渡せるほど澄み切った空の鮮やかさは目に痛いほどに晴れわたっていた。腰掛けた砂浜は体温を吸収するわけでも なく、かといって冷たい訳でもなく、今日という季節の曖昧な日にありがちな面持ちでいる。砂浜には一体どこから持ち 込んできたのかよく分からないような朽ちかけた大木の残骸や、風邪に飛ばされずに残った何かのゴミがぽつりぽつり と落ちており、それの数を数えるのもいい加減飽きてきた頃に微かに襟元を正すように身じろいだ下村の指先が触れ てから、陽は何度角度を落としてきているのだろう。 天文学にでも通じていればそれは容易に分かったのかもしれないが、生憎天文学に全く興味がない上に、学生の頃 に授業で訪れるはずだったプラネタリウムは自分の学年に回ってくる前の年につぶれてしまい、都会の空は薄曇りで 星の見えることは少なかった。だが、触れた指先の冷たさのほうが気になって、本当は空の様子などどうでも良かった のだが。 普段、外に出る時必ずといっていいほど下村は左腕の手首から先に義手をつけているし、その上からは決まって白 い手袋を嵌めていた。しかしそれに対してどんな寒い雪の日であっても、右の手に手袋を嵌めているのを見たことがな かった。両方つけたほうが目立たずに済むのではないかと一度聞いたことがあったが、その時下村は本気なのか冗談 なのかいつもと変わらない無表情な様子で、手袋はくすぐったいので好きではない、と言った。その時、そういうこともあ るのかとただ単純に思っただけだったが後から思い起こしてあの下村の口から「くすぐったい」という単語が出たことに 一人で仰天してしまった次第だ。 そういった訳で、結局下村の手は今日も冷たく、まるで体温がない。ただ手袋を嵌めている分左の方が暖かいのかも 知れないとぼんやりと思って、その中の手が暖かくないものをどうして手袋が暖かいものかと我ながらあまりの配慮の ない考えに暫し悩む。 しかし結局のところ、そんな風に一人煩悶したところで下村にしてみれば大してどうでもいいのだろう。あまりそういう事 に頓着しないタイプの男なのだ。 どうしてなのだろうか。下村はよく海を見に来ている。 いつも後を付回しているわけではないので本当のところはよく分からないが、大抵連絡を付けようと探し回った結果、 こうしてぼんやり海を眺めている姿に行き当たることが多かった。多分、昼間何もすることがないせいもあるのかも知 れないが、それでもこんな吹きっさらしの砂浜の上で何時間も一人で過ごしているのかと思うと、あまりいい気分ではな かった。一時取憑かれた様に凝っていた釣りをするでもなく、何かを探しているという風でもなく、ただ、風の行方を見 送ったり、鳥の群れを眺めたり、死に掛けの蟹と遊んだりしている。そんな時は用があって探していたのもうっかり忘れ て、遠くからそれを眺めていることもあるし、今日のように声を掛けてきちんと用件を伝えてから一緒に隣に座り込むこ ともある。そんな時下村は気づいていても自分から声を掛けようとはしないが、だからといって不愉快に思っている様子 でもなく、ただボンヤリと振り向きもせずそこに座っている。岸壁に腰掛けて足をブラブラさせていることもたまにあっ て、その仕種を初めて見た時は、なんだかちょっと驚いてしまったのだが。それはある意味皮肉屋の弁護士を思い出さ せたが、下村の背中にはあまりにも何も無く、悲壮感やそこを通し何かを見ているといった風でもなく、あるのはただ、 ボンヤリとしているいい年の男の背中が一つ、といったところだった。 いっそ、不自然なほど何も無い背中が、一つ。 海風の吹き付けてくる沖合いをじっと見つめながら、何の表情も浮かべていない下村の横顔を暫し眺め、何の温かみ も無い手を見下ろし、その横にある自分の手を眺める。下村の手と比べると、多分自分のほうが幾分か細く、間接が 角ばって丸まっていない。下村のそれは明らかに空手の有段者特有の骨格とよく訓練された指先をしている。自分も 真面目に空手を続けていればこんな風になったのだろう、おそらくは。そうした下村の指先の色は紙のように白く、もし かしたら冷えすぎて本人も感覚が無いから寒くないのだろうかと言う考えが頭に浮かぶ。 