羅)付近の住民もまた倭人であったと見られている点からも、この付近には九州地方とほぼ同時に稲作が伝わったかも知れません。いずれにしても慶州付近を中心とする新羅は稲作伝播の面から見れば後進地帯に当たると考えられています。


新羅においてもスサノオの伝説があるところから出雲と新羅とは相当深い関係にあったと取りざたされています。この事は言い方を替えれば「先進地帯」の朝鮮半島から出雲へやって来たのだろうと無条件で信じられているようなところがあると感じています。しかし私はこの事についても疑問に思っているのです。出雲が船を操り交易を幅広く行っていたのは疑いのない事実であるような気がしています。そうであれば交易の範囲とは日本列島のみならず日本海を超えて朝鮮半島にまで及んだとしても不思議ではないのかも知れません。一方新羅でも遠くインド付近までも交易をしたとの意見もあるようです。


人の交流とは相互に影響を及ぼしあう事でもあります。このような交流によって新しいものが生み出されていく事こそが人類の歴史の姿なのかも知れないと思っています。実のところ日本において新羅の影はさほど濃いものではありません。任那日本府と呼ばれた加羅地域における倭人住居地区やその発展形態とも言える百済と比べるとどうしても影が薄いと感じられるのは否めない事実だと思っています。ところで朝鮮半島には小国が乱立していたという点から見ると新羅には出雲の出先機関があったのではないかと考えられるような気がしています。あるいは新羅の地域に植民(町)地を持っていたのではないかと思われてくるのです。


スサノオが牛頭であるという点から見てもインドラ神への繋がりを想像せずにはいられなくなって来ます。つまり牡牛とは神話から見ると富と力と豊饒の象徴そのもののように思われて来るのです。牛は農耕のための動物として重要であるのは周知の通りです。しかし、力の象徴とは別の所に見いだすことが出来るはずなのです。この原因の一つとして古代シュメール人が使用したと言われている「牛の戦車」を挙げる事が出来るのではないでしょうか??この戦車は古代シュメールで発達しその後あらゆる地域へと広がって行きました。この牛の戦車以上の能力を有する次世代の戦車が「馬の戦車」なのです。つまり牡牛の伝説を持つ地域とは古代において南方からの影響を受けた地域でもあるという事なのです。この観点からすれば新羅もまた例外ではなく南方からの影響を強く受けていると考えざるを得ないのです。そしてこれは稲作と共に新羅の地にも伝わったと考える事が出来ると思います。この視点の延長戦上に出雲が見えてきます。


大和勢力との「国譲りの戦い」に敗れた出雲勢力は一体何処へ行ったのでしょうか??越から信濃へと戦い続けたのは事実だと思いますが、一方では何処かへと落ち延びた一群があったとしても不思議では無いように思っています。そうであればあるいは植民地である??新羅へと活路を開いた一団があったと考える事も出来るのではないでしょうか??弱小勢力に過ぎなかった新羅が何故急速に勢力を増大する事が出来たのでしょうか??その理由とは生き延びた出雲の勢力が加わったからと考えた方が自然であるような気がしているのです。出雲の植民地であった新羅がこの時点を転機として強大化した可能性は十分にあると思っています。どんぐりの背比べ状態から抜け出す事が出来たのは出雲の勢力が移ってきたからだと考えた方が自然である様な気がしています。そして新羅による任那への侵攻とはネオ出雲が大和に対して反攻に転じた証だったのではないでしょうか。


倭国大乱とは覇権争奪戦の別称でもあります。この時代とは一種の戦国時代だったのではないかと思われます。戦国時代とは16世紀を見てみると全てのものが活力に溢れた成長基盤にあると言っても過言ではない時代でもあります。恐らく日本中に稲作が十分に浸透した結果として人口が爆発的に増加したのではないでしょうか。その結果として富の蓄積が飛躍的に増大したのではないかと思われるのです。当然の事ながら人口の地域差も以前と比べて大きく変動したのではないかと思っています。


実戦を重ねた部隊が強力なのは周知の通りです。好太王碑文にも見られるように倭国勢力の膨張時代とは倭国大乱の時代そのものなのではないでしょうか。これには戦国時代の末期に成長基盤にあった豊臣政権の行動がだぶって来ます。歴史ではほとんどの場合が日本から朝鮮半島へと進む事柄が起こっているのです。このような歴史的事実から推測すると日本と朝鮮半島との力関係がはっきりしてくるのではないかと思われてきます。


出雲は新羅の地でその再生に成功したのではないでしょうか。そしてついには百済を滅ぼすことに成功します。白村江の戦いとは「江戸の敵を長崎で」と言う諺のとおりにネオ出雲(=新羅)が大和に対して逆襲に成功した証なのではないでしょうか。


朝鮮人の日本人に対する蔑視についての歴史的原因として小中華主義が挙げられています。しかしこの原因は本当にそれだけではないように思われます。出雲とはいわば大和の本家のようなものだと思っています。(出雲の国譲りの真相については勇者ロトさん説を支持しています)下克上をして本家である出雲を乗っ取った大和とは憎んでも憎みきれない仇敵のようなものだったのではないでしょうか。さらに本家は分家に対して潜在的に優越感を持っているものなのです。これは現代の日本でも存在している意識だと思っています。このような感情の上に中華思想が乗っているという重層的な構造をしているような気がしています。


日本(=大和)に対する反発が元々あったと思うのです。このように受け入れやすい環境が元々備わっていたところに「国譲りの戦い」に敗れた事実を隠蔽することが出来るという中華思想は二重の意味で最高の理論だったのではないでしょうか。井沢先生は任那に対する天皇家の執念から見て「本貫地」ではないかと書かれていましたが私は別の意見です。自分たちが乗っ取った出雲の正統な後継者である新羅には絶対に負けられないという感情こそが実は正しいのではないでしょうか。この相手に負ければ滅亡するのは大和の方だからです。このように考えれば大和朝廷があれほど任那に拘った理由をスムーズに説明する事が出来るように感じれて来ます。ちなみに金春秋の本名は日本人そのものであるように思わます。正に彼こそが大国主の本当の継承者であったのかも知れません。そして彼は大和に背を向けたのでした。



※注
この内容は歴史的事実からかけ離れている部分が多くあります^^