そう思ったら、もう、ボンヤリとそれの手を眺めて比べているだけでは満足できなくなってしまった。 ただ曖昧に触れているだけでなく、しっかりと握りこんだ下村の手は予想していたよりも、もっと冷え切って捕らえどこ ろがなかった。当の下村は突然のそんな行動にもたいして反応を返すでもなく、それほどの興味も湧かないのか、じっ とこちらを観察はしているものの、手を振り払うでもなく、何か言うでもない。多分、ああ、手を握っているな、位の現状 把握しかしていないのだろう。動揺を見せるでもない。 下村は人の感情に対して鈍感なのか、そう演じているのか分からないが、全てにおいて相手から一歩引いた位置か ら相手を捉えている様なところがあった。それが今更どうということは無かったが、時々、後ろから思いっきり蹴倒して やりたくなることがある。あまりにも自分が認められていないように感じられるからだ。それは誰にとっても同じであるよ うで、それをネタに喧嘩を売られることもしばしばだったが、それも相手はよそ者に限られたことであったし、第一に相 当に腕の立つ下村を前にして尚遺恨を残すような事をする者はほぼ皆無だった。そうであれば当然下村自身も酷い怪 我を負うことなどなかった。しかしその功績の半分は相手の怪我人をもぐりの医者の所まで連れて行ってやった自分に あるのは明白だった。 しかし、ここ最近の下村は様子が違っていた。 どこかその瞬間を試す様に自ら望んで争いごとに手を出したり、自分をギリギリのところまで持ち込んだりするように なった。それでも、相変わらず自身が傷つくようなことはなかったし、報復騒ぎが起こるような喧嘩はしなかったが、それ でも幾分怪しい目つきで争いの場に自らを投下する下村の心境は理解できなかった。 己の足元に転がっている相手を見ているのか、それとも血で汚れた靴の先を気にしているのか。ただ俯いた下村の 横顔の意味さえ図りかねるのに、その頭の中のあり様まで分かるハズもなく、ただ自分は後始末に手を貸している。 本当に手の早い兄貴と弟を持った、次男の心境だった。 今もじっとこちらを見ている下村の心を読み取ろうとしたところで、真っ黒い目の玉の中に介在するはずの情報は望 めなかった。しかも、唯一触れ合っている手には、感情を伝える体温さえない。一体、この男の中に自分はいるのか、 自分の姿は写っているのか。そればかりが気に掛かる。目の前にいる自分に気がついているのか。それさえも虚しい 問いかけに過ぎない。 フト、ただこちらを見ていただけの下村の口元が、小さく何かを模っている事に気がついた。それは何かを言い出そう としているかのようにも見えるし、ささやかな微笑にも見て取れる。 少し困ったような、大人びた笑い。 相手を自分の中に入れないための、最高の手段。この笑いを見るたびに、酷く胸が痛んで困った。恐らくはそうとは 意識せずに浮かべているだろう下村の、正直な心情の表れなのだろう。 それをあえて無視してまで、下村の中に入り込もうとは思わなかった。それでも幾分嫌な気分になるのは止められな い。 握りこんでいた下村の手が、小さく動く。手の平をくすぐる様に指を動かして。それに気を取られている間に、下村は いつの間にかまた海の向こうへ視線を投げてしまっていた。しかし、小さく動かしている指先はいまだ健在だ。それも暫 くして止み、やんわりと手を握り返してきてそこでそのまま止まった。それは今の笑いの謝罪なのかなんなのか分から なかったが、明らかに初めての、しっかりと形を持った下村の意思の表れだった。それの指し示す物の意味は分からな い。それでもその中にある、ある種の匂いが胸を掻き乱した。 誰かが言っていた。それは誰だったろうか。上手く思い出せないだけに、余計に気が急く。ただ確かなのは、そのセリ フがあまりにも真実味があったということだけだ。 「あいつは、長生きできんよ」 それを知る日が、こんなにも早く来るなんて、一体誰が予想できたというのだ。 一体誰が。 それが一体誰のセリフであったのか思い出したのは、それから間もなく経ってからのことだった。 終 